「Vフォー・ヴェンデッタ」

  V for Vendetta

 (2006/05/08)


  

見る前の予想

 「イギリス民主主義撤廃」…と、何とも刺激的なフレーズで始まる予告編は、かなり前から劇場にかかっていた。何でもマトリックス」三部作(1999〜2003)のウォシャウスキー兄弟が関わっているらしく、主演はナタリー・ポートマンと実質上の主役「仮面の男」を演じるヒューゴ・ウィービング。ウィービングが出ているということは、やっぱり「マトリックス」系統の作品か。他に分かることと言えば、この映画の原作がDCコミックスのマンガらしいということだ。

 だが、全体主義国家を扱った未来SFってのは、よほど注意しないとワンパターンに陥ってしまう。最後はみんなで一斉蜂起してすべてをぶっ壊して幕…という展開しかあり得ないからだ。あの画期的に見えた「マトリックス」三部作でさえ、最終的にはこうした一連の未来SFと何ら変わらない終わり方だったではないか。同じウォシャウスキー兄弟の作品なら、多くを期待出来ないのではないか。

 それより何より、ウォシャウスキー兄弟は「マトリックス」三部作の後で、何でまたアンチ・ユートピアの未来SFをもう一度つくらねばならなかったのか?

 

あらすじ

 「11月5日を忘れるな、火薬陰謀事件と反逆を忘れるな…」

 それは遠い昔からイギリスでうたわれてきた歌。1605年にあったイギリス国会議事堂の爆破未遂事件、その決行予定日が11月5日だった。首謀者のガイ・フォークスは捕らえられて処刑されたが、彼のことはいまだに語りぐさになっている。

 それから幾年月…第三次大戦後の近未来。あれほどの栄華を誇ったアメリカは、今は相次ぐ内戦で見る影もない。代わって全体主義国家となったイギリスが、こんなアメリカを「植民地」呼ばわりしてコワモテに君臨している。今日もテレビで政府の代弁者たる「ロンドンの声」キャスターのプロセロ(ロジャー・アラム)は、口からツバを飛ばしながら決まり文句を吠える。「アメリカがダメに成り下がったのも、神を冒涜したからだ。統一による強さを、信仰による統一を。英国に栄光あれ!

 とかく神様絡みが政府に絡んでくると、どこの国でもロクなことがない。そんな鬱陶しいプロセロの絶叫に、思わずウンザリしてテレビの電源を切るイヴィー(ナタリー・ポートマン)。だがそれと同時に…やっぱりプロセロの番組に辟易してテレビを消した男が別の場所にいた事を、当然の事ながら彼女は知らない。

 夜の街を歩くイヴィーを脅かすように、スピーカーから放送が流れる。「夜間は外出禁止令が出ています。外にいる市民は、即刻逮捕されることをお忘れなく!」

 それは決して脅しではなかった。早速イヴィーの前に現れる浮浪者然とした男たち。襲われると怯えた彼女が催涙スプレーを取り出すと、今度は自分たちを脅したと難癖をつける男たち。こいつらは政府からバッジを預かった「自警団」の連中だった。早速ちっぽけな権力カサにきて、イヴィーを犯そうと襲いかかる。

 ところが…そこに現れた仮面と黒マントの男!

 男はアッという間に男をブチのめし、イヴィーを助け出す。その謎めいた雰囲気とちょっと気取った言動のためか、イヴィーは不思議とこの男に恐れを感じなかった。そんなイヴィーを、仮面の男は夜の「演奏会」に誘う。それは、とあるビルの屋上。もったいつけて虚空に指揮棒を振るおうとする仮面の男を見て、イヴィーも「これはとんでもないハッタリかも」と思い始めた矢先…。

 時計が真夜中の12時を回る。

 「今日は何日かね?」と仮面の男がイヴィーに尋ねる。イヴィーは「11月4日」と答えるが、実はそれは正しくなかった。仮面の男は静かに答える。「…今はもう違う」

 どこからともなく静かに音楽の調べが聞こえてくる。街路のあちこちに取り付けられたスピーカーが、音楽を流し始めたのだ。その音に誘われ、人々が建物の窓から顔を出し始める。その音楽を背景に、仮面の男は一際激しく指揮棒を振り下ろした。

 ドカ〜〜〜ン!

 いきなり目の前の大きな建物が火を噴いて爆発。続いてあちこちに仕掛けられた爆薬が次々と炸裂して、建物は完全に粉砕されてしまう。これには唖然呆然のイヴィー。表情は見えずとも得意満面な様子の仮面の男は、粉砕された建物が中央刑事裁判所であることを告げていた。

 それがイヴィーと、「V(ヴィー)」との出会いだった。

 さて、この中央刑事裁判所爆破事件は、当然のごとく政府の中枢を震撼させた。早速関係各位が呼ばれて独裁者サトラー議長(ジョン・ハート)の罵倒を浴びる事になるが、それも直接ではなく巨大テレビ・モニターを通してのもの。今までさんざ悪行の限りを尽くしたサトラー議長は、それゆえに身内ですら気を許してはいなかったのだ。

 「国民には裁判所を解体処理にしたと告げろ、爆破のBGMとなったチャイコフスキーを放送禁止にしろ、何としてもこの犯人を捕らえろ!

 サトラー議長(のモニター)の前に呼ばれた関係各位の中には、国家公安部の幹部・フィンチ警視(スティーブン・レイ)もいた。彼はこの時点で、すでに二つの有力な証拠を手にしていたのだ。いずれも昨夜の監視カメラの映像で、一つは裁判所に爆薬を仕掛ける仮面の男、もう一つは自警団が殺された現場に居合わせた一人の若い女の映像だ。

 若い女については、フィンチ警視の部下ドミニク警部(ルパート・グレイブス)が早速調べを済ませていた。この女=イヴィーはBTN(英国テレビネットワーク)で働いていて、両親は政治活動家として逮捕され死亡。弟はかつてのウイルス散布事件で死亡。自ら矯正施設に収容されていた過去を持つ。その悲惨な半生に多少の同情を感じながらも、フィンチとドミニクは彼女を逮捕するべくBTN本社ビルへ向かう。

 そうとは知らぬイヴィーは、彼女に何かと近づこうとするゴードン(スティーブン・フライ)に辟易しながらも、平凡な日常を送ろうとしていた。ところがBTNに突然あの仮面の男「V」が出現。警備員たちを次々倒して、スタジオの一室を占拠した。一方、イヴィーを逮捕しに来たフィンチとドミニクは、逃げまどう人並みに呑まれてイヴィーを見失う。

 そんな阿鼻叫喚の中、スタジオに閉じこもった「V」は録画済みのビデオディスクを再生機に入れ、その内容を全国に向けて電波に乗せた。

 それは「V」が国民に向けて発したメッセージだ。

 サトラー議長の独裁政権を糾弾する演説は、英国全土の津々浦々まで流れた。居酒屋に集まった男たちにも、平凡な家庭のお茶の間にも、老人ホームにも…そのメッセージは届いた。その中で「V」は、次の11月5日に国会議事堂に集結することを国民に呼びかけたのだ。なぜなら…彼に言わせれば、国民には腐敗した国を放置し見て見ぬふりをしてきた責任がある。その国民が立ち上がらねば、何も変わらないからだ。

 「こんな腐った世の中にしてしまった者は誰か? それが知りたければ鏡を見よ!」

  

見た後での感想

 ウォシャウスキー兄弟による近未来SF。またしても全体主義国家になった未来のお話。彼らは今回監督はせず制作と脚本だけだが、今回監督に抜擢されたジェイムズ・マクティーグは、「マトリックス」三部作の助監督を務めていた人物。誰がどう考えても「マトリックス」タイプのヴィジュアル・エフェクト重視のSF大作を連想してしまうだろう。

 ところが、これがまったくの大違い

 ハッキリ言うと、この映画はハリウッド娯楽大作で最近マレに見るほどCGの臭いがない。アクション場面も「これみよがし」のデジタル処理によるカメラワークは多用されていない。何しろ主人公はほとんど剣で戦っているほど。最後の国会議事堂爆破シーンもイマドキ珍しくミニチュアを制作したとのことで、徹頭徹尾アナログ志向が濃厚な作品なのだ。実際これはこの作品のひとつの「方針」らしく、主人公「V」は隠れ家でヒッソリ昔のモノクロ映画を見たり、ジュークボックスのレコードを聴いたりしている。これだけアナログな主人公がデジタルに戦っちゃ、シャレにはならないわな。

 だから「マトリックス」が世界中の娯楽映画に伝染させた、あのぐるり360度回転カメラとかフィルムのランニング・スピードの急変だとか、そういうテクニックはほとんど目立たない。むしろ映画としては至極真っ当な作りに終始しているのが驚きだ。

 そしてここでの「全体主義国家イギリス」は、近未来SF映画のお約束を大きく超えている

 同じような近未来の独裁政権を描いているイーオン・フラックス(2005)と並べてみたら、それはハッキリするだろう。「イーオン〜」を見て、我々の現実社会を思い起こす人はどこにもいないはずだ。あれは娯楽映画の約束事の世界だと、誰もがそう思って見ている。

 だが今回の「V」は違う。この映画のイギリスは、明らかに我々の現実と地続きのところにあるのだ。テレビによる煽動、都合の悪い音楽は放送禁止、コーランを持っているだけで逮捕…現実には自国に都合のいいイケイケ報道ばかりやっていたフォックスTVとか、ジョン・レノンの「イマジン」放送禁止とか、イスラムの国から来た人間の入国審査を厳しくするとか…。これは別に近未来の全体主義国家ではなく、「自由と民主主義の国」アメリカでついこの前に起きたことなのだ。シャレになってない。

 だからこの映画を見ても未来像の奇抜さにワクワクもしないし、ヴィジュアルのカッコよさに目を見張る訳でもない。むしろ無責任に楽しんでいられない。見ているうちに我が身を振り返ってゾ〜〜〜ッとしてくる。自分が今暮らしている、この国は大丈夫なのか? 自分は今、本当に自由なのか?

 さらにスゴイのは、この映画が「テロ」についても大胆な提案を行っていること

 確かにやられる方にしたら「テロ」だろう。だが、テロをやる側には別の見え方があるんじゃないか。誰もが内心思ってはいても公の場ではハッキリ言わなかったことを、この「ハリウッド製娯楽アクション映画」は、作中でかなり際どく主張している。これは今のアメリカ映画としては異例中の異例だ。途中で「V」の行き過ぎをナタリー・ポートマンに批判させたり、「V」自身も自らを「独裁者と同じ旧時代の遺物」と切って捨てたりして、何とかそれなりのバランスをとってはいる。だが実際のところ、この映画はかなり取り扱いに注意を要する問題を提起しているのだ。すなわち「テロと革命の線引き」はどこか?…という問題だ。それが正しいのかどうかは置いておいても、この作品がハリウッドの娯楽大作としてつくられた事はまさに驚嘆に値する。ハリウッド映画でありながらそういう際どいセンを狙ったという点が、良くも悪くも実に大胆であると思えるのだ。

 そうは言っても、さすがにこの映画で革命を論じるとか政治を語るとか…そこまで言ったらあまりに買いかぶり過ぎだ。所詮はマンガの映画化作品で、それ以上でも以下でもない。それでも、言ってること自体はやっぱりかなり大胆なのだ。何しろエンディングはロンドンの国会議事堂の盛大な爆破シーンだ。ビッグベンが粉々になって終わってしまう映画なのだ。それだけでも大胆不敵と言わずにはいられない。いや、かなりヤバイよ。

 だが…だからこそ、この映画はウォシャウスキー兄弟の映画らしくない。あまりに赤裸々にストレートだ。実はメッセージを叫びたいがゆえに、いささかバランスを崩しているとさえ言える。だから僕には、この映画のイニシアティブを執っていたのはウォシャウスキー兄弟じゃないんじゃないか…とさえ思える。

 では、監督のジェイムズ・マクティーグか? いやぁ、これもそうとは思えない。では誰か?

 実はこの映画には、もう一人の大物映画人が絡んでいる。それはハリウッドの大プロデューサー、ジョエル・シルバーだ。

 ローレンス・ゴードンと組んでプロデュースしていた「48時間」(1982)、ストリート・オブ・ファイヤー(1984)、「ダイ・ハード」(1988)…。そして単独になってからも、コマンドー(1985)、リーサル・ウェポン」シリーズ(1987〜1998)、ジェット・リーと組んでのロミオ・マスト・ダイ(2000)とブラック・ダイヤモンド(2003)やスティーブン・セガールと組んでのDENGEKI/電撃(2001)などなど…ロバート・ゼメキスと組んでのTATARI(1999)などダーク・キャッスルでのホラー作品を除けば、ジョエル・シルバーは「マトリックス」三部作も含めて一貫してアクション娯楽大作を手がけて来た人だ。ハッキリ言って娯楽風味。理屈抜き。特にジェット・リーと組んでの2作あたりはこの人の真骨頂という感じだ。そんな彼が強烈な政治メッセージを放つこんな映画を、どうして手がけるに至ったのか。

 だが忘れてはいけない。この人にはもう一本、強烈な政治メッセージをブチ込んだ作品があったのだ。それは社会派の問題作なんかではない。意外にも大ヒットシリーズの2作目…娯楽映画も娯楽映画、「リーサル・ウェポン2/炎の約束」(1989)だ。

 メル・ギブソンに黒人俳優ダニー・グローバーをもう一枚の看板として立てたこのシリーズで、当時まだアパルトヘイトによる人種差別政策をとっていた南アフリカを徹底的に糾弾したのだ。悪漢は裏で麻薬密輸に手を染めている南アフリカ外交官(ジョス・アクランド)だが、この悪役が麻薬を扱っているというのはやっつけるための方便に過ぎない。ハッキリ言ってこの映画では、彼は“アパルトヘイトの国・南アフリカの外交官”であるからこそ叩きのめされる(笑)。途中から犯罪なんぞどうでもよくなる。それは常にエンターテイナーとしてバランスのいい娯楽作をつくっているジョエル・シルバーにして、異例なほど怒りのこもった描き方だった。何しろエンディングでメルギブとダニー・グローバーは、「外交官特権だ!」と高笑いしている悪漢を拳銃でお構いなしにブチ殺してしまう。国際問題など構わない。ほとんどムチャクチャ。娯楽アクションの「リーサル・ウェポン」だからこそ誰も問題視しなかったけれど、これは考えてみれば結構ヤバイ描写ではないか。

 シルバーはこのメルギブとグローバー二枚看板の「リーサル」だけでなく、デンゼル・ワシントン主演の「リコシェ」(1991)などをはじめ、黒人俳優の主役級起用を好んで行う人だ。また有色人種という点で言えば、ジェット・リーの起用も実にこの人らしい。意外に知られていない面だが、シルバーはハリウッドでも有数の進歩的な映画人だと言えよう。だからこそ、アパルトヘイトは許せない。普段はエンターテイナーに徹するこの男が、いきなりバランス感覚をかなぐり捨てて怒りを露わにしたのもそのせいだろう。

 そんなジョエル・シルバーは、おそらく「9・11」以降のアメリカにも苦々しい思いを抱いていたはずだ。

 保守勢力が台頭して自由が危ぶまれてきたアメリカに、何とか一矢報いたい。この映画はそんなジョエル・シルバーの怒りがこもった一作ではないのか。でないと、どう考えてもウォシャウスキー兄弟にしてはこの「熱さ」が違和感ありすぎる。これは黙々と娯楽アクションを作り続けながら、実は考え方は思いっ切りカゲキというジョエル・シルバーの志向が前面に出た結果がこの作品だと思えるのだが、みなさんはいかがだろうか。

 そして議事堂爆破というヤバいエンディングに重ねて、ローリング・ストーンズの「ストリート・ファイティング・マン」を流して幕とするとは…何とも素晴らしいセンスではないか。この映画の幕切れには、この曲しかあり得ない。いきなりジャジャ〜ンとかき鳴らされるキース・リチャーズのアコースティック・ギターを聞いて、僕は思わず狂喜乱舞してしまった。

 1960年代後半、シカゴの民主党大会での暴動をヒントにして案の定放送禁止になったこのストーンズの名曲こそが、本作のスピリットを余すところなく表現している。娯楽映画としてもメッセージ映画としても、いささかバランス感覚を失いかねない「熱さ」には賛否両論あるだろうが、このストーンズの楽曲使用の素晴らしさについては誰もが認めるところだと思うのだ。

 

見た後の付け足し

 この映画では、仮面の男「V」が大活躍する。彼の本当の顔は一度も写らない。我々はそれがヒューゴ・ウィービングだと知っているが、それでも映画は仮面の男を仮面のままにしておくのだ。

 そもそも「V」は極めて匿名性の強い存在だ。もちろん、そこには自らのアイデンティティーを隠す意味合いもある。ただし「V」その人の素性を隠す意味だけではない。映画後半に至って出てくるように、一般の人々が当局の目をくらますために「V」の仮面を付け、正体を隠して一斉蜂起するという用途があるのだ。

 だが、それはこうも言える。そもそも「V」とは特定の「ヒーロー」を意味するのではなく、誰でもない大衆の意志を象徴するモノなのだ…と。

 それが証拠に…「革命」が成就した瞬間、「V」の仮面を付けた人々は一斉にその仮面をはずすのだ。するとそこには、実際にはすでに志半ばにして倒れた人々の顔まで現れるではないか。現実的な解釈ではあり得ないことが、映画の画面上では起きている。

 そして同時にナタリー・ポートマン扮するヒロインは、「体制側」だったはずなのに革命阻止を躊躇したフィンチ警部(スティーブン・レイ)にこう告げている。“「V」はすべての人々…「V」はあなた、そして「V」は私”…。だからこれは一種の「シンボル」=「象徴」だ。「V」とは圧政に抵抗する意志の象徴なのだ。

 知名度の高いナタリー・ポートマンを前面に立てて、実質主役は地味めのヒューゴ・ウィービングを起用…というこの映画の布陣が、ここでかなり効いている。妙に個性が際だったりスター・バリューがある役者が演じたら、「V」にこの匿名性は生まれまい。ウィービングという役者は硬質な味を売り物にしている面白い俳優だが、「スター」ではない。まして名優、怪優の類でもない。むしろその持ち味は、個性を際だたせない事で成り立っている。それを最も端的に表現しているのが、「マトリックス」三部作のうちの後の二作リローデッド(2003)とレボリューションズ(2003)での彼の役どころ。ウィービング扮するエージェント・スミスは、自己増殖する存在となって何十人何百人の大群で襲いかかる。ウィービングという俳優には、そんな「無個性」とでも言うべき個性がある。その「一山いくら」感が、今回の「V」役の「匿名性」を強めているのだ。

 それは逆に言うと、「国」や「政治」が特定の誰かによって動かされるべきではないだろう…という主張でもある。それは国民一人ひとりの力で形づくられるべきものなのだ。そして、だからこそ「V」は最初にまず一般大衆に強烈なメッセージをぶつける。

 「こんな腐った世の中にしてしまった者は誰か? それが知りたければ鏡を見よ!」

 政治が腐敗した、世の中が悪くなった、人心が荒廃した、社会が崩壊した。それは決して一部の下劣な政治家のせいではない。財界や金融家、法律の守り手がヨコシマだったからではない。教育がダメになったからでもマスコミの低俗さからでもない。まして軍国主義者が台頭したからでもない。

 それは他でもない、我々国民が愚かだったからなのだ。

 

 

 

 

 

 to : Review 2006

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME