「ブロークバック・マウンテン」

  Brokeback Mountain

 (2006/04/24)


  

見る前の予想

 本年度アカデミー賞最有力候補として忽然と現れたこの作品がアン・リーの作品と聞いても、別に驚きはしなかった。何しろアン・リーと来れば作品ごとの落差が大きい。元々が台湾の出身というあたりも異色だ。それでいて…これほどアメリカ映画のメイン・ストリームに躍り出るとは、僕はまったく予想もしなかった。だから彼の作品が同性愛の絆に結ばれたカウボーイの話と聞いても、まったく驚く理由がなかった訳だ。そして、映画の質もそれなりに高い事は疑いがなかった。

 結果的にはアカデミー賞の作品賞はクラッシュ(2005)に譲ってしまったこの映画、だが作品の質については僕は一瞬も疑いはしなかった。おそらく出来栄えは「クラッシュ」に一歩も劣らぬ…いや、おそらくは凌駕するほどの出来には間違いなかろう。

 ただ、この段階ではまだ「ソコソコ見たい」レベルの作品にとどまっていた「ブロークバック・マウンテン」。それは作品にどこか地味なイメージがあったからだろうか。では、僕の関心を一気に高めたのは何かと言えば、脚本に参加しているラリー・マクマートリーの名前だ。それがなぜか…ということは後述するとして、ともかくマクマートリー脚本で何十年間にも及ぶカウボーイ同士の愛の物語。しかも監督がアン・リーとくると、あまりにピッタリとハマりすぎるではないか。

 これは見なきゃいかんだろう。映画ファンだったらなおのこと。

 

あらすじ

 1963年、ワイオミング。ひなびた田舎町のとある事務所前に、早朝から立って待っている二人の若い男がいた。一人はイニス・デルマー(ヒース・レジャー)、そしてもう一人はジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)。二人はお互いをじっと見つめながら様子をうかがい、事務所が開くのを待っていた。やがて二人は事務所にやってきた牧場主ジョー・アギーレ(ランディ・クエイド)から、羊の放牧の仕事をもらう。これから二人は何ヶ月も一緒にブロークバック・マウンテンの山奥に籠もって、羊の面倒を見ることになるのだ

 片やずっとキャンプを守って、もう一人はコヨーテから守るために羊たちの傍らに一緒に眠る。黙々と文句も言わず働くイニスと、連日の豆の食事に文句を並べるジャック。無骨で無口なイニスと陽気で外向的なジャック。二人はある意味で好対照だったが、長く一緒に時を過ごしているうちに、胸の内に一種の友情を感じつつあった。ある日飲んだくれたイニスはテントの外で寝袋にくるまって眠ったが、あまりの屋外の寒さに凍え始める。そんなイニスの様子に気づいたジャックは、イニスをテントに引っ張り込んで一緒に寝袋にくるまった。

 そして、二人は衝動的に結ばれた

 むろんそれがどういう事か、分からない二人ではなかった。そして自らを「男を愛する男」と自覚していた訳でもなかった。しかもイニスは、この山ごもりの後に婚約者との結婚が控えてもいたのだ。しかし二人は、自分たちのためにあつらえられたようなブロークバック・マウンテンの美しい自然の中で、無邪気にお互いを求め合った。

 ただし、たまたま山を訪れたアギーレにその様子を見られていた事を、二人は気づかなかった。

 やがて予定より一ヶ月早く山から下るようにとの連絡が、アギーレより伝えられる。突然の二人の暮らしの中断は、彼らに動揺をもたらした。山を下りたら、二人の関係はそれっきりだ。だが、それは避けられない事だった。

 山を下り、最初に出会った田舎町にやってきたイニスとジャック。二人はそのまま、何もなかったかのように別れた。素っ気なく自分のクルマに乗って、ジャックはそのまま去っていく。だがクルマのバックミラーを見つめながら、ゆっくり遠ざかっていくイニスの姿を見つめていたジャックだった。そしてイニスもクルマが走り去った直後、ガックリ崩れ落ちるように号泣するのだった

 やがてイニスは婚約者のアルマ(ミシェル・ウィリアムズ)と結婚。二人の子供も生まれて幸福ではあったが、日々生活に追われることとなる。

 一方、ジャックの方はロデオに明け暮れる日々。そんな中でロデオ好きのお嬢様ラリーン(アン・ハサウェイ)と出会う。お互いの気っ風が気に入った二人はすぐに結ばれ、トラクター成金の父親の反対も押し切って結婚。すぐに子供も生まれた。

 こうしてそれぞれが「平穏無事」な日常に戻ったイニスとジャック。そのまま何もなかったように月日が流れる…と思われたある日、イニスの手元にあのブロークバック・マウンテンの一枚の絵ハガキが届くではないか。

 それはもちろん、あのジャックからのハガキだ。

 4年ぶりのジャックからの便りは、彼がイニスの元を訪ねるというものだった。思わず胸の鼓動を抑えることが出来ないイニス。妻アルマには「昔のつり仲間」などと言ってはいたが、その待ちかねた様子は隠しようもない。朝からずっと待ち通しで、缶ビールもさんざ空けたあげくに…。

 ようやくあのジャックがやってきた。

 家から飛び出し、ジャックを迎えるイニス。堅く抱き合い、そしてお互いを貪るように激しく口づけをする二人。この瞬間をどれほど待っていたことか。

 だがその二人の様子を、イニスの妻アルマがじっと見ていた…。

 

西部のデリカシーを描き続けるラリー・マクマートリー

 さて、冒頭で僕はこの映画を見たい最大の理由を、ラリー・マクマートリーの脚本だと言った。僕はなぜそれほどまでにこの脚本家が気に入っているのか?

 元々ラリー・マクマートリーは小説家で、次作小説の映画脚本を執筆することで映画界に入ってきた人だ。そして僕にとって作家マクマートリーは、現代アメリカの小説家としてリチャード・マシスンと並び立つほど好きな人だ。

 もっとも、僕はマクマートリー作品をすべて読んでいる訳ではない。そしてリチャード・マシスンはSFホラー、マクマートリーはどちらかと言えば人生ドラマの名手で、決して名前が並べられるような二人ではない。だがあのスピルバーグの出世作「激突!」(1972)の原作者であるマシスンの作品が、常に僕の期待を裏切った事がないように、マクマートリーの小説や映画脚本作品もまたどれもこれも素晴らしかった。この二人は、それくらい僕にとって「別格」の作家たちなのだ。

 そんなラリー・マクマートリーの名を僕が知ったのは、ピーター・ボグダノビッチ監督の「ラスト・ショー」(1971)を見たときだ。

 寂れた滅び行く西部の田舎町を舞台に、人生のホロ苦い真実が描かれていく作品。この映画の原作・脚本が、誰あろうラリー・マクマートリーだった。映画はボグダノビッチのモノクロ映像を活かした味わい深い作品で、田舎町の住人を演じた面々…ティモシー・ボトムズ、ジェフ・ブリッジス、シビル・シェパード、ベン・ジョンソン、クロリス・リーチマン、エレン・バースティン…らの渋い演技が光る素晴らしい出来栄えだった。まだ経験が浅く人生の機微も知らない僕でも、そこに描かれたホロ苦さが決して1950年代のアメリカ西部に限った事ではない…くらいの事は察しがついた。最後にボロボロにキズついたティモシー・ボトムズが、一度は捨てた昼下がりの情事の相手・疲れ切った人妻のクロリス・リーチマンの元へと戻っていく。最初は「何を今さら」と怒るリーチマンが、それでも最後にボトムズを許し受け入れる幕切れは何ともホロ苦い。どうせボトムズの胸の内は、一時の慰めが欲しいだけの子供っぽい気持ちに過ぎない。そして、すぐにまた彼女の元から去っていくと分かっている。それでも…彼を許し受け入れる彼女の胸に去来する静かな諦観は、決してハッピーエンドなんて単細胞な言葉では括れない。子供だって、あの噛みしめるような苦みに気づかないはずがないのだ。

 この映画にボグダノビッチの演出の冴えを見たつもりになった僕は、後年たまたま原作小説を文庫本で手に入れ、ページをめくりながら唖然呆然としてしまった。何と映画「ラスト・ショー」は、多少の変動はあるにしろその全体のムードから細部のディティールに至るまで、ラリー・マクマートリーの原作小説をそのまま再現したものだったのだ。これには驚いた。まるで映画脚本を読んでいるかのように錯覚してしまう小説。あの映画の素晴らしさのかなりの部分は、すでにマクマートリーの原作にあったのだ。

 さらにそれと同じ頃、僕は同じマクマートリーの小説を文庫本で偶然手に入れていた。その小説「遙かなる緑の地」はハヤカワ文庫から出ていたが、僕が手に入れたのは1970年代半ば頃。今では絶版になっているのではないだろうか。原題は"Leaving Cheyenne"という作品だ。これは一人の奔放な女と彼女を挟んだ二人の対照的な男の、若者時代から初老に差し掛かるまでの愛の物語。この作品も西部の田舎町を舞台にしているのだが、何ともホロ苦い味わいでいいのである。

 この「遙かなる緑の地」="Leaving Cheyenne"は、実は"Lovin' Molly"(1974)というタイトルで映画化されているらしい。監督はシドニー・ルメット、主演がアンソニー・パーキンス、ボー・ブリッジス、ブライス・ダナーと異色の顔合わせ。日本では劇場未公開に終わったが、原作があまりに素晴らしいので多少映画の出来に難があっても見てみたい。

 そしてさらに、映画界でのマクマートリーのポジションを決定づけたのが、「愛と追憶の日々」(1983)。アカデミー作品賞にも輝いたこの映画の脚本は、監督を務めたジェームズ・L・ブルックス。だが原作はわれらがラリー・マクマートリーで、確かにこの作品も典型的マクマートリー・テイスト漂う映画になっていたのだ。

 さらに遡ると、実はマクマートリーと映画界の接点はポール・ニューマン主演の「ハッド」(1962)に端を発している。あの映画、実はマクマートリーの"Horseman, Pass by"という小説を原作にしているのだ。

 こうやってザッと見ていくと、みなさんにもマクマートリーの作風がおぼろげながら見えてきたのではないだろうか。彼の作品は、常にいくつかの特徴で表現できる。「滅びゆく西部」「ひなびた田舎町」「ホロ苦い恋愛模様」「青春期から初老期までの長いスパンの物語」「豊かでデリケートな感情表現」…驚くほど判で押したように、彼の作品はこれらの要素に当てはまってしまう。そう考えると、「ブロークバック・マウンテン」がいかにマクマートリーの守備範囲内の作品かがお分かりいただけると思う。

 実はこの「ブロークバック・マウンテン」は、ラリー・マクマートリーの原作の映画化ではない。ちゃんとアニー・プルーによる原作小説がある。元々が作家であるマクマートリーは、今までは主に原作提供者としての範疇で「脚本も書く」…というスタンスをとってきた。あるいは原作はなくても、おそらく映画やテレビとしてのオリジナル脚本を書いていたかもしれない。彼のキャリアのすべてを知っている訳ではないからハッキリ言えないが、彼が他の作家の原作を純粋にシナリオライターとして脚色するのは、これが初めてか…少なくとも珍しい事ではないのか。

 しかし、それにしては全く違和感のない出来栄え。それというのも…この作品のお話や設定が、モロにマクマートリーの射程距離内に入っているからだ。彼の原作の映画化だと言っても、僕はまったく疑いもしないだろう。

 そこに溢れんばかりの西部の心が込められていながら、何ともデリカシーのある作品群。それはまるでエリオット・アーウィットの写真のように、アメリカ文化の最良の部分を体現しているかのように見える。僕がラリー・マクマートリーに惹かれるのは、そのデリカシーゆえなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 こちとらアカデミー賞うんぬんなんてモノはまるっきり信用しなくなってるスレた映画ファンだが、それでもこの映画の味わいにはかなり感心した。この映画は皮肉でも何でもなく「いい映画」だ。美点を挙げれば、正直言って世間の絶賛と大して変わりなくなる。

 ヒース・レジャージェイク・ギレンホールを初めとする演技陣の素晴らしさは。誰しも認めるところだろう。中でもヒース・レジャーは、これほど素晴らしい役者になるとは予想もしなかった。西部男の無骨さと繊細さを体現して、ほとんど奇跡的と言っていい。アメリカの男臭さとデリカシーという要素を合わせ持つ役者として、ついにジェームズ・カーンの後継者が現れたという気がする。しかもカーンよりもこちらの方が繊細さの純度と度合いがかなり高い。

 あとビックリなのはアン・ハサウェイ。この人って「プリティ・プリンセス」(2001)の人だからね。向こうの役者ってどこで化けるか分からない。

 アモーレス・ペロス(2000)のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の子飼いのスタッフ…ロドリゴ・プリエトの撮影とグスターボ・サンタオラヤの音楽の素晴らしさも特筆もの。特にブロークバック・マウンテンの「あの絵」は主人公二人の輝かしい思い出の象徴だから、これがちゃんと押さえられてなければ意味がない。その意味で、あの美しいカメラはまさに正解だ。

 これがハルク(2003)に次ぐアン・リーの監督作品と考えるとかなり意外になってしまうが、元々のアン・リー作品の系譜を考えれば、むしろこちらが王道。社会の掟、固定観念、既成概念、風習…といった枠組みの中に閉じこめられながら、そこからハミ出さざるを得なくなっていく人間たちの姿を描いて、常に一貫していると言えなくもない。デビュー作「推手」(1992)から西欧作品初挑戦の「いつか晴れた日に」(1995)、自らのルーツ回帰の グリーン・デスティニー(2000)を経て超大作「ハルク」に至るまで、アン・リー映画の主人公はみんな社会の枠組みの中で自由を求めて苦闘し続けてきた。そして、災いの源にしろ苦闘の原動力にしろ、その根元には「愛情」があった。中国人のホームドラマからジェーン・オースティンの描く過去のイギリス、さらに中国武侠物語、そしてアメコミSFアクション…と見た目は劇的に変わっても、アン・リーの作家的姿勢は常に一貫して変わっていないところがスゴイ。むろんこの「ブロークバック・マウンテン」も、その点では一致している。というより、これは最もアン・リーらしい題材と言えなくもないのだ。

 そして最後の最後、主人公が洋服ダンスに掛けた亡き「友」の形見に「誓い」をたてるラスト・シーンで、この映画はついにどこか「突き抜けて」しまった。「よく出来た映画」なんて生やさしいものを飛び越えてしまった。そこに貼られたブロークバック・マウンテンの色あせた絵ハガキが、流れた長い年月を否応なしに感じさせる。この場面があまりに映画的に視覚的に訴えてくるからこその、深い感銘。

 それはまがりなりにも何十年か生きてきた人間の心を打たざるを得ない、本物の実感なのだ。

 

見た後の付け足し

 …ってな事を、さも「映画の感想」めいた書き方で並べてはみたものの、先にも書いたようにそれって世間の絶賛と大して変わりはしない。確かにそこで書いた事にウソはないが、それらは後になって考えて出てきたものでしかない。

 僕にとってこの映画は、ある2つの瞬間に集約される。

 一つは、もちろんラスト・シーン。洋服ダンスの二人の「愛の形見」を見つめながら、主人公が血を吐くような思いで真情を吐露する場面だ。

 そしてもう一つは、二人が最初に結ばれたあのブロークバック・マウンテンでの最初の日々…その別れの瞬間。相手のクルマが視野から去ったとたん、主人公がガックリ崩れ落ちて号泣してしまうあの場面だ。

 どちらも主人公は、自らのかけがえのないものに気づいていながら、それが失われてしまうのを黙って見ているより仕方なかった。そして、もはや取り戻しようがないという苦い思いを噛みしめてもいる。ラスト・シーンでは恋人は亡くなっていて、当然の事ながら取り戻すべくもない。だがそもそも、それはブロークバック・マウンテンの最初の日々の終わりに分かっていたことかもしれないのだ。あの後二人は何度も再会を繰り返してはいたが、あの最初の輝きは取り戻せなかったような気がする。もはやお互いに女と家庭を持っている身であれば、それは「疑似体験」でしかなかったのかもしれない。

 でも、それも主人公が良かれと思ってした選択だし、そうするしかないと思った末の事だ。実際、彼らはそうするより他なかったのだろう。

 人生は思うようにはいかないのだ。

 本当はこうしたかった、本当はこうなる予定だった、こうすべきだった、こうならなきゃいけなかったのに…でも、決してそうはならなかった。人生ってそんなものだ。希望するモノは手に入らなかったか、手に入ってもタイミングが悪かった。あるいはこっちが立てばあっち立たずで、結局手に入れたモノを活かせず無駄にしてしまった。欠けたところのない満月のような幸福は、せいぜい手につかみかけるところまでがやっと。あるいは手につかんだと思った瞬間に呆気なく色あせた。…実は最初から、そんなものは望むべくもないのかもしれない。

 人生は思うようにいかない。

 この映画に描かれた事は本当だ。理屈じゃない。それはゲイだからどうのとか、そんな事ではない。僕らはみな、きっとあのブロークバック・マウンテンの輝かしい日々を胸に抱きながら、この世を去っていくに違いないのだから。

 

 

 

 

 

 to : Review 2006

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME