「春が来れば」

  Springtime

 (2006/04/17)


  

見る前の予想

 この映画の存在は、昨年の東京国際映画祭に出品されていたからよく知っていた。挫折したトランペッターが、ひなびた過疎の町の中学校で吹奏楽部教師の職を得る。そこでトランペッターは子供たちとの交流から生きる意欲を蘇らせる…というお話、らしい。いかにも…の話だ。主演がチェ・ミンシクと聞けばなおさら。とにかくレールからはずれちゃった男を演じさせたら天下一品。…というか、それしか演じてない(笑)。そんなあまりと言えばあまりに意外性のない役どころに、「たぶん好感の持てる映画なんだろう」と思いつつ、イマイチ見る気がしなかった。

 それでも、僕にとっては「挫折男」の話は見ずにいられない。僕自身、どっちかと言えば挫折男だ。だから挫折男の映画はどうしても気になる。最近じゃ世間で評価が低かったキャメロン・クロウ監督のエリザベス・タウン(2005)にさえ、大いにハマってしまったこの僕だ。これは見ない訳にはいかないだろう。

 自己憐憫だと言われようが何だろうが、僕は挫折男の味方なのだ。

 

あらすじ

 窓から外を眺めながら、まるでため息のようにタバコの煙を吐き出す男イ・ヒョヌ(チェ・ミンシク)。彼は市役所のカルチャースクールの講師として、オバチャンたちの吹奏楽練習を指導しているところ。だが練習中にも携帯の着信音を鳴らしているようなこのオバチャンたちに、「音楽」などやらせようというのがどだい無理だ。

 本当はヒョヌとて、こんな仕事がやりたい訳じゃない。トランペッターとしてちゃんとした職を得る事を夢見ていた。だが、現実は厳しい。うだつの上がらぬ自分に付き合わせるのは気の毒…と、長年の恋人だったヨニ(キム・ホジョン)とも別れてしまった。だがそのヨニから呼び出されて「恋人が出来た」と聞かされると、ヒョヌの胸内穏やかでなくなるのも正直なところ

 いい歳こいて母親(ユン・ヨジョン)と一緒に暮らすのも心苦しいし、小言がいいかげんうるさくも感じられる今日この頃。音楽仲間のギョンス(チャン・ヒョンソン)が音楽教室で大儲けの上に夜のキャバレー・バイトで稼ぎまくっているのを軽蔑しながらも、自身はまたもやオーケストラのオーディションに失敗。ドツボにハマったところにまたもやヨニからの電話。「春に結婚するかも」などと聞かされたひには、とてもじゃないがヒョヌもたまったもんじゃない。ヨニには「幸せになってくれ」と言うのが精一杯で、ヒョヌはまるで逃げるかのようにソウルを都落ち。ど田舎の炭坑町にあるトゲ中学校の吹奏楽部教師のクチにすがりつく。

 だがこの吹奏楽部がこれまたひどくて、部室もボロボロで荒みきった状態。音楽などカネにもならない…と教師からも疎んじられる存在になっていた。かつてはコンクールで優勝した事もある名門だが、それも今は昔。炭坑の衰退で町に活力が失われていったのと歩調を合わせて、吹奏楽部自体の部員も減り活気が奪われていたのだ。

 そんな吹奏楽部の演奏はヘロヘロ。今年のコンクールで入賞出来なければ、部の存続も危うくなるという。その割には危機感がなく、みんな極度にモチベーションを失っているのが気になる。それがくたびれきってショボくれた自分の姿に二重写しに思えるだけに、ヒョヌには人ごとに思えなかった。

 例えばトランペットのジェイル(イ・ジェウン)は祖母(キム・ヨンオク)と二人暮らし。貧しさの中で電気まで止められるアリサマだ。そんなジェイルを見かねたヒョヌは、こっそり町のキャバレーのオーディションを受ける。カネのために音楽をするな…がモットーのヒョヌだったが、毎夜ギンギラの衣装に身を固めてトランペットで演歌を演奏。そのカネでジェイルの家計を手助けするのだった。

 またええカッコしいでサックスを吹くヨンソク(キム・ドンヨン)は、炭坑に勤める父親に音楽を止めさせられる。その説得にわざわざ炭坑まで足を運ぶヒョヌだったが、息子の行く末を案じる父親の気持ちを知るや何も言えなくなる。音楽では「食えない」ことを、ヒョヌは誰よりもよく知っていたのだ。「叶わない夢もある」とヨンソクの父に静かに告げられて、勧められた酒を静かにあおるしかないヒョヌだった。

 叶わぬ夢…。

 そんなある日、ヒョヌのわびしい住まいに母親が現れた。夜、久しぶりに狭い部屋で母親と並んで寝たヒョヌは、ふとこう訊ねた。「母さんは昔どんな夢があったの?」

 何の夢もなくコツコツと暮らして来たように見えた母でも、やっぱり夢はあった。女学校の時には作家か詩人になりたかった。結婚してからは幸せに暮らすことが夢だった。ヒョヌが生まれてからは、彼がリッパになってくれること。「オマエが先生になったと聞いて、夢がひとつ叶ったわ…」

 別の日、ヨンソクの父はじめ炭坑夫たちが地上に戻ってくると、雨の中で心を込めて演奏するヒョヌと吹奏楽部メンバーたちの姿があった。

 そんなヒョヌの心を癒してくれるのは、町の薬局の娘スヨン(チャン・シニョン)。最初はラーメンばかりの食生活に欠かせない胃腸薬を求めるためだったが、そのうちヒョヌは何かと言えばこの薬局に立ち寄り、スヨンと世間話を交わすようになった。この狭い町に閉じこめられるようにして暮らしていたスヨンも、「外の空気」を漂わせるヒョヌに秘かに淡い想いを抱き始める。それを察したのは、陰ながらスヨンに思いを寄せていた自動車整備工の青年ジュホ(キム・ガンウ)。そんなとばっちりで、ある夜ヒョヌはジュホから手痛い一撃を食らう羽目になる

 そんなこんなで最初はバラバラだった演奏も徐々にまとまりを見せ、着々とコンクールの日も近づいて来たある日。何とジェイルの祖母が道ばたで倒れ、息を引き取ってしまう。慌ててジェイルの家に駆けつけたヒョヌだが、慰める言葉が見つからない。「生きるのがつらくてな…」

 お先真っ暗な気持ちで狭い自室に戻って来たヒョヌは、思わず実家の母親に電話をかける。「母さん、オレ最初から全部やり直したいよ

 そんな心情を吐露するヒョヌに、母親は静かに諭すのだった。

 「これからが始まりなのに、一体何をやり直す必要があるの…?」

 

挫折男を演じさせれば世界一、チェ・ミンシクの真骨頂

 韓流映画が大流行の昨今、テレビ・サイズのチマッとしたお話やら甘ったるいラブコメなどが氾濫する中、それらとはいささか一線を画する骨っぽさを見せているのは、大概がソン・ガンホかチェ・ミンシクの主演作…と言えるのではないだろうか。

 そんな二人…ソン・ガンホとチェ・ミンシクがそれぞれあのシュリ(1999)で日本に本格紹介されたこと、「シュリ」が日本における韓国映画の大ブームの引き金になったことは、何か偶然ではないものを感じさせる。この当時はまさに「シュリ」に代表されるように、韓国映画は娯楽映画と言えども甘くない、どこかハードで辛口な映画群であるという印象があった。その後「韓流映画」がそんな状況を一変させてしまうわけだが、それでも僕などは今でも韓国映画にそんなハードさや辛口ぶりをどこか期待しているところがある。ソン・ガンホとチェ・ミンシクは、ある意味でそんな韓国映画をいまだに体現している俳優と言えなくもないのだ。あと挙げるとしたらソル・ギョングとチャン・ドンゴンかな、僕の嗅覚を刺激する韓国男優としては。…おっと、いけない。重鎮アン・ソンギを忘れちゃマズイ。

 まぁ、そんなひと味違う韓国男優の中で、チェ・ミンシクの場合は役柄が極めて限定されるのが特徴だ。

 チェ・ミンシクの場合、カッコいいエリート刑事なんて役柄はどう考えても合わない。気鋭の科学者なんて役どころもあり得ない。仮に刑事を演じたとしても捜査に失敗してか女房に逃げられてかで自堕落に落ちぶれた刑事、科学者ならば異端なマッド・サイエンティストか研究に失敗して学会を追われた科学者というのがいいところだろう。つまりは毎度チェ・ミンシク映画をここで取り上げるたびに僕が繰り返して語っているように、「レールからはずれちゃった男」を演じさせたら天下一品なのがこのチェ・ミンシクなのだ。

 というか、それしかできない

 毎度毎度繰り返してしまうけれど、本当にチェ・ミンシクは「はずれちゃった男」しか演じていないのだ。だけど僕らだって、それ以外のチェ・ミンシクを想像することはできまい。そのくらい「はずれちゃった」チェ・ミンシクはハマってるのだ。

 まずは出世作「シュリ」での役どころ、北朝鮮の工作員からしてそうだ。韓国内に潜入した北朝鮮工作員とくれば、それはそれでテロリストとしても「エリート」のはず。ところがチェ・ミンシクが演じると、北朝鮮の国家としての意向からもはずれて暴走した「はぐれテロリスト」となってしまう。おまけに韓国の諜報機関に対して、「オレたち北朝鮮の人間が飢えて困っている時に、オマエら韓国の連中は酒かっくらってゲロなんぞ吐きやがって」…とグチたれまくり。およそ善玉をせせら笑うような「悪の美学」すらない。完全に「はずれちゃった」イメージだ。

 次に僕が見たのはクワイエット・ファミリー(1998)だが、ここでもチェ・ミンシクは「はずれ」てる。兄貴のペンションを手伝う中年男という設定で珍しく小市民的なヌルさを見せてはいるが、そもそも「兄貴のペンションを手伝う」時点でうだつが上がらない感が濃厚に漂う。

 さらには「ハッピーエンド」(1999)では女房がかつての恋人と浮気して内心忸怩たるものがあるのに、本人は失業中で女房に食わせてもらってるという最悪の状況。オールド・ボーイ(2003)の理由も分からず15年閉じこめられた中年男なんて「はずれちゃった男」チェ・ミンシクならではの役どころだし、高名な画家を演じた酔画仙(2002)ですら、崇高な芸術家というよりはぐれちゃったアウトロー臭がプンプン漂う。このように、チェ・ミンシクは見事なまでに「レールからはずれちゃった男」を律儀に演じ続けているのだ。

 むろん今回の「春が来れば」も、チェ・ミンシクという俳優がいればこそ…の企画である事は言うまでもない。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

見た後での感想

 雨が降る窓の外を、タバコを吹かしながら物憂げに見つめている…冒頭のこのワン・ショットだけで、チェ・ミンシクはこの主人公のポジションを見事に表現しきっている。どう考えても人生うまくいってない。奥様向けカルチャー・スクールで音楽講師をしているというだけで、ハッキリ「本線からはずれちゃった」感じがプンプン。本人もまるで気が入ってないから、奥様の一人が練習中に携帯を鳴らしても、もはや怒る気力もなく苦笑するのみの脱力ぶりだ。

 そのくせ完全に無気力状態かと言えば…かつての恋人を「自由にしてやる」ために別れたはずなのに、彼女から「新しい恋人ができた」と聞かされれば面白くない。そんなウップンを交通違反の監視カメラにぶつけて石を投げる大人げなさ。親友に自分の曲をクラブで演奏されては、「カネのために音楽をやるな」と殴りかかる変なプライドの高さ。さらにオーケストラのオーディションを受けに行けば、ラフな服装で注意されるアリサマ。落ちても自業自得としか言いようがない。音楽は服装とは関係ない…という「こだわり」や「主張」があるかもしれないが、そんな事言ってる場合じゃない事が分かってない。まぁハッキリ言って困った男なのである。

 だから、今までうまくいかなかった事も何となく頷ける。この男は単に不運で挫折しているわけではないのだ。で、こういう男を演じさせればチェ・ミンシクは絶好調。その後逃げるようにソウルからひなびた炭坑町に移り、わびしい一人住まいでラーメンをすする姿が妙にハマってる。

 そんな…ある意味でヘンにプライドだけは高く、不器用通り越していいトシこいてガキな勘違い主人公。彼がこの炭坑町で現実に目覚めさせられるところが、この映画の絶妙な点だ。

 この町の中学の吹奏楽部の部員たちとて、一人として恵まれた者などいない。電気代すら払えない赤貧生活の生徒を助けるためには、「カネのために音楽をやるな」なんてキレイごとは言ってられない。息子に音楽をやめさせようとする炭坑夫の父親を説得に行けば、「叶わない夢もある」と言われて絶句せざるを得ない。「音楽じゃ食えない」ということも「叶わない夢がある」ということも、主人公が一番身をもって知っていることだからだ。

 そんな主人公は、それまでぞんざいに扱っていた母親に改めて訊ねるのだ。「母さんは昔どんな夢があったの?」

 町の人々との触れ合いの中で、自らの至らなさを悟っていく主人公。このお話は挫折者の自己憐憫でも自己肯定でも単なる復活でもなく、挫折者が自らの非に気づき、「やりなおそう」と決意する物語であることが素晴らしい。こいつが反省もなしに、一発大逆転で負け犬脱出するような調子良さはない。そもそも晴れがましい「勝利」のような、一種の結果主義ではないから納得できるのだ。

 そもそもこの映画の結末では、主人公の周囲の人々に覆い被さっている深刻な問題は一切解決されない。老婆と暮らしていた少年は、結局ひとりぼっちのまま。その後どこかに引き取られたかどうか知らないが、少なくとも少年が望むような暮らしは望めないだろう。薬屋の女の子はあの狭い町に閉じこめられたままだし、主人公もまた彼女に安易な夢を与える事を慎む。コンクールでは熱演した吹奏楽部だが、だからといって何らかの入賞を果たしたとは描かれない。おそらくあの後、吹奏楽部は廃部になったのではないか。講師として招かれた主人公がソウルに帰るということは、そういう事を意味しているはずだ。決して誰も救われはしない。でも、世の中とは…人生とはそんなものだ。「叶わない夢もある」のである。

 もちろんこの映画は、少々できすぎのクサい部分も少なからずある。炭坑夫たちが地上に戻って来た時、吹奏楽部のメンバーたちが雨の中で演奏する場面。彼らの演奏を見て、例のメンバーの父親が考えを改めるであろうくだりは、やっぱり少々ご都合主義だろう。主人公の昔の恋人が結局は結婚をせずに、彼をいつまでも待っているあたりもあり得ない。そんな女はこの世にはいないのだ(笑)。海辺での少々あざといスレ違いも含めて、このあたりは結構「つくってる」部分ではある。

 だが、先に挙げたようにシビアーで解決されない現実が残されたまま…という結末が、この映画を「ご都合主義」な甘さから救っている。それでいて見ている者を突き放したりはせずに、見ていて救われる適度な暖かさも保たれている。そんな絶妙なサジ加減が、この映画の最大の魅力なのだ。

 ただ、唯一僕が気になったのが、吹奏楽部の一人ひとりが入れ替わり立ち替わりのように眼帯をしてくること。最後には主人公も眼帯のお世話になるが、あれはどういう意味なのだろう? あれだけ執拗に強調されるのだ、きっと何か意味があるはずだ。途中でそれについて描いている部分があったのに、僕が単に見落としてしまっただけだろうか? それともそんな意味など常識的に分かるものなのに、僕がニブ過ぎるのか? この部分は、いまだに僕の中でナゾとして残ってしまった。

 脚本・監督はこれが第一作のリュ・ジャンハ。それまではホ・ジノに師事して春の日は過ぎゆく(2001)などで助監督を勤めていたらしいが、この人のデリケートな語り口はちょっと注目していい。師匠のホ・ジノより僕は好きだ。

 トランペット担当のジェイルには、大統領の理髪師(2004)の天才子役イ・ジェウンが登場。相変わらず達者なところを見せるが、この子は鮮度の点で今後が難しいところかもしれない。面白かったのは主人公の元恋人役を演じたキム・ホジョンほえる犬は噛まない(2000)に次いで甲斐性のない男に泣かされている女の役どころとは笑ってしまった。

 だが、何と言ってもこの映画の見どころはチェ・ミンシク。彼の「挫折」っぷり…そして更正ぶりが、見ている者の気持ちを本当に和ませてくれるのだ。

 

見た後の付け足し

 何度もクドクド言う事じゃないが、正直言って僕もこの映画の主人公と同じ。いい歳して困った人…なのである。不運を嘆いて当たり散らしたりもしたが、今振り返ってみれば全部自分の愚かさゆえ。ヘンにプライドばかり高くて大人げなくて、ずいぶんと恥ずかしい事ばかりしてきてしまった。だから当然の事ながら、自業自得の末にこのテイタラク。そんな僕にとって、この作品は当然の事ながら見ていてずっと痛い映画だったのだ。

 そんなわけでこの映画、僕にとって涙腺を直撃されるのは時間の問題だったわけだが、「それ」は不意を突いて襲ってきた。

 主人公のしがない部屋を訪れた母親。狭い一室に母親と並んで寝る主人公は、ふとそれまで聞いたこともない質問をする。「母さんは昔どんな夢があったの?」

 それに対して母親は、女学生の時は作家か詩人になりたかった…という、ガラにもない夢を披露する。これには思わず笑ってしまう主人公だが、この場面に僕は思わずハッと気が付いた。

 僕は自分の両親に「夢」などがあったとは思いもしなかった。

 当然人間なら夢があるはず。なのにどうしてそんな事を思いもしなかったのか。昔は働きづめで何も欲しがらず文句も言わず、ただ黙々と日々を暮らしていた両親。特にわが家は父が仕事でほとんど家にいなかったから、母親が黙って和裁の内職をやっていた姿が印象的だ。あの母に、一体どんな夢があったのだろう?

 だから主人公の母親がこう言った時、不意打ちのように僕の涙腺はゆるんでしまったのだ。「オマエが先生になったと聞いて、夢がひとつ叶ったわ…」

 僕が仕事でつまらないお役所のPRマンガ本をつくった時、印刷されたそれを手にとって、両親がどれほど喜んでくれたか。何でこんなもので喜んでいるのか僕にはサッパリ分からなかったが、今にして思えばあれもひとつの夢の成就だったのだろうか?

 そんな僕の涙腺が二度目にゆるんだのは、またしても主人公と母親のやりとりだ。やりきれない思いに耐えかねて、思わずソウルの母親に電話する主人公。彼はそこで今までの虚勢を捨てて、思わず本音を吐露するのだった。「母さん、オレ最初から全部やり直したいよ」

 これはねぇ…これを自分で口にするのは、本当にツライことだ。だってそれまでの自分の突っ張り、自分のプライドを全否定してしまうのだから。今までの自分はアホだった、うまくいかなかったのも不運のせいじゃない、全部自分が愚かだったせいだ…これを認めるのは、人生残り時間が少なくなった今だからこそキツイ。だが、きっとどこかでそれを認めなければ、先に進めることはできないのだろう。

 情けない話だが、やっぱり僕もこの映画の主人公と同じく、誰かにこう言ってもらいたいのかもしれない。

 「これからが始まりなのに、一体何をやり直す必要があるの…?」

 

 

 

 

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