「SPIRIT」

  霍元甲 (Fearless)

 (2006/04/03)


  

見る前の予想

 予告編はだいぶ前からかかっていた。またまた国際的スケールの中華アクション映画らしい。おまけに主演はジェット・リー。何と中村獅童も日本から呼ばれているとか。HERO/英雄(2003)、LOVERS/謀(2004)、セブンソード(2005)、PROMISE/プロミス(2005)…に次いでのワーナー・ブラザース配給中華アクションというあたりも、かなり期待を抱かせる。気になるのは、またまた横文字で「スピリット」とくるインチキ臭い日本題名。まぁ、「プロミス」もかなりインチキ臭かったけど、あれは英語題名だからまだ許せる。だが、こちらはねぇ…何だかアニメの“きれいな涙”「スピリット」(2002)みたいだよなぁ。絶対にこの映画の英語題名は「スピリット」であるはずがないよ。それには自信がある。

 

あらすじ

 清朝末期の中国は、海外からの侵略に脅かされていた。そんな危機に際しても為す術のない中国を、列強の国々は「東洋の病人」と揶揄するアリサマ。だがそんな状況に一石を投じるべく、一人の中国人が立ち上がった。その名をフォ・ユァンジャ=霍元甲(ジェット・リー)。この武道家の目覚ましい活躍が、うなだれていた中国民衆を勇気づけていった。むろんそんなフォの存在を、列強が面白く思うはずがない。こうしてフォ対世界4カ国の有名武道家という異種格闘技戦が行われる事になったわけだ。

 1910年、上海。豪華な会場に満場の観客を集め、異種格闘技戦は開催された。槍には槍で、フェンシングには剣で…次々繰り出される各国の強豪を、華麗な技で確実に倒していくフォ。その姿に、中国人の観客は熱狂する。そんなフォの前に、最後にして最大の敵が立ちはだかる。それは日本からやって来た武術家・田中安野(中村獅童)。この強敵・田中を迎えるフォの脳裏に、彼の半生の思い出が甦る…。

 武道家として優れていたフォの父親(コリン・チョウ)を、少年時代のフォは憧れの眼差しで見つめていた。だが喘息気味だったフォの身体を案じて、父親は彼を武道に近づける事を嫌った。それがかえって彼の好奇心をかき立てる。そんなフォを幼なじみの親友ノン・ジンスンは心配するが、フォの頭の中は武道の事で一杯だった。

 そんなある日、街中で武道の公開対決が催される。フォとノンが駆けつけてみると、そこにはフォの父親が立っていた。フォの父親と、別の流派の代表との対決だったのだ。早速かぶりつきで対戦を見守るフォ。たまたま隣には対戦相手の息子がいた事もあって、応援はいやが上にも熱が入る。戦いは最初からフォの父親有利に展開。これは楽勝…と思いきや、トドメの一撃を加える一歩手前でなぜかフォの父親は手を止める。その一瞬の隙を突いて、対戦相手はフォの父親を投げ飛ばした。これで一転して、戦いは相手の勝利に終わる。あまりの結末に、フォは泣きべそをかいた。

 おまけにマズイ事に、そんなフォに対戦相手の息子がネチネチと絡む。父親をバカにする言葉は聞き捨てならない。こうなるとノンがいくら止めても止まらない。よせばいいのに身体が一回り大きい相手に戦いを挑み、案の定ボコボコにされて終わるフォであった。

 さらに苦々しい事には、キズだらけになって帰ったフォを父親が厳しく叱責。書取の罰を言い渡されるフォには、どうしてもすべてが理不尽でならない。あまりの悔しさに少年フォは誓うのだった。

 「僕はもう絶対に誰にも負けない!」

 その言葉にウソはなかった。大人になったフォは負け知らずの男となった。試合をやっても連戦連勝。父亡き後の家を守って、武道家としての名声も高まる一方。父を祀った仏壇に祈りを捧げながらも、その胸の内ではこんな本音がチラつく。

 「父上の技は早さが足りませんでした。これからは私がわが家の武術を守っていきます」

 そんなフォの顔が唯一ほころぶ瞬間は、幼い娘といる時間だ。妻が病で亡くなった今となっては、彼の愛情はただ娘のみに注がれていた。そんなフォに老いた母は、武道だけでない暮らしを…と諭す。だが耳に痛い母の苦言も、今のフォには右から左だ。そして、そんな彼の元にはまたしても一通の挑戦状が…。

 遙かに見上げるような高台の上で、今度の挑戦者が待ち受ける。それは少年の日にフォを袋叩きにしたあの憎っくき相手だ。むろん「天津一強い男」をめざすフォとしては倒さねばならぬ相手。まったく手加減の必要はない。少年時代の借りも返すべく、情け容赦なくボコボコにしてやった。これでグッと溜飲を下げたところで、弟子や取り巻きを引き連れて料亭へ。そこはあの幼なじみのノン(ドン・ヨン)が経営する料亭だ。幼い頃、学問の成績が優秀だったノンは料亭を経営させても優秀で、この店はすこぶる繁盛していた。そんな訳でフォは気が思い切り大きくなって「飲め」「食え」と大盤振る舞い。そこに弟子志望の若い衆も殺到するから、さらにゴキゲンだ。だがノンは幼なじみのよしみで黙ってはいたが、フォの大盤振る舞いもいささか度を超していた。連日のドンチャン騒ぎでツケが溜まりに溜まる。それより何より、フォの取り巻きがロクな連中でない事にノンは胸を痛めていた。もうちょっと相手を選んで付き合ったらどうだ…と苦言を呈するノンだが、得意の絶頂のフォの耳にはその思いは届かない。

 そんな「天津一」をめざすフォにとっては、目障りな男が一人。これまたこの街で勇名を馳せたチンなる人物だ。しかも弟子の一人がこのチンにメッタメタに痛めつけられたと聞いて、フォはカッと頭に血が上った。折りしもちょうどチンは家族や弟子たちを引き連れて、ノンの料亭で誕生祝いの宴席の真っ最中。そこにフォはズカズカと乗り込んで行ったからたまらない。さすがのノンもたまりかねて止めるが、思い上がりが暴走したフォは言うことを聞くわけもない。ノンは吐き捨てるように「絶交だ!」と吐き捨てるように言うが、それはフォの怒りを助長するだけだった。

 「他の連中を店の外に出せ。この場で今すぐ決闘だ!

 こんなムチャクチャな難癖をつけたフォと、やむなく戦う事になったチン。他の客やチンの家族や弟子たちが退散して誰もいなくなった店の中で、二人の戦いが始まった。壮絶な死闘が続き、メチャメチャになった店内。その最後、決定的な必殺技でチンを倒すフォ。だが勝ち残って店の外に出てきたフォに、勝った爽快感は皆無だった。それでも弟子たちが殺到して祭り上げられれば、よせばいいのにドンチャン騒ぎ。

 そんなフォたちを横目に店内から瀕死のチンを担ぎ出すチン門下生たち。中でもチンの一の弟子の目は、怒りで燃え盛っていた

 翌朝、宴会疲れで帰宅したフォは、そこに血まみれの母の姿を見つけて愕然。すぐにイヤな予感にとらわれたフォは、次の瞬間それが現実のものとなったのを目の当たりにした。誰よりも愛した幼い愛娘が、刺し殺されて血祭りに上げられていたのだ。むろん誰がやったのか、フォが気づかない訳はない。もうこうなったら、フォを止める者は誰もいない。チンの屋敷に駆けつけたフォは、持っていた剣で一気に弟子の喉元を切り裂き、ケリをつけた。さらにそこにいたチンの未亡人と幼い娘に向かって剣を…。

 未亡人と娘。

 そしてその部屋には、フォとの戦いで命を落としたチンの亡骸が横たわっていた。未亡人と娘…自分はこの人たちまで殺めようとしていたのか。そもそもこの人たちにとって、自分は愛する夫や父親を殺した外道にすぎないではないか

 今さらながらに激しい衝撃を受けたフォは、その場で憑き物が取れたように剣を落とした。そしてヨロヨロとふらつきながら、その場を逃げるように立ち去ったのだった。

 そんなフォに追い打ちをかけるように、やりきれない知らせが届く。何とチンに叩きのめされた弟子は、元々がやられても仕方のない自業自得だったというのだ。だとすると、何と自分は愚かな事をしたのか…。

 もはやフォに「天津一の男」など無意味だった。

 街を捨て、名声も何もかも捨て、どこまでも放浪するフォ。髪は乱れヒゲは伸び身体は汚れ放題、服もボロボロの乞食のような格好でさまようフォに、もはやかつての面影はどこにもなかった。こうしてどこまでも彷徨い歩いたあげく…山奥の川に倒れたまま溺れかけたフォ。

 気づいてみると、フォは見知らぬ山村にいた

 素朴な人々の住む、素朴な村。フォの面倒を見てくれたのは、盲目の純朴な娘・月慈=ユエツー(シン・リー)だった。彼女の優しい思いやりと村の簡素な暮らしが、荒れ果てたフォの心をゆっくり癒していく。

 田植えひとつとっても、この村の人々はフォとは違っていた。ひたすら早く植えればいいと頑張るフォに対して、この村の人々は風のささやきにも耳を澄ますようなゆとりがあった。しかも翌日、自分が植えた苗をユエツーが植え直している事に気づくフォ。「稲は植えればいいというものではないの。他の稲との間にゆとりを持たせてあげないと育たないのよ

 そんなこの村の暮らしが、フォの考え方を根本的に変えていく。だがこうして生まれ変わったフォの胸の内に甦ってくるのは、やはり武道の事だった。今なら昔と違って、真の武道の心と触れることができる…。

 改めて自分の生きる使命に気づいたフォは、つらい決断をした。ユエツーに別れを告げ、この村を出ていく決心をしたのだ。「いつかは去っていくと思っていた」と平静を装うユエツー。だが彼女は去っていくフォの行方を、見えない目でいつまでもいつまでも追っているのだった。

 こうして、フォは街に戻ってきた

 しばらくぶりに戻った街は、かつてと様相を一変させていた。街にあふれる外国人、外国の軍隊。中国人たちは貧しく、外国人たちに虐げられ、あるいは媚びを売っていた。これが自分が生まれ育ったあの国なのか?

 幸いにして家屋敷は何とか守られていた。仏壇に線香の火を灯しながら、フォは今こそ父に語りかけていた。「父上、すべてあなたの方が正しかった。あなたこそ最高の武道家です…」

 そんなフォの目を留めたのは、ある新聞記事だった。それは、上海で一人のアメリカ人格闘家が中国人武道家の挑戦を受けては、次々となぎ倒している…というもの。「東洋の病人」どもなど怖くないと豪語するこの格闘家のコメントを読んで、フォの目標は今ハッキリと定まった。

 上海へ行こう…。

 

見た後での感想

 ハッキリ言って「お約束」の映画だ。ジェット・リーのアクション映画だから、当然堅苦しい事は抜きだろう。だがこの映画の場合、何となく見る前から構えのデカさや「格」が気になってはいた。安くても楽しければいいや…の感覚ではなく、どこか折り目正しさというか品の良さみたいなものが漂っていた。

 よくよく調べてみると…ここでジェット・リーが演じるフォ・ユァンジャ=霍元甲なる人物は、中国では「伝説の男」らしい。「ドラゴン怒りの鉄拳」(1972)でブルース・リーが演じる主人公の師匠が、このフォに相当するようなのだ。そんなの当たり前…と格闘技ファンやらカンフー・マニアは嘲笑するのだろうが、申し訳ないがその「常識」とやらは世間の常識とイコールというわけでは決してない(笑)。ついでに受け売りを言わせてもらえば、ジェット・リー自身もこの「怒りの鉄拳」のリメイク「フィスト・オブ・レジェンド」(1994)で同じ役をやっているらしい。

 そういやブルース・リー作品の原題は「精武門」というものだった。今回の「SPIRIT」でジェット・リーが主宰するのが「精武体育会」。なるほど、「怒りの鉄拳」はこの後の物語なのか。だとすると、「怒りの鉄拳」が日本人道場の連中を思いっ切り悪役にしていたのも分かる気がする。そしてラストがヒーローの死による悲壮なヒロイズムで終わるのも納得。まぁ、そのあたりを云々すると、「あるスジ」を刺激しそうなんでやめておく(笑)。ともかく、そんな国民的ヒーローの生涯の物語なのだ。折り目正しくもなるだろう。

 だが「怒りの鉄拳」が一方的日本憎し一色で彩られているとすれば、こちらはいささか趣が異なる。で、そこが今回の作品の最大の特色でもあるのだ。

 元々、東洋の武術映画というものは、どこか“「強さ」とは「戦わないこと」と見つけたり”…という禅問答や哲学にも似た部分を多く持っていた。それこそ香港あたりで無数につくられたカンフー映画や剣戟映画もそうだし、日本の時代劇だってそんなものはいくつも散見できると思う。あの黒澤映画だって同じ事を言っていた。「椿三十郎」(1962)エンディングでど派手な血のり大噴出スプラッター対決を見せた後、主人公の三十郎はこう言い放ったではないか。「いい刀ってのはな、サヤに収まってるもんだ!」

 だがそれが全編を通じての一貫したテーマになっている映画は、あまり見受けられないかもしれない。この「SPIRIT」はまさに全編それで押し切って、それのみを語ろうとしている映画なのだ。

 実は世界異種格闘技戦が最大の見せ場のはずなのに、その模様の大半はサッサと導入部で片づけてしまう。意外な事に、本題はそこから始まる主人公の回想場面なのだ。そこに描かれるのは暴力のための暴力、暴力が生む新たな暴力、そんな暴力の応酬が生み出す空しさだ。この忌まわしいエピソードを、映画はかなりのボリュームを割いて延々と描き出す。実は映画の大半が、主人公が暴力に溺れるこの部分なのだ。その部分だけとっても、この映画が単純な爽快感と無縁である事が分かるだろう。

 そして映画の中盤で、主人公は自己嫌悪のどん底に突き落とされる。落ちて落ちて落ちまくったあげく…まるで別世界の山村に舞台を移しての「第2部」とも言える部分が秀逸だ。

 こうなると、広大な中国の大地と豊かな自然が何と言っても強みだ。どれだけ台詞を並べたり芝居や技巧を積み重ねるよりも、山村の素朴さが 問答無用で迫ってくる。どこまでも清涼な空気が流れているようなこの中盤で、主人公も観客も徹底的に癒されてしまうしかない。そんな山村の純朴さを体現するような、盲目の村娘を演じるシン・リーなる女優さんも素晴らしい。この山村でのエピソードは、この映画の中でも僕が好きな部分のひとつだ

 こうして主人公は心を入れ替えて街に戻り、冒頭の異種格闘技戦に話が収束していく。そのトリを務めるのが、日本の武術家を演じる中村獅童だ。で、これがウソみたいにオイシイ役なのである。武術家として主人公と心を通わせ、戦いの場でも終始正々堂々。何と瀕死の主人公の勝ちを宣言するのもこの日本人武術家という出来すぎとも言える描き方。これには昨今の日本と周辺国の関係を考えて、さすがにビックリしてしまった。まして「怒りの鉄拳」とは雲泥の差。

 だが、そもそも暴力の連鎖、憎しみの連鎖の空しさを描こうというこの映画に、あからさまな「反日」は似合うまい。一方でラストサムライ(2003)でのガイジン相手にセコく立ち回る卑小な日本人像をそのままスライドさせたような原田真人が、またまた地でやってるんじゃないかと思わせる(笑)好演。中村と言い争う場面でも日本語の台詞の中についついイヤミに英語を混ぜてしまうような、「原田真人はこうでなくっちゃ」(笑)というこちらの期待に応える適役ぶりだ。そんな訳で…ハッキリ言って一方にセコい悪役日本人・原田を置いたからこそ許された、中村の花も実もある日本人武道家の描写だとは思う。

 だがそれでも…オイシすぎる中村の役柄設定は、この映画を単細胞的な対立や憎しみ、復讐のカタルシスとは無縁のモノにしたいという作り手の意図を如実に表しているはずだ。でなければ、最後の最後の決着まで、この日本人武道家に付けさせる訳がないだろう。僕はハリウッドでも「フレディVSジェイソン」(2003)を撮っているというロニー・ユーなる監督の事は知らなかったが、この映画のバランス感覚にはちょっと好感を持った。

 そしてこの映画は、回想シーンでの思い上がっていた時代の主人公を巡るエピソードと問題のセコい日本人の原田以外では、性根の部分で気持ちのよい人物ばかりが出てくる。主人公を親身に支える幼なじみの親友のエピソードを見よ。ひなびた山村で主人公を癒す盲目の娘を見よ。もちろん儲け役の中村獅童演じる日本人武道家もしかり。それどころか、上海のテントで中国人をバカにしていたアメリカ人レスラーですら、戦いの後では主人公に感銘を受けて彼を賞賛するのだ。こんなに人間の善意と誠実さを真っ正面からうたう映画も、冷笑こそが支配的な昨今の世の中では極めて珍しいのではないか。フェアであることの大切さを、これほど直球で語る映画は珍しい。

 その意味ではまるで「少年ジャンプ」のモットーである「友情」「努力」「勝利」みたいで(笑)、いささか辟易する向きがあるかもしれない。ジェット・リー主演の中学生並みの知的レベルの映画と、冷淡に片づけられてしまわれそうな気がする。だがそんな向きには、あの山村での描写を見ていただきたい。あの圧倒的な土地と自然があればこそ、そんな「直球ぶり」も付け焼き刃には終わっていない。あれがあるから、この映画は説得力を持ち得ていると僕は思うのだ。それは中国という国だけが持てる、圧倒的なリアリティだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

見た後の付け足し

 そんなこんなで「少年ジャンプ」的なイイ意味での素朴さを持ったこの作品。そこにあまり大げさな意味やテーマを求めるのもヤボというもの。だがこうも気持ちいい性根の登場人物ばかり配置するだけでなく、わざわざフォ・ユァンジャ=霍元甲伝説の最後を忌まわしく彩る日本人元凶説を、フェアプレイ精神の持ち主たる日本人武術家を登場させて刷新しているというのは、やはりかなりメッセージ的なモノを感じさせずにはおかないだろう。それはおのずから…なぜか奇妙な事にほぼ同時期の作品、スピルバーグのミュンヘン(2005)、クローネンバーグのヒストリー・オブ・バイオレンス(2005)と呼応しているかのように思えるから不思議だ。洋の東西を問わず…しかも片やハリウッドのヒットメイカー、片やカナダ出身の鬼才、そして今回の中国の活劇映画人…とまったく土俵を異にする人々が、ほぼ同時に同じようなメッセージを持った作品を放ったということは、映画が時代の産物であることの何よりの証ではないだろうか。

 ともかくどこを取っても気持ちのよい作品だ。それはラストに至っても徹底している。僕は見ていて唯一、あれだけ世話になりながら別れて来た山村の盲目娘ユエツーが気になっていたのだが、映画の作り手はちゃんとそのへんをわきまえていた。

 この世の命は絶たれても、使命を全うした主人公は魂の形であの山村に戻っていく。そんな主人公の魂を、あの盲目の娘は「心眼」で気づいて笑顔で迎えるのだ。これが夢なら醒めないで…と思いたくなるような幕切れ。

 それはハッキリ言ってファンタジーだ。幻に過ぎない。だがこの世に完璧な平和が訪れるのも、おそらくは見果てぬ夢であり幻だろう。それを夢見るのは決して無駄ではない。

 完全なファンタジーながらハッピーエンドで終わる幕切れこそ、この映画に真に相応しいものだと思えるのだ。

 

付け足しの付け足し

 エンディングに聞こえてくる安いハードロックみたいな歌が全然映画と合ってないなと思ってたら、よくよく聞けば歌詞は日本語ではないか。おそらくオリジナルの曲をはずしてコレを入れたに違いない。その結果がこの興ざめな安いロックとは。好感の持てるしみじみとしたエンディングが見事にブチ壊し。ワーナー・ブラザース日本支社は「ビッグ・ウェンズデー」での失敗から何も学ばなかったのか。当時エンディングで日本語の歌が流れたとたん、劇場に集まった若い観客たちが一斉に椅子に蹴りを入れていたのを忘れたのか。もちろんオレも若かったから蹴りを入れた(笑)。この安いロックといい「SPIRIT」という寒いタイトルといい、センスなさすぎ。しかもこのウソの英語題名をわざわざフィルムに焼き込ませるという目に余る悪質ぶりだ。

 それだけじゃない。本来だったらフォ・ユァンジャ伝説の中では日本人は悪役扱いであるはずのところを、中村獅童の役どころの好意的な描かれ方につけ込んで、まるで「ラストサムライ」よろしく“美しく誇り高き日本人”映画みたいに宣伝するとは…姑息な手を使うにも程がある。いくらバランス考えて作り手が好意的につくってるとは言え、恥ずかしいとは思わないのか。原田真人みたいなセコいマネをするな(笑)。ここでは中村獅童の最後の台詞が一番ふさわしいだろう。

 「オマエらは日本人の恥だ!」

 

 

 

 

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