「マンダレイ」

  Manderlay

 (2006/03/27)


  

今回のマクラ

 野球世界一を決める国・地域別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」は、めでたく日本の優勝で幕を閉じた。さすがに僕も最後の韓国戦、そして決勝のキューバ戦はテレビで観戦して大いに興奮。かつ溜飲を下げたものだった。

 ただ、王ジャパン世界一はまことにめでたいが、実際にこれで日本野球が世界最強かどうかを云々するのはどうかと思う。というより、これでハッキリしたのはせいぜい「日本野球も世界レベルにある」という事だけではないだろうか。それと同時に、むろんキューバも強いし韓国だって強い。また比較にはならないかもしれないが、メキシコもカナダもそれなりに強かった。それなりの選手が本気を出して戦ったら、どこの国もそれなりの強さを持っているという事がハッキリしたように思う。元々が勝負は時の運。おまけに何が起きるか分からない短期決戦だから、これでどっちが強いかを云々するのは難しいだろう。

 それとは対照的に、これはハッキリと弱いと分かってしまった国がある。アメリカだ。

 何しろ野球発祥の国であり大リーグの国だ。今回のWBCだってアメリカ主導で行われた。どこかの国の読売巨人軍以上に「球界の盟主」としてのプライドだけは高かったはず。また、誰しもアメリカが優勝戦線に食い込んで来るものと思っていた。

 ところが情けないとしか言いようのない敗退ぶり。それもカナダ、メキシコと大リーグからは明らかに「格下」と見られていた相手に惨敗だ。おまけに勝った日本戦も、審判による「疑惑の判定」試合。この審判はメキシコ戦でもあからさまな身びいきジャッジをして…それでも勝てなかったのだから、その弱さはもはや「本物」だと言えよう。誰がどう言ったって弁護のしようがあるまい。

 そんな弱いアメリカに誰がした…と言いたいところだが、その理由は何となく分からないでもない。やっぱり単純に奢りがあったと言うしかないのではないか。あるいは井の中の蛙だったところもあるだろう。ともかく野球こそアメリカン・スタンダードがグローバル・スタンダードだったはずなのに、実はいつの間にかアメリカの方が世界基準から脱落していたのだ。考えてみればここ数年大リーグが日本人選手を血眼に採っているあたりからして、もはやその傾向は明らかだったのかもしれない。

 にも関わらず…今回のWBCではアメリカ大リーグがその収益の7割ぐらいを持っていくというから、アメリカ人の恥知らずぶりにあきれてしまう。そして決戦の舞台もアメリカ。おまけにあのインチキ審判。そもそも国際試合なのに対戦チームの一方の国の審判だけが立つというのは、どう考えてもおかしいだろう。こんなあからさまなズルを平気でしゃあしゃあと出来る国に成り下がるとは、「自由と民主主義の国」アメリカもずいぶん落ちたものだ。

 まぁ、自国のプロ野球ナンバーワン・チームを決めるだけの試合を、事もあろうに「ワールド・シリーズ」と名付ける図々しさを考えても、この国の驕り高ぶった態度がミエミエ。今シーズン、大リーグでは一体どのツラ下げて「ワールド・シリーズ」をやるのか…考えるだに相当寒々しいものがあるが、こういった考え方そのものがアメリカ大リーグの病巣なのではないだろうか。こういう国が世界基準を名乗っちゃやっぱりマズイだろう。

 まぁ、そんな「野球大国」のお株を奪っての世界一。王ジャパンが崖っぷちスレスレでも諦めずに、チャンスを一か八かでモノにしたその偉業ぶりは確かにスゴイ。これで日本が大いに鼻高々になるのは大変結構だが、先にも述べたように「これで世界最強」などと思い上がったらチャンチャラおかしいことになるだろう。むしろこれまた「格下」と思っていた韓国に最初に2回負けている事を考えたら、実はまったく笑ってられないというのが本当だ。いや、もうヤバイかもしれない。

 「アメリカ大リーグ病」は伝染する。これは牛の背骨を取り損なったり検査を怠ったりしなくても、いとも簡単に伝染してしまう。相手を「格下」と簡単に見下すようになった時、傲慢という毒はすでにもう回っている。

 アメリカイズム・イコール優秀さではないことが明らかになった今こそ、我々はいいかげん目を覚ました方がいいのではないだろうか。

 

見る前の予想

 ラース・フォン・トリアーの前作ドッグヴィル(2003)は、彼にして初めて「作り手の自分の顔」が見える作品に思えたので、彼の作品としては珍しく好感を持った僕だった。そんな「ドッグヴィル」がアメリカに関する三部作としてつくられた事は知っていたから、新作がまたアメリカのお話になる事も分かっていた。おまけに三部作通じてのヒロインとしてニコール・キッドマンを起用しながら、一作目「ドッグヴィル」だけで降りてしまった事も知っていたから、今回は新たな女優がヒロインになる事は予想していた。果たしてその女優は…あのヴィレッジ(2004)で注目された新星ブライス・ダラス・ハワード! これにはさすがに、トリアーの目の付け所に関心せずにはいられない。こいつきっと人間としてはイヤな奴だろうけど(笑)、映画づくりの勘はスゴイものがある。やっぱり今回の映画も、見に行かずにいられないモノを持っている。

 だが…「ドッグヴィル」の時には懸念していたものの、見たらすっかり乗せられてしまった方式…ノー・セット、ノー・ロケーションによる演劇的な撮影方式を、今回も全編で採用していると聞いて腰が退けてきた。正直言ってまたアレを見せられるのかと思うといささかシンドイ。「ドッグヴィル」一作だけなら付き合ってもいいが、またアレかよ…とちょっと辟易してしまうのは事実だ。しかもどうせまたぞろアメリカ批判映画だろう。そうなると、見る前からどんなモノだか知れてしまいそうで気分が萎える。

 コレ、本当に面白いのだろうか?

 ここだけの話、トリアーという「ビッグネーム」と彼が前作「ドッグヴィル」で見せた新たな顔、さらに新星ブライス・ダラス・ハワードのみの期待で見に行ったような次第。例え面白くなくとも、とりあえず押さえておく必要はありそうだ。

 

あらすじ

 前作の最後でドッグヴィルの町を地上から消し去ったグレース(ブライス・ダラス・ハワード)は、ギャングのボスである父親(ウィレム・デフォー)と共に南部へ向かっていた。実はグレースの父親のギャング団は新興勢力に追われ、新たな活躍の場を求めて部下たちとクルマで移動していたのだ。元々折り合いが悪いグレースと父親の関係が閉ざされた車内で徐々に悪化していく中で、「それ」はやって来た。たまたま通りかかった巨大な農園の門の前で、一人の黒人女がグレースに助けを求めて来たのだ。それも、今にも彼女の仲間の男が、農園の主人にムチ打たれるという。そう聞くと黙ってられないのが、グレースの困った性分。父親は「他人の問題に首を突っ込むな」と忠告するが、次の瞬間にはグレースは農園の中に足を踏み入れていた。

 何とこの農園の中では、70年も前になくなったはずの奴隷制度が維持されていた。縛られていた黒人男を解放したグレースは、父親のギャング団の力を背景に女主人(ローレン・バコール)を威嚇し農園を制圧。これがショックになったか寝込んだ女主人は、ベッドでみるみるうちに死にかける。女主人はベッドのマットレスの間に隠した本を焼き捨てるように懇願するが、それを「旧悪をなかった事にしようとしている」とみなしたグレースは拒絶。こうして女主人の死と共に、グレースは黒人たちに「自由」を宣言する。これでめでたし…と「マンダレイ農園」を後にしようとするグレースたちだが、どうもイマイチ黒人たちに自由になった喜びが感じられないのが気にかかる。すると、グレースの前に彼らの長老格であるウィレルム(ダニー・グローバー)がやって来るではないか。「みんなから、ぜひお礼を申し上げたい」

 こうしてウィレルムから農園内に引き入れられたグレースは黒人たちと対面するが、すぐに自分が招かれた真意を理解した。彼らは「自由」を手に入れても、それをどう使っていいか分からない。外に出ても、外の暮らしにすぐには順応出来ない。しかも白人の使用人たちが新たな「契約書」を持ってくると、内容も見ずに丸飲みしてサインしそうな勢いだ。

 そんな様子を見たグレースは、当座この農園に留まる決心をした。それを聞いた父親は唖然とするが、「良いこと」のためにはテコでも動かないグレース。結局彼女の決意の強さに折れた父親は、4人の部下と弁護士を置いてその場を立ち去る事にした。

 グレースたちの初仕事は、新しい契約書の作成。彼らはギャングの銃の力で農園を制圧し、ここに新たな秩序をつくるために居残った。こうしてグレースは自ら監督役となり、次の収穫の時までこの農園を守ることにしたわけだが…。

 

前作までのあらすじ

 「ドッグヴィル」は、ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)でアメリカン・エンターテインメントの象徴であるミュージカル形式をとりながら露骨にアメリカ批判を見せたラース・フォン・トリアーが、またまた実験的精神でアンチ・アメリカぶりを見せつける三部作の第一作だった。でっかいステージにセットもロクに建設せず、演劇的手法で描いていく実験的試みはいかにもだったが、まぁ、それも純粋に「寓話」としての訴求力を高めるためのやり方と考えれば意図は分からないでもない。ただ、毎回毎回アメリカ・ハリウッドのスターを大量投入して、それでアンチ・アメリカと声高に叫ぶのはいかがなものか。何かとアメリカの話を撮りたがり何かとアメリカのスターを連れてくるのは、実はハリウッド映画やハリウッド・スターが好きだからじゃないのか。そう考えていくとトリアーのアメリカ批判っていうのは、どこか近親憎悪にも似た屈折ぶりや病んだ精神を感じさせてしまう。だからアンチ・アメリカという主張に同調するのはやぶさかではないが、何となくそれはそれで付き合いきれないな…と思ってしまうのだ。それに本人がアメリカ人でもないしアメリカに特に虐げられているわけでも恨みもないだろうに、毎回毎回ネチネチとアメリカ批判というのも何だか訳が分からない。一体何のためにそんなにアメリカの病巣をえぐって、何のためにコキ下ろしているのか。別にアメリカの応援をしようというサラサラないが、ある意味「人ごと」のはずのアメリカの事を、テメエはまったく土もかぶらないし汚れないポジションからボロクソに叩いているのは、ちょっと男らしくないんじゃないかと思うんだよね。いくらアメリカの病を巧みに描いてみても、それに鋭い言及がなされていても、「だから何なんだ」というのが正直な気持ちだった。アメリカがクソなんて事は誰でも知ってるよ。

 むしろ映画をつくる際のアレコレを見ていると、本来はヨーロッパのローカル監督でしかないトリアーがハリウッド・スターを使いたがるあたりのアンヴィヴァレントなおかしさの方が目立つ。やっぱり僕にはこいつって、アメリカ好きを必死に隠している奴にしか見えないのだった。あるいは昔付き合っていた女をアメリカ男に寝取られて逆恨みしているとか(笑)、何だかロクな動機ではない気がした。

 そんな正直言って辟易…のはずの「ドッグヴィル」だったのだが、実は僕はかなり楽しんだ事を告白しなくてはならない。

 青臭い田舎の高校の映研でもやらなそうな、セットもロケもなしでスタジオの床に線を引っ張っただけという状況の実験的撮影が…実はかなり効果を挙げていたから驚いた。退屈して難行苦行になりそうと覚悟していたら、ドラマの迫力に圧倒されて全く退屈しなかった。本当に面白かったのだ。非常にシャクな事ではあるが、改めてラース・フォン・トリアーの演出力に恐れ入る結果となってしまったのだ。これにはスッカリ驚かされた。

 さらに注目すべきは…「ドッグヴィル」に出てきたポール・ベタニーのキャラクター。自分じゃ頭もいいし志も高い、良いこともやってる気になってるけど、実はゲスな俗物…という何とも皮肉な役柄。この人物が、「ドッグヴィルの事を本に書く」だの「三部作にする予定」だのと言い始めるに至って、僕は不思議な気分になったのだ。ひょっとしてこのベタニーって、トリアー自身の自画像ではなかろうか。で、もしそうだったとしたら、トリアーが初めて少しは自分の事を謙虚に語り始めたのではないか。そんな気がしてきたのだ。

 その強烈なビジュアル・イメージ、コンセプト、演出力で群を抜いているトリアーが、当代一流の映画作家だという事に全く疑いはない。だが今まで彼の作品を好きだったかと言うと、最初に見た「エレメント・オブ・クライム」(1984)以外は正直言って好きな映画とは言いかねた。「奇跡の海」(1996)も見るのがツラかった。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に至っては吐き気がした。そう言うと、「微温的で小市民的な映画が好きな奴には受け入れられないんだよ」…なんて短絡的にしたり顔で言ってくる輩もいそうだが、そういう問題じゃねえんだよ。生理的にダメなものはダメなのだ。

 で、「ドッグヴィル」を見て今までになく好印象のトリアー作品を見た思いがした僕は、これみよがしのアメリカ批判が必ずしもトリアーのイヤミな部分ではない事に気づいた。それを言うなら「ドッグヴィル」自体がかなりわざとらしいアメリカ批判映画だ。

 では何がトリアー映画のイヤなところだったかと言うと…おそらく彼の偉そうな態度が見え隠れするところがイヤだったのではないだろうか。まるで自分が神みたいな態度でヒロインを不幸のどん底に叩き落として、世の中の醜悪さをこれでもかと露悪的に暴き立てる。「ほらほら、世の中なんて所詮そんなもんなんだよ、人間なんてみんな汚ねえんだよ、オレ様には分かる」とか得意げに語るトリアーの姿が透けて見えてくる。そりゃ大変結構なこった。

 だがトリアーだって世の中のすべての事が分かるほど賢人ではあるまい。カンヌ映画祭のナントカをとったからといって、それで世の中全部お見通したぁ片腹痛いぜ。人間の事がすべて分かるなんて思って欲しくはないし、それをオマエに言って欲しくもない。トリアー、オマエは汚ねえ人間かもしれないが、世の中みんな自分と同じくらい汚ねえ人間ばかりと勝手に決めつけるな。汚ねえのはオマエだけだろ。一緒にするな。

 そもそも世の中の醜悪さやアメリカの悪口を言う時でも、自分に対する反省も内省もまったく無し。まるで高みの見物みたいに自分だけ絶対に傷つかない場所に避難した上で、世の中や他人をボロクソにケナすその態度が男らしくねえんだよ。アメリカはクソだ、人間はクソだ、世の中がクソだという事はよく分かった。それには少なからず同意しないでもないオレだが、ではトリアー…オマエ自身は一体どうなんだ。オマエは神様か賢人か、それともカンヌ映画祭のパルム・ドールか。それがそんなにエライのか。本気でそう思ってたら、オマエも相当な俗物だぜ。人を踏みにじって嘲笑・冷笑しツバひっかける資格がオマエにあるのかトリアー!

 オマエ一体何様なんだよ。

 ところが「ドッグヴィル」では、まるでトリアー自身を反映したようなポール・ベタニーが出てくる。こいつがもっともらしい事ばかり言って実はまるで何も分かってない。おまけに偽善者でスケベ根性で頭が一杯の俗物。なるほど、これなら分かる。ドッグヴィルの住人を、アメリカをコキ下ろそうがよく分かる。最後にヒロインの偽善を思いっきり暴き立てても理解できる。トリアー、オマエもこいつらと同じだと言いたいんだろ。それならオレだって納得できる。オレはそんなアンタの言葉を聞きたかったのだ。

 相変わらず人間すべての醜悪さの暴露が最終的にアメリカ批判に矮小化されて収束してしまうあたりに若干の不満は感じるものの、トリアーが初めて見せた自らの姿らしきものには共感してしまった。だから「ドッグヴィル」には僕は初めて好感を持ったのだと思う。唯一気になったのは…やっぱり最終的にアメリカ批判以上でも以下でもなくなってしまうあたりだろうか。アメリカ批判がイヤという訳ではない。アメリカが悪い…と言ってりゃ済むみたいな発想が、いささか単純すぎやしないかと思ったわけだ。だって「これはどこのいつの話」と特定しないかのようなギリギリのセットをわざわざスタジオにつくって、一種の例え話や寓話みたいに見せているではないか。我々人間すべてに関わってくる問題だと見せているではないか。そこまでやっておきながら「アメリカの話でした」と言うなら、最初からアメリカ・ロケするかアメリカのセットをつくればいい。もっと大きい問題として見せられるし、明らかに見せようとしているように思えるのに、なぜわざわざ狭苦しく卑小なテーマに見せるのか。

 これだけ深くて強烈なテーマ、アメリカが嫌いとだけ言って終えてしまうのはもったいなくはないか?

 

見た後での感想

 ニコール・キッドマンにフラれたヒロインのグレース役に、「ヴィレッジ」で注目の新星ブライス・ダラス・ハワードを起用。さらに前作とつながりがある役なのにキャストを入れ替えたウィレム・デフォーなどの一方で、なぜか役が変わっているのに再登板のローレン・バコールクロエ・セヴェニーなどもいる。レギュラーのジャン=マルク・バールウド・キアの出演はお約束だ。またまた「ドッグヴィル」同様にスカスカの最低限のセットで展開するドラマは、同じように不条理でグロテスクなドラマに発展する。

 もう僕らは「ドッグヴィル」のラストでグレースが殉教者などではなく、殉教者を気取った「分かってない奴」であり、実はタチの悪い偽善者がその正体であると知っている。だから今回のグレースは、その路線をさらにエスカレートさせていくわけだ。自分が良かれと思ってやる事のひとつひとつが、最悪の結果を引き起こしていく。大して物事が分かってないのに分かった気になっているから、思いっきり周囲にとってはハタ迷惑。青臭い非現実的理想主義と単細胞的発想、さらに客観性と自己批判能力の決定的な欠如。そしてなまじっか力を持っているのが運の尽き。これらによって、本人は大真面目に黒人解放をやっているつもりが、まるで的ハズレな展開になっていく。そんなグレースの姿は、誰がどう見たってブッシュによるイラク政策を思い起こさない訳がないだろう。解放したと思っているのは本人だけで、実際は状況を泥沼化しているだけ。何より自分が誰よりも賢く正しいと思いこむ無知と傲慢が痛々しい。確かにこれは今日のアメリカの罪ではある。

 ラスト・クレジットは前作同様に、アメリカの「現実」を写し出した写真のモンタージュ。そこにデビッド・ボウイの「ヤング・アメリカン」が流れるという具合だ。中にはKKKのリンチ写真やらロドニー・キング事件のビデオ映像も含まれ、あげくの果てにミュンヘン(2005)よろしく世界貿易センタービルをとらえた写真まで出てくる。言いたい事は明白だ。

 だがやっぱり今回も、前作と同じ疑問が頭をもたげる。確かにアメリカの悪はよく分かった。そのアメリカの諸悪の根元は、人種差別やキリスト教原理主義的発想とつながった暴力だ。このあたりはクローネンバーグのヒストリー・オブ・バイオレンス(2005)にも通じるテーマだろう。誠実で善良なアメリカン・ウェイそのものからして、醜悪で血塗られたアメリカ的暴力の上に出来上がっているものだ、アメリカ的である事は暴力的である事と同じだ…。

 なるほど、まぁ五十歩譲ってそれは分かる。至極ごもっともな話ではあるが、またしてもトリアー自身の「立ち位置」が分からない。前作のポール・ベタニーみたいなキャラが出てこないから、彼はまたしても一人で火の見櫓に上がって高みの見物を決め込んでいるように思える。また偉そうな態度かよ。

 それにわざわざ「ドッグヴィル」同様に抽象性の高い最低限のセットで寓話っぽく見せているのに、何でまたぞろアメリカ批判…。これはスター・ウォーズ/エピソード3(2005)がブッシュのイラク政策批判に見えるという事とは全く違う。もっと大きい問題を語ろうとすべきはずの態度だろう。もっと僕ら人間すべてに普遍的な問題を扱うはずじゃないのか。そのための寓話性ではないのか。

 グレースの偽善を暴き立てる巧みな語り口といい、奇怪でグロテスクながらも説得力とリアリティ十分な展開といい、思いっきり強力でリアリティがあるだけに納得がいかない。もっと僕らすべてに共通するテーマとして見せるべきではないのか。

 

見た後の付け足し

 不思議なのはそんな疑問が頭をもたげながら、何だかんだ言って今回の映画も面白く見れたこと。確かにトリアーは偉そうではあったが、前ほどそれが鼻につく訳ではない。そしてなぜか、単細胞的アメリカ批判一辺倒にも思われなかった。それはなぜか。

 実はこの映画の面白さは、グレースの人道的黒人解放が徐々にブッシュのイラク政策に見えてくるところばかりではない。むしろもっと他のところにこそ面白さがある。…いや、怖さと言うべきか。

 グレースが黒人たちに施してやる開放政策のひとつひとつに、実は黒人たちはハタ迷惑そうだ。最初から嬉しくなさそう。実際一から十までグレースのアホ発想によるハタ迷惑でしかなかった事は証明されてしまうのだが、そもそも黒人たちは最初から「自由」になどなりたくなさそうなのだ。これは一体どうした事なのか?

 そこでダニー・グローバーの長老が語る「周りがまだ奴隷解放の準備が出来てない」…という言葉は、今に至るアメリカの人種問題への痛烈な一撃なのだが、それはまた別の話。彼らがむしろ「不自由さ」の続行を求めて、理不尽なはずの「ママの法律」なる私的奴隷制を再び施行するあたりは、一体自由って何なのか?…という永遠の命題を提示してすごく刺激的だ。

 それと言うのも…今までずっと尊いモノとされてきた「自由」が本当に僕らを幸せにしてくれるのか、実は甚だ怪しくなって来ているからではないか。

 抑えつけられていることがいいとは思わない。だが抑えつけられていたモノのタガがはずれた後、一体物事に抑えは効くのだろうか。例えばソ連の崩壊で東西冷戦が終わって、僕らはこれから本当に平和な時代が来ると思った。だが、そんな期待はもろくも崩れて、紛争の火種は世界に散らばってしまった。今はどこで何が起きるか分からないテロの恐怖の時代だ。昔よりも危険な時代になって、平和はずっと遠のいてしまった。みんなが夢想していた幸福は、全くの絵に描いた餅だった。こんな事なら、まだソ連が元気な方が良かったのではないだろうか?

 いやいや、そこまで大げさな話にしなくてもいい。もっと身近なところで、僕らは「自由」によって不幸せになっていないか?

 恋愛の障害がなくなった今日、人生を賭けるに値する愛はあるのか。もっと自分に相応しい恋愛、自分に相応しい相手を…と探し続けて、結局どれにも満足できずに無限に彷徨ってはいないか? 大体が自分にそんな価値があるのかという疑いもなく、相手にだけ高望みを押しつけてはいないか?

 人生を抑えつけ可能性を摘む要素が極端に減った結果、僕らは自分の可能性を過信してはいないか? 自分の価値に見合ったやり甲斐のある職業、生き甲斐のある人生などを求めたあげく、どこにも存在しやしない「それ」をいつまでも虚しく探し続けてはいないか? 大体、自分に「自由」である価値や実力があるのだろうか?

 「自由」は僕らを幸せにしてくれるのだろうか? 実は「自由」は僕らを「不自由」にしているだけではないのか?

 この映画を見ていてふと気づいたこの「自由」の「不自由」さは、僕の血を一気に凍らせた。なぜなら、その空疎さはまさに僕の人生そのものだからだ。僕は自分の今までの人生の中で、あれもこれも「自分に合っていない」「自分に相応しくない」などとポイポイ捨てて次にいった。だが、果たして僕自身に選り好みをする価値があったのか? そもそも選り好みをする必要があったのか。そこそこ妥当なところで満足すれば十分幸せだったのに、選り好みできるから選り好みしなくては…と「しなくてもいい」選り好みをしてしまったのではないか? そして人生の時間をただ無駄に使い果たしていたのではないか?

 昔からあった「自由」を縛るモノがすべていいとは思わない。むしろなくなって良かったモノの方が多いだろう。しかしそこにあった「束縛」や「重荷」や「拘束」や「障害」の中には、実はそれなりに必要なものもあったのではないか?

 それであってはいけないはずなのに、そうではないと言い切れない。残念ながら、その中にかなりの割合でホントの部分が含まれているような気がする。考えたくはないが、確かにその可能性を否定できない。僕がここまで生きてきて、山ほど失敗を重ねた上で…もはや手遅れになった今気づいた真実は、残念ながらそんなような事だ。その恐ろしい事実に、この映画はズケズケと言及しているような気がする。

 いや、結局これはこういう事なのだろう。…本当は、自由とは純粋に心の問題なのだ。状況はどうあれ、精神だけは個人の力で自由になれる。逆に言うと、形だけ「自由」になれても、それは真の自由ではない。だから真の「準備が出来てない」ままでの「自由」など、結局は別の「不自由」さを生み出すだけだ。我々は「自由」になったと思い込んでいるだけなのだ。

 そして、だからこの映画は単に「アメリカ」なんて狭い話をしたいだけではないと確信する。これは僕ら全体の普遍的な問題だ。我々みんなが現代的で世界的な価値観の中で、「自由」な「不自由」さの中に溺れようとしているのだ。

 では、「ドッグヴィル」にあったはずのトリアー自身を反映させた部分が、今回影を潜めている事はどうだ? 実は全作でブザマで情けない自分の姿をポール・ベタニー演じるキャラに投影させたトリアー。今回はそんなキャラがないじゃないか…と思いきや、いやいや、ちゃんといるではないか

 高邁な理想を掲げていたつもりが、結局頭の中はスケベ心で一杯。

 何の事はない、今回は主役のグレース自身がそのキャラクターだと言えなくはないか。本音部分の描き方の容赦のなさは、前作のポール・ベタニーに通じる部分だろう。何よりヒロインのグレースはみんなを「指揮」し、「指導」する人物ではないか。その方向が間違っているなんてこれっぽっちも思わず、集団をパワーを行使して「ディレクト」していく。まさしく彼女こそ「ディレクター=監督」と言って間違いあるまい。ちなみに「監督=director」は「独裁者=dictator」に限りなく近いとは思えないだろうか。何より無茶な要求でスタッフ・キャストを追いつめていく事で定評があるラース・フォン・トリアーだ。前作で当のグレース役を演じていた二コール・キッドマンに逃げられたのも、トリアーの何かがそうさせたに違いない。ラスト近く、狂ったようにムチ打つグレースの姿には、そんなトリアーが別の形で反映されているような気がするのだ。

 それでも…またしてもボウイの「ヤング・アメリカン」を流して「単にアメリカのお話」と幕を閉じるこの映画に違和感を感じる向きもあるだろう。だがこの映画をつくったラース・フォン・トリアーはデンマーク人だし、見ている僕らも日本人だ。何だかんだ言ってもアメリカの事は自分たちとは関係ない。黒人差別もお呼びでない。身につまされる事もない人ごとでしかない。…だが、本当にそうだろうか?

 アメリカン・スタンダード=グローバル・スタンダード。

 いまや望むと望まざるとに関わらず、世界中の誰もがアメリカナイズした考えかたを受け入れ、それに甘んじなければならない。勝つ事が美徳とされ、カネだけが価値判断の基準とされる考え方は、一体どこから入ってきたのか? 何でも「自己責任」の一言で切り捨てられ、ダマされる奴はバカで終わってしまう考え方はどこから入ってきたのか? とにかく自分の主張を言い通し、自分が正しくて悪いのは全部他人と言い張る事が善とされる考え方はどこから入ってきたのか? 自分が得するためなら誰を蹴落としても足を引っ張ってもいいとされる考え方はどこから入ってきたのか?

 そんな考え方に…キリスト教国だけでなくイスラムも、ヨーロッパも中東も、イスラエルもパレスチナも、北朝鮮も、そして中国も韓国も日本も…そしてうら若い娘もイイ歳こいたオッサンも、株屋から不動産屋からIT産業で食ってる連中からリフォーム屋まで、みんなみんな見事にドップリ浸かっているではないか。お上の主導で地方の町や村はバッサリ切り捨てられる。お上の公認で、個人の店や商売人は大資本や大型店舗に吹っ飛ばされる。お上の方針で弱っている人々や困っている人、危機に直面した人もバッサリ切り捨てられる。強ければいい、デカきゃいい、ウケればいい。儲かればすべて許される。勝者こそが善だ。

 それこそが、げに忌まわしきアメリカン・スタンダードではないか。銃を持って人を撃っていい国の流儀ではないか。今やアメリカの問題は、悲しむべきことに全世界の…我々自身の問題になってしまった。決して人ごとではない。だからアメリカン・ウェイを批判する事は、アメリカをコキ下ろす事だけを意味してはいない。

 アンチ・アメリカ…それは今の自分たちにノーを宣言する事なのだ。

 

 

 

 

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