「ナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女」

  The Chronicles of Narnia
  - The Lion, the Witch and the Wardrobe

 (2006/03/13)


  

見る前の予想

 「ナルニア国ものがたり」全七部作の完全映画化のニュースを聞いた時、僕は来るべきものが来たな…と思った。

 「ハリー・ポッター」シリーズ(現在の段階では第4作炎のゴブレットまで・2001〜2005)が次々映画化されて、作品的にはともかく商業的には大ヒット。ロード・オブ・ザ・リング三部作(2001〜2003)はヒットしただけでなく作品的にもリッパな出来映えだ。それまで「おこちゃま向け」の安物映画だったファンタジー映画が堂々と娯楽映画の王道に躍り出たわけだ。これは安物映画の代名詞だったSF映画が、娯楽映画のメインストリームとなった「スター・ウォーズ」(1978)以来の事件だ。

 特にこのファンタジー映画ブームの場合、ひとつ顕著な特徴がある。それは当初から原作がシリーズとなっている事だ。

 実はかつてなら三部作、七部作の原作であっても、当初からシリーズ化は明言しなかったはず。1作目が当たるかどうか分からないからだ。だから当たったらシリーズ化するにしても、コケたらそこで何もなかったようにオシマイに出来るように…なんとなく腰の退けた作り方をしたはずだ。"The Lord of the Rings - The Fellowship of the Ring"という名の映画に「ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間たち」という日本語題名を付けなかった理由は、まさにそこだろう。ニュージーランドの映画製作者たちは当初から3本つくる気でいたのに、日本の配給業者は腰が退けていて、1作目がコケた事を考えて「単体」みたいなタイトルを付けたのだ。彼らにとって「ロード・オブ・ザ・リング」はそれほどリスキーな企画だった。

 そもそも長期シリーズ化して成功した例など、「男はつらいよ」などシリーズ映画の宝庫の日本映画界以外では「007」シリーズがあるのみだ。日本映画のシリーズにしたって、最初からシリーズにしたかった訳ではない。たまたま当たった映画に次々続編を制作していっただけ。だからジリ貧になって最後は悲惨な状況になるのが常。長期的展望などあろうはずもなかった。最初から「何作つくる」などと決めるわけもない。いや、むしろ決めたくない。

 ところが皮肉にも…最初からシリーズになっているという事が、企画貧困の今日のハリウッドではすこぶる嬉しい要素なのだ。ヒット映画を次々映画化できるネタが最初から用意されているのだ。仮にヒットしなくても、今ならばDVDにケーブル・衛星テレビにと副収入のアテはいくらでもある。そして、どこも慢性的ソフト不足に悩まされている。原作でソコソコ名の売れたファンタジー映画は、立派な収益源になってくれるはずだ。しかも7本も!

 おまけに映画化されたファンタジー・シリーズは、いずれもすでに世界的な規模でものすごい数の読者を掴んでいる。現在進行形の「ハリー・ポッター」はともかく、「指輪」と「ナルニア」は昔からの読者も含めたら天文学的な数字だ。それらの全員とは言わなくても、半数でも見たらどうなる? しかも彼らは例え作品の出来があまり芳しくなくても、何だかんだ言って最後まで付き合ってくれるのではないか?

 ファンタジー映画大流行の背景は、おそらくこんなところだろう。ここまではまず映画会社の事情。

 映画の作り手の側としては、何よりCG技術の発展がある。ハッキリ言って、今の技術では画面に出せないものはない。ファンタジー大作は戦闘場面やら天変地異やらスペクタクルな場面が売りになる。だがそれらをマトモにやったらカネがかかって仕方がない。というより、普通のカネのかけ方では映画にできない。

 仮にカネをどこまでもかけてよいとしても、これまでだったらどうしたって画面に出せないものだってあった。とてつもない大洪水やら空飛ぶ竜やらしゃべる動物を、どうやったら映画に出せるのだ? チャチな特撮やアニメで誤魔化すしかない。ハッキリ言って、それこそ「おこちゃま」の出番だろう。

 CGの発展は、それらを根底から覆してしまった。ならば今こそ映画化しない手はない。ファンタジー映画こそCGの天下なのだ。

 そして「ハリー・ポッター」や「ロード・オブ・ザ・リング」で、ファンタジーでも大人の客が大挙押し掛けることが立証された。カネになるソフトだ。ならば次は何だ?

 「ナルニア」しかないだろう。

 世界的に多数の読者を持ち、見せ場ヤマ場の連続の物語。しかもこの物語が全部で七つもある。しばらくは別の企画を思いつかなくてもいい(笑)。

 しかも「ロード・オブ・ザ・リング」によって、人件費が安くCG技術の高さを誇るニュージーランドという国がハリウッドに「発見」された。うまい事にニュージーランドには、ナルニアのような架空の国を創り上げるに都合のいい大自然がある。すべてにおいて、「ナルニア」スクリーン登場にピッタリの環境がお膳立てされたようなものだ。むしろその話が出ない方がおかしい。

 そして僕は、かつては「ナルニア」の映画化をずっと願っていた人間だった。

 

僕が初めてナルニアを訪問した時

 僕が初めて「ナルニア国ものがたり」の本と出会った経緯については、当サイトに収録のエッセイ私が子供だったころ岩波の子供の本の巻に詳しく書いてあるので、多少重複してしまうかもしれない。ただあまりに昔の話なので、僕はそれがいつの事だったか忘れてしまっていた。今、当時買った「ライオンと魔女」の本を見返してみると、奥付の発行年月日のクレジットに「1967年3月25日 第4刷発行」と書いてある。すると、たぶん僕が「ライオンと魔女」の本を手にしたのも1967年…僕がまだ小学校2年生の頃という事になるのだろうか。

 とにかく一気に読んだ。

 熱に浮かされたようにナルニアの虜になった。本当にナルニアがどこかにあるようなリアリティ…な〜んて、ありふれたキャッチフレーズみたいだが本当だ。いやぁ、実は今でもナルニアがどこかにあるような気がしている。そのくらい僕の脳裏に強烈に刻印された本だ。もっとも、それ以降現在まで何度読み返したか分からないから、いいかげん刻印されない方がおかしいか。だが実は強烈な印象は、その小学校2年の時からまったく変わっていないのだ。そんな本って他にあるんだろうか。僕がこれからどんな本や映画やその他何でもいいが「作品」と名の付くものに出会ったとしても、「ナルニア」以上に心に焼き付けられるものはないだろう。「ナルニア」は別格なのだ。

 そんな訳で「ライオンと魔女」に惹きつけられた僕は、それから次々とナルニア本を次々読み進んでいったわけだ。だから「さいごの戦い」で物語が幕を閉じた時は、何とも言えない寂しい思いがした。あんな気持ちになったのは、あの時が初めてだろう。

 そんな僕が小学校高学年になった頃、テレビでは洋画劇場ワクが全盛期を迎えようとしていた。今のように衛星放送やケーブルテレビ、さらにはビデオやDVDがある時代では想像も出来ないだろうが、当時は地上波(そもそも「地上波」しかなかったから、この言葉もなかった)の映画放送しかテレビで見られる映画はなかった。そして1970年代を迎えたばかりのこの時代、まだまだ映画は斜陽の時代から立ち直ってはいなかった。「映画は廃れた」という声さえ聞かれていた当時、唯一映画が輝きを放っていたのがテレビの洋画劇場だったのだ。この当時の状況については当サイト開設2周年記念企画遙かスクリーンを離れてに僕が書いたテレビ洋画劇場黄金時代をお読みいただければお分かりいただけると思う。ともかく民法各局が競って洋画劇場をゴールデン・タイムに設定し、古今東西(といっても当時はアジア映画は皆無だったが)の映画を玉石混交で垂れ流し状態に流した。

 先にも述べたように、この時代はビデオもDVDもなかった。年がら年中映画ばっかり放送しているケーブルテレビやペイテレビもなかった。逆に言うとこの時点まで、映画というものは公開時に映画館で上映された後は、ごく少数の例外を除いて全く省みられずに倉庫でホコリをかぶっているだけのモノだったのだ。「テレビ洋画劇場黄金時代」は、旧作映画に初めてソフトとしての価値が出た時代だった。

 そんなテレビ洋画劇場も1970年代中盤あたりには作品不足に陥り、大作話題作獲得のための放映権料の高騰、話題づくりのためのタレントの声優起用などが裏目に出て自滅していった。だがその前に「ゴッドファーザー」(1972)の大ヒットなどによるハリウッドの復活が始まり、少なくとも日本ではテレビ洋画劇場に育てられた世代が映画館へと足を運ぶようになった…ってな事情は、実は今回は関係ない。

 ただここで言わなくてはならない事は、この僕もちょうどその世代だと言うことだ。そして僕がテレビ洋画劇場を食い入るように見つめていた頃、まだナルニアは僕の中で遠い昔の思い出になってはいなかった。だから当然、僕はスクリーン上に(正確にはテレビのブラウン管上ということになるのだろうが)展開されるナルニアの冒険を夢見ない訳がなかった。ぜひ映画にして欲しかったし、そうなったら真っ先に見たいと思った。そして、ずっとそう願いながらも…洋画劇場を見ていろいろ映画に親しんでいくうちに、それは無理な相談だと思わざるを得なくなった。

 何しろナルニアの物語は壮大すぎる。そして映像化困難…当時はハッキリ言って不可能な内容だった。唯一の方法はアニメーションだったが、僕には最初からこの物語は実写でなければならないという気がしていた。神話上の生き物が実際に出てきたり、あるいは動物がしゃべったり、それをアニメで描いてもただのマンガだ。この話は実写で映像化しなければ、子供っぽくて見るに耐えないものになってしまう。だが一方で実写で映像化するには、技術がまるっきり追いついていない

 さらにこれだけ壮大なスケールの物語を、当時はおこちゃま向けでお金も十分かけられないファンタジー映画として製作するのは、かなり困難だと言わざるを得なかった。マーケットが限られているだけに子供だましな映画にしかなるまい。そしてお金がかけられないからチャチにしかならないはずだ。どうしたって安物映画になるのは間違いない。

 さらにさらに、そんなナルニアを本と同様7部構成で「映画」に出来るのか。このシリーズを1作目から7作目までつくり続けられるかというと、これまた甚だ怪しくなってくる。順当に考えるとテレビ・シリーズ化なら「アリ」とも思えたが、そうなるとなおさら予算は厳しくなり映像も安っぽくなる。少なくともあのスケール感は再現出来そうにない。

 だとすると、映画化はして欲しいと思いながら、ヘタな出来になるくらいなら最初からやらない方がいいと思わざるを得なかった。映画が好きでナルニアが好きな僕としては、その両者が結びつく事で悲しい結果になって欲しくはなかった。

 映画製作者たちもそう思ったのか、そもそも出来っこないと腰が退けたのか…ナルニアは映画界から手つかずの状態で、いつまでもアンタッチャブルな存在で居続けた。本国イギリスではテレビ映画になったというウワサを聞いたが、正直言ってそんなものを見たいとも思わなかった。先にも述べたがナルニアを映像化するなら大画面に限る。大画面と来れば、スクリーンしかない。だがおそらく、僕が生きている間はその実現を見る事はあるまい。いつしか映画を多く見るようになり、それなりに事情を知れば知るほど、僕が「映画版ナルニア」を見るチャンスは万に一つもないと思えた。そのまま映画版ナルニアは、僕の中で封印された状態になっていたのだ。

 そんな凍結された思いが、以来30年以上も経ってから解凍されようとは…。

 

見る前の予想・その2

 ここまで読んだみなさんは、いつも「原作ファンなんぞクソ」と言い続けた僕がモロ「原作ファン」丸出しで言うのはいかがなものか…と思われるかもしれない。まったくその通り。弁解するつもりもない。ここはハッキリ開き直らせてもらおう(笑)。だが、僕は決してよそでこれを言わない。ここは僕のテリトリーで領土だから言うのだ。申し訳ないが、ここは僕の好きにさせてもらう。イヤならここで立ち去っていただいた方がいい。それがお互い精神衛生上いい…というものだ。

 長い長い間、ナルニア・ファンにとって映画化は見果てぬ夢だった。確かに実現したら素晴らしいと思いつつ、どうせロクな結果にならないのだから実現して欲しくない…というような、屈折した思いに苛まれていたのだ。

 ところが世の中変わった。

 「それ」がディズニー映画「トロン」(1982)で初めて本格的にスクリーンに登場した時は、その技術が将来の映画を席巻するとは誰も思わなかった。僕が知っている限り「それ」が圧倒的効果を初めて上げたのは、ジェームズ・キャメロンの「アビス」(1989)だったように思う。やがて同じ監督の「ターミネーター2」(1991)でさらに飛躍的に発展。ついには恐竜を再現した「ジュラシック・パーク」(1993)を生むに至って、それまでの特撮の概念は根底から覆されてしまった。

 「それ」はCG技術だ。

 そして日進月歩する技術の発展は、ついに「ロード・オブ・ザ・リング」にまで辿り着く。こうなれば…遅かれ早かれ映画がナルニアに行き着かないはずはない。

 確かにCGならばナルニアを映画化出来る。そういう意味でファンが映画化を拒む理由もなくなった。今ならどこに出しても恥ずかしくないナルニア映画が出来る。…と思いながら、僕はまずイヤ〜な予感に襲われたんだよね。

 何とこのナルニア映画化、ハリウッドのディズニーが制作するというのだ。

 あの人口甘味料を使ったお菓子みたいな、マクドナルドのハンバーガーみたいなディズニー映画が、ナルニアを映画化したらどうなるのだ? どう見ても俗悪ハリウッド映画にしかならないのではないか。イギリス臭が強いナルニアとディズニーという取り合わせが、僕にはどうにも納得できない。何だかひでえ映画になりはしないか。

 そもそも「ハリー・ポッター」や「ロード・オブ・ザ・リング」で火がついた「ファンタジー映画ブーム」に乗って真打ち登場…というノリがどうにも僕にはしっくり来ない。「ファンタジー映画ブーム」なるものも、それに群がる連中も気持ち悪いが、そもそもナルニアって「ブーム」でつくられるべきものなんだろうか? ナルニア関連のマーチャンダイジング・グッズが街にあふれる事を想像していただきたい。むろんハリウッド映画は所詮ビジネスなのだが、それにしたって…。

 そのうち初のナルニア映画「ライオンと魔女」の監督が発表されたが、この人選がまたどうにも理解できないものだった。ドリームワークスで「シュレック」(2001)を撮ったアンドリュー・アダムソンだというのだ。まったく一体どこをどう叩いたら、こんな奴がナルニアを映画にするなんて発想が出てくるのか。

 世評ではやたら評判がいい「シュレック」だが、ハッキリ言って僕はこの映画が苦手。いや、苦手を通り越して大嫌い。生理的にイヤだ。全編に漂う品のなさ…今風に俗っぽくしてお客に媚びればウケるだろうという、作り手の品性の卑しさがイヤだ。僕は別に俗っぽい事が悪いと言っているのではない。途中で「マトリックス」のパロディをやろうが何をしようが問題はない。そうではなくて…俗っぽさを導入する理由が、単に「それくらいやっときゃイマドキの客にはウケる」という“だけ”の、あまりに単細胞的な安っぽい意図に留まっているあたりが恥ずかしいのだ。こいつは客をバカにしている。絶対に「チョロい」とナメている。おまけに「人を見かけで見てはいけない」というテーマのお話なのに、ラストで「悪役」の王様をやたら「チビ、チビ!」とバカにするくだりに至って、こいつが心底「人を見かけで見てはいけない」なんて事を思ってもいない偽善が丸出し。ここで作り手の品性下劣な正体がハッキリ分かってしまった。これって見ていた他の観客は気づかなかったのか。こいつは客も映画も見下しているのだ。この映画の作り手は間違いなく人間としてロクな奴じゃない。この映画だけは僕は許せない。ハッキリ言わせてもらうけど、みんなこんな映画見て喜んでちゃダメだよ!

 だからこのアンドリュー・アダムソンがナルニアを映画化すると聞いた時点で、この映画は終わった…と思ったのだ。なるほどこんな愚劣な奴に監督させようとはさすがディズニー。やっぱりセンスがないわ。

 そんな訳で「どうせダメ」の烙印を押した僕ではあったが、それでもやっぱりナルニア映画の動向は気になる。それに、やっぱりつくるからには成功して欲しい。撮影開始してからも監督がクビになるなんてザラだ。そうすりゃ映画が救われる可能性もある。また、どんなボンクラ監督でも何かの間違いで傑作を撮らないとも限らない。何だかんだ言って…僕はナルニア映画をどうしても諦めきれなかった訳だ。だから何とかしてマシな映画になって欲しいと願った。

 そんなある日、ひとつの朗報が僕の耳に飛び込んできた。何と「ライオンと魔女」の「白い魔女」役に、ティルダ・スウィントンが扮するというではないか!

 さぁ、ここでティルダ・スウィントンと言えば…デレク・ジャーマン作品で語ればいいのだろうか? それとも「オルランド」(1992)を引き合いに出せばいいのか? たぶんイマドキ映画ファンにとっては、キアヌ・リーブス主演のコンスタンティン(2005)での大天使役を挙げれば分かりやすいと思う。かつ、あの大天使役を見れば、彼女がいかに「白い魔女」役に適任かが分かる。

 実は原作本の挿絵を見ても、「白い魔女」はティルダ・スウィントンに似てなどいない。ハッキリ言って見た目で言えば、誰もティルダ・スウィントンに白い魔女を連想はしなかったはずだ。僕だって思いもしなかった。だけど「ティルダ・スウィントン=白い魔女」と聞かされたとたん、これ以上ないナイス・キャスティングと納得出来ちゃったから不思議だ。これは単に適役とかそういう問題ではない。一言でいうと、センスの良さを感じさせるキャスティングなのだ。「なるほど!」と膝を打つしかない素晴らしい配役。

 この時点で、僕はこの映画の成功を信じた

 こんなセンスのいいキャスティングが出来るなら、超愚作「シュレック」の監督がいようとも誰かがキッチリとこの映画のクリエイティブ・コントロールを行っているはず。さらに続報でスタッフの一部を知るうちに、僕はますます期待をふくらませるようになったのだが、そのへんは後述。ともかく僕にとって「ライオンと魔女」は、かなり期待できる企画にふくらんできたのだ。

 そして海外での公開を見た人や試写会での反応は、なかなか好評の様子。こうなれば、もはや一刻も待ちきれない。誰が何と言っても、公開初日に見る。いやいや、先行オールナイトの一回目上映に見る。そうでもしなければ我慢できない。僕はもうすでに40年近く待っているのだから。

 

 

映画版「ライオンと魔女」には原作読者にも意外な部分が多くあります。映画はできるだけ白紙の状態で見て、以降の部分は映画を見た後でお読みください。

 

 

つづく

 

 

 

 

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