「クラッシュ」

 (ポール・ハギス監督作品)

  Crush

 (2006/02/27)


  

見る前の予想

 ミリオンダラー・ベイビー(2004)の脚本家の監督デビュー作。この映画の存在を知ったのは、映画館でチラシを見た時のこと。その豪華キャストにも目を見張ったが、何よりこの映画が人間群像劇であることに興味を持った。後述するが、僕は人間群像ドラマに目がない男なのだ。群像ドラマと知って、この映画が無性に見たくなった。それからアカデミー賞ノミネートの話を知ったが、そんな事は正直言ってどうでもいい。トリノ・オリンピックの日本選手みたいに全部ハズしたところで関係ない。これは絶対に見なければ。

 

あらすじ

 「普通、街では人は行き交いながらぶつかったりする。だがここロサンゼルスでは、人はガラスや鉄の向こう側に隔てられている。だからみんなぶつかって、関わり合いたいと思っているんだ…」

 ロサンゼルス、夜。黒人刑事グラハム(ドン・チードル)といい仲の同僚刑事リア(ジェニファー・エスポジト)は、クルマの衝突事故に巻き込まれて立ち往生。ついフラフラとその場を離れると、近くで殺人事件の現場検証が行われているのに気づく。何の気なしに現場に立ち寄ったグラハム刑事は、そこで思わず目を見張って…。

 その、前の日。

 ノッポのアンソニー(クリス・リュダクリス・ブリッジス)とチビのピーター(ラレンツ・テイト)の二人組の黒人青年が、夜の街を歩いている。アンソニーは世の中の黒人に対する理不尽さに不平不満たらたら。前から歩いてきた裕福そうな白人夫婦が彼らを見て避けたらしい様子に、たちまち怒りをぶちまけた。早速、行動だ。アンソニーとピーターは銃を突きつけ、この裕福な白人夫婦…地方検事のリック(ブレンダン・フレイザー)と妻のジーン(サンドラ・ブロック)のクルマを奪って逃げた。

 銃砲店ではペルシャ人の老人ファハド(ショーン・トーブ)が、店主のあからさまな差別に苛立っていた。例の「あの」事件以来、イラク人と間違われる事が多いファハド。それで護身用に銃を買いに行ったら、またしてもこのテイタラク。たちまちファハドと銃砲店の店主との間に流れる険悪な雰囲気。元々、銃を買うことに反対だった娘のドリ(バハー・スーメク)もこれには手を焼く。挙げ句の果てにドリが勝手に弾丸を決めて買い込み、早々に店を立ち去ったのだが…。

 クルマ強盗に合った恐怖冷めやらぬジーンは、夫の地方検事リックに家中のカギを替えさせるように頼む。しかしやってきた錠前屋のダニエル(マイケル・ペニャ)を見てまたまた心変わり。ヒスパニック系のダニエルは信用できないと、夫リックに三たびカギを替えさせるようにわめき散らす。あまりに大声で露骨に有色人種への偏見を怒鳴り倒すジーンに、仕事を終えたダニエルは憮然とカギを渡すのだった。

 パトカーで巡回パトロール中のベテラン警官ライアン(マット・ディロン)と相棒の若い警官ハンセン(ライアン・フィリップ)。途中でライアンはいきなり裕福そうな黒人夫婦のクルマを停める。これはハッキリ言って、人種偏見に凝り固まったハンセンの憂さ晴らしだ。テレビ・ディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)と妻クリスティン(サンディ・ニュートン)は、ライアンによってしたたかに屈辱を受ける。さすがにこれには若いハンセンも辟易だ。さんざ辱められてから解放されたキャメロンとクリスティン夫妻だが、夫キャメロンにはさらに追い打ちをかけるような屈辱が襲いかかる。妻のクリスティンが「自分を守らなかった」とわめき散らし、夫キャメロンを「奴隷根性が身に染みついた男」とコキ下ろし始めたのだ。屈辱を受け傷ついたのは夫も同じなのに、妻は情け容赦なく責めまくる。夫キャメロンはさらにさらに深く傷つくのだった。

 錠前屋のダニエルは客先で受けたいわれなき中傷に、ウンザリする思いを抱いて帰宅する。それでも家で彼を待っていた幼い娘を抱きしめると、イヤな気分などたちどころに吹き飛んでしまう。そんな娘は近所で聞こえてきた銃声に怯えに怯えて眠れない。そこでダニエルは、かつて自分が妖精からもらった「透明のマント」を娘に譲ると告げた。銃弾を通さない魔法のマントと聞いて、娘はようやく安心して眠りにつくのだった…。

   

見た後での感想

 映画が始まって早々に、登場人物たちが人種の事で罵り合う。だから観客は開巻まもなく、この映画がハッキリと人種間の問題を扱ったものだと分かる。それは次から次へと登場人物が代わり、挿話が変わっても同じだ。確かにロサンゼルスという街は…などと語れるほど長く訪れていた訳ではないが、異邦人の目から見てもニューヨークと比べてさらに個々の人間の孤立の度合いが高いように思う。そこに人種の隔たりが加われば、なおさら冷え冷えとしたものがあるのではないだろうか。みんなクルマで移動するので道を歩く者など一人もいないとか、バスを利用しているのはクルマを持てない低所得者層だとか…貧寒とした街の様相と、それが人種問題に直結するあたりはまさにロサンゼルス。少なくとも、そのへんの冷え冷えぶりはかなり生々しく表現されていると思う。

 そして次から次へと登場するクセモノ豪華キャスト。何でも主演者の一人ドン・チードルがプロデューサーにも加わり、出演者口説きに一役買ったとのこと。映画を見る限り、そのセンスはなかなかのものだ。何しろブレンダン・フレイザー、サンドラ・ブロック、マット・ディロン、ライアン・フィリップ、サンディ・ニュートン、他の映画で今年のオスカー助演男優賞候補にのぼっているテレンス・ハワード…などなど。

 その中でも出色はお久しぶりねのマット・ディロンだが、その素晴らしさについてはまた後述するとして、プロデューサーとしてこれだけの顔ぶれを集めるのに一役買ったドン・チードル、いつの間にこんな超大物になったのか。ま、でもオーシャンズ11(2001)やオーシャンズ12(2004)のオールスター・キャストの一人でもあるわけで、着実に顔を売っていたんだろう。これまた後述するが一部のちょっと惜しい配役を除いて、ほぼ見事と言っていい布陣である。

 そんな中で監督であるポール・ハギスは、まずは脚本家として素晴らしい手際を見せている。こういうロジカルで複雑な構成を持つ作品は、どうしても脚本家が主導権を握ることになる。だからこの手の人間群像劇映画は、脚本家兼監督が撮る事が多い。そういう意味では、ハギスが監督デビュー作にこうした題材を手がけたことは正解だったと言えるのではないだろうか。複雑なエピソードとキャラクターが交錯する構成を熟知しているのは、脚本家に間違いないのだから。

 そういう訳で、偶然が偶然を呼び人が人と関わることでドラマが進んでいくこの映画。それぞれの挿話とそれぞれの登場人物の間で毎回のように人種的不寛容の摩擦が発生し、それらが少しづつ沸騰点や飽和点に向かって上昇していく。ある人物に摩擦で生じた火照りが、次の衝突でさらに熱い火照りとなっていく。

 クルマを盗まれた裕福な白人女は、その不満をカギを直しに来たヒスパニックの錠前屋にブチまける。錠前屋はその不満を溜めたままペルシャ人の店のカギを直しに行き、その店主の要領を得ない英語と理不尽なカンシャクに一気にブチギレ。壊れたドアを放置して帰ってしまう。店主は店主で自分がイラク人と間違われ恨みをかっているのに腹を立て、一方的に錠前屋に怒りをブチまけたわけだ。しかしそれが災いして店が強盗に襲われると、ペルシャ人店主は手近に怒りをブチまけられる錠前屋を逆恨みする。

 あるいは…人種偏見の激しい警官は、人生のままならない不満の憂さ晴らしに裕福な黒人夫婦を吊し上げる。屈辱にまみれた黒人夫婦は、そのせいでその晩からうまくいかなくなる。屈辱を怒りに替えた妻が、それを夫にブチまけたからだ。あの場合はどうしようもないし夫も屈辱を受けているなどとは、女は思いもしない。いや、思いたくない。とりあえず自分の目の前にある屈辱を解消して怒りをブチまけられればいい。誰かのせいに出来ればいい。誰かのせいに出来れば自分がラクになる。一方ブチまけられっぱなしの夫は解消できない怒りを溜め込んだまま、取り返しのつかない方向へと進み始めていく。

 その逆に…人種偏見に固まった警官も、そうなったにはそうなった理由もあった。別に生まれながらの差別主義者ではなかった。だとすると、彼もまた怒りを誰かにブチまけようとしているに過ぎないのだ。

 こうして怒りがどんどん誰かに連鎖されて、それぞれの中で溜まっていく。そんなこんなを繰り返していくうちに、最初はホンのつまらない事が取り返しのつかない事態へと発展していく。このへんの圧倒的な説得力は、さすがなるほど脚本家出身と言うべきだろう。そんな怒りの連鎖が、二重三重にも何層にも交錯して描かれているからスゴイのだ。まるでチェスを戦ったりジグソー・パズルを組み立てるような、どこまでも緻密で知的な作風…。

 このあたり、僕のような人間群像劇ファンとしてはまさにこたえられない醍醐味。だからどうしたって点が甘くならざるを得ない。では、ここで僕が言っている人間群像劇モノってのは、どんな映画を指すのかと言えば…。

 

「クラッシュ」に影響を与えた人間群像劇映画とは?

 たぶんこの話題はマグノリア感想文に次いで二度目だと思うが、僕にとっての究極の人間群像劇と言えば、ロバート・アルトマン「ナッシュビル」(1975)だ。カントリー&ウエスタンのメッカ・ナッシュビルの街を舞台に、総勢24名の主要登場人物が織りなす人間模様。曲者アルトマンらしく皮肉っぽく人間や社会を見つめるのは毎度のこと。最後の最後に登場人物たちのもつれにもつれた糸は一気に一点に集中し、とんでもない出来事が起きる。だがこの映画が他のアルトマン映画の同様のように見えながら、ハッキリ一線を画しているのはエンディングだ。どこからともなく自然発生的に沸き起こった歌声が、力強く希望を歌い上げる人間賛歌的エンディング。その後、アルトマンは「ナッシュビル」からほぼ登場人物数を倍増させた「ウエディング」(1978)をはじめ、こうした多重的人間群像劇を好んで発表。最近でもヨーロッパ俳優まで交えた「プレタポルテ」(1994)を手がけているが、悲しいかな奇跡的傑作「ナッシュビル」には遠く及ばない。それはその後のアルトマンの姿勢が、自分一人だけ火の見櫓みたいなところに上がって高みの見物をしているかのように傲慢だからだ。「ナッシュビル」にはもっと地に足が着いた「人ごとでない共感」があった。

 僕が人間群像劇映画に期待するのも、きっと「人ごとでない共感」だろう。スクリーン上で織りなすさまざまな人間模様の中のどこかに、自分の姿を見いだせる点に惹かれる。そうでなくても目まぐるしく展開する構成で飽きさせない。個性がハッキリした役者が大挙して起用されるのも、これら人間群像劇映画の魅力だ。

 また人間群像劇と一口に言ってもそのバリエーションはさまざま。クリスマスのロンドンを舞台に英国首相からポルノ映画のスタンド・イン俳優まで多彩な人々の恋愛模様を描くラブ・アクチュアリー(2003)や、アメリカ〜メキシコ巨大麻薬ルートを巡って犯罪組織と警察を中心とした人間模様を描くスティーブン・ソダーバーグ監督のトラフィック(2000)。前者はヒュー・グラント、エマ・トンプソン、キーラ・ナイトレイら、後者はマイケル・ダグラス、ベニチオ・デル・トロ、デニス・クエイドらの豪華キャストが見ものだ。

 あるいは12月31日の大晦日に、パーティー三昧にふける若者たちを描いた200本のたばこ(1998)も典型的なこのジャンルの映画だろう。こちらはベン・アフレック、クリスティーナ・リッチ、コートニー・ラヴなどフレッシュな顔ぶれ。

 むろん、この手の映画は別に米英の専売特許ではない。例えばホラー映画アイ(2002)で名を挙げたタイのパン・ブラザースの兄、オキサイド・パンが監督したテッセラクト(2003)。バンコクの汚いホテルを中心に何人かの人々の物語が時間をズラしながら錯綜して描かれる。ただこれは「四次元立方体」がどうしたこうしたと宇宙の法則みたいな屁理屈をかましている割には、ヤケにスケールのチマッとした話だったのでガッカリした記憶がある。

 そんな「四次元」云々みたいなものとは関係なしに…正確には人間群像劇とは言えないかもしれないが、ちょっと異色な形として挙げたいのがポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督の短編10連作「デカローグ」(1988)。本来はテレビ放映用の10本の短編映画なのだが、よくよく見るとそれぞれ全く関連がないはずの物語の一場面が、別のエピソードの中にアングルを変えて登場してきたりする。つまりこの10連作のそれぞれ別の主人公が「同じ世界の住人」として他のエピソードにもチラリと登場し、すれ違いやニアミスを繰り返すという案配。キェシロフスキ監督はこの後にフランスで発表した「トリコロール」三部作(1993〜1994)でも同じように登場人物が相互相乗りしていたから、かなりこの趣向を気に入っていたんだろう。

 その中で、ひょっとしたら今回の「クラッシュ」に何らかのヒントを与えた可能性大なのが、後にハリウッドに招かれて21グラム(2004)を撮ったメキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の出世作アモーレス・ペロス(1999)。兄嫁に恋した若者、不倫相手と新たな暮らしを始めようとするスーパーモデル、初老の殺し屋…の三者の物語が、ある交通事故によって結びつく。構成も作品のテイストも全く異なるものの、交通事故=「クラッシュ」が物語の原動力となるヒントにはなったかもしれない。

 そして奇妙な事に、今回の「クラッシュ」同様ロサンゼルスを舞台にした人間群像劇映画がなぜかやたらに多いこと! ザッと挙げただけでもポール・トーマス・アンダーソン監督がトム・クルーズ以下豪華キャストを揃えた前述のマグノリア(1999)、ある殺人事件をきっかけに何人かの男女の人生が交錯するジェームズ・スペイダーら異色キャストの「2デイズ」(1996)、やはりロバート・アルトマン監督がジュリアン・ムーアやジェニファー・ジェーソン・リーなど曲者キャストを集めての「ショート・カッツ」(1994)…などなど。中でも今回の「クラッシュ」にヒントを与えた可能性のある作品は、ローレンス・カスダン「わが街」(1991)だ。ケビン・クライン、スティーブ・マーティン、ダニー・グローバーらの顔ぶれを揃えたこの映画は、裕福な白人ケビン・クラインが、夜中の黒人街でたまたまクルマをエンコさせた事から始まる。その場を救ったのは、見ず知らずの黒人男性ダニー・グローバー。これをきっかけに二人の交友が始まり、人種問題をはじめとするロサンゼルスの諸問題がえぐられていく。扱っている題材から作品のテイスト、さらに好感の持てる映画ながらイマイチ詰めの甘さや人間洞察の甘さが残るあたりまで、「わが街」と「クラッシュ」はどこか作品に漂う雰囲気が似ている。

 さらに作品のテイストという点では、ロサンゼルスを舞台にはしていないがジョン・セイルズ監督の「希望の街」(1991)も挙げておきたい。ハドソン・シティという架空の街を巡って30以上のキャラクターがひしめく構成は、まさに圧巻。ヴィンセント・スパーノ、ジョー・モートンなどキャストは渋いが、現代アメリカ社会の縮図的に描かれていく群像ドラマは見応えがある。全く話題にならない地味な映画ながら、これをグランプリに選んだ東京国際映画祭はその事を誇っていいのではないだろうか。

 そんな訳で今回の「クラッシュ」は、ハッキリ言うと、「アモーレス・ペロス」の交通事故という要素と「わが街」の異人種間の出会いという要素に、さまざまな社会階層の人々がひしめく「希望の街」のテイストを混ぜたという印象が濃厚だ。そして、そんな映画が僕は好きだ。だから僕は「クラッシュ」を見ていて、とても好ましい気持ちになったのだが…それだけに、ちょっと「弱さ」も感じてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 アカデミー賞に大々的にノミネートという「クラッシュ」。大変おめでたい限りではあるし、このジャンルの映画が好きなだけにワクワクしながら見たけれど、実はこの映画いささか凡庸なところがなきにしもあらず。「アモーレス・ペロス」と「わが街」と「希望の街」に本当にヒントを得たかどうかは分からないが、少なくともそのうち1本ぐらいは確実にいただいちゃった感があるというのは、この作品に何か「どこかですでに見ちゃった」感があるからではないか。

 先に挙げたように、ロサンゼルスを舞台にした人間群像劇がやたら多いからかもしれない。また、人種間のトラブルはじめ現代アメリカ社会の問題点を扱いながらも、これだけの主要登場人物をさばいて何とか2時間ぐらいの長さに収めなくてはならないという事情が災いしているのかもしれない。当然どこか舌足らずになりがちだし、あるいは投げ出したようになったりおざなりな結論が押しつけられたりする。そもそも一朝一夕に結論が出るはずもない社会問題を扱えば、どうしてもそうなってしまうのは仕方がない。そう言えば先に僕が紹介した人間群像劇も、少なからずそういう面がない訳ではないのだ。

 そのへんを回避しようとしてか、ポール・ハギスは結構辛口のエピソードも用意している。正義漢なのに…否、正義感であるが故に皮肉にも汚れてしまう、ライアン・フィリップの若い警官の話などはかなりシビアーだ。ドン・チードル刑事の母への思いも、まったく報われないまま映画は終わる。そのおかげで「人は結局分かり合えるよ」みたいな単純な甘っチョロさには、辛くも陥らずに済んでいるように見える。このへんの目配りの確かさは、さすがに「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本家ならでは。演じたフィリップとチードルも素晴らしい。特に若いフィリップは、誠実な演じっぷりになかなか好感が持てた。彼は先々まだまだ良くなる俳優に思える。

 そして辛い結末の一方で、ちゃんと希望の持てるエピソードもこしらえてある。しかもこれがかなり強力だ。差別主義者の警官マット・ディロンが自動車事故からサンディ・ニュートンを救い出すくだりなどは、ディロンの圧倒的な演技のおかげもあってかなりな出来映え。マット・ディロンにとっても、これほどやりがいのある役は久しぶりだったんじゃないだろうか? 重層的な構造を持つこの映画の中でも最も厚みのある役柄を、マット・ディロンは説得力ある演技で見せてくれた。本当に見惚れてしまった。

 さらにマイケル・ペニャの錠前屋とその幼い娘を巡る「銃弾を跳ね返す透明のマント」のエピソードには、ハギスの脚本家としての腕の冴えを感じずにはいられない。まさに奇跡。思わず「うまくやったな!」と膝を叩きたくなること請け合いの名場面だ。

 だからこそ…この映画の詰めの甘さが惜しまれる。

 この映画の中でも浮きまくってるのが、ブレンダン・フレーザーとサンドラ・ブロックの2人の大スターを使ったエピソード。すべての社会階層の人々が交錯するという構想の中で、裕福な白人層を出す必要性に駆られた気持ちは分かる。しかし、ただそんな帳尻合わせのため“だけ”にこのエピソードをつくったあたりがミエミエになってしまって、映画の中でも一番不毛なお話になってしまった。あれで人種融和を云々するなら愚劣としか言えない。元々作り手が作りたくて作った訳でなくて、後から付け足したり絞り出したりして無理矢理くっつけたエピソードなのだろうが、確実に映画の質を低下させている。もうちょっと何とか工夫をする必要があったんじゃないだろうか。演じたフレーザーとブロックも、ハッキリ言って彼らには合っていたと言い難い役柄だった。ちょっと気の毒だった気がする。

 そのあたり、頭のいい脚本家ポール・ハギスがあくまで「頭の中でこさえた」感が抜けきれないのが今回の泣き所。逆に言うとこの映画で優れた点は、マット・ディロンやマイケル・ペニャ、そしてライアン・フィリップらの俳優たちがそんな理屈を飛び越えて役を肉体化してしまった部分だとも思える。もしディロンやペニャやフィリップがあれほどリアリティのある演技を見せていなければ、むしろあの見せ場の数々も「臭い」モノになりかねなかった。そういう意味では、この映画ではハギスの緻密で知的な作風が「諸刃の剣」になってしまったきらいもあるような気がする。

 「アモーレス・ペロス」と「わが街」と「希望の街」からいただいたって感じがするのも、どこかに机に座って頭の中でこねくり回した感が漂っているからだろう。才人、才に溺れるとはよく言ったものだ。

 語り口がうまいだけに、そのうまさがアダとなったのが何とも惜しいんだよね。

 

 

 

 

 

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