「PROMISE/プロミス」

  無極 (The Promise)

 (2006/02/20)


  

見る前の予想

 僕はチェン・カイコーが好きだ。

 中国が生んだ巨匠監督2人チャン・イーモウとチェン・カイコーのどちらが好きかと問われても、僕はどっちかと言えばチェン・カイコーの方が好きだ。映画作品の出来映えなどでは、おそらく世間的にはチャン・イーモウの方が評価は高いだろう。誰しもチャン・イーモウの方が格上に見ているに違いない。特に「始皇帝暗殺」(1998)の大作主義かつ大失敗から欧米映画界に渡ってのキリング・ミー・ソフトリー(2001)の発表あたりで、清貧主義かつ純血主義のアジア映画ファンやアート系映画ファンから総スカンをくってしまったに違いない。商業主義だの底が浅いだのとバカにされ始めたのもこの頃だろう。一時はこの人の映画を岩波ホールが上映した事もあるのに、まるで手の平を返したような仕打ち。だからアート系映画ファンはバカなんだよ(笑)。小難しい事を言ってるくせに、結局映画の中味を見ずに外側のラベルしか見ていない。商業主義と言ったらむしろチャン・イーモウの方がずっと商業主義な事は、僕が今まで再三再四言って来た通りだ。そして映画が商業主義である事を、僕は決して悪い事だと思っていない。そもそもボランティアでつくってる訳ではないのだから、映画館にかかる映画はすべて商業主義なんである(笑)。バカも休み休み言っていただきたい。

 それはともかく、僕はチェン・カイコーが好きだ。「始皇帝暗殺」や「キリング・ミー・ソフトリー」に手を出してしまう、その分かりやすい破綻ぶりが好きなのだ。それらを見ると、この人の映画づくりへの思いには「アートな欺瞞」が毛ほどもない事が感じられる。カネをかけて超大作で世間をアッと言わせたいとか、欧米映画やハリウッド映画に挑戦したいとか、露骨にハッキリ男らしくやってくれるから頼もしい。中国の寒村が舞台のアート映画のふりをしながら、コソコソと「タイタニック」への対抗意識を燃やしているようなセコい思惑などないところが男らしいんだよ(笑)。

 そう、チェン・カイコーは男らしいのだ。だから失敗する時も思い切り前のめり。そのハッタリやバクチ好きなところこそ、僕がチェン・カイコーに惹かれる理由だ。

 そんなチェン・カイコーがいろいろあったあげく、北京ヴァイオリン(2002)で中国へ戻って来た。しかしそこで手堅く泣かせる小咄をつくったのには、正直言って複雑な思いがした。映画はそれなりの出来映えで、相変わらずお客さん思いの大衆路線なところが嬉しい限り。だが彼の「チャレンジャー精神」からすると、やけにこぢんまりしちゃった事が気になった。やっぱり何だかんだ言っても、もうバクチもやれなくなっちゃったかな…と、いささか寂しい思いもしたのだ。一方の雄チャン・イーモウが柄にもなく…というか正体見たりというか、アクション超大作HERO/英雄(2003)、LOVERS/謀(2004)を連打して世間を騒がせているのを見ると、ちょっとチェン・カイコーもライバルに水を空けられちゃったかと悲しい気分になったのは確かだ。

 ところが、いきなりやってくれるではないか

 グリーン・デスティニー(2000)あたりに端を発する、ワイヤー・アクションとCGを駆使した中華チャンバラ超大作にいよいよチェン・カイコーも参戦だ。何だと小僧?…「HERO/英雄」の二番煎じだなんてホザくんじゃねえ。「グリーン・デスティニー」に始まり、ライバルのチャン・イーモウの「HERO/英雄」「LOVERS/謀」が出て、ドサクサに紛れてヘブン・アンド・アース(2003)なんてのも出て、おまけにツイ・ハークまでがセブンソード(2005)を引っ提げて登場した後で、今頃ノコノコ出てきた…とは何事だ。本来このハッタリ感やケレン味はチェン・カイコーの方がお得意だったはず。むしろここは真打ち登場と迎えたいところだ。

 ただ正直な気持ちは、やっぱりチャン・イーモウの後を追っかけて…の感がなくもない。大丈夫なのかよチェン・カイコーと不安にもなってくる。だがそんな不安を、豪華キャストが蹴散らしてくれるではないか。

 真田広之、チャン・ドンゴン、セシリア・チャンニコラス・ツェーと来る。これは近来にない強力キャストだ。おまけにスターをかき集めたというだけでなく、その顔ぶれの集め方にセンスがある。趣味がいい。ハッキリ言うと、僕が好きなスターばかり集めてる(笑)。分かってるねぇ。ギャラはバカ高いはずなのにどこか安さが漂う「オーシャンズなんとか」あたりと比べてみてほしい。

 おまけにここに来て、連日のように真田広之がマスコミに露出。どうも口振りでは内容に自信ありと見た。いやぁ、早く見たい。一刻も早くこの映画を見たい。見ずには死ねないのだ。

 

あらすじ

 大昔のこと、まだ人々が神々と共に暮らしていた頃…。

 戦乱が続き国が乱れる中、一人のボロをまとった少女が屍の山積する荒野を歩き回っていた。屍をあちこち漁ってはまた別の屍を探って、ようやく少女が見つけたのは一個の饅頭だ。ところが鎧を着けた一人の男の子が現れ、その饅頭をサッと奪ってしまった。男の子はここに横たわる夥しい屍が、すべて「自分の民」だと言った。だからその屍の持ち物も自分のモノ。饅頭をノドから手が出るほど欲しい少女に向かって、この傲慢な男の子はこう言い放った。「奴隷になるなら、これをやる」

 ところが汚い女の子は、頷いてこの申し出をアッサリ受け入れた。受け入れたと思いきや…饅頭を手に入れるや否や、男の子の頭を小突いて一気に逃げ出した。そして逃げて逃げて逃げて湖水のほとりにやってくる。だがせっかく手に入れた饅頭は、女の子の手をすり抜けて水の中に沈んでいく。女の子は涙ぐんだ。あの饅頭は、病気の母親に食わせるためのものだったのだ。そんな女の子の前に、奇妙な出で立ちの女が現れるではないか。この女こそ運命を司る女神「満神」(チェン・ホン)。

 「もう母親はこの世にはいませんよ」

 そして「満神」は、女の子にある「契約」を持ちかけた。この世のすべての男から求められる姫にしてあげましょう。そして何不自由ない生活を約束しましょう。その代わり、一生真実の愛は手に入れられない。それでもいいですか?

 「それでもいい」

 

 さて、それから経つこと幾年月。

 まさに絶景と言うべき切り立った大峡谷に、華やかな出で立ちの軍勢がやってきた。それは大将軍・光明(真田広之)率いる兵士たちだ。兵士たちも赤を中心に派手なコスチュームなら、大将軍・光明はそれに負けじとギンギラギン。そもそも光明はこれまたトンがったギザギザ兜とともに、「華ヨロイ」なる派手派手な甲冑がトレードマーク。しかし派手な格好は伊達じゃない。今まで連戦連勝の大将軍・光明は、それに見合った戦果を挙げても来ていたのだ。

 今日も今日とて、ここで歴史に残る戦いが繰り広げられようとしていた。この峡谷の向こうで、敵軍勢が今や遅しと待ちかまえている。その軍勢およそ2万人。対する光明の軍勢はたったの3千人。それでも自信満々の光明には、それなりの目算があった。まずは先遣隊…というより「おとり」として奴隷たちを峡谷の谷底に歩かせ、敵をおびき出したところを叩こうというハラだ。こうして峡谷の底をゾロゾロと這いずり回らせられる奴隷たち。この時代、奴隷は人として二本足で歩くことを許されず、ケモノのように四本足で歩くことを強いられていたのだ。奴隷の主人も光明の意図に気づいておっかなびっくり。主人はあまたいる奴隷たちの中でも頼りになりそうな、一人の男に言い渡した。

 「いいか、何があってもわしを守るんだぞ」

 そこで従順にうなづいたのが、汚いなりではあるがどこか気品を隠せない奴隷の昆崙(チャン・ドンゴン)。だがそんな昆崙たちの前方から、何やらイヤな地響きが伝わってくるではないか。

 爆走する水牛たちの群れだ!

 ドドドド〜ッと土煙を上げながら、谷底を狭しと脇目も振らずに殺到してくる水牛たち、のたのた這っていた奴隷たちはたちまち蹴散らかされ踏み殺されていく。だがなぜか昆崙だけは…神のご意志か天性の動物的感性か、じっとうずくまって水牛たちをやり過ごしていた。また水牛たちも、なぜか昆崙を避けて爆走していく。そのうち昆崙は慌てふためく「主人」を背に乗せると、一気に水牛たちの暴走の中をかいくぐって崖を這い登ろうとする。ところが大将軍・光明たちの軍勢は、崖上から奴隷たちに矢を射かけてくるではないか。

 「逃げ出すな! 奴隷たちが逃げるのは許さん!」

 そう吠えた光明の放った矢は、昆崙の背に乗った「主人」の命を奪う。だがそうとは知ってか知らずか昆崙は、「主人」を乗せたまま水牛たちの暴走の中に戻っていく。いや、水牛たちと一緒に走り出す。そのうち四つ足から直立に体勢を戻し、凄まじいスピードで水牛たちの群れを追い越して行くではないか。これには崖上から見つめていた光明もビックリ。いつの間にか昆崙は、水牛たちを率いるかのように先頭で激走を続けていた。

 しかも敵の軍勢は、この峡谷の地形を熟知していなかった。実はこの峡谷、ぐるっと回って元の場所に戻るという奇妙な形になっていたのだ。従って昆崙率いる水牛たちは、今度は一気に敵の軍勢めがけて突進する事になった。

 崖上からその事に気づいた光明は、「してやったり」とばかりに笑みを浮かべて配下の者に告げた。「ものども、馬に乗って水牛たちに続け!

 光明たちの軍勢は爆走する水牛たちの後を追って峡谷へ。その峡谷では、敵軍勢が自分たちが放った水牛軍団に蹴散らかされて騒然となっていた。そこに光明たちが一気に斬り込む。不意を突かれ戦意を喪失しかかった敵軍勢は、さらに攻撃を加えられて青息吐息だ。中でも大活躍は、やはり何と言っても大将軍・光明。巨大な金属球を駆使して、敵をバッタバッタと一人でなぎ倒し続ける。さすがに豪快な英雄だ。戦いが圧倒的勝利に終わった後で兵たちに何度も何度も高く胴上げされる光明が、その美酒に酔いしれた事は言うまでもない。

 その頃、あの昆崙はひとり野原にいた。「主人」の亡骸を葬った彼は、為す術もなく放心状態になっていた。そこにやって来たのは、ギンギンギラギラの光明だ。光明は昆崙の素晴らしい走りに目をつけ、こうして一人わざわざ昆崙を迎えにやって来たのだ。

 「今日からオマエの主人になってやる」

 およそ恩着せがましい言い方ではあったが、目的も何もない昆崙にとっては嬉しい申し出。しかも光明は、もう四つ足で歩くな…と言ってくれた。かくして新たに主人と奴隷の関係になった光明と昆崙だったが、そんな彼らに急な知らせが届く。

 王宮が北の公爵・無歓によって攻撃され、王が絶体絶命の危機だと言うのだ。そんな王じきじきの指名で、大将軍・光明が王の救出を命じられた。こうなれば急いで駆けつけねばなるまい。なぁに、このオレ様が駆けつければ、アッという間に戦況は一変だ。

 ところが暗くなって森の中に入り込むと、二人はすっかり道に迷ってしまった。二手に分かれて道を探す事にした光明と昆崙だが、ますます行く手が分からなくなるばかり。そんな光明の前に、不思議な女が現れるではないか。しかもこの女、光明のカンに障ることばかり言う。光明が駆けつけたって王は助からない、オマエの勝利は、先程の戦いが最後だ…。あげくこの女、光明に不思議なイメージを見せるではないか。それはギンギンギラギラの「華ヨロイ」を身につけた人物が、王を殺してしまうというイメージだ。

 「冗談じゃない!」

 大いに憤る光明だが、この女もタダモノではなかった。誰あろう、例の運命を司る女神「満神」だ。そんなこんなで忌まわしい話ばかりを聞かせて、光明をあざ笑いながら「満神」は彼の前から姿を消した。

 すると今度は奇妙な黒装束の男が現れた。何とこの「黒子」みたいな服装の男、その名を鬼狼(リウ・イェ)といい、北の公爵・無歓によって光明を暗殺すべく放たれた刺客だとのこと。早速始まる激しいチャンバラ。さすがに光明も押され気味で、ついにはかなりの深手を負ってしまう。

 そこに割って入って「主人」の危機を救ったのが、あの昆崙だ。だが鬼狼は昆崙が「北方人」だと気づくと、なぜか剣を収めてその場から去って行った。よかった…とホッとするのもつかの間、こうしている間も王の身に危険が迫っている。だがキズを負った光明は先を急げない。思い余った光明は、何と自慢の「華ヨロイ」を昆崙に着せた。これさえ身につけてお面を顔にかぶせれば、誰でも光明だと思うだろう。こうして光明は昆崙を身代わりに王宮へ行かせて、王を脅かす敵を倒させようと考えた。だが昆崙は、「王って誰だ?」などと言い出す始末。

 「王とは剣を持たぬ者だ」

 こうして光明に送り出された昆崙は、馬を駆って王宮をめざしにめざす。

 その頃、王宮では案の定危機的状況になっていた。王宮は北の公爵・無歓(ニコラス・ツェー)の軍勢に完全制圧され、王と王妃は王宮の屋根まで追いつめられていたのだ。多数の軍勢を率いた北の公爵・無歓は、不敵な笑みを浮かべて迫る。

 そんな中、王妃・傾城(セシリア・チャン)は、いきなり上掛けを脱いで軍勢に呼びかける。「オマエたち、この中味を見たくない?」

 この傾城こそ、「満神」が“この世のすべての男から求められる姫にする”と告げたあの少女の成長した姿。さすがに「満神」の霊験あらたかというべきか、傾城は男たちを虜にする美しい女になっていた。さすがの無歓の軍勢もメロメロ。

 「おお、いいぞいいぞ。もっと脱げ!」

 何と情けない事に、王は助かりたい一心で傾城にとんでもない事を言い出す。あまりにあんまりな王の態度には、傾城も一気に感情を害した。

 「オマエたち、この中味を見たくない?」と傾城はもう一枚着物を脱ぎながら、下の軍勢に呼びかける。「見たければ、この王を殺して!」

 「キ、キ、貴様ぁ〜〜〜! わしを裏切る気か?」

 そんなテンヤワンヤを見ながら、無歓は不敵に笑みを浮かべる。ここで王の胸の内を見透かすように、無歓はダメ押しの一言だ。「私は王妃さえ差し出していただければいいんですよ!」

 「な、なに? この女さえあればいいのか? ならば構わん!」

 王は剣を手にとって、王妃・傾城に襲いかかるではないか。あわや王が傾城に手をかけようとした、ちょうどその時…。

 王宮に一人の馬にまたがった騎士が駆け込んできて、アッという間に王を殺害。さらに傾城をかっさらって、脱兎のごとく王宮から走り去って行った。それこそあの大将軍・光明…実は光明の「華ヨロイ」を借りた、奴隷の昆崙その人だった。彼は光明の「王とは剣を持たぬ者だ」との言葉を真に受け、傾城を殺そうと剣を握った王を殺してしまったのだ。

 こうしてひょんな事から王を殺し、傾城を連れて逃げ出すハメになった昆崙。だが逃げられたのもそこまで。行く手には巨大な瀑布が水煙を上げていた。しかもたちまち無歓ら敵の追っ手がやって来る。もはや絶体絶命だ。

 「さすがに大将軍・光明。天晴れなものだ」

 ここで無歓は、いかにも非情な「究極の選択」を持ち出す。ここで光明が大瀑布に飛び込めば、傾城を助けてやる。逆にここで傾城を差し出せば、光明の命を助けてやる。もちろん無歓は、非情な大将軍・光明が傾城を差し出すと踏んでこう提案したのだった。ところが結果は意外なものとなった。

 「死ぬな。どんな事があっても生きるんだ」

 こう傾城に言い残して大瀑布に身を投げた大将軍・光明…実は昆崙。その姿は、男の愛に絶望しきっていた傾城の心にある想いを甦らせた。それは愛情…だが、正体が昆崙とは知る由もない、あくまで男が光明と思い込んでの愛だった。

 もちろん無類の生命力を持つ男・昆崙が、無事に大瀑布から生還したのは言うまでもない。

 一方、王殺害の報を受けた軍勢は、かつての上官である光明を捕らえ、いたぶったあげくに木に吊し上げた。これには怒り心頭の光明だが、どうやっても身の証を立てることができない。

 こうして運命の糸にたぐり寄せられた男女の運命やいかに…?

   

見た後での感想

 見始めてすぐ、僕は「アレレ?」…と唖然とし始めた。

 チャン・イーモウ「HERO」の向こうを張った中華アクション・エンターテインメント超大作…を期待していた僕。確かに大作だ。ビッグ・スターがゾロゾロ。だがこの映画は、僕が当初思っていたような「HERO/英雄」や「LOVERS/謀」もどきの中華チャンバラ大作ではなかった。そもそもどこの国でいつの時代かも分からない。一種の「ロード・オブ・ザ・リング」や「ナルニア国」みたいな物語。つまりは今時流行のファンタジー。まるっきりリアリティとは無縁の世界の物語だ。だがいかにリアリティとは無縁といえ…何だか見ていて戸惑ってしまう場面の連続にはたまげた。

 チャン・ドンゴンの四つん這いの走り。

 彼が四つん這いで出てくるのは、昔の奴隷が直立を許されなかったという事で了解済みだが、そんな彼が水牛の大群に負けじと四つ足で突っ走り始めたのには、さすがに「こりゃちょっとヘンじゃないか?」…と思わずにいられない。そういや水牛や峡谷のCGもイマイチ出来栄えがリアルじゃない。実はこの場面、偶然にもピーター・ジャクソンのキング・コングにそっくりの趣向があるから笑ってしまうのだが…だから余計にCGの「絵丸出し」っぽさが目立ち、何となくテレビゲームを見ているような感じだ。そんな単純な絵の真っ直中でチャン・ドンゴンがテケテケテケテケと四つ足走り。それも水牛に負けない猛スピード。…こりゃファンタジー通り越してマンガだろう(笑)。

 そのうちチャン・ドンゴンは四つ足をやめて直立して走り始めるが、そうすると足がテケテケ素早く前後左右し土煙が舞い上がって…何だか赤塚不二夫のマンガのピストルのおまわりさんみたい(笑)。あまりにバカバカしすぎるとんでもない「絵」なのだ。

 そう考えると、真田広之の大将軍の出で立ちもこりゃマンガだよな。どう考えても実戦向きじゃない格好だ。ひたすら派手。しかもそんな変な格好をしながら、デカい金のタマ(笑)みたいなものをブン回して敵を何十人もイッキに倒すバカバカしさ。というか、単なるバカ(笑)。

 またセシリア・チャンはでっかい鳥カゴに閉じこめられて、文字通り「カゴの鳥」ってのも分かりやすすぎる。おまけにそのセシリア・チャンをチャン・ドンゴンが救出しに来るくだりが秀逸。羽毛のガウンみたいのを羽織ったセシリア・チャンをロープで縛ったチャン・ドンゴン。そのままチャン・ドンゴンがロープの柄をつかんだまま例のテケテケ激走を始めると、セシリア・チャンは鳥みたいに「あ〜れ〜」と空中に浮かんでしまう。何だかチャン・ドンゴンがセシリア・チャンを凧に見立てて凧揚げしているような奇妙な構図。周囲はテレビゲームみたいな単純CG。これまたどう見てもマンガとしか見えない。

 何で戸惑ったかと言えば、この映画って深刻な映画だとは思っていなかったものの、まさか笑っちゃうとは思っていなかったからだ。先のCGを使った派手な見せ場は、あまりに派手過ぎちゃってスゴイを通り越して笑ってしまう。まさにマンガになっちゃってる。思わず笑っちゃう趣向になっているのだ。

 そのうちに僕は、最近これに近いテイストの映画を何か見たな…と思い始めた。そして思い出したのは、何とカンフーハッスル(2004)ではないか。連想したのはやっぱりバカ映画(笑)。

 「グリーン・デスティニー」は、「HERO/英雄」は…一体どこにいったの?

 ホントにあの格調の高さはどこへいっちゃったんだろう? お話は大ボラ吹きみたいにバカバカしさを加速させていくばかり。信じられない壮大なセットに膨大なエキストラ、チンドン屋みたいにど派手な衣装、書き割りみたいにわざとらしいCG…アニメとは言うまい、そんなものよりまさに動く「マンガ」。どうやったらこうまで何もかも単純で作り物っぽく、そしてバカでかくつくれるんだろう?…という気分になってくる、壮大な電気紙芝居。まさか中国映画のパイオニアのチェン・カイコーが…いくらチャン・イーモウが「HERO/英雄」などでエンターテインメント映画に転向した後とは言え、これほど壮大にバカバカしい映画をつくるとは予想もしなかった。

 いやいや、「絵」のバカさデカさを論じながら、肝心のお話に触れていなかった。ストーリーテラーとしても無類の語り手であるチェン・カイコーが今回語ったお話とは…。

 これが「絵」に輪をかけてバカバカしい(笑)

 真田の軍を殲滅するために狭い谷に水牛の群れを放った連中が、その峡谷がぐるりと一回りした地形になっているのを知らなかったってバカすぎないか(笑)? そもそもそんな「ぐるりと円形を形成した谷」ってどこにある? 

 刺客のリウ・イェが同郷人チャン・ドンゴンの手前、真田を殺すのを一旦は諦めたのは分かるが、チャン・ドンゴンがいなくなって真田は一人になったはずなのに、まったく襲わなかったのは不可解極まる。また、かつての部下に懇願されていい気になって王宮に戻った真田が、まんまとワナにハマって捕らえられるのもアホだ。そもそもニコラス・ツェーって捕らえた奴にまんまと逃げられすぎてやしないか?

 何しろ真田〜チャン・ドンゴン〜セシリア・チャンの恋の行方が、何とも単純かつ単細胞で今では中学生もこんな恋愛しないだろう(笑)。彼女の勘違いの経緯だって幼稚だし、そもそも女神が厳かにセシリア・チャンに告げた「一生真実の愛は手に入れられない」…ってのは、こういうのとは違うんじゃないのか? おまけに「悪の貴公子」ニコラス・ツェーの元々の動機も、お話の伏線をここまで引っ張ってきたかと感慨は感じるものの、まるでガキのわがままみたいな単純さだ。うう〜む。

 どいつもこいつも単純というかガキというかバカというか。

 何だかえらく仰々しく始まった映画なのに、たちまち画面はバカ状態。そうなると物語も大幅にバカ度を増してくるからスゴイ。それでいて、カネがどっちゃりかかってそうな巨大セットとエキストラ。これコメディなら申し分ないんだけど、そうじゃないはずだし実際そうじゃないと思う(笑)。一体どう受け止めて良いのか困ってしまうよねぇ。

 だが、じゃあつまらないのかと言えばさにあらず。

 これが面白いのである。すごく面白いのである。むろん映画のバカさを嘲笑って面白いという、昨今のスノッブな映画ファンの姿勢とは一線を画す。ああいった手合いは僕の流儀に反する。あいつらは映画なんか好きじゃないのだ。そういう「面白さ」では断じてない。

 この映画は正面切って面白いのだ。

 何というか「白髪三千丈」のお国柄とでも言おうか…中国ならではの大げさでど派手なおとぎ話、民話、伝説、寓話の類を、で〜んと構えた演者が浪々と語っているような趣なのだ。“その時現れいでたる大将軍の出で立ちたるや〜ッ”…てな口上で、パンパンパパンと語り尽くす。その語り手の機嫌や調子によって、軍勢が3000人にも5000人にもどうにでもなりそうな大まかさ。そうそう、バカと言うより「おおらかさ」と言った方がいいのかもしれない。とにかくコチョコチョとしたところのない、堂々たるバカバカしさなのだ。

 それは出てくるキャラクターにも言えることで、出てくる主役級のスターがみんな見事に活かされているのだ。そして一点の曇りもないクッキリハッキリしたキョーレツさ。

 チャン・ドンゴンなんてマンガCG絡みのトホホな絵に延々付き合わされているのに、それでもちゃんとブラザーフッド(2003)みたいに男臭くカッコいい。バカな事をやってバカな絵になってるのに本人はあくまでひたむき一生懸命でバカに見えないというウルトラCぶり。これはリッパだ。真田広之なんざ亡国のイージス(2005)のオヤジ味がさらにパワーアップして、傲慢だったり無邪気だったり豪放に見えてセコかったりするところも人間味あふれる味。これなかなかの好演ではないだろうか? セシリア・チャンは本来は忘れえぬ想い(2003)やワンナイト・イン・モンコック(2004)みたいに庶民性が売りのように思うから一見ミスキャストなんだけど、元々が少女の時の食うや食わずの状態がお話の発端だから、これでいいのかもしれない。それに何と言っても、彼女はやっぱりチャーミングだ。そして何より素晴らしいのがニコラス・ツェー香港国際警察(2003)での好感度抜群の彼も素敵だったが、ここでは何とも酷薄な貴公子ぶりが板に付いていて惚れ惚れするほど。キザが高じてバカ(笑)ってところも可愛げに見えるのだ。「山の郵便配達」(1999)で注目のリウ・イェも、パープル・バタフライ(2003)のイッちゃった彼がさらに拡大されているような怪演ぶり。このように、投入されたスターがまるで無駄になっていない。これはかなり異例のことではないか。しかも持ち味がさらにキワだっている。演じてる連中が、これまた実に気持ちよさそうに大芝居をブチまくっている。

 中身がない。ほとんどバカみたいなお話。それだと普通は大金をかけてCDも駆使した大作だけに、内容空疎とバッサリかたづけられるところだ。なのに登場人物は妙に生き生きギラギラとして、映画としても面白い

 実際そんな事ってあるのだろうか?

 

チェン・カイコー、その大衆映画をめざした軌跡

 チェン・カイコーが「黄色い大地」(1984)で出てきた時には、かなりの衝撃的デビューだった。何しろそれまで中国映画はまるで日本の映画市場に現れなかったのに、いきなり出てきたら鮮烈な作品だったからビックリ仰天。

 辺境を訪ねて地域の民謡を採集する男と田舎の純朴な少女との出会い、彼が語る新生・共産中国にあこがれを抱く少女、そして地方の因習から望まぬ結婚を強いられることになった少女…運命の皮肉さと非情さを強烈なビジュアルで表現して今でもこの作品には忘れがたい印象がある。これによって中国映画が世界デビューも果たしたのだからなおさらだ。今ではカメラを担当したチャン・イーモウの手柄にされちゃってるところもあるが、それでもチェン・カイコーの「開拓者」としてのポジションはいまだに不滅だと思う。ここからすべては始まったのだからね。

 次いでの「大閲兵」(1985)は観る機会がなかったのだが、これも世間では高評価。さらに「子供たちの王様」(1987)は都会のインテリ青年たちが農村で修業時代を送らされる…という「下放」なる文化大革命時の国策を取り上げているあたりが、やはり文革で苦渋をなめさせられたチェン・カイコーならでは。しかし彼の場合(チャン・イーモウもそうだが)、凡百の「文革恨み節」映画とは明らかに一線を画している。それよりチェン・カイコーが関心を持って見つめているのは、なるつもりがない教師にさせられてしまう青年と、田舎の子供たちとの交流だ。だがこの映画でも、最後に運命のいたずらがやってくる。

 そんなチェン・カイコーの「純粋アート・シアター映画」時代の総決算とも言えるのが、「人生は琴の弦のように」(1991)だ。三弦琴の旅芸人二人…年老いたお師匠さんと若い弟子を主人公にした物語。これはそれまでのリアルな物語と違って、現実味のない寓話的なお話だ。雄大で途方もない風景をとらえたこの作品は、「いかにも」この手の映画を好みそうな東京の岩波ホールで上映された。

 ところがそんな「アートの香り」充満する作品の後、チェン・カイコーはアートシアターとキッパリ決別してしまう。それが、香港資本と組んでコン・リーやレスリー・チャンという大スターを起用した「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993)。お話も文革などを背景にしながらメロドラマを指向した娯楽大作仕様。評価も高く大ヒットもした。この路線はほぼ同じ主要キャストの「花の影」(1996)でも踏襲されることになる。

 そんなチェン・カイコーの大作路線の極め付きは、中国に巨大セットを建造しての「始皇帝暗殺」(1988)。日本やアメリカの資本まで導入しての超大作決定版のはずが大コケ大不評の嵐に沈んでしまったのは、みなさんもご存じの通りだ。

 それまで順風満帆の映画人生を歩んできたチェン・カイコーは、ここで大きな挫折を味わうことになる。それまで激しくつばズレ合いを続けてきたライバル=チャン・イーモウにも、大きく水を空けられてしまう結果となってしまった。そして、長い長い沈黙を守ることになる。

 そしてやっと沈黙を破って登場したチェン・カイコー映画は、今までとまったく違った装いを見せた。それが彼の初の欧米映画挑戦作「キリング・ミー・ソフトリー」(2001)だ。ロンドンを舞台にしたセクシーなミステリー・ドラマというのも、チェン・カイコーらしくない。この映画はソツなく面白くまとめられてはいるが、巨匠チェン・カイコーらしい個性は感じられなかったし、彼がつくらねばならない必然性も感じられなかった。ハッキリ言ってハリウッド資本の要請に忠実な「職人監督」としてつくった作品としか思えない。

 この「キリング〜」で日本のアートシアター原理主義者や清貧偽善映画ファンの決定的な不評を獲得した(笑)チェン・カイコーは、次に中国に舞い戻ってバイオリンの天才少年と田舎の純朴な父親との関わりを人情味たっぷりに描く「北京ヴァイオリン」(2002)を発表する。だがこれまた大衆演劇みたいな泥臭くもベタな趣向が、新世代作家チェン・カイコーらしくなかった。これだって驚いた人は驚いたのではないか。

 次のチェン・カイコー作品はと言えば、世界の巨匠監督との競作となるオムニバス10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス(2003)の1挿話。だがお話はどうって事ないし、何よりラストに登場するCGの貧乏くささが涙チョチョ切れる。チェン・カイコーの前のめりの失敗には慣れっこの僕も、これにはさすがにのけぞってしまった。

 そしてやっと登場したのが今回の「PROMISE/プロミス」というわけだ。ここまでの作品の振幅の激しさにも驚かされるが、何より映画づくりの姿勢におけるリスキーさにおいて、チェン・カイコーの凄さに改めて驚かされる。

 もちろんそのフィルモグラフィーが常にチャン・イーモウとのキャッチボールのような軌跡を描いていることは、僕が今までチャン・イーモウの諸作品の感想文に書いてきた通りだからそちらをご参照願いたい。だがいかにチェン・カイコーとチャン・イーモウがお互いを意識し合っていたとしても、常にあくまでチェン・カイコーが「先駆者」「挑戦者」の立場にあった事は注目に値するのではないだろうか。チェン・カイコーを安易に批判する人には、そこに対する視点が確実に抜けている。

 チェン・カイコーがチャレンジャーであり続けたこと…あるいはあり続けていることは、決して忘れてはならない重要ポイントなのだ。

 

「始皇帝暗殺」の失敗から何を学んだのか?

 僕が常にチェン・カイコー(あるいはチャン・イーモウとの関係も含めて)に関して思うのは、彼のフィルモグラフィーにおける「始皇帝暗殺」の重要さだ。

 というのは「始皇帝暗殺」のめざした「目標」と出来上がった「結果」が、チェン・カイコーという映画作家の特徴を何よりも雄弁に物語っているからだ。

 まず「始皇帝暗殺」のおそらくめざしたであろう方向性を挙げてみると、ざっと次のようなものになる。

(1)スケール感

 見て一発で了解。巨大セットを建築してのスペクタクル大作。実はこのスケール感だけ抜き出してみると、広大な荒野をとらえたデビュー作「黄色い大地」からすでに見られていた特徴。「人生は琴の弦のように」の広大な風景もその典型。

(2)大衆性=わかりやすさ

 初期アートシアター映画時代も難解な映画など一つもなかったが、特に「さらば、わが愛/覇王別姫」以降は分かりやすさをかなり意識的に追求していることが分かる。中でも「始皇帝暗殺」は、コン・リー起用の他の作品と比べてもお話は極めて単純で分かりやすい。というか、それを通り越してつまらないとも言える(笑)。

(3)国際性

 先に挙げたコン・リー起用も国際マーケットを意識したものだろうし、何より「始皇帝」を扱った段階で世界に通用する題材と思ったのは間違いなかろう。かつて大映が70ミリ映画を製作した際に、第1作に「釈迦」(1961)、第2作に「秦・始皇帝」(1962)を撮った時も、外国人ウケを狙っていたことは明らか。

 

 そして「始皇帝暗殺」が結果的にどうして失敗したかを僕なりに考えてみると、次のような要素に関する問題点が指摘できる。

 

(4)ディティール/リアリティ

 さすがに始皇帝の時代のディティールは、時代考証もハッキリしていないだけに描きようがなかった。したがってリアリティも出ずに絵空事に終始してしまった。

(5)キャラクターの膨らみ

 お話をどんどん単純化するにしたがって、ディティールが失われていることも災いしてかキャラクターがつまらなくなってしまった。共感も何も期待できないキャラクターではお話が面白くなるわけがない。

(6)制作上のバランス感覚

 スケール感とスペクタクルの実現ばかりを重要視して、必要以上のコストを費やしてしまった。仮に大ヒットしたとしても東洋発の娯楽大作のマーケットが狭い事を念頭に置くと、ちゃんとした商業作品として成立させるための意識が欠けていた。

 

 さて、僕は何でこんな要素を一覧にして掲げたのか? 

 しばしばチェン・カイコーの「始皇帝暗殺」以後の2作品、「キリング・ミー・ソフトリー」と「北京ヴァイオリン」は「何でこんなものつくったのか?」…という批判や疑問の対象にされる。実際なぜつくったのか、チェン・カイコー・ファンの僕でもいささか不可解に感じずにはいられなかった。しかしあの2作がつくられるにあたっては、それなりの必然性があったとしたらどうだ? チェン・カイコーが映画作家として、どうしても通過せざるを得なかった作品群だとしたらどうだ?

 実は「キリング・ミー・ソフトリー」と「北京ヴァイオリン」は、先に「始皇帝暗殺」に関して挙げた数々の要素…目標を実現し問題点を克服すべく、製作されたのではないかと想像できる。以下にそれを分析してみよう。

 

「キリング・ミー・ソフトリー」

(2)大衆性 = 2時間サスペンス・ドラマ並みの通俗的内容

(3)国際性 = 中国人監督チェン・カイコー初の欧米映画

(4)ディティール/リアリティ = ディティールなど知るべくもないロンドンを舞台に、ディティールなしでも面白い映画を語れるための手法を模索

(5)キャラクターの膨らみ = あえてハリウッド的「ジャンル映画」に身を投じることで、型にハマった人物造形でも面白い映画を語れる手法を模索

(6)制作上のバランス感覚 = ハリウッド資本の懐に飛び込んでの映画づくりゆえに、マーケティングやコスト的な部分をはじめとして合理的な考えが得られる

 

「北京ヴァイオリン」

(2)大衆性 = 泥臭くヤボくさいまでの「泣かせ」ドラマの構築

(6)制作上のバランス感覚 = 中国の現代劇で、無駄にコストがかからない設定

 

 このように改めて振り返ってみると分かる通り、どちらかと言えば「キリング・ミー・ソフトリー」が“さまざまな制約下での映画づくりに対応するためのトレーニング”、「北京ヴァイオリン」が“泥臭いまでの大衆性を養うためのトレーニング”…と考えるのが適切だ。

 また、これらの要素の中に含まれていなかったのは唯一「(1)スケール感」の醸成だが、従来型の広大な風景を背景にした「中国辺境映画」でもつくらない限り「スケール感」「スペクタクル」の実現は無闇に大型予算を費やすことにつながり、改めて「(6)制作上のバランス感覚」の欠如を招いてしまう。しかも今一度「中国辺境映画」をつくることは、チェン・カイコーにとって現状からの「後退」を意味する。それは「先駆者」「挑戦者」であることを宿命づけられたチェン・カイコーにとって、全く承服出来ない譲れない点だ。しかも「中国辺境映画」への後退を行った場合には、それ以外の目標達成や問題点克服が不可能かつ無意味になってしまう。以上の理由から、「黄色い大地」よりチェン・カイコーがずっとその資質として抱えていた「スケール感」「スペクタクル」をあえて封印することで、この2作「キリング・ミー・ソフトリー」と「北京ヴァイオリン」は成り立っていたのだ。

 そして、これらのトレーニングを積んだ結果は…そう、この「PROMISE/プロミス」として結実したわけだ。もう一度おさらいしてみると、この点がハッキリしてくる。「PROMISE/プロミス」には先に挙げた要素がすべて満載されているのだ。

 

(2)大衆性 = ハッキリして分かりやすい、幼稚園児でも分かるようなお話

(3)国際性 = 東洋のエキゾチシズムに満ちた内容と汎アジア的オールスター・キャスト

(4)ディティール/リアリティ = 元々ディティールにリアリティを見いだせない架空の世界の物語

(5)キャラクターの膨らみ = 分かりにくいグレー部分のないキャラクター揃い

(6)制作上のバランス感覚 = 内容、スケール的に破天荒の作品だが、「始皇帝暗殺」のような無理はせず、あえてマンガのようなCGで逃げた箇所あり

 

 しかも、「(1)スケール感」がこの映画の身上なのは誰の目にも明らか。ここでひとつ付け加えるならば、オムニバス「10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス」での挿話の“トホホCG”も、大予算を擁する「スケール感」醸成のために「CGで何が出来るのか、あるいは何が出来ないのか」…を知るための実験場だった可能性がある。あの書き割りそのものとしか思えないCG画面で、チェン・カイコーは自らが獲得できる予算ではリアルなスケール感のCGを実現するのは不可能と理解したのではないか。

 今回の作品に関するインタビューで、「わざとリアルじゃないCGを狙った」と答えているチェン・カイコー。だが、おそらくそれはウソだろう(笑)。本当はリアルに出来ればやりたかったのは山々ながら、予算的に無理だったというのが真相に違いない。だが、出来ないなら出来ないなりに開き直っちまえ…という腹の括り方はあったはずだ。あのマンガっぽさの理由はそんなところではないか。

 従って「PROMISE/プロミス」は、「始皇帝暗殺」でチェン・カイコーが目指していたものを実現し、そこで挫折したものを成功させるべくつくられた作品であることが分かる。もう一度言い直せば、チェン・カイコーの現在考え得る「自らの映画の理想型」がこの作品であろうと考えられる。スノッブな映画ファンのみなさんには「バカ映画中のバカ映画と見えるこの映画のどこが「理想型」なのか?」…という揶揄をひとまず置いていただき、どうか無心な気持ちでこの作品に接していただきたい。そこにチェン・カイコー映画のエッセンスが脈々と生きている事が、みなさんにもお分かりいただけるのではないだろうか。

 

傷だらけのチャレンジャー=チェン・カイコーの真骨頂

 それにしても「PROMISE/プロミス」のバカさ加減だけはイマイチ納得できかねるとおっしゃる方がいらっしゃったら、むしろバカ映画こそがチェン・カイコー映画の身上なのだと申し上げたい(笑)。

 いや、正確にはバカ映画というより…「非リアル映画」と言った方がいい。

 今一度「PROMISE/プロミス」をよく見ていただきたい。この映画のマンガみたいなビジュアル、お話やキャラクターの子供っぽいまでの単純さ…それって例えばテレビ・アニメの「まんが日本昔ばなし」みたいなものだとは思えないだろうか。しかもすでにチェン・カイコーは、シンプルさをアート映画みたいなごリッパで利口そうなシロモノに見せかける偽善はバッサリと捨て去っている。だからその手つきは、バカ映画に限りなく近く見えてくるのだ。つまり、語り口の「幼稚」と見えるものはあくまで「素朴」と受け取るべきだろう。

 そして「昔ばなし」とは寓話の類と考えていい。寓話とは、物語の原点と思って間違いない。世界中の誰にでも性別年齢文化教養程度を問わず分かる物語。お話を分かるために引用された細かくどうでもいいような知識を要しない、誰でも分かる汎地球的な規模で伝わる話。「さらば、わが愛/覇王別姫」で大衆娯楽映画にチャレンジし、「キリング・ミー・ソフトリー」で欧米商業映画にチャレンジし、「北京ヴァイオリン」をまったく知的でもなければソフィスティケートもされていない語り口で語ったチェン・カイコーの軌跡を思い浮かべれば、彼の意図は今まさにハッキリしてくるではないか。彼は映画の面白さを観客から隔てる、すべてのバリアーをクリアにしたいと願っているのだ。その意味でチェン・カイコーは、スターリングラード(2000)やトゥー・ブラザーズ(2004)を手がけたフランスのジャン=ジャック・アノーと同じ地平をめざしていると言えるかもしれない。映画の面白さを前面に立てて、観客を隔てるすべてのバリアを取っ払おうとするサムライが彼らなのだ。

 その語り口がチャウ・シンチーの「カンフーハッスル」に極めて似てくるのは非常に興味深い現象だが、それはまた別の話。だがそんな物語の原点=寓話の味わいとは、実はチェン・カイコー映画の元々の持ち味なのだ。「黄色い大地」だって一応の時代設定や舞台背景はあるが、限りなく抽象的で素朴な物語になっていた。「アート映画時代」の最後を彩る「人生は琴の弦のように」もおとぎ話や寓話そのもの。さらに娯楽映画路線の総決算として製作しながら挫折した「始皇帝暗殺」も、リアルに描きようのない時代の話という事から寓話性が強かった。チェン・カイコーはキャリアの節目節目に、必ず寓話性の強い作品をつくっているのだ

 またチェン・カイコーのフィルモグラフィーの中を見渡して最も洗練の度合いが乏しく泥臭くヤボな人情劇なのが、彼の作品中リアルな現代中国を扱ったたった2本の映画のうちの1本「北京ヴァイオリン」であるというのも、決して偶然ではあるまい。どうしてもリアルなドラマを撮らねばならなくなった時、彼は大衆演劇のような泥臭い「定石」を持ち出した。それはいわば現代の「寓話」だ。

 興味深いのは…大スターの共演、大型製作予算の投入、CGやワイヤー・アクションの導入でアート映画ファンの大ヒンシュク必至のこの「PROMISE/プロミス」、ひょっとして過去のチェン・カイコー作品の中に置いてみたら、一番作品の感触が近いのは岩波ホール上映の「人生は琴の弦のように」かもしれないという事実。こう指摘するとどうせアート映画ファンは往生際の悪い言い訳を並べるのだろうが、要するに彼らはスターの起用とかCGとか岩波ホールとか、そういう外見上のレッテルにしか目がいっていなくて、肝心のスクリーンをまったく見ていない連中なのだ。きっと自分が利口だと言いたいだけで、ちっとも映画なんて好きじゃないんだろう。ハッキリ言うとオマエら分かってねえんだよ(笑)。…まぁ、そんなアート映画ファン並びに岩波ホールへの当てこすりはこのへんでやめておくと、ともかくチェン・カイコーがやりたいのは一貫してそういうことらしい…という事がハッキリと伝わってくる。

 そしてこの「PROMISE/プロミス」は、「物語の原点」のみならず「チェン・カイコーの原点復帰」作品でもある。

 この映画の主人公たちは、みな何かの“PROMISE”の囚われ人となっている。それは女神との誓いかもしれないし、悪ガキとの約束かもしれない、主人と奴隷との契約、民族の運命…それがすっかり自由になったつもりで、やはり何かに縛られて生きている我々みんなのメタファーであることは明らかだ。主人公たちはそれに抵抗しつつ、力尽きてみな破れ去っていく。だが最後の最後チャン・ドンゴンとセシリア・チャンのカップルだけが、そこから解き放たれるべく去っていく。

 しがらみからの解放、因習からの離脱、運命への抵抗…こう書いていくとありきたりな言葉にしかならないし、ありがちなテーマで判で押したようなお話だ。だがチェン・カイコーにとって、それは間違いなく「本気」だったように思える。なぜなら彼は自分の映画で、繰り返し繰り返しそのイメージを執拗に繰り返していたからだ。

 「黄色い大地」の少女は田舎の因習に抵抗して、一人荒れ狂う流れの中を漕ぎ出していった。それから「北京ヴァイオリン」の、そのまま乗っかればエリート・コース間違いなしのチャンスを蹴飛ばし、大衆の真っ直中でバイオリンを奏でる少年まで…思えばチェン・カイコー映画の主人公たちはみな、最後に押しつぶされようとも運命に抵抗して戦う人たちだった。そして閉ざされた現状から「脱出」して去っていく。

 そもそもチェン・カイコーその人が、常にバリアを超えようとして戦い続けてきた人ではなかったか。そのためにバクチを打ち、それに破れ去ってもなおバクチをやめない。あまりに無謀でバカバカしいと思われるバクチでも、彼は決して避けて通らないのだ。小賢しいアート映画ファンがいくらバカにしても、僕がどうしてもチェン・カイコーをキライになれないのはそこだ。彼が男らしいと思えるのは、まさにその一点なのだ。彼は一切言い訳をしない。そして諦めずに立ち上がって黙々と映画をつくる。負けっぷりすら男らしくも潔い。そのあたりが北京オリンピックの開会式演出なんぞ頼まれて調子こいてるようなどこかの「名士」とは…いや、恨み言はやめよう。少なくとも男らしさの点で、僕はチェン・カイコーに一目も二目も置いている。

 しかも今回も、男らしく大金を使い、男らしくスターを並べて、男らしくバカ映画

 カネを使ってどこが悪い? スターを並べてミーハーに徹して何が気に入らない? バカ映画のどこがいけないって言うんだ? 誰がチェン・カイコーをバカにできる? そしてバカ映画をつくるならどこまでもダイナミック…というのは、まさに「いつも前のめり」な彼の流儀ではないか。

 運命への挑戦…それが陳腐なんて言える奴がどこにいるだろうか? まさに「挑戦」を体現してきた傷だらけのチャレンジャー、チェン・カイコーの作品を前にして…。

 

見た後の付け足し

 以前「初恋のきた道」感想文で触れたように、僕にはチェン・カイコーとチャン・イーモウの関係は、まるで1960年代のビートルズとローリング・ストーンズの間柄のように見える。お互いが刺激し合って作品を発表し合う仲。奇しくも今この東京では、チャン・イーモウの最新作単騎、千里を走る。(2004)が公開中だ。

 「単騎、千里を走る。」は現代中国奥地の寒村を舞台に、人の心の触れあいを描く。それだけ聞けば誰しも「あぁ、チャン・イーモウお得意の中国の農村モノね」と言いたくなる作品だ。だが、そこに日本の大スター高倉健が、まるでハンバーグ・カレーのハンバーグのように乗っかっているのがミソ。というか、ほぼそれがすべて…のような、従来のチャン・イーモウ映画のデリケートさから見ると荒削りさがやけに目立つ作品だ。いやいや…そういや前作「LOVERS/謀」あたりから、チャン・イーモウの語り口はかなり荒っぽくなってきてるんじゃないだろうか?

 転じてこのチェン・カイコーの「PROMISE/プロミス」は、真田広之、チャン・ドンゴン、セシリア・チャン、ニコラス・ツェー、リウ・イェと、日本・韓国・香港・中国の超オールスター・キャスティング。お話はと言えば「白髪三千丈」と「カンフーハッスル」が合体したようなバカ映画。

 リアルを超えたダイナミズムと汎アジア。

 このライバル2人がほぼ同時に発表した作品が、それぞれ奇妙な符合を見せているのはいかなる理由からなのだろうか? 今の時点では何とも言えないが、世界の映画界でも抜きんでたこの2人には…「この2人」だけには、ひょっとしたら映画の未来が見えているのかもしれない。

 僕にはどうしてもそう思えてならないのだ。

 

 

 

 

 

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