「ミュンヘン」

  Munich

 (2006/02/13)


  

見る前の予想

 宇宙戦争(2005)に次いでのスティーブン・スピルバーグの新作が何とミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手人質事件に絡んだ作品だと聞いたのは、確か「宇宙戦争」がまだ制作中の段階で…だと思う。とかくスピルバーグは早撮りで、「プライベート・ライアン」(1998)からA.I.(2001)までの空白期間以後は、特にその作品発表スピードを速めている。だが、それにしても…大スターのトム・クルーズが主演するSF大作の次に、スピルバーグがこんなシリアスで地味な題材を手がけるとは…何ともその内容の振幅の大きさに唖然とする他はなかった。

 だが、それと同時にイヤ〜な予感がしないでもなかった。映画の内容はその後、ミュンヘン・オリンピックでの出来事そのものではなく、その事件の首謀者の暗殺を図ろうとするイスラエル秘密工作員たちの話だと分かったものの、だからと言って予想されるヤバさが変わるわけではない。「シンドラーのリスト」(1993)で初めて自らのルーツを前面に出しての映画づくりを行った「ユダヤ人」スピルバーグが、またまた自らの「血」に大きく関わりそうな題材を取り上げたというのが問題だ。シオニスト対パレスチナのテロリストというヤバイ問題に、一方的に「ユダヤ側」からコミットしちゃうんじゃないだろうか。そうなると、いとも単純発想でこの問題をかたづけてしまいそうな危なさがある。長年のスピルバーグ・ファンである僕でさえそう思ったのだから、おそらく誰しもみんなそう思ったはずだ。

 アカデミー賞大量ノミネートという実績も、ユダヤ人コミュニティーのハリウッドならアテにはならない。そもそもスピルバーグのシリアス作品は、どうも脚本の不出来からバランスを崩しがちだ。ましてこのネタでは…さすがのスピルバーグも冷静さを失ってしまうんではないの? アラブ人を「宇宙戦争」のトライポッドみたいに描かれたりしたら、さすがの僕でもスピルバーグを弁護しかねる(笑)。

 そんな訳で、コワゴワ・ビクビクしながらこの作品に接した僕だったが…。

 

あらすじ

 1972年9月、オリンピック開催中のミュンヘン。選手村に選手を装ったパレスチナのテロリストたちが忍び込む。彼らはテロ集団「黒い九月」のメンバーで、手に手に武器をとりイスラエル選手団の宿舎に乗り込んだ。突然の急襲にアッという間に制圧されるイスラエル選手団宿舎。「平和の祭典」が恐ろしいテロの現場に…選手たちを人質に立てこもったテロリストたちのニュースは、アッという間に全世界を駆け抜けた。逮捕されている政治犯の「同志」の釈放を求めての行動だったが、すでに宿舎では流血の惨事が…。要求通り逃走用ヘリが用意されたスタジアムに舞台が移った時、思いもかけぬ事態が勃発した。突然の銃撃戦。さまざまな情報が錯綜する中、最終的にイスラエル選手団11名の死が報じられた…。

 このニュースはイスラエル全土を悲しみと怒りに叩き込んだ。11人の名前を重々しく読み上げるテレビのアナウンサー。ここイスラエルの首都エルサレムに住むアヴナー(エリック・バナ)と妻ダフナ(アイェレット・ゾラー)の若夫婦も、沈痛な面もちで画面を見つめている。だがいくらとんでもない事が起きたとは言え、それが自分たちの身に飛び火してくるとはアヴナーは夢にも思っていなかった。確かに彼はイスラエル情報機関「モサド」の職員ではある。だがやっている仕事と言えば、彼に言わせれば世界一退屈な事ばかり。妻ダフナのお腹にいる二人の子供の出産を、いまや遅しと待っている平凡な男。この悲劇はアヴナーの激しい憤りをかきたてたものの、それが自分に直接関わってくるはずもない。

 だがその頃、ある一室に籠もった人々が11枚の写真を見つめながら密談にふけっていた事を、まだアヴナーは知らない。彼らは今、重大な決断を下したばかりだ。「彼らが無惨に殺されたというのに、世界は何もなかったようにオリンピックを続けている…」

 朝、家を出かけたアヴナーを、軍のクルマが出迎える。何やら重大な用事と察知したアヴナーは、大人しくクルマに乗り込んだ。こうして連れて行かれた建物には…ゴルダ・メイア首相(リン・コーエン)はじめ政府や軍の要人たちがズラリ。さすがにアヴナーも、これが容易ならざる任務である事を気づかずにはいられなかった。ともかく「その任務が何か?」を告げられる前に「任務を受ける用意があるか?」を問われる異常な雰囲気。答えにたった1日の猶予を与えた後、要人たちはゾロゾロと去って行った。あっけにとられるアヴナーに、部屋にたった一人残った眼鏡の男エフライム(ジェフリー・ラッシュ)が話しかける。

 「どうせ君は受けるつもりだろう?」

 そう…これがミュンヘンでの選手村襲撃事件に関わる事と察すれば、もう彼には断ることは出来ない。これを断ったら後悔するに違いない。彼は妻にも事の次第を告げずに、この秘密任務に就くことになった。

 ミュンヘンで殺された選手団11人の報復をする。正式にではなく秘密裏に地下で…今回の事件の首謀者と見られる、パレスチナ・ゲリラの要人11人を暗殺する。ゆえに彼の存在は政府も軍も関知しない事となり、彼はモサドを辞めて地下に潜入する事になった。

 資金はスイスの銀行に払い込まれる。活動は主にヨーロッパを舞台に行い、アラブのテリトリーには進入しない。民間人や部外者は巻き込まない。メンバーはアヴナーも入れて5人。彼はそのリーダーとして抜擢されたのだ。だがアヴナーにはそれがイマイチ納得できない。なぜ平凡でパッとしないオレなんかを…?

 そんなアヴナーにエフライムはまったく迷いを見せずに答える。「パッとしないからいい、平凡だからいいのだ」…パレスチナ・ゲリラからはいまだノー・マークの彼だから、この任務を遂行できるはずだ。おまけに彼は若い頃にヨーロッパに留学して、土地勘も知り合いもある。

 こうしてアヴナーは単身西ドイツへ乗り込み、昔のダチ(モーリッツ・ブライブトロイ)と再会。ダチが連れてきた女から情報をたぐり寄せる。

 さらにアヴナーとチームのメンバーが合流。その顔ぶれは…やたら血の気が荒い車両のスペシャリスト・スティーブ(ダニエル・クレイグ)、元オモチャ職人で爆発物のスペシャリスト・ロバート(マチュー・カソヴィッツ)、几帳面な態度を崩さない初老の後処理スペシャリスト・カール(キアラン・ハインズ)、職人肌のジイサンで文書偽造のスペシャリスト・ハンス(ハンス・ジシュラー)。リーダーであるアヴナーが一同に手料理を振る舞い、初顔合わせは和気藹々と進む。

 そんなうちに辿り着いたパリの情報屋トニー(イヴァン・アタル)から、最初の敵ワエル・ズワイテルの居場所を聞き出した。それはローマ。

 初老のワエル・ズワイテルは「千夜一夜物語」をイタリア語に翻訳して生計を立てているような、一見ただのアラブ系のオッサンにしか見えない。一同は絶妙なチームプレイで、早速ターゲットのズワイテルを追いつめた。それは人けのない古ぼけたアパートのロビー。エレベーター待ちのズワイテルに、アヴナーとロバートがいきなり銃を突きつけた。

 二人に思いとどまらせようとしているのか、何かを叫びながら両手の平をかざすズワイテル。これが「最初の殺し」に、アヴナーもロバートも緊張の極に達していた。呆然と引き金を引けないアヴナーに、ロバートがわめく。「どうした? なぜ引き金を引かない?」

 そして突然目が覚めたように弾丸を撃ち尽くす二人。ズワイテルはそのまま崩れ落ちるように倒れ、アヴナーとロバートは慌てて外に逃げ出した。さらにゆっくりと「後処理屋」のカールがやってきて、落ちた薬莢を拾い集める…。

 ともかくは成功だ。ターゲットは殺った。一同は酒を酌み交わし、初仕事を祝った

 さて、その後アヴナーはさらに大物の情報屋、フランス人のルイ(マチュー・アマルリック)と接触する。ルイは「国」相手の取り引きを毛嫌いし、アヴナーの背後に政府がいない事を再三再四念を押した。むろんアヴナーも本当の事を言うはずもない。こうして手に入れたのは、第2の男の情報だ。その名はパリに在住のマフムッド・ハムシャリ

 ハムシャリ暗殺には電話機に仕込んだ爆弾が使われる事になった。ハムシャリの部屋に潜入して、電話機の中に爆発物を仕込むロバート。外の電話ボックスから後処理屋カールが電話して、ハムシャリが受話器に出たらリモコンで爆破する手はずだった。ところが…。

 可愛らしい少女…ハムシャリの娘が電話に出てくるではないか。血の気をうしなったカールやアヴナーは、慌てて待機中のロバートの元に駆け寄る。こうした間一髪の手違いはあったものの、それから数分後には「無事」にハムシャリを爆殺した事は言うまでもない。

 次に舞台はギリシャに移って、キプロス島のホテルに泊まっている連絡係フセイン・アル=シールを、ベッドに仕掛けた爆薬で殺す事になった一同。アヴナーは手引きのためにアル=シールの隣の部屋に投宿。アル=シールの反対側の隣の部屋には、お熱い新婚カップルが泊まっていた。アヴナーが部屋のベランダに立ってその熱さに辟易しながら、仲間に合図を送ろうとしていると…な、何とアル=シールその人がアヴナーに親しげに話しかけてくるではないか! どう見ても好感の持てる普通の男。だがアヴナーは予定通り計画を実行。ところが爆薬は、予想以上の破壊力を見せつけるではないか。部屋の壁が吹っ飛んでアヴナーは危うく負傷するところ。反対側の隣の部屋にいた「お熱い新婚カップル」も大ケガを負ってしまった。慌ててその場を逃げ出しながら、アヴナーは少しづつ胸の中に疑念が沸き起こるのを禁じ得ない。まるで普通で好感の持てる男アル=シール。任務のためとは言え、大ケガを負わせる結果となってしまった新婚カップル。そして爆薬は、何故に予想以上の破壊力をもたらしたのか? 爆薬を用意したのはあの情報屋ルイだが、ヤツは果たして…?

 次にルイからもらった情報は、レバノンのベイルートに目指す男たちのうちの3人が潜伏しているというもの。だがアヴナーたちの決まりでは、あくまでアラブのテリトリーに侵入しないという事になっていた。この3人の件を聞いたエフライムは「軍に任せろ」と、アヴナーたちを退けようとする。だが、軍が介入したと知ればルイが反発して連絡を絶つ。それにアヴナーたちはこれを「オレたちのヤマ」と思っていた。かくして妥協の産物として、アヴナーたちは軍と共にベイルートに乗り込み、3人を暗殺する事となった。

 地元バンドがアラブ後の「ブラック・マジック・ウーマン」を演奏する中、変装したイスラエル特殊部隊が船で到着。先回りしていたアヴナーたちと合流する。そして始まった大銃撃戦。目指す3人は仕留めたものの、作戦はかなり派手であからさまなものとなってしまった

 当然、事の次第はルイの耳にも入っていた。パリに戻ったアヴナーは、クルマに乗ったルイに同行を求められる。クルマに乗っていずこかへ連れて行かれたら、どんな目に遭うか分からない。だが「クルマに乗らなかったら連絡を絶つ」…とのルイの言葉に、アヴナーは火中の栗を拾わずにはいられなかった。

 連れて行かれたのは郊外の大農園。そこには大家族を率いている堂々たる主人「パパ」(ミシェル・ロンスデール)が待ち構えていた。ルイやその妻(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)はアヴナーがウソをついていた事を愉快に思っていなかったが、「パパ」は意外にもアヴナーへの協力の続行を言い渡す。とはいえ決して油断ならない「パパ」の態度に、底冷えするものを感じるアヴナーではあった。

 その後も暗殺計画は休みなく続くが、殺しを繰り返せば繰り返すほど厭戦気分が増してくる。ルイの企みか単なる手違いか、何とパレスチナ・ゲリラと隠れ家を一夜共有するハメになるアヴナーたち。とっさの機転で自らもパレスチナ系を装って事なきを得たものの、いずれ祖国を…と理想を熱く語るゲリラのリーダーに複雑な思いを噛みしめてしまうアヴナー。だがそんな理想主義者は、翌日アヴナーの凶弾に倒れる事になる。

 そんな滅入る気分がなお一層滅入ったのは、爆弾のスペシャリストとの触れ込みのロバートがまるっきりの素人と分かった時のこと。こんな命がけのミッションを、まったくの素人集団で実行してきたのか? さらにアヴナーたちが大物テロリストを殺害しようと図った時に、突然アメリカ人の酔っ払いたちが割って入って来たのにビビりまくる。この大物テロリストは、アメリカCIAの庇護の下にいるとの情報もあった。一体、誰が味方で誰が敵なのか?

 そんな中、ついに敵の放った刺客によって仲間が殺される。怒りにかられたアヴナーたちは暗殺者の本分を離れ、仲間の仇討ちとして刺客殺害に赴くが、そこでも目にしたのはまたしても陰惨な「殺し」の現実だった。気分がどうしようもなく晴れない。

 思えば故郷からもう遠く離れてしまった。アメリカに逃がした妻子には、もう長く会っていない。アヴナーの神経は、もはやすっかり疲れ切っていた。

 そんなうちにも仲間は一人、また一人と姿を消していく…。

 

シリアス映画をつくる際のスピルバーグの「ヤバさ」

 僕が最初にこの企画を知った時感じたヤバさ…それはおそらく、映画ファンなら誰もが同じように持ったであろう懸念だと思う。すなわち、スピルバーグはこんなデリケートな題材をちゃんと描く事ができるのだろうか?…という懸念だ。

 そして実はこの懸念も、よくよく考えると大きく2つに大別される。

 まずはスピルバーグが「シンドラーのリスト」から前面に押し出し始めた「ユダヤ人」としてのルーツの問題。その思い入れたっぷりな「シンドラーのリスト」では、長年のスピルバーグ・ファンには信じがたい事が行われていたのだ。あの演出力で定評のあるスピルバーグが、終盤に出演者全員で「ユダヤの恩人」シンドラーの墓参りをする光景を延々映し出すという、いささかバランスを欠いた構成の映画づくりを行ってしまった。あの瞬間…こう言っては何だがユダヤ人でも何でもない日本人の僕は、一気に気分が醒めてしまうのを感じた。こりゃもう映画じゃないとさえ思えた。映画巧者の中の映画巧者スピルバーグが、これをやってしまってはいかんでしょう。もし言いたい事があるのなら、あくまで「映画」のドラマという語り口の中でやるのがスピルバーグという映画作家の流儀ではなかったのか。それがいきなり映画出演者による本当の「墓参り」…。

 逆に言うと、スピルバーグのような映画の権化のような人間に映画作法をブチ壊しにさせるほど、「ルーツ」や「血」とは濃いものなのか。オカシイと分かっていながら曲げさせてしまうほど強いのか。

 時に自爆テロや殉教的行為を行わせるほどだから、確かに民族的な思いやナショナリズムとは強烈なモノなのだろう。かく言うわが日本でも、かつてはナショナリズムが人々を支配していた。いやいや…今これを書いている2006年、この日本にあの熱狂的で冷静さを欠いたナショナリズムがないと言えるか? 「心の問題」などとうそぶきながら人々を煽動する指導者と、それにまんまと踊らされる人々。ごくごく普通の連中が口からツバを飛ばしながら自らの国と民族の「正当性」ばかりを主張する昨今、我々はとてもじゃないがナショナリズムの熱狂に身を委ねる人々を笑えない。ま、早い話がスピルバーグもこの問題だけには弱いんじゃないかという恐れがあるわけだ。

 ならば今回パレスチナとイスラエルの激突を題材に取り上げたスピルバーグの取るポジションは、おのずから明らかになるのではないか? しかもアメリカという国は常に一方的にイスラエル側に与していて、仮にスピルバーグが偏向した映画づくりを行っても責める者などほとんどいない。欧米諸国も第二次大戦時のナチの蛮行への後ろめたさがあって、ことユダヤ人を責めるような事はなかなか言いにくいはずだ。

 これはロクな作品にならないのではないか? むしろスピルバーグが無類の映像テクニックで、一方的にユダヤの立場から作品づくりをしたら手に負えない…正直に言って最初にこの作品について知った頃の僕の気分は、そんな憂鬱なものだった。

 そしてもう1つの懸念。それはスピルバーグという映画作家が元々持っている「語り口」の問題だ。

 初期スピルバーグの見せ方のうまさ、映画の語り口のパワフルさは、その源泉をアニメ表現に求める事ができる…ということは、以前E.T.(1982)の感想文でも指摘した通りだ。現実の世界をライブ・アクションで撮りながらも、あたかもアニメのような単純さ極端さ純度100パーセントのストレートさで映像化できる。それゆえスピルバーグ映画は、他の追随を許さないほどに強烈な演出力を発揮できた。普通の映画作家には被写体とカメラとフィルムを、そこまで絵を描くようにコントロールできない。ゆえにスピルバーグは唯一無二の映画作家となったのだ。初期スピルバーグの無敵ぶりの秘密は、「現実のアニメ化」にこそあった。

 ところがこの映画技法で作品づくりを続けていくと、どうしてもある種の限界が生じてくる。この技法は現実を極端に単純化・極端化・純化してこそ実現できる映画作りだ。だから際だったパワーや集中力が生じる。このような技法だからこそ襲いかかってくるサメやトラック、突如出現するUFOとそれに圧倒される人間たち…などを強烈な説得力で描くことが出来るが…この方法は人生の機微や複雑な心理や運命のいたずらなど、あいまい極まりない実人生と現実のリアリズムを描くのにはいささか不向きなのだ。あくまでアニメ(それも昨今のジャパニメーションではなくスピルバーグの心の故郷・ディズニーが基本ベースとなる)化できる範囲内の題材でしか、この圧倒的集中力の技法は使えない。

 一方で回を重ねるごとに単純無邪気なイベント・ムービー化し、その大げささをエスカレートさせていくスピルバーグ映画。こうなってくると、さすがに観客サイドからも「あまりに単純で幼稚」という批判が集中する。つくっているスピルバーグ自身が作家的欲求不満にかられてくる。そもそもプロ・デビューが早く、若いうちから名声を得たスピルバーグは、「大家」になってから精神的成長を遂げざるを得なかった事情がある。だからなおさら、スピルバーグ自身も単純ではない複雑な概念を映画化したい…という思いに駆られるわけだ。

 ただ、そう思えばすぐ実現できるほど世の中は甘くない。何しろ彼を「大家」たらしめていたのが、何より問題の単純化アニメ化技法だったのだ。その結果があまりに圧倒的なだけに、そこからの脱皮は極めて難しくなる。しかもスピルバーグがあの技法に落ち着いたというのは、決して偶然でもなければ彼自身の努力だけの結果でもない。そもそもスピルバーグという人物の発想は、元々物事を「複眼的」もしくは「ファジー」に見つめるのに適していない。こう考えるのが妥当なのではないかと僕には思えるのだ。

 例えばここに黒澤明の名前を出すのは唐突な気がするかもしれないが、おそらく一番分かりやすい例だと思う。黒澤明も強烈さとパワフルさで君臨した映画作家で、娯楽味と大衆性も十分。ジョージ・ルーカスはじめ周辺の映画人がみな黒澤シンパだから特にどうとは言われないが、映画作家としての資質ならおそらくスピルバーグが黒澤に一番近いのではないだろうか。僕がそう思うのは、理由のない事ではない。すなわち、その「単純化」ゆえだ。

 とにかく黒澤映画に出てくる人物は、何を言ってもやっても際だっている。ハッキリクッキリしている。それすなわち単純化・極端化・純化であると言って間違いあるまい。とにかくコントラストが効いている。だからパワフルだし圧倒的だ。黒澤はさすがにアニメの影響があるわけもないが、若い頃に画家を志していたという事実が、おそらくその資質の秘密に違いない。ビジュアリストとしての無類の掌握力があるわけだ。

 そして逆に…だから複雑な概念を描くのは苦手だ。「用心棒」(1961)の宿場町を二分するヤクザたちの対立の描きっぷり、その圧倒的な鋭さに対して、なぜか現代劇の「醜聞」(1950)、「生きものの記録」(1955)、「悪い奴ほどよく眠る」(1960)は、イマイチ煮え切らない部分が残る。犯罪劇天国と地獄(1963)だって、警察の捜査手法の描き方はいささか物議を醸した。もちろん僕はどれも好きだし、どれも素晴らしい劇的達成度を誇っていると思えるが、他の黒澤時代劇などと比べると若干の弱さを感じずにはいられない。これら黒澤現代劇が、いずれもどこか社会問題を描いているのも偶然とは思えない。

 実は黒澤にはとっておき…極め付きの現代劇があるではないか。それは傑作の誉れ高い「生きる」(1952)だ。だが「生きる」には官僚機構への批判めいた視点はあるものの、基本的には一人の個人がまるで「サムライ」のように誇り高く生きる…そして死んでいく事を圧倒的集中力で描き出した作品だ。現代社会とか原水爆とかマスコミとか汚職とか、そんな複雑で混沌とした概念は扱っていない。つまり単純化も可能な純度の高い題材になっているわけだ。

 それに対してイマイチ感が漂う黒澤現代劇群は、いずれも混沌とした概念を扱っている。実は劇中で黒澤はそれらの問題をかなり極端に結論づけていたり、あるいは結論づけられずにイラだってヤケを起こしているような印象を受ける。それが作品のイマイチ感や底の浅さ感を醸し出しているのだろう。でも現代社会の諸問題はリアルな現実で、そんな簡単に解決も出来なければ理解も出来ない。つまり…意地悪く言えば黒澤は、難しい問題を扱うのにはあまりに単純で純粋な人なのだろう。

 それは黒澤映画が「赤ひげ」(1965)以降、一気に求心力を失っていく事からも分かる。それまでの黒澤映画に顕著な点はたった一つ…いずれもモノクロ作品だということだ。ところがカラー作品になってから、あの圧倒的説得力は一気に失われてしまった。それは、一度でも写真を撮ったことがあれば分かることだ。モノクロ写真は現実の複写のようで、実はそうではない。色を飛ばしてしまっている事で、一種の単純化・極端化・純化が行われているのだ。これに対してカラーを撮ると、あまりに「写りすぎる」ことに気づかされるはずだ。何もかもがズケズケと入り込んでしまう。それがカラー映像というものなのだ。僕は後期黒澤映画がパワーを失っていった理由の一つに、このモノクロ・カラーの問題が少なからず関係していたと思っている。自分には扱いかねる複雑さが絡んできた時、黒澤映画はその力を失っていったのだろう。

 長々と黒澤の話をして申し訳ない。ここからが本題だ。僕はスピルバーグも、基本的に複雑な概念を考えるのが不向きな人と考える。だから彼がシリアス路線に転換し始めた時…あるいはシリアスでなくてもイベント・ムービー以外の題材に挑んだ時、芳しい結果が得られなかったと考える。混沌が作中に混入してきたスピルバーグ映画は、あの純度100パーセントの求心力を失ってしまった。

 実は成功作とされる「シンドラーのリスト」さえ、僕には成功作には思えない。あの時代、あのような行為を行った人間…それまで肉欲に溺れ物欲金銭欲にも溺れていたであろう人物が、何故に危険を冒してまであのような行為に及んだか? その底知れない人間の不思議さに迫らなければ、あの題材は人間ドラマとして凡庸で空疎なものにしかならない。単に「シンドラーさんありがとう」というユダヤ人からの感謝状にしかならないはずだ。そして図らずも終盤の墓参りで、案の定「シンドラーさんありがとう」というだけの底の浅さを露呈してしまった。これがスピルバーグ流シリアス・ドラマの限界なのだ。彼には複雑怪奇なシンドラーの性格分析は無理だ。

 ならば「宇宙戦争」は題材としてうなづけても、「ミュンヘン」はかなりヤバイと思わねばならないだろう。ましてその底流に流れるのは、「シンドラーの墓参り」以来のユダヤの血。どう考えてもズッコケること必至の題材ではないか。

  

見た後での感想

 ハッキリ言うと、スピルバーグはラクラクとハードルを乗り越えていた

 偏った政治的メッセージも発していないし、深刻な問題を単細胞な把握の仕方で片づけてもいない。近年のスピルバーグ映画に顕著な脚本のバランスの悪さや構成上の破綻もない。もっと驚いた事に、映画として劇的緊張感に富んでいて面白い。近年のスピルバーグ映画では最大の成功作であるキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)と拮抗するほどの、質の高い作品として仕上がったではないか。正直言って「どうにか見れる映画になっていれば」…とコワゴワ見に行った僕などは、嬉しい誤算にすっかり驚かされるハメになった。

 なぜこの「ミュンヘン」が、根っからのスピルバーグ・ファンである僕にして「どうにか見れる映画になっていれば」…とまで思わせるほどかくも「望み薄」の企画だったかについては、先に述べた通り。スピルバーグのユダヤ人としてのポジション、さらに本来の映画話術のノウハウが、この題材を語るのには相応しくないと思われたからだ。相応しくないどころではない。まず七割がたコケるだろうと思っていた。

 こうなると、なぜ今回はコケなかったのか?…が問題だ。

 まず今回、スピルバーグはミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手団人質事件を題材にしており、その後のパレスチナへの報復の物語を語っていながら、決してユダヤ=イスラエルを正当化するお話にはしなかった。もちろん物語の発端はパレスチナのテロリストによる凄惨な事件ではあり、決して彼らを肯定している訳ではない。だがそれが生んだイスラエル側の報復も、等しく肯定される訳ではない。

 映画の設定からしても、観客としての僕らが持つ事前のイメージからしても、スピルバーグが自らユダヤ=イスラエル側に与していると見えるのは避けられない。そして彼自身それから逃れようともしていない。明らかにこの題材にスピルバーグが持った関心は、彼のユダヤ人としての「それ」であり、この一点は見誤りようがないのだ。

 だがスピルバーグは自らのアイデンティティーからしてそうならざるを得ない事は肯定し、自らの出処を明らかに打ち出しながら、それをメッセージの規範とする事は良しとしなかった。物語はどんどん気が滅入る方向に傾いていき、ユダヤの「報復」は決して肯定されない。それは第三者の僕らにとっては当然の事であるが、ユダヤ人を自認するスピルバーグにとっては一つの見識を求められる選択でもあったはずだ

 「ユダヤ」側に身を置き、「ユダヤ」側から話を始める事は、おそらくスピルバーグとしては避けられない選択だったのだ。これをやらなければ、スピルバーグはこの物語を「人ごと」として映画化しようとしているか、ハッキリ「偽善」を語る事になってしまう。だからお話を「ユダヤ」側から語るのは必然だった。だが自らを「ユダヤ」であると認める事と、ユダヤの主張を肯定する事とは全く違う。今回のスピルバーグは際どいながらも、明らかにこの両者の間に一線を画したのだ。

 まぁ、このあたりについては政治的に異論のある人々もいるだろう。案の定、アラブ社会側からは反発もあったようだ。パレスチナ・シンパ的な思想の人々も、かなり批判的に語っていた。それは「そもそもイスラエル選手団の人質事件からお話を始めるのは反アラブ的だ」とか「その前にイスラエルが何をしたかが問題だ」とか「本当のイスラエルの暗殺者たちは、あんな人間的に悩まなかった」とか…たぶんそんな類の事だろう。

 しかし、お話はどこから始まるのか…などという論議は、結局のところ「ニワトリか卵か」的な不毛な論議に過ぎない。この映画は起点をミュンヘン・オリンピックに置いた。それは前述するように、スピルバーグの出処から言っても自然なことだ。そして「本当のイスラエルの暗殺者は」…云々という論議もあまり意味があるようには思えない。なぜならこの映画は、イスラエルは正しかったとかパレスチナが間違っていたとか、どっちが残虐さにおいて上だとか下だとかって話ともあまり関係がないからだ。むしろこの映画の物語の核は、「誰がどう行おうと、戦いは不毛」であり「憎しみと報復の連鎖は不毛」である…という点にある。この映画の物語の向こう側には、同じようにパレスチナ・バージョンもあり得る…と感じさせるところがミソなのだ。そう汲み取らなければ、それはあまりに悪意に満ちたひねくれた解釈ではないか。

 むしろこの映画のメッセージ的な部分に問題を感じるならば、これが反アラブ的か否か…なんて偏狭な見方で裁くべきではなく、「誰がどう行おうと、戦いは不毛」であり「憎しみと報復の連鎖は不毛」である…なんてテーマこそを問題にすべきだろう。いや、言っている事の意味合いにはまったく異議がない。誰がどう聞いてもその通りと言うだろう。だがこのテーマが、今では使い古されて全く目新しいものに感じられないという点こそが問題ではないか。

 言ってることが正しくても、それが陳腐化しては映画としては失敗だ。いくらありがたい事を並べても、それが相手に届かなければ意味がない。「誰がどう行おうと、戦いは不毛」であり「憎しみと報復の連鎖は不毛」である…なんて事は、ハッキリ言って当たり前なんである。そんなもん「世界で初めての発見」みたいに偉そうに言われたくはあるまい。およそ世間のメッセージ映画やら小説、マンガの類で、いくら発信者が真摯な思いで主張しても受け手がシラケ切ってしまうのは、まさにこの点にある。上司や先輩、親や先公の小言がかくもつまらなく説得力に欠けるのも、同じ理由による。分かり切った事をクドクド人から言われるほど、頭に来てクソ忌々しい事はない。そんなものを入場料を払ってまで聞きたい奴はいない。

 そんな意味であのスピルバーグ映画にしてこのテーマというのは、驚くほど凡庸な結論だと言わずにいられない。むろんこの話はこうなるしかないし、こうなってこそのこの映画なのだ。だから結論もこれしかない。そのことにはまったく異存はない。だが、それを説得力を持って観客に受け入れさせるには、尋常ならざる努力と工夫…あるいは何かの奇策が必要になってくる。ただマトモに語ってしまっては、あまりに当たり前で単純でシラケるだけではないか。

 だが…だからこそ…スピルバーグ映画には相応しかったと言えなくはないか?

 あまりに凡庸で陳腐だというのは、もはやどんな不純物も混入し得ないほど当たり前で単純な結論ということだ。そしてそこまで当たり前で単純であるならば、まったくブレも生じ得ないはずだ。思い出してみよう、スピルバーグの映画話術の極意は、徹底的な単純化・極端化・純化だったではないか。

 そもそもスピルバーグという人物の発想は、元々物事を「複眼的」もしくは「ファジー」に見つめるのに適していない。だからスピルバーグのシリアス映画は、社会の複雑な問題点を語るに相応しくない。この映画も、当然その点から不安視されていたわけだ。イスラエルがパレスチナがどっちが正しいどっちが間違っているどっちが善でどっちが悪…こんな調子で映画を構築していったら、スピルバーグ映画は破綻してしまう。戦いの悪の根元はどこにあるのか?…なんて複雑な概念は、スピルバーグ映画を混迷の方向にしか導いていかない。なぜなら、それには誰だって簡単に結論づけられないし答えなんか出せない。ましてスピルバーグなら尚のこと。

 だが人間誰しも納得するしかない疑念の差し挟む余地のない結論を目指すのなら、スピルバーグの語れる射程距離に入ってくる。そこには何らファジーなものがないからだ。「誰がどう行おうと、戦いは不毛」であり「憎しみと報復の連鎖は不毛」である。そりゃそうだろう。ユダヤだろうがパレスチナだろうが、いわんや火星にだって通用する話だ。

 つまりは正解だったのは、スピルバーグがこれをイスラエル対パレスチナの諍いの記録にしなかった事だ。話のネタはそこから取ってきたものの…それはスピルバーグの出処からして必然だったものの…決してこの映画はイスラエル・パレスチナ問題の映画ではない。むしろもっと普遍的なお話だ。さらにハッキリ言えば、「政治的」な映画ではないと捕らえるべきだろう。

 唯一の懸念はその「当たり前」ゆえの「オヤジの説教」的陳腐さだが、それを語るのが「ジョーズ」(1975)、「ジュラシック・パーク」(1993)などで遺憾なく発揮されたスピルバーグ話術なら、誰が抵抗できるだろうか。スピルバーグはそこらの凡庸な映画作家とは訳が違う。メンコの数が違う。圧倒的な破壊力で有無を言わさず納得させられるのは必至だろう。「オヤジの説教」も、そのオヤジの語り口がうまければ話は違ってくるのだ。

 危うく幼い少女を爆弾で殺しかけるハラハラドキドキ、手足がもぎとれ血肉が吹き飛ぶ凄惨な爆殺現場、蜂の巣にされた犠牲者たちの弾痕から、まだ撃たれたばかりの硝煙がホカホカと漂う生々しさ。これぞ「ジョーズ」や「ジュラシック・パーク」の監督の力業だ。何をどう言ったって、結局スピルバーグは「激突!」(1972)の監督なのだ。ここには娯楽サスペンスを手がけている時の、嬉々として客を怖がらせている「鬼畜のスピルバーグ」の姿がある。そして、スピルバーグはそれでいいのだ。

 だが今回の映画は、たったそれだけの事で成功したのだろうか。実は僕には、もう一つの要因があるように思えてならない。

 それは今回の映画に漂う、独特な1970年代テイストだ。

 

スピルバーグが引用した「1970年代映画」とは?

 ここで今一度、僕が書いた「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の感想文に立ち戻っていただけたらありがたい。僕はそこでスピルバーグ復活の兆しは、「ジャンル映画」の模索にあると語っていたはずだ。

 単純さが身上のスピルバーグが「大人の映画」をつくろうとすると、どうしても複雑な概念を扱いかねるためにそのままでは無理が生じる。だが、一旦「ジャンル映画」の枠組みにハメ込んでつくれば、単純スピルバーグでも何とかなるはず…ここで僕が語ろうとしたのは、そういう趣旨だった。ちなみにここで言う「ジャンル映画」とは、ハードボイルド探偵映画とかスプラッタ・ホラー映画などの決まり切ったお約束に満ちた映画群のこと。ハードボイルド映画は主人公である探偵の独白で物語が進行するのが「典型」。主人公の部屋の窓にブラインドがあり、そこから外の光が漏れてきたりするのも「典型」だ。ディレクターズ・カット以前の初公開版「ブレードランナー」(1982)を思い起こしていただきたい。実はあの映画も、かなり典型的なハードボイルド映画の枠組みを利用しているのだ。

 つまり「ジャンル映画」とは「典型」の集積だ。「典型」とは物事の「単純化」「記号化」と考えていい。だから一旦「ジャンル映画」のフィルターを通しさえすれば、スピルバーグの独壇場となるわけだ。

 そんな訳で、「ジャンル映画」にスピルバーグ復活のカギがありと結論づけた僕だが…あの時には今ひとつその理由と結論に肉迫しきれなかったように思う。

 だが今回「ミュンヘン」を見て、僕にはスッカリ納得がいったのだ。

 まず「ジャンル映画」が復活の兆しなどと言っておきながら、僕は「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」がいわゆる「ジャンル映画」ではないのに気づいていた。なのに成功作になったこの映画を、どう位置づけていいのかは分かっていなかった。実はここがミソだったのだ。

 確かに「キャッチ・ミー〜」は「ジャンル映画」ではない。だがこの作品は、実にさまざまな「典型」に満ち満ちている。輝かしい航空会社パンナム、主人公がアストン・マーチンを乗り回して気取る「007」、カラフルなテクニカラー風の映像、冒頭のシャレたアニメーション・タイトル…。

 それは確かに「典型」は「典型」でも、ハードボイルド映画とかスプラッタ・ホラーとかスクリューボール・コメディとか…そういった狭い意味での区分けではない。いわゆる「ジャンル映画」にはとどまらない。

 もっと大きなカテゴライズ…すなわち典型的「1960年代映画」の要素のコラージュではないか!

 そういう目で改めて「ミュンヘン」を見ると、この作品が今度は典型的「1970年代映画」になっているのにお気づきだろうか? 物語の時代背景が1970年代だからそう見えるのが当然ながら、実際この映画の見え方や語り口には、多分に1970年代映画の「典型」が多く散見されるのだ。

 では「1970年代映画」とは、一体どんなものなのか?

 もちろん1970年代にもさまざまなジャンルの作品がつくられた。だから、それを一傾向で総括する事は不可能だ。だが、何がしかの特徴的要素で語る事は出来る。

 1970年代はベトナム戦争の泥沼化で始まり、ウォーターゲート事件が起こった。その前1960年代後半に先進国を覆い尽くした学園紛争やヒッピー・ムーブメントで、世代間の価値観は大きく変わってしまった。だから1970年代には権威は疑われ、忌み嫌われ、卑しめられるべきものとなったのだ。そんな気分はアメリカ映画にも色濃く反映した。

 ウォーターゲート事件を告発する大統領の陰謀(1976)と、それに先だって監督アラン・J・パクラが放った政治映画「パララックス・ビュー」(1974)。政治の汚らわしさが暴露されたのがこの時代だ。理想を持って政治の世界に飛び込んでも、「候補者ビル・マッケイ」(1972)のロバート・レッドフォードのようにボロボロにされる。むろん大統領が悪なら軍だって悪。軍人がキレたらヤバいのは、「合衆国最後の日」(1977)に描かれている。警察機構だって腐敗していて、「セルピコ」(1973)の正義は踏みにじられる。「ダーティ・ハリー2」(1973)みたいな「必殺!」警官たちが現れるのも分からないでもないが、それはそれで歪んだ正義だ。アメリカ南部にオンナ一人で行ったら不正に逮捕され、「ジャクソン・ジェイル」(1976)みたいに留置場で保安官からレイプされる。こうなれば市民が自ら立ち上がらねば…とチャールズ・ブロンソンが「狼よさらば」(1974)で実力行使に出るが、それはそれで新手の通り魔みたいなものだ。むろん法律界がオカシイのはアル・パチーノの「ジャスティス」(1979)を見れば分かる。テレビ界だって「ネットワーク」(1976)を見るまでもなく視聴率至上主義で狂っている。精神病院は「カッコーの巣の上で」(1975)よろしく徹底的な管理体制だ。華やかなカントリー&ウエスタンのメッカ「ナッシュビル」(1975)だって、一皮剥けば腐敗し疲弊しきっている。宇宙開発だって「カプリコン1」(1977)の火星探険みたいに、本当のところは何を企んでいるか分からない。権力は悪なのだ。そこから落ちこぼれた弱者は「狼たちの午後」(1975)みたいに銀行強盗で一花咲かせるしかないが、その栄光も儚い。刑務所でも入ったひには「スケアクロウ」(1973)みたいに弱者同士で片寄せ合って底辺をはい回るしかないし、結局は開き直って「ストレート・タイム」(1978)のダスティン・ホフマンみたいに悪の道に逆戻りだ。お国のために戦っても所詮は汚れた戦争で、ベトナム帰りのウィリアム・ディベインは「ローリング・サンダー」(1977)のように新たな戦場を作り出すしかなかった。おかしくなってる奴は、「タクシー・ドライバー」(1976)のロバート・デ・ニーロみたいに街にゴロゴロしている。そうなるとむしろ堂々としているのは「ゴッドファーザー」(1972)のマフィアぐらいだが、こいつら犯罪組織だからしてマトモな訳がない。大物然としているからもっともらしく見えるだけで、実は小物がヤクで儲けて安ピカに着飾ってる「スーパーフライ」(1972)と五十歩百歩だ。

 そんな中でも1970年代のチャンピオンとも言いたくなるのは、すでにこの時点でかなりのお歳だったジョージ・C・スコット「ホスピタル」(1971)では大病院の腐敗、「センチュリアン」(1972)では警官稼業の疲れ、唯一の監督主演作「激怒」(1972)では息子を軍の化学兵器に奪われブチギレ、可愛がっていたイルカは「イルカの日」(1973)で軍事利用され、「ハードコアの夜」(1979)では愛娘は都会のポルノ街に飲み込まれる。見るからに頑固ジジイ然としたスコットは、それらの映画の大半で額に血管浮き立たせて文字通り「激怒」しっぱなし。激怒せざるを得ないのだ。社会のこれほどの不正を見てしまったら…。

 それにしてもどうだろう、この腐敗と汚辱と陰謀の渦巻き方は(笑)? ハッキリ言って1970年代のアメリカ映画は、娯楽映画からしてこれだった。もっと典型的娯楽映画と言えるものですら、実は1970年代的影を引きずっていた。タワーリング・インフェルノ(1974)の大火災は、現在日本で大騒ぎの姉歯偽装マンション並みの不正が原因だったではないか。ディノ・デ・ラウレンティス版のリメイクキングコング(1976)が極めてベトナム戦争的な告発をはらんでいたのは、先のキング・コング」特集で述べた通りだ。実はスティーブン・スピルバーグ自身このような傾向と無縁ではなくて、出世作「ジョーズ」のアミティ市の市長はサメ被害を何とか隠し通そうと偽装を企む。ここでも陰謀の臭いがプンプン、権力は悪の体質を持っているのだ。

 たぶん理想と夢が破れ去ったアメリカ社会の幻滅が、そのまま映画に反映していたのだろう。実は時代的には今の方がよっぽど腐敗と汚辱が進んでいると思えるのだが、それだけ前の時代の理想と夢が高かったということか。ともかく1970年代は、映画の世界にも社会の不正が爆発していた。そこで主人公たちは、常に孤独な戦いを強いられ苦悶の表情を浮かべていたのだ。そして、社会に疑問を抱いていた

 ここまで作品を並べていくと、何となく僕が「ミュンヘン」を典型的「1970年代映画」と呼ぶ意味がお分かりいただけるだろうか? 正確にはこの作品は、ナチの亡霊のような悪の権化が現代アメリカに出現するマラソンマン(1976)、イスラエル・パレスチナの激突がアメリカにそのまま上陸する「ブラック・サンデー」(1977・日本劇場未公開)、ドゴール暗殺を狙うスナイパーと警察とのヨーロッパを股に掛けた追撃戦「ジャッカルの日」(1973)、陰謀に巻き込まれた平凡なCIA職員の孤独な戦い「コンドル」(1975)、「JFK」より高い先見性とリアリティでケネディ暗殺計画の真相を描く「ダラスの熱い日」(1973)…あたりのニュアンスが濃厚に感じられる。このあたりの作品は僕が映画に目覚めた直後で、かなり夢中になって見たので思い入れもある。アメリカ映画が今よりずっと活気があって面白かった頃の話だ。「ミュンヘン」にはその臭いが漂っているのだ。

 「ミュンヘン」のフレームであるシネマスコープは、そもそもテレビの隆盛に対抗しようと開発されたもの。映画がまだテレビ放映やビデオ発売を前提に制作されず、そんな事に気兼ねせずつくる事が出来た時代の産物なのだ。むろん1970年代前半には、まだシネマスコープ映画も多かった。現在のビスタビジョン・サイズが絶対優位になってくるのは、1970年代も後半に入ってからではないだろうか。

 おまけにカラーのテイストがカラフルで華やかな「キャッチ・ミー〜」と比べればダンチなのは、誰の目にも明らかだろう。どこかガサツでラフな画調は、1970年代映画の特徴なのだ。あえて他に例えるならば、1970年代映画をトラッシュ・ムービーという観点からとらえたキル・ビルVol.1(2003)、同Vol.2(2004)を見ていただければ納得いただけると思う。あのどこかズケズケズバズバした画調がそれだ。

 そして今回の作品では、終盤の主人公と妻とのセックス場面にミュンヘンでの人質惨殺場面がカットバックされるあたりが話題になっているが、あのくだりは「ゴッドファーザー」終盤での赤ん坊の洗礼式と組織による一斉粛正がカットバックされる場面を彷彿とさせる。いずれにせよ…必ずしも「これ」と特定できずとも、「ミュンヘン」全編に1970年代映画のテイストが充満している事は確かだ。

 そして「1970年代映画」という「典型」だからこそ、スピルバーグはこのシリアスな題材を破綻なく料理出来た。彼が「キャッチ・ミー〜」以来の成功作をモノに出来たのは、こうした一つの方法論を確立出来たからに他ならない。

 「典型」だからこそ、スピルバーグのお家芸である単純化・極端化・純化が可能だったのだ。

 

見た後の付け足し

 こうした方法論をスピルバーグがどうやって確立したのか? それについては僕も薄々分かりかけていながら、今ひとつハッキリとした事が言えてなかった。それも、この「ミュンヘン」が登場した今、ある程度明らかになってきたように思える。

 それは以前にも僕が述べていたように、「A.I.」スタンリー・キューブリック映画を通過した事がキッカケに違いない。

 キューブリックもまた無類のビジュアリストとして定評があった。元々が写真家の出身という点も、そのあたりを裏付けているところだ。だがキューブリックはスピルバーグと違って、「大人の映画作家」として堂々たる地位を築いていた。その違いは果たしてどこにあったのか?

 そのあたりについて僕が何かを断言出来るようになるには、今しばらくの時間が必要だ。だが、これだけは言える。キューブリックはキューブリックなりの「単純化・極端化・純化」の方法論を持っていた。おそらくスピルバーグも、キューブリック体験をした段階でそれに気づいたはずだ。それが何かと述べるのはいまだ時期尚早とは思うものの、いくつかのポイントを指摘することは出来る。

 例えば独自の路線で常に「我が道を行く」的スタンスを崩さなかったキューブリックだが、その作風はハタで思っているほどに「孤高」の域にあったものではないのではないか

 「シャイニング」におけるスティーブン・キング原作ホラー。

 「フルメタル・ジャケット」におけるベトナム戦争映画。

 最終的にキューブリック味に噛み砕かれてはいたものの、ちゃんと映画界の流れを敏感に察知し、それに追随しているような気配もあるではないか。つまりは、これこそ「典型」

 スピルバーグは、「これ」を自分なりのカタチで租借したのではないか。そしてシリアスな題材を彼なりに扱う方法を見出したのではないか。結論づけるのはまだ早いが、僕は何となくそんな気がしている。

 

付け足しの付け足し

 先にまったく「政治的」映画をつくるつもりはなかったはず…と断言した「ミュンヘン」。だがそんなこの映画にも、最後の最後にハッキリとしたメッセージが浮かび上がる。ラストショット…「監督:スティーブン・スピルバーグ」のクレジットも映し出されるこのショットで、彼方に見えるマンハッタン島に世界貿易センタービルがハッキリと見えているではないか。

 単純化で他の追随を許さない無類のビジュアリスト、スティーブン・スピルバーグならではの究極の「一発芸」。目で見て即了解のメッセージ…「報復の応酬の果て」がそこにある。

 むろん限界はある。ハリウッドの娯楽映画の大家として、スピルバーグには「ここまで」が精一杯だろう。だが、「あの」スピルバーグが「これ」をやったという事に何より最大の意味がある。

 これを、スピルバーグの作家としての成熟と言わずして何と言おう?

 

 

 

 

 

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