「単騎、千里を走る。」

  千里走単騎 (Riding Alone for Thousands of Miles)

 (2006/02/06)


  

見る前の予想

 農村純朴路線から豪華娯楽大作路線へと作品の方向転換ぶりが激しいチャン・イーモウが、今度何をやるのかは確かに興味津々だった。だが、それがまさか高倉健とのコラボになるとは誰が想像していただろう? 15年来の友情を育んできた二人が今…なんて事が盛んに宣伝されているが、そんなこと聞いてねえよ(笑)

 そんな事を急に言われても、何となくにわかには信じがたい感じ。チャン・イーモウが贅を尽くした大ヒット作2作の後に模索する方向が、「これ」…というのも意外だった。というか、ハッキリ言えば拍子抜けというのが正直なところだろう。

 おまけに高倉健を起用して何をやるかと思えば、余命幾ばくもない息子の望みを叶えるため、古い伝統芸能の芝居のビデオ撮影のために単身中国へ乗り込む父親の役と言う。ジェット・リーやらアンディ・ラウがCGやワイヤーの力を借りてチャンチャンバラバラ派手にやった後では、何だかどうにもパッとしない話だなぁ。

 しかもこの設定、どこからか取ってつけたような、かなり無理のある設定ではないか。どうやら長年心の溝が出来ていた父子の関係修復のため…とのことだが、何で中国の古い劇なのか、それをビデオ撮影したら何かいいことがあるのか。そもそも映画の物語なんて、一言で聞いて「なるほど!」と腑に落ちないとロクなものにならない。例えば…都会に行ってしまった子供を捜しに行く即席「先生」の話とか、惚れた男を追って一直線の純情可憐娘の話と比べてみても、何となくこの映画のお話はピンと来ないのである。

 そんなイヤな予感が的中してしまったのか。昨年秋の東京国際映画祭では審査委員長に呼ばれたチャン・イーモウに敬意を表して、この作品「単騎、千里を走る。」は特別招待作品として鳴り物入りで上映されたのに…。

 まったく評判が聞こえて来ない。

 一応チャン・イーモウと高倉健の顔合わせと来れば話題作だ。しかも招待作品の超目玉だ。放っておいても話題になるはずが、どうして全く誰も語ろうとしないのか。酷評でもいい、罵倒でもいい。普通は何か言われるはずだ。しかしそれすらないとなると…あまり酷すぎる出来で、みんなこの作品の事を口にするのもはばかれる雰囲気だったのか。誰も語りたがってないって事なんだろうか。

 そんなムードは公開が迫っても一向に変わる気配がない。何より、この作品を見たという人の話を聞かないのはどういう事か。僕は何となく、あのつまらなそうな話から想像してフヤけた作品を頭に思い浮かべた。そうなると…時間に限りがありモチベーションも著しく低下している今の僕には、決して見たい作品とは思えない。天下のチャン・イーモウの新作だというのに、僕は半ば「これはパスだな」と決めてかかっていた。

 ところが…天啓というものはあるもんだ

 日曜日に映画を見ようと地下鉄の駅にやって来たら、チャン・イーモウの盟友ともライバルとも言える男…チェン・カイコー久々の期待の大作「PROMISE/プロミス」のポスターがベタベタ貼ってあるではないか。うわぁスゴい顔ぶれ、何がどう転んでも面白そう、早く見たいなぁ…。

 おっと、待てよ? チェン・カイコーと来ればチャン・イーモウじゃないか。イーモウあってのカイコーではないか。ならばここでチャン・イーモウの新作も見ない手はないんじゃないか? そして今日の気分は…なぜか僕は急に「単騎、千里を走る。」を猛烈に見たい気分になっていた。いや、これは見ないと後悔するとまで思った。ここは見なきゃいかんでしょう。

 僕は突然見る予定だった映画をキャンセルして、「単騎、千里を走る。」公開中の劇場へと駆け込んだ。

 

あらすじ

 日本海の荒波打ち寄せる厳寒の漁村に、その初老の男・高田(高倉健)はたった一人で暮らしていた。まるで他者を寄せ付けぬような寡黙な暮らしぶり。だが、その内面には人知れぬ苦悩があった。それはここ10年来、一人息子の健一と全く疎遠になってしまっていたこと。ある事がキッカケで、息子の健一は高田に心を閉ざしてしまったのだ。いや、父親の高田の方が心を閉ざしたというべきか。

 だがそんな健一の妻・理恵(寺島しのぶ)から、突然高田に連絡が入る。何と健一が重い病気を患い、緊急入院したというのだ。ひょっとしたらこれが父子の関係修復を図る、数少ないチャンスかもしれない。取るものも取らずに上京した高田は、理恵と共に健一の病室を訪れる。だが健一は突然の父親の見舞いに逆上して声を荒げる始末。そんな息子の怒りの声を病室の外で聞いた高田は、静かにその場から姿を消すしかなかった。

 それでも理恵は、健一と高田の関係改善を諦めていなかった。彼女は健一の仕事を高田に知ってもらいたい…と、健一が昨年行った中国の仮面劇の取材ビデオを渡した。そこには古びた衣裳に身を固めた田舎役者が写っており、通訳を介して健一と言葉を交わしていた。

 「こんなもんじゃない、『単騎、千里を走る』はもっと素晴らしいぞ

 「そりゃぜひ見たいですねぇ。来年また見せてもらいに来ますよ」

 息子・健一は今年もこの雲南省を訪れ、同じ役者と再会するはずだった。そして「三国志」に材を取った伝統的仮面劇「単騎、千里を走る」をビデオに撮影するつもりだったのだ。だが、それはいまや果たせない。しかも理恵からの改めての連絡で、息子・健一は末期の肝臓ガンだと分かった…。

 高田はすべての思いを胸に秘めたまま、単身中国へ旅立った

 高田の旅を助けるのは、旅行者から派遣された若い女性ガイドのジャン・ウェン(ジャン・ウェン)。彼らは早速昨年のビデオ撮影の現場、雲南省の麗江市へと向かう。一方、高田からの突然の電話で彼が中国に着いた事を知った理恵は、そのあまりに突拍子もない行動に驚き、思いとどまるように説得する。だが、高田はあくまで退くつもりはなかった。あくまで息子の健一にはこの中国行きの件は伏せるように…と頼んで、問題の「単騎、千里を走る」ビデオ撮影に臨もうという高田だった。

 ところが簡単に済むと思っていたビデオ撮影は、思わぬ事で暗礁に乗り上げてしまった。すべてのお膳立てをしてくれたジャン・ウェンの友人チュー・リン(チュー・リン)が語るには、何とビデオに写っていた役者リー・ジャーミン(リー・ジャーミン)が、あの直後に暴力沙汰で逮捕されてしまったというではないか。今は刑務所にいるリー・ジャーミンは、おそらくあと1〜2年は出て来られない…。

 見るからに人の良さそうな男チュー・リンは、リー・ジャーミンでなくてもうまい役者はいる、第一仮面劇だから誰がやっているか分からない、中国人だって区別なんかつかない…と拙いながらも日本語を交えて「正論」を並べる。だが高田は一歩も退かない…いや、退けないのだ。ガイド社のクルマで麗江市を後にした高田だが、このままでは帰れない。帰りの車内で女性ガイドのジャン・ウェン相手に、刑務所に連れて行ってくれ…と頼みに頼む。とっておきのカネまで取り出す。だが、そんなモノを出されてもジャン・ウェンだって困る。刑務所に入った人間に会わせろ…という事になると、もはや旅行ガイドなどには力の及ばない領域なのだ。しかも彼女のガイドはこの数日しか予定していなかった。

 だが高田は譲れない。結局、旅行社にガイドを代えてくれと頼み込んだあげく、クルマを麗江市に引き返させるという強引さだ。これにはジャン・ウェンも根負け。知人のチュー・リンに後を託すことになる。高田が何か困ったら自分の電話に連絡をするように…とも言い残す。

 だが何と言ってもチュー・リンの日本語は拙い。それより何より、刑務所に頼み事なんて出来るのかどうか…。

 このチュー・リンという男、根っから人が良い上に楽観主義なのか、笑顔で高田のサポートを引き受ける。高田もこの中国では彼だけが頼りだ。一縷の望みを託すかのように、彼にお金を渡す高田であった。

 言葉も道案内も何もかも分からない。自分一人ではどうすることもできない。手足も口も耳も削がれたような、情けないほどの無力感を痛感する高田…。

 こうしてやって来たこの地区のお役所。陳情するため多忙なお偉いさんの部屋を訪れる二人だったが、お偉いさんはなかなか捕まらない。そんな待ち時間に高田の目を惹いたのは、壁一面に貼ってあるペナントのような真っ赤な旗。意味をチュー・リンに尋ねると、「中国では頼み事をする時に旗に願いを刺繍して持ってくるんです」…との答え。それらは役所に陳情に来た人々の「頼みごと」を刺繍した旗だったのだ。

 さて、ようやくやって来たお偉いさんだが、残念ながらというか予想通りというか芳しい答えは得られなかった。刑務所内で囚人に芝居をさせて、それを撮影するなんて前代未聞。そもそも外国人を囚人に会わせることからして問題外。前例がないのだ。チュー・リンの日本語では納得できず、携帯電話を介してのジャン・ウェンの言葉でようやく内容を理解した高田ではあったが、もちろんそれで納得した訳ではなかった。高田はチュー・リンを伴って街中を歩き回ると、一軒のある店の中に入っていく。さらにホテルの部屋でチュー・リンの手を借りて、何やらビデオで撮影を始めた

 その日の夜も更けてから、役所の前に立つチュー・リンに気づいたお偉いさんたち。彼は会議中だったお偉いさんたちを、今までじっと待っていたのだ。その手には、高田から託されたビデオテープ。お偉いさんたちは高田からのメッセージを、チュー・リンを通じて受け取ることになったわけだ。

 「それにしても、一体全体何でこんな面倒くさい事をするんだ? 直接話せばいいじゃないか」

 ともかく会議室にお偉いさんたちを集めて、テレビ画面にビデオの再生が始まった。登場したのはホテルの一室に座る高田その人。だが、じっと黙ったままなかなか口を開かない。

 「こんなカタチでしかお話出来ないことをお許しください…」

 そして始まったのは、高田がなぜ刑務所で役者に会わねばならないのか…その元々の発端の話だった。余命幾ばくもない息子のために、最後に心の垣根を取り払うために…。ビデオ画面を見つめていたお偉いさんたちは、いつしか言葉を失っていた。

 そしてビデオの最後に、高田はカメラに向かってある「モノ」を取り出した。それは役所の壁に貼ってあったあの真っ赤な旗。旗と同じくらい真っ赤に目を充血させた高田が、カメラに向けて掲げる2枚の旗。

 それは1枚が「助」、1枚が「謝」と大きく漢字が刺繍された、高田の心の叫びのような旗だった…。

  

見た後での感想

 どんな話かは分かっていたから、映画の冒頭も何の驚きもなかった。それに正直言って「日本編」から始まるこの冒頭は、何となく「作り物」感が漂う気がして危なっかしい雰囲気。映画が始まってすぐは、「大丈夫かな〜?」とひたすら心配になるばかりだった。確かに日本編は高倉健映画を多く撮っている「ツーカーの仲」、降旗康男の監督によるものだから当然なのだが、これがチャン・イーモウ作品なのだろうか?…と心配になっちゃうほどの凡庸さなのだ。

 そして、いきなり中国に行ってしまう健さん

 ムチャなのである。どう考えても無理な話なのである。気持ちは分かるが…アレだけで中国に行ってどうなる訳でもないし、普通行かないよ。お話がどだい無茶。それでどうなるって事は、普通あり得ない。

 ところが面白いのは、その無茶が「お話の無茶」から「健さんの無茶」にいつの間にかすり替えられていること。女性ガイドやら人の良いチュー・リンに「仮面劇なんて誰がやっても同じじゃないですか」とか「刑務所に行くなんて無理です」と「正論」を言われるうちに、観客の僕らにはいつの間にか無理に無理を重ねた脚本が不自然に思われなくなる。脚本が無理なんじゃなくて、高倉健という人物…ないしは彼が演じるキャラクターが無理難題を言っているように思わされていく。しかも、そんな無理難題を言ってるのがムスッと黙ったきりの高倉健だから、「あの人なら言いかねない」と思わされていく(笑)。そうすると、元々リアリティのある演出には定評のあるチャン・イーモウだから、すっかり観客はムチャクチャな話を信じ込まされてしまうのだ。この説明でみなさんにお分かりいただけただろうか(笑)?

 このへん何とも心もとないのだが、確かに真ん中に高倉健をドンと置くと、この無理のある話が「あり得る話」に見えてくる。他の登場人物がことさらに「無理だ」「無茶だ」と言ってる段階で、作り手は「それを承知」でつくっている事が分かるし、それが「無理」で「無茶」である事もちゃんと肯定している。そうすると…「こんなの無理じゃないの?」と半ばダマされた気分になりかかった観客は、自分が指摘する前に登場人物にその矛盾を言われちゃって、一旦はそこで気持ちの整理が出来てしまうのだ。「そうだよな、こんなの無理に決まってる」…と。では、どこが「無理」で「無茶」なのか? それはもちろん、あの高倉健その人の…そのたった一人の言動が「無理」で「無茶」なのだ(笑)

 さて、ここからが問題だ。作り手も登場人物たちも観客も、高倉健一人が「無理」で「無茶」なことでは共通認識を持った。あんな脆弱な動機で、行き当たりバッタリな発想で中国に行くなんてバカげてる。刑務所に外国人を入れるなんて、そこで芝居の撮影をするなんてとんでもない。無理に決まっている。作り手も登場人物たちも観客も…その点では意見の一致を見ている

 ところがチャン・イーモウは、ここからとんでもない力業に出るのだ。それはあの子を探して(1999)の終盤テレビ出演場面で、あるいは至福のとき(2000)のエンディングの録音テープ再生場面でそれぞれ遺憾なく発揮された、あの驚異的な説得力の演出。陳情用の旗…という脚本上の見事な伏線を駆使しながら、圧倒的なパワーで役所のお偉いさんもお人好しチュー・リンも…さらには見ている我々観客までもノックアウトしてしまう。それまでノンビリ気分で見ていた僕は、いきなりの怒濤の強烈演出にビビりまくってしまった

 ここで健さんが饒舌に理由について長々と語っても、脚本の無理はぬぐえなかったろう。そんな弁舌でお偉いさんが納得するなんて展開になったら、余計シラけるだけだ。もちろん健さんは一通りの事を語ってはいるが、すべては通訳を通した(それも「拙い」通訳である事が重要だ)不自由なカタチでしか伝わっていない。おまけに健さんの日本語自体が流ちょうなものとは言い難い(笑)。だからそれらは、メッセージや情報としては十分に機能を果たしていない。むろん、わざと機能を果たさないように設定されているのだ。そんな理屈や設定や前提はどうでもいいから…。

 漢字で二文字、「助」と「謝」

 

「漢字」の国の人だからこそ

 以前、僕はこの場で中国の海南島に行った時の話を語った。もうそれは読んだ…と思われる方もいらしゃるかもしれないが、僕はここで改めてそれを繰り返さずにはいられない。

 それは今から9年前のこと。ビデオ製作の仕事で渋々行かされた僕は、ビデオ・クルー数人を引き連れての中国訪問だった。最初から客のカネの支払い等のことで不透明な雰囲気が漂い、ビデオ・クルーたちは不満で爆発寸前。僕も自分が所属していた会社の社長から、「一切カネも払わず責任も取るな」との奇妙な命令を受けていた。当然クルーの不満の矛先は、すべて僕に向かう。まさに針のムシロの1週間だったわけだ。

 中国を描いた映画を見るたび、僕はどうしてもこの時の経験を思い出す。今回もそうだった。いや…今までで一番あの1週間が思い出された

 もちろん僕が向かった海南島は、「東洋のハワイ」と言われるリゾートで経済特区でもある。この映画に描かれていた辺境とは違う。僕が中国に渡った事情も雲泥の差がある。だが、それでも僕にはあの日々が鮮明に思い出された。

 連日連日、日本から同行のビデオ・クルーにイビられまくり。それでも連中のケアをしながら何とか予定のビデオ撮影を済ませなければ、一応の責任は果たせない。胃に穴が開きそうになりながら、中国人の通訳を頼りに何とか予定をこなす毎日。この通訳くんが人はいいんだけど日本語は下手。だからコミュニケーションを取るのが一苦労。いきおい筆談に頼る部分が多くなる。

 そう。ありがたい事に、僕らは「漢字」の国の人だった。むろん略字やら意味の異なる字もあっただろうが、大筋では何となく分かるのがありがたい。僕はノートをいつも持って、後は必死のボディ・ランゲージでやりとりをした。意味が通じたかどうかは分からないが、僕の必死さだけは伝わったはずだ

 そんな僕の必死さを横目に、ビデオ・クルーは言いたい放題。撮影後に飲み物が用意してないから買って来いだの、撮影したいものがあるから調達して来いだの、用意したグライダーがボロボロだから乗れないだのと文句言い放題。僕が大人しく聞いているのを良い事に怒鳴りまくっていた。「いいか、オレは日本テレビの仕事もやってるんだ! 先週は美川憲一の撮影をしたんだからな!」…それのどこが偉いんだバカ。

 おそらく同行の中国人通訳や周囲の中国人の人たちも、僕が孤立無援の状況にある事だけは分かっていただろう。そして、それがおよそ理不尽な言いぐさという事も分かっていたはずだ。あのビデオ・クルーたちの尊大な態度。おまけに仕事に対する姿勢もどうかと思う。ハッキリ言って僕が日本テレビの上層部なら、例え美川憲一が屁をこくカットを撮影するのにも使わないだろう。むろん周囲の人間には、その態度の悪さはミエミエに伝わっている。

 僕らがいたのは、まだ未開発の湖沼地帯やら海岸。「東洋のハワイ」だの経済特区だの言っても、まだ開発されていない場所は電気が通っているのもやっとの寒村そのものだ。電話をかけるのも一苦労。クルマがなければどうにもならない。何より、周囲には言葉が通じる人間が全くいない

 そんな場所のまっただ中にいながら、本来自分の同胞である「日の丸組」は、僕の足を引っ張るか僕を罵ることしかしない。こんな奴ら、まったくいない方がマシだ。そしてつくづく思い出してみれば、僕は海外でこんな経験ばかりしている。僕はいつも「日の丸の同胞」に悩まされ、足を引っ張られ、裏切られていたのだった。そして僕を助けてくれたのは現地の人々だったり、アメリカ人の旅行者だったり…。なぜかいつも、海外ではジャップのイヤな面ばかり見せつけられる。

 中でも思い出深いのは、リゾート・ホテルの建設現場でのこと。まだ建設用の足場を組んでいる段階で、現地の労働者たちが大勢働いていた。そこで撮影をしようということで、ビデオ・クルーと現場にやってきたわけだ。ところがクルーの連中はあれこれ早口でわがままを言ったあげく、言葉が通じないとイラだって僕を嘲り倒した。これには大人しい中国人通訳がキレたんだよね。

 「この人はちゃんと分かるように伝えてくれるよ。アンタたちと違うよ!」

 そしてたちまち僕らの周りを、何十人もの屈強な中国人労働者が取り囲んで来た。いや〜、あれは頼もしかった(笑)。筋肉ムキムキのショウ・ブラザース映画に出てきそうな男たち(笑)が、生意気なギョーカイ風吹かすビデオ・クルーたちを包囲。さすがに連中は真っ青になっちまった。まさに胸のすく思いとはこのことだ。

 「お、お、お、お、おい。ちょっと冷静になれよ…」

 あのビビりまくる連中の顔は、ちょっとした見ものだった。やっぱり人間、あまり調子に乗るものではないという見本だ。僕は胸の内で大いに溜飲を下げていた。

 それより何より…「わが同胞」は僕を追い込むばかりだったのに、異境の人間たちがみんなで僕をかばおうとしてくれた事が嬉しかった。彼らは日頃から僕の様子を見ていて、あまりの仕打ちに見るに見かねて立ち上がったのだ。空威張りの「同胞」と彼らでは、一体どっちが人間としてオレに近いのか。僕はこの時のことがあるから、ええカッコしいした「改革」政治家などの口車なんかには絶対に乗らない。汚いウソつきは誰か分かっているからね。「ノー・ボーダー」は、僕にとっては決してカップヌードルの空疎な宣伝文句ではない。むしろ敵はボーダーの中にいる

 事が終わった後で、ビデオ・クルーの連中は「中国人を手なずけやがって」…と再び僕をイビり始めたが、もうそれまでほど調子に乗った態度は見せなくなった。大体あの連中、その日は1日中青ざめた顔をしていたっけ(笑)。

 それからも周囲の中国人スタッフの人々は、さまざまな形で僕を助けてくれた。彼らは彼らなりに、僕がそれ以上理不尽にイビられないように…と心配りをしてくれたのだ。だからクルーの連中がムチャなわがままを言って来ても、何とかその願いを叶えてくれた。会社のお偉いさんの接客中に「会議室から飾り物を取ってこい」という嫌がらせみたいな要求をぶつけられても、何とか調達して持ってきてくれたりもした。その時には、思わず中国人スタッフと抱き合って喜んだりしたものだ。あれは一生忘れる事が出来ない。

 それもこれも…きっと僕が一縷の望みを託して、彼らに必死にノートの漢字を見せていたからではないだろろうか。僕は何となくそんな気がする。どうしても自分の必死の思いを、直接彼らに伝えたかった。そうせずにはおれなかった。それが多少なりとも伝わったんじゃないかと思うのだ。

 帰りが間近になった頃、僕は中国人スタッフたちにお礼としてアレコレ持ち物を譲ったりした。モノがすべて…というわけではないが、せめてもの気持ちを渡したかったのだ。どれも大したものではない。日中会話用豆辞典…とか、僕が使おうと思って持ってきたモノばかりだ。それでも…目の前に品物を差し出すと、彼らは受け取ったものやら…と困惑の表情を見せた。だから僕は、ノートの紙にこう書いて渡したのだった。

 「贈呈」

 あの漢字を見た彼らの笑顔を、僕は今でも忘れる事が出来ないのだ

 

見た後の付け足し

 漢字の二文字、「助」と「謝」…それは「助けてください」とか「お願いします」とか…そんなギリギリのメッセージしか意味していない。日本人の健さんにはそれしか書けない。

 むろんそれまでの健さんも寡黙でストイックで、饒舌などとはほど遠い。だがそれらも「寡黙」「ストイック」というラベルを貼れるだけ、まだどこか借り物だったり手垢にまみれた凡庸さだったり、そんなええカッコの既成概念を引きずっていたのではないだろうか。だから「ストイックだな」と感心はさせられても、人の心は微動だに動かない。冒頭の日本編でのシラジラしさは、そんなええカッコがまだ健さんにまとわりついていたからだろう。

 だが「助」と「謝」に至っては、それはもう「助けて〜」の領域に近い。誰かに「何とかして〜」と叫んで頼んでいるようなものだ。もうとてもじゃないがええカッコなんか出来るレベルではない、「寡黙でストイックな健さん」なんて言ってる場合ではない。見栄も恥も外聞もない、恐ろしく無力で無防備で添加物ゼロのメッセージになっているのだ。そんなメッセージをいきなり投げつけられたら、こちらだってどうしても無防備になってしまう。

 だから旗の文字が登場した瞬間、まさにスクリーンから催涙弾を投げ込まれたような衝撃を受けてしまった。この必死さは僕にも分かる。僕は一気に涙腺が緩みまくったあげく、すっかり心構えを切り替えさせられてしまったのだ。もう「無理」でも「無茶」でも、そんなもんどうでもいいよ…と。

 その後に健さんは刑務所に行って役者に会うが、今度は役者が演じられないと泣き出す。それは彼が刑務所に入った後に生まれた息子に会いたいから…。そこで健さんは、今度は役者の幼い息子を捜して山奥に乗り込む…。このお話の展開がいかに無理で無茶か、これだけ読んでもお分かりいただけるだろう。しかも役者の幼い息子探しが、いつしか主人公・健さんと息子との関係の二重写しになるあざとい設定であることは、誰の目にもミエミエに明らか。イヤになるほど図式的でわざとらしい脚本だ。

 むろん演出力では目下世界一の映画監督チャン・イーモウだから、素人役者の起用をはじめとしてリアリティの補強にこれ務めて、あざといコテコテ趣向を一見リアルな設定に見せかけることに成功してはいる。だがそれだけでは、この無理に無理を重ねた脚本で観客を納得させることは出来なかっただろう。結局何が最大の説得力になったかと言えば…健さんの「助」と「謝」。すべての虚飾をはぎ取った、何をどうやってもウソも隠しもハッタリも出来ないこのメッセージが、映画の最後までずっと機能し続けているからだろう。

 一回裸になってしまった健さんだから、その後で何を言ってもやってもウソに見えない。もうええカッコしてるように見えない。元々が「不器用ですから」の役者の健さんだから、それが可能なのだ。その意味で、高倉健という俳優の本質をここまで見極めて使い切ったチャン・イーモウは、演出家として本当に素晴らしいとしか言いようがない。

 もちろんチャン・イーモウが「紅いコーリャン」(1987)から「あの子を探して」初恋のきた道(1999)などで見せてきた辺境描写も今回は十分活かされている。特に絶景なのが、四国の徳島県阿波市にある「土柱」という特殊な地形に似た、実にユニークな風景。ただし似ていると言っても徳島県の「それ」の10倍か20倍はありそうな規模で、この風景だけでも一見の価値がある。ここに迷い込んだ健さんと少年の楽しい描写も見どころだ。

 さらにチャン・イーモウの巧みなところは…先にも述べた降旗康男監督起用による日本場面にも意味があったことだ。

 最初この映画の日本場面が降旗監督によって撮影されると聞いて、チャン・イーモウ自身が説明した「日本の場面は日本人が撮らなきゃあ」…という理由に納得したような気持ちになったものの、「それで一本の作品になるのかいな?」という疑問はどうしたって拭えなかった。あれだけの世界的巨匠監督が…こう言っちゃ何だが「明らかに格下」の一介の日本人監督の手に一部なりとも作品を委ねるというのは、どう考えてみても不自然だと思えた。監督というものはすべてを自身でコントロールしたがる人種であろうと思うし、口を出したがるはず。しかも今回実物に接して驚いたのは、何と映画の冒頭部分に相当する箇所ではないか。そんな大事なところを、簡単に他人に任せたとは何とも解せない。

 で、やっぱり映画を見始めると…邦画ファンには大変申し訳ないが、その降旗日本場面が何とも弱いのだ。たぶん過去の高倉健主演作品から切って貼ったよう…なのだろうと思われる雰囲気。確かに丁重に撮ってはいると思うが、「寡黙でストイック」なカッコいい健さんを例によって例のごとく撮ったという感じ。凡庸と思ったのは「それ」だ。それはすでに「形骸化」した健さんイメージだ。

 ところがそんな型にハマった日本場面が終わると、いきなり健さんは中国に放り出される。そこでも最初のうちは健さんもいつもの寡黙とストイックを守ろうとしているが、そのうちそれが単なる手も足も出ない何も言えない状態と五十歩百歩になる。とてもじゃないが寡黙とストイックとは言えなくなってくる。「寡黙」ってのは「しゃべれるのに黙っていること」を言う。ここでの健さんは黙っているのではなく、しゃべりたくとも「しゃべれない」のだ。

 そしてついに打つ手がなくなった健さんは、例の「助」と「謝」を出してくる。もうカッコなんかつけていられない。

 そうした健さん演じる主人公の心の状態が、形骸化したええカッコの日本場面…から虚飾をはぎ取られていく中国場面…という風に、ハッキリ際だって見える。だから「弱い」日本場面も後々見れば生きてくる。何と…この「弱さ」すらもチャン・イーモウの「想定内」だった可能性があるのだ。だとしたら…何ともいやらしくもうまいと言わざるを得ないではないか。

 正直言ってこの映画は、終盤に至ってダラダラと無駄が多くなって緩くなる。そのあたりも含めて過去の作品群と比べて、「完成度」の点ではイマイチなのかもしれない。確かに一分の隙もない…という作品ではないのだ。だがこの作品には、思わず心に食い込んでくる突出した部分もある。むしろそのゴツゴツとしたような「粗さ」こそが魅力でもあるのだ。そして、そんな「粗さ」も「想定内」だとしたら…実にイヤな奴、食えない奴だが、チャン・イーモウはさすがに演出家として超一流だとしか言いようがないではないか。

 さて、「あの子を探して」「初恋のきた道」…の純朴路線から「至福のとき」の少々辛口リアリスティック路線を経て、いきなり豪華娯楽大作路線のHERO/英雄(2003)とLOVERS/謀(2004)へと変貌を遂げてきたチャン・イーモウ。それらが実はチェン・カイコーの作品群とともに、広い大衆にも受け入れられ世界にも通用する中国映画を模索してきた…その軌跡であった事は僕が以前から指摘していた通りだ。少なくとも、僕はずっとそう思って来た。

 そうなると、この「単騎、千里を走る。」はどういう位置づけの作品になるのか。確かにここへ来て、その路線変更に掴み所のない気分になる方もいらっしゃるだろう。もちろん僕だってチャン・イーモウの方針の本当のところは、この次の作品を見ないことにはハッキリとは分からない。

 だが僕は今回の作品を見て、一つの確信に近いものを得られた。それはチャン・イーモウが中国発世界行きの大衆映画に飽き足らず、次の段階…アジア発世界行きの大衆映画への模索をスタートさせたらしいという確信だ。

 おそらくそのハッキリとした回答は、チェン・カイコー「PROMISE/プロミス」にあるに違いない。

 

付け足しの付け足し

 先に述べた荒涼たる風景の中、健さんと少年が道に迷ってしまうくだりが出てくる。そこで突然少年が尻を出してウンコをするのにはビックリさせられるが(何と!本当にウンコをしている!)、もっと傑作なのは健さんの一言。

 「ウンコしてる場合かよ」

 これには劇場でも観客は爆笑。何とも絶妙なタイミングと口調のこの一発ギャグにはまいった。この一言を聞くためだけでも、この映画は見る価値があると断言できるね(笑)。

 

 

 

 

 

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