「プライドと偏見」

  Pride & Prejudice

 (2006/01/30)


  

見る前の予想

 今、最も旬なスターと言えば、誰が何と言おうとキーラ・ナイトレイだろう。パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(2003)、ラブ・アクチュアリー(2003)、キング・アーサー(2004)、そしてドミノ(2005)…と良くも悪くも話題作ばかり。役の振幅の激しさも、彼女のスターとしての注目のされっぷりが伺える。そんなナイトレイが今度は昔のイギリスを舞台に、名優たちと共演の文芸大作に出る…と来るのはごく自然な事だろう。イギリスの役者としては、こういう仕事がこなせなければ。あとは「ハリー・ポッター」シリーズに出る事ぐらいだろうか(笑)。…それはともかく、その新作が何とジェーン・オースティン原作「高慢と偏見」の映画化と聞いて、僕は俄然期待してしまったのだ。旬のキーラ・ナイトレイ主演でジェーン・オースティン。何となく企画としてイイ感じがするではないか。

 

あらすじ

 18世紀のイギリスの田舎町。娘ばかり5人もいるベネット家では、今日も今日とてやかましい母親・ベネット夫人(ブレンダ・ブレッシン)が大騒ぎ。近所の豪邸に、財産家の独身男性が引っ越してくるというのだ。これを捕まえれば玉の輿…とばかり、夫のベネット氏(ドナルド・サザーランド)の尻を叩く始末だ。「何としても娘たちの一人をもらってもらいましょう!」

 5人の娘たちも「独身男性」と聞いて色めき立ったものの、この母親の盛り上がりっぷりはいささか常軌を逸しているように見える。それもそのはず。娘ばかりのベネット家には、相続権を持つ者がいない。もし父親のベネット氏が亡くなったら、その家や財産は遠縁の男子が相続する事になってしまう。そうなれば娘たちは路頭に迷う事になるのだ。ならば何としても資産家に嫁がせねばならぬ

 舞踏会に問題の「独身男性」がやって来ると聞いたベネット家の面々は、目一杯おめかしして会場に乗り込んだ。むろんウキウキなのは母親だけではない。大人しい長女ジェーン(ロザムンド・パイク)から、いささかオツムと尻の軽そうな末娘リディア(ジェナ・マローン)に至るまで、みんなそれなりに盛り上がっていた事は言うまでもない。本の虫であり気も強く、ちょいと世の中斜に構えて見るところがある次女エリザベス(キーラ・ナイトレイ)にしてみたところで、やっぱりそれなりに気分が高揚していた事は事実だ。

 話題の資産家の「独身男性」は、ウワサ通り舞踏会に姿を見せた。その名はビングリー(サイモン・ウッズ)。だが彼と一緒に会場に姿を見せた若い男がいる。それがビングリーの親友で、さらに資産家として名高く「独身男性」のダーシー(マシュー・マクファディン)だ。むろん資産家で「独身男性」となれば若い女の子たちの気を惹かない訳がない。だが愛嬌たっぷりのビングリーと違って、ダーシーは何とも親しみの湧かない男。気難しそうでクラくて偉そう。おまけに舞踏会に現れながら「ダンスなんてしたくない」…とブーたれる始末。ベネット夫人は娘たちを何とか知り合いにさせようとビングリーとダーシーの前に引きずり出すが、ビングリーは親しげな態度を見せるもののダーシーは仏頂面。まるで社交性ゼロだ。

 舞踏会が盛り上がる中、何と早くも親しくなるビングリーとジェーン。ところがエリザベスは、物陰からダーシーがエリザベスを「魅力ナシ」と言い切っているのを聞いてしまった。「そりゃ結構。こっちも最初から願い下げよ!」

 さて翌日、母親の熱意か舞踏会での印象がよほど良かったか、長女ジェーンに早速ビングリーの家から招待状が届く。ただし…ビングリー本人は不在で、なぜか彼の妹からの招待。早速馬車を仕立てて出かけようとするジェーンに、母親は何を思ったかこう厳命するのだった。「馬車はダメ! 馬で行きなさい」

 その言葉通り馬で出かけたジェーンは、途中に降り出した雨でズブ濡れ。すっかり風邪をひいてビングリー邸に到着。そのため、向こうで寝込んでご厄介になる事になった。むろんすべて空模様を睨んだ母親の作戦だ。これには父親のベネット氏も辟易。エリザベスも皮肉っぽい言葉を投げかけたくもなる。「まさか雨もお母様が降らせたんじゃないでしょうね?」

 それにしてもあんまりと言えばあんまりなやり方だ。姉が心配になったエリザベスは、翌日雨が上がるや早速ビングリー邸へと歩いて出かける事にする。迎えたビングリー邸には、彼の妹キャロライン(ケリ−・ライリー)とあのダーシーがいるではないか。ダーシーは相変わらず非友好的態度だし、キャロラインもどこか高慢で人をバカにしたような態度が鼻につく。エリザベスはたちまち居心地の悪さを味わった。

 だが奥の部屋で寝込んでいる姉ジェーンは、元々人を悪く思わない性格のせいか単純にみんなを「親切な人」と感謝していた。しかもそこに、ジェーンの来訪を喜ぶビングリーが帰ってきたではないか。二人の親密ムードにエリザベスも顔をほころばせた。

 だがそんな折りもおり、よせばいいのにベネット夫人と末の娘たち三人までビングリー邸にやって来たから始末に負えない。気難しそうなビングリーの妹キャロラインはズバッと皮肉っぽい台詞を吐いた。「まったく、町中のベネットがやって来たの?

 ベネット夫人はジェーンとビングリー「縁結び作戦」の首尾が知りたくて知りたくてたまらずやって来たのがアリアリ。末の娘たちもおよそ常識と恥じらいがない。早い話が、ベネット家の人間は場の空気が全く読めてない。キャロラインの慇懃無礼な態度には全く負けてなかったエリザベスも、さすがにこれには肩身の狭さを感じずにはいられなかった。そんな焦りや気後れが災いしてか、帰り際に馬車に乗り込む時、そっと手を貸したダーシーの想いをまったく読めなかったエリザベスだった…。

 ところが間もなく、ベネット家に招かれざる客がやって来る。それはこの家の相続権を握る遠縁の男牧師のコリンズ(トム・ホランダー)。こいつがまったく食えない人物で、テメエのケチ臭い考えを堂々と披露して全く恥じない。これまた全く分かっていない男なのだ。だが我が家の相続権を握っているとなれば、ベネット夫人もそうそう邪険には扱えないのだ。しかも大胆不敵なことに、コリンズはジェーンを「妻にめとりたい」と申し込むではないか。だが良縁が進行中なのに余計なジャマが入っては面倒だ。ベネット夫人はすぐに、次女のエリザベスではどうだ?…と斬り返す。するとコリンズもコリンズで、「次女でもいい」との返事。本人も知らないうちに、ひどく安易に縁談が進んでしまった。

 そんな田舎町に軍隊がやって来たのは、間もなくのことだった。「若い男」と来れば色めき立つベネットの娘たち。何と斜に構えていたエリザベスでさえ、色男の青年将校ウィッカム(ルパート・フレンド)には気持ちがグラついた。おまけに「私は恋する将校です」…とまで言われては…。

 そんなベネットの娘たちとウィッカムが歩いていると、何とビングリーとダーシーが歩いてくるところにバッタリ。ところがダーシーはウィッカムの姿を目に留めると、そのままそっと立ち去るではないか。さてはウィッカムとダーシーは、何かいわくがあるのでは…。

 問いつめるエリザベスにウィッカムは語った。元々ダーシーとウィッカムは幼なじみだったが、過去に諍いがあってダーシーはウィッカムにひどい事をしたのだ…と。これを聞いたエリザベスは、ますます「わが意を得たり」とダーシーをイヤな奴と決めつける。

 翌日の舞踏会にも押し掛けるベネットの娘たち。エリザベスのお目当ては色男ウィッカムだ。だがウィッカムはなぜかこの場に来ていない。ちょっとガッカリのベネットにダンスを申し込んだのは、何とあのコリンズ。ほとんど冗談半分ヤケクソ半分でダンスの相手をするエリザベスだが、コリンズは本気も本気だ。さらには…何とダーシーまでダンスを申し込んでくるから、エリザベスには厄日のようなもの。ダンスの途中も延々ダーシーにイヤミたらたらブチまけ放題のエリザベスだった。そしてその他にも…ベネット夫人は長女の縁談がすでに決まったも同然みたいな不用意な言動を連発するわ、不器用な三女メアリーがヘタクソなピアノを披露して場を盛り下げるわ、パッパラパ〜な四女キティと末娘リディアが酒でベロンベロンになるわ…で、ベネット家総出で恥さらし大会のようなアリサマ。これにはさすがにエリザベスも、いささかユウウツにならざるを得ない。

 さらに彼女のユウウツは続いた。何とコリンズが正式に求婚してきたのだ。いくらその気はないと言っても、「まずは断るのが淑女のたしなみだと思っているんだろ?」と全然メゲてないコリンズ。それをやっとの事で言って聞かせたエリザベスは、家のために何としても縁談をまとめようとする母親の思惑にウンザリして家を飛び出した。しまいには父親まで引っ張り出して説得しようとするベネット夫人だが、これにはベネット氏がウンザリ。ベネット夫人が「求婚を受け入れねば親子の縁を切る」と言い出すに至って、ついに口を開いた。

 「母さんはこう言ってる。そして私は、オマエが求婚を受け入れたら親子の縁を切るぞ

 そんな飄々としたベネット氏の言葉に救われたエリザベス。ベネット夫人は怒り心頭だったが、ともかくその場は収まった。だが、彼女のユウウツはまだまだ続く

 何とコリンズが次に求婚したのは、エリザベスの旧友のシャーロット(クローディ・ブレイクリー)だ。何だか手当たりばったりの観がない訳でもないコリンズだが、これにはエリザベスもビックリ。縁談を受けたシャーロットにも、思わず「あのコリンズでいいの?」と改めて問わずにいられない。だがすでに年齢も「いいトシ」、将来への不安もあった彼女は、「安定した生活」というだけでいい…とエリザベスに告げる。これもまたこれで、「その人なりの選択」と納得せざるを得ないエリザベスだった。

 一方、順調にいっていると思われていたジェーンとビングリーにも、なぜか突然青天の霹靂。ビングリーが妹キャロラインと共に、いきなり屋敷を引き払ってロンドンに去ってしまったのだ。結局「それから先」の進展なしに放り出されたカタチの長女ジェーンは大ショック。何とか大人しいジェーンの尻を叩かねば…と、エリザベスは彼女をロンドンの叔父のもとへと行かせるのだった。

 さらにエリザベスは、コリンズと結婚したシャーロットの新居を訪問。コリンズは相変わらずだったが、それなりに自分の居場所を見つけているシャーロットを見て、エリザベスはちょっと安心する。

 ところがなぜか、コリンズの後見人である偉いエライ女主人キャサリン夫人(ジュディ・デンチ)から、直々に招待のお誘いが来るではないか。コリンズ夫妻と共にその豪邸にやって来たエリザベスは、そこでまたまたあのダーシーと出くわしたから驚いた。叔母であるキャサリン夫人の家に遊びに来ていた…との事だが、当然そんな事はエリザベスは聞いていない。

 さて、この日の招待だが…どうもキャサリン夫人のお目当ては、コリンズ夫妻ではなくエリザベスのようだ。慇懃無礼な質問がアレコレ飛んでくるわ、ヘタだと言ったピアノを弾けと命じられるわ…何となく「嫌がらせ」に感じられなくもない展開ではあったが、持ち前の負けん気で一歩も退かないエリザベス。そんな彼女を黙って見つめているダーシーだった。

 その場にはダーシーの親しい友人もいて、エリザベスにダーシーの事をホメにホメる。そこまでは良かったのだが、彼は調子に乗って余計な事まで口走ってしまった。「友だち思い」のダーシーは、「友だちビングリーのためを思って」彼と身分違いの女との仲を引き離した…と告げたのだ。これにはエリザベスは思い切り大爆発だ。

 ところがダーシーはどこまでも間の悪い男。そんな最悪のタイミングで、エリザベスの元に求愛にやって来るではないか。しかも求愛の前口上がこれまた悪かった。「家柄や身分の違いにも、自分の気持ちを止めることはできず」…ってのは、口が滑ったにしても言うべきではなかった。火に油を注ぐというのは、まさにこのことだ。

 「どこまで私を侮辱したら気が済むの!」

 こうなるとエリザベスの悪口雑言も立て板に水の勢い。そもそも女に悪口を言わせれば止まらないのが世の常。おまけに今の彼女は、ダーシーがジェーンとビングリーの仲を引き裂いたこと、かつてウィッカムをひどい目に遭わせたこと…など文句を言うネタに事欠かなかった。一気にボロクソにコキ降ろしたあげく、最後にダメ押しの一言を言うのも忘れないのは女の得意技だ。「最初からアナタと結婚するのだけはイヤと思っていました!」

 これにはさすがのダーシーも憮然呆然。「もうあなたのお手間をとらせる事はありません」と一言絞り出すように言い残して去っていくことしかできない。

 さて、言いたい事を言ってスッキリ…のはずのエリザベスだが、意に反してそうはならなかった。人をやりこめてキズつけるなんて事は、それが例え誰であれ気分のいいことではない。おまけにダーシーの言った事の半分は、不愉快ではあったが事実でもあった。ダーシーが、ジェーンの内気を「男を弄んでいる」と受け取ってしまったのは誤解だ。だが「ベネット家の人々には…残念ながら“品”が欠けている」と指摘したことは、認めたくないが本当の事だ。そう言われても仕方のないことだ。自分がダーシーに繰り返して見せてきた態度も、決してホメられた事ではあるまい。

 呆然とたった一人でコリンズ宅に佇んでいると、いつの間にかダーシーがやって来て手紙を置いていった。そこには彼の「釈明したいこと」が書いてあった。実はあの色男のウィッカムはとんだ食わせ者で、ダーシーの父親からもらった財産をバクチでするようなチンピラ男。その後もカネの無心に来るだけでなく、ダーシーの15歳の妹をだまそうとしたゲス野郎だと言うのだ。これにはエリザベスも、自分にまったく男を見る目がなかったと恥じ入るしかなかった。自分の方も、ダーシーをまったく誤解していたのだ。

 そんなこんなでさすがに落ち込むしかないエリザベスの元に、とんでもない知らせが飛び込んで来た…。

 

今風な男と女の間柄を描くジェーン・オースティン

 ジェーン・オースティンと聞いて僕がピピッと反応した訳は、別に僕が熱烈なオースティンの愛読者だから…という訳ではない。大体、男でオースティンの愛読者なんてあまり聞かないんじゃないだろうか。どれもこれもいわゆる恋愛小説だからね。

 だが英文学を専攻した人間なら、絶対オースティンの名前は聞かされるハメになる。恥ずかしながら、僕も大学でこの映画の原作を読まされた訳だ。その時の題名は「高慢と偏見」、あるいは「自負と偏見」だったろうか。だが今回、映画版の邦題「プライドと偏見」を見ると、これが今の僕らの気分には一番ピタッと来る言葉のように思う。確かに…英文学の過去の名作にカタカナ題名は似合わない。だが、ことオースティンの小説に限って言えば、「今の人々の気分」に合うかどうかは結構大事な気がするのだ。

 というのも、彼女の小説はまさに…世界で初めて現代人の男女の心の機微を的確に描いたもの…と言えるような気がするからだ。昔のイギリスの小説に「現代人の男女の心の機微」なんて奇妙な気がするかもしれないし、こんな見方はイギリス文学に詳しい人からすれば笑止千万かもしれないが、僕にはそんな気がする。タテマエと本音、心と金銭、なまじっかちょっとばっかり学がついたが故の思い込みやら心の垣根、どっちが勝ちか上かを比べる勝者争い…そして今まさに平等幻想が崩れて貧富や社会階層の開きが実感となりつつあるだけに、そこで描かれている社会階層の障壁すらタイムリーに感じられる皮肉。彼女の小説のヒロインたちがいくらかフェミニズム的な気分を体現しているあたりも、作品世界をイマドキのものに感じさせている所以だろう。しかも作品成立当時、そんな自我だとかフェミニズムだとか本音だとか…ってのは、まだまだ現実にはムキ出しになっていなかったのではないか。これほど今の人々の気分に訴えかけることが、実に不思議に感じられてくる。

 もっとも僕も大学でオースティンを押しつけられた時には、まるで読む気がしなかった。頭にも入らなかったし、高慢ちきな女が主人公の古いロマンス小説が読みたいわけもない。実際にちゃんと触れる事になったのは、30代になろうかという頃ではなかったろうか。その時には、結構感心したような覚えがある。ま、見ようによっては「ハーレクイン・ロマンス」と五十歩百歩とも言えるのだが、そもそも恋愛を扱った小説などどれもそんなものだろう(笑)。

 そしてジェーン・オースティンの小説は最近何作か映画にもなっていて、これがそれぞれなかなかの出来映えなのだ。例えばアン・リーが監督した「分別と多感」の映画化「いつか晴れた日に」(1995)、そしてグウィネス・パルトロウやユアン・マクレガーが主演の「エマ」(1996)。どちらも僕が先に述べたような、今の男女の気分にも相通じるような要素が映画を「今の作品」にしている。むしろジェーン・オースティン小説の映画化は、これからが「旬」なのかもしれないような気がするのだ。

 …な〜んて事を言ってると、どこからともなく英文学専攻の人やらジェーン・オースティン好きの人からの嘲笑が聞こえてきそうだ。むろん僕などは門外漢で、単に知ったかぶりを書いたに過ぎない。だからゴタクもこのへんでやめにしておこう。とかく何かと「通」がうるさいんでねえ…。

 ともかく僕が今回の「プライドと偏見」を心待ちにした理由、お分かりいただけただろうか?

 

見た後での感想

 人は見かけによらない…というのが今回の趣旨で、それを見抜くのをジャマしているのが個人のちっぽけなプライドと偏見だ、というのがこの映画の主張。そう言ってしまうとすべて言い終わってしまうから困ってしまうのだが(笑)、実際この映画の言いたい事はそういうことだ。で、正直言ってこの映画の「面白さ」は、ジェーン・オースティンの原作にすでにあるものなのだ。そういう意味で、これはたぶん忠実な映画化と言うことが出来るのだろう。

 だから今回のお楽しみとしては…どの役を誰がやって、どう味付けされているか…に尽きる。もちろんそういう意味では、この映画の目玉はキーラ・ナイトレイだ。

 英国映画界久々の、直球ど真ん中正統派スター。ハリウッドも英国映画界も、何とか彼女を大スター=大女優に育てようと一生懸命なのが分かる。ハリウッドでの彼女の支持者最右翼が、とかく批判はあっても実は「役者を大切にする」大作映画プロデューサー…ジェリー・ブラッカイマーであった事は彼女にとって幸運だったのではないだろうか。さらに「ラブ・アクチュアリー」と今回の作品で、イギリスで一番元気のあるワーキング・タイトルも彼女を後押しした。正直言って僕は彼女がそんなに好きなタイプではないし、少々「受け口」気味の顔も大して美人だとは思わない。実はビックリするほどバストもない(笑)。だが彼女に一種の「華」があることだけは認めないわけにいくまい。ちょっと大味で「何をやってもキーラ・ナイトレイ」なところが、実は主役を張る大スターに最も必要な資質だ。

 今回も彼女は別にうまくも何ともない。いわゆるNHK朝の連続テレビ小説やら「リトル・マーメイド」以降の近年ディズニー・アニメ映画でお馴染みのキャラ=絵に描いたようなヒロイン像しか造形できてない。それは冒頭からいきなり「本読んでる知的な女です」という「まんま」演出しか出来なかった新人ジョー・ライト監督の力不足でもあるのだが、ともかく別にどうって事ない芝居しかやってない。

 だが彼女には「主役」を張るだけの器はどうしようもなく備わっていて、うまくもないのに重鎮ジュディ・デンチと張りあうだけのスケール感はあるのだ。そしてこの程度のキャリアと演技力で堂々デンチと張りあおうという図々しさもある(笑)。で、映画にはむしろこっちの方が大事なのは間違いない。

 何でも今回どうしてもこの映画に出たくて、起用を渋る監督に「とにかく一度会ってくれ」と迫ったらしいキーラ・ナイトレイ。だが19かハタチの小娘の分際で、自分が監督に会いに行くのではなく監督を出演作のロケ地シカゴに呼びつけてしまうあたりの「自分の立場の分かってなさ」(笑)がキーラ・ナイトレイ大物の所以だろう。出てきた時から観客が迷わず「主役」と見なすデカい器(とデカい態度)を持っているのが、キーラ・ナイトレイ最大の強みなのだ。あとはむしろ小さくまとまっちゃって、うまくなろうなんて思わないことだろう。どうせ頭も良くなさそうだし芝居もうまくなんかなれっこないんだから、そんな事はやめた方がいい。あと、CG大作全盛のハリウッドが、彼女のためのドラマ映画を用意し続けられるかどうか…。

 この映画はこのキーラ・ナイトレイを盛り立てるべく集められた脇の人々も充実していて、「秘密と嘘」(1996)から絶好調持続中のブレンダ・ブレッシンの身に染みついた安っぽさあたり、実に安心して見ていられる。そして末娘役ジェナ・マローンが出てきただけで漂わせる頭と尻の軽さ。まるでオーランド・ブルームの出来損ない(笑)みたいな青年将校役ルパート・フレンドの、思い切り薄っぺらいのにいかにも女が引っかかりそうなインチキ臭さ。…などなど、見ている観客に「身分制度ってやっぱり必要だ」と思わせかねないほどの「持って生まれた人間の安さ」(笑)ぶりが何とも見事。その一方で、ビングリーの妹キャロラインを演じるケリー・ライリーや大御所ジュディ・デンチが漂わせる、「上流」のうわべでは誤魔化し切れない腐臭。このへんはさすがにイギリスの役者だし、イギリスの映画だという事になるのだろうか

 そんな中での「想定外」の掘り出し物は、初お目見えで大役ダーシーを務めたマシュー・マクファディンだろう。取っつきにくさと内面の臆病さ、尊大に見えて実は誠実…ただし思いっ切り気がきかないという「男の最大公約数」的役柄を見事に演じた彼。どこかアラン・リックマンを思わせる雰囲気があるのも「大物」の予感を漂わせる。彼には今後も注目したい。

 そしてドナルド・サザーランド! まさかこの人がこんな好演ぶりを見せるとは。昼行灯でうるさい細君に押されっぱなし…と見せて、要所要所で見せる「人生の達人」の輝き。映画のエンディングで愛娘キーラ・ナイトレイの真意を問い質す場面では、千両役者ぶりを遺憾なく発揮だ。これほどのオイシイ役柄は、ひょっとしてスペースカウボーイ(2000)以来ではないか。全く素晴らしい限りだ。

 ジョー・ライト監督は、余計な事をやってジェーン・オースティンの原作をジャマする事がなかった…という点において評価すべきだろう。実はこの人って先にも述べたように、冒頭の「本読んでる知的な女です」みたいなバカでも分かる描写を、ご丁寧に得意げに見せる悪癖があるようだ。中でもいただけなかったのは、舞踏会の真っ直中でエリザベスとダーシーがダンスする場面。突然、他の客たちが消えて二人だけになったショットを、イメージ・カットよろしく挿入したりする。まぁ、「お互いしか見えなくなった」という運命的出会いを描きたかったんだろうが、あまりにあんまりな泥臭い演出に唖然としてしまった。イマドキ田舎の高校の映研だってこんなショットは撮るまい。数少ない「映画的」描写がこれでは、この人のお里が知れようというもの。やっぱり今回は「余計な事」をしなかった故の勝利と知るべきだ。

 

見た後の付け足し

 そんな訳で以前からジェーン・オースティンの世界はキライじゃなかったが、今回はまた別の意味で感慨に耽ってしまった。…というのは、オースティンの世界が人ごとではなくなってきたからだろう。ジェーン・オースティンの作品は、むしろ今の日本でこそ有効だ。途中で映画を楽しんでいながら、僕は自分の事をいろいろ思いめぐらさずにはいられなくなった。

 誰にでも気の迷いが生じる事はあるものだ。実はこの僕も、一時は結婚を考えた時がある。その時、やっぱり立ち塞がったのは「家柄」のことだった。

 相手の女の家は、親戚一同含めてお役人の家。お役人といっても、父親はその地方自治体でも上の方のポジションにいたらしい。いまだにあちこち睨みがきく存在らしかった。おまけに父親と母親はかなり高圧的で神経質な人物らしい。一度など電話に出てきた彼女の母親に、僕はかなり手厳しく小言とイヤミを言われた記憶がある。まぁ、こっちはひたすら低姿勢になるしかない訳だから、そういう人間に一方的に言いたい放題という人格って「???」のところもあるのだが。さらに父親の強権ぶり…。何しろもういい歳の彼女に厳しく門限を言い渡しているとか休日に家に閉じこめていたりするというから、その父親の高圧ぶりたるや尋常ではなかった。大変申し訳ないものの僕に言わせれば少々「行き過ぎ」なご両親。だがこの一家にかかると僕などはゴミ同然な男のようで、彼女も両親に僕を会わせるのを渋り続けていた。

 それに引き替え…僕は自分の両親や親戚に、少なからず引け目を感じずにはいられなかったのだ。僕の父親はとにかく社交性がなく、来客中もテレビのスポーツ番組に夢中で上の空という常識のなさ。耳には常にラジオのイアホンを付けてるから、誰が話しかけてもちゃんと答えが返って来たためしがない。それが失礼だと思い至らない。そんな極端に非常識な例はともかく、僕は自分の両親の品や教養のなさにいささか気が退けていた。…この両親をあちらの家に引き合わせたらどうなるんだろう?と、暗澹とした気分にならざるを得なかった。もっとも、僕にはそんな両親を悪く言うつもりも毛頭なければ、そんな資格もあるわけがない。そもそも僕自身に品も常識も教養もない。それを恥じて誤魔化そうとする小賢しいサル知恵があるだけだ。それに僕の両親は多少常識や品はないかもしれないが、僕から言わせればマジメでお人好しな人間だ。ただ根っからの庶民で気取りなく生きているだけ。何も悪いことはしていない、実直そのものの人たちだ。

 ただ彼女との関係の「その後」を考えた時、やっぱり暗澹とした気分にならざるを得ないのも事実。「プライドと偏見」でもダーシーが言っていたように、「お宅の方々は、決定的に“品”に欠けているのです」…というわけだ。それは自覚しないわけにいかなかった。

 おまけに彼女の日頃の言動を聞いているうちに、自分の気の置けない仲間たちに会わせるのも難しい気がしてきた。オヤジギャグ大キライ、オシャレじゃないこと大キライ…の彼女が、僕の親しい友人たちを気に入る訳もない。何より中学生みたいなバカ話が好きな彼らは、いつもオシャレにカッコよく生きる彼女のセオリーにはどうしたって合わない。僕はますます肩身が狭くなってきた。

 そもそも彼女は、生まれ育った地方都市ではイイトコ学校で知られる大学の出身。そのお仲間はやれ大企業に就職しただのマンションを何軒持っているだの、そんな連中ばかり。まるで「ビバリーヒルズ青春白書」みたいな世界を地でいっていたのだ。どう考えてもオレの世界と合うはずもない。むろん彼女はこの連中に僕を会わせようという気もなさそうだった。そしてこうした話を彼女から聞かされているうち、僕は今まで思ってもみなかった事を実感せざるを得なかった。

 僕は「貧しい」。僕は「下層」の人間だ。

 そんな事は、それまで考えた事もなかった。だが彼女との付き合いは、ともかくカネが必要だった。どんどん湯水のごとくカネが消えていった。その結果、文字通り貧乏になってしまったのは確かだ。だがそれ以前に、僕はそもそも「貧乏人の出」と自覚させられた。教養も品もない階層に属する人間だと痛感させられた。「小泉時代」到来の一足先に、僕は富裕層と貧困層の二極分化を実感するハメになったわけだ。

 その頃になると、僕は彼女に箸の上げ下ろしに至るまで文句を言われていた。彼女にとっては僕の首の振り方からモノの食べ方、歩くときの背筋の伸ばし方から着ている服までが気に入らないようだった。「キチンとしつけられている」自分には耐え難いと言うわけだ。

 そんな訳で、バチ当たりなことに僕は自分の両親も自分の属する社会階層も…そもそも自分そのものを恥じた。何と卑屈なことか、今では両親にも他の誰にも申し訳ない気持ちで一杯だが、その時の僕は自分のすべてを恥じていた

 まぁ、僕と彼女との関係は、この段階からどうにもならない間柄だとハッキリしていたのだ。それでも僕は別れられずにズルズルやっていた。最初の素晴らしい思い出を捨てきれなかったのだろう。最初は彼女も、とても謙虚で愛すべき女だったのだ。もっとも最初の頃の彼女は、人生が破綻しちゃった…と反省しきり。おそらく彼女の人生の中で最も謙虚な時期だったのに違いない。それが元気を取り戻して、徐々にその真価を発揮してきた。…そして地金が出てきたわけだ。

 だが、途中から…さすがに僕もだんだん目が覚めてきた

 彼女の出身校ってのは確かにイイトコ学校らしいが、実は同じ土地の出身者の人に聞くと恐ろしく評判が悪い。お高くとまった鼻持ちならないタカビー専門校として定評があるようだった。考えてみれば彼女とお仲間の関係ってまさに冗談抜きで「ビバリーヒルズ青春白書」そのもので、社会に出てから大分経っているというのに狭い仲間内だけでツルんでいつまで経ってもグチグチウダウダ。決定的に世界観が狭っ苦しい。金持ち風吹かせている割には気取りばかりで価値観がセコい。何だかチマッとしていて不健康だ。

 大体ちょっと外出したり夜出歩いたりでガタガタ言う父親って…娘はいくつになってるんだ? それは神経質通り越して「異常」だろう。それで僕が怒りをかうのはスジ違いというものではないか。オカシイのはどっちだ。そもそも彼女から伝え聞く父娘の会話やら家族の会話、そして彼女自身のモノの見方って、決定的に「シモジモの人間」をバカにしている。どう考えてもお上から見下しているような発言ばかり。僕がどうしても好きになれない、お役人気質丸出しのものだった。そんな慇懃無礼な気質の持ち主ばかりってことは、やっぱりどこか変なご一家じゃないのか? そんなの絶対にオカシイし間違っている。

 彼女を自分の仲間と会わせられないという気持ちには変わりがなかったが、その理由もいつの間にか180度変わっていた。自分の仲間たちが彼女のお眼鏡に適わないから…ではなく、彼女に問題があるから仲間に会わせる事が出来なかった。こんな常識のない無礼で恥ずかしい女を、とても「自分の女」として会わせる事は出来ない。彼女の言動には、人として基本的に言っちゃいけない、やっちゃいけないものが含まれているように思え始めた。しかも100パーセント自分の方が正しいと思い込んでいるこの傲慢さ。自分の方が人々の常識からハズれているのに、平気で人を見下すコッケイさ。これはとても「キチンとしつけられている」とは言えない。第一、それは「しつけ」じゃない。人間としての他者への思いやりの問題だ。自分が客観視出来ているか否かの問題だ。それが決定的にこの一家には欠けている。

 一体どっちが卑しくて、品がなくて、常識と教養がないのか。

 その時から…僕はずっとこう思っている。この世の中には人それぞれの価値観や属している社会階層がある。職業や地位や教養や文化的背景がある。それらは微妙に異なっていて当然だ。そんな中で…たまたまそれらが幸運にも一致しているベストマッチングなんて、そんなに頻繁にあるのだろうか。

 あるわけがない。

 それでみんな、一体どうやってうまくやっているのだろうか? 「相手に譲る気持ち」がなければ、そこに妥協の余地はない。「人を思いやる気持ち」がなければ、誰かとやっていけるわけがない。ひょっとしたら自分の方が至らないのでは?…と「自らを振り返る気持ち」がなければ、人との関係なんて成り立つわけがないだろう。こう言っては申し訳ないが、大体「娘の親」というだけで性格に問題アリの奴の方がデカいツラをするなんて、やっぱり何かが狂っている。僕は少なくともバカにバカと言われたり、卑しいヤツに卑しいと言われたくはない。そういう事をみだりに言う人間が、ロクなヤツだとは思えない。オレもオレの親たちも、決して卑しめられるような人間ではないのだ。

 「品格」と一口に人は言う。それって一体何だ?

 例えば、近年じゃ横綱審議会とやらがよくこの言葉を使ったりする。力士に対して「横綱の品格」とやらがあるとかないとか勝手な事を言っているが、それを言う当の横綱審議会の連中に「品格」があるのだろうか? 自分たちは相撲の専門家でもなければ一回だって相撲をやったこともない。ただ大新聞社のオーナーだとか人に知られた脚本家という、そんな肩書きだけで「審議会」メンバーに選ばれた連中。そんなヤツらが「選ばれて申し訳ない」とも「自分は不適格だ」とも思わず謝罪も辞退もせず、恥ずかしげもなしに平気で「横綱の品格」を問うような無神経こそが、最も「品格」に欠けている事だとは思わないのか。彼らは「横綱審議会」ってだけで品性下劣で恥ずかしい存在ではないのか。

 こと他人の「品格」を問題にし、口にする人間に限って、どうしてこうもオノレの「品格」に欠けているのか。…というか、そんなことを平気で口にできるって事自体がオカシイのではないか。

 人間の「品格」とは、少なくともそういうものじゃないだろう。

 

 

 

 

 

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