「秘密のかけら」

  Where the Truth Lies

 (2006/01/16)


  

見る前の予想

 昨年末は仕事でバタバタして、あげくいきなり体調を崩してエンコ…。そんな状態だから、今年の正月映画事情など全く疎かった僕だ。何だか「ロード・オブ・ザ・リング」の監督が「キングコング」を撮るらしいとか…そんな話しか頭に入って来なかった。だがそんなアリサマの僕でもこの映画のウワサは聞き逃さなかった。

 アトム・エゴヤンの新作。

 カナダの注目株エゴヤンの新作なら、僕でなくても映画ファンなら誰でも注目する。だがこのエゴヤン…世評の高さにも関わらず、僕にとってはイマイチ捕らえ所がない映画作家だったのだ。そして前作「アララトの聖母」(2002)に至っては、忙しさにかまけてついつい見逃してしまった。ところがそんな作品に限ってかなりな傑作だったようで、僕は見逃した事をさんざ後悔させられるハメになった。ならばこの新作、絶対に見逃せないではないか。おまけに今回は、ケビン・ベーコンコリン・ファースといった注目のスターも起用している。これはちょっと見たい。

 おまけに今年の正月映画は、どれもイマイチどこかパッとしない。ならばこのエゴヤンの新作あたりからツブしておくのは、案外正しい選択かもしれない気がする。

 

あらすじ

 1950年代のアメリカ。ナイトクラブにテレビに…と一世を風靡していた一組の漫談コンビがいた。それがラニー・モリス(ケビン・ベーコン)とヴィンス・コリンズ(コリン・ファース)の二人だ。人気絶頂の二人は、何かのチャリティ・テレソンの司会…とくれば当然のごとく駆り出される。そして番組を通じて莫大な寄付を集める。その金額の大きさは、すなわち彼らの人気のバロメーターでもあった。そんな二人に襲いかかったナゾの事件…それはホテルのバスタブに浸かった、一人の女の全裸死体にまつわる事件だった…。

 1972年、ロサンゼルス。新進女性ジャーナリストのカレン・オコナー(アリソン・ローマン)は、その昔に解散した漫談コンビの片割れヴィンス・コリンズに接触を試みる。シブる彼にカレンがチラつかせたギャラは何と100万ドル。この金額は確かに今のコリンズには魅力的なようだった。その代わりに彼女がコリンズに聞きたがったのは、二つのナゾの真相だ。一つはバスタブの全裸死体…モーリーンという女の死に、モリス&コリンズの二人が関わっていたのかどうか? そしてもう一つは、なぜ事件直後にモリス&コリンズのコンビは解消してしまったのか?

 そんな折りもおり、出版社を通じてカレンの手元に、一通の原稿が送られてくる。それは何とコンビのもう片方=ラニー・モリスの手記だった。もしこれが出版される事になれば、カレンがこれから作ろうとしている本はほとんど無意味になってしまう。

 だが彼女にとって衝撃的だったのは、このモリス手記の内容だった。そこには赤裸々と言っていいほど、コンビ全盛期の「真実」が物語られていた。チャリティ・テレソンの傍ら、女たちを漁りまくる。クスリもやり放題。そんな彼らを取り巻く女たちの中に、たまたまホテルのルームサービスのバイトをやりながらモリス&コリンズの二人と接触、学生新聞の記者として取材を取ろうと試みた例の「モーリーン」という女子大生(レイチェル・ブランチャート)の姿もチラつくが…

 実はカレンにとって、モリス&コリンズの二人は「ヒーロー」だった。彼女自身小児マヒで闘病していた過去があり、モリス&コリンズのテレソンのおかげで回復するチャンスを得た。二人のテレソンに招かれた少女時代のカレンは、そこで感謝のスピーチを行った事もあったのだ。そんな「ヒーロー」で「恩人」の二人の、あまり知りたくなかった姿…カレンは何とも複雑な心境だった。

 ところがそんなカレンに、とんでもない偶然が舞い込む。仕事でニューヨーク行きの飛行機に乗った彼女のすぐそばに、何とあのラニー・モリスご一行が乗り込んで来たのだ。モリスに目をつけられたカレンはとっさに友人の名前と身分を騙り、モリスたちと食事を共にする。その過程でカレンは、モリスの歓心を買うことに成功するのだった。

 そんな時、ロサンゼルスのカレンの留守宅にモリスの手記・第二章が届けられる。彼女の留守宅を預かる友人にこの原稿を読んでもらうと、そこにはさらにエスカレートした内容が書き記されていた…。それは、例のあの事件までの経緯だ。

 暗黒街の大ボスの頼みとあって断り切れず、マイアミでの39時間テレソンの直後にニュージャージーに移動し、そこで大ボス経営のホテルのこけら落としに立ち会うハメになったこと。獲りたてロブスターを山ほどくれてやる…と言われても気持ちは晴れなかったが、ここは渡世の義理とあらば断れない。ならばテレソン前夜は自由を満喫…とばかり、モリス&コリンズの二人はマイアミのホテルの部屋で、ルームサービスのバイトこと女子大生モーリーンの「取材」に応じることにする。無論、取材の後のお楽しみも「込み」でだ。

 だが実際にはモーリーンは、39時間テレソン直後のニュージャージーの二人のホテルの部屋…その水を張ったバスタブの中で全裸死体となって発見された。これは一体どうした事なのだろう?

 そんなこんなしているうちにも、モリスに誘惑されたカレンは彼と一線を越えてしまったりする。だが翌朝には、部屋からモリスは消えていた。個人的な感情とジャーナリストとしての野心、そして素朴な好奇心がない交ぜになりながら、カレンは殺されたモーリーンの年老いた母親、当時その場に居合わせた警察署長などに取材を試みていく。そしてコリンズ本人への取材も始まっていくのだが…。

 

捕らえ所がない映画作家アトム・エゴヤン

 先に「イマイチ捕らえ所がない」…と書いたように、僕にとってアトム・エゴヤンは、「これ」といったイメージが湧きにくい映画作家だ。

 いや…決してキライな訳ではない。むしろ好きな作品の方が多い…と言っても、日本では彼の作品は数えるほどしか紹介されてはいないが…。ともかく最初に紹介された「エキゾチカ」(1994)は、僕にとってすごく魅力的な映画だった。ミステリアスでゾクゾクするような雰囲気、そして最後に明らかになる「アッ」と驚かされる展開。まさに映画の醍醐味。僕はスッカリ気に入ったわけ。

 ところがその次にやって来た「スウィート・ヒア・アフター」(1997)がどうにもいけなかった。世評も高く傑作との評価があちこちから上がっていた。当然僕も前作「エキゾチカ」を楽しんだだけに、期待に胸がパンパンになっていたわけだ。ところが…何だかよく分からない。ピンと来ない。何がどういいんだか、そもそも何を描いている映画なんだかサッパリ分からない。

 これってたぶん「スウィート・ヒア・アフター」がダメな映画というわけでも、エゴヤンがダメだったわけでもないのだろう。実際のところ、僕はこうやって映画サイトを立ち上げて偉そうな事を書き連ね、映画について分かったような事を言ってはいるが、別に特別に鑑賞眼が優れている訳ではない。「見上手」でもなければ批評家でもない。独自の「映画理論」を持っている訳でもない。他の映画ファンたちのような権威も何もないのだ。だから正直言って、時として「何を言ってるんだか分からない」作品が忽然と登場したりする。「分からない」ものは「分からない」。僕の心のどこにも引っかからない…あるいはポイントを見損なってしまった映画が存在するのだ。

 僕にとっては前作「エキゾチカ」があれだけスリリングな映画だっただけに、この「スウィート・ヒア・アフター」の分からなさは衝撃的だった。それと同時にこの作品の分からなさが、「アトム・エゴヤンは分からない」…という印象をぬぐい去りがたく僕に与えてしまったのだと思う。

 次のフェリシアの旅(1999)は、「スウィート・ヒア・アフター」とは逆に僕にとって分かりやすい映画だった。そして僕は、この作品もすごく好きだ。だが「スウィート・ヒア・アフター」の分からなさがずっと災いしてか、この作品の印象は今となっては決して強くない。そしてエゴヤンが自らのルーツに迫ったという触れ込みの「アララトの聖母」(2002)はドサクサに紛れて見逃してしまった。大体僕が見逃した作品に限って人は「傑作」などと言うものなので世評は話半分に聞いてはいたが、それでもこの作品の評価の高さは聞き捨てならない。どうしてアレを見逃してしまったのか。僕はどうもエゴヤンの「これ」という作品を見逃してしまう…あるいは評価し損ねてしまう運命にあるらしい。

 てなわけで、僕はエゴヤン作品を正当に評価する立場にいるとはとても言えない。以下はそんな男がこの映画を見ての、勝手なつぶやきみたいなものと思っていただきたい。

 だからアトム・エゴヤンは…まぁ、どうでもいいわな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 僕は元々、アメリカのショービジネスの裏話的なお話が大好き。ヴァル・キルマーが巨根ポルノ男優ジョン・ホームズに扮したワンダーランド(2003)や、新聞王ハーストやチャップリンをも巻き込んだスキャンダルを描くピーター・ボグダノヴィッチ監督のブロンド柩の謎(2001)なんて作品あたりまで、何だかんだとたっぷり楽しんだ僕としては、今回の題材はまさにツボ。元々がショービズの裏側に漂う腐臭に、ものすごく惹かれる僕なのだ。その上、それでなくても1950年代から1970年代にかけての生活風俗が描かれる映画には思いっ切り弱い。ハッキリ言ってこの時点で、僕がこの作品に退屈しない事だけは保証されてる。

 演じるケビン・ベーコンとコリン・ファースも、意外にもこの時代の芸人の体臭をプンプンさせてるから嬉しい。芸人の凄味も悪徳もちゃんと漂わせてるから大したものだ。そこに今回は、最近好調の波に乗る成長株のアリソン・ローマンと来る。これがまた女性ジャーナリストという「大人」の役柄の他に、主役漫談コンビに感謝のスピーチを述べにやって来る「少女」役の回想シーン付き。マッチスティック・メン(2003)の少女役で売り出した彼女ならではの役だ。まさに絶妙のキャスティング。

 そんな彼女が過去のスキャンダルに斬り込んでいく過程は、ミステリーとしてもなかなか面白い。むろんショービズ裏面史としてのお楽しみもある。やっぱり僕はたっぷり楽しんでしまった。

 そしてこの映画のエンディングは…ミステリならではの「アッ」と驚く結末やらある種のカタルシスを求める人にはモノ足りないかもしれない。何らかの明快な結末がつく…というわけでは決してないからだ。だが、実はここがアトム・エゴヤンのエゴヤンたる所以。…などとエゴヤンを「捕らえ所のない映画作家」などと言っていた僕が言ったらお笑いか。だが実際、こうしたカタルシスとは無縁の深〜い闇に沈んでいく結末こそがこの人の映画らしいところだと、今回ばかりはこの僕にも思えるのだ。

 過去のある不幸な出来事が、まるで「夫婦」とまで言ってもいい二人の人間を引き裂いてしまう。そしてその後の二人の人生に、暗い影を落とし続けてしまう。言うまでもなく「過去のトラウマに囚われる人間」こそは、アトム・エゴヤン映画の「核」とも言える要素だ。そのくらいの事は、「捕らえ所がない」と思っていた僕でも何となく察することぐらい出来る。

 アリソン・ローマン扮するヒロインの女性ジャーナリストは、そんなコンビ二人のナゾに単純な発想で頭から突っ込んでいく。そこには幼い頃からの「憧れの人」に近づきたい気持ちもあっただろうし、自分の名を挙げたい野心もあっただろう。ともかく屈託も疑いも全くない状態で、このナゾ解きに臨んだ事は間違いないはずだ。

 それが「憧れの人」たちの知りたくもない姿…女を漁り、ドラッグに溺れ、ヤクザともつながりのある悪徳ぶり…に触れるにしたがって、彼女の中に幻滅が広がっていく。それでも彼女はまだこの時点では疑っていない、ナゾ解きが…真相に到達することが正しい事なのだと。まして名もない娘が殺され、その真相が葬り去られた…と確信した時点で、彼女は「真相」を明らかにする事こそが正しいのだと確信を強めていく。その死んだ娘の母親に会い、残された家族の悲嘆を目の当たりにするにつけ、ますますヒロインはその意志を強めていく。

 だが「真相」を明らかにすること…人の秘密を「暴く」という事は、本当に「正しい」事なのだろうか?

 実はヒロインはそうした「真相」追求の過程で、ついつい自らウソをついてしまう。自らの身分を偽って、漫談コンビの片割れと接触してしまうのだ。それは偶然によって起きてしまった事かもしれない。ついついはずみで起きてしまった事かもしれない。そこに悪意や他意はなかったかもしれない。だが、彼女がウソをついてしまった事は拭い去れない事実。そしてウソをつくという事は…誰かに「秘密」をつくるということだ

 さらにコンビのもう一人への取材の過程で、ヒロインは人に言えないようなスキャンダラスな秘密を握られてしまう。ヒロインもまたいとも簡単に…自分があれほど忌み嫌っていたショービズのスキャンダラスな腐敗に身を投じてしまっていた。だとしたら…誰が人の「秘密」を責められるのか? 誰にそんなにまでして「秘密」を暴く権利があるのか?

 「秘密」は結局お互いを信頼し合っていた二人に心の垣根をつくってしまい、その後の人生の重荷となってしまった。だがどうしても、人は「秘密」をつくらずには生きていけない。そして「秘密」と「ウソ」が必ずしも悪い事だとも言い切れないのだ。

 映画のラスト…娘の殺人事件の真相暴露を望む母親に、ヒロインは今はまだ明るみに出来ないとさりげなく拒む。「今はまだ、公表するとキズつく人がいるから」…実は「その人」とは、娘の潔白と純粋さを信じる母親当人のことだ。漫談コンビの「秘密」を握った娘が彼らをゆすっていたとは、さすがにヒロインは告げる事が出来ない。ヒロインはささやかな「秘密」を胸にしまい込み、映画は静かに終わる。

 何でも明るみにすればいいというものではない。人には目をつぶっておかねばならないこと、耳を塞いでおいた方がいいこともある。知らなかった方がナンボか良かったという事が、この世にはいくらでもあるのだ。

 

見た後の付け足し

 実は僕は悪いクセがあって、昔から人の言動をアレコレ分析したがる傾向がある。これはおそらく小学校時代にシャーロック・ホームズの小説を読みふけったからだろうと思うのだが、ホームズはともかく人のアレコレ細かい仕草やら何やらに目を付け、その人物の過去や性格、秘密や事件の真相を言い当ててしまう。それがあまりにも理路整然としているので、ちゃんと道筋立てた考え方さえすれば僕にも出来るのではないかと思ってしまったのだ。

 そうやって見てみると、人は確かに何かの傾向を見せている

 あの時、あの言葉を二度繰り返したのには訳があるのではないか? あるいは一度言いよどんで言い直したのには、何か理由があるのではないだろうか? 妙に強がった発言は臆病さの裏返しか? あるいはヤケに優しい振る舞いは、何か裏があるのではなかろうか?

 ともかく僕は、どうしても人の言動の裏を読みたがる。知らず知らずに分析している。そして後々まで見ていくと、確かにそうした「読み」が当たっている場合がある。裏目読みが過ぎてまるっきりハズしている時も少なくないが、正直なところ6割から7割の確率で当たっていると言っていいだろう。

 だが、それは不幸な事だ

 他人の知りたくない部分までが見える。ご機嫌な発言が虚勢やハッタリだと分かってしまうし、陽気で楽しい奴が実はキレやすい危ない男だとすぐ見えてしまう。自分を見つめる女の目が、僕に惚れているのではなく利用してやろうと企んでいるのだと察知出来てしまう。

 だから人からホメられても、親しげにされても嬉しくなくなる。人の言う事を素直に聞けなくなる。人のイヤな部分にすぐに気が付いてしまう。人間関係が味気なくつまらなく感じてしまう。最初からどこか面倒くさく感じられてしまうのだ。

 いや、それはたぶん僕が分かった気になっただけ、見えた気になっただけだ。無論、僕が推し量れる人間の「真相」なんて知れている。だからその程度で味気なくなっている僕は愚かだ。愚かだと分かってはいても…それでも分かった気になっただけ人生はつまらなくなる。きっと、ウソと秘密は人生の味わいみたいなものなんだろう。

 知ったところでそれが何だと言うのだ。知れてしまえば、夢も希望もなくなってしまうのに。

 

付け足しの付け足し

 コリン・ファースの自宅で取材中のアリソン・ローマンは、ファースが元・相棒のケビン・ベーコンを呼んだと聞いて大慌て。実はローマンはすでに偽名でベーコンと接触して関係まで結んだ後。ここで顔を合わせたら、ウソが全部バレてしまうばかりか、ファースを騙そうとしたとも思われてしまう。だがファースの自宅を飛び出した矢先、間の悪い事に当のベーコンに見つかってしまうからマズかった。

 当然ベーコンは彼女の出現に激怒。「自分を騙していた」と罵倒するが、傑作なのはこの後!

 何とローマンは最初こそ気まずそうな顔をするが、すぐに立ち直って逆にベーコンを攻撃だ。「翌朝、何も言わずに私をベッドに置き去りにしたのはどういうことよ!」

 この場合、ハッキリ言ってローマンはベーコンを責められる立場にはいない。何しろウソをついてベーコンに接近したという前提がある。どう考えても、道徳的に責められるべきはローマンの方だ。にも関わらず彼女はその事はすぐに棚に上げ、「自分を置き去りにした!」とベーコンを責める。その事に、何の迷いも躊躇いもない。

 いやぁ、これこそが女なんだよね(笑)

 こう言っちゃ悪いとは思うが、実際そうだから仕方がない。僕はこれ、まったく偏見では言っていない。あくまで「経験」から言っているのだ。こういう場面に何度も遭ってきたし、その都度唖然呆然となってきたからね。ホントにこれが出来ちゃうからスゴイ。これはバカにしてるんじゃなくて、マジメに感心しているのだ。

 そしてアトム・エゴヤンも、そんな女の振る舞いには随分悩まされたようだ。この場面の実感は、尋常なモノではなかったからねぇ(笑)。

 

 

 

 

 

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