「SAYURI」

  Memoirs of a Geisha

 (2006/01/09)


  

見る前の予想

 この映画のウワサは、だいぶ前から聞いてはいた。「メモワール・オブ・ア・ゲイシャ」なるアメリカ小説の映画化を、スティーブン・スピルバーグが行うというお話。そんな題材をスピルバーグが撮れるのか…というより、芸者を扱った「アメリカ小説」って何なんだ? いろんな意味で危うい感じがする企画ではあった。ところがスピルバーグ一体何を考えたのか、まだ当時存命中だった黒澤明にこの企画の相談をしたらしい。黒澤明のアドバイスは「日本の話なんだから日本語で撮れ」というものだったらしいが、黒澤がどのくらいこの企画の事を知っていたか今となっては分からない。そんなこんなで「ゲイシャ」映画についてはその都度アレコレと話題は伝わってきたものの、その内容は一進一退を繰り返すばかり。一度はヒロイン「さゆり」の姉貴スジに当たる芸者役に香港女優マギー・チャンの名前も挙がったりして、ますますもってイヤな予感が漂ってきた。そのうちスピルバーグが監督から降りたとの知らせを聞いて、「それは賢明な判断だったかも」とついつい思ったものだ。

 ところがその後も「ゲイシャ」の映画化の話は進んでいたらしい。何とヒロインにチャン・ツィイー、さらには彼女を取り巻く先輩芸者たちにミシェル・ヨーコン・リーの名前が挙がるに至って、やっぱりハリウッドってのは日本人だろうと中国人だろうと東洋人なら何でもいいと思っているらしい…と確信した。こりゃロクなもんになりそうもないわい。

 そもそも日本の芸者の一代記に、シカゴ(2002)でオスカー受賞のロブ・マーシャルが適任とは、誰がどう見ても到底思える訳がない。おまけに主要スタッフに日本人の名前は見あたらないから、アメリカ人たちだけでつくってしまおうという魂胆らしいが、アメリカ人がつくる中国人の芸者の話などゲテモノ以外の何者にもなるまい。そのうちラストサムライ(2003)で意気上がる渡辺謙の参加も伝えられ、いよいよ具体化すると分かったものの、まるっきり内容については期待できない。時折流れてくるスチール写真を見ても、何だか訳の分からない髪型、どこか妙ちきりんな和服、ヘンテコな日傘などが登場…事前の「ゲテモノ」予想を大いに裏付ける。どう考えても西洋人の「フジヤマ」「ゲイシャ」認識から出ていかない、毎度おなじみジャパネスク・エキゾチカなシロモノとしか思えない。

 だが唯一解せないのは…どう考えても脚本段階から分かっていただろうヘンテコさに、渡辺謙役所広司桃井かおりなど、日本から招かれた俳優たちが抵抗を感じていなかったのだろうか…ということ。ハリウッドから声をかけられただけでそんなに嬉しいのか。いやいや、チャン・ツィイーコン・リーミシェル・ヨーたちだってそうだ。自らの不名誉にしかならない映画に何で出ようと思ったのか? 「ハリウッド進出」はそんなに魅力的か。

 そんな…どうにも解せない気持ちでこの映画を見ていた僕の前に、意識の変革を迫る一本の映画が現れた…。

 

あらすじ

 寒風吹きすさぶ漁村。母親が重い病いに倒れて、佐津と千代(大後寿々花)の姉妹の運命は急転した。幼い二人を男手ひとつで育てられる訳もなく、父親(マコ)は姉妹をある男に託す。有無を言わさず馬車に乗せられ、列車に乗せられ…二人が連れて行かれたのは妖しい明かりに彩られた魔窟「花街」。その中の置屋のひとつ「新田」の前に停まると、オバサンが千代だけを選んで佐津と引き離す。火がついたように泣き叫ぶ千代だが、何をしようとどうにもならない。この日を境に、千代の過酷な運命が始まった。

 置屋「新田」を仕切る女将(桃井かおり)は、千代が幼い子供だからといって容赦はしない。女将が一目置くのは、花街で一、二を争う二人の芸者…初桃(コン・リー)と豆葉(ミシェル・ヨー)だけ。特に初桃はその傲慢な言動が目に余る女だったが、何より売れっ子という事から大目に見られていた。だがそれを良いことに初桃はやりたい放題。なぜか千代に目をつけた初桃は、彼女を何かにつけて目の敵にしていた。そんな千代の心のよりどころは彼女を常に暖かく見守るオバサンと、千代と同年代の芸者見習い・おカボ。おカボは姉の佐津を探すために逃げ出すチャンスを窺っている千代に、そんな事を考えてもムダだと諭すのだった。

 何より、花街は広い。この街で離ればなれになったら、まず出逢う事はない。そもそも自由になれない。そんな中、おカボと千代は芸者予備軍として稽古事を習うようになった。この街で生きていくには、それしか道はないのだ

 ところがある日、あの初桃が「言う通りにすれば姉の居場所を教える」と言うではないか。だがその条件とは、もう一人の売れっ子姉さん豆葉の着物を汚す事だった。何しろ着物は芸者の武器。それを汚すとは畏れ多くてもったいない事だ。まして大先輩・豆葉の着物を汚すとは…だが姉の居場所を知りたい一心の千代は、初桃の言う通りにした。もちろんそれを見つかった千代は、女将たちから激しく折檻される事になる。

 こうして必死に初桃の約束を守った千代は、姉・佐津の居所を聞き出す。それは魔窟「花街」のさらに奥深く暗い地域に潜む女郎屋だった。

 ところが「今すぐ逃げ出そう」と持ちかける千代に、佐津は明日逃げようと答える。好きな時に外出出来るような自由のない千代には無理難題というものだが、佐津はあくまで「明日」と言い張った。

 千代が置屋「新田」に戻ると、初桃が秘密の情夫・幸吉と人目を盗んで一戦交えてる最中。ノコノコ戻ってきた千代に怒り爆発の初桃は、千代が置屋のカネを盗んで逃げようとした…とデッチ上げる。これには千代も逆上。今まで大人しく言う事を聞いてきたが、初めて初桃に真っ向から逆らった。「違います! 初桃姉さんが男の人を引っ張り込んでいたんです!」

 これが千代の首を絞める事になろうとは…。

 激怒した女将は置屋の門を閉ざし、誰も外に出られないようにした。当然千代も出られなくなってしまう。短気は損気。彼女は結局自分の墓穴を掘ってしまったのだ。だが夕方になって佐津との約束の時刻が近づいて来ると、千代はやっぱり居ても立ってもいられなくなる。思いあまった千代は何と置屋の高い塀に上って外に出ようとするが、慣れぬ事はするものではない。たちまちグラグラ揺れる屋根瓦に足をとられ、真っ逆様に転落してしまう。大ケガをしながら命に別状はなかったものの、これではもう芸者の稽古は出来ない。おまけに高い医者代が借金に加算されてしまった。こうして千代は芸者にもなれず、一生下働きの下女として生きていく事になったわけだ。姉の佐津は逃げてしまい、故郷の父も死んだ。

 もはやお先真っ暗。

 これにはさすがに落ち込んで、橋のたもとに佇んでいた千代。だがそんな彼女の元に近づいて、声をかける男が一人。その男「会長」さん(渡辺謙)は、千代に優しくこう告げるのだった。「もうそんな顔をしないで」

 その優しさ、男らしさ…千代はほんの一瞬でこの「会長」さんに惹かれてしまった。そして彼が連れている芸者たちを見て、自分も芸者になれれば「会長」さんに会える…と思い当たった。それは絶望のどん底にあった千代にとって、新たな希望の光となったのだ。

 だが同年代のおカボ(工藤夕貴)が姉貴分の初桃の後押しで順調に芸者への道を歩んでいる間も、千代(チャン・ツィイー)はいまだに下働き稼業から抜けられなかった。そんな彼女の元に、思わぬ人物が訪ねてくる。

 それは…千代に着物を汚された、あの豆葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 芸者はみんな中国人女優、スタッフはアメリカ人…それでなくてもイヤな予感がする「SAYURI」の撮影スチールが流れて来るや、何だかヘンテコな髪型に着物、妙な踊りの場面、おまけに日傘は中国製みたい…と、トホホ気分が濃厚。こりゃトンデモ映画になるに決まってると、僕は最初から決めつけた。まぁ、「オースティン・パワーズ」か何かみたいに笑って見るしかないだろう。誰がどう見たってそうとしか思えない。笑えりゃまだマシという感じ。

 だがそんな僕が、ある時点でちょっとばっかりこの映画に対する見方を変えた。それは、日本を舞台にした日本人の話を香港人ばかりでつくりあげた頭文字<イニシャル>D(2005)を見たからだ。映画づくりの可能性から見れば、確かに「それ」も「アリ」。いろいろなアジア人が演じる日本人像があってもいいんじゃないか。

 そもそも今ハリウッドが世界に向けて芸者の映画をつくるとして、それに見合って全編を支えきることの出来る女優が、日本人で存在しているだろうか? 残念ながらこの場合、チャン・ツィイーの起用に「うまいとこに目を付けたな」と言わざるを得まい。

 そうなると、生まれついての日本人ってだけの…ホントにたったそれだけの我々が、この映画のあっちこっちをいちいちコチョコチョつついてケナすのもかなり不毛な気がしてきた。「アラビアのロレンス」(1962)のアラブ社会は、「ドクトル・ジバゴ」(1965)のロシアは…果たしてどうだったのか。そんなモノをあげつらってどうなる。「自分はエライ」「自分はこんなに知っている」ってアピールするだけのケチ臭い事ではないか。

 …というわけでこの映画に対する僕の態度は、当初のモノと見る直前のモノとではかなり違ったものになっていた。とは言いながらも、やっぱりその「ヘンテコさ」もあまりに許容範囲を超えたら見るに耐えないだろう。そもそもこの映画の最後の懸念がまるまる残されている。何でロブ・マーシャルが監督?…ミュージカルにでもしちまうのか? しかも海の向こうからは気になるコメントまで流れて来るではないか。

 「これはリアルな日本ではない、僕のイマジネーションの中の日本だ」

 …要は自分がやりたいようにやってるだけだから、いろいろ変なところがあってもガタガタ言うなという開き直りか。最初からリアルを狙ってない…とは語るに落ちる言いぐさだが、確かに彼としてはそうとでも言うしかないだろう。そしてそれは、この映画が単なるアメリカ人の「フジヤマ、ゲイシャ」幻想の域の中の作品である…というありがちな批判も同時に封じている。マーシャルはこうも言いたいはずだ。その通り、この映画は「フジヤマ、ゲイシャ」幻想そのものだけど、それのどこが悪いんだ?

 イエス…しかし、ロブ・マーシャル自身にそれを言われちゃったらねぇ…。

 何だか妙なロブ・マーシャルの開き直りコメントもあって、実物に触れるまで余談を許さない状況だったわけ。それで見に行った映画の実物は…。

 これが意外にも面白い

 骨太な物語に引っぱられて最後まで見てしまう。最近、タフな登場人物のパワフルで野太い物語をあまり見る機会がないだけに、僕は久々にスクリーンに引き寄せられる気がした。とにかく全編さゆりのダイ・ハードな活躍が見ものなのだ。大ケガして姉にも捨てられ将来もお先真っ暗…という時点ではさすがに暗くなっているものの、それ以外はさゆりが何かを躊躇している暇はない。やれる事は何でもやる。ともかく目的がハッキリしていて善悪がクッキリ分かれてて、激しい火花が散る戦いが日常性からかなり離れた戦場で行われるその光景は、いっそアクション映画と言ってしまった方がいいかもしれない

 ドラマとキャラクターが力強くてハッキリしているから、それらを取り囲む設定や美術や視覚的ファクターに多少の危うさがあっても気にならない。…そう、驚いた事に気にならないのだ! 唯一僕が退いちゃったのは、さゆりの踊りをお披露目する晴れのステージ。あれは一体何なのだろう? それ以外は、「SAYURI」の考証のいいかげんさなど大した作品のキズにはなっていない

 まぁこれにはいくつか理由があって、その一つには台詞が英語だったということがあるだろう。日本人の渡辺謙や桃井かおり、役所広司に工藤夕貴も、ここでは母国語を封じられている。そして中国勢の連中も耳慣れない英語だ。もっともディープな日本である京都で、みんな何の違和感もなく英語を話している。このチャンポン感こそが、何よりもこの映画をリアル第一主義から解き放っているように思える。(日本語吹き替え版で見たら、果たしてどうだったのだろうか?)

 さらには主要キャストのツィイーらが日本人ではないのも大きい。日本人キャストで芸者を演じているのは工藤夕貴だけ。しかも彼女は決して出来の良い芸者とは言えない。このパラドックスが、全編の虚構感をいやが上にも増しているのだろう。

 …というわけで、最初この作品が予想以上にうまく出来ているのに困惑した僕は、そんなこんなでアレコレと理由を自分の中でこねくり回していた。まぁ、確かにいろいろ理由は思いつけないでもない。そして「幸運」な成功もあっただろう。作者が意図した「以上」の事が起きちゃう事だってマレにはある…。

 何しろ「シカゴ」の監督が何で?…としか思えず、しかも「僕のイマジネーションの中の日本」…なんて思い切りケツの退けた台詞まで言われちゃって、こいつはどうもいかんなぁと思わされたロブ・マーシャルがここまでやるとは、僕は正直ちょっと驚かされていた。特に「オスカー監督」とは言え、いまだに僕の中では今ひとつイメージが見えてこない映画作家だっただけになおさら。だから「マグレ」なんて言葉も、チラッと脳裏をかすめたりもしたのだ。

 だが実は「SAYURI」成功最大の理由は、元々が監督のロブ・マーシャル本人にあったのだ。それも彼の資質…舞台の演出家であったという点だ。さらに映画監督としてのデビュー作が、ボブ・フォッシーの代表作としても知られる「シカゴ」であったことも、かなり大きな要因だったのではないだろうか。

 

見た後の付け足し

 そもそも舞台…演劇の世界では、東洋人が金髪のカツラを付けてあちらのお話を演じるなんて朝飯前。東洋〜西洋という絡みでいけば「蝶々夫人」みたいなシロモノもある。映画人だったらおそらく誰しも一瞬は躊躇するであろう「SAYURI」という題材(わざわざ黒澤にまで相談を持ちかけながら結局は降りたという点からして、スピルバーグですらビビッた…ということなのだろう)にロブ・マーシャルがあまり頓着なしに乗ったかのように見えるのは、おそらくマーシャルが元々は舞台の人間だからではないか。彼にはこのネタを取り上げる事に対して、きっと何ら違和感も抵抗もないのだ。

 そしてロブ・マーシャルの映画監督デビュー作が、ボブ・フォッシーの代表作「シカゴ」であったということ。

 実はどちらかと言えば舞台の人…ブロードウェイの演出家・振付師として著名なボブ・フォッシーについて、ナマの舞台を見たことのない僕は決して語るに適した人間ではない。だが幸いにもフォッシーは映画監督としても一流で、死ぬまでに数本の傑作映画を残した。それらを見ていけば、フォッシーという人の体質は何となく伝わってくるのだ。例えばその作品群は…。

 ナチ政権下のベルリンを舞台に、奔放だが心優しい歌手サリー(ライザ・ミネリ)の恋と忌まわしい時代の到来を描いた「キャバレー」(1971)。過激なトークで人気を博す漫談家(ダスティン・ホフマン)が、過激さをエスカレートさせながら自滅していく「レニー・ブルース」(1974)。自堕落ながら芸の道一筋に闘う天才的ミュージカル演出家・振付師(ロイ・シェイダー)が繰り広げる、生の完全燃焼と死を描いた“ほぼ私映画”「オール・ザット・ジャズ」(1979)。天真爛漫にプレイメイトからスターへと駆け上がろうとしていた矢先、嫉妬深い夫の毒牙に倒れた平凡な娘ドロシー・ストラッテン(マリエル・ヘミングウェイ)の短い生涯を描く「スター80」(1983)。…どれもこれも見事な作品ばかりだが、そこにはすべてに流れている共通項があるように思われる。それは、白粉と汗とスポットライト…さらにおそらくは葉巻の…匂いの漂う空気。つまりはショービジネスへの一貫した造詣だ。そんなショービジネスの世界で繰り広げられる、大人の男と女による愛と憎しみと打算と欲望とぶつかり合うドラマ。メーターの針が振り切れてしまいそうなほど極端にコントラストが効いた、メリハリありすぎキレイごと抜きのコテコテ世界

 …で十二分にエゲツないにも関わらず、その語り口はどこか「粋」だ。シャレがきいている。

 もちろんフォッシーの舞台での最後の傑作となった「シカゴ」にも、これらの要素は生きている。

 そしてそんなフォッシー代表作を自らの映画デビューとしたロブ・マーシャルも、そんなフォッシー・テイストに惹かれていたに違いない。いや、彼もまた似たような資質を持っているのかもしれないのだ。むしろそう考えるのが自然だろう。彼もまた白粉と汗とスポットライトと、メリハリの利いたコテコテ・ドラマと、そして「粋」をこよなく愛しているのではないか…。

 実は上記フォッシー作品群通じての「共通項」にはもうひとつ忘れてはならぬ大きな要素…「死」への憧れ…というものが厳然として存在していて、これはひょっとしたらロブ・マーシャルには見出し得ないものかもしれない(だからマーシャルには、あの「暗さ」がない)。だが、ここはあくまでボブ・フォッシーを論じる場ではなくロブ・マーシャルを語るための場所だ。だからこの点については、今回はここまでにしておく。

 問題は…ここまでフォッシー・テイストを支えてきた要素を検証して来ると、どうもロブ・マーシャルもまた同じ要素に大いに惹かれる類の作家ではないか…と思われることだ。

 なぜなら、それは今回ロブ・マーシャルが「SAYURI」映画化を手がけようとした理由を理解する、大きな手がかりとなるはずからだ。考えてみよう。

 白粉と汗と灯り…さらにおそらくは葉巻やタバコの…匂いの漂う空気。そんな世界で繰り広げられる、大人の男と女による愛と憎しみと打算と欲望とぶつかり合うドラマ。メーターの針が振り切れてしまいそうなほど極端にコントラストが効いた、メリハリありすぎキレイごと抜きのコテコテ世界。…にも関わらず…十二分にエゲツないにも関わらず、その語り口はどこか「粋」。

 それこそが「芸者」の世界ではないか!

 彼が最も描くにふさわしい世界が、この映画の世界と一致していた。だから彼には、一体何を描けばいいのか分かっていた。そこがキッチリ描けていたから、ハッキリ言って時代考証で多少危なっかしいところを見せていても、映画としては破綻もしなければホコロビもしなかった。

 だから、何でロブ・マーシャルが「SAYURI」なのか?…ではないのだ。むしろこれは、「必然」と言ってもいい選択だったのではないだろうか?

 

付け足しの付け足し

 チャン・ツィイーは日本人という「外国人」を演じることで、パープル・バタフライ(2003)に続いてワンパターンから脱出。しかもなかなかハリウッドでは東洋人が得難い「主役」を得るチャンスを得た。実際それなりの「華」もあったから大したものだ。そしてここではグリーン・デスティニー(2000)でのツィイーとミシェル・ヨーの「師弟関係」の再現を見ることが出来る反面、ツィイーVSコン・リーという「チャン・イーモウを通過した女たち」(笑)の激突という「オイシイ」組み合わせも堪能できるからたまらない。特に後者については、ハリウッドの連中は本当に何も分からないでキャスティングしたんだろうか? いいや、「中国映画見ていな〜〜い、ゴシップ知らな〜〜い」とか適当な事を言いながらトボケてやらせたのではないか(笑)?

 ビックリさせられたのは、イイ悪いとかいうのを超えて渡辺謙がいつの間にか「ハリウッド・スター」然として出て来ちゃったことだ。この映画での登場の仕方なんてモロに「それ」。本人はもう完全に「ハリウッド・スター」気分バリバリってのは明らか。ついこの前「ラストサムライ」(2003)で向こうに行ったのが、もういまやコレってのがスゴイのだ。ちょっと唖然とした。

 そして幼い時代のさゆり=千代を演じた大後寿々花。これはヒマラヤ杉に降る雪(1998)での鈴木杏以上の衝撃だった。こんな子がいるんだねぇ。

 そんなこんなでコテコテと「粋」を大いに楽しまされた「SAYURI」だが、僕にとってはラストにちょっとした発見があった。それは映画の結論めいた、ヒロインの独白における一節だ。

 もっと明るくなれ、と太陽には言えない。

 要は…ヒロインがあんなに愛した男と結ばれ愛し合うようになろうとも、芸者には「正妻」になる事はできない…という意味だ。「すべて」を望もうとしても得られる訳ではない。だが、それでいいではないか…。

 本当にそれでいいのかどうか…は、人により意見の異なるところかもしれないが、実は僕はこのくだりが結構気に入っている。…というのは僕も人生半ばを過ぎて、やはり同じように「すべてを望む」のは無理だと思い知らされたからだ。

 昔ならいつも「すべて」を得ようと悪あがきをしただろう。そして「すべて」が得られなければ「すべてがない」のと同じ…と思っていた。だから、「すべて」が無理と分かった時点で「すべて」諦めていた。だが今は、「すべて」が「すべて」というわけでもない…とどこかで悟った。人は自分が与えられた状況で、得られるものを得ようと努力すればいいのだ。だが、これはなかなか…そう思えるまでは時間がかかる。今になってみて初めて思う、僕の偽らざる気持ちがこれだ。

 そして実はこれって、あまりアメリカ人的な考え方ではないんじゃないだろうか?

 努力すれば努力するほど成功する、あるいは努力さえすればすべてが手に入る…それが本来の…どこか単純で不健康な「アメリカン・ウェイ」ではなかったろうか?

 逆に言うと、作品にちょっとアメリカ人的ではない「達観」を漂わせた事にこそ、ロブ・マーシャル監督の映画作家としての「らしさ」があるのかもしれない

 

 

 

 

 

 

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