新作映画1000本ノック 2005年12月

Knocking on Movie Heven's Door

I Know. It's only a Motion Picture. But I Like It. (Like It, Yes I Do !)


 このページの作品 

エンパイア・オブ・ザ・ウルフ」 「ザスーラ」 「ハリー・ポッターと炎のゴブレット

 

「エンパイア・オブ・ザ・ウルフ」

 L'Empire des loups (Empire of the Wolves)

Date:2005 / 12 / 26

みるまえ

 前にもどこかで書いたと思うが、僕はフランス製のインチキ臭そうなサスペンス・アクション映画が好きである。その手の映画の権化みたいな「クリムゾン・リバー」(2000)は結構気に入っていたし、リュック・ベッソンがデッチ上げたその続編「クリムゾン・リバー2/黙示録の天使たち」(2004)ですら、割と楽しんで見たのだった。だから「クリムゾン・リバー」の原作者の別の小説の映画化、そしてまたしてもジャン・レノ主演と聞けば、いかに世間の空気は冷たくとも見ずにはいられない。おまけに今回の監督はリュック・ベッソン=ジェット・リーという顔合わせで駄菓子屋感覚に溢れた「キス・オブ・ザ・ドラゴン」(2001)の監督クリス・ナオンの新作だと言うではないか。これ以上いかがわしくも魅力的な顔合わせがあろうか。

ないよう

 研究所とおぼしき施設で、何やら検査か実験が行われている様子。アンナという女(アーリー・ジョヴァー)に施されているその検査は、どうも記憶に関するもののようだ。さまざまな人物のポートレート写真を見せられて、「この人物は誰だ?」と問われるアンナは、しかし毛沢東やケネディは答えられても「自分の夫」は答えることが出来ない。彼女は時として自分の夫を忘れてしまうのだ。そのため今日もこうして巨大な施設に連れて来られ、大々的な検査が行われる始末。夫はさらに徹底的な治療を勧めるが、アンナはどうもこの手の「治療」に気が進まない。それでも時折自分の意識が混濁してしまう事に、漠然とした恐怖を抱いてはいた。今日も今日とて夫の友人たちを招いての優雅なディナー。だが何の気なしに彼らが夫婦のなれそめを尋ねてきても、アンナはそれに答える事が出来ない。それどころか彼女の意識の中で、夫や友人たちの顔がゾンビのように醜く歪む。そうすると、またしても精神病のような発作を起こさずにいられないアンナではあった。

 一方、連日雨がしと降るパリの街で、今夜も恐るべき殺人が起きる。その舞台は寒々と暗い下水道。女が顔をズタズタに切り裂かれ、脚の骨を粉々に打ち砕かれていた。被害者は不法移民のトルコ女性だ。実はここ

パリのトルコ人街では、この女を含め3件の同様な女性猟奇殺人事件が起きていた。若くて気の強そうなネルトー(ジョスラン・キブラン)は何とか犯人を捕らえたいと意欲満々だが、何しろパリのトルコ人街は彼にとっては「魔窟」。協力者もなければ土地勘や知識もないネルトー刑事にはいささか荷が重いと言わざるを得ない。そんな時、彼の上司にあたる老練な警部はそっとネルトーにささやく。「ここはシフェールの知恵を借りる手だな…」

 ジャン=ルイ・シフェール(ジャン・レノ)刑事は、確かに適任者かもしれない。彼は何より叩き上げのベテラン刑事だし、モノにした手柄も数知れず。おまけにトルコ人街に精通する特殊な知識と経験も持っていた。だが彼にはもう一つの顔もある。それは「裏金」という異名に代表される「裏」の顔。かなりヤバい橋も渡ってきた悪徳刑事の顔だ。それゆえ現在は第一線からはずされ、一種の療養所に幽閉された状態になっていたのだ。そんなシフェールのもとに結局ネルトー刑事がやって来たのは、この際「毒を食らわば」…の心境だったからに違いない。それでも最初から乗り気なんだか乗り気でないのか分からないシフェールに、ネルトー刑事は露骨な嫌悪感を隠そうとはしない。シフェールは最後の被害者の遺体を一瞥すると、トルコの宗教的儀式にのっとった「処刑」だと断定するベテランぶりを発揮するが、その場にいた検死官はネルトー刑事に「悪魔と手を組んだな」…と告げるアリサマだ。安心できる訳もあるまい。

 さて、より一層の「治療」を迫る夫に納得いかないものを感じるアンナは、秘かに女精神科医のマチルド(ローラ・モランテ)の元を訪ねる。そこでアンナは、前々からの不安を訴えるのだ。ひょっとしたら「夫は夫ではない」かもしれない。よくよく探ってみたら、どこかに整形手術の痕があるかも…。実際眠りに就いた後で夫の頭髪や耳の裏などを確かめてもみた。だがどこにもそんな痕跡は発見できないアンナ。ところが「それ」は実際にあった。それも夫に…ではない。自分の頭髪の中に、あるいは耳の裏に…どう考えても整形手術の痕としか思えない痕跡があるではないか。「変わった」のは自分の方だったのだ!…動転したアンナは高級アパルトメントの自宅の窓から飛び出して逃げだそうとする。すると怪しげな男たちが彼女を追って来るではないか。「奴ら」は何者だ? 「奴ら」にこれほど必死に追われる「自分」は何者なのだ? だがすべてを失ってパリの街を逃げまどう彼女には、どこにも身の置き所はなかった。進退窮まったアンナはマチルドの元に転がり込む。

 さらにギクシャクした関係のまま捜査を続けるネルトー刑事とシフェールも、パリのトルコ人街の闇に巻き込まれていた。殺されたトルコ不法移民の女たちの素性を知るため、彼女たちを入国させる手引きをしたトルコ人組織の親玉に会いに行くシフェールとネルトー。ところが一見「昔のよしみ」とばかりに友好的に話を始めたシフェールだったが、事が核心に触れても親玉がオトボケ一点張りを決め込むや否や豹変。いきなりこの組織の親玉の手の指を裁断機でブッた斬るという荒技を繰り出して、無理矢理彼女たちのファイルを奪って命からがら逃げ出すというアリサマ。これにはネルトーも怒ってシフェールをぶん殴った。「オレは法の番人だ、ゴロつきじゃないぞ!」

 だが、そこはシフェールの方が一枚も二枚も上手。殺されたトルコ女たちの身元ファイルを振りかざすと、ネルトー刑事に吠えた。「やかましい!ガタガタ言う前にこいつを見ろ!」

 何と殺された女たちは、みんなよく似た顔を持っていた。彼女たちを殺した連中は、きっと「誰か」を探していたのに違いない。そして一連の事件の背後に、「狼の帝国」なるトルコ国粋主義者の組織が浮かび上がって来るのだったが…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 なるほど「クリムゾン・リバー」と同じ原作者なわけだ。どこかオカルトチックでホラーっぽい、さらにSF風の味付けさえある。そんな現実離れして超自然的な設定がチラつきながら、実はどこまでいっても現実的なミステリー・サスペンス…という作りがそもそも似てる。そういう強引な設定、実は僕は嫌いな訳じゃない。ホラ話ならば、いっそ出来るだけ大風呂敷を広げてくれた方がいい…と思うクチだ。まったく関係なさそうな神経を病んでるらしい女の話と連続猟奇殺人を追う刑事の話が、唐突に平行して出てくるあたりもワクワクしてくる。邪道だと思う人には納得できないかもしれないが、僕はこういうくっだらない話が好きなのだ(笑)。

 お話は何やら不思議な記憶に関する研究やらトルコの国粋主義組織に発展し、そこに「座頭市」(2003)の時の北野武みたいな金髪頭のジャン・レノとくる。これがムチャクチャ捜査をやる、クロだかシロだから分からない男。そうは言ってもジャン・レノだから正義の味方なんだろうと思いきや…何と事件には警察幹部まで荷担しているようで、そうなってくるとジャン・レノが俄然クサい。地下の墓地でのCGを交えたスペクタクルな見せ場があって、タフガイなはずのジャン・レノが…っと思えば、お話はそこで終わらず、若手刑事の身辺も怪しくなってきて…何と舞台は終盤いきなりトルコへと飛ぶではないか。いや〜、この目一杯の大風呂敷の広げ方にはアッパレと言いたくなる。

こうすれば

 アッパレと言いたくはなるが、何しろお話が中盤からいきなり加速。目の前で起きている事が何なのかも確かめる間がない。ジャン・レノが演じる劇中の重要人物ひとつとってみても…ワル刑事と評判のジャン・レノ〜ひどい捜査ぶりでやっぱりワル〜でも結構正義漢かも〜と思ったとたんに怪しい言動〜いきなりヒロインに襲いかかる怪しさ、やっぱりワルか〜と思ったら死んじゃった〜確かにジャン・レノはワルだったらしく主人公の若刑事の身辺も危うくなる〜勢い余って若刑事がトルコに乗り込むと、そこにジャン・レノがいた!〜死んでいなかったジャン・レノは善か悪か?…といった具合に二転三転。その振れ幅もデカすぎで早すぎ。そもそもこの映画での「悪党」はヒロインを人格改造した連中(=警察幹部も含む?)なのか、フランスのトルコ人社会なのか、それともトルコの国粋主義極右組織なのか…それすらハッキリしない。もうちょっと展開にタメというか余裕がないと、意外な展開やサプライズを観客が気づく暇もない。せっかく意外な展開で驚かされるはずなのに、それが意外な事だ…と観客に分かる時間すら与えられないのだ。

 おまけに一気呵成に墓地の場面で派手にやった後に演出も気が抜けたせいか、最後の本当のヤマ場であるトルコでの戦闘場面が「オマケ」みたいに見えてしまう。余計な蛇足がくっついてる印象なのだ。

 「キス・オブ・ザ・ドラゴン」では適度なユルさと安さがいい感じだったクリス・ナオン監督なのに、今回はベッソンが離れて力みが入ったのか。そもそもスピーディーさを増しさえすれば迫力や快感になるという単純発想、何でもてんこ盛りにすれば客は喜ぶという足し算発想は、演出家としてあまり頭がいいとは言えないのではないか。映画の最初からずっと雨が降っているという設定もいいかげん「ブレードランナー」(1982)や「セブン」(1995)で陳腐化していて、いまや「パープル・バタフライ」(2003)ほどうまくやらないとダサいだけだろう。おまけにラストのトルコじゃカラリと晴れちゃってるという一貫性のなさだから、何をか言わんやだ。そんな小細工を弄さずに普通につくれば良かったんじゃないの?

みどころ

 それでも、年一本はフレンチ・サスペンス・アクション大作が見たいという人には激しくお勧め。「クリムゾン・リバー」とその続編、「ヴィトック」(2001)、「ジェヴォーダンの獣」(2001)や「ルーヴルの怪人」(2001)あたりが「その安っぽさまで大好き」という人なら、死んでも見るべきだと思う。逆にそのへんにノレない人には、まったくお勧めできかねる。

さいごのひとこと

 ベッソン抜きでも駄菓子味。

 

 

「ザスーラ」

 Zathura

Date:2005 / 12 / 26

みるまえ

 この映画は、予告編を見た段階で興ざめした。「ジュマンジ」(1995)から10年…てなキャッチフレーズで始まるそれは、明らかにこの映画が「ジュマンジ」の「宇宙版」であることを表していた。「ゲームを始めたら、それはゲーム上の出来事がすべて本当に起きてしまうシャレにならないゲームだった」…というお話だ。結局それって「ジュマンジ」と変わらないではないか。単に宇宙に拡大しただけだ。そもそも「ジュマンジ」とこの「ザスーラ」は同じ原作者でどちらも元々は絵本だったこと、その原作者のもう一冊の絵本が「ポーラー・エクスプレス」であること…を知った時点で、僕のこの映画への興味は一気に失せた。同じような話を二度見せられてもねぇ…。だが疲れ切った休日にフラリと映画を見る機会があった時、一番頭を使わなそうな映画を探したらコレしかないではないか(笑)。まぁ、退屈はしまい…と期待もなしに見に行ったわけだが…。

ないよう

 久々に一緒に過ごす父子の週末。ウォルター(ジョシュ・ハッチャーソン)とダニー(ジョナ・ボボ)の兄弟は、パパ(ティム・ロビンス)とキャッチボールに興じる。だがウォルターはすぐに自分の番が終わってしまって幼い弟にグローブを譲らねばならないのがイヤでイヤでたまらないし、その弟がど下手とくるからますますクサる。そもそもウォルターは弟ダニーのおかげで何から何まで足を引っ張られているようで、いつも頭に来てばかりいたのだ。そのうちパパは仕事で家を出なければならなくなって、ますますウォルターはがっかり。だが仕方がない。パパには仕事があるし、パパとママは離婚してしまった。「遊んで!」とうるさくせがむ兄弟に、パパはたまらずこう告げてしまう。「子供でも大人にならねばならない時がある。今がその時だ!」…こう言って会社に出かけたパパは、出がけに二人の姉リサ(クリステン・スチュワート)に子守りを頼んでいく。そう、確かに二人には姉がいた。だが彼女はやたらマセててヘソ出しに余念がない一方で、弟たちを相手にする気などサラサラない。「面倒みる」と言った舌の根も乾かぬうちに、ベッドで居眠りこく始末だ。ダニーは兄ウォルターに「遊んで遊んで」とせがむが、弟がうざったい兄は無視しっぱなし。あげく悪さをしかけた弟を、薄暗い地下室に閉じこめてしまった。…と、そこでダニーは見つけてしまったのだ、古ぼけたボード・ゲーム「ザスーラ」を。これは面白そう…と兄ウォルターの前に「ザスーラ」を持参するダニーだが、もとよりウォルターは古ぼけたブリキと厚紙で出来たボード・ゲームなどやりたくもない。まして弟ダニーとなんて真っ平ごめん。だがダニーは「ザスーラ」のゼンマイのネジを巻きに巻いて、勝手にスタート・ボタンを押してしまった。すると「ザスーラ」は一枚のカードをペッと吐き出すではないか。うるさそうにする兄ウォルターにこのカードを読んでもらうと、そこにはこんな文言が…「流星群に突入、ただちに回避せよ」。一体何だ?…とすっかりバカにするウォルターの手元で、いつの間にかカードに穴が開いているではないか。それも穴の周囲は真っ赤に焼けている。そのうち天井のあっちこっちにボコボコ穴が開き、細かい流星が降ってくるではないか。「大変だ!暖炉に避難しろ!」

みたあと

 …というわけで、この後には姉がカチンコチンに凍り付いたり、狂ったロボットが襲ってきたり、凶暴なトカゲ顔のゾーガン星人の宇宙船が襲ってきたり、彷徨っていた宇宙飛行士の男が家にやってきたり…と、どこかチープでレトロな趣向の宇宙冒険SFの趣向が次から次へとてんこ盛り。元々がこういう古典的SF趣味がキライな方でない僕としては、ボード・ゲーム「ザスーラ」の安ピカなデザインといい何とも嬉しいところ。そしてゲームのコマが進んで何かが起こるたびに、家があっちこっち破壊されてボロボロになっていくあたりも壮観で楽しい。最初は主人公の兄弟のバカなガキぶりにウンザリさせられたが、一旦「ザスーラ」が始まってみると結構ワクワク。確かに言ってしまえば「ジュマンジ」と同じ趣向なのに、こっちは何しろ自分の趣味の世界のせいかグイグイとノレた。特撮もどこかレトロ感あふれる造形なのが嬉しい。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 そんなわけで、1950年代あたりのB級C級SF作品の臭いが濃厚なこの作品。SFファンなら結構楽しく見てしまうのは間違いない。それでも主人公兄弟には何かと辟易させられるが、途中で思わぬ事実が発覚。「なるほど、このイライラさせられるガキぶりの強調には理由があった」と、見ているこちらが納得させられる。ここではその設定についてはあえて言及しないが、「うまくやったな」…と思わずにいられないサプライズだ。その背後には、家庭崩壊して愛に飢えているアメリカの子供たちの事情までが界間見える(それは日本も決して人ごとではない)。そのあたりも含めて、この映画は決してガキ向けファミリー向け…だけの映画ではない。エンディングに知的ユーモアと屈折したテイストが持ち味のポール・サイモンのヒット曲「ラブス・ミー・ライク・ア・ロック」が流れるあたりでも、それは明らかだ。これにはすっかり「やられた」気になってしまった。もっともアレだけマニアックなB級C級SF気分をかき立ててくれるなら、これが大味ファミリー・ガキンチョ映画であるはずもない。そもそもティム・ロビンスの「子供でも大人にならねばならない時がある。今がその時だ!」…という発言からして子供向けではあり得ない。これはおそらく「宇宙戦争」(2005)のデビッド・コープ脚本の持ち味と思われるが、レトロSFへの「こだわり」も含めて、俳優上がりのジョン・ファブロー監督の意外なまでの気配りには感心させられた。

さいごのひとこと

 これぞ大人のオモチャ。

 

 

「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」

 Harry Potter and the Goblet of Fire

Date:2005 / 12 / 12

みるまえ

 考えてみれば、「ハリー・ポッター」シリーズほど僕をガッカリさせた作品もない。元々「ナルニア国ものがたり」など英国ファンタジー小説に子供時代大いに魅了されたクチだから、世評の高い「ハリー・ポッター」シリーズには期待した。それでも1作目の「賢者の石」の原作本を手に入れながら、何となくつまんなそうなセンスのない本の装丁に、イマイチ中身を読む気にならず放っておく始末。せめて映画が出来れば…と映画化を心待ちにしたわけだ。するとその第1作「賢者の石」(2001)リチャード・ハリスからマギー・スミス、アラン・リックマンら錚々たる英国俳優たちが大挙出演する映画に仕上がったではないか。これは面白そう…と期待しながらも、監督がまるっきり深みやデリカシーというものがないクリス・コロンバス、主役のメガネ少年にもあまり魅力が感じられないという点に不安がよぎった。そして残念ながら予感は的中。何となく映画としてこなれてない観のある作品になってしまっていたから残念だ。英国臭が充満していることとディティールの楽しさは認めるものの、原作ファンのヒステリックな反応ゆえ一行も削除できないのか、やたらめったら長ったらしく贅肉が多くて映画としては疑問の残る展開。おまけに事件解決の描き方がまるで納得出来ない…という点で、続く第2作「秘密の部屋」(2002)も一作目の完全な延長線上にあった。

 これで原作ファンはともかく映画ファンからはすっかりソッポの「ハリポタ」シリーズとなってしまったが、監督が意外にも「天国の口、終りの楽園。」(2001)のアルフォンソ・キュアロンに交代した3作目「アズカバンの囚人」(2004)から、ちょっと雰囲気が変わってきた。相変わらず映画が長ったらしいのは変わらないが、妙にドラマに陰影が出てきた。映像も何となく暗めになってきたし、お楽しみの新顔英国俳優の参加は、何と不良性感度の高いゲイリー・オールドマンといった具合。これがなかなかスパイスが効いていた。万能でいい子過ぎてつまらなかった「ハリポタ」シリーズが、ようやくマトモにドラマを語りだした気がしたものだ。

 そして今回は、監督にマイク・ニューウェルを迎えた4作目「炎のゴブレット」。「フォー・ウェディング」(1994)、「モナリザ・スマイル」(2003)の監督として世評の高い監督だが、正直言ってそれほど僕はこのニューウェル監督を買ってはいない。それでもニューウェル起用によって、「ハリポタ」が奇妙な「作家志向」を模索し始めたことは確かだ。しかも、今回は大物サプライズ・ゲストを迎えると言う。ポスターは前作にも増してどよ〜んと真っ暗なデザインというのも気になる。おめでたくて大味だったこのシリーズが、ここで完全に変貌してしまうのか? これはちょっと期待できるのではないか?

ないよう

 とある空き家の洋館に、真夜中ひそかに灯がともる。不審に思った老人がコッソリ上っていくと、そこではネズミ男ことペティグリューことワームテール(ティモシー・スポール)と見知らぬ若い男、さらにはソファに腰掛けた彼らの親玉と目される男が密談中だ。だがソファに腰掛けた男がいかに背を向けて顔が見えなかろうと、そいつが悪の化身…ウワサのヴォルデモート卿であることは誰でも察しがつく。彼らが密談している内容は、誰あろうハリー・ポッターを捕まえて亡き者にしようという算段だ…。そんな縁起でもない悪夢で目が覚めるハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)は、夢は夢でも正夢ではないかとおびえる。この日は親友ロン・ウィーズリー(ルパート・グリント)のご一家全員、さらにお仲間の紅一点ハーマイオニー(エマ・ワトソン)と一緒に、クィディッチ・ワールドカップを観戦にやってきたポッター。満場の観客を魅了するのは魔法界のベッカム、ブルガリア代表のスーパースターであるビクトール・クラム(スタニスラフ・アイエネフスキー)だ。ロンは彼にすっかり夢中。だがその夜、ワールドカップを見に世界から集まって来た人々を収容していたテント村が、奇妙な黒装束の一団に襲われる。何とか難を逃れるポッターではあるが、魔法界一大イベント・ワールドカップが襲われるとは尋常ではない。しかも黒装束を指揮していた若い男は、すでにポッターが悪夢で見ていた若い男その人ではないか。これはますますヤバイ。ところがそんな風雲急を告げる折りもおり、ポッターたちの通うホグワーツの魔法学校を舞台に、かつては恒例行事だった「三大魔法学校対抗試合」を行うことになった。魔法界を代表する名門学校三校が、それぞれ代表一人を立てて対抗戦で戦う。相手の二校はホグワーツにそれぞれ代表団を送り込んでいた。 それはおフランスのお上品なお嬢さん学校「ボーバトン」と、東欧の学校であのクラムが在籍している「ダームストラング」の二校。「ボーバトン」など講堂に入って来るや、いきなり清純な女子高生たちが青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」みたいにため息をアア〜ンとついて小鳥を飛ばすという凝った趣向。見ていたロンはたちまち昇天だ。一方、「ダームストラング」はさすがクラムの母校だけあって、みんなやたらに勇ましい。そしてこの「対抗試合」に出場する選手については立候補した生徒たちの中から決めることになっていたが、実際に決めるのは魔法の力を持つ「炎のゴブレット」。「我こそは…」と思った生徒が自分の名前を書いた紙をこの「炎のゴブレット」の中に入れると、それらの中から適切な生徒の名前をしかるべき時に「ゴブレット」が吐き出す…という仕掛けだ。ただし今回は上からのお達しで、選手になれるのは17歳以上の生徒に制限された。あまりに過酷で危険な競技が相次ぐ「試合」のため、年少の生徒には無理と判断されたわけだ。出場資格のないロンあたりはしきりに残念がるが、いいかげんいつも目立ってゲンナリしていたポッターは「自分が関わらずに済んで良かった」と内心安堵することしきり。また年齢制限を知っていながら無理矢理自分の名前の紙を「ゴブレット」に突っ込もうとする年少生徒には、「ゴブレット」が手痛いお仕置きをするのだった。そんなこんなでやって来た「代表選手」決定の日。ホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)の音頭取りで「ゴブレット」に代表選手の名を尋ねると、「ゴブレット」は次々と選手の名が書いてある紙を吐き出していく。ホグワーツ校は文武に長けて人望も厚いナイスガイのセドリック・ディゴリー(ロバート・パティンソン)、ボーバトン校はクールな美女フラー・デラクール(クレマンス・ポエジー)、そしてダームストラング校はやはりこの人ビクトール・クラム。これで決まりと思った矢先、何と「ゴブレット」が4人目の名前を吐き出すではないか。本来あり得ないはずの「4人目」の名は、何とハリー・ポッター。なぜ年少の彼が選ばれたのか…そもそも、どうやって自分の名前を投げ込めたのか…大体ポッターはどうして立候補したのか? 実はポッター、まったく身に覚えがなかったのだが、回りはそうは思わない。おまけにズルして選ばれたという雰囲気が濃厚。何と親友のロンまでが彼と反目する始末だ。「また目立ちたがり屋が!」とポッターを揶揄する連中も後を絶たない。ただし身を守るための魔法を教えるためにホグワーツにやって来た変わり者の偏屈教師マッドアイ・ムーディ(ブレンダン・グリーソン)の見解は違った。彼はたちどころに「これはワナだ」と察して、陰からポッターを援護することを宣言。それは確かに心強いものの、例の「ヴォルデモート卿」の出てくる悪夢と相まって、ポッターの不安をさらにかき立てた。そんなポッターの不安も知らず、周囲は彼に冷たい。今回ばかりはダンブルドア校長も、どうしていいか分からぬようであまり頼りになりそうもない。いつもはポッターを助けてくれるハグリッド(ロビー・コルトレーン)も、ボーバトン校のどデカ女校長マダム・マクシーム(フランシス・デ・ラ・トゥーア)に夢中で気もそぞろ。そういうポッター自身も、ボーバトン校からやって来た可愛い中国系の女子生徒チョウ・チャン(ケイティ・ラング)に一目惚れ状態で、人のことは言えない。そんなこんなしているうちに、第一の「試合」の日は迫ってきたが…。

みたあと

 正直言って映画の最初の頃は、あまりにチャカチャカと話が進むので戸惑ってしまった。何がどうなってるのか分からない。原作ファンは分かるのだろうが、そうでない人間は面くらうのではないか。だが話が本題に入るや、俄然面白くなってくる。ポッターはいつもの「魔法界のセレブで特別扱い」というポジションに甘んじていられない。それがゆえに「目立ちたがり」などと白い目で見られるし、本人ももうあまり目立ちたがっていないというあたりが新鮮だ。ポッターと親友ロンとの関係もこじれるし、ロンとハーマイオニーとの仲ももつれにもつれる。ポッターが女の子を好きになっても、それが必ず手に入るとは限らない。何とかかんとか魔法学校の対抗試合を勝ち抜いていきはするが、自分に決定的に「実力」が欠けていることを思い知らされるポッターだ。そして最後には死人すら出る。…この毒にも薬にもならないと思っていたシリーズで、作品中好印象を与えていた人物が無惨に殺害されるというのは衝撃的だ。僕なんか「どうせ最後には生き返ってめでたしめでたしだろう」と思っていたから、最後まで死んだままだったのに面食らってしまった。確かにこれは、かなり今までの「ハリポタ」とは趣が違う。考えてみればポッターたちももう「青年」の域に入ってきて、いつまでも脳天気ではいられない。映画のラストにハーマイオニーが「何もかも変わっていくのね」…とメランコリックに語って終わるように、青春の陰影が色濃く刻印されたドラマにもなっているのだ。前作「アズカバンの囚人」でチラリと垣間見えた傾向を、さらに押し進めた結果がこれだと言えよう。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 何しろ魔法学校の対抗戦というカタチで課題が次から次へと出てくるから、見せ場には事欠かない。それぞれが一種のゲームなので、以前の「ハリポタ」みたいに「いい子だから勝った」とか「根性で勝った」とかのように、つまらない解決方法に陥らないのもいい。単純に映画として面白いのだ。話を引っぱって引っぱってのあげくの「悪の大御所」ヴォルデモート卿の登場は、実はあまりパッとしないので一瞬ガッカリさせられる。だが演じる大物スター俳優(パンフレットにもあまり触れていないので、一応のサプライズ・キャストなのだろう。ここでもその配役には触れないでおく)が熱演しているおかげで、かなりのボリュームが出たことも事実。もちろん先に述べたように主人公が万能でなくなり人間関係がもつれて陰影が出ることで、ドラマとしてはかなり面白さを増した。正直言ってシリーズ作品中、一番楽しめる作品ではないだろうか。お話の厚みが増したことも含めて、この作品を評価する人は多いような気がする。

こうすれば

 ただ、どうしても相変わらず長い…という印象が付きまとう。冒頭のワールドカップの場面も含めて、描く必要があったのだろうかと思わされる場面も多い。原作ファンには言い分もあろうが、もうちょっと思い切った脚色をすべきではないだろうか。原作を切ったらファンがキレるという悪循環は、もう断ち切った方がいいように思う。そして第1作、第2作と魅力薄の主人公を支えていい味出してきたサイドマン、ロン役のルパート・グリントがどんどん精彩を欠いているのも気になる。役どころも損な役回りにさせられているのだ。いかにも愚かでつまらない男という描き方で、このシリーズは果たしていいんだろうか。そして、先に「ドラマとして陰影が増したことで面白くなった」とあれほどホメておきながらこう言うのも何だが、青春の屈折やらメランコリアを見せてくれるのはドラマとしてイイとして、それを魔法のお話「ハリー・ポッター」でこうまで執拗に見たいか?…と言われると、ちょっと疑問に思わないでもない。面白かったのは面白かったのだが、これでこのシリーズは果たして良かったのか?…と思わされたのも事実だ。プロムナイトみたいなモノが出てきて超自然的な能力を発揮する人物が出てくると来たら、「キャリー」(1976)みたいな世界に見えなくもないし(笑)。それはともかく…何も屈折青春ドラマを見せられるのなら、「ハリポタ」でなくてもいい気もする。こんな事を言ったら天の邪鬼だろうか? せめてこういう映画を見るときには、浮き世のことを忘れたい気もするからね。僕が今までこのシリーズに抱いていた不満はそんなところではなかったから、この変貌ぶりに単純に「イエス」とは言えないのだ。確かにシリーズ随一の面白さだとは思うのだが…。

つけたし

 ハーマイオニー役エマ・ワトソンの額に、トシに似合わず刻まれた深い3本のシワはヤバイ。舞踏会の相手にあぶれたポッターとロンが最終的にありついた相手が両方ともインド娘という設定もどうかと思うが、ポッターもロンも彼女たちを邪険に扱ってるあたり、「大英帝国」的いやらしさプンプンではないか?

さいごのひとこと

 魔法でもこの長さは何とかならないか。

 

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