新作映画1000本ノック 2005年10月

Knocking on Movie Heven's Door

I Know. It's only a Motion Picture. But I Like It. (Like It, Yes I Do !)


 このページの作品

ドミノ ステルス ナッシング プライマー ルパン 亀も空を飛ぶ

 

「ドミノ」

 Domino

Date:2005 / 10 / 31

みるまえ

 往年の映画俳優ローレンス・ハーベイの娘がバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)をやっていたという話は、確か僕もちょっと前に聞いていた気がする。その娘の名がドミノといって、実は亡くなっていたとは初耳だったが、今や上げ潮に乗りまくるイギリス若手女優キーラ・ナイトレイ主演で映画になるというのはイイ企画だと思った。何せヒロインの人生そのものが映画みたいだし、演じるナイトレイも今一番アブラが乗り切ったところ。こりゃどう考えたってオイシイ企画ではないか。そして監督がトニー・スコットというのも嬉しい。「スパイ・ゲーム」(2001)のキレのいい演出以来、僕はすっかりこの人を見直しているのだ。ただし、前作の「マイ・ボディガード」(2004)はいただけなかった。果たして今回は、見事に復調を見せているだろうか?

ないよう

 アメリカ西部の荒野のまっただ中。ものものしく武装して、汚いトレーラーハウスに乗り込む一団がいた。その中でも一際目立つショートヘアの若い女こそドミノ・ハーベイ(キーラ・ナイトレイ)。若く美しい女の身でありながら、正真正銘のバウンティ・ハンター=賞金稼ぎ。今日も今日とて荒くれ男たちと共にデカい銃を担いで出撃だ。彼女と行動を共にしているのは、ドミノの父親代わりとも言えるチームリーダーのエド(ミッキー・ローク)、そしてキレたら何をやらかすか分からないラテン男のチョコ(エドガー・ラミレス)。トレーラーハウスの中にはショットガンを持ってキレまくるオバハンが一人。賞金稼ぎたちはオバハンの息子を人質に取っているらしく、その証拠に持ち出したのが…切断された息子の腕! それを見てオバハンはますます逆上し、現場は修羅場の様相を呈して来るが…。

 ドミノは今、冷徹なFBI捜査官タリン(ルーシー・リュー)に取り調べを受けているところ。事の経緯を根堀り葉堀り聞かれてきるドミノの顔は、傷だらけで血も流れている。だが、タリンは全く同情なんてしていない。「下手に隠し立てすると長いことくらい込むことになるわよ」

 そんなタリンの脅しに一瞬はカチンと来たドミノ。思わず「弁護士が来ないとしゃべらないわ」と言いそうになる彼女だが、なぜかその言葉を飲み込んで「全部洗いざらい話すわ」…と態度を変える。

 そもそもの事の発端に遡らねばなるまい。早くから父ローレンス・ハーベイを亡くした少女時代。裕福ながら空疎な日々。母ソフィー(ジャクリーン・ビセット)は早々に再婚。少女時代のドミノは寄宿学校に追いやられるが、唯一の友達だった金魚もすぐに死んでしまう。その時、もう何かに愛情を注ぐのはやめよう…とドミノは思った。やがて彼女の刹那主義はますますエスカレート。人生はコインの裏表のようなものという、独自の人生観を確立するに至る。いわく、「表が出たら生、裏が出たら死」…だ。

 母への反発からか周囲への反発からか、何もかもに反抗的な態度を取るドミノ。そんな彼女はある日、ひょんな事から「バウンティ・ハンター募集セミナー」が行われる事を知る。早速出かけたドミノは、生まれて初めて強く惹かれるものを感じた。

 その場にいた雇い主のクレアモント(デルロイ・リンドー)は腹に一物な男だったし、セミナーに来ていた野郎どもも海千山千の連中ばかり。だが賞金稼ぎの世界には、何より今までのドミノの空疎な人生にないスリルがありそうだった。長年ヌンチャクを練習してきたので、腕っ節には自信がある。その場に「講師」として参加していた先輩賞金稼ぎエドの醸し出すムードにも惹かれた。

 ところがこのセミナー、実は途中で金を持ち逃げしようというセコい企みだった。それを見抜いたドミノは逃げようとするエドたちの元に押し掛け、自分も仲間に入れるように迫る。こうしてドミノはいきなり賞金稼ぎの世界に身を投じる事になった。

 ところがドミノはこの初陣でベテランのエドやチョコに一歩もひけを取らないどころか、むしろ一触即発のヤバイ状況を素早い機転と女ならではの武器で乗り切り、他の二人をも危機から救い出した。

 こうしてドミノは連中の「仲間」となり、賞金稼ぎとして着々とキャリアを進めていく。仕事仲間からも認められ表彰されるに至って、まさに順風満帆のドミノ。

 ところが好事魔多し。どこからかドミノの評判を目ざとく聞きつけた男が一人。その男…テレビ・プロデューサーのマーク(クリストファー・ウォーケン)は、ドミノたちを追いかける「賞金稼ぎ特番」を企画。母ソフィーを通して、ドミノら三人にアプローチをかけてきた。

 そんな話に自分がずっと忌み嫌っていた腐敗の臭いを嗅ぎ取るドミノではあったが、華やかな世界に取り上げられる事は悪い気がしない。結局ドミノたちは、このケバケバしいショービジネスの誘惑に乗る気になったわけだ。

 だがその瞬間、ドミノたちの運命は再び転がり始めた…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 この企画を知った時、何よりも今が上げ潮で旬な若手女優キーラ・ナイトレイを主役のアクション・ヒロインに据えるという発想に、思わず「うまい!」と膝を打ちそうになった。そうそう、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)と「キング・アーサー」(2004)を見た後なら、彼女がピンで大暴れする映画がそろそろ見たくなって来るところだ。おまけに監督がトニー・スコットなら、どう転んでもソコソコ切れ味よく見せてくれそうだ。

 案の定、これはキーラ・ナイトレイにピッタリとハマった企画になった。彼女のちょっとビッチな姿、それでいて傷つきやすい一面、そして何よりアクション・ヒロインぶり…ファンなら一粒で何度もオイシイ内容だ。おまけに、肌もあらわにいやらしい格好で腰をクネクネしたりするサービスぶり。確かにそれだけで、この映画の成立理由は十分にある。

 映画そのものは…というと、ジャンプカット、激しいブレブレ映像にわざと粒子を荒らした画面、コマ落とし処理…など、トニー・スコット作品に顕著なテクニックを多用したもの。こういうスタイリッシュ映像を毛嫌いする人は多いし、実は僕もあまり好んではいない。だが、スコット作品におけるこうした手法の多用がマイナスか…と言うと、必ずしもそうは言えないのだ。

 例えば今回の「ドミノ」では、少女時代から成長するまでにかけてのヒロインの荒んだ心情風景に、こうしたゴチャゴチャした映像処理が意外に効果をあげている。彼女が賞金稼ぎになってからのエピソードでも同様で、犯罪者と直面してのハードな日常や命のやりとりをする極度な緊張感、その反面のアドレナリン出まくりのハイテンションぶりが、こうした映像テクニックでビビッドに表現されているのだ。

 それはスコットの前作「マイ・ボディガード」において、やはりこの手の映像テクニックで主人公デンゼル・ワシントンの悪夢や焦燥感、怒りなどがリアルに表現されていたのと同じだ。トニー・スコットのスタイリッシュ映像は、決して映像を見せるためだけの映像ではないのだ。

 ではこの映画、キーラ・ナイトレイの起用とトニー・スコットの映像テクニックがすべて図に当たって成功した映画かと言えば…。

こうすれば

 実は凝った画像処理でガチャガチャ騒々しい絵づくりをするのは、後半もそのまんま。ところが後半はヒロインたちが妙な企みに引っかかって絶体絶命になるという、少々入り組んだお話になっている。そんなお話そのものもモタモタとこんがらがっていて分かりにくいところへ来て、例のうるさいガチャガチャ画面。よけい分かりづらいし鬱陶しい。そのため何がどうなっているのかが筋書きからも画面からも二重に分かりにくい…という、結構困ったハンデを背負って映画を見なければならない羽目になる。おまけにお話はこんがらがるだけでなくヤケクソみたいに暴走し始めて、人質にとった男の腕は無駄にもぎ取られるわ、ラスベガスの有名ホテルのタワー展望台は無意味に大爆発させられるわ、ヒロインの仲間はアホな展開の中で無駄死にするわ。途中で何だかお笑いバカ映画を見ているような気になってくる。この映画どうなっちゃうの?…と、見ていて本気で心配になってくる。アクションそのものも暑苦しくハードさを増してくる上に、例の見にくいガチャガチャ画面。見たい絵を見せてくれず見たくもない絵を見せられ、本当にイライラさせられる。アクション映画でこれはいささか致命的だ。

 で、お話がこんがらがって分かりにくい&ガチャガチャ画面で見にくい、おまけにアクションもヌケが悪い…というパターンは、またしても前作「マイ・ボディーガード」の後半部分と共通するではないか。何で毎度毎度トニー・スコットはこのパターンに陥るのか。またしても脚本のムチャさと映像のうるささで、いささかゲンナリさせられるのだ。どうしてこう一本調子でやっちゃうのかねぇ?

みどころ

 だから映画の後半でかなりな欲求不満に陥る羽目になるこの映画だが、それでもキーラ・ナイトレイの大熱演は買える。あとクリストファー・ウォーケンやミーナ・スヴァーリ、ジャクリーン・ビセットまで駆りだす「ちょっと豪華キャスト」にも惹かれる。だがそれより何より特筆ものは、「シン・シティ」に続いてのミッキー・ロークの好演。思い切りイイ味出しまくっての目立ちっぷりだ。これはやっぱり年輪というものなのか。何でここへ来て一気に再ブレークしたのか、正直言って僕としてはビックリだ。

さいごのひとこと

 これならピザハットにしとけばよかった。

 

「ステルス」

 Stealth

Date:2005 / 10 / 24

みるまえ

 最新鋭ステルス戦闘機の暴走を描く…らしいこの映画、大分前からその存在は知っていた。「レイ」でオスカー主演賞を取ったばかりの、ジェイミー・フォックスが出演している事も知っていた。どうせ最新SFXとCGで空中戦を見せる映画なんだろうが、監督がロブ・コーエンとなると話が違う。僕にとってロブ・コーエンとは、娯楽映画作家として絶対の信頼のブランドなのだ。何がどうあれ見逃せない。サービス精神旺盛、おまけにキャラクターに魂が入っている、見た後の後味が爽快…と、どこを切っても娯楽映画の基本がキッチリ守られた映画づくり。それがコーエン流の映画だ。ならば今回だって、きっと彼はやってくれるはず。

ないよう

 アメリカ・ネバダ州の砂漠地帯で、最新鋭ステルス機三機による特殊訓練が行われていた。参加しているのはジョシュ・ルーカス、ジェシカ・ピール、ジェイミー・フォックスの三名。ますます凶悪化するテロに対抗するための特殊部隊に志願し、何千人もの志願者から選りすぐられた精鋭たちだ。そんな三人は上官のサム・シェパード大佐から、訓練がいよいよ次の段階に入った事を告げられる。新たな訓練の舞台はフィリピン海上の空母エイブラハム・リンカーン。ところが「次の段階」で、新たな「仲間」が参加すると聞いて動揺する三人。自分たちだけが選りすぐりの精鋭ではなかったのか? そんな疑問は訓練地ですぐに解けた。深夜、空母に飛来した新たなステルス…その操縦席には誰も乗ってはいなかった。その名も、人工頭脳を搭載した無人ステルス機「エディ」だ。これには三人のリーダー格ルーカスは面白かろうはずがない。そして空母リンカーンの艦長ジョー・モートン大佐も、決して快く思ってはいなかった。だが計画の推進者シェパード大佐は、断固として「エディ」を支持。かくして「エディ」は訓練初日から三人に同行する事になる。ところが突如、訓練が実戦となった。ミャンマーの首都ラングーンのど真ん中のビルに、テロリストが終結したという情報が入ったのだ。早速駆けつける一同だが、難問が一つ。やり方によってはビルの倒壊によって周囲の一般人に甚大な犠牲が出る。かと言って、生ぬるい攻撃ではテロリストを仕留められない。方法はビルの真上で垂直降下しながらのミサイル発射しかない。だがこの方法ではパイロットが失神してしまう可能性がある。そうなれば作戦は失敗した上に一般人に被害が出てしまう。シェパード大佐は「エディ」の出番…と命令を下したが、ルーカスは面白くない。人間の意地の見せ所とばかり命令を無視して自ら実行、辛くも作戦を成功させた。しかし好事魔多し。空母への帰途で落雷に遭った「エディ」は、フラフラになってやっとこ甲板に不時着する。実はこの時、「エディ」の人工頭脳に何かが起こっていたのだが…。タイでのしばしの休暇の後、三人と「一機」に再び出撃命令が下る。今度は中央アジア・タジキスタンで、ゲリラが入手した核弾頭を撃破するという作戦だ。だが現場に駆けつけてみると、風下には一般人の集落がある。もし攻撃して核爆発が起きれば、彼らが放射能にさらされてしまう。さすがに事の重大さに気づいたルーカスは、攻撃中止を決断。ところが「エディ」は言うことを聞かず、勝手に暴走して攻撃を始めてしまう。こうして行きがかり上、ゲリラの砦を壊滅させるハメになる三人。おまけに調子づいた「エディ」は、さらに新たな「攻撃目標」を求めて編隊から離れてしまうではないか。慌てた三人は「エディ」を追ってロシアの飛行禁止空域へと向かっていくのだったが…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 実物を見る前は、小気味のいい航空アクションを想像していた。猛烈スピードの世界は、すでに「ワイルド・スピード」(2001)で経験済みのロブ・コーエンだ。世界を股に掛けてのマンガチックな大アクションも「トリプルX」(2002)で見せてくれた。だから絶対安心大丈夫な、安全パイそのものの企画と思っていたのだが…。

 どうしてこうなっちゃうの?

 まず僕はここでハッキリしておきたいのだが、アメリカ映画のミリタリー系アクションやスパイ映画に、良心的配慮や政治的バランス感覚をあまり期待していない。何をどう言ったところで、世界は自分たちを中心に動いていると思っている国の映画だ。しかも映画は自国の国民に向けてつくっている。そこへ来てジャンルがアクション映画と来れば、大概がテキサスかどこかの気ばかり強くて頭悪そうな若造あたりを対象につくっているに決まっている。だからそんな映画を捕まえて、したり顔でアメリカ対外政策批判をしたところでヤボもいいところだ。文句を言う方がバカだろう。そういうイイ子ぶりたい左翼みたいな事は言いたくないし、硬いことは言わずに楽しみたいと思っているのが本音だ。

 しかし…それにしたってモノには限度というものがある。これはいささかちょっとヒドイんじゃないの。何しろこの連中のやる事と来たら、人の家の玄関先に土足で上がり込むような事ばかり。まずはミャンマーの首都ラングーンのど真ん中でのビル破壊。都合よく「垂直に」崩れたからいいようなものの、そううまく事は運ぶのか。次がタジキスタンのゲリラ砦破壊と核弾頭爆破。ゲリラの壊滅はいいとしても、それで流れた放射性物質で麓の村は壊滅。お次は領空侵犯していながら、迎撃してきたロシア空軍の戦闘機をパイロットごと撃墜。さらに北朝鮮領内に墜落した女パイロットを救うため、南北国境近くで北朝鮮軍を全滅させるというテイタラク。こりゃひどすぎやしないか?

 この中でタジキスタンの一件は「エディ」の暴走によって引き起こされた事になっているので、主人公たちに罪はないように描かれる。その前に彼らが「人道的見地」から作戦中止を言い出す念の入れようだ。しかし三人の主人公たちは何が起きるか分かっていながら、仕方なくとは言え暴走した“無人”機の「エディ」を援護するべく砦を攻撃。結果的に民間人の村を放射性物質で汚染させてしまった。緊急に救援部隊を派遣するように連絡したってシラジラしいだけ。罪もない山岳民族の連中よりも“無人”機の方が大事。要はこれがアメリカ人の本音なのか。正体見たりって感じではないか。

 それだけではない。北朝鮮に墜落した仲間を救うべく急行する主人公は、途中で「同盟国」韓国の漁村の家の瓦屋根を吹っ飛ばす。そもそも給油機がどこかの上空で大量の燃料を空中にブチまけているのは、何らかの深刻な環境破壊にならないのか? アメリカ軍はそれを深刻には受け止めないのか? この映画で仇役としてメッタメタにやられるロシア空軍や北朝鮮軍は、国境を侵犯してきた「敵」に当然の応戦をしたまでだ。やられるべき「悪役」は主人公のアメリカ軍人なのである。どうして「勝ってめでたし」なのか?

 大体、主人公たちがタイで休暇をとっているあたりの描写がまたまた不愉快だ。連中はアジア女性を公衆便所としか思っていない。そんなイヤ〜な気分しかかき立てられない。何だか「チーム・アメリカ/ワールド・ポリス」を実写で撮ったみたいだ。しかもギャグとしてでなくマジで。これを何の疑問もなく「大衆娯楽映画」として流通させてしまっている感覚には、ちょっとマトモには付き合いきれない気がしてくる。付き合ってられるのは、同じくらい無神経などこかの国の総理大臣ぐらいではないか?

こうすれば

 最初は「機械にすべてを委ねていいのか?」…というジョシュ・ルーカス扮する主人公の主張そのものの「人間中心主義」的なお話になっているところが、この手の“高度に発達した機械の怖さ”を描いた映画の定石で「いかにも」。しかし、それも結局はすべてバカな司令官の独断が原因で起こった事で、無人機「エディ」の暴走もそれ自身のせいではない…という二重三重のエクスキューズが仕掛けてある。そのため、最後には機械に猜疑心を向けていた主人公と「エディ」が一種の“同志的感情”に結ばれていく…という展開。まぁ、どう転んでもアメリカ娯楽映画的展開だ。これだと新鮮味は全くないものの、手堅くつくれば確実に楽しめる作品にはなる。もちろんこの映画もそれを狙っている事は明らかだ。ところが、そんな「勝利の方程式」を「アメリカンな無神経さ」がジャマをする。

 悪漢が悪かったり人工頭脳「エディ」が悪かったりする以前に、そもそもこの作品のヒーローからして問題がある。ミャンマーの首都ラングーンの市街地真っ直中の攻撃で、主人公は自らの決断で攻撃を行う。だがその際主人公には、人間のパイロットならかなりの確率で作戦遂行の途中で失神して、作戦が失敗するだけでなく多くの一般人の巻き添えが出る…と分かっているのだ。そんな危険なミッションなのに、主人公は本部の命令を無視して自分でやろうとする。それも単に「エディ」に対する優位性を見せつけるためだけ。これって、ラングーンの一般人の命なんてどうなってもいいと思ってる証拠じゃないか? こんな「アメリカ人でない連中」の人命をまるっきり尊重する気のない男が主張する「人間中心主義」なんざ、チャンチャラおかしくて聞いていられない。

 大体がこのアクション映画のヒーローとして、ジョシュ・ルーカスという男は線が細すぎ。何となく神経質そうで、「エディ」よりこいつの方がよっぽどキレそうで危なそうだ。ジェシカ・ピールという女優にも取り立てて魅力はない。実はこのキャスティングの中では三番手ジェイミー・フォックスが一番役者としてのキャパは上だが、タイ女性を公衆便所扱いしてる役では好感が持てない。おまけにコレといった活躍も見せぬままに早々に退場というアリサマ。おそらく配役されたのは「レイ」でのオスカー受賞以前だろうが、それにしたって「コラテラル」ではあれだけイイ味引き出されていただけに、この使い方はまことにもったいない。もったいないと言えばサム・シェパードで、どうせ小遣い銭稼ぎなんだろうがこの役はあんまりだ。同じ金稼ぎのための役者稼業にしても、ジョン・カサベテスはもっと自分を活かす仕事をしていた。見ていて情けなくなっちゃったよ。少しは仕事を選んだらどうだ。

 そんな訳で、あまりにアメリカの横暴が前面に出ているのがシラける「ステルス」だが、実はシラケる点はそれだけではない。航空アクションとしてもあまりにCG表現に頼り過ぎたためか、全編通じて「作り物」ばかりが感じられてイマイチ。最初から全部「作り物」とハッキリ分かっているものを見て、ハラハラドキドキする訳もないのだ。大体、空も海も断崖絶壁も全部書き割り…とアリアリ伺える映像がいくら物凄いスピードで動いていても、見ている方としてはスリルは感じないんじゃないか。この映画は「シン・シティ」じゃないのだ(笑)。ちょっとは実写に見える工夫ぐらいして欲しい。

 だが一番興ざめしたのは、この映画にロブ・コーエンらしい「主人公の心意気」が描かれていなかった事だ。確かに「職人」ロブ・コーエン監督の作品は、お客さんを楽しませようというサービス精神が売り物。だが最もロブ・コーエンのロブ・コーエンたる所以は、主人公が自分の流儀を守って行動する事だったり、どんな時でも一本自分なりのスジを通すところだったりする。そんな骨のある心意気を見せてくれるところが、コーエン映画の無骨な素晴らしさなのだ。それがあるから僕らは、山盛りな見せ場やスリリングなアクションをたっぷり楽しんだ末に、スッキリした後味で劇場を後にする事が出来る。だがこの「ステルス」には、残念ながらそれがない。

 おそらくコーエンは軍隊の命令系統ではなく自分の判断で行動する主人公に、その「自分の流儀」を見出そうとしているつもりだろう。あるいは最初は敵視していた「エディ」と最後に共闘する主人公に、「戦友」としての「心意気」を描こうとしているのかもしれない。最後に身を挺して「戦友」を守る「エディ」にも「ソレ」を感じているのかもしれない。

 だが、そんな主人公の「流儀」は…ラングーンの一般市民なんか死んでも関係ないという「独断」でしかないし、それが「エディ」を暴走させもする。こんな「自分の流儀」などテメエ勝手で迷惑なだけだ。おまけに最後の「エディ」の「心意気」だって、国境を侵犯してきた敵を追うという当然の事をしている北朝鮮軍を殲滅するのに行使されるのでは、見ている側としてはスカッと共感出来る訳がない。むしろどこかの国の特攻兵器みたいなイヤ〜な気分だけが残る。

 最後には身を挺して犠牲になった「エディ」なんかどこかへいってしまって、生き残った男主人公とヒロインが思わせぶりにデレデレとフヤけた眼差しで見つめ合うというマヌケな幕切れ。これのどこに「心意気」があるのだ。見ていて主人公たちのケツを蹴っ飛ばしたくなった。

 一体ロブ・コーエンはこれをどんな気持ちで撮ったのだろう? これでいいと思っているのだろうか? これは彼の意図通りつくられた作品なのか?

 それとも、これもいわゆる「時代の気分」ってやつなんだろうか?

みどころ

 そんなわけで娯楽映画作家としてのロブ・コーエンの真価は、今回全く発揮されなかったに等しい。唯一それらしき部分を挙げられるとすれば、唯一アラスカの飛行機格納庫をミサイルで爆破する場面だろうか。あのムチャクチャに派手な火柱が上がる大爆発には、ロブ・コーエンの何らかの鬱憤が籠もっていると信じたい。あそこだけ超アナログな特殊効果というのも何となく象徴的だ。

さいごのひとこと

 次もまたコレなら、いくらファンでもみステルっス。

 

「ナッシング」

 Nothing

Date:2005 / 10 / 10

みるまえ

 今はなきミニシアター「シネヴィヴァン六本木」にて空前の大ヒットを飛ばした「キューブ」(1997)については、みなさんもまだ記憶に新しいと思う。理由も分からず脈絡もない数人の男女が、不思議な立方体の「部屋=キューブ」に閉じこめられるという発想がまず秀逸。脱出しようと「部屋」から「部屋」へと動けば動くほどヤバイ状態に陥り、どんどん仲間が死んでいくという怖さ。時折、部屋同士が動いて位置関係が変わってしまうという奇妙さ。セットはほぼこの「部屋」だけ…というミニマリズムの極みのような設定も素晴らしい。これに比べりゃ「ソウ」なんてまるっきり贅肉が絞れてない、ダブダブの緩んだ映画にしか思えない。そのくらい「キューブ」はシャープにシェイプアップされて、エッジが尖った鋭い作品だった。ヒットしたのももっともと思わされる作品だ。

 その「キューブ」で鮮烈に登場したカナダの新鋭ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の新作がやって来るとなれば、見ずにはいられまい。チラシに軽く目を通すと、二人の男が「世の中なんか消えちまえ!」と望んだら、ホントに世の中が消えちゃって…みたいな一種の不条理劇らしい。またまたやってくれそうではないか。楽しみだ。

 だが…待てよ。

 実はナタリという監督、この映画の前に「カンパニー・マン」(2002)という作品が日本に来ていたのだった。当然「キューブ」に次ぐ作品として注目されたはずだし、僕も見たいと思っていた。ところがなぜかいつの間にか終わっていて、僕も見逃してしまった。実はこの「カンパニー・マン」って映画、まるっきり話題にも何にもならず、ほぼ黙殺された状態で終わっちゃったみたいなんだよね。批判やケナしもない。まるっきり無視って感じだ。一体なぜだろう?

 監督が変わって無理矢理デッチ上げた「キューブ2」みたいな映画ならまだしも、なぜナタリの二作目は黙殺されたのか? それを思い出した時、「ナッシング」を見に行こうとする僕の脳裏に一抹の不安が芽生えたのは否めない。

ないよう

 デイブ(デビッド・ヒューレット)とアンドリュー(アンドリュー・ミラー)の二人は幼なじみ…そして同居人。イジケて心配性のアンドリューは両親の死がキッカケで外界に出られなくなり、自宅にたった一人で「引きこもり」になった。協調心に欠けて自己中心主義者のデイブは周囲から浮きまくり、仕方なくアンドリューの小さな家に転がり込んだ。それでもデイブが会社に勤めたり様々な外の用事を済ませ、アンドリューが家事一切を面倒見ることで、これはこれで二人の生活はすべてうまくいっていた。ところが万事そのままでいかないのが人の世の常。ある日、デイブが「女が出来た」ので家から出ていくと宣言。一人残されたアンドリューはゴミ出し一つ出来ずに往生してしまう。ところがそんなデイブが職場に出社してみると、何と横領の罪を被せられているではないか。何と彼がこれから一緒に暮らそうとしていた女がその金をくすね、デイブに罪を被せてトンズラという始末だ。一方アンドリューも慌てふためいているところにチョッカイ出して来た少女のおかげで、やってもいない児童虐待の罪を着せられてしまう。夢破れてデイブはアンドリューの家に戻ってくるものの、それで何が解決する訳でもない。おまけに悪い時には悪い事が続くもので、いまや高速道路の敷地内に一軒残るカタチとなってしまったアンドリューの家に、ついに立ち退き命令が届けられてしまう。こうしてデイブを横領の罪で捕らえようとする警察、アンドリューを児童虐待の罪に問おうとする警察、さらにはこの家を取り壊そうと乗り込んできた自治体と建設業者の連中が彼らの家の回りを取り囲み、あたりは一触即発。進退窮まった二人は、家の中で縮こまって泣き叫ぶしかない。うわ〜〜〜〜、やめてくれえええぇぇぇ〜〜〜〜。

 ところが次の瞬間、急に騒然としていた周囲が静まりかえる。何の事か分からず戦々恐々とする二人が、コワゴワ扉を開けて外を覗いてみると…。

 外はどこまでも真っ白。この家以外、一切合切がなくなっていた…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 これからどうなるだろう…とワクワクしながら見ていた導入部。ところが主人公二人の家以外の世界が消えて辺り一面真っ白の世界になってみたら…どうもこれは予想したような映画と違うみたいだ…と、今さらながらようやく気が付いた。確かに「キューブ」もこの「ナッシング」も理由が説明されず訳も分からない不条理劇である事は間違いない。だが「キューブ」は、シリアスに謎と取り組んだり立ち向かったりしようとするシリアスなスリラー。一方こちら「ナッシング」は、不条理さのあまりバカバカしさを増していく状況と主人公二人の関係を笑っていくブラックでオフビートなコメディだ。

 これは確かにそうなるしかないだろう。この映画を見終えた今になってみると、僕だってそう思う。だって何もかもなくしてしまうって事は…「なくなった」ものは「なくなって」それっきりなのだから、それだけで話が終わってしまう。設定はミステリアスそのもので不条理だが、2時間の映画をもたせるだけの話を続けさせるのは至難の業だ。何ですべてがなくなってしまったのか?…とか、すべてがなくなった事で主人公たちにどんな危機が襲いかかってくるか…?とか、すべてがなくなってしまったところからどうやって脱出するか?…とかの方向に話を持っていきにくい。だって、すべてが「なくなっちゃった」んだから。

 そうなると普通のリアルで論理的なドラマではなく、どうしてもナンセンスなコメディにならざるを得ない。僕は「キューブ」の監督にそんなものを期待した覚えはないのだが、ともかくそうなっちゃったんだから仕方がない。理屈抜きで、主人公二人は「消去」する能力を身につけてしまったとドラマ上はナットクするしかない。そしてナンセンスなコメディにした以上、例えば限られた資源だけ残ってしまって水や食料がなくなり、飢えに苦しんだりわずかな残りを奪い合ったり…というハードなサバイバル・ドラマにもなりようがない。かくして主人公二人は、この映画をシリアスなスリラーにする最後のチャンスも放棄して、自らの「飢え」と「乾き」も消してしまう。こうなると、後どうやってドラマを展開していくのか?

こうすれば

 結局そうなると、後は残された登場人物であるたった二人の主人公を、対立させていくしかドラマの持って行きようがない。だがどっちもどっちの魅力のない主人公…というのはいかがなものだろうか? こいつらが消えようと死のうと孤独地獄に陥ろうと、全然気の毒でも何でもない。だから物語が盛り上がらない事おびただしい。実際のところ二人があまりバカなんで、見ている側はとっくの昔に嫌気が差しているのだ。そして真っ白な虚空を探険に出かけた二人が、その虚空でバカな争いを起こしたあげく「あ〜〜〜」とトランポリンみたいにどこまでも飛び跳ねていくアリサマを見ていて、とてもじゃないがバカバカしくて映画についていけなくなっていく。映画の中盤あたりまでいかないうちに、観客はもうこの物語がどうでもよくなってしまうのだ。シリアスなスリラーだと思ったらそうじゃなかった…というのはこっちの勝手な思いこみだから映画の罪ではないが、そんな先入観がなくてもこの物語にノレる人はあまりいないのではないか? おまけに物語が本題に入って以降は、手持ちの「消去」できるアイテムは小さな家と二人の身体だけ。それをどんどん消したところで、物語はどんどん内にこもって尻すぼみになっていくだけだ。極度なジリ貧状態。魅力のない主人公たち、発展性のない設定、「消去」というお話の根本…この三つをどうにかしないとこの映画は救いようがない。だが、これってこの映画のすべてではないか?

みどころ

 この映画に見どころを見いだすのは容易な事ではない。僕はこの映画をご覧になるのは、ビデオ録画に限ると断言したい。最後に映画そのものを「消去」できるから。

さいごのひとこと

 題名が中味を表している映画。

 

「プライマー」

 Primer

Date:2005 / 10 / 03

みるまえ

 この映画は大分前に映画館のチラシで存在を知った。何やらダーレン・アロノフスキーの「」(1998)が出てきた時の感じ。僕はそもそも、こういう無名新人がつくる低予算の得体の知れないホラーやSFの小品を見るのが好きだ。「O:34/レイジ34フン」、「レス」、「ソウ」、「クライモリ」、「Re:プレイ」…あの「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)だって結構好き。何をやってるか分かりゃしないアブなさが好きだ。ひとたび当たったらすごく興奮するし、ハズしても腹なんか立たない。この映画はサンダンス映画祭でナントカ…というお墨付きらしいが、この手の映画にそんなハクなど必要ない。ひたすら自分の嗅覚頼みで見つけるのが醍醐味だ。出てる奴が知らないヤツばかりというのもイイではないか。

ないよう

 エンジニアのアーロン(シェーン・カルース)とエイブ(デビッド・サリバン)は研究仲間のロバート(ケイシー・グッデン)とフィリップ(アナンダ・アダヤヤ)と組んで、電子機器の会社を営んでいた。「会社」と言っても研究所兼事務所はアーロンの自宅ガレージ。毎日一日の終わりには全員で商品の梱包を行うしがなさ。売れるのももっぱらシケた基盤のみ。顧客は自室に籠もってパソコンに興じるようなオタクばかり。とても大手企業に相手にされる訳ではない。そんなこんなで親友のエイブ以外の二人はアーロンのリーダーシップに疑問を感じ始め、てんで勝手な事をしようとし始める。そんな中でアーロンとエイブは、二人だけで新たな研究に没頭する。それは「箱」の開発だ。その箱では重力が軽減され、世界の工業や産業に大きな貢献をするはずだった。ところがエイブはその「箱」の意外な副産物に気づく。箱に入れたサンプルに、異常なスピードでカビが繁殖したのだ。さらに試しに入れてみた時計が凄まじい進み方を見せる。どうやら箱の中では、外とは違う時間の進み方をするらしい。これに気づいたエイブとアーロンは、箱を大きくしてとんでもない事をやらかそうと考える。ここに人間が入ったら…。実験場所として貸倉庫の下見をしに行った二人は、それが現実になる事を知った。なぜなら…その倉庫からもう一組のアーロンとエイブが出てくるではないか!酸素ボンベを抱えて「箱」に入った二人。すでに値動きがどうなるか知っている株を過去に戻って買い占め、大儲けしようという魂胆だ。これはズバリ図に当たった。だが、そのうちに何かが起こり出す。耳から血がにじみ出るアーロン。手で字が書けなくなるエイブ。さらにどうやらもう一組の「彼ら」が勝手なマネをしているらしいと知って…。

みたあと

 撮影はデジタルビデオという超低予算映画。だが、それが何ともリアルな感触になっている。役者は知らないヤツだしビデオだし…ぶっきらぼうに撮影されて説明もほとんどナシの展開。だが、それがこの映画に物凄い迫真性を与えている。その点では「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」にも似た雰囲気が漂う。彼らがゴチャゴチャ専門用語をしゃべっているのはほとんど意味が分からないが、そんなもの分からなくてもいいのだ。とにかく実験がホンモノらしく見えればいい。その点でそれらのウンチクは、押井守の自己顕示欲しか感じさせなかった「イノセンス」(2003)とは大違い。こちらにはちゃんと必然性があるのだ。何となく安っぽい機材も、こうなるとガレージで会社やってるこいつらには似合いって気がする。

こうすれば

 ハッキリ言って映画の後半部分は、何がどうなってるのか分からない。説明しろと言われてもゴメン被る。どうやら主人公二人のタイムトラベルの産物である「複製」が出没して勝手な事をやってるとか、お互いがお互いをどこか出し抜こうとしていたらしいとか、それを繰り返し繰り返しやっているうちにホコロビが出てきたらしいとか…そんな事は分かっても、ハッキリとは理解出来ない。とにかく調子に乗っているうちにドツボというあたりしか分からないのだ。

 そのへんを分かるためには繰り返しこの映画を見ろ…というのが、この映画の監督でもあるシェーン・カルースの言い分なのだろう。だがそうするにはいささかこの映画って面白みに欠ける。実感重視のために二人の華のない男のお話にした時点で、そう何度も見返す程の話には思えない。派手さもないしすごく怖い訳でもないし、ビジュアル的に目を惹くところがある訳でもない。だから話として「ちょっと面白い」域を超える訳ではない。大変な事になってるんだろうな…とさえ分かれば、それ以上アレコレ突っつきたいとは思えないのだ。よくも悪くも「ソレ」どまり。

みどころ

 それでも…逆に言えば「何となくひどい事になっちゃってるらしい」と分かればいいのだから、決して難解な映画とも言えない。映画として伝えたい事は、それなりにちゃんと伝わる映画なのだ。そして「タイムトラベル」というホラ話を、これほどリアリティを持って語った映画も他にはない。そう言う意味で、製作・監督・主演の他に脚本・編集・音楽まで手がけた理数系出身のシェーン・カルースって男はとんでもない逸材だとは思う。今後は製作規模が広がり名も売れた段階で、このリアルさとワンマンコントロールを維持出来るかどうか…。

さいごのひとこと

 樹里ちゃん抜きのサマー・タイムマシン・ブルース。

 

「ルパン」

 Arsene Lupin

Date:2005 / 10 / 03

みるまえ

 この映画のことは全然知らなかった。チラシで見て、「ルパンが映画になるのか…ふ〜ん」と思ったくらい。ただ主演が「猫が行方不明」(1996)、「パリの確率」(1999)、「スパニッシュ・アパートメント」(2002)などセドリック・クラピッシュ映画に常連のロマン・デュリスと聞くと、無関心ではいられない。しかも「ドリーマーズ」(2003)や「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)のエヴァ・グリーンも出るという。フランス製の大作娯楽映画の「大味」さは何となく分かってはいても、ちょっと見てみたい誘惑からは逃れられない。

ないよう

 1882年、スビーズ公爵夫人の妹アンリエット(マリー・ブネル)は、夫の事で常日頃から姉からイヤミばかり言われていた。その夫・テオフラスト・ルパンは、拳闘のコーチが職業という得体の知れない男。確かに高貴な家柄の娘の嫁ぐ相手とは言いかねた。だが二人の間にはアルセーヌという息子も生まれ、幸せな暮らしを営んでいたのだが…。ある日警官隊が屋敷に押し掛け、大立ち回りのあげくテオフラストは失踪。何とテオフラストが拳闘のコーチというのは世を忍ぶ仮の姿、実は有名な大泥棒だと言うではないか。この一件で家名に泥を塗ったと叱責されたアンリエットとアルセーヌ母子は、屋敷から追い出される事になってしまう。その腹いせかそれとも内なる盗賊の血が騒いでか、スビーズ家に伝わる宝物マリー・アントワネットの首飾りを盗み出すアルセーヌ少年。彼はコッソリと父テオフラストと落ち合うと、盗んだ首飾りを彼に手渡す。実はテオフラストは、アルセーヌに格闘技や盗みのノウハウなどをコッソリと伝授していたのだ。「いいか、相手の注意をそらすのが大事なんだ」

 こうして去って行く父テオフラスト。アンリエットとアルセーヌ母子も、翌朝屋敷を追い出されてしまう。だがその道すがら、二人は顔を潰され殺害されたテオフラストを目撃してしまう…。

 それから幾年月。とある豪華客船に乗り込んだ若き紳士ダンドレジは、美女たちを手玉に取りながら次々とアクセサリーを手中に収める…それはあのアルセーヌ少年が成長した姿(ロマン・デュリス)だった。だが調子に乗りすぎてか若さ故か詰めが甘く、危うく捕まりそうになって難を逃れる始末だ。そんな彼は、今は病院で床に伏す老いた母親アンリエットへと駆けつける。だがそこにも警官隊が押し寄せ、母はそのドサクサに世を去ってしまう。悲嘆に暮れるアルセーヌを助けたのは、母アンリエットの世話をしていた若い娘…実は彼女、屋敷を追い出されるまで一緒に育ってきたアルセーヌの従姉妹クラリス(エヴァ・グリーン)。彼女は今でもアルセーヌを慕っており、彼を屋敷に匿うことにした。

 そんな夜、屋敷の中で妙な暗号のような図面を見つけるアルセーヌ。さらにクラリスの父親ドルー・スビーズ(ロバン・ルヌーチ)が、何やらコッソリと外出するではないか。その後をつけていったアルセーヌは、修道院で怪しげな会合が開かれているのを目撃する。それはフランスの王室復権を狙う一派による、巨額の財宝が絡む企みのようだった。その場に集められたボーマニャン(パスカル・グレゴリー)ら腹にイチモツの男たち。そして見るからに魔性のオンナ、カリオストロ伯爵夫人ことジョゼフィーヌ(クリスティン・スコット・トーマス)…。

みたあと

 若きルパンが豪華客船で盗みを働くあたりは、なかなか快調。お〜これは面白くなりそうとドキドキした。CGなどを臆面もなくバシバシ使う作風も、別にCG嫌悪の清貧主義なんか持っていない僕は気にならない。むしろフランスなりのアメリカン・スタイル娯楽大作映画をやろうとしている事に、好感すら感じるほどだ。こうして波瀾万丈の冒険活劇を見せてくれれば嬉しいと思いきや…。

 何やら陰謀が出てきたのはいいが、それがどんな陰謀なのかよく分からない…(涙)。それは僕がモーリス・ルブランのルパン原作に明るくないせいか、はたまたフランスの歴史に疎いからだろうか。だから「分からない」と語るのは自らの恥をさらすようなモノかもしれない。だが、分からないものは分からないから仕方がない。それに…それって単に知識の欠如でもない気がする。たまたまルパンが生家であるスビーズ家に舞い戻って…云々から始まる陰謀劇&宝探しは、ハッキリ言って「行き当たりバッタリ」の偶然性に頼り過ぎている。唐突にルパンが財宝の在りかの手がかりを記した図面を見つけるところから始まってしまうのだから、一体こりゃ何だ?…となるのも無理はないはずだ。しかも、それがルパン個人に絡んでも来る。「スター・ウォーズ」サーガじゃあるまいし、何でまた狭い世界でチマチマと身内の人間関係が絡み合うのか。

こうすれば

 怪盗ルパンの胸のすく冒険…が見れると思ったら、ルパンの活躍が本格的に始まる前の「青春編」を見せられてしまった訳で、いささか戸惑ってしまうのも無理はない。だが、「だから悪い」って訳ではないのだ。あくまで話の出来映えが芳しくないからダメなのだ。本筋が明快でなく、何に向かってストーリーが進んでいるのかモヤモヤしたままで、なおかつ話の原動力が「行き当たりバッタリ」の「偶然性」に頼りすぎている。おまけにメリハリがつかない。だからいろいろ活劇としての趣向は盛り込んでいながら、何だか見ていてずっとスッキリしない。おまけにいつまでもダラダラと続いている気がする。何だか長かったという印象しかないのだ。

 監督は「ルーヴルの怪人」(2001)のジャン=ポール・サロメ…と聞いて、何となく合点がいった。あれもどこかアメリカ風娯楽大作映画を志向しながら、脚本がガッタガタでしょうもないデキに終わっていたっけ。論理的で合理的なドラマの構成が思い切り苦手な人なのだろう。だけど娯楽映画で脚本がガタガタじゃ、見るべきところはほとんどない(笑)。これはイタイよ。いっそ脚本の交通整理が出来ないならば、こんな陰謀とか謎とかを入れずに、単に怪盗ルパンの活躍を単純バカ力でドンドン見せればよかったのに。別に凝った事をやらず、「まんま」やればよかったんだよ。

みどころ

 ルパンに扮したロマン・デュリスは、最初見た時にフォーマルな衣裳が全く似合わず、こりゃダメだと思ってしまった。何だか貧相で品がなくて…華がないにも程がある。だが、すぐにそれが「貫禄もなく未熟な」青春ルパンを描きたいがため…と分かる。「恋におちたシェイクスピア」(1998)で、品に欠けるジョゼフ・ファインズを若き日のシェイクスピアに配したのと同じ作戦だ。だがそれにしても…やっぱりタキシードとかシルクハットが似合わな過ぎる。若い頃だってジャン=ポール・ベルモンドあたりだったら、もうちょっと何とかなっていたはずだ。元々このルパンというキャラに、ロマン・デュリスは合ってなかったんじゃないか?

さいごのひとこと

 どうもルパンは孫の方がデキがいいね。

 

「亀も空を飛ぶ」

 Lakposhtha ham parvaz mikonand (Turtles Can Fly)

Date:2005 / 10 / 03

みるまえ

 先日のイラク戦争を背景に、子供たちを主役にしたイラン映画。…こう聞くと、ある種の映画ファンと中東問題に関心のある人々はピクッと反応し…そして大変申し訳ないが、多数の映画ファンは内心「またかよ」と思うのではないか。いやいや、あなたは何も気に病む事はない。僕がハッキリ言ってあげよう。問題意識のないヤツと言われようが、資本主義の肥え太ったブタと言われようが、僕も正直言って「またかよ」と思ってしまう。いかにありがたい事を映画に込めてあろうと、しょっぱな見る気が半減するのは致し方ない。何せイラン映画と聞けば、題材として古い因習やら貧困やら民族紛争やらを持ってきた上で、子供を主役にドキュメント・タッチで撮ったモノしかないみたいだ。「それしかないのか」と言いたくもなる。

 それでもそんなイラン映画にウンザリさせられながら、実際見たら圧倒される…という事を繰り返し繰り返し経験しているから、僕もこうしてイランの新作となれば重い腰をヨッコラショと上げるのだろう。大御所のアッバス・キアロスタミをはじめ、「カンダハール」のモフセン・マフマルバフ、「運動靴と赤い金魚」や「少女の髪どめ」のマジッド・マジディ、「ダンス・オブ・ダスト」のアボルファズル・ジャリリ、それに「1票のラブレター」なんてのもあったな。

 そうは言っても今回は、イラク戦争を背景にクルド人の子供たちのお話と来る。どう見たって暗い話になりそうだ。いつもお高い岩波ホールに足を運んでみれば、列の順番取りに余念がないオバチャンたちのグループがデカい声張り上げてる。「大勢で来れば怖いもんなしよ」…オマエたちゃ自民党か。文化・芸術の担い手を標榜するこの映画館にして、あまりに文化とは程遠いこの下品さ。そうだ、オレがこの映画館を嫌うのはお高いからじゃない。お高いフリしてどこか客たちに漂う下品さがイヤなんだ。

 早くもスッカリ気持ちが萎えて、これから2時間の苦行が始まると思うとウンザリの僕だったが…。

ないよう

 思い詰めたような表情の少女が、断崖の突端までゆっくり歩いていく。下は遙かな奈落の底。果たして彼女は一体どうしてこのような事をしているのか?

 イラク戦争直前の2003年春。ここはトルコ国境に面した、イラク北部のクルド人居住地域。あっちこっちでテレビ・アンテナを建て直し、風雲急を告げる状況を知ろうと躍起。そんな需要に応えるのが、何かと言うと「オーケー?」とか「カモン」とかデタラメ英語をまくし立てるメガネ少年「サテライト(衛星)」(ソラン・エブラヒム)。彼は地元の子供たちを組織してこうしたテレビ・アンテナの設置やら地雷の除去、さらにはそれらを商人に売り飛ばす時の値段交渉までを一手に引き受ける。そんな彼が、この村へと流れて来た一人の少女と出会ったのは偶然の事だった。目を患う幼い「弟」リガーを負ぶった少女アグリン(アワズ・ラティフ)は、どこか他人を寄せ付けない醒めたモノを感じさせる子だった。にも関わらず、調子の良さとハッタリだけで世の中渡ってるような「サテライト」は、一目で彼女に惹かれてしまう。何かと声をかけ、便宜を図ってやろうとする「サテライト」。だがアグリンはそんな「サテライト」につれない。一方アグリンには一緒に逃れてきた両腕のない兄ヘンゴウ(ヒラシュ・ラシル・ラーマン)がいたが、この兄が驚異的な数の地雷を嗅ぎ分ける特殊な才能を発揮。これには地元の子供たちは驚嘆しきりだ。自分が組織している子供たちを奪われる事を恐れた「サテライト」はヘンゴウに食ってかかるが、頭突きの名手ヘンゴウの敵ではない。だがヘンゴウは、「サテライト」の地位を脅かそうという気はなさそうだ。やがてヘンゴウが災いを事前に察知する「予知能力」の持ち主と知った「サテライト」は、いつしか彼に一目置くようになる。だがヘンゴウはヘンゴウで、妹アグリンの荒んだ心に手を焼いていた。ちょっと目を離すと「弟」リガーを虐待するアグリン。だが、それには彼女なりの理由もあった。何と「弟」リガーは、実はアグリンの「実弟」ではなかった。両親を殺したイラク軍兵士がアグリンを犯した事によって、望まぬ妊娠を強いられ生まれた彼女の「実子」だったのだ…。

みたあと

 「酔っぱらった馬の時間」(1999)、「わが故郷の歌」(2002)…と、どうやったらここまで見たくなくなる題名を付けられるのかと呆れ果てるバフマン・ゴバディ監督の作品を、実は僕は今まで全く見たことはなかった。だが見逃した後で、必ず「よかった」との声を聞かされてもいた。そうなると、次はぜひ見たいと思うのが人情。たまたま上野樹里主演の「亀は意外と速く泳ぐ」と間違えた事でこの映画の存在を知る(笑)と、暗そうな題材、岩波ホール…という悪条件にも関わらず、万難を排して見ようという気になった。つまんなそうならつまんなそうな程、見た後の喜びは大きいかもしれない。実際に触れた作品そのものは、実は事前のイメージからそれほどかけ離れたモノでもなかった(笑)が、それでもやっぱり映画というものは見てみないと分からない。確かにヘビーな現実を反映した作品だが、陰々滅々な落ち込む内容のモノでは決してなかった。

 断っておくと、僕はここで政治的メッセージを云々するつもりはない。こんな映画一本見たくらいでフセインがどうだとかアメリカがどうだとか、そんな自分が正義の御旗を掲げるような事を言うつもりはない。この映画は何かを知ったり考えたりするキッカケにはなるだろうが、それ以上でも以下でもないだろう。だったら2時間近くの時間を費やして、2000円近くのお金を払うに相応しいかどうかが最大の関心事になる。冷たいと言われようがバチ当たりと言われようが、このスタンスは変わらない。そもそもこんな映画見ただけで「良いこと」をした気になるヤツはバカだよ。

みどころ

 面白いのは何と言っても主人公「サテライト」のキャラクター。こんな状況下で調子よく立ち回るこの男の子は、虚勢とハッタリで塗り固め「ハウアーユー?」なんて怪しげな英語を連発し、軽薄でしょうがないヤツなんだが何となく憎めない。そもそも彼の薄っぺらなアメリカ崇拝の裏側には、フセイン体制に抑圧されたクルド人のポジションが色濃く出ている設定だ。彼の言動の他にもこの映画には、なぜかドッと笑いが起こる瞬間が数多くある。「サテライト」に憧れていて、彼のデタラメ英語をいちいち「今のはどんな意味なの?」と聞いて来る幼い男の子なんて、何とも抱腹絶倒のキャラだ。

 そんな調子の良さだけみたいな「サテライト」が難民少女に報われぬ想いを抱き、彼自身が変わっていくあたりがイイではないか。彼は全編通じて思い切りキャラが立ちまくっている。そんなわけで…この映画には笑いやユーモアがあれば、少女が自殺未遂を図る場面や地雷原に迷い込んだ幼児を助けようとする場面などにすごいサスペンスもある。さらには朝靄に包まれた村の風景やら荒涼とした大地やらに「映画的な美しさ」が溢れていて、見ていて「面白い」映画になっている。決してお客さんを飽きさせない映画なのだ。ここではその点を最大に評価したい。

さいごのひとこと

 亀映画は意外にどれも笑える。

 

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