「パープル・バタフライ」

  紫蝴蝶 (Purple Butterfly)

 (2005/12/05)


 

見る前の予想

 「SAYURI」でいよいよハリウッド上陸…って言ってもあまり嬉しくはないが、ともかくあまたいるアジア女優、中国語圏女優の中でも知名度で頭一つリードの観があるチャン・ツィイーと、何と日本の仲村トオルが共演していたとは。仲村トオルと言えば、何と言っても韓国映画ロスト・メモリーズ(2002)での堂々たる主演ぶりが記憶に新しい。彼が今度はアジアでトップ級の注目を浴びるツィイーと共演するのか。これは絶対に見逃せない。しかもしかも… 何とこの映画はあの傑作ふたりの人魚(1998)の監督ロウ・イエの最新作と言うではないか。これは見ない訳にはいかないだろう。他の映画は全部はずしても、これだけは見なければ…。

 

あらすじ

 1928年、満州。肉体労働に身を投じる一人の男と、まだお下げが似合う若い娘が街角で見つめ合い、そのまま惹かれあって結ばれる二人。だが男の方は元々が労働者階級の人間でもなければ、中国人ですらなかった。男は伊丹(仲村トオル)という日本人。本来は恵まれた家に生まれた文学青年だ。これに対して若い娘シンシアことディンホエ(チャン・ツィイー)は…と言えば、兄が何人かの同志と共に抗日活動をしている関係上、常に複雑な思いを抱いていた。街には我が物顔でのさばる日本人たちが、そろそろチラホラと現れ始めた頃だ。やがて日本に戻る事になった伊丹だが、シンシアは駅に彼を見送りには来なかった。…いや、実は彼女は駅に来ていた。だが伊丹の前には現れず、物陰からじっと彼の出発を見送っていたのだ。こうして二人の恋は終わった…とそんな時、抗日ビラを撒こうとしていたシンシア=ディンホエの兄が日本人の暴漢に襲われ、彼女の目の前で爆殺されるではないか…。

 1931年、上海。電話交換手の娘イーリン(リー・ビンビン)とごく普通の青年スードゥ(リウ・イエ)は恋に落ちた。終電を逃したスードゥは、イーリンの部屋で夜通し踊り明かす。仕事で街を離れたスードゥは、やがて上海に戻る日をイーリンに電報で知らせて来た。日本軍の中国侵攻が伝えられ、抗議運動が街を揺り動かしていたこの日…だがイーリンには他の何も目に入らず、ただただ息せき切って駅に駆けつけた。そんなごった返す駅のホームに…実はあのシンシアことディンホエが仲間らしき男シエ・ミン(フェン・ヤンチェン)とやって来たのを、当然のことながらイーリンは知る由もない。ディンホエとシエ・ミンたちは、どうも誰かを待っているようだ。

 一方、駅のホームに入って来た列車には、一心不乱にイーリンの姿を探すスードゥが乗っていた。だが彼と隣り合わせた席に座っていた男が、何かの目印である蝶のブローチを間違えてスードゥの上着に付けてしまったのがマズかった。慌ててホームに降り立ったスードゥに、見知らぬ男が近づいて来る。「これを持って行け」と見知らぬ男がカバンを手渡してくるのを、何も知らぬスードゥは慌てて突き返した。「人違いです!」

 ダダダダッ!

 とたんに始まる銃撃戦。たちまち人混みでごった返す駅のホームは阿鼻叫喚だ。無論スードゥは大慌て。何やら計画が狂ったらしいディンホエとシエ・ミンたちは、いきなり銃を構えて臨戦態勢だ。ブローチを付け間違えた男も慌ててホームに降りるが、アッという間に銃弾に倒れてしまう。何があったのか…と驚くイーリンは、その場にいるはずの恋人の姿を探して大パニックのホームを走り回る。ところがスードゥは人違いされたまま、いきなりクルマの中に押し込められるではないか。それに気づいたイーリンが走り去るクルマに飛びつこうとした時…いきなりディンホエと怪しい賊との銃撃戦が火蓋を切り、その流れ弾に当たってイーリンはその場に倒れる。イーリンの血しぶきを浴びたスードゥは狂ったように暴れるが、クルマは停まらずに駅構内から走り去って行く。そして大騒ぎの中から抜け出すとスードゥをクルマから下ろし、「某ホテルで待て」と指示を残して走り去った。後に残されたスードゥは呆然。だが今はもう彼も追っ手から追われる身だ。愛しいイーリンの亡骸も遠目に見るしかない。仕方なく言われた通りに某ホテルに待機するが、彼はそこで手渡されたカバンの中身を見る。そこには、ある日本の高官に関する情報が満載だ。

 一方ディンホエは、自分が命を奪ってしまったイーリンの亡骸に近づくと、その手に握りしめられていた電報の紙片を持ち去った。ディンホエにはまだ、取り返しのつかない事をしてしまった…と思うだけの良心が残されていたのか。

 さて、スードゥはホテルにかかってきた電話の指示で、夜の花街へと出かけていく。そこには妖しげな女たちに混じって、あのディンホエが待っているではないか。言うまでもなくディンホエと仲間のシエ・ミンは、「抗日ゲリラ」のメンバー。彼らは日本軍側の要人暗殺を狙いながら、暗殺者と間違えてスードゥと接触してしまったのだ。そんな間違いに気づいたディンホエたちは、ここでスードゥとの最接触を試みた訳だ。

 そんなこんなでディンホエはスードゥから例のカバンを取り戻すが、そこに突然銃声が起こり、手入れが入る。またまた上に下への大騒ぎ。その阿鼻叫喚に紛れてディンホエと仲間のシエ・ミンはクルマで逃げ出すが、必死に走って逃げるスードゥの姿を見ても、シエ・ミンは冷たくこう吐き捨てるだけだ。「構わん、見捨てろ!」

 そんな上海の街に…あの伊丹が帰っていた

 ただ伊丹の立場は、「あの頃」とは大きく変わっていた。バリッとした背広に身を包み、堂々とした物腰で街を行く。その、どこか冷たい表情。

 その正体は…日本軍によって派遣された秘密工作員だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 この映画の監督ロウ・イエの前作「ふたりの人魚」は、まさに衝撃的と言ってもいい作品だった。不思議なヒロインを巡る、現実と幻想が交錯した物語。しかも語り手がビデオ作家である事から、一種の「映画中映画」の趣もあった。中国にもこういうタイプの映画作家が出てきたのか…と、思わず目を見張らされた。もちろん、この監督の映画は僕の好みだ。

 だからその後ロウ・イエ監督の旧作が突如公開された時、慌てて駆けつけたのは言うまでもない。その作品危情少女 嵐嵐(1995)はしかし、必ずしも期待通りの作品ではなかった。それでもホラー・タッチのサスペンスという、中国では極めて珍しいタイプの映画。おまけに虚実入り交じるお話というところが「ふたりの人魚」を彷彿とさせるではないか。ロウ・イエは成功作でなくても、どこか気になる映画を撮る男だと再確認したわけだ。

 で、今回のこの新作

 日中戦争を背景にした、一見あまたある「抗日映画」の体裁を持った作品。別に僕が日本人だからといって「抗日映画」に色メガネを持つわけもないけれど、それまでのロウ・イエ作品を考えてみれば割と中国映画としては「当たり前」の題材を取り上げた観があるのが今回の作品だ。だが、やっぱり曲者のロウ・イエ。見ればやっぱり納得のユニークさ。戦中の上海を舞台にしているお話だが、なぜか「ふたりの人魚」の時にも似た夢見るようなカメラワークが再び展開。フラフラとした酔っぱらったような手持ちカメラのせいなのか、それともピントが合ったような合わないようなレンズの使い方が微妙なのか、今回は別に「現実」「非現実」を行ったり来たりするようなお話じゃないはずなのに、何となく「日中戦争を背景にしたメロドラマ」であるはずのこの作品が、そんなものから逸脱していくように見える。

 いやいや、そもそも終始上海の街にしとしとと冷たい雨が降りしきる画面からは、まるで「ブレードランナー」や「セブン」にも共通するような、「この世ならぬ雰囲気」がにじみ出ている。来る日も来る日も雨…というところからして、ロウ・イエは何かリアルなものを描こうという気がないのが分かる。

 それに…大体そもそもがこの映画って、そんな「抗日映画」や「日中戦争を背景にしたメロドラマ」なんだろうか?

 実は驚くべき事に、この映画では必ずしも抗日ゲリラが「善」とは描かれていないように見える。今は日本軍の諜報員である昔の恋人とヨリを戻させて、ヒロインから情報を入手しようとするゲリラの首謀者の男。彼はたまたま間違えられた事で恋人を殺され、自らも事件に巻き込まれてメチャメチャな目に遭わされる罪もない男に対し、全く一片の同情も持ちはしない。元はと言えば自分たちのせい…しかも自分たちの大儀は「中国人を助ける」はずのこの連中は、不運な同胞を見ながらこう吐き捨てるのだ。「構わん、見捨てろ!」

 だからヒロインも、ついついこうつぶやかざるを得ない。「私たちは何のために闘っているの?」

 ワナにハマった不運な男は…と言えば、絶望的な反撃に出ざるを得ない。何と抗日ゲリラ側も日本軍側も血祭りに上げるべく立ち上がるのだ。一体どっちが善でどっちが悪なのか?…いや、どちらも悪ということなのか。

 要はどんな大義名分があろうとも、その出発点に正義があろうとも、「戦い」を選んだ時それは「悪」になるということではないか?

 これは…しかし中国の映画としては、驚くべき大胆さと言わざるを得ない。このナショナリズムとも単細胞な正義感とも無縁な発想は、ロウ・イエがハナっから「赤勝て白勝て」的な映画をつくる気がない事を示している。彼にとっては抗日ゲリラも、「戦い」を選択した時点ですでに「悪」だ。もちろん抗日ゲリラと日本軍とを一緒に扱かえるはずもない。ゲリラ側も考えようによっては「悪」…とは一種の極論には違いなかろう。だが志こそ違え、結局は抗日ゲリラも「戦い」に手を染めた時点で、日本軍的「良からぬ傾向」に染まっていく運命にある。そして同じように弱き者を踏みにじっていく。

 なぜなら、「戦い」はいつの間にかそれ自体が「目的化」するからだ

 この、あまりに知的で大人の発想には、心底驚かざるを得ないだろう。しかもこの映画は、そんなステレオタイプの「抗日」映画から脱しているだけではない。やっぱり今回も、濃厚なロウ・イエ映画そのものであるからこそスゴイのだ。そもそもこの映画が「現実」のドラマかどうかも分からなくなるから、とんでもない映画なのである。

 今回の映画は最初にチャン・ツィイーと仲村トオルの出逢いと別れがあって、それから普通の青年リウ・イエと電話交換手リー・ビンビンという別のカップルのエピソードへと移る。それが駅での悲惨な展開を見せるあたりで二人にチャン・ツィイーが絡んでくるが、このあたりまではごく普通の時系列で物語は進行しているのだ。

 だが、この直後からドラマの時間の流れが変わる。ほんのちょっとお話の中の時間が戻って、今度は上海に久々に舞い戻った仲村トオルのエピソードが語られるのだ。後は終始こんな調子で…エピソードが変わるごとに、少しづつギコギコと時系列が元に戻ってから進行していくカタチをとっていく。まぁこうしたちょっとした時系列のいじくりをやっているだけでも、「現実」「幻想」が錯綜した「ふたりの人魚」の監督として面目躍如たるものがあるとは言える。

 だが、実はロウ・イエのロウ・イエたる所以はそんな程度のことではない。

 最初はあまり気づかなかったのだが、エピソードが変わるごとにリー・ビンビンが電話交換手の仕事をしているショットがわずかながら挟まる。

 確かに仲村トオル再登場のくだりはちょっと時制が前に戻るわけだから、そこにリー・ビンビンが挟まってもおかしくはない。駅で惨殺される彼女が生きている時までお話は戻ったよ…という約束事と考えても間違いはない。だがその後もエピソードが変わるごとに、死んだはずのリー・ビンビンのショットがチラッと挟まるというのはどうしたことか? お話はエピソードが変わるごとにちょっとづつ戻りつつも、どんどん先に進行してもいるのだ。それなのに、エピソード変わりのたびに死んだはずのリー・ビンビンが出てくる。これは何となく異様ではないか。

 そしてその異様さは、最後に「えいやっ」と力業でひっくり返すようなクライマックスで明らかになる。

 日本軍主催の舞踏会にやって来るチャン・ツィイーと、彼女を迎える仲村トオル。それ以前に、ツィイーのゲリラ仲間で現在の恋人フェン・ヤンチェンは、日本軍の要人襲撃で命を落としている。そんなツィイーと仲村の前に、いきなり怒り狂ったリウ・イエが銃を持って飛び込んでくる。この映画最大のカタストロフ場面が展開する訳だ。

 ところがその直後…ツィイーはいきなり自分のアパートの部屋に戻ってきて、フェン・ヤンチェンと抱き合う。あれっ?ツィイーもヤンチェンも死んだんじゃなかったっけ?…さっきそう見えたのは僕の見間違いだったのか?

 確かに一瞬見間違いだったか…と思うほど、その前のエピソードで二人が死んだ描写は呆気なく曖昧だ。だから僕は見間違いかと思った。だが、それがロウ・イエの仕掛けたワナなのだ。実は舞踏会でのカタストロフ場面の後、お話は一気に駅での悲劇の一歩手前まで戻されている。ツィイーたち抗日ゲリラが暗殺者とコンタクトをとろうとする直前まで、お話は巻き戻されているのだ…奇妙なことに。

 これが、単に奇をてらっただけの作劇上の仕掛けには見えない。

 何となく劇中の重要登場人物が、ハナっから「幽霊」か何かだったのではないか…という気になってくる。確かに結果的には、ツィイー、仲村、リウ・イエ、リー・ビンビン、そしてヤンチェンと、主要登場人物は舞踏会のカタストロフまでには全員死んでいる。それが生きている時点までぐるりとお話が巻き戻されて映画が終わるというあたりで…彼らが幽霊になってまた同じ事がリプレイされているような錯覚を覚えるのだ。

 そしてロウ・イエは、明らかに観客にそう見えるように撮っている。わざと時制が間違って見えるようにチャン・ツィイーの衣装を同じに着せているし、何よりエピソードが変わるたびに「生きている」リー・ビンビンがワン・ショット挟まるではないか。

 「戦い」という因果な運命で滅びた彼らは、無念の思いを抱いたまま時の囚われ人となり、永遠に時に閉じこめられたままリプレイを繰り返す…この映画を見ていると、そんな妙な感覚にとらわれる。あるいは「戦いに巻き込まれた人々は、そこで人生が止まってしまう」とでもいうべきだろうか。

 この不思議な感覚こそが「現実」と「幻想」が錯綜するロウ・イエ作品の醍醐味なのは間違いない。しかも、「反戦」などと甘っちょろい事を言うよりもよっぽど強烈に戦争の忌まわしさが描かれている…とも言えるのだ。

 

見た後の付け足し

 この映画のチャン・ツィイーは、久々に奥行きのある演技を見せて素晴らしい。何となくツィイーって、放っておくとワンパターンに陥りがちだ。特にここんところは、健気な演技か小生意気演技か、どちらかしかないような印象があった。今回は久々に、彼女の演技者としてのスケールを感じさせたよね。

 そして仲村トオルの堂々たる登場ぶりには、「ロスト・メモリーズ」同様にアッパレとしか言いようがない。何よりスターとしての華があるのが素晴らしい。うまい役者など掃いて捨てるほどいるが、華のあるスターは限られた存在だからね。

 「山の郵便配達」で注目されたリウ・イエはそれなりだったが…僕が注目したのはリー・ビンビン。出番が少ない小さな役ながら、印象の強烈さはピカイチ。彼女はきっとスターになる(もうスターなのだろうが)と確信させる強烈さだ。彼女が最大の拾いモノかも。

 

 

 

 

 

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