「エリザベスタウン」

  Elizabethtown

 (2005/11/21)


 

 僕の父が、またしても入院してしまった。

 だから母親は毎日病院に通いづめだし、僕も仕事の合間をぬって病院に出かけるようにしている。母も僕もいいかげん疲れているが、それでもそうせずにはいられない。そうしている方がラクだ。自分が何かしている気になるからね。

 そして入院こそしなかったが、実は父は八月頃にもちょっと深刻な状態になった。それを何とか脱していい方向に向かおうとしていた矢先だったから、僕は今とても悔しくて仕方がない。親父も僕も一緒に危機を脱しようとして努力したし、それが出来ると思えてきたからこそ残念でならないのだ。それでも世の中や人生にはどうにもならない事がある。こないだの衆院選の結果みたいなものなら、世の中は救いようのないバカばっかりだ…で自分をナットクさせられないでもないが、まったく理不尽極まりなくても受け入れざるを得ない事もある。

 実はこの八月以降はいろいろあった。いや、それを言うなら昨年の夏以降と言うべきだろう。いやいや、それを言うなら一昨年の三月以降…いやいや…などということは、以前もどこかで言っていたような気がする。だが、事の発端をどこまで遡っても、何がどうなるという事でもあるまい。

 不思議なもので、僕はよく映画の中に「今の自分」を見出す事がある。なぜこんなに今の自分の気持ちや境遇にピッタリ来る映画ばかりなのか…と不思議な気分になる。まるで世界の映画作家たちが、僕のためだけに映画をつくってくれているみたいだ。もちろんそんなバカな事はあるまい。その時には「今の自分」にピッタリな映画しか目に入らないのだろうし、どんな映画の中にも「今の自分」と共通する要素を見出してしまうのだろう。

 それでも、あまりに「今の自分」にピッタリすぎて、怖くなってしまうほどの映画もある。つくったのはキャメロン・クロウ。昔から僕が大好きな映画ばかり撮って来た男だ。そういや、この男の撮った映画には「セイ・エニシング」(1989)以降いつも身につまされていた気がする。あの頃ペニー・レインと(2000)は僕にとって映画以上の映画だ。僕は大抵の映画ファンの暴言も大目に見てやる方だが、あの映画をケナす奴とは口をききたくない。そういう奴は僕の目の前に決して出てこないでくれ。

 そんなキャメロン・クロウの最新作「エリザベスタウン」。期待しないわけにいくまい。

 

 ある巨大シューズ・メーカーの倉庫に、次々とトラック一杯の新作シューズの返品が戻されてくる。

 そのシューズを創った男、デザイナーのドリュー(オーランド・ブルーム)は、今ヘリコプターの機上の人だ。そのヘリは、彼を本社ビルへと運んでいく。途中、彼は何度こう考えたか知れない。…今、このヘリの扉を開けて飛び降りたら…今、このヘリの回転している羽根に首を突き出したら…。

 だがドリューはそうしなかった。だから彼は大丈夫だ。「大丈夫、大丈夫だ」と本社に着いたドリューは周囲の人々にそう連発する。しかし人間、自分で「大丈夫」と言う時ほど「大丈夫」でない時もない。彼を取り巻く本社の人々の眼差しは、明らかに「憐れみ」のそれだ。一時はドリューを愛してくれたはずの、キャリアウーマンのエレン(ジェシカ・ビール)もその一人。社長室へとドリューを連れて行ってくれたエレンは、別れ際に「最後の一瞥」をくれた。あのみんなと同じ眼差し…「これでこいつとも二度と会うことはないな」という独特な視線だ。

 社長(アレック・ボールドウィン)は別に彼を口汚く罵ったりはしなかった。ただ、ドリューのシューズが会社に決定的な10億ドルの損失を与えること、これによって会社がオーナーだったバスケットチームが解散になって選手たちも解雇されること、会社が巨額の資金援助を行っていた地球環境保護活動も打ち切りになること…を「事実」として伝えただけだ。社長が彼に求めた事はたった一つ。ジャーナリストの取材に協力すること…すべては「自分のせいだった」という内容の告白をすることを求めただけ。一週間後には彼のインタビュー記事は全米に発表され、彼はこの国最大の「負け犬」となるわけだ。

 荷物をまとめて自宅に戻ったドリューは、室内用健康バイクを引っ張り出して、そこに鋭利な出刃包丁をくくりつける。これで即席自殺マシーンが出来たわけだ。さぁ早速この世からオサラバとバイクのスイッチを入れると、何と出刃包丁が情けなくもズッコケるではないか。例のシューズだけでなく自殺マシーンのデザインすら満足に出来ないのか。包丁を付け直して再度挑戦…とその時、携帯のマヌケな着メロが鳴り出した。出鼻をくじかれたドリューだが、気を取り直してもう一度。だが再三着メロが鳴る。こうなりゃ携帯に出ずにはいられまい。だが電話に出たドリューの耳には、信じられない知らせが飛び込んできた。

 父が亡くなった…。

 父は自分の故郷、ケンタッキーはエリザベスタウンで亡くなったと言う。ドリューはその亡骸を引き取る役目を仰せつかったわけだ。自殺は当分おあずけ。まぁいいさ、どうせ彼に「全米最大の負け犬」の烙印が押されるまで、もうしばらくの猶予はある。

 

 もう何度も何度も繰り返さなくてもお分かりだろうが、僕は思いっ切り「負け犬」だと自分でも思うし人も僕をそう見ているはずだ。ささやかながら「転落」も何度か味わった。人生浮き沈みのあるものだから、それは多少勝利の美酒にも酔いしれはした。だが「転落」を知っているから、そんなものが危うい不安定なモノだと知っていたし、実際それはすぐに消えてなくなってしまった。僕にとって人生とは、ハシャがず奢らずドツボにハマっても過度に気を落とさず、とにかくジッと気長に息を押し殺して過ごしていくものだったし、たぶんこれからもそうだ。一言で言えば、熱すぎる風呂にジッと我慢しながら入っているようなものか。ハッキリ言ってやろうか?…そりゃあ楽しくはないね。

 だから罵られたりバカにされる事もしばしばだし、慣れっこと言ってもいい。だが僕が淡々としているには訳がある。僕を罵ったりバカにしたりした人間も、僕を裏切ったり踏みつけた人間も、みんな同じルーレットの上にいるからだ。僕の仕事上の客だった奴も僕にハンコを押す役目の役人も、僕の教師も上司も単に年齢が上だというだけの奴も、如才なく振る舞って僕の悪口を振りまいた奴も、根回しして多くを味方に付け僕を追いつめた奴も、僕に金を都合させながら返さず平然と逃げ去った奴も、うまい事を言って僕の女を奪った奴も、僕の貯金をすべて吸い取りながら「貧乏人」呼ばわりして去った女も…みんな同じレールの上に乗っている。僕は彼らが自ら転落したり辛酸をなめるハメになるのを見てきた。彼らは必ず僕と同じような目に遭うし、ヘタをすれば僕よりひどい目に遭っていた。

 だが「ざまあみろ」と思った事はあまりない。それは僕が人格者だからではない。人生とはそういうモノだと思っているからだ。僕の座右の銘を一つ挙げろと言われれば、迷わず言えることがある。「人を呪わば穴二つ」…他人のための落とし穴など掘っているヒマはない。それはすぐに自分の墓穴になるからだ。それでなくても人生は穴だらけだと言うのに、これ以上穴を増やす事はないだろう。

 僕は誰も信用した事がない。信用しなければ恨まずに済むからだ。マレに信用すると、人は必ず裏切ったし平気で騙した。人の気も知らずキズつけた。だが、人間とはそういうものだ。だから信じなければ寛大になれる。元々、人間とは過大な期待に耐えられないものなのだろう。

 それでも…時には本当にこたえてしまう事だってある。そんな時には、こんな僕でもいささか自分の生き死にの事について考えざるを得ない。この「エリザベスタウン」の冒頭近くで、オーランド・ブルーム扮するドリューが見るものすべてを死に結びつけてしまうのは、ものすごい実感があった。僕だってそう思ったものだ。今、この地下鉄のホームから飛び降りたら…今、この飛行機が墜落してくれたら…今、この建物の窓から飛び出したら…実現できなかったのは、単に僕が度胸のない男だったからに過ぎない。だからこうしてオメオメと生き残ってしまった。生き残って、今も生き恥をさらしている。

 オマエナドシンデシマエバヨカッタンダ。

 どうも僕の人生は、余裕たっぷりに勝利の笑みなど見せて格好良く振る舞う事など、一生出来ないようにできているらしい。そしてそんな僕だから、キャメロン・クロウの映画が心に染みる。このキャメロン・クロウという男、どう考えても本当に辛酸をなめた事があるに違いない。でなければ、これほどまでに真に迫ったドツボ描写は出来る訳がない。この映画だけではない。「ザ・エージェント」(1996)を思い出してみろ。本当に回りの親しかった人物すべてに見捨てられた事がなければ、こういう実感では描けない。地球上の他の誰もが分かってくれなくても…キャメロン、オレだけは絶対に分かってる。オマエが人生の真実を知っているということを。それが分からない奴は、一回トコトン恥をかかされたり踏みつけられればいいのだ。分からない奴は、間違いなく心の中に何かが足らない。

 この転落の実感。これだけで僕は「エリザベスタウン」が非凡な作品だと断定できる。言っておくが、一切反論は許さない。オレが非凡だと言ったら断じて非凡なのだ。「転落」という分野において、僕は一歩たりとも退く気はないからね。

 

 空港には母(スーザン・サランドン)と妹(ジュディ・グリア)が来ていた。父が亡くなったというのに母は気丈に振る舞っていたが、父の故郷ケンタッキーの街に行くのは拒んだ。なぜなら母は父をケンタッキーから奪い取った女として、父の故郷とは昔からずっと折り合いが悪かったのだ。どうせ今行ってもイヤミを言われるだけ。だから遺体を引き取ってくる役割を、ドリューが仰せつかったわけだ。

 夜の飛行機には客はほとんどいない。暗い機内に一人、メランコリックな気分で佇んでいたドリューだが、そんな彼を退屈させじと構いだした人物が一人。フライト・アテンダントのクレア(キルスティン・ダンスト)だ。おそらくは彼女も、客のいない機内に飽き飽きしていたのだろう。アレコレ親しげに…そして一方的に話しかけてきた。そんな気分になれないドリューだったが、クレアはまるで気にしていない。彼がエリザベスタウンに向かうと聞くや、親切に…全然頼んでもいないのに地図を描いてやると言い出す。おかげでドリューは辟易しながらも、全くフライト中は自分を持て余す事がなかった。

 こうして飛行機は空港へ。お手製の地図を渡すと、クドクドとエリザベスタウンへの行き方がどうの…と繰り返すクレア。何だかヘンだなぁ…と思いながら彼女と別れたドリューは、地図の裏に彼女の携帯番号が書かれている事に気づく。

 だがクレアの地図があったにも関わらず、ドリューはやっぱり迷ってしまった。レンタカーをあっちこっち走らせたあげく、やっと辿り着いたエリザベスタウン。そこは…まるで街中がドリューの到着を待ちかねていたようだった。

 「親戚」は意外にもドリューを大歓迎。田舎ならではの暖かくもいささか馴れ馴れしくお節介な態度で、ドリューをあれこれと引っ張り回した。ほとんど会った事もないのに、まるで旧知の仲のように接してくる従兄や叔父や叔母やその他の人々。そんな中で…ドリューは徐々に「一族」の一員である事を感じずにはいられなかった。そうなると、母の頼みを実行するのが気が退ける。ここの人々はドリューの父を心から愛していて、すでに永眠の場所もちゃんと確保していたのだ。彼らはドリューの父をこの街に埋葬する事を、全く信じて疑わなかった。善意と愛情一杯のこの人々を、裏切る事なんて出来るのだろうか?

 そして久々に再会した父…仮の棺の中でじっと横たわっている父親の顔を見ながら、ドリューは不思議な気分になっていた。何もかも知っていると思っていた父。だが、自分はそんな父の何を知っていたというのだろう。「親戚」たちの口から聞かされる父の姿は、どれもドリューには耳新しく聞こえるのだった。

 

 父は引退して家に引っ込んでから、すっかり母にアレコレ言われるだけの人になってしまった。あの徹底的に亭主関白の人が…まったく言われ放題の状態。

 時に母のそんな言葉がキツ過ぎると、僕には気になって仕方がなかった。だが自分がバリバリと働いていた頃と違って、引退後の父は「自分の分」というものをわきまえているかのようだった。じっと黙って…ただ言うことをすべて聞いているかというと単にやり過ごしているようにも見えたのだが(笑)…ともかく毎日飄々と過ごしていた。

 そんな父が次から次へと病に悩まされるようになったのは、20世紀の最後の年から。身体が丈夫な事が自慢だった父、入院なんてしたこともなかった父が、何かというと医者の世話になって入院…果ては手術。これはさすがにこたえたに違いない。母も一生懸命看病に明け暮れたが、時に母の父へのキツい言葉使いには、僕は辟易させられる事もしばしばだった。

 そんな父に異変が起きたのがこの夏のこと。それは、今までにない異変だった。何がどうとは言わないが、それは僕が初めて体験する事態だった。そうなると、そんなに弱ってペシャンコになった父への母の態度が気になった。気になるだけでなく、メンタルな部分で父の状態にプラスにならないんじゃないだろうか。それでも僕が何か言ったら角が立つ。心配になった僕は、ある日コッソリ主治医に電話をして相談したのだった。だが主治医の言った事は、当たり前と言えば当たり前の事だった。

 夫婦の間には夫婦しか口の出せない事がある。

 それ以来、僕は心配するのはやめた。その代わり、僕は自分の出来る事をした。幸い父は最悪の状況を一週間程度で脱し、少しづつ回復の方向に向かおうとしていた。そんな父が、それまでやろうとしなかった事に感心を向けた。僕が今この文章を打っているマックで、データベース・ソフトを使っての自分の住所録をつくりたいと言い始めたのだ。だが、そんな事できるのだろうか?

 案の定、覚えの悪さはハンパではなかった。次々と覚えるそばから忘れてしまう。しかも異変が起きる前ならいざ知らず、今は毎日の行いだって以前とは違うのだ。さすがに僕も疲れ切ったが、それでもコンピュータなんて毛嫌いしていた父がやろうと言うのだ。イヤでも付き合わずにはいられまい。

 そんなこんなの即席「授業」を毎晩繰り返しているうち、僕は気づかずにはいられなかった。思えば僕は、これほど父と親密に関わった事は今までなかった。父と一緒に何かをやった事がなかった。僕は生まれて初めて、父と息子としてちゃんと向き合っていたのだった

 ところが…不思議なものだ。人間はやっぱり何かを始めると変わる。三歩あるいて二歩下がる…どころではなかったものの、徐々に父の頭に残っていく記憶や知識が増えていく。これには心底驚いた。もちろんまだまだうまくは操れない。時々つっかえてはやる気をなくしてしまう。なぜそう動くのかの理由までは分からない。だが、明らかに父はマックを使っての住所録の作成を覚え始めたのだ。みなさんは信じられるだろうか? これは掛け値なしに本当の事だ。僕はまさに、信じがたい奇跡の現場に居合わせているようだった。

 ところがそんな矢先…また父が倒れた

 なぜなぜなぜなぜ、なぜなんだ。せっかく回復の見込みが見えてきたのに、もうほとんど前と同じ…いや、ある意味で前よりしっかりしてきたのに。何でこの大事な時にジャマをするんだ。僕は神を呪ったが、元々どこかの宗教に信心していた訳でもないから、どうする事も出来ない。アッという間に病院に逆戻りした父は、その瞬間からまたまた小さく縮んでしまった。あの父の表情…笑顔で見返してはいても、僕は病室から去る時に毎回奥歯を噛みしめずにはいられなかった。畜生、畜生、畜生! 悔しくて悔しくて悔しすぎて言葉も出ない。あの女がツバ引っかけるように僕を踏みにじった時も、僕は最後まで紳士でいたじゃないか。中国で弱みにつけ込んで僕を追いつめたビデオ・クルーに対しても、成田空港で殴ったりはしなかったじゃないか。給料の事で僕をダマした経営者も、どこかにチクったりしなかったじゃないか。何で親父を助けてくれないのだ。それくらいしてくれたってバチは当たらないだろう、いや当然じゃないか。だから宗教はクソだと言うんだ。何が連立与党だバカ野郎!テメエら残らず地獄に堕ちろ!

 だが壁を殴ったところで手が使い物にならなくなるだけで、親父の容態はちっとも良くならなかった。目の前で弱っていくのに、何もしてやる事が出来ない。ふざけるな、オレは息子らしい事をまだ何もしていないんだぞ!今までオレの事を助けなかった事で一切アンタに恨み言は言わなかったはずだ。今すぐこの状態を何とかしてくれよ。神様、それがアンタの仕事だろうが。たまにはちゃんと働け。

 オレが言っていることで、一つとしておかしな事はあるか?

 

 親戚たちの歓待から逃れて、街のホテルに引き揚げて来たドリュー。ホテルは結婚式を控えた新郎新婦ご一行様で華やいでいた。そこにポツンと一人はこたえたのか、ドリューは携帯で片っ端から電話をかけまくる。折り悪くトチ狂った母の状態を報告してきた妹からの電話が混ざってはいたが、ついつい連絡したエレンの態度は間の悪さもあってすこぶるつれなかった。それでも誰かと話したくて、連絡を取る気のなかったクレアに電話をしたのが百年目。クレアは例の奇妙な親しさと馴れ馴れしさで話しかけて来た。それから…話した話した自分のこと、趣味や家族のこと、一般的な世間話…とにかく何でも話した。何でこんなに話題が続くのか分からないほど話した。話している間ドリューはトイレに入ったし、エレンは風呂にも入った。だが途切れなく会話は続いた。エレンは明日フライトがあると言いながら、会話をやめようとしなかった。そのうち夜も更け陽も上る。いっそ二人でどこかで夜明けを見ないか…どちらともなくそんな話になって、二人は携帯での会話を続けながらクルマで落ち合う事になる。

 いざ二人が再会した時には…そこにはもう言葉はなかった。

 こうして今までにない程の親密さを感じたドリュー。だがクレアには、ベンという名の恋人がいるという。ただ、彼は何かと彼女を放ったらかしにするらしいのだ。

 「私たちはお互い、今の寂しさを埋め合わせる“身代わり”の仲なのよ」

 確かにそう言われれば、ドリューも返す言葉がない。実際彼女には、耐え切れぬ寂しさから電話をかけたのだ。だが、そうズバリ言われても複雑な気持ちになる。もう二人には、何がしかの感情が芽生えたと思えるからだ。

 そんな付かず離れずの間柄にも、決定的な事が起こる。ホテルにやって来たクレアとドリューが、ついに一夜を共に過ごす事になったのだ。翌朝帰って行くクレアをドリューが追って来た時、彼女は「愛してる」の一言を待っていた。だがドリューの語った言葉は違っていた。

 「僕は君にふさわしくない。僕は10億ドルの損害を生みだした男だ!」

 これにはクレアも言葉がなかった。ただ愛していると言って欲しかったのに、この男はやれ大損害だの大失敗だの…へんなこだわりや屁理屈を並べて彼女から逃げようとする。クレアはたまりかねて言った。

 「私と別れようなんて!まだ付き合ってもいないのに!

 

 キャメロン・クロウの新作「エリザベスタウン」は、実はあまり評判がよろしくないらしい。

 僕がこの映画をどう思っているか…については後述するが、評判が良くない理由は僕なりに分からないでもない。それはこの映画のバランスが極端に良くないからだろう。

 ゴキゲンの頂点から一気にどん底へと転落、人生の岐路に立つ男の数日間の心境の変化を描く映画。たぶんこの映画の正確な内容は…そしてキャメロン・クロウの意図も…そこにあると言って差し支えあるまい。実際主人公ドリューが石を持て会社を追われる、導入部の実感は相当なものだ。映画の狙いをピタリと捕らえている。

 ところが映画は次に主人公を新たな舞台へと送り込み、お話は亡くなった父とその一族との触れあいへと移っていく。まぁ、これもいいだろう。ここのところ疎遠になっていた父との間柄を振り返る機会。そしてほとんど知らなかった同じ一族との連帯感への目覚め。それが主人公の挫折感を癒していくという展開は、確かに「アリ」だ。

 ところがところが…映画はさらに、たまたま知り合ったフライト・アテンダントとのロマンスへと発展していく。そのやりとりは「セイ・エニシング」から恋愛映画にうまさを発揮してきたキャメロン・クロウらしい好感度の高さだが、映画としては明らかにバランスを欠いてはいる。まずは観客は、ここで主人公の今の心境について「??」となってしまう。ヒロイン=クレアとよろしくやろうとする主人公を見ると、人生への希望が甦って来たようだ。ならば、それで治っちゃうような挫折だったのか? エリザベスタウンへの旅立ちの際に、主人公は空港で「自殺は延期しただけ」とハッキリ言っていたではないか。それがいつの間にか雲散霧消してしまったのか?

 大体それならそれで、ヒロインの一方的な「売り込み」で始まる恋愛なんて都合のいい設定にはしまい。それもまた、何となく座りが悪い理由の一つだ。冒頭のドツボへの転落も実感がこもっているし、疎遠になっていた父への思いと知られざる同族の再発見もリアルなのに…この「素敵な彼女」のご都合主義的登場の仕方はあまりに真実味がない。僕は自分が人生の危機に直面していた時に女に支えて欲しかったし、父の事で悩んでいた時に励ましてもらえたらどれほど嬉しかったかしれない。だが女というものは、決まってそんな時には現れない。こっちが金を持っていたり順風満帆だったり得意満面な時、あるいは女自身が打ちひしがれて慰めてもらいたいと思っていたり金がなかったりした時にしか現れない。こっちが危機に直面したり落ち目になった時には、励ますどころか有り金全部巻きあげて去って行く。助けるどころか足を引っ張っていく。いや、それじゃ済まない。本人が危機の原因だったりするし、敵側に通じていたりする。女とはそういうものなのだ。偏見だとは言わせない。決めつけというのも間違いだ。フェミニストに怒られても訂正しようがない。これを読んでいる女性のみなさんは不愉快だろうが、事実は事実なんだから仕方がない。僕は一切を経験から語っている。「南極は凍っている」というのと同じ、実際に「そう」だから「そう」言っているまでのことだ。南極の氷が溶ける日が来るかもしれないが、その時には人類が滅亡しているだろう(笑)。ともかく…この素敵なクレア登場は、それまでのリアリティに比してあまりにキレイ事だ。

 大体こう展開してしまうと、この映画は何に力点を置いているのか分からなくなる。主人公の挫折から自力再生をうたいあげる映画なのか、父やルーツとの出会いが彼に何かを目覚めさせるのか…それとも女との愛が彼を立ち直らせるのか。

 クレアとの仲が深まるにつれて、ドリューの「死のう」という気持ちの深さが分からなくなる。刹那的な気持ち以外で女とどうこうしようというのは、死にたい人間の思う事ではあるまい。とっくに癒されて死ぬ気がなくなっているのなら、ハッキリ言って映画はもう描くべき事を失っている。後はただ冗漫なだけだ。

 実はそうではなかった…ドリューの人生への絶望感は持続していたと分かるのは、ドリューと一夜を共にした後。彼はそこでグチャグチャと屁理屈を並べる。だがそれが男にとってはつまらない屁理屈でない事は、あなたが男ならお分かりのはずだ。だが、それが実にアホな話なのもご覧の通り。それが観客にはこの時点でミエミエになってしまうから、ドリューが自分の気持ちを整理する後半の旅がまどろっこしい蛇足に見えてしまう。バカだなぁ、グチャグチャ言ってないで早く女とベッドにシケこんじまえよ…と見えてしまうのだ。これは明らかに計算違いだったろう。

 だが、それならこの映画が駄作なのか…と言えば、そうとは言えないから不思議だ

 さんざ僕が不自然だとかリアリティがないとか言った、キルスティン・ダンスト扮するクレアが素晴らし過ぎる。今までの彼女の出演作の中で最高の素晴らしさではないか。何とも不自然であり得ないはずなのに…ちゃんと生きてる人間の厚みがある。ウソっぽいはずなのに、ウソ臭く見えない。それは「こうあって欲しい」「こうであったらどんなに良かったか」という「女」像を体現しているからだろうか。

 いやいや、そうじゃない。「女とは常にそういうものなのだ」…のその前に、僕は確かにそれを体験していた。「私、こんなに優しくされた事って初めて」と涙ぐむ女や、「あなたが四面楚歌になっても、それがあなたのせいであったとしても、私はあなたの味方になるわ」と言う女や、電話口で「あなたに今ここにいて欲しい」とつぶやく女や…あんな女こんな女の姿を目の当たりにしていたではないか。それが全部ウソだったとは、いくら何でも言えまい。後にどうなったかはともかく、その時のその言葉や態度にウソはなかった。一面で「女とは“そういうもの”でもある」のだ。僕だって決して「それ」を忘れちゃいない。この映画のクレアには、そんな忘れていた何かを見事に体現していた。

 そして、それこそが人生が生きるに足るという「証」でもある。

 ロード・オブ・ザ・リング(2001)で出て来た時には、まだまだ単なるヤサ男の兄ちゃんとしか思っていなかったが、その後キングダム・オブ・ヘブン(2005)では意外なまでの骨っぽさを見せていたオーランド・ブルームが、ここでも実にいい。彼一人を見るだけでも、映画好きにとっては喜びだ。

 何よりエリザベスタウンで開かれたドリューの父の葬儀パーティーの場面が圧巻だ。敵地に単身乗り込んだようなドリューの母親が、あえておナミダ場面を避けてスピーチの壇上で漫談や「ムーン・リバー」に合わせてのタップ・ダンスを披露するくだりは見ていて思わず熱くなる。まさに至芸としか言いようのないスーザン・サランドンアルフィーでの助演も良かったが、この場面は忘れがたい印象を残す。

 これで駄作とはとても言えない。僕はそんな言葉を言うつもりはないよ。そんな言葉は「映画ファン」どもが言えばいいんだ。僕は言っちゃいけないと思う。

 だから冗漫だろうと冗長だろうとバランスが悪かろうと構わない。そこに描かれる実感があまりに胸に迫るので、もう単なる映画とは言えないからだ。キャメロン・クロウは本気だ。本気でコレをつくっている。本気でホンモノの感情でなければ、こうも心に迫って来ない。感情を盛り込みすぎたせいで冷静な判断を失ったのかもしれないが、僕も本気で見てそこに本気な何かを感じた。それこそが、「人生は生きるに足る」というメッセージだろう。

 たぶん映画作品としては成功作ではないのかもしれないが、それでいいではないか。そんな事が何だ。この映画については、劇中のキルスティン・ダンスト扮するクレアが、実に的確な言葉で言い表しているように思える。

 志を持っているからこそ失敗もする。リスクを恐れてはホントの成功は出来ないわ。それが「偉業」ってもんじゃないの。

 

 

 今日、父親は退院した。家に戻ったら、元通りイキイキし始めたと母は言う。

 神様ありがとう。

 

 

 

 

 

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