「頭文字<イニシャル>D/THE MOVIE」

  頭文字 D (Initial D)

 (2005/10/24)


 

見る前の予想

 この映画の予告編を初めて見た時、何とも不思議な気分になったことを今でも覚えている。イマドキのマンガなんかまるで知らない僕でも、「頭文字D」…最初は「かしらもじ」と読んでいたが(笑)…というのが日本のマンガである事ぐらいは何となく知っていた。ところが今、目の前に予告編が流れている映画は、どう見たって香港映画だ。ザ・ミッション/非情の掟(1999)で僕にとって忘れがたい俳優となった、あのアンソニー・ウォンも出ている。ははぁ〜ん、さては日本のマンガの内容をいただきながら、あくまで香港の話としてつくっているんだな。僕はすっかりそう決めつけて予告編を見ていた。どうせ香港のアイドル系の連中を主役にした大した事のない映画だろう…。そう思ってすっかり侮っていた僕の目の前で、スクリーン一杯に主人公のクルマが写り込むと…。

「藤原とうふ店(自家用)」

 な、何なんだあの文字は? 「とうふ」…って事は、明らかに日本語ではないか? これってあくまで日本のお話としてつくられていて、出てくる香港俳優たちもみんな「日本人」の役として出てくるのか。こんな映画…ちょっと前代未聞ではないか?

 いや…そういや似たような映画の企画があったな。そう思った僕の脳裏に浮かんだのは、ハリウッド映画化中の「SAYURI」だったが(笑)、ともかくこういった企画を香港映画界が「日本のお話」として映画化するなんて思いもしなかったので、その大胆さに驚かされたわけだ。そして、大丈夫か?…と心配もした。

 ところが実際に公開されてみると、映画ファンからは結構イイ評判が伝わってくるではないか

 実は原作ファンからはキビシイ声も飛んでいるらしいが、どうせ主人公の顔が違うとか話がチョン切られてるとか、“原作と同じじゃなきゃヤダヤダヤダ!”…みたいなガキが駄々こねてる同然の幼稚な抗議でしかあるまい。これまで原作マンガを読んだ事はないし今も読む気はサラサラないし死ぬまで読む事もないだろう僕には、全く毛ほども関係のない話だ。大体、原作ファンからケチがついたという事はイイ映画に決まってる(笑)。

 この映画は、本当に面白いに違いない。そして見るならば、吹き替えよりもあえて違和感アリアリの広東語字幕版で見たいところだ。僕は何とか時間をやりくりして、慌てて劇場に駆けつけた。

 

あらすじ

 群馬県秋名山。その下りの峠道は、急傾斜の坂道とひっきりなしのヘアピンカーブから、いわゆる「走り屋」たちの格好のレーシング・コースになっていた。そんなスピードにすべてを賭ける連中の中でも抜きん出た腕を持っている二人…クールな知性派の高橋涼介(エディソン・チャン)とワイルドな中里毅(ショーン・ユー)は、お互い群馬県の峠という峠で走り屋たちに勝負を挑み、その結果を引っさげて再び秋名山で決着をつけようと宣言する。

 そんな風雲急を告げる中…そんな事になっているとはツユ知らず、ガソリンスタンドのバイトに汗を流す平凡な高校生・藤原拓海(ジェイ・チョウ)がいた。

 拓海は昼間っから飲んだくれている父親・文太(アンソニー・ウォン)と、父一人子一人で暮らす身。家業は「とうふ屋」だが、文太はいつ豆腐をつくっているのか分からないほど、年がら年中酔いつぶれている始末。その世話はいつも拓海の仕事だ。毎晩毎晩文句も言わず、黙々と父親を布団まで引きずっていく拓海。

 そんな拓海とは幼なじみのお調子者・立花樹(チャップマン・トウ)は、すっかりいっぱしのレーサー気取りでデカい口叩く。拓海は樹の父親・祐一(ケニー・ビー)が経営するスタンドで働いているのだが、樹本人は父親にせびってクルマ道楽三昧だ。もっとも「走り」の才能はからっきし…とは親父も見抜いている。デカいのは態度だけ、てんで腰抜けな樹なのだ。こいつの口癖と来たらいつもこんな調子だ…「神とは元々は人だ、そこに何か一つ抜きん出たものを持った者が神なのだ」

 だが拓海は、まるでそんな事には関心なさげな素振り。唯一反応したのは、学校のアイドル・茂木なつき(鈴木杏)が通りかかった時か。そう言えば拓海は彼女の事で他のクラスの奴とケンカ騒ぎも起こした事があるようだが…だからと言って何かなつきにアクションを起こす訳でもない。拓海は彼女とも幼なじみだから話をする機会もあるが、だからと言ってあえて一歩踏み込もうとはしない。終始、引っ込み思案の昼行灯みたいな態度の拓海。

 だがそんな一方で、なつきはいわくありげな人物と親しげに会話を交わしていた。

 そんな事は全く知らない拓海は、今日も今日とてガソリンスタンドでのバイトに汗を流す。そんな拓海たちのスタンドに、あのワイルドな男・中里毅がクルマを駆って現れた。この男、「秋名の神」と言われる走りのスペシャリストを捜してこの街を訪れたのだが、何を勘違いしたか樹が「オレが神だ」と出しゃばる始末。ともかく毅は、「神」がいたら夜、秋名山の峠に来るように…とのメッセージを残した。もちろんそれは「勝負」への誘いだ。

 さて、その夜のこと。涼介や毅やその取り巻き連中が待ちかまえる中、一台のクルマが秋名の峠にやってくる。そこにはよせばいいのに「神」を自称した樹と、彼が連れて来て助手席に座らせた拓海が乗っていた。もちろん涼介や毅たちには、樹の腕前の程など察しがついた。だが本物の「神」が来ないなら仕方がない。せめて腹ごなしに…と二人がかりで樹の挑戦を受けて立った。そして結果は…もちろん言うまでもないだろう。

 結局、樹はクルマをぶつけて傷つけただけ。すっかりビビりまくってその場を去るしかなかった。無論、助手席の拓海も終始ボ〜ッと言葉少な。

 だが「違いの分かる男」たちの涼介と毅は、そんな「腹ごなし」のレースでも揺るがせにしない。特に知性派の涼介は、一度走っただけで毅の走りの問題点をズバズバと指摘した。これにはさすがの毅もタジタジ。

 しかもそんな毅に追い打ちをかけるように、ショッキングな事件が起こった。夜中に毅が一人で例の秋名の峠を走っている時に、後ろから何者かが凄まじいスピードで接近してきたのだ。

 そしてたちまちブッちぎった!

 突然のことに意表を突かれた毅はボーゼン。あれが噂の「秋名の神」なのか? 彼の脳裏には、ただ凄まじい速度で追い越していった白い「ハチロク(AE86)」の残像だけが残った。

 その「ハチロク」の乗り手があのボケ〜ッとした拓海であるとは、誰も知らない。

 拓海もまた、その事をことさらに誰かに言おうとは思っていない。そもそも、それが大それた事などとは思っていない。だが拓海の思惑をよそに、周囲はたちまち騒がしくなってきた。あの毅が再びスタンドを訪れ、目の前に自分を抜いた当人の拓海がいるとは気づかぬまま、再度「秋名の神」への挑戦状を叩き付けたのだ。「昨夜オレを抜いた奴がいる。アレは間違いなく“秋名の神”だ!」

 その言葉を聞き、さらに抜き去って行ったのが「ハチロク」と聞いて動揺したのは…ガソリンスタンドのオーナーで樹の父の祐一だ。

 祐一は自宅で酔いつぶれていた拓海の父、文太をスナックに呼び出す。

 実は文太と祐一は、かつて若かりし頃のクルマ仲間だった。その頃の祐一は今の息子・樹と同様「カメ」同然の走りだったが、文太は違った。それどころか…何を隠そう彼こそは「秋名最速の男」。かつては世界を狙える男として走り屋の世界に君臨していたものだったが、結婚を機に足を洗い「豆腐屋」に。しかも数年前に女房に逃げられてからは、すっかり身を持ち崩していた文太だった。

 「アレはオマエの仕業なんだろ? 奴の挑戦を受けてやれ!」

 だが文太は、祐一が予想もしなかった答えを放った。「それはオレじゃない。たぶん息子の拓海だ」

 実はもう大分前から、夜の配達は拓海の仕事になっていた。「藤原とうふ店」のネーム入り「ハチロク」を駆って、毎夜毎夜、豆腐の配達のために秋名の峠を走る拓海。最初はかなり時間をかけて走っていた拓海だが、ある日その時間が徐々に縮まってきた事に文太は気づいた。すると、文太は拓海に新たな課題を与えるではないか。彼は「ハチロク」の運転席にカップスタンドを取り付け、そこに水を満々と満たしたコップを据えた。「この水を一滴でもこぼしたらブン殴るからな!」

 これによって拓海のスピードはガックリ落ちる。だが、それも長い事ではなかった。またしても徐々にスピードを詰めていく拓海。またたく間にその所要時間は、数分に短縮されるに至った。しかもコップの水は一滴もこぼさずに…だ。

 それは天性の才能なのか。

 だが当の拓海はまったくそんな事に頓着せず、相変わらずボ〜ッとしたまま。周囲が「秋名の神」云々でうるさくなる中でも、一人素知らぬ顔で平静を装っていた。…というより、無欲そのもので自分がやっている事がいかにスゴイ事か、まるで夢にも思っていない拓海だった。

 それより拓海にとって重大事なのは、例の幼なじみのなつきのこと。彼女は拓海への好意を隠そうともせず、今度の休みに一緒に海に行こうと誘って来るではないか。可愛い彼女にこう耳元でこう囁かれて、男たるもの誘いに乗らない奴はバカだ。「大胆なセクシー水着買っちゃった…」

 早速、拓海は親父の文太に直談判だ。「親父、今度の休みにクルマ貸してくれよ」

 するとすかさず文太は、クルマを貸す代わりに拓海に条件を付けた。それは文太がスナックの飲み代と引き替えに、あの祐一から付けられた条件でもあった。

 「クルマを貸す代わりに、その走り屋の挑戦を受けろ!」

 

ナショナリティーを超えた映画づくりとは

 僕がこの「頭文字D」の予告編を見て真っ先に連想したのは「SAYURI」(笑)…ではあったけど、実はそれと同時に「その手があったか!」…と、ちょっと「コロンブスの卵」的な気持ちもしたのだ。

 何しろスタッフ&キャストとも、ほとんどが香港人っていうんだからスゴイ。そんな陣容で日本の群馬県を舞台に、「藤原拓海」とか「高橋涼介」とか「中里毅」とかいう日本人ばかりが出てくるお話をつくっている。道路標識は間違いなく日本語によるものだし、出てくるクルマも日本車ばかり。主人公の「藤原拓海」が住んでいるのは「藤原とうふ店」。バイトしているのはエネオスのガソリンスタンドだ。すべて我々日本人にとってはどこか馴染み深いイメージばかり。

 もちろん日本で生まれて育った訳ではない連中…脚本・監督らスタッフから役者たちに至るまで…が、普通の日本の市井の人々のお話をちゃんとつくれるのかと言えば、多少どころかかなり不安を感じずにはいられない。何だか街の中に芸者が歩いていたり、虚無僧がウロついていたりするんじゃないかと思ってしまう。キル・ビルVol.1(2003)などはそこを逆手にとって楽しませてくれたが、これはあまりに「日常の日本」を描く映画。こういうものこそ、外国人には難しいのではないか。そして外国人=香港人が演じる日本人ってどうなんだろう? 果たしてそのへんどうなってるんだろう?

 そうは言っても…実は欧米映画界ではこの手のナショナリティーを超えた映画の作り方って、あまり珍しくはない。ザラにあると言って間違いないかもしれない。

 例えば…と言ってまず思い浮かんだのは、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの代表作「山猫」(1963)と言ったら大げさに感じるかもしれない。だが、実はこれだってある意味ナショナリティーを超えているのだ。貴族出身のヴィスコンティがイタリアの貴族社会の終焉を描くこのドラマ、それだけだったら至極当たり前でぴったりハマった企画だ。ところが驚くことに、ヴィスコンティはこの映画の主役のイタリア貴族役に…サーカス上がりのアメリカのアクション・スター、バート・ランカスターを起用したからビックリ。ところがこれが堂々たる恰幅でビシッと決まったから二度ビックリだ。しかも若い貴族にはフランスのアラン・ドロンを起用するという念の入れよう。まるっきり国籍などは気にしていない、俳優の適正のみを見抜いてのキャスティングを実行した。

 ヴィスコンティはこの後も終始この調子で多国籍軍みたいなキャスティングを断行。「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)などはそもそもヴィスコンティとは無縁のナチ政権下のドイツを舞台にしたお話を制作。そこにドイツ人役として起用したのは、イギリスからダーク・ボガートシャーロット・ランプリング、オーストリアからはヘルムート・バーガー、スウェーデンからはイングリッド・チューリン、フランスからはルノー・ベルレー、イタリアからはフロリンダ・ボルカン…といった具合のバラツキぶりだ。

 実はこうしたインターナショナル性の強いキャスティングを好むのは、何もヴィスコンティの専売特許ではない。例えばイギリスのデビッド・リーン監督がイタリアのカルロ・ポンティ制作で放った超大作「ドクトル・ジバゴ」(1965)を見よ。ジュリー・クリスティー、アレック・ギネス、トム・コートネーらイギリス勢、ジェラルディン・チャプリンやロッド・スタイガーらアメリカ勢がこぞってロシア人を演じるだけでなく、何とタイトル・ロールのジバゴ役はエジプト人のオマー・シャリフ! それでいてお話は終始ロシアから一歩も外に出ない。

 実際のところヨーロッパ映画界…特にイタリア映画は伝統的に音声をダビングで録音するのが長かったせいか、吹き替えで欧州の各国俳優を自国民役として起用することが多かった。おまけに欧州各国が資本を分担して映画を制作する事もたびたびあったので、その意味でもそれぞれの国のスターが共演する形態が多くなったのだ。

 これがいかに興味深いキャスティング・スタイルかということは、このシステムをアジアにそっくり移してみれば分かる。例えば青山真治監督のレイクサイド・マーダーケース(2005)に韓国のソン・ガンホとか香港のマギー・チャンとか中国のチアン・ウェンとか…ついでにハリウッドからルーシー・リューとかが来て共演することを考えていただきたい。このシステムが、いかにユニークかつ興味深いかお分かりいただけると思う。

 ただしこの方式は、映画の「原語主義」みたいなものにこだわる日本の映画ファンには何とも馴染まない方式かもしれない。実は日本以外の国々では、外国映画を字幕で見ることには必ずしもこだわらない。むしろ吹き替えを好む。そのへんはジョージ・ロイ・ヒルの「リトル・ロマンス」(1979)冒頭に出てくる「明日に向って撃て!」(1969)の一場面の引用、フランス語をしゃべるポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを見れば明らか。吹き替えによる各国スターの共演に対して、欧米人は何ら違和感を感じないのだ。

 日本では「ラストエンペラー」(1987)の英語をしゃべる中国人やフリーダ(2002)の英語をしゃべるメキシコ人にあれこれイチャモンがつく。吹き替えもイヤなら、最初からドラマの原語ではない英語でしゃべるのもイヤ。だが、そんな国は世界でも日本だけなのではないか? そもそも映画を字幕で見ながら、ラテン語と英語の違いを云々してどうなるのだろうか? 何で彼らはランカスターやオマー・シャリフの起用について、大巨匠ヴィスコンティやデビッド・リーンを批判しないのだろう? 長いモノには巻かれろ…かよ(笑)。

 というわけで、こうしたナショナリティーを超えたキャスティングの最大のネックは「台詞」…。ところが吹き替えに頼らずとも、こうしたギャップに阻まれずにキャスティングした例もあるにはある。それは、役柄に元々から台詞がない…という場合だ。

 例えば主人公がろうあ者であれば、どこの国の人間であろうと見た目の違和感さえなければキャスティング出来うる。そんなキャスティング例の一つが、アメリカのサスペンス映画「ミュート・ウィットネス」(1995)。低予算で映画づくりが出来るモスクワの撮影所でホラー映画撮影を行っているアメリカ映画スタッフの一人が、アンダーグラウンドなスナッフ・フィルム(殺人実写映画)制作の現場を目撃してしまう…というこの映画。ヒロインが口の利けないろうあ者であるという設定のため、何とアメリカ女性役にも関わらずロシア女優マリナ・スディナが起用されている。これぞまさしく逆転の発想!

 もう一つの例は、中国映画「故郷の香り」(2003)。ここではなぜか日本の香川照之が、ろうあの中国男性を演じている。おそらく香川の鬼が来た!(2000)での好演ぶりがキャスティングのきっかけになったのだろうが、中国映画で日本人俳優が中国人を演じるとは! こうした中国側の柔軟なキャスティングには、いささか驚かされてしまうばかりだ。

 また、ちょっとひねったカタチでの同種のキャスティングで考えれば、小栗康平監督による日本映画「眠る男」(1996)が挙げられる。ここでは韓国の超大物スターであるアン・ソンギを、事故で意識を失ったまま眠り続けている男の役に起用。確かにこれならランゲージ・バリアも問題はない。

 ただし、これらはあくまで極めて異色の例に過ぎない。本来は吹き替えが主流と考えるべきだろう。

 閑話休題。キャスティングにとどまらず他国のお話を他国民が映画化する…という事で言えば、そもそもアメリカ=ハリウッドがお得意だ。その例を挙げても数限りないので、ここではキング・ビダー監督の超大作、イタリアのディノ・デラウレンティス制作の「戦争と平和」(1956)を挙げるにとどめる。この作品でオードリー・ヘプバーンヘンリー・フォンダも、イタリアのヴィットリオ・ガスマンもロシア人に扮している事は改めて言うまでもない。

 最近の例で挙げていけば…単にインターナショナル・キャストという意味では、スペインのホラー映画ダークネス(2002)が挙げられるかもしれない。ここではアンナ・パキン(アメリカ)、レナ・オリン(スウェーデン)、イアン・グレン(イギリス)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(イタリア)といった国連みたいな面々が、何と家族(!)に扮しているという無茶さ加減。あるいは他国民が他国のお話を他国民キャストで映画化するという例では、ビレ・アウグスト監督(デンマーク)がドイツなどの資本で撮った「愛と精霊の家」(1993)が挙げられる。ここではメリル・ストリープ、グレン・クロース、ウィノナ・ライダーらのアメリカ勢、ジェレミー・アイアンズヴァネッサ・レッドグレーブらのイギリス勢、さらにスペインのアントニオ・バンデラス、キューバ出身のマリア・コンチータ・アロンゾ、ドイツのアーミン・ミューラー=スタールといった顔ぶれで、チリの名家を巡る何十年にも及ぶ物語を描いている。バンデラスやコンチータ・アロンゾあたりはともかく、他の面々は本来ならとてもチリ人…は演じまい。

 このように欧米ではよく見かける「他国人が他国人に扮したり他国の物語を描いたりする映画」…だが、実はわが日本でもその例がない訳ではない。日本の場合はもっぱら中国やアジアの古典劇がそれで、溝口健二監督と京マチ子主演のコンビによる大映とショウ・ブラザース合作「楊貴妃」(1955)、東宝とショウ・ブラザース合作「白夫人の妖恋」(1956)を皮切りに、「釈迦」(1961)と「秦・始皇帝」(1962)の大映70ミリ超大作2本、さらには時代が下っての中国ロケ大作「敦煌」(1988)…あたりまで、日本人による中国やアジアの物語がつくられてはいるのだ。日本映画がハリウッド史劇風のスペクタクル大作をつくるとなると、日本国内にその材を見つけるのは難しいということから、もっぱらこのジャンルに限りこうしたスタイルがとられている事になる。

 一方、台詞のバリアもものともせず外国人俳優が日本人に扮している作品もすでに存在していて、香港女優ケリー・チャンが日本女性を演じる「冷静と情熱のあいだ」(2001)とか、花嫁はギャングスター(2001)で主役を張った韓国女優シン・ウンギョンがなぜか日本人としてテレビ・レポーター役で出演する「うずまき」(2000)といった希有な例もあるにはある。このうち後者は韓国資本が入っていて、韓国国内で「韓国映画」として公開する都合から出演させたようだが(だとすると、韓国バージョンではシン・ウンギョンの役が「日本人」であると必ずしも言い切れないかもしれない)…。

 また逆に、台詞の有無に関わらず日本人俳優が外国の物語の中で外国人に扮する事だって、今まで決してなかった訳じゃない。分かりやすい例で挙げると、「南京の基督<キリスト>」(1995)に主演した富田靖子がそうだ。この作品で彼女が東京国際映画祭の女優賞を獲得したのは、何もヌードを見せた「体当たり」ぶりだけが理由ではあるまい。彼女が中国人娼婦に扮するという、果敢な挑戦ぶりを評価したのだと言えよう。しかもこの作品、なぜか共演のレオン・カーフェイまでが日本人男性役を演じるという「腸捻転」ぶりが興味深い。一体どうしてこんなキャスティングになったのか知りたいが…。なお富田靖子は、吉本ばなな原作を香港で翻案したイム・ホー監督バージョンの「キッチン」(1997)でも香港娘を演じている。これは極めて希有な例と言えるだろうが、ともかくわが日本だってこういう例がまったくない訳ではないのだ。

 だからハリウッド芸者映画「SAYURI」(2005)で中国女優チャン・ツィイーコン・リー、香港女優ミシェル・ヨーが日本の芸者に扮したからと言って、何も目くじら立てる事もないわけだ。まぁこの作品については中国人が日本人を演じる云々より「それ以前」の問題が大(笑)…という事と、いまだ公開前で実物に接してないという事もあり、今回は単に題名に触れるにとどめたい。

 話を元に戻して…ここまで「他国人が他国人に扮したり他国の物語を描いたりする映画」についてザッとおさらいしてみた訳だが、いくつかの例外はあるにせよ、わが日本では従来こうした異なったナショナリティーでつくられるドラマは、かなり特異な例しか挙げる事ができなかった。ましてスペクタクル史劇や国際的スケールのお話ではなく日本の現代劇の日常的なお話でこうした試みが行われた事はほとんどないし、そもそもそんな事はする必要もなかった。

 そんな中、唯一思いついた限りで最も今回の「頭文字D」に近い例を挙げれば…あくまで「強いて言えば」の範囲に過ぎないが…それはジャッキー・チェン主演の「シティーハンター」(1993)かもしれない。何しろこれも日本のマンガが原作だ。ジャッキー・チェンが私立探偵の「冴羽僚」役、ジョイ・ウォンが助手の「カオリ」役で出演…というのだから、これは日本人役という事なのだろう。だが僕がテレビでチラチラと見た限りにおいては、ここでジャッキーが日本人である必然性はない。いつもの典型的「ジャッキー・チェン・ムービー」としか見えない設定だ。大体、本来の広東語ではジャッキーの役を「冴羽僚」としているかどうかも怪しい。これなら「キャノンボール」(1980)や「キャノンボール2」(1983)での三菱自動車のレーサー役のほうが、まだ「日本人」としての必然性がありそうだ(笑)。

 てな訳で、映画のナショナリティーを超える試みは過去もいろいろあったものの、「日本のお話」という範疇においては、それらは常に映画の本流ではなかったかもしれない。そんな従来からの流れにこの「頭文字D」を置いてみると、いかにこの作品とその試みが大胆不敵であるかがお分かりいただけると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 あえて違和感アリアリを味わいたい…と、あえて広東語字幕版で見たこの作品。すでに実物の映画に接した今、ハッキリ言おう。

 僕はほとんど違和感など感じなかった。

 全編が日本の話で出てくる連中は日本人なのに、広東語をしゃべろうが何だろうが全く気にならなかった。それよりも、むしろ身近さとリアリティを感じた。いやぁ、こんな体験は初めてだ。

 そもそもこんなタイプの映画自体が初めてだから無理もないのだが、それにしたって不思議だ。見終わった後の印象は、やっぱり群馬県あたりの若いもんのお話って感じ。そこにおかしな部分なんて微塵もなかった。

 豆腐店やガソリンスタンドのディティール、登場人物の言動にも変なトンデモ描写は見受けられない。これは香港スタッフのリサーチがよっぽど良かったのか、それとも日本側のコーディネーターがよっぽど有能だったのか。21世紀にもなって「黒船」や「蝶々夫人」もないもんだが、それでもトム・クルーズ主演ラストサムライ(2003)あたりですら、ヒヤッとしそうな瞬間がまるっきりない訳じゃない。しかも時代劇よりアラを発見しやすい現代劇である事を考えれば、まさにこの違和感皆無の日本…は特筆に値する。

 だがこの映画を、「違和感のない日本の日常」を香港スタッフ&キャストで描くことが出来た…という一点で評価するとしたら、あまりにこの作品に対して失礼だ。もちろん違和感がないのはもちろんだが、実はそこがこの映画最大の美点ではない。いや、むしろそんな事などどうでもいい…とさえ言える。

 この映画の素晴らしいところは、万人の心に訴える真っ当な大衆娯楽映画として実によく出来ているところにあるのだ。

 ともかくこの映画は面白い!

 まずは面白さのその1は、カー・アクションの凄さを挙げるべきだろう。クルマに素人で車種にもテクにも疎いこの僕が、見ていてどんどん興奮してきた。ほんのちょっぴり申し訳程度にCGを使っている他は、ほとんど全部と言っていいほど実写で撮ってしまったというリアリズムぶり。こう言っちゃ何だがステルスの気が抜けたビールみたいなCGによる音速飛行場面など見た後だと、やっぱり実写でやったらやっただけの事はあるな…と改めて思わざるを得ない。しかも…僕は日本の話を香港映画人がつくるというこの映画の変則体制は、カー・アクションに対する日本の規制の厳しさ故…とすっかり思い込んでいたのだが、何とこれらのカー・アクション場面は日本でロケ撮影され、日本のスタント・チームによって演じられたと言うではないか。何だ、やりゃあ出来るんじゃねえか。日本の映画人って、自分で自己規制ばっかりしてるんじゃないのか?

 ともかくこの映画のカー・アクション場面は単に見せ場ではない。それこそが主人公の成長そのものだし、主人公の個性とも言える。だから映画を物語る上での最重要要素とも言えるのだ。そこが誤魔化しなしにキッチリ描かれているから、この映画は無類の説得力を持ったと言える。

 そして面白さのその2は、青春映画=成長物語として、抜群によく出来ているところ。何をやりたいのか、自分が何なのか、何が出来るのか…サッパリ分からずとりあえずボケ〜ッとしている主人公に、共感しない奴なんていないんじゃないだろうか? 大多数の人々はみんなシャッキリとした目標など持たず、若い頃はこんなボケッとした存在だったんじゃないかと思う。ひょっとしたら自分が優れた能力を持っている…とすら思っていない。この主人公の心境は、「フツーの人」なら実によく分かるし共感できる。

 そんな彼に、「自分の進む道」と「恋愛」という2大テーマが同時にのしかかってくる。これって実は、いい大人になっても未だに大テーマだったりするのだが…それはともかく(笑)、このあたりの親しみなり実感なり身につまされ方はかなりのものだ。結局、主人公は苦い苦い経験をしてその2大テーマの片方を振り切り、もう片方に向かって旅立つところで映画は終わっている。そのちょっと甘美でちょっとビターな味わいが何ともたまらない。この時期からイイ大人になっても、人生とはちょっと甘美でちょっとビターなものであり続ける。このあたりちゃんと説得力があって、大人だって楽しませる味がある。最近の青春映画では、こんなのあまりなかったんとちゃう?

 さらに面白さのその3は、彫りの深いキャラクターと的確なキャスティング。日本人を香港スターが演じて…云々はこの際どうでもいい。いいものはいいのだ。

 主人公の脇を固める連中は良くも悪くもクッキリハッキリして個性も揺るがない。それなりの価値観と存在感も持っている。ダメ男でお調子者の友人・樹ですら、ハッキリしているという点では一歩も退かない。むろん主人公の父親・文太だってキャラが立ちすぎてるくらい。そんな周囲の人々の中で…主人公の拓海だけが自分の価値すら気づかずボケ〜ッとしてるのが何ともいいではないか。演じるジェイ・チョウは本業は歌手でこれが初の本格映画主演とのことだが、この主人公の掴み所のなさを何ともうまく表現していて好感が持てる。

 主人公を引き立てるキャラクターの高橋涼介と中里毅も、演じるエディソン・チャンショーン・ユーのおかげで何とも華があって素晴らしい。スターならではの煌めきがうまく活かされている。主人公の父親・文太の味のありすぎのキャラは、「ザ・ミッション/非情の掟」とインファナル・アフェア(2003)でもイイ味出しまくっていたアンソニー・ウォンが演じているという文句のつけようがない布陣だ。さらにアホだけど憎めない主人公のダチ公役チャップマン・トウ…などもオイシすぎるキャラではないか。

 ヒロインは、唯一日本からの参加の鈴木杏ヒマラヤ杉に降る雪(1998)に次いでの海外作品参加だが、今回は彼女の清純に振る舞ってもどこかエッチな雰囲気が、実にうまく活かされた起用となった。蛇足として付け加えれば、鈴木杏の広東語は吹き替えだったものの、声が彼女そっくりだったので違和感もなかった。

 そんなこんなで…日本描写が正確とかそんな事はどうでもいいくらい、最近の青春アクション映画として出色の一本であるこの作品。つくったのが近年の香港映画の金字塔「インファナル・アフェア」三部作の監督コンビであるアンドリュー・ラウアラン・マック、脚本家フェリックス・チョン…と聞けば、「なるほど」と膝を打つ人も多いかもしれない。僕もまったく気づいてなかったから驚いたものの、よくよく考えれば納得。さすが、映画の面白さを追求した「インファナル・アフェア」のクリエイターの作品だけある。

 考えてみれば前述エディソン・チャンとショーン・ユーも、「インファナル」三部作でアンディ・ラウとトニー・レオンの若き日を演じた二人。言うまでもなくここにアンソニー・ウォンも加えて、この映画は100パーセント、「インファナル・アフェア」チームが再結集した作品と言えるのだ。確かに、どこをどう叩いてみても面白くて当たり前だろう。

 

見た後の付け足し

 そんな訳で、娯楽映画の醍醐味を久々に堪能させてくれるこの作品。面白い事は言うまでもないが、僕には何とも身につまされる瞬間もあった。それはヒロインのなつきが主人公・拓海に語る台詞の一節だ。

 自分がどこに属しているかを知った人は幸せよ…。

 むろんこの言葉の後には、「拓海が属しているのはクルマの世界だと思う」という台詞が続く。この映画全体が、主人公が自分の属する世界を見つけていく物語なのだ。

 だが僕はこの台詞を聞きながら、テメエ勝手にちょっとホロ苦い思いを噛みしめていた。

 僕も20代後半まで「自分の属する世界」が分からず、ずいぶん悶々としたものだ。そして遠回りしながらも「自分の属する世界」を見つけたつもりになって、それからはつかの間ではあったが安らぎを得た。

 だがそうして見つけた「自分の属する世界」は、実はとっても脆かった。崩れ去ってしまった「自分の属する世界」は、僕にそのカケラすら残してはくれなかった。それからもずっと僕は「自分の属する世界」を探し続け、未だに探しあぐねているような気がする。

 本当に「自分が属する世界」を見つけられる人は、ひょっとしたらほんの一握りの人物だけなのではないだろうか。もう「残り時間わずか」になってしまった僕には、どうしてもそんな風にしか思えないのだ。

 

 

 

 

 

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