「シン・シティ」

  Sin City

 (2005/10/17)


 

見る前の予想

 あのロバート・ロドリゲスが、ノワール感溢れるグラフィック・ノベルをそっくりそのまま映画化。グラフィック・ノベルっていうのは、言ってみれば日本で言う「劇画」だ。面白おかしいコミカルな世界ではなく、ハードで辛口な設定と物語。あのロード・トゥ・パーディション(2002)の原作も、このグラフィック・ノベルだったような気がする。

 そんなアクが強く濃い世界を、スタイリッシュでコテコテなアクションの名手ロドリゲスが映画にするとなれば、デキは何となく想像できる。悪ノリが過ぎてつまらなかったレジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード(2003)はダメだったが、これはイケてるんじゃないか? 実際に「劇画」そのものの世界をまんま映画に移してきたような予告編を見ると期待が高まる。クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」(1994)やキル・ビルVol.1(2003)、同Vol.2(2004)のような興奮を感じる。確かにこれは革新的な映画になるに違いない。

 そう期待する映画ファンは予想以上に多いようで、初日第一回上映に駆けつけてみるとすでに人がワンサカ。結局その日は見るのを諦めてしまった。恐れ入った事にあれだけアクが強くて評価が割れそうな映画にも関わらず、各方面でも絶賛評しか見ていない。これはかなり面白いんではないか。

 

あらすじ

 シラケたパーティから抜け出した正装の女を、優しく抱き寄せる伊達男(ジョシュ・ハートネット)。ツボにハマった台詞の一つひとつが、女の心を鷲掴みにする。だがこの男こそ、実は卑劣な「女の敵」であると誰が知ろう。

 ここは「シン・シティ」=「罪の街」。泣く子も黙るならず者や犯罪者、アバズレに売春婦、悪党とろくでなしと名もない人々が暮らす街だ。

 

 いかついガタイとキズだらけのゴツいツラ構えから、商売女も寄りつかない男マーヴ(ミッキー・ローク)。仮出所にありついた彼が、ある日天使のような女=高級娼婦ゴールディ(ジェイミー・キング)と知り合ってベッドを共にする事になる。

 だが、間もなく彼女は同じベッドで命を落とす。行きがかり上、ゴールディ殺しの犯人として追われる事となったマーヴ。警察の追っ手をブチのめしながら、マーヴは初めて自分に愛をくれた女ゴールディの仇を討つ事を誓う。

 とりあえずマーヴは、自分の保護観察官であるルシール(カーラ・グギノ)の元に身を寄せる。こうして彼女の助けを借りながら事件の真相に迫り、ついにはメガネの異常者ケビン(イライジャ・ウッド)に行き当たった。このケビン、女を殺して食うのが楽しみというかなりの変態男。マーヴは早速ケビンの隠れ家に押し掛けるが、ヤツは意外にもかなり手強かった。逆に捕らえられてしまったマーヴは辛くも脱出したものの、協力者だったルシールは非業の死を遂げてしまう。

 一方、マーヴをゴールディ殺しの犯人と思い込んで追いかけていた彼女の双子の姉妹ウェンディ(ジェイミー・キング二役)も、ついには真相に気づいてマーヴに協力する。こうしてマーヴは再びケビンに挑戦。ついにヤツを捕らえ、その罪に見合ったおぞましい報い(これに比べれば地獄もまだマシなほど)を受けさせる。

 だが、事はそれでは終わらない。マーヴは真の黒幕である闇の権力者・ロアーク枢機卿(ルトガー・ハウアー)をたぐり寄せたが…。

 

 ウェイトレスのシェリー(ブリタニー・マーフィー)のアパートに、荒れた男たちの一団が押し掛ける。そのリーダー格ジャッキー・ボーイ(ベニチオ・デル・トロ)は、札付きのろくでなし。女と言えばネチッこく迫るか殴るというサイテー男で、イヤがるシェリーの後を一方的に追いかけ回していたのだ。

 だが、この日はちょいと間が悪かった。シェリーの部屋に、新たに彼女とつき合いだしたドワイト(クライブ・オーウェン)なる男がいたからだ。この男、度胸もあれば滅法腕っぷしも強い。ドワイトにブチのめされたジャッキー・ボーイたちは、慌ててシェリーのアパートから逃げ出す。だが、それで「めでたし」とはとても言えない。ドス黒い欲望を抱え込んだまま立ち去ったジャッキー・ボーイたちは、今にも何をやらかすか分からない雰囲気だ。胸騒ぎを覚えたドワイトは、ジャッキー・ボーイたちの乗ったクルマを追いかける。

 案の定ジャッキー・ボーイたちは、娼婦たちが支配する街「オールド・タウン」に迷い込む。そして一人歩きの娘ベッキー(アレクシス・ブレデル)に声をかけ、例によってしつこく口説き始めた。それもたちまち度を超して来たからマズい。

 心配してその様子を見つめるドワイトに、街を仕切る娼婦の代表格ゲイル(ロザリオ・ドーソン)が声をかける。実はこのゲイル、かつてはドワイトと訳ありの仲。そんな彼女はジャッキー・ボーイたちの良からぬ雰囲気に気づいて、手下の一人・殺人兵器ミホ(デヴォン青木)にずっと見張らせていたのだ。

 そうとは知らぬジャッキー・ボーイたちは、ついにベッキーを痛めつけようとバカなマネをし始める。だがこの街で女を痛めつけようとは、墓穴を掘るのと同じだ。アッという間にミホの日本刀で次々バッサリ斬られてしまうジャッキー・ボーイたち。ジャッキー・ボーイ自身もあっけなくここですべて終われば、事は実にカンタンだった。

 ところがジャッキー・ボーイが実は警官だったと分かった事から、話は一気にややこしくなる。この街の娼婦たちによる「自治権」は、警官たちとの「取引」によって保証されていたのだ。その警官に手を出したとなると、協定は崩れてたちまち戦争状態になる。そうなればまた女たちの血の雨が降るに違いない。

 女たちが慌てふためく中で、ドワイトは決心した。事を荒立てずに済ませるため、死体を誰にも見つからぬように隠しに出かける。ところが次々予測不能な事態が起こり、ジャッキー・ボーイの首は何者かに奪われてしまう。ゲリラやギャングのマヌート(マイケル・クラーク・ダンカン)まで暗躍するに至って、どうやら内部に「裏切り者」がいるらしいと察するドワイトだったが…。

 

 心臓の病に苦しみながら、間もなく定年を迎えようとしていたハーティガン刑事(ブルース・ウィリス)。彼はその最後の仕事として、少女を次々殺す異常犯罪者摘発に意欲を燃やしていた。それは街の権力者の一人…例の枢機卿の弟でもあるロアーク上院議員(パワーズ・ブース)の息子、ロアーク・ジュニア(ニック・スタール)。父親の権威をカサに着て、やりたい放題の極悪息子だ。

 そのロアーク・ジュニアは、今も懲りずに11歳の少女ナンシーを拉致監禁中。彼女の命を守るべく、ハーディガンはロアーク・ジュニアの隠れ家を急襲した。ジュニアの耳と片手、そして局部を吹き飛ばして悪さが出来ないようにするハーディガン。だが裏切り者の相棒刑事ボブ(マイケル・マドセン)の手によって、ハーディガン自身も重傷を負う。幸い、何とかナンシーは犠牲を免れた。ハーディガンも手術によって一命を取り留めたものの、すべての罪を着せられて投獄されるに至る。

 だが、ハーディガンには心の支えがあった。病院で床に就いていた時、ソッと見舞いに来てくれた少女ナンシーの存在だ。ずっと手紙を出す…と言う彼女に、ハーディガンは災いが及ぶのを恐れて「偽名にしろ」と告げる。それ以来、彼の独房にはナンシーからの偽名の手紙が毎週届いた。彼女はずっとハーディガンの事を忘れずにいたのだ。

 ところが8年が経ったある日、突然手紙が来なくなる。さらにハーディガンの独房に、気色の悪い黄色い男がやって来る。実はこの男「イエロー・バスタード」は、あの異常者ロアーク・ジュニアの変わり果てた姿。欠損した体の部位を移植手術によって補ったものの、その副作用で体中から腐臭を漂わせる怪物に成り果てたのだ。しかもこの黄色い化け物が切り取られた若い娘の指を持参してきたから、ハーディガンは逆上した。さてはナンシーの身に何かあったのか?

 彼女の安否を心配したハーディガンは、それまで一切認めなかった自分への濡れ衣を「自白」。居ても立ってもいられずナンシーの消息を追うハーディガンは、ストリップ・バー「ケイディ」へと導かれていく。その舞台には、美しく舞う花の19歳の踊り子ナンシー(ジェシカ・アルバ)の姿があった。

 だがハーディガンは、同時にすべてがワナだった事も悟ってしまう。これはナンシーの行方を捜していた、あのロアーク・ジュニア=「イエロー・バスタード」の企みだったのだ。案の定、「ケイディ」の客席には忌々しい「イエロー・バスタード」の姿があった。だが時すでに遅し。ナンシーはハーディガンの存在に気づき、彼に飛びついて思い切り抱きしめるではないか。ハーディガンを命の恩人と慕ってきたナンシーは、いつしか彼に愛情を抱くようになっていたのだ。

 そんなナンシーの熱い愛情と、彼女の美しい魅力に当惑を覚えるハーディガンだが、「イエロー・バスタード」は情け容赦なく追いかけてくる。そしてちょっとした油断につけ込まれて、「イエロー・バスタード」にナンシーを連れて行かれてしまう。激怒し悔しがるハーディガンは「復讐の鬼」と化して、「イエロー・バスタード」の後をどこまでも追いつめて行くが…。

 

見た後での感想

 実は白状すると、僕はこの映画を最悪のコンディションで見る羽目になった。僕の前の席にやたら座高の高いデブ男が座って、字幕も満足に見えない状況になってしまったのだ。場所は巨大な映画館、新宿ミラノ座。傾斜も十分で視界は申し分ないはずなのにこのテイタラクとなると、よっぽどこの男がデカいのか反っくり返っているかのどちらか。そんなこんなで無理矢理首を曲げながらの鑑賞となり、腹が立つやら首が痛いやら気が散るやら。こう言ったら怒られるのは十分承知の上ながら…。

少しは後ろで見ている者の身にもなれ

…というのが正直な本音だ。少なくとも申し訳なさそうに身を縮めていろ。

 さて本題に入ると…そんな鑑賞条件の悪さが災いしてか、何となく映画に入り込めなかったというのが正直なところだ。すごく面白いはずだし、映像のユニークさもスゴイ。何しろ「劇画」を実際の俳優を使ってそのまま実写映画にしちゃったのだから。

 予告編で驚嘆させられた映像が、そっくり全編に渡って展開。基本的にはブラック・アンド・ホワイトの書き割り風の背景に実写の俳優を配置。それらをかなりキツめのコントラストで処理した上で、モノトーンの映像にワン・ポイント、一色だけ色を配するという懲りに凝った画像処理を施している。結果としてスミ一色で紙の上に印刷した、陰影の濃い「劇画」風の絵に見えるわけだ。お話もどっぷりと暗くハードなノワール調。そのダークさとブラックなユーモアが漂うあたりも、なるほどタランティーノ一派ならではの雰囲気だ。全編はほぼ3つのお話に大別されるが、その中でも主役級をつとめるミッキー・ロークとブルース・ウィリスが扮するキャラクターの、男気に溢れた言動がイカしている。演出のテンポもいい。

 なのに…「面白いんじゃないの」と思いつつ、イマイチ映画にのめり込めない。夢中になりきれない。どこか見ながら覚めている。確かに素晴らしい出来映えだとは思うしみんなも大絶賛なのに、僕はどうもノリ切れない。これは一体どういう事なんだろう?

 あの座高の高いデブ男のせいなのだろうか?

 

キミは「シン・シティ2」を見たいか

 そもそもロドリゲス=タランティーノ一派の映画は見る人を選ぶ。ダメな人は全くダメだろう。だが僕はどっちかと言うとそれらを好んで見て来た方だ。かなり強烈な残酷描写もあるから生理的に受け付けない人がいるかもしれないが、僕は別にそれらが気にならなかったし、そもそもモノトーンで処理されているからリアルに感じなかった。だったら問題はないはずではないか。

 確かに面白い。だけど見ているうちに、驚きはどんどん失せていく。いや…実は一番の驚きは、最初に予告編を見た時だけだったような気もする。ホントに劇画をそのまま映画にしたんだな〜という驚き。だから、その最初のサプライズが消えれば、意外にフツーになっちゃうんじゃないか。

 そもそもこれって革新的な技法だと思ってはいたが、基本的にコミック〜グラフィック・ノベルを実写でやり遂げてしまうという方法論って、ウォーレン・ベイティの「ディック・トレイシー」(1990)と同じようなものではないか。そういえばあの映画も最初はビックリしたものの、見ているうちに慣れて来てしまいには飽きてしまった。さすがに展開の起伏も映画としてのテンポも「ディック・トレイシー」より格段に快調な「シン・シティ」ではあるが、「斬新なビジュアル」が当たり前になったらそれほど驚きでもないという点では、どこか共通するものがあるような気がする。

 そして完璧に「つくられて」「コントロールされた」画面っていうのは、意外につまんないものだという事もあるんじゃないのか?

 所詮、人間の思いつく事なんて限界があるし大したものではない。実は映画ってのは「記録」という側面があって、撮影時の撮影現場の状況を作り手の思惑を超えてどんどん勝手に記録していっちゃうものなのだ。そんな「混入物」や「ハプニング」が、実は映画を豊かにふくらませていたりする。だからこそロケ撮影だったりスタジオ撮影だったりって要素が、映画には重要なファクターになり得ているのだ。

 ところが今回はほとんど映像の大半が書き割りで、監督ロドリゲスの他にもう一人の監督にして「劇画」作者のフランク・ミラーが完璧に絵に近づけるためにさらに目を光らせている。だから「作り手のイマジネーション」そのものにほぼ完璧に近づける事が出来るという、映画づくりのプロセスとしては理想的な環境が実現したわけだ。だがそれって…「作り手のイマジネーション」から一歩も外に出ない、「作り手のイマジネーション」以上のモノは全く付加されないという事でもある。ハッキリ言ってそんな映画って面白いモノになるんだろうか?

 もちろん「完全に映像を作り込む」という映画は、この「シン・シティ」が初めてではない。例えばアニメーション映画はどうだ?…と言われてしまうかもしれない。だがアニメーションの場合には、「動きがないモノに動きを与える」というところにハプニングが忍び込む余地がありそうだ。逆に全部作り込むからこその、想像を超えた余地が存在しうる気がする。

 あるいは同じくCGの背景プラス実写というケースで、スカイ・キャプテン/ワールド・オブ・トゥモロー(2004)とどう違うんだ?…という声が挙がるかもしれない。確かに方法論としては両作品には極めて近いモノがある。だがこれについては、僕にはハッキリした違いが感じられる。つまり映画としての「不確定要素」である「俳優実写部分」に秘密があるように思われるのだ。

 どこか懐かしい味わいのスクリューボール・コメディ風やりとりが横溢する「スカイ・キャプテン」と、思いっきりハードボイルドやフィルムノワールの様式美に凝り固まった「シン・シティ」では、俳優演技の“のびのび度”や“自由度”に格段の違いがある。型にハマる事でカッコ良さを追求するノワール風というスタイルは、より様式的になりやすい。様式ってのはパターンでありフォーマットだ。この「シン・シティ」では、スタイル的に定石をなぞる(刺激をエスカレートさせたりはしているものの、基本ラインは意外なほどオーソドックスだ)お話になっているのが目立つ。

 実はこの映画についてはお話そのものに新味や意外性がない…とか、3つの短編話が連結しているにも関わらずそれらが連動する面白さもない…といった「お話のつまらなさ」を指摘する事も出来そうだ。「つまらない」と言っては言い過ぎかもしれないが、意外なほど「驚き」や「面白み」に欠けているのは事実だろう。

 だが僕はそこらへんの点よりも、全体のスタイルが型にハマり過ぎている事こそを問題にしたい。そこに不確定要素が入り込む隙間は、非常に少ない事になるはずではないか。

 そんな不確定要素やハプニングが生じる余地の乏しい「シン・シティ」の映像は、カッチリつくられて見事ではあるが、スリリングさには乏しい…って事になるのではないだろうか。あれだけいろいろ情報量を詰め込んで作り込んでいる映像なのに、これだけワクワク感やトキメキ感に乏しいという理由は、そんなところにあるような気がするのだ。

 それが証拠に、僕は見ている間はそれなりに感心もしたが、同時に不思議な気分にも襲われた。これって原作者のフランク・ミラーがなかなか映画化を許さなかったし、結局は自ら監督にまで手を出してここまで映画を「劇画」に近づけて作り上げてしまった。それはそれで面白いし、そういう映画があってもいいとは思うが…同時に、これって映画にする必要があったのだろうか?

 見ていてそんな事を思ってしまった事を、ここでは正直に告白しなければなるまい。そんなに映画にしたくなければ、最後まで映画にしなければ良かったではないか。何となく僕はフランク・ミラーにそう言ってやりたい気もするのだ。

 いや、それはちょっと言いがかりか。

 ならば、こう言い換えたらどうだ? 実は映画をしゃにむに「劇画」にしようという試みが、軽々とCGで実現するのではなく無理を承知でアナログ撮影で実行されていたら、僕もこの作品を見直したかもしれない。光学合成やマット・ペインティングで行われていたら、それはそれで努力を買ったかもしれないのだ。それは別に…“CG=デジタル否定、アナログ礼賛”という、一種の保守的アナクロニズムを主張したい訳ではない。僕はCGに対して「清貧主義」的立場から否定的見解はとらない。そういう意味ではないのだ。

 それは前述のごとく、映画に「不確定要素」や「ハプニング」が入り込むか否かという問題だ。

 映画を無理矢理にでも「劇画」にしようとするならば、その格闘と努力の過程そのものが「映画」のサムシングになるかもしれない。その「徒労」とも思える制作プロセスが、出来上がった映像に何かを刻印するかもしれない。ムキになって何とか映画を「劇画」にしようという試みが、これを単なる「映画」以上のモノにしたかもしれない。それこそが映画というメディアが記録する、不確定要素でありハプニング…つまり映画のサムシングであろうと思えるからだ。

 だが「シン・シティ」はそれを無理矢理の強引さなしに、CGで正確に確実に寸分違わずイメージ通り実現してしまった。そこには不確定要素が入り込む余地はない。イメージ通りという点から見れば、それは理想的な結果だろう。だが同時に、映画が「サムシング」でふくらむ余地も奪われてしまった気がするのだ。

 そしてイメージ通りに出来たところで、それって本当に面白いかどうか

 そもそも人間の頭の中でこさえたモノどまりなんて、どうせ大したものにはなるまい。僕は心のどこかで、そんな事を感じているんだよね。「完璧主義」を貫いていたように見られる黒澤明ですら、実は撮影現場での予測不可能なサムシングを追求していたのだ。プランを練って練って吟味に吟味を重ねながらも、思った通りにはいかない事を望んでいた。天国と地獄(1963)での特急こだまを使った「一発撮り」ロケ場面を見れば、それがどんな事かお分かりいただけるはずだ。

 そもそも…好評につき続編の話も持ち上がっているようだが、キミは本当に見たいか「シン・シティ2」って? これがビックリなのも最初の一発だけだろう。ハッキリ言って、そうそう何度も使える手ではないと思うのだ。

 

見た後の付け足し

 そんなこんなでかなりキビシイ事を言ってしまったが、それも各方面からのほぼ一方的な圧倒的絶賛ゆえ。僕だってこの映画をそれなりには楽しんだことは事実。だが「そこまで」メチャメチャみんなにホメられる映画だろうか…という疑問がわいたまでの事だ。それに革新的な技法…と騒がれたビジュアルも、「それほどのもんかい」という気持ちがした。

 だが「それほどのもん」かどうかを別にすれば、確かにビジュアル面での見事さは認めざるを得ないだろう。そして…「汚れちまった哀しみ」を知っているような男気の物語とキャラに心惹かれるのも事実。

 さらに、豪華かつ曲者揃いの出演者の顔ぶれ…。ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、ベニチオ・デル・トロ、クレイグ・オーウェン、ルトガー・ハウアー、パワーズ・ブース…などなど「いかにも」の濃いいメンツに、いまや新時代のヒロインとして売れっ子のジェシカ・アルバも登場。そこに異色の出演とばかりに顔を出す畑違いのイライジャ・ウッドジョシュ・ハートネットは…こういう事やって芸域の広いところを見せたいんだろうけど、ハッキリ言ってどうでもいい出来。特にイライジャ・ウッドエターナル・サンシャイン(2004)に次いでの変な役なんで、おかしな方向に走らなければいいが…と心配になる。あぁ、あの童顔だけに今後が難しいってのは分かるが…。

 おっと、話が横道にそれた。ともかくこうした豪華なキャスティングが見どころの一つでもある。そしてその中でも特筆ものの素晴らしさがミッキー・ロークだ。今回は顔や体にすさまじい特殊メイクを施しての出演。だがこの「ハルク」みたいな荒くれ男の、女に捧げた男の純情が泣かせる。演じるミッキー・ロークも長年の低迷を吹き飛ばすようなイイ味出していて、これはなかなか忘れがたい。ロークという役者が一回どん底に落ちて辛酸をなめたという過去も、見る側に何かを感じさせてキャラに深みを増しているように思える。いろいろこの映画にケチはつけたが、このミッキー・ロークだけは収穫だと断言出来る。

 

 

 

 

 

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