「チャーリーとチョコレート工場」

  Charlie and the Chocolate Factory

 (2005/09/19)


 

見る前の予想

 ティム・バートンがジョニー・デップとまたまた組んでの新作が、有名なファンタジー小説「チョコレート工場の秘密」の映画化と聞いて、「なるほど」と最初から納得しちゃったのは僕だけではないだろう。

 まずはティム・バートンとジョニデと来れば、現代アメリカ映画界で最高のコンビではないか。例えるのもどうかと思うが、ジョン・フォードとジョン・ウェイン、フェデリコ・フェリーニとマルチェロ・マストロヤンニ、イングマル・ベルイマンとマックス・フォン・シドー、黒澤明と三船敏郎、ドン・シーゲルとクリント・イーストウッド…などなど、古今東西の映画界に「名コンビ」と言うにふさわしい二人は大勢いるが、現代の映画界でバートン=デップほど「名コンビ」と言える監督=スターのコラボレーションはない。これだけで、もう「特別」な雰囲気が漂う。

 しかもデップはパイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(2003)で一気にメジャー化した矢先。スターとしての格がグンと上がってアブラの乗りきったところで、「名コンビ」の作品に帰って来たという事になる。これは期待するなと言う方が無理だろう。

 おまけに映画化するのが「チョコレート工場の秘密」だ。僕は残念ながらこの本を読んではいないが、どんな話かは知っている。題材からして、キッチュでイマジネーション豊かでどこか屈折したバートンにピッタリだろう。おあつらえ向きの企画だと言える。

 ならば、不安材料などどこにもないではないか。傑作が出来るしかない。僕らはただ大船に乗った気分で待てばいいのか?

 ところが、そうは問屋が卸さない

 実はバートンは、前作ビッグ・フィッシュ(2003)で先行きに不安を残した。ここでは詳しく語らないが、どうもこれからは今までみたいにはいかないぞ…というイヤ〜な予感を抱かせたのだ。

 同じような事はジョニー・デップにも言える。奇妙な事に前作ネバーランド(2004)はこの人らしい「子供心」前面展開のお話だったにも関わらず…というか、“それゆえ”に…イヤミな印象が色濃く出てしまった。すごく見た後でイヤな気分になってしまったのだ。

 後に詳しく述べるが…「永遠の子供」を絵に描いたようなバートン=デップのコンビは、いまや二人とも際どいところまで来ていた。「ビッグ・フィッシュ」「ネバーランド」とも、そんな「曲がり角」を思わせる出来映えの映画になっていたわけだ。そうなると…あの「名コンビ」が手を組んでも、もはや以前のようにはいかないのではないか?

 聞けば今回の「チャーリーとチョコレート工場」では、デップが「ネバーランド」でも共演した子役が主役級で出てくると言う。それもまたイヤな気分を助長する。全米ではこの「チョコレート工場」は大ヒットしたとのことだが、それをうたい文句にする日本での宣伝コピー「ジョニー・デップ史上 No.1!」というフレーズがこれまた恥ずかしい。「ジョニー・デップ史」って何なんだよ? こんなバカげた宣伝コピーは、「全米ラブストーリー映画史上 No.1!」とうたったノッティング・ヒルの恋人以来の、「DAY FOR NIGHT史上2番目」のアホらしいコピーだぜ。

 これでホントに大丈夫なんだろうか? せっかくの「名コンビ」作なだけに、コケて欲しくはないが。

 

あらすじ

 「ウォンカ・チョコレート」の巨大な工場から、今日もまた何十台ものトラックが走り出していく。もちろんトラックにはどれも、「ウォンカ」のめちゃうまチョコが満載されているのは間違いない。こうして「ウォンカ」チョコは全世界に販売されて、お菓子が好きな子供たちの口に入るのだ。

 だが「ウォンカ」の巨大なチョコレート工場は、この発送トラックの出発時以外はゲートを開けない。

 「ウォンカ」の工場があるこの街には、一人の少年がいた。その少年は何から何まで中庸という、「普通の権化」のようなチャーリー(フレディー・ハイモア)。だが彼の暮らしは貧しかった。どうやったらこんなに歪んで傾くのかと思うほどひん曲がったオンボロあばら家に、二組のおじいちゃんおばあちゃん、父(ノア・テイラー)と母(ヘレナ・ボナム=カーター)と肩を寄せ合って暮らす日々。一家は歯磨き工場で働くお父さんの、細々とした稼ぎで何とか暮らしていた。

 そんなチャーリー少年のお楽しみは、夜な夜なジョーおじいちゃん(デビッド・ケリー)が語ってくれる昔話。それはじいちゃんが「ウォンカ」で働いていた頃のことだ。

 「ウォンカ・チョコ」は、ウィリー・ウォンカが一から創り上げたブランド。それがまだ街の菓子店の頃から、おじいちゃんはウィリー・ウォンカの下で働いていた。ウィリーは若い頃から天才的な人物で、次々独創的な菓子を発明。おじいちゃんもそんなウィリーの天才ぶりを間近に見ていた。

 やがて彼の菓子の大成功でつくられたのが、世界有数の規模の巨大なチョコレート工場。おじいちゃんもこの工場で働く事になった。何もかもうまくいった夢のような日々…。

 だが好事魔多し

 ウィリーの大成功をねたんだ同業他社(どうせ日本企業に決まってる)が、この工場にスパイを送り込んだからたまらない。レシピが盗まれてどんどん類似品が市場に出るに至って、ウィリーも手をこまねいて見ている訳にいかなくなった。ある日ウィリーは工場のゲートを閉鎖。従業員を全員解雇して閉め出してしまったのだ。これで工場も操業停止かと思いきや…なぜか工場はいつしか操業を再開。再びおびただしい製品を生産し始めた。だが工場は閉鎖されたままで、誰一人工場から出入りしてはいない。一体誰がどうやってチョコレートを生産しているのか?

 そんな謎のチョコレート工場に魅せられるばかりのチャーリー少年だが、彼の気持ちに応えるかのようなメッセージが「ウォンカ」から発表されたのは、それからまもなくのことだった。

 「世界で5人の子供たちを、工場見学にご招待!」

 一体どうした風の吹き回しか、ウィリーはチョコ工場に5人だけ招待する事を決めたのだ。その招待者を決めるのは、製品のチョコの包み紙に封入したゴールド・チケット。これが出たら当選者だ。さらに5人の招待者の中から、たった一人の特別賞も決めると言う。

 この発表が行われて以来、全世界でゴールド・チケット争奪戦が行われた。それらは正直言って夢一杯とは言えない…いや、むしろ夢も希望もないと言った方が適切な状況ではあったが…。

 まず最初にゴールド・チケットを手に入れたのは、ドイツの食い意地の張ったデブ少年オーガスタス(フィリップ・ウィーグラッツ)。次いでチョコを大量に買い占めて、父親(ジェームズ・フォックス)の会社の従業員にゴールド・チケットを探させたワガママ娘ベルーカ(ジュリア・ウィンター)。バイオレット(アナソフィア・ロブ)は何でも一番になりたがる「勝ち組」志向のイヤミな娘で、現在はガムの連続噛み記録を更新中。さらにはコンピュータやテレビ・ゲームのマニアであるマイク(ジョーダン・フライ)と来たら、数々のデータからゴールド・チケット予想を的中させたと豪語する。おまけにチョコは嫌いなどと暴言を吐くクソガキだ。

 むろんチャーリーとてゴールド・チケットを狙っていない訳がないが、何せ家の事情がこれではワガママは言えない。チャーリーのチャンスは、毎年誕生日に買ってもらうチョコ一枚だけ。そして…それにゴールド・チケットが入っているほど、世の中はおとぎ話みたいにはいかない。おまけに父親は産業用ロボットの導入で歯磨き工場から解雇され、さらに一層チョコレートどころではなくなった。

 そんなこんなでチケットは残りあと一枚。もはや指をくわえて見ているしかなくなったチャーリーだが…世の中には不思議な巡り合わせというものがある。たまたま落ちていたお金を拾って店で買ったチョコレートに、あのゴールド・チケットが入っているではないか。それを見たおじいちゃんも、なぜか寝たきりのくせに起き出して踊り出した。

 さて招待された5人の子供たちと付き添いの父兄各1人づつは、指定された日に「ウォンカ」工場の巨大なゲート前に集まった。全世界が固唾をのんで見守る中、閉ざされていたゲートがゆっくりと開き出す。ゆっくりと中に入っていった招待客たちを待っていたのは、意表を突いた奇妙なアトラクション。思わずギョッとする招待客たちだが、そこにいきなり笑い声が聞こえてくるから彼らも二度ビックリだ。

 「アッハッハ、最高〜っ! 傑作だったでしょう?」

 それはシルクハットに奇妙な正装で固めた仰々しい態度の男、ウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)その人だった!

 

バートン=デップ映画の曲がり角

 ティム・バートンとジョニー・デップが「名コンビ」である云々という事について、僕はこの文章の冒頭で書いた通りだ。そして熱狂的なファンを持つであろうバートンとデップなら、語れる人語りたい人は枚挙にいとまがないだろう。白状すると、僕はそれほど熱心なファンというほどではないのだ。

 「シザーハンズ」(1990)は素晴らしいと思ったし、それ以前のバートン作品「ビートルジュース」(1988)や「バットマン」(1989)もそれなりに楽しんで見たものの、本当にバートン映画を気に入ったのは、何と言っても「エド・ウッド」(1994)にとどめを刺す。これには心底泣かされた。奇しくもこの映画はバートン=デップの二度目の「コンビ作」となったわけで、このあたりからすでにこの二人の相性の良さは、映画ファンにかなり強い印象を与えていたように思う。どこかイイ意味で「子供心」を持つ二人と、エド・ウッドという存在がピタリとマッチした。だからそれは、実話の映画化なのに何よりもファンタジーだったのだ。

 続く「コンビ作」のスリーピー・ホロウ(1999)の時には、バートン=デップ作品は「あの二人の作品」として安定した印象を与えていた。僕もそれなりに楽しんだが、それには「信頼のブランド」的な安定感がかなり含まれていた事も否めない。

 考えてみればバートン=デップ両名とも、ハリウッドでは本来「異端」だったはず。ところがこの時点では、二人はその「メインストリーム」になろうとしていたから世の中も変わった。そうなれば作る映画だって当然変わらざるを得ない。特に、特異性と屈折で売っていたバートンみたいな映画作家なら尚更だ。

 そんな「効果」がハッキリ表に出始めたのが、おそらく猿の惑星(2001)リメイクだろう。これっていまだに僕は、何でバートンがつくりたがったのか皆目見当がつかない。ついでに言えば、実はヘレナ・ボナム=カーターって女もバートンに向いているとは思えない(笑)。ともかく、素人目には「らしくない」作品だったのだ。

 続く「ビッグ・フィッシュ」(2003)は、僕にとってもっと「らしくない」作品だった。一見すると「夢見る心」の素晴らしさをうたいあげるお話…という、いかにもバートンの「子供心」にピッタリな映画に見えるが、実はそのアプローチは以前と大きく変わっている。映画全体がファンタジーの世界の中にあるのではなく、現実社会のドラマの中にファンタジーを「夢」というレッテルを貼って封印してしまった作り方自体が、もうすでに以前のバートンではなくなっているのだ。

 機を同じくして盟友ジョニー・デップが、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)で大成功を収めたのも、時の必然というものを強く感じさせる。ここでの彼の役柄は奇妙きてれつな海賊…というジョニー・デップに格好のキャラクターに見えるものの、映画のウツワがそれまでとは大きく違っていた。ハリウッドの権化ジェリー・ブラッカイマーの制作による大型予算の娯楽作品で、健全無害が売り物のディズニー映画というシロモノ。果たして以前のデップだったら、このウツワでこんな作品に出ただろうか

 デップ自身がこの作品に出た前後に放ったコメントに、そのあたりの秘密が隠されていたように思う。どうも「父親」になったデップは、自分の子供にも見せられる映画を…と思って「パイレーツ〜」に出演したような事をどこかで読んだ覚えがある。

 翻ればバートンの「ビッグ・フィッシュ」も、父親と息子の相克がテーマになっていた。そしてバートン自身、「ビッグ・フィッシュ」制作には自身が「父親」になった事が大きかった…とどこかで告白していたはずだ。

 確かにそうだろう。そしてそれは偶然にも、バートンとデップという二人の映画人にほぼ同時で降りかかって来た。二人の年齢が上がってきたこと、映画界でのポジションが飛躍的に大きくなってきたこと、父親になったこと…これが「子供心」を売り物にする映画人に、何らかの変化を与えない訳があるまい。

 そこで思い出されるのは、もう一人の…そして彼らの大先輩にあたる「子供心」映画作家…スティーブン・スピルバーグのことだ。

 彼もその「子供心」映画の頂点としてE.T.(1982)を発表した後には、深く長い低迷時代に迷い込んでしまった。どんな人間も、永遠に「子供」ではいられない。だからどこかで脱皮を目指さなくてはいけない。目指さなくても自然とそうなってしまう。だが「子供心」の作家が子供でいられなくなるというのは、その「作家生命」に関わる問題でもあるのだ。

 イヤな事に、バートン「ビッグ・フィッシュ」にしてもデップ「ネバーランド」にしても、そこに「子供心」大人の奇妙な開き直り精神がチラつくのがどうも気になる。主人公が「子供心」を持った人物という点だけならエド・ウッドなどと変わらないが、「ビッグ・フィッシュ」も「ネバーランド」も主人公はハタ迷惑な奴なのに「子供心」を持っているという事だけで居丈高に大威張りしている

 「夢」を見れないような連中はつまらない凡人、「夢」が見られるオレは非凡な存在なのだ、だからオレたちがオマエらに迷惑をかけても大目に見ろ、オレたちはオマエらが出来ないことをしているオマエらより「上」の存在なのだから、オマエらはオレたちに奉仕するのが当然なんだよ…。

 だが真に「子供心」のある「夢」見る人が、そんな世の中ナメきった態度を見せるだろうか。これのどこに純粋性がある。むしろそこに見いだせるのは、どこか狡猾で老練で打算的な卑しさ、鼻持ちならない傲慢と腐敗だ。妙に「子供心」の残りカスだけはくっつけたままのバートン(とデップ)は、いつの間にか手に入れた「大人」のズルさと経験、社会的ステータスを行使して自分を正当化しているように思えた。それがすごくイヤだったんだよね。

 そんな二人が「名コンビ」を復活させたら、イヤらしさも腐敗臭も二倍になりそうだ。この新作、本当に大丈夫なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 実は映画の前半部分…主人公の少年がゴールド・チケットを手に入れてチョコレート工場見学に招待されるまでは、その大がかりなセットや美術、堂々たる語り口に感心はしたものの、「ふ〜〜ん」…と思う程度のモノでしかなかった。こんな大作をつくるまでになったんだから、バートンはスゴイなぁ…とか、そんな事しか頭に浮かんでこない。少年がいかに貧しくて大変で、だけどいい子なのか…なんてクドクド言われたって、それで感心するほど僕は善人でもおめでたくもない。むしろ「いい子」が報われる話かい…ぐらいにしか思っていなかった。それとも「夢は素晴らしい」なんて、またまた「ビッグ・フィッシュ」みたいな展開かいな。

 そんなこんなしているうちに、揃いも揃ってクズ同然の4人のクソガキとその俗物丸出しの付き添いの親と一緒に、主人公の少年と祖父が工場に招かれる。するとディズニーランドの何かのアトラクションみたいに、仕掛け人形が出てきて「ウォンカさんは天才〜」とか何とか「夢いっぱい」の歌を歌いながら回り出すではないか。やれやれ。

 おやっ、どうも様子がおかしいぞ

 よくよく見ると、それらの人形は塗りがはげたり汚れていたりして、何となくグロテスクだ。そんな人形のどアップ映像を見ながらだと、甘ったるく「夢いっぱい」の歌でさえ薄気味悪く聞こえてくる。

 と、みるみるうちに人形たちが燃え始めるではないか!

 今度は人形たちが燃えて熔けて、何とも無惨な様相を呈してくる。何となく火に包まれて歪んでくる人形の顔に、ブラザース・クウェイのアニメーションやらヤン・シュヴァンクマイエルのクセのある人形映画などもダブってきて…。熔けた人形の顔から目玉が転がり落ちるくだりまで見せつけられれば、誰だってこれがグロテスクを狙っている事が分かるだろう。

 これだ! これこそが僕らがバートン作品に求めていたものだ!

 そして、どこからともなく素っ頓狂な笑い声をあげて出てくるウィリー・ウォンカ=ジョニー・デップ! これで完璧だ。そうだそうだ、バートン(とデップ)はこうでなくっちゃいけない。彼らは本来、夢を見てる奴はエライなんて言ってなかった。むしろ夢見がちな奴はどこか歪んでて危なくて、奇妙で狂っていて…だけどそんなところって誰にでもあるよね…って僕らに言ってくれていたんじゃなかったか。だから彼らのファンタジーは甘く楽しいばかりではなくて、どこか怖くて悲しくて変なモノになっていた。

 もうこの瞬間に、僕は大いに乗せられていた

 そうなると、デップの一挙手一投足が見逃せない。ここでのデップはコテコテなヘンテコ演技だ。最初に子供たちと親たちに対面した時の、思い切り居心地の悪そうな態度も笑わずにいられない。それが工場内に移ってから、憎たらしい子供たちを一人ひとりワナに落としては制裁を加え始めるあたりの楽しげで生き生きしていること(笑)。こんな芝居をチャーミングに見せられるのは、映画界広しと言えどもジョニー・デップただ一人だろう。彼のやりすぎスレスレの芝居を見ているだけで楽しめる。

 おまけにここでは、ロアルド・ダールの創り上げたイマジネーション豊かな世界が楽しめる。そういやロアルド・ダールと言えば、あの日本トンデモ映画の傑作007は二度死ぬ(1967)の脚本を手がけた人物でもあるんだよね。なるほど、あの日本もどこかファンタジーの世界だった。そしてキッチュで奇妙で歪んでいた。もちろんティム・バートンとの相性は、モロにジャストミート!

 だからチョコレート工場内部も、とてつもなくキッチュでユニークで楽しくってケバケバ毒々しい人工着色っぽくて…いやぁもう最高! いちいち内部の趣向を語りたいけど、語ったところで言葉では映画の10分の1も楽しさを伝えられない。ならば僕は全く語らない方をとる。これはぜひ、みなさんがじかに劇場で目撃して欲しい!

 この映画の出来映えがいかにアッパレかは、映画が終わった直後の劇場で自然発生的な拍手が起きた事からもお分かりいただけるはずだ。日本の映画館では拍手そのものが極めてマレ。しかも本当に観客が自発的に思わず拍手してしまった…という拍手は、まずお目にかかった事がない。それが本当に劇場で起きたから驚いた。しかも、その時には僕でさえ拍手したいと思っていたくらいだ。

 傑作なのは子供たちをワナにかけた後で、必ず小人のウンパ・ルンパたちが出てきてミニ・ミュージカル場面が展開するあたり。食い意地の張ったデブのオーガスタスの時には、チョコレートの川をプールに見立ててのエスター・ウィリアムズ主演MGMミュージカル風。「勝ち組」志向でガムを噛みまくるバイオレットの時には、ビー・ジーズを思わせる1970年代ディスコ・サウンド風。タカビー金持ちワガママ娘ベルーカの時には、1960年代後半のアメリカン・フォーク・ロック風。コンピュータ・マニアで大人をバカにするマイクの時には、ビートルズやクイーンやハードロック・バンドなどブリティッシュ・ロックの変遷風。…と、凝りに凝った音楽場面が展開。その都度ウンパ・ルンパたちが出てきて「らしい」踊りを見せるから抱腹絶倒だ。

 そのウンパ・ルンパの登場場面は、ディープ・ロイなる俳優が一人複数役で何十人ぶんも登場。むろんそれらの合成やら身体のサイズの縮小にはコンピュータ技術が使われているようだが、人数を増やすために俳優をCGで代用することはやっていないというから驚きだ。クルミの皮むきをする無数のリスたちも実物の調教によるものだと言う。

 何ともくだらなくバカバカしい。

 全編に出てくる巨大セットの数々といい、やはりこのあたりの壮大なバカバカしさは、実物でやらなければ出てこない。この映画には、そうしたバカバカしさが全編に充満している。

 そもそもジョニー・デップの人となりもかなりバカげてるし、何度も透明のエレベーターに自分から激突するギャグもかなりベタだ。チョコレートのテレビ電送実験でミエミエの「ツァラトゥストラはかく語りき」が堂々と流れるあたりも、あまりにベタでバカバカしいので笑ってしまう。何だか「飲み屋の冗談」レベルのことを、ものすごいカネを使って本気で映像化したみたいだ。

 で、これこそが本当の「子供心」だと思うのだ。

 だとしたら、バートン=デップもここでやっと「子供心」の何たるかを取り戻したのではないか。「子供心」ってのは、ハリウッドの権力で誰かに迷惑かけても開き直って威張れるようなところに生まれてくるモノではないだろう。無心にバカバカしい事を大マジメにやることこそが「子供心」だ。そこに邪心やら傲慢な思い上がりとか、自分を偉そうに見せようという虚栄とか…が絡む事ではあるまい。

 僕は久しぶりに映画で、そんな壮大でバカバカしくて何のためにも利益にもならなくて、だからこそスカッと爽やかな「子供心」の発露を見たような気がする。

 

見た後の付け足し

 では、バートン=デップは「子供心」の世界に完全に帰ってきたのか…というと、実はそうではないような気がする。むしろ一旦は変な「子供心」のヘソの緒を残したままイビツな「大人」になりかかり、「これではマズイ」とあえて立ち戻って来た感じがあるのだ。

 そして、そのヘソの緒を改めて断ち切りに来たような気がする。

 主人公のウォンカ=デップは大人だ。だが「子供」の部分を多分に残した大人でもある。そして「子供」とは、実は他の「子供」がキライだ。大人以上に「子供」の悪い部分がよく分かる。そして「子供」の悪い部分を見るのが耐え難い。「子供」は「子供」に甘くないのである。

 だからクソガキどもに、ちょっとやりすぎスレスレなまでに制裁を下す。ウォンカは心底「子供」だから、「子供」には全く容赦がないのだ。「子供を甘やかさない」映画という意味で、これは確かに「子供心」映画であると言えるかもしれない。

 そしてこの作品は、「子供」をそんな風に歪めてしまったダメな「親=大人」にも容赦しない。

 それは、ウォンカ自身が「親」に歪められたという自覚があるからだ。それはある意味で間違っていない。ウォンカのどこか歪んだ「子供心」やチョコへの執着は、父親の抑圧の産物だ。

 「子供」がダメになるのは、「大人」がいけないんだ。

 …で、結論づけられれば、この映画は単なる「子供心」映画でしかない。よくある凡百の「子供心」映画だ。見飽きたし聞き飽きた結論だ。そう言えば免罪符になると思っている安易な「大人」と、甘やかされたい「子供」にとって都合のいい結論。…子供が歪むのは親と大人のせい。せいぜい子供もちゃんと罰して容赦なくブッ叩くあたりが、この作品の新味だと言えようか。

 ところがこの映画では、話はそれでは終わらない

 親や大人のいない世界に閉じこもってせいせいしているウォンカを、主人公の少年と映画は「それで良し」とはしない。それはそれで人間として歪んでいる…とキッパリ糾弾するのだ。しかも後々でウォンカ自身が主人公の少年のところに立ち戻ってくるところを見ると、ウォンカ自身にも「それではいけない」という自覚があるらしい。そして勇気を奮い、ウォンカは父親との対面を果たすのだ。

 最後に用意された歯科医の父ドクター・ウォンカとの和解場面は、さすがにちょっとグッと来る。父親を演じるいぶし銀のクリストファー・リーの威厳も手伝って、この映画の格を一気に引き揚げる。その息子から父親への和解劇は、同じく「子供心」の権化の映画作家=スピルバーグの近作宇宙戦争(2005)のエンディングを、僕に連想させた。

 ガキにとって親や大人の言動はうるさく煙たいものだが、それも子供への思いがあってこそ…。多少そのやり方や方向性に問題はあっても、バッサリ切って捨てるべきものではない…という言い分は、もはや「子供心」から出ているものではない。それは明らかに「大人」の主張なのだ。

 子供に寛容であれ…という主張ならバカでも出来る。子供が喜びそうな甘い事ばかり言ってやる事も簡単だ。だが子供に対しても同様に「大人に寛容であって欲しい」と進言するのは、そうそう誰でも出来る事ではあるまい。それは「子供心」を保持していた「大人」…バートンとデップみたいな人物にしか出来ない事なのだ。

 そう考えれば、工場内であのクソガキどもが実に辛辣に断固として制裁されるのも頷けようというもの。あのガキどもは、いずれも中途半端な「大人子供」だ。都合のいいところだけ子供で都合のいいところだけ大人。非常にイビツなテメエ勝手な存在。それは「子供心」を変に引きずったまま「大人」になったような、昨今のバートン(とデップ)の姿にも似てはいないか。

 だとしたらバートン(とデップ)はこの映画において、ここ最近の歪んだ自分たちを葬ったのに違いない。その醜さを暴き立て、キッチリと過去のヘソの緒を断つつもりでやったに違いない。あの子供たちに対するあまりの情け容赦のなさは、そうでも考えないと理解できないのだ。

 

付け足しの付け足し

 その映画の終盤、ジョニー・デップとクリストファー・リー扮するウォンカ父子の再会場面を見ていて…僕は不覚にも涙を止められなかった

 頑固に息子からチョコを遠ざけていた父親は、チョコづくりを仕事にする…と言い出した息子を「勘当」する。それ以来、「両親」とか「父親」などの単語を発音する事すら困難なトラウマに襲われる息子ウィリー・ウォンカ。

 だが、かつて息子を突っぱねた父の部屋には、チョコづくりで名を挙げた息子の新聞記事が所狭しと貼り出されていた…。

 僕の父親はおそらく世間の大抵の父親と同じで、子供時代の僕のやる事なす事に、片っ端からケチをつけた。僕が病弱である事も手伝って家に籠もって本ばかり読んでいるのも気に入らなかったし、マンガを描き始めたのも気に入らなかった。テレビで一緒に洋画劇場を見ていた時は上機嫌だったのに、僕が一人で映画館に行くようになるとたちまちシブい顔をし始めた。まして8ミリ・カメラを持ち出して撮り始めると、事あるごとに文句を言い始めた。とにかく僕が「何かをつくる」事に夢中になっているのが気に入らなかった。もっと堅気の仕事に就いて欲しいと思っていたらしい父としては、僕がやりたがっている事すべてが理解出来ないようだった。

 そんな僕は父の思惑からはずれて、どんどんヤクザな道に入り込んでしまった。ライターの仕事に就いた僕を、父は決して許しはしないと思っていた。

 そんな僕は今から10年以上前に、たまたまある官公庁のPRマンガの仕事を手がける事になった。200ページを超える単行本。僕はその本の原作シナリオを書く事になり、どんな経緯か原作者として名前を載せる事にもなった。単なる「お仕着せ仕事」で思わずひょうたんからコマ。

 だが所詮はお役所のヒモ付き本。世間一般のちゃんとした本とはまるっきり違う。人がマトモにお金を出して買う本なんかではない。ハッキリ言ってくだらないシロモノだ。僕の名前なんか載っているのも、かえって恥ずかしくて穴に入りたいくらいだ。

 そんな僕は、ある日たまたま何の気なしに出来上がった本を家に持ち帰った…。

 それからの事は、母親からずっと後になって聞いた話になる。父は一切僕には何も言わなかったから、当時の僕はまったく知らなかった事だ。

 何とヤクザな道に入った僕にあんなに文句ばかり言っていた父は、その本を持って親戚の家へわざわざ自慢しに行ったと言うのだ。「息子がこんな本をつくった」と、親戚の家で披露したというのだ。それは僕にとって、あまりにも意外な話だった。

 父と親戚の人の会話で僕が話題に出る時と言えば、決まって「困った奴でして」…などと引け目を感じているような話ばかりだったような気がする。だから僕は、親族が集まる冠婚葬祭がイヤだった。オレってまるでゴミみたいな扱いじゃないか。

 でも父がそうなってしまったのも、考えてみると無理はなかった。仕事はポンポン変わる。失業状態だった事だってある。おまけにおかしなヒゲは生やし始めるし、やっと就いた仕事もカタカナ名前のいかがわしい職だ。嫁さんももらわないし、まして孫なんて夢のまた夢。本当だったら父だって親族に自慢の一つもしたかっただろうに、悲しいかな他の連中が自分の息子の出世や結婚や出産や家の新築の話をしている時に、父はまったく何も口に出すことは出来なかった。それはどんなにか寂しかった事だろう。

 あんなチンケな役所のヒモ付きマンガ本を持って、親戚の家に用もないのに出向いて行った父。僕はその事を一生忘れない。

 この夏いきなり体調を崩して以来、何をするのもままならない父。そんな父がたった一度でも息子自慢を出来たのなら、あんなチンケな本でもつくった甲斐があろうと言うものだろう。

 父と息子の関係というものは、誰でもそんなものなのかもしれない。 

 

 

 

 

 

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