「亡国のイージス」

  Aegis

  その1

 (2005/08/22)


近代〜現代を通じての日本社会の歪みの象徴

 のっけから微妙なテーマで恐縮だが、今回の映画を語るには「邦画とは何か?」から始めねばなるまい。

 考えてみると…僕は日本映画の話題作の感想文を書くたびに、同じような趣向の事を書くハメになっていた。だが今回の映画こそ、それらをキッチリ語っておかないとマズイ映画だ。一回はちゃんと語っておこうと思ったのだ。今回はちょうどいい機会だろう。

 正直言っていろんな意味で僕も自由になりたいので、今回はご批判を恐れずズバズバと思っている事を歯に衣着せず言っていきたい。もう言ってもイイ頃だ。今回は腹が立つ方々も多いだろうが、あえて極論暴論と知りつつ言い切り口調で言ってみたい。

 それは日本映画の娯楽大作に対する、僕の立ち位置の問題だ。

 僕はもちろん「映画は自分が面白い・面白くない…で見ている」と言いたいところだが、実はそればっかりで語っている訳でもない。白状すれば、その都度何らかの「立ち位置」を決めながら語っている事が多いかもしれない。

 「そういうのは不自然だなぁ。映画ってのは単に見て面白ければ面白いと言えばいいではないか」と人は言う。本当はその方がいいような気がする。僕だってそう思っているから、これまであまり「立ち位置」があるなんて言っては来なかった。

 だが実は「立ち位置」ってのはその都度厳然として存在するし、実は「不自然だなぁ」なんて言って「僕はもっと素直に見てる」なんて自称する人間に限って「立ち位置」をガチガチに決めていたりする。いや、ホントにそうなんだ。こういうヤツが実に多いんだよ。だから僕はあえてここでズバリと白状しておきたい。

 オレは「立ち位置」を決めてるよ…たぶん

 ここで「たぶん」と付け加えねばならないのは、それは往々にして自覚していない事が多いからだ。さらに「立ち位置」は常に微妙に変わる。その時の世間の雰囲気によっても変わる。だが、それっていうのは大概の映画ファンが実はやっている事だ。

 特に日本映画の場合、常に映画ファンの毀誉褒貶の常軌を逸した激しさにさらされる。いや、マイナー作品の場合はほとんどが一般ファンから相手にされず、マイナーな日本映画ファンが自分たちだけでベタホメして終わっているから、これには当てはまらないかもしれない。マイナー・ファンは「この良さがなぜ凡人には分からないのか」と「分かってる」自分たちを内輪ボメしつつ、他の映画ファンは無視か…せいぜい「誰がそんなの見るか」と思っているだけ(笑)。

 問題は、日本映画の娯楽大作の場合だ。

 まずは日本映画の新作を、最初から日本映画というだけで「見る」「見ない」と選別する人々…実はこれが従来から映画ファン全体の中で一番多いのではないか。いわゆる「洋画ファン」と「邦画ファン」だ。

 「邦画ファン」は洋画ファンあるいは非・邦画ファンを称して、映画を先入観と偏見で見る「分かってないヤツ」と思い、「洋画ファン」もしくは「非・邦画ファン」は邦画ファンに対して「だって邦画はつまんないんだも〜ん」と言う(笑)。これはどちらの主張にも実は一面の真理があるので、簡単には結論づけられない。ただひょっとすると「洋画ファン」もしくは「非・邦画ファン」は、かつての敗戦国・日本のコンプレックス…あるいは明治維新あたりからの欧米コンプレックスのシッポを引きずっている可能性はある。最近、あまり「邦画」を見る事に抵抗なくなってきた若い映画ファンが増えてきたというのは、まさにそのへんの事を如実に表しているかもしれない。

 確かにこれら若い人々は、屈託なく「昔の人たちとは違って、我々には“先入観”や“偏見”がない」と口走る。まぁ、そうなのかもしれない。変な欧米コンプレックスからは解放されているのだろう。

 ただここで少々意地悪く指摘すれば、これら若い層の「欧米コンプレックス」打破…というのは、実は諸手をあげて歓迎すべきものかどうかいささか疑問が残らないでもない。どこか「よくも悪くも」の部分がある。彼らは生まれた時から「メイド・イン・ジャパン」製品が世界を席巻していたような人々であり、あるいは価値観を決定する青春期に日本がニューヨークのロックフェラー・センターを買い占めるような「バブル期」を経験している人々だ。札ビラ切って海外に出れば、現地の連中がチヤホヤしてくれた。だからどこか増長したような傲慢な態度を持ち、対外的にも歪んだナショナリズムを抱きつつある…そんなちょっと危なっかしい視点も底流として流れてないとは言えない。その延長線上で、映画に対してもこうした「国産愛好」「国粋」傾向を持ってないとは言い切れない。ハッキリ言えば、おかしさでは「欧米コンプレックス」派とどっこいどっこいなのだ。

 で、ここでひとまず僕自身のスタンスを定義すれば、邦画ファンに言わせると僕はこの「洋画ファン」もしくは「非・邦画ファン」にカテゴライズされるのは間違いないだろう。正直に言うと、僕はこのカテゴライズに対して異議がない訳でもないが、周囲から僕がここに属すると思われているのは間違いないようだ。まぁ、確かにそう言われても仕方のない一面もある。

 さて一方「邦画ファン」陣営はと言うと、これが実は一枚岩ではないから難しい。とりあえず先に挙げた“偏見がない”と自称する「ニュー・ナショナリスト」「バブリー・エイジ」世代は別にすると…この中にさまざまな細かいカテゴリーの人種が混在している。それらがすべて「邦画ファン」と規定出来るかどうかは難しいが、こと「邦画」となると意固地になる人々は確かに存在する。

 まずは…邦画なら何でもホメようと言う人種。彼らは「洋画ファン」あるいは「非・邦画ファン」を「見る目がない」と嘆きつつ、反面彼らよりも「見る目がある」自分たちを実は自画自賛しているだけな事が多い。

 そもそも邦画の場合は常にかなり無理な持ち上げ方やらホメ方をする事がよくあり、それが「洋画ファン」あるいは「非・邦画ファン」のヒンシュクを買う事もしばしば。「大傑作」「名作」「戦後最大の作品」…などのホメ言葉は日常茶飯事。いくら何でも、見ていない人間でも「大げさ」だという事は分かる。だからホメ言葉を並べる事で「洋画ファン」あるいは「非・邦画ファン」を振り向かせる事は出来ない。かえって退かせるだけだ。完全な贔屓の引き倒しにしかならないのだ。だが彼らはムキになって、口からツバ飛ばしながらコレを言う。いや、言わずにはいられない。

 それが「邦画への愛」だったらまだいいのだが、概して“それを分かってる”「自分への愛」だったりするから始末に困るのだ。オマエらには「この良さ」が分からない、分かってるオレは素晴らしい…そんなナルシストぶりが目に余る。だからこれらの賛辞の大盛り、大安売りは、見ていてどこか鼻につくのだろう。

 彼らは「洋画ファン」あるいは「非・邦画ファン」に「邦画」の良さをアピールしようなんて思っちゃいない。彼らに邦画を愛してもらいたい…という気が本気であれば、もっと真摯な態度を見せるはずだ。あんな傲慢な言動はすまい。彼らはむしろみんなが邦画をバカにしてくれればくれるほどいい。そんな“分かってない”奴らに対する、“分かってる”「オレ」の格が一段と上がるからだ。

 イヤな事にそれらは、どこか「大本営発表」めいた危なさも感じさせる。負け戦ならではのヤケクソな持ち上げよう、入れ込みようとでも言えばいいのだろうか。

 しかも邦画というと、なぜか「邦画ファン」の中で「内ゲバ」(笑)をやらかす。こんな「死語」を持ち出すのもどうかと思うが、メタメタにムチャなホメ言葉連発をやるかと思えば、逆に残酷極まりないコキ下ろしもやるのだ。これってのは近親憎悪みたいなモノなのだろうか。愛しているから憎さ百倍なのか。

 これが起きるのが、まさにヒットした邦画や評価の高い邦画、あるいは話題作の邦画であるのは分かる。元々が映画ファンとは、どこか「この良さが分かるのはオレだけ」の人種。これが邦画となったら、それこそタダでは済むまい。先に挙げた「ベタホメ」の連中も「日陰者」だから邦画を支持してきたのに、その邦画でヒットしたり好評だったり話題になったりしたら、面白かろうはずがないだろう。彼らにはそんな可愛さ余って…のところがあるから、まずはヒット邦画はケナす。彼らは「愚かな大衆」とは同じになりたくないのだ。この何とも愛憎半ばする感情の複雑さよ(笑)!

 そして日本に元々根強い「清貧主義」やらと絡んで来るから、まずます意固地になる。元々がマイナーで貧乏で…だけど本当は作り手の志は高いはずの邦画が、金をかけた大作で儲かったりするなんて許せない! 金がかかる=拝金主義=欧米志向=大衆迎合=テクノロジー志向=人間軽視…などなどと連想は膨らんで、とにかく「叩かなければ!」という気持ちになるらしい。それまでが日陰の花で、それを愛でるのを良しとしていたところがあるから、その中で陽の当たる場所に出る奴がいるのがどうしたって我慢ならない。「絶対に引きずり落としてやる!」…という何とも「ヒガミ根性」な日本的精神風土の中で、それらは起こっているような気がするのだ。渡る世間は鬼だらけ。

 あとは、なぜか政治的・イデオロギー的な発想で叩く。そのテーマはいろいろで、ジェンダーやら教育問題、戦争や対アジア歴史観、健常者と障害者…などなどなど。普通、娯楽映画を見てそんなところまで考えないだろ…と思う重箱の隅を突つきまくる。日常すべてに「政治」が絡むと言えば確かにそうだが、そんな事ばかり考えてたら疲れやしないか? それに…何でもかんでも曲げて解釈したり、万事悪い方向にしか受け取れないのかね? そう受け取ろうと思えばそう見えるだろうが、それって心霊写真で壁についたシミでも人の顔に見えるって類の事ではないのか? こいつら最近いいセックスとかしてないんじゃないの(笑)?

 こういう連中は困った事に、「オオカミが来た」と叫ぶ少年の類と同類だ。一般の人々を「政治的」にシラケさせて、かえって世の中悪くしてしまったりする。騒いだあげく、本当にオオカミが来ちゃう時代になったりする。全然世の中のためになってねえんだよ、オメエらは。

 今挙げた二つの要素は、必ずしも「邦画」ばかりで指摘される事ではない。だがコト邦画に絡んでコレが出てくると、何ともタチの悪い論争に発展するのだ。邦画だと、なぜか対立が深刻になる。邦画だと、深刻さが二倍三倍になる。何でこうなるんだろうねぇ? だから元々「洋画ファン」あるいは「非・邦画ファン」だった人間は、ますます邦画から足が遠のく。

 同じように…「特撮」だの「軍事」だのといった「一部好事家」の分野に関わる要素においても、なぜかやたらにモメるのだ。別にそれらへのこだわりは邦画に限った事ではないものの、なぜか邦画が絡むと問題が厄介になる。みんなヤケに熱くなるしこだわるし、意見を異にする人間に一歩も譲れない気持ちになってくるのだ。

 だけどちょっと考えれば分かると思うが、「CGよりもピアノ線で吊った特撮の方がイイ」ってのは、どう考えても趣味的問題(笑)で真理ではないよ。それをフツーの映画ファンに力説するのはいかがなものかと思う。そんな事は自分の部屋に籠もって、ツボか何かの中にでもボソボソとつぶやいて欲しい。

 邦画は映画ファンを狂わせる。邦画には人間の脳にダメージを与える、アスベストみたいに悪い成分が含まれているんじゃないのか(笑)? そういやこの文章そのものが、やたらにいきり立った文章になっている(笑)。そもそもこの世の中に邦画があるのがいけないんだ。

 

 みんな、もう邦画なんか見るのはやめよう(笑)。

 

 それは冗談だが…一般の映画ファンの邦画への鈍い反応は、すべからくこうした「邦画ファン」の姿勢が災いしてるところもある。それは真摯に受け止めて欲しいところだ。

 あと…残念ながら、映画そのものに問題が多いところも難点だ。

 もちろん、邦画だっていい映画は多いと思うし、実はアメリカやら他の映画だって駄作は思いっ切りある。そのへんはいろいろご指摘を受けている。むろん「オマエは分かってない」とのご批判付きで…だ。

 だがそれでも…というか、やっぱりというか、邦画の場合のマズさってのは、どこか他の国の映画のマズさと根本的に異なる気がするのだ。何だか違うマズさなんだよね。単に映画として劣っているとか間違ってるとかではない。「在り方」や「姿勢」にこそ問題があるという気がする。そして実に「もったいないよなぁ」と思わせるから、余計に頭に来る事が多い。

 まずは一例を挙げよう。評価が定まった作品がみんな見ているし分かりやすいと思うので、ちょっと古い映画…「蒲田行進曲」(1982)。数々の映画賞もとったヒット作だ。

 大部屋俳優のヤス(平田満)が新撰組映画のヤマ場「階段落ち」を志願し、その命の懸かった出番前夜に女房の小夏(松坂慶子)にヤケクソに当たり散らす。そして泣き叫ぶ小夏を横目に、部屋をメチャクチャに壊して去っていく。これが何とも理解し難い。そんなに当たって暴れるくらいなら、「階段落ち」などやめればいいではないか。いくら銀ちゃん(風間杜夫)から押しつけられた女とはいえ、元々が女房のために志願した「階段落ち」なのに…何とも往生際も悪ければ男らしくもない。

 実はこの場面がイイ…という人が結構多くて、僕はこれがキライだと言えなかったんだよね。でも、これって発展性も建設的な発想もないし、第一男らしくないし大人げない。今さらどうしようもない事をグチュグチュグチュグチュ…ズバリと言えばこいつ甘えてる。日本の男ならではの「甘ったれた根性」「ガキぶり」をハッキリ露呈した場面だ。すごくイヤ。身の毛もよだつほどイヤだ。

 で、これって確かに僕自身、実際の社会で非常に近いモノを見てきた気がする。日本の男どもの世界で「男臭さ」をくだらなく発散させる瞬間…例えば上司・先輩が飲み会などで後輩に「飲みが足らねえぞ」とか「付き合いが悪いな」とか絡んでくるような、「男」を押しつけつつ実は「全然男らしくない」パターン。「日本男児」をひけらかせばひけらかすほど、本来の「男らしさ」から遠のいていく。そういう体質にこうした「甘ったれた根性」「ガキぶり」が、実に通じている感じがするのだ。

 誤解していただくと困るが、僕にとって「蒲田行進曲」は好きな映画だ。映画界をうまく背景に活かした楽しい映画だし、お話もいい。エンディングがフランソワ・トリュフォーの「終電車」(1981)のモロのパクりである事も目をつぶろう。にも関わらず、これって何とかならんかなぁ…と思ってしまうんだよね。

 あるいは最近デジタル・リマスター版が登場した「砂の器」(1974)。名作、傑作と言われているこの映画…実は僕は決してキライではない映画だが、これを「完璧な大傑作」とまで言われるといささかシックリ来ない。

 ただし、白状すると僕はこれをテレビでしか見ていない。だから「作品の真価」が分からないのだ…と指摘されるやもしれない。だが、ハッキリ言ってそんな問題じゃないだろう。この映画って別に「これがシネラマだ」(1952)みたいなもんじゃないよね(笑)。

 映画の後半部分は、捜査会議で丹波哲郎刑事がそれまでの経過を延々と語っていくのと、主人公=犯人の加藤剛が自作曲「宿命」をオーケストラ指揮しながら披露しているコンサート会場のカットバック。そこに主人公=犯人の悲しい悲しい過去が日本の四季折々の風景と共に披露される…というなかなか力業の構成。そういうケレン味のある趣向は、実は僕もキライではない。

 だが、どうしても…何度見てもこの映画って、「面白い映画」だし「好きな映画」だし「努力賞」モノではあると思うが、ものすごい「傑作」「名作」かよ…って言うとちょっと「???」なんだよね。だから大きな声では言えなかった。

 では、どこがどう…と問われると困るのだが、僕でもたった一つなら指摘出来る事がある。それは主人公の作曲という設定の、交響曲「宿命」の出来映えだ。

 これは例の映画後半の捜査会議とコンサートと回想のカットバックに、延々とかぶる曲だ。かなり重要で映画の本質的部分に関わる要素だ。単なるBGMではあり得ない。ところで僕は映画を見てムチャクチャに絶賛してる人に問いたいのだが、あの曲っていいと思いますか?

 捜査会議とコンサートのカットバックという馬力のある演出と脚本の趣向、さらに丹波哲郎の大熱演(これが適切かどうか…についても賛否あるだろうが)、そしてお遍路さんが全国津々浦々を歩く美しい映像、それを盛り上げるように感情を揺さぶるような音楽がステレオ音響で流れる…。これだけの要素を揃えれば、「イイに決まっているでしょう?」…たぶん作り手たちはそう言いたいのだろうが、それはあくまで素材の積み重ねでしかない。それだけでイイ映画が出来れば苦労はないのだ。

 ウォーレン・ベイティとダスティン・ホフマンがコンビを組んで、そこにイザベル・アジャーニという豪華キャスト。しかもベイティとホフマンは歌って踊るから楽しそう。カメラは名手ヴィットリオ・ストラーロで監督はコメディの才女エレイン・メイ…だけど「イシュタール」(1987)の出来映えはクソだった(笑)。だからいくら要素が揃ったところで、それは映画の出来映えとは直接一致しない。

 しかも…あの音楽、ちょっとセンチメンタルすぎやしないか? 感情込めてるのは分かるけど、どうしたって僕にはあそこから安っぽい感傷しか聞こえて来ない。扱われているテーマの深刻さに比べて、あんな単純かつ露骨な感情の発露というアプローチでいいのか? これって「皇帝ペンギン」(2005)じゃねえんだぞ(笑)。ま、実は「皇帝ペンギン」の声優による親子ペンギンの声のダビングっちゅうのもちょっと…(汗)。

 しかも、それは単なる映画のBGMではない。もはや「宿命」という映画のコンセプトにまで及んでいる要素だろう。ならば、曲の出来映えは致命的ではないか。“宿命だぁぁ〜悲しいぃ〜〜泣けぇぇぇ〜〜っ”と目一杯言ってるようなあの曲調の饒舌さ。溝口健二「山椒太夫」(1954)の、あの悲しみ突き抜けちゃって涙も枯れるドライさとは言わずとも、いくら通俗作とは言えもうちょっとシビアさがあってもいいんじゃないだろうか? あの曲はイイし好きだ…と言われればそれまで。だが、本当に問いたい。アレって本当にあれでいいと思う? それともあの曲ってステレオで聞くと、素晴らしく良く聞こえてくるのだろうか? ウソだろ(笑)。

 どうも邦画って、こういう致命的なセンスの悪さが多すぎる気がする。

 繰り返して言うが、僕はこれを「駄作」だと言ってるんじゃない。僕だって見るたびに楽しんではいる。面白い映画だとは思う。だからこの映画が「好きだ」というのは、よく分かる。

 だが「名作」「大傑作」とブチ挙げるのは、少々むやみやたらに持ち上げ過ぎちゃいないか?…と言っているのだ。だってそれって当然指摘されなきゃいけない要素のはずだからね。実は初公開時には、それほどの評価ではなかったはずだ。やっぱり努力は買うしそれなりに良く出来てはいるが、「圧倒的傑作」ではない…という評価だったと記憶している。ところがいつの間にやら、全く批判出来ないこの雰囲気。オレは違和感あるんだよねぇ。

 古い映画ばかり並べてもフェアじゃない、近年の分かりやすい例としてSABU監督の「MONDAY」(1999)を挙げたいが、これについてはすでにドライアイスは溶けたか?/「五条霊戦記」と過渡期の日本映画たち、または洋画偏愛者の付け焼き刃邦画日誌という文章で思いっ切り文句を言ったから、改めて語りたくもない。他の比較的新しい映画については、この後でポツポツ触れていく事にしよう。

 ともかく、邦画にはこうした問題が常につきまとっていた。しかも邦画の「娯楽大作」には怖いところがある。大作だと、なぜか元々邦画につきまとうセンスのなさが思い切り拡大されて出てくるような気がしちゃうんだよね。

 さらに、かつては日本映画の作り手・受け手双方に、悪しき「精神主義」が蔓延していた事もイヤだった。「気合い」や「努力」や「根性」や「思い入れ」がフィルムに写ると錯覚しているかのような発言が、この双方からまことしやかに伝え聞かれてくるから信じられない。今でこそこの手の発言は影を潜めたが、ちょっと前までそういう事を平気で言う監督や批評家、ファンはゴマンといた。「情念を撮りたい」「気迫が写ってる」…ったく、念写とか心霊写真じゃねえんだって(笑)。フィルムだろうとデジタルハイビジョンだろうと、レンズの前にあるもの以外は基本的に写らないのが「映画」なの! 唯一の例外はCGだが…CGなら「情念」込められるってもんじゃあないだろう。いくらカメラのこっち側で作り手が力んだって、何も画面には出てこない。出るのはせいぜいウンコだけ(笑)。

 そういう「精神主義」がもたらすのは、脚本や演出、編集の詰めの甘さって事になるんだろうか。ここは思い入れタップリの長描写…とか言って、刻一刻を争う緊迫したシチュエーションのはずなのに、主人公が思い入れたっぷりな深刻ポーズで「ゆるせねええ〜〜」みたいな無意味なセリフを吠えまくったりする。あるいは女とベタベタメソメソしたりする。何をやってるんだオメエらは。

 さすがに昨今の日本映画はそんな事はない…と思いきや、どうも「踊る大捜査線」の劇場版二作(1998、2003)あたりをチラチラ見てみると、まだまだそんな気配が漂っているではないか。全然体質が改善出来てないよ。

 そんな訳で…どこか勘違いしたり変な思いこみをしたり、平気で甘えを作品に押し出している作り手に対して、「邦画ファン」側は贔屓の引き倒しをしてみたり過剰に叩いたり。「邦画ファン」以外の映画ファンはと言えばまるっきり無視か、冷たく毛嫌いするという態度。これは僕も含めてだが…どちらにせよバランスを欠いた態度ではある。

 そのへんの日本映画…とりわけ娯楽大作を取り巻く環境と映画ファン的態度というものの歪みには、何となく欧米礼賛と出たとこ勝負の文明開化に始まり、その欧米仲間入りの夢破れてのブチギレ「大東亜共栄圏」志向と、悪しき精神主義や集団ヒステリーによる戦争の災厄を挟んで、いきなり付け焼き刃の民主主義とアメリカ至上主義を植え付けられ、高度成長時代からバブルとその没落までを経て、増長と意気消沈を繰り返しながらウブなくせに唯物論者ぶったり刹那主義を標榜したりニヒリズムに浸ったりしてきた…日本社会の歪みそのものが投影されている気もする。

 その「歪み」ってのはアメリカに強姦さながらに開国させられたってのを発端に、その屈辱から日本が「自分たちはカビ臭い東洋人ではない」ってフリをするようになったところから始まっているはずだ。それってつまりは、イマドキまたぞろモメている中国や韓国との付き合い方のマズさやら、アメリカとの愛憎相半ばする関係にダイレクトにつながっている。ご丁寧にアメリカの洗礼が敗戦でもう一回繰り返された事もあって、いまだに日本はこの時のトラウマを引きずってここまで来ているのだ。そうなると、実は本当に本当の発端は「鎖国」だという事にもなるのだが…。

 そして映画というメディアには、好むと好まざるとに関わらず、どうしたって彼方にハリウッド=アメリカがチラつく性質がある。しかも芸術や文化芸能、伝統工芸品的な一面を持ちながらも、科学技術に大きく依存する「新しい」表現形式だ。だから映画を愛好したり映画を生業とする「日本人」とは、どうしたって日本人が本来持っているトラウマを、極端に拡大したカタチで抱えざるを得ない存在になってしまう。こうして日本と日本人が元々持っている変な「しこり」「ゆがみ」「ひずみ」みたいなものが、映画との対峙の仕方にすごく分かりやすいカタチで表出してしまう気がするのだ。

 日本映画とは、日本社会の「鏡」として存在している。

 日本の映画と映画を取り巻く環境、映画ファンの在り方は、明らかに日本という国とその国民の「いま」を象徴している。この僕も、もちろんその例外ではない。

 そしてそんな「日本の映画ファン」の姿は、残念ながら決してホメられたものではない。実は、僕はずっと前からそう思っていたんだよね。このあたりの事について、僕は以前からかなり確信を持っているのだ。

 

僕が日本映画の娯楽大作を見る時の「立ち位置」とは?

 さて…もうここまでで、すでにこの話題にはあちこちから非難ごうごうの予感(笑)。まぁ、邦画と香港映画は映画ファンの二大鬼門だからねぇ。マトモに語るとロクな目に遭わない(笑)。でも、本当に僕はそう思ってるんだから仕方がない。実際「邦画ファン」だって内心そう思ってるんじゃないだろうか? そう思ってるはず…と勝手に決めつけたところでさらに次に進もう(笑)。

 ともかくそんな具合に…毀誉褒貶にさらされる可能性が高く、なおかつ作品そのものが墓穴を掘る可能性が高い日本映画の娯楽大作ではあるが、それでも日本映画の世界が豊かになるためには絶対に必要だと僕は思う。

 一般大衆に支持されない映画なんて…「映画」じゃない

 岩波ホールでやるような映画の価値を疑うつもりはさらさらないが、あっちが「映画の本筋」「映画の王道」だなんて言おうもんなら、そりゃその場で一瞬のためらいもなく「ノー!」と却下しよう。岩波ホールの主宰者やシンパが何を寝言言おうとも、彼らは映画ってものが分かってない。映画は大衆に愛されなければいけないのだ。だから映画の王道とは岩波ホールではなく「宇宙戦争」と「スター・ウォーズ/エピソード3」にある。間違いない。世界の映画が岩波ホールでやるような映画ばっかりになったら、映画なんて滅亡してしまうよ。

 昨今は、日本の映画が何かと話題になるしヒット作もある。それは前述したように若い人たちの意識に変化が出てきたのだろうが、明らかにそれだけではない。質的にも確実に変わりつつあるんだろうと思う。「昔から邦画は良かったんだ」と言われれば「その通り!」と答える僕だが、実は腹の中で「ウソつけ!」と思ってる(笑)。第一、人に言わせれば「邦画を分かってない」僕でも、新作を劇場で見ているくらいだからね(笑)。

 それでも…いつまで経っても浅野忠信が主演するような映画みたいなのばっかりでは、映画として健全な状態とは到底言えないだろう(笑)。やっぱり娯楽映画…娯楽大作あってこそ映画は栄えるのだ。

 そこでようやく冒頭のテーマに戻るわけだ。つまり、「日本映画の娯楽大作に対する、僕の立ち位置」という問題だ。

 僕は基本的に、今まで娯楽映画もアート・フィルムも「同列」で見ようと提案してきた。

 あるいは大型予算のハリウッド映画と発展途上国の低予算映画、マーケティングされた作品と作家映画、往年の名作とバリバリの新作を、すべて同じ「面白さ」という視点で見ようと提案してきたはずだ。だが、実は正直に言うと、それらはすべてイーブンな状態で見ている訳ではない

 まして人に向かってそれらの映画を語る時には、それぞれ何がしかのバイアスをかけている。世の中には分からず屋が多いからねぇ。

 例えばハリウッドの高額予算の娯楽大作は、それだけでアート・フィルム好きな連中や自分は「知的」だと思っている連中、「センスがいい」と思っている連中、「個性的」だと思っている連中、生意気にいっぱしの映画ファンづらしたがっている連中…などなどから叩かれる。だからこれを見る時も、あるいは他人に紹介する時にも、そこに「規格品」や「工業製品」みたいな部分「以外」の味を見い出そうとする。作り手ならではのテイストを見つけようとする。あるいはかえって規格品としてつくられたが故の良さ…僕は時にそれを「ハリウッドのウェルメイド映画の伝統」と称しているが…を見い出そうとする。ま、実は仮にそれらが本当に「規格品」や「工業製品」であったとしても、面白いモノは面白いんだけどね(笑)。

 一方、発展途上国の貧寒とした映画には…まずは一般の映画ファンからは黙殺されそうだから、そこに何とかハリウッド大作にも似た面白さを見つけようとする。「これは何となくブライアン・デパーマみたいな脅かしをやろうとしたんだな」とか「こいつはトム・クルーズみたいなスーパースターだな」とか、そういう見方をしていく。

 あるいはアート・フィルムなら、「芸術でございます」…と言わんばかりの見てくれを引っ剥がそうとする。それは一部の偏ったファンやマニアを喜ばせても、普通のファンは敬遠させるだけだ。実はよくよく見ると、作り手だってそれほど変な事を考えてつくってはいない。勝手に回りが変な持ち上げ方をしている場合が大半なのだ。「神の不在」とか言ってるけど、よく見るとホラー映画っぽくないか?…とか、そんな見方をした方が、作者の意図に近づけたりするのだ。ハッキリ言ってこの手の映画のファンは、理屈を並べる割にはピントがボケてる事が多い(笑)。

 だから僕はその映画の属性に合わせて、実はちょっとづつ見方を変えている。語り口も変えている。決してすべてを「同じよう」には見ていない。たぶん映画を楽しみたいと思っている人なら、誰だってそうだと思うんだよね。

 では、日本映画における娯楽大作に対して、僕がとるべき…あるいはとってきた「立ち位置」は何なのか?

 まずは、「見ていて恥ずかしくないかどうか」で評価する。

 実際日本映画ってのは変な「清貧主義」で、“金がなくたって”“金さえあれば出来た”…という言い訳をスクリーンと観客にモロに見せちゃったりする。そんなモノは観客の知った事ではない。高さ80メートルの津波が出てくるシーンでは、ちゃんと津波を出さねばプロとして負けなのだ。そこに「ホントは津波のつもりなんですよ」と言い訳をグチグチ出されても困る。もし何かで代用するなら、納得いく代用の仕方をしろ。ところが今まではこれを平気で工夫もなしに出していたんだよね。つまりは…やっぱりまたしても出てくる日本人のキーワード「甘え」だ。

 むろん出来る事と出来ない事があるのは分かっている。出来る事の範疇で映画をつくってたら、サッパリ広がりのない映画になるのも承知の上。でも、そこを限界ギリギリ一杯見せていくのがプロだろう。言い訳なし、待ったなしだ。

 これって実は金の問題、社会構造の問題とは言い切れないのが大半なのだ。例えば特撮のミニチュアだったら、スタジオ内のライトではなく自然光で照らしてみる事で、リアリティの度合いがまるで違ってくる。別に金をかける必要はない。つまり知恵とセンスなのだ。これの出し惜しみが今まであまりに多すぎた。

 脚本などでも同じ事が言える。あまり常識のない言動、リアリティのない設定を盛り込まれたら、見ている側がいたたまれなくなる。作り手のみなさんには、普通に社会に生活している人間の常識を身につけていただきたい。それを実践しろとは言わないから、どういうものが世間のマトモな感覚かを知って欲しい。どうも日本映画の作り手の人々は、政治家が永田町の常識でモノを言うのと同じように、映画ギョーカイのおかしな感覚で映画をつくり過ぎていたんじゃないだろうか。これは別に主婦感覚やサラリーマン感覚で映画をつくれ…などとつまらない事を言ってるんじゃない。例えば時限爆弾があと30秒で爆発して半径60キロの範囲が壊滅しようとしている時に、ヒーローが撃ち殺された女の身体を抱きしめて、カメラがぐるんぐるん回る中を思い入れたっぷりに10秒も嗚咽するような事はやめろ…と言っているのだ(笑)。分かっていただけただろうか?

 さて、ここまでの事情や僕の言い分については、実はすでに過去のこのサイトの特集邦画に夢中!/洋画ファンに捧げる日本映画入門におけるある舶来映画愛好家の懺悔録、また邦画に夢中!2/続・洋画ファンに捧げる日本映画入門におけるドライアイスは溶けたか?/「五条霊戦記」と過渡期の日本映画たち、または洋画偏愛者の付け焼き刃邦画日誌も併せて読んでいただければありがたい。だが僕が日本映画の娯楽大作を見る上での「立ち位置」には、実はもう一点、最も重要なモノサシがあるのだ。

 それは、「日本映画である必然性」で評価すること。

 つまりは日本映画らしさだ。それってまたまた安易に、センチメンタリズムだったり思い入れだったりと誤解される事が多いけど…確かに多少の湿り気は「日本映画らしさ」のうちに入るだろうが、僕が言っている意味とはちょっと違う。

 例えば韓国映画が今みたいに「韓流」なんて言われて、神父がイケイケ女と結婚する話とかがバンバン入ってくるようになる前のこと…まるで一部の愛好家の間でのみ見られていた韓国映画が、シュリ(1999)以降は日本の映画市場でアメリカ映画なみの市民権を得たあの頃のことを思い出していただきたい。確かに大アクションが展開する娯楽映画としても秀逸だったが、そこに南北問題という韓国ならではのテーマがどんと置かれているのが重みになっていた。この「シュリ」の監督カン・ジェギュの次作ブラザーフッド(2003)も朝鮮戦争を題材にした作品だ。

 こうした彼らにとって現実的かつアップトゥデートな題材を、「問題作」としてではなく「娯楽大作」として取りあげていく手つきが、当時の韓国映画のダイナミックさだったんだよね。

 いや、何も「日本映画である必然性」について、そんな政治的テーマを扱えと言っている訳ではない。例えば同じ韓国映画で言えば、いわゆる「娯楽大作」ではないが猟奇的な彼女(2001)がそうだ。あの映画の面白さのある側面は、韓国の人々…特に女性が長らく儒教的思想に抑えつけられて来た事抜きには語れないのではないか。だからハリウッドだって、実は安易にリメイクなんかしちゃダメなはずだ。あれをあのまんまアメリカ映画にしても、全く面白くないのは言うまでもない。

 ともかく一気に発展を遂げて世界のトップレベルに躍り出た韓国映画は、語り口や見た目をハリウッド・レベルに近づけるべく洗練させながらも、根っこの部分で韓国ならではのアイデンティティーを売り物にした。そこが売り物だったし…「娯楽大作」をハリウッドでなく、あくまで自国でつくる必然性でもあったのだ。このあたりの事情については、僕はF私撰・韓国映画の20本の中で繰り返し語っているので、こちらもご一読いただきたい。

 逆に、最近モテはやされてる「韓流」もとい韓国映画に、イマイチ僕がノレないのも同じ理由だ。それなら別に韓国映画じゃなくてもイイ…って映画が、あまりに多すぎる。しかも「韓流」ファンのみなさんが「韓国映画なら何でもいい」とばかりに、ミソもクソも出来に関係なくチヤホヤするのはいかがなものか。僕も韓国映画は好きだったし今でも好きだけど、そんな映画の見方はしたことがないよ。

 何だかそれって土井たか子率いるかつての日本社会党が、能力があろうとなかろうと女なら誰でもイイと言わんばかりに女性候補ばかり乱立させて選挙した時みたいで、どうにも胡散臭い感じがする。それってむしろ女性候補や女性の有権者を、バカにした振る舞いだったと思えないだろうか? そのうち「韓流」もとい韓国映画も、今の社会党もとい社民党みたいに閑古鳥が鳴くお寒いテイタラクにならねばよいのだが…僕は何となくイヤな予感がするんだよね。

 閑話休題。よく日本映画の大作について「所詮はハリウッドに敵わない」…と文句つけてるムキがあるが、そんなもん当たり前なんである。ハリウッド映画は一体どれくらいの観客動員を前提に制作されていると思っているのか。マーケットが最初からまるで違う。長年のノウハウもある。出来る事だって違うのだ。

 この場合、取るべき方法は三つ

 最初から金と技術の面でムチャな事は無理してやらない。これも実は勇気ある賢い選択だ。どうせやってもみっともなくなるに決まってる事はやらない…という選択は確かにある。松竹のスタジオが人工雨を降らせる技術に劣っていると知っていた小津安二郎は、自作にめったに雨を降らせる場面をつくらなかった。数少ない例外は、小津が大映に出向いて撮った「浮草」(1959)だ。つまりは「やらない」という事もまた、一つの見識というものなのだ。

 二つ目は、先にも述べたようにセンスと知恵で乗り切る方法だ。これも大いにあり得る。金だけの問題ではない。考えれば何かやれる方法は見つかるはずだ。その工夫や試行錯誤が、金で解決するよりもっと映画を豊かにするに違いない。これは、ぜひやっていただきたい。

 三つ目は、ハリウッド・レベルにやれるかやれないかではなく…「日本人がやるべき映画なのかどうか」で判断する。隕石から地球を救う映画を、国連で常任理事国にもなっていない日本が撮る必然性はないだろう(笑)。まぁ、そんなもんになろうとした外務省も税金ドロボウのバカ役人だが…ともかく、それって大事な事だろう。日の丸スペースシャトルが世界を救う話なんて、リアリティだって全然ないだろうし。

 逆に制作費的に技術的に多少見劣りはしても、「日本ならでは」の題材であるなら程度問題で許せると思うのだ。だって、それは日本以外ではつくられる訳がないのだから。そういう映画こそをみんな見たいのではないか。

 だから、特にこの三つ目が最も大事なのだ。ハリウッド映画みたいじゃないと怒るのが間違ってる。「ダイ・ハード」(1988)ほどスゴくなかったなんて、冗談も休み休み言っていただきたい。完璧なハリウッド映画は、ハリウッドがやればいい。ハリウッドがつくるのが一番うまいんだから。僕だってそんなのハリウッド映画で見たいよ。完全に「ダイ・ハード」みたいな日本映画なんて、そんなシロモノが本気で見たいのか? それならオレは「ダイ・ハード」そのものの方が見たい。仮にハリウッド風に見えてはいても、どこかハリウッドとは違うのが日本映画だろう。つまり、日本映画はハリウッド映画になるな…と言いたいのだ。

 日本映画は、ハリウッド映画と浅野忠信映画ではない方向で勝負すべきだ(笑)。ここでついでに言わせてもらえれば、浅野忠信映画みたいのはヨーロッパやアジア全域で掃いて捨てるほどつくられていて、映画祭などではモテはやされるだろうがハッキリ言って有難みなんて全然ない。日本映画である必然性も、実は意外に乏しいかもしれないのだ。世界中どこへ行ったところで、アートシアター映画なんて同じようなモノだ。

 ま、それはともかく…どこの国の映画でも娯楽大作映画がどこかハリウッド映画に近づいてくるのは、常に王道をゆくハリウッド映画の性質を考えると宿命的な事だ。だからこそ、ハリウッド=アメリカ以外の国が娯楽大作をつくる時には、その国の映画である必然性=アイデンティティーが必要となる。でなければ、それがハリウッド映画だって別に構わないって事になってしまう。そして単に娯楽大作映画をつくるなら、ハリウッド映画が一番うまいに決まっている。ハリウッドに出来ない非・ハリウッド映画ならではの要素があってこそ、ハリウッド以外でつくられる娯楽大作は「成功」と言えるのだ。

 僕がつい数年前の日本映画の娯楽大作ホワイトアウト(2000)を、何だかんだ言いながらも一刀両断に切って捨てなかったのは、それが理由だ。「何であんな映画を」…と思われた向きも多いだろう。それは分からぬでもない。ケチをつければキリがない。特に主役二人の魅力のなさと来たら…ちょっと困っちゃうところもある。だが娯楽大作をつくる上で、日本人なら誰でもお馴染み…水力発電用のダムを中心に据えたコンセプトだけは、日本の娯楽大作として正解。日本でスペクタクル・アクションをもし作るならば…という、一つの明確な回答になっていた。悪役の佐藤浩市もイイ味出してたし、ボリューム感もあった。ヘンにメソメソグジュグジュしてかなりクドかったものの、それでも僕としてはそれなりに評価すべき…と思えた訳だ。ベタホメなど出来ようはずもないボロボロな点が目立つ映画だが、それでも「その一点」だけは評価はしたい。僕がさんざケチつけながらもこの映画を蹴飛ばしたり黙殺したりしなかった理由は、そんなとこにあった訳だ。

 ここだけの話、僕は最低限…先に挙げた要素さえ満たしてくれれば、日本映画の娯楽大作は大いに応援したいと思っているのだ。決して「大本営発表」ではなく、そういう暖かい目で見たいと思っている。出来ればイイ面にまず目を向けたいと思っている。これは正直な気持ちだ。

 例えば…この「亡国のイージス」とワンセットで語られるに違いない、同じ福井晴敏原作のローレライ(2005)を引き合いに出してみようか。

 あの映画については、それこそこの文章の冒頭から語って来たような状況がピッタリ当てはまる。ホメる人は血管切れそうなほどホメちぎり、ケナしは口からツバ飛ばしながら親の仇のようにケナしまくる。ケナしの要素は次のようなものだ。ヒットしたから、金がかかってるから、CGがチャチだから、ハリウッド大作に匹敵しないから、一応戦争物なのにSF趣向と女が出てくるから、妙にセンチで浪花節だから、原作を短縮し過ぎているから…大体こんなところだろうか? そしてこの手の映画にミリタリズム礼賛と反対双方からの批判が殺到するのは、お約束とも言えるいつもの事だ。ただどっち側からも批判が来る…というあたりが、僕には何とも理解し難いところなのだが(笑)。あと訳の分からない言いがかりみたいなイチャモンもあるけど…いくら読んでも何が言いたいのかサッパリ分からないので、一応それらは僕の中ではヒット映画と金のかかった映画への嫌悪感に分類させてもらった(笑)。

 で、僕はこれらのケナしについては、ヒット映画と金のかかった映画という要素、そしてミリタリズムに絡んだ政治的意見以外はすべて賛成だ。おっしゃる通り。批判はすべてごもっとも。だが、それでも僕としてはこの映画を肯定する。皇帝ペンギン(笑)。

 まず、敗戦の色濃い日本の戦争秘話モノというのがいいではないか。日本映画である必然性だ。荒唐無稽とも言えるSF風味と女が出てくるくだりは、意見の分かれるところかもしれないが僕は肯定的に受け取った。発想の面白さを買ったのだ。すくなくとも、かつての日本の戦争映画などから断ち切られた「新しさ」は出よう。しかもナチの潜水艦というのが「なさそでありそ」な感じを醸し出してもいる。これもナチスドイツの同盟国である「地の利」(笑)を活かした「日本映画らしさ」だ。

 一方で、軍国主義やら歪んだ歴史観とも距離をとったバランス感覚もある。一旦すべてを現代からの「回想」というウツワの中に入れたセンスも買いたい。CGのチャチさはどう弁護しても目立つが、恥ずかしい…まではいってないからここは我慢のしどころか。センチな部分や浪花節は日本映画としては付き物だろうし、戦記物ならなおさら。しかも役所広司と妻夫木聡、さらに紅一点の香椎由宇の、良くも悪くも思いっ切り体温の下がった芝居(笑)が功を奏してか、うまいこと血圧が上がるようなモノにはならなかった。原作は最初っから読んでいないんだから比較のしようがないし、比較するつもりもない。おまけに分かりにくくもなかったから文句を付ける筋合いもない。

 何より平成「ガメラ」三部作(1995〜1999)以降、樋口真嗣監督が見せてきた「新しい日本映画の在り方」というものの延長線上にある。その方向性には僕も大いに賛同したいと思っている。

 だから、僕としてはこの映画は日本映画の娯楽大作として「是」だ。

 ただし例のCGの稚拙さや脚本などに問題は残した。だから「大傑作」と言うのはいささか聞いていて照れくさい。実は「頑張ってるな」がいいとこなのだ。だから、どちらかと言えば賛辞も抑えめにしていただきたい…というのが僕の本音だ。どうだろう、これで僕のスタンスがお分かりいただけただろうか。

 ふ〜〜〜。

 これで、ようやく本作を見る前提まで語り終えた。これからようやく本題に入れる訳だ。何で日本映画ってこんなに面倒くさいんだろうねぇ…ブツブツ。

 

つづく

 

 

 

 

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