「ヒトラー/最期の12日間」

  Der Untergang (Downfall)

 (2005/08/22)


 

見る前の予想

 ドイツが「絶対のタブー」ヒトラーを真っ正面に描いた映画をつくる。そんなニュースを聞いて、ドイツもそこまで来たのか…と思いつつ、今の今までそんな映画が存在してなかったのか…と改めて驚かされもした。

 何かと周辺国との間で、戦後処理問題で揉めているこの夏の日本。我々としては、ここでかつての「同盟国」の言い分に注目せざるを得ないではないか。心の底では反省もしていないのにひたすら頭を低くしてへりくだっているか、あるいは悪いことにも目をつぶって開き直ってふんぞり返るか…この二つしか道がないと思い込んでいるような日本人に、ドイツ人は何か新たな指針を示してくれるのか。

 そんな堅い話は抜きにしても、単純にブルーノ・ガンツのヒトラーぶりは一見に値するはずだ。

 

あらすじ

 1942年、ナチス・ドイツの司令本部「狼の巣」に、うら若い女性たち数人が連れてこられる。彼女たちはみなヒトラーの新しい個人秘書候補。緊張の極の彼女たちの前に現れたのは、意外にも気さくなアドルフ・ヒトラーその人(ブルーノ・ガンツ)だ。「いちいち“ハイル!”は言わんでいいよ」

 彼女たちのうち、選ばれたのはトラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)。彼女の家族も知人ともナチと深い関わりを持つ事に反対したが、そこはそれ若気の至り。彼女は「総統」の側に身を置くことになった光栄に、自らの興奮を隠せなかった。

 それから2年半の1945年4月…戦況は一変。ここベルリンの総統官邸の地下に築かれた秘密要塞にも、迫り来るソ連軍の砲火は確実に響いて来ていた。しかもこれは空襲ではない。至近距離からの砲撃だ。

 そんな地下要塞に、ヒトラーらと共に秘書ユンゲも籠もっていた。明らかに「最期の日」が迫っている。地下要塞に詰めるナチ幹部たちにも、それは現実として捕らえられ始めていた。ヒムラー警察長官はじめ側近たちは、ヒトラーに避難を注進するが、ヒトラーは耳を貸そうとしない。それどころか、彼はいまだに盛り返せると信じていたのだ。もはやどこにも存在しない部隊の投入、もはや戦力を失っている部隊の反撃、もはや武器弾薬のみならず戦意も喪失した部隊の抵抗…をマジメに作戦会議で熱弁するヒトラーは、もはや妄想の中で戦っているのに等しかった。だがドイツ軍幹部や側近たちは、誰もヒトラーにその事を進言出来ずにいた。そして為す術もなく、地上では無駄に命が奪われていた。しまいには、子供までが兵士として駆り出されて戦う始末だ。

 ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウン(ユリアーネ・ケーラー)の義弟ヘルマン(トーマス・クレッチマン)も、そんな八方塞がりの状況に嫌気が差している一人。彼はこのコッケイな状況を冷ややかに眺めつつ、何とか生き延びねば…と考えを巡らせていた。他にも忠臣のはずのヒムラーは連合軍との講和を画策し始めるなど、もはや政権内部のタガはガタガタにはずれかかっていた。だが、結局誰もネコに鈴を付けられずにズルズルと時が過ぎていく。

 そんな気もそぞろの「側近」どもの不実さに、まだ若いユンゲは憤慨するばかり。「何よみんなビクビクして。あれでは総統がお可哀相だわ。私は最期まで運命を共にする!」

 だがヒトラーの精神状態は、この危機的状況に不安定を極める。もうダメだ…と覚悟しきった表情を見せるかと思えば、オマエらが足を引っ張るからだ…とムチャな作戦を立てたあげく側近を激しく叱責、さらにはシュペーア軍需大臣(ハイノ・フェルヒ)に改造計画が実現した際のベルリンのジオラマを披露しながら、得々とその構想について語ったりもした。「今行われているベルリンへの攻撃は好都合だ。…焼け野原になれば、新たな都市を構築しやすいからな

 おまけにヒトラーの傍らにはナチ思想に心酔しきった狂信者の宣伝大臣ゲッベルス(ウルリッヒ・マテス)がいて、ヒトラーに冷静な判断を促す声や危機感からの進言を蹴散らかす。これではマトモな判断が下るはずがない。

 そんな混乱かつ沈滞したムードを打開したかったのか、エヴァ・ブラウンは地下大広間でパーティーを主催。みんなで半ばヤケクソ気味に歌ったり踊ったりもした。異常にハイテンションな躁状態の宴。だがそれもソ連軍の砲撃によって直撃され、意気消沈して終わるしかない

 やがて、戦局はどうあがいても好転しない事がハッキリしてくる。ヒトラーはここベルリンから退却せず、自害する道を選んだ。そこで長年の愛人エヴァと結婚をして、「その時」を待つ事にする。ゲッベルスも夫人(コリンナ・ハルフォーフ)や子供たちと運命を共にする決心をしていた。「その時」を前にして、沈痛な空気が流れる地下要塞…。

 だが一方、一般の人々は遙かに過酷な状況に置かれていた。病院から軍医が引き揚げたり、膨大な数の負傷者や避難民が防空壕に押し寄せたり、武器も経験もなしの市民軍が無駄な抵抗を強いられたり、戦闘に参加しない市民をSSの連中が殺害したり…まさにこの世の地獄が展開していたのだ

 

見た後での感想

 各自キャラ立ちまくりのナチ幹部たちが織りなすドラマは、どこか岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」(1967)を思わせて緊張感が溢れる。こう言っちゃ何だが、見ていて妙に胸騒ぎがするのも事実だ。

 それにしても、ヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ」(1979)、アラン・タネールの「白い街で」(1983)、ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」(1987)…などの好演で知られるブルーノ・ガンツをヒトラーに起用するとは、何度考えても素晴らしいアイディアだとしか言えない。確かに盲点だった。今まで考えてもみなかった。でもヒトラーに扮したガンツを見たら、文句の付けようのない化けっぷりだ。本当のヒトラーは知らないが、僕らの脳裏に浮かぶヒトラー像は完璧に演じきっている。それでいて、今まで描かれて来なかったヒトラーの「普通の人」ぶり…礼儀正しく、弱さも含めた人間味ある人物像は、今までのガンツの培ってきた「味わい」がモノを言う。確かにここでは、マンガの悪役みたいに分かりやすい「ヒトラー=悪」的キャラクターは描かれていない。それが確実に、この映画の厚みとなっているのだ。

 むろん「ヒトラーを美化している」という批判は出るだろう。だが、笑っちゃうほど悪役に仕立てる今までのやり方では、ヒトラーの本当の「悪」は描けまい。絵に描いたような怪物や悪魔が「悪」なら何も困る事はないし驚くに当たらない。問題は「普通の人」が悪になるから怖いのだ。

 そういう意味では実はスピルバーグの「シンドラーのリスト」(1993)も、同様に主人公の人物像を厚みのある視点で描くべきだったのだ。だがスピルバーグは、シンドラーを単純に「善の実践者」としか描かなかった。それでは、あのシンドラーという人物の「底知れなさ」は描けない。 あんな状況下でありながら、本来は唯物論者で快楽主義者でしかないシンドラーという男が、とんでもない「善行」を行おうとした訳の分からないスゴさを描かなければ本当は意味がない。そんな意味でも、ここでのヒトラー像の描き方は決して間違ってはいないと思う。

 そして2時間半を超えるこの大作では、「主役」ヒトラーが自殺を遂げて退場した後も30分以上物語が続くのだ。これは意外だった。

 だが、それもこれも…ナチスの悪が、従来のようなたった一人の「悪魔的な男」による企み…なんてものではないという事を描きたいがためだろう。だからヒトラーをコッケイなまでに悪党にしたり、マンガのように悪魔として描いたりせず、あくまで「普通の人」として描いた。そしてヒトラー「後」も描く事で、それがたった一人の「悪」のせいではなかった…と語っているのだ。ヒトラーを中心とした「集団妄想」、「集団発狂」、「集団自己陶酔」、「集団傲慢」の一種の雪崩現象だったと見せつける。

 それと、暴走しちゃってからの「組織」というモノの歯止めの利かなさ…というものも、情け容赦なく描かれる。

 ヒトラーが「普通の人」であり、そのヒトラーさえいなくなっても状況は変わらないなら、「それ」は誰にだって起こり得る。そして、それをさらに雪だるま的に助長するのは、集団になって歯止めが利かなくなった「組織」なのだ。

 今回の作品の監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルは、人々を「囚人」側と「看守」側に分けての集団心理実験を描いた「es」(2001)で名を挙げた人。正直言って凄まじく後味が悪そうなこの映画、僕はさすがにビビッて見るのをやめたのだが、ヒルシュビーゲルという人はやっぱり「ホンモノ」だったようだ。しかも限られた「密室環境」における精神の極限状況を描くという点では、今回の映画とかなり通じるモノがある。まさに適任者だったと言えるだろう。

 ただ…正直言って「第三帝国」の滅亡を前にした人々を描いて、彼らの悲痛さをリアリティを持って描き出してが故に、妙にナチ中枢の人々が「悲劇の人物」のように見えてくる。確かに“「普通の人」が悪になるから怖い”…を描くためには正しいやり方だったとは言え、何となく「好感が持てる人」に見えてしまうというのは、いささか困惑せざるを得ないのも事実だ。このあたりは難しいところだろう。

 「厚み」のある演技のブルーノ・ガンツは名演だし、ヒトラーを「毎度お馴染み」のパロディやアイコンとして描かなかったのは正しいとしても…それでもヒトラー像は、やっぱり「分かったような分からないような」モノとしか描けなかった。これも矛盾に満ちた人物像としては仕方がなかったのだろう。ヒトラーという人物そのものが、まさにそういうキャラクターだったんだろうね。

 そして何と言っても長丁場で、なおかつ「実話」でもあるために、どうしても多少単調にならざるを得ない。ヒトラーが画面を退場してからが長い…という事もマイナスなのかもしれない。やっぱり見ていて途中で少々ダレてしまう。これも致し方ないのかもしれない。

 それでも、この映画はよくやっている。力があるし面白い。よく頑張っているが…だがどうしたって「努力賞」からは抜け出せない映画だ。たぶんつくる前からそれは分かっていたのかもしれない。でも「これをやった」という事の意義は、他の何物にも代え難い。僕にはとてもじゃないが、「こうすれば」良かったとは口が裂けても言えないね。

 

見た後の付け足し

 注目すべきは、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウン役。ここに点子ちゃんとアントン(2000)の点子ちゃんのお母さん役を演じたユリアーネ・ケーラーを配したのも、見事なキャスティングだ。ある意味で「ドラゴン/ブルース・リー物語」(1993)でリンダ夫人役を演じたローレン・ホリーと双璧なほど、僕らの脳裏に刻み込まれた「彼女」のイメージをそのまま再現したような名演ぶりだ。これは意表を突かれたね。

 

 

 

 

 

 

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