「アルフィー」

 (ジュード・ロウ主演)

  Alfie

  プライベート・エディション

 (2005/08/01)


 

 

純粋に映画のことだけ読みたいと思う方は「こちら」へどうぞ。

 

このプライベート・エディションを読みたい方は、途中に出てくる画像のリンク先へ順番に進んで、「ベーシック・エディション」とパラレルに読んでいってください。

 

出来ればミック・ジャガー&デイブ・スチュワートの「オールド・ハビッツ・ダイ・ハード」(「アルフィー」サウンドトラックCD収録)を聞きながらお読みください。

 

 

 

 今年の夏も去年のように暑い。もう早くも1年だ。

 実は何を隠そう…この1年間は自分が宙ぶらりんになっているような、宙づりになっているような、自分が何者でもないかのような1年だった。

 いや、ひょっとしたら…それはここ最近始まった事でもないのかもしれない。

 でも、そんな事は誰にも言えない。

 そんな事は他人に言える訳もない。大体がイイ歳をして自慢できるような事じゃない。だから誰にも言えずに悶々としている他なかった。

 だが、ありがたい事に…神様! それももうすぐ終わるはずだ。

 この映画「アルフィー」と出逢ったのは、そんなある日の事だった。

 

 

 

 彼女から別れ話が出た時、僕はさすがに狼狽してしまった。

 あれからかなり経った今でも、あの時のことはまるで昨日のことのように思い出す。その何ヶ月も前から兆しはあった。というより、とても不安定で宙ぶらりんな状態がずっと続いていたのだ。それでも揺れ動く心の中で、僕はまだなんとかなるんだと思い込もうとしていた。往生際が悪いと言わば言え。それまでの決して短いとは言えない月日の中で、培ったものは少なくないはずだ。 僕はそう自分に言い聞かせていた。

 そこから先は、まるでボブ・フォッシー監督の「オール・ザット・ジャズ」に出てくる、「死に至る5つの段階」まがいの状態だった。もっともこの一文をお読みの方の中には「オール・ザット・ジャズ」を未見の人、あるいは見ていてもピンと来なかった人、忘れてしまった人もいるだろう。この「死に至る5つの段階」とやらは、「オール・ザット・ジャズ」劇中で主人公ジョー・ギデオン(ロイ・シャイダー)が編集中の映画の中に出てくる言葉だ。人間が死を宣告された時、どういう過程を経てそれを受け入れるかという小話が出てくるんだね。まず「拒否」し、次に「激怒」し、さらには神と「取引」しようとする。そこでトコトン「絶望」したあげくに、ようやく死を「受け入れ」ることになるわけ。

 「別れ」という恋愛にとっての「死」を前にして、実は僕もこの「5つの段階」を滑稽なほど見事に経験するハメになった。いや…これは冗談ではない。そこを通過して初めて思ったけれど、この「5つの段階」ってシロモノは実によく出来てる。僕はまさしく寸分違わず、このコースを一つの段階も飛ばさずに辿ったんだよね。

 僕の何がいけなかったのだろう? 僕は必死に自問自答した。そりゃ僕は理想的な相手とは言い難い。だが、それなりにベストは尽くして来たはずだ。

 それと同時に、そんな予感がした…という気持ちもあるにはあった。ある時を境に、僕はすべての問題を先送りにしていた。それはやたらと問題を持ち出してうるさがられるのがイヤだったこともあるし、僕自身それを直視するのが怖かったこともある。そんなこんなのツケが、この時こんなかたちで出てきたのか。

 しかし僕にはいろいろ葛藤はあったものの、それなりに自分では納得してもいた。もちろん未練もあったし残念でもあった。だが何と言っても、相手がどう思っていたかは別として、僕としてはやれることはすべてやったという気持ちもあったんだね。

 そもそも彼女と僕は最初っから何かと隔たりのある関係だった。正直言って、二人の間に横たわる問題は少なくなかったし、それぞれが小さいものでもなかったんだよ。でも、僕は彼女との絆を信じていた。だから、ハンディを少しでもハンディにしないために僕は出来る限り頑張ったつもりだ。それが多少自分に負担になるようなことがあっても。

至福のとき」(2002/12/23)

 

 宙ぶらりんな思いの1年。それは、考えてみれば…それはあの決定的なショックに打ちのめされた2年前に端を発しているのではないか。

 あれがあって以来、僕はまるで負けが込んで…それを必死に取り戻そうと悪あがきをするバクチ打ちのような状態だった。そして注ぎ込めば注ぎ込むほど負けはさらにデカくなり、デカくなればなるほどそれを取り戻そうとデカく賭けた。

 僕は無謀にも、自分の人生まで賭け金にしていた

 

 

 

 突然、何かと物いりになってきたんだよ。それもコンスタントに金が出ていく。最初は例のオメデタい金銭感覚でボーッとしか考えてなかったんだけど、さすがにそれも半年くらい続くとボディブローみたいに効いてくる。あれれ?…このままザルみたいに金使ってったら、俺一体どうなるんだ?…と気付いた時にはもはや手遅れに近かった。

 しかし、そういう事を考え始めるようになると、お金の使い方に優先順位がハッキリしてくるわけ。って言ったって、そんなのみんなやってる事なんだけどね。俺だけ世間的に疎かったってだけのことだよな。

 今までは「お金を使いたいこと」「使いたくないこと」に二分されていた僕の金銭感覚に、新しい要素が加わったわけ。それは「お金を使わねばならないこと」。しかも、これは最優先順位だ。

 すると「使いたいこと」の中に明らかに「使えないこと」が出てきてしまう。あれを買っておきたい、あれが壊れたから修理したい…でも今はガマン、後回しなんてことが山積みになっていく。

 何とかお金の状態を安全圏まで持ってきて、少しづつでもお金を貯めようと思っても、すでに自分は余力なんてない状態になっていた。これはツラい。初めてお金のないツラさが身にしみてきた。毎月毎月月末は綱渡り状態でヒヤヒヤもの。時に綱から落ちてしまうことさえザラだ。もう金と暇のありあまってる奴と一緒になって、飲んだり遊んだりなんて調子こいてる場合ではないのだ。

 ノドから手が出るほどお金が欲しい。

 白状するよ、今とてもお金が欲しいのだ。いや、欲しい…の状況超えてもはや必要だと言っていい。でもそんな俺の気持ちをよそに状況はどんどん後退。地獄の沙汰も金次第、金の切れ目が縁の切れ目。

 誰か助けてぇぇぇ。

 もちろん誰も助けてなんかくれない。どんな人間も状況を好転などさせてくれる訳がない。

シックスティナイン」(2001/01/22)

 

 無茶な賭けを延々続けて…だが、僕にはどうしても止められなかった。これぞこの世の幸せと思った事が、人生最大のスカだったと気づかされただけに。

 この身をノコギリでゆっくり引き裂かれているような長い長い苦痛。それがすべて過ぎ去った後の空疎な心と、空疎な時間と、空疎な思い出と空疎な銀行口座。ケツの毛まで抜かれるとはよく言ったものだ。もう失うモノもないような、自暴自棄な気分に取り憑かれたのがこの時だった。

 

 

 

 自分の乗っている飛行機が落ちることを考えたからと言って、別に僕に自殺願望があるわけではない。ガキのハシカみたいなもんは大昔ちょっとだけあったが、今は少しもそんな事を考えてない。

 考えてみれば人生ままならないものだ。何年も頑張って自分が思っていた方向に動いていったと思ったら、手応えを感じた最中に夢は崩れ去っていった。自分じゃ善かれと思ってやったことは、ことごとく裏目に出た。じゃあ悲惨な人生だったのかって?

 いやぁ、その代わりに期待もしなかった事が芽をふくことだってあった。思わぬ方向から助けの手が延べられることもあった。それより何より自分にとって最大の幸福をつかんだ。

 だけどその一番の幸福は、その元をどこまでも手繰っていくと、自分の凋落に端を発していたりする。皮肉なものだ。幸運は不幸に導かれている。不運は幸福から生まれる。時々、自分の人生がどんな具合だったのか、自分でも分からなくなる。

 で、いろいろあるけれど、今は僕はハッピーだ。

 ひょっとすると、ある意味ではこんなに幸せを感じている時は今までなかったようにも思う。今よりもっと仕事にノリにノって、いっちょマエの気になってやってた時はあるよ。あるいは友達に恵まれていて毎日楽しかったとか。そういう点では、今は逆に空虚さを感じたり寂しい思いをしたりしているとも言える。

 だけど、僕個人がこんなに確かな「幸福」を感じた時ってのは、実は生まれてこのかたなかったかもしれない。煩わしいことや苛立つことがあったとしても。それもすべて幸福の一部なんだと思えるなんて、そんなことは稀だろう。

 しかし、実はそれも脆弱で微妙なバランスの上に立ってるものかもしれない。そしてそれを維持していくには、いろいろな現実的問題が絡んでくる。一つひとつをほぐしていけば解決出来ないことでもないだろう。そして、自分なりに解決しようと一人努力もしている。だが、それは決して楽なものではない。確実にほぐしきれるかどうかも分からない。かつて何とか「欠けた月を満月に出来ないか」と頑張ってたこともあるけど、それだけで人生の前半戦を棒に振ってしまったからね。確かにちょっとシンドい。そんな「欠けた月を満月にする」ようなことを、いともたやすく実現してしまう方法がどこかにないだろうか…。

 そう思うとつい考えてしまう。今乗っている飛行機が落ちたらどうだろうと。

バーバー」(2002/06/03)

 

 考えてみれば…そもそもそれは、僕がそんな幸せの絶頂にいた5年前から起きていたのかもしれない。

 あの時の僕は、目先の幸せに酔っていた

 それですべてをチャラにしようとしていた。本当は問題山積なのに、そっちは見て見ぬ振りをしようとしていた。そっちはいいかげんにして放ったらかしにした。そこに無理があったと言えば、確かにそうだった。

 

 

 

 僕にはある時期、毎月一回ある地方都市に通う生活を続けていた期間がある。

 最後の頃にはその街の事も熟知するに至ったが、そうなったのもホントに最後の何回か。やっぱり自分の街とは勝手が違って、なかなか自由はきかなかったんだよね。まぁ、自分の街だってそれほど詳しくはないが…。

 その都市では、当然僕は毎回ホテルに宿泊していた。

 夜になると、僕はいつも一人ぼっちだった。親しい人間は、夜には必ず帰ってしまった。そんなホテルの夜は、何とも言いようがない寂しさだったんだよね。

 見知らぬ街の慣れ親しみもないホテルの一室で、夜中にたった一人ぼっち。

 あの時の胸に迫る寂しさ…それは、その後しばらくして自分に降りかかる運命の予感だったんだろうか。それに対する不安だったんだろうか。それとも諦めだったのか。

 そういえば一番最初に勤めていた職場を辞めて、友人を頼ってロサンゼルスへ行った時も寂しかった。テレビをつけても英語しか聞こえない。誰も話し相手がいない。外に出てもクルマがないと身動き出来ないし、みんな英語しか話さないから会話にならない。その上で、日本に帰ってからの漠然とした不安もあった。

 仕事で無理やり中国へ行かされた時も寂しかった。絶対事の成り行きがオカシイと分かっていたからなおさらだった。一緒にいる日本人たちは、とても自分の味方とはいえなかった。むしろ中国人といた方が心が安まった。プレッシャーに押しつぶされそうになった僕は、自分の神経をマヒさせて何とかやり過ごそうとしていた。

 そんな…一人っきりのホテルの部屋。

 その都度状況は違えど、確かにホテルの部屋ではいつも、僕は疎外感と不安と寂しさを感じていた気がする。

 考えてみると、僕はあの「行ったり来たり生活」をしていた頃に、事情があって東京でもホテルに何泊かした事があるのだ。だがそのホテルにいる間、勝手知ったる東京のど真ん中にいたにも関わらず、僕は終始やりきれないほどの寂しさを感じていた。

 さらにそのホテルの一室で…僕はそれまでで最も決定的な、疎外感と無力感を覚えたんだっけ。あれは苦い苦い思い出だ。僕はとんでもない道化者だった。その時、それが自分で初めて分かった。

 窓からは、眼下に広がる途方もない東京の街が見えていた。自分の街にいるのに、僕はたまらなく孤独だった。

ロスト・イン・トランスレーション」(2004/05/31)

 

 実は自分が夢中になっていた幸せの方だって、あっちこっち問題山積だった。

 無理に無理を重ねて、いつ破綻してもおかしくなかった。だが僕は、それにさえ目をつぶっていた。放っていたつもりはない。だが実際には僕にはそれを解決出来ないし、幸せはいずれ維持できなくなると気づいていたのだ。

 だから出来るだけそれを長く味わえるように、現実は棚に上げて見ないようにした。それが破綻する事は、誰よりも僕が一番よく分かっていたのだ。

 

 

 

 例の会社を辞めてからの僕は、正直言って恵まれてなかった。日本は本格的に不景気に突入しようとしていた。やっと拾われた会社でちょっといい目を見て、これからだと思った矢先にイヤな仕事が入ってきた。中国でのリゾート開発のプロモーションの仕事だ。

 うちのような小さい会社に、何でこんなデカイ仕事が?と迷う間もなく、僕は中国に飛ばされた。投資家に見せるためのプロモーション・ビデオの仕事。でも、何だか胡散臭い話だ。案の定、行ってみたら東洋のゴールドコーストをつくる話なのに、目の前に広がる景色はベトナムそのもの。何にも出来てないところに、思うように投資が集まっていないらしい。

 でも会社としては大乗り気だった。何とかロケハンを済ませ台本をつくった僕に、殺し文句がささやかれた。素人映画つくってたんだろ? チャンスだ。プロとしてビデオの監督やってみろよ。

 しかし何から何まで用意がなく、雇われたビデオ・クルーがいるばかり。彼らはちゃんとお金が支払われるのか心配で、段取りのまずさおかしさでカリカリしていた。そこにど素人の演出家だ。ちゃんとアレンジする人間もなしで、僕が彼らを引率するかたちとなったから、彼らからすれば僕が会社側の人間ということになる。結果、演出家とは名ばかり。僕は使い走り雑用係苦情処理係パシり役。ありとあらゆるイビリが飛んできた。現地の中国人が見かねてみんな僕の味方をしてくれたから何とかなったものの、そうでなければ僕もどうにかなってただろう。倒れないのが不思議だった。それでもイヤイヤでも引き受けた初めてのビデオ作品だ。とりあえず撮影だけでも何とか終わらせなければ。

 やりたくないと言っていたのに、仕方なく無理矢理クレーン車を調達してくれば、浜にめり込んで立ち往生。空撮したいと言うから飛行機を調達すれば、グライダーよりチャチでカメラマンは俺を殺す気かと凄む。何だったら俺が乗って確かめてやると大声を張り上げたら、あまりの剣幕にムキになるなと引き下がった。あとは山ほどの罵詈雑言。罠だったのだ。誰かを殺したかった。この混乱の中で、僕は日本の元首相まで片棒かついだ大ペテンに巻き込まれた、無力なコマの一つに過ぎなかったと痛感した。いや、自分がいっぱしのクリエイターだというプライドまで徹底的に粉砕された。俺はくだらない能なしに成り下がった。

 最終日の夜、僕はホテルの一室で、現地のキレイどころの女と部屋にいた。とにかく奴らの顔は見たくなかった。でも、彼女は日本語なんて一言だって話せない。もう何もしたくない。僕は自分が品行方正なマジメな男だなんて言うつもりはない。何もしなかったんじゃない。できなかったんだ。そんな気持ちさえ失せていた。もう、何もする気はなかった。彼女には早々に帰ってもらった。一人になりたかった。

 知りすぎた男に居場所はない。帰国してまもなく、僕は会社をクビになった。日本には右肩下がりの本格的な不景気が押し寄せようとしていた。

ペパーミント・キャンディー」(2000/11/13)

 

 いやいや…そもそも僕がそんな幸せだけに無理矢理すがろうとしたのには、それなりに理由がある。それは今から8年前のこと、思い出すのもおぞましい外国での出来事だった。

 あの苦渋と屈辱と絶望感は、たぶん一生忘れられない。

 僕はそこで、それまで積み上げて来た人生への意欲とか自信とか野心とかを…それは実にちっぽけなモノだったけれど、それさえも根こそぎひっくり返されてしまったような気がした。本当にスッテンテンになった感じだった。

 思えばあの時から、僕はもう賭け金をつり上げていたのだろうか。

 

 

 

 長く勤めた会社を辞めるに至ったのには、訳がある。…確かに理由らしき理由はあるにはあった。職場環境が著しく悪くなったこと、ピンチに立った後輩を守るため、ずっと役所相手の仕事が続いたので民間の仕事をしたくなった…まぁ、もっともらしい事を言えば何とでも言えるだろう。僕個人としては、自分が仕事以外のくだらない事に振り回されている気がしてならなくて、それに疲れ果てた末での決心だったのだが…ある意味では、僕はものすごく増長していたのかもしれない。

 それでも、僕は自分なりに用意周到なつもりだった。会社を辞めるずっと前に、転職活動を始めていたのだ。すると…思っていた以上に手応えがいい。転職する以上はステップアップだ。この会社のクソ上司どもを見返せるように、収入も仕事もよくしたい。意外なまでの好感触に、僕は思いっきり強気になっていた。採用を告げてきた会社も惜しげもなく断り、本命一本に絞る。そこも二次面接までいって、ほぼ内定決まり…というような口調で人事担当者に言われた時…僕は勤めていた会社に辞表を叩き付けた。いや、この時には本当に「おそらくあなたに決まる」とまで言われたんだよね。

 そこまではカッコ良かった。

 ところが辞める日まで決まった時点で、頼みにしていた会社から不採用の通知が来た。これには僕も肝を冷やしたよ。そんな…今更そんな事を言われたって…。

 だが、担当者は雲隠れして電話に出ない。一体何が起きたか分からないが、決定は覆りそうもなかった。だがこの期に及んで元の会社に泣きつく訳にもいかない。僕は意気揚々、堂々たる態度で会社を辞めていった。内心は泣きそうだったけどね(笑)。辞めたことには理由もあったし、そうならざるを得なかったとは思うが、決してカッコいい話ではなかった。

 辞めたのは、忘れもしない7月の初め。それから長い長い長い…実に長い夏が続いた。

 毎朝、いたたまれないからサッサと家を出る。でも、街には僕の居場所なんてない。荷物を持って新聞やら就職情報誌を見る。職安にも行く。そして片っ端から電話をかけまくる。

 それが…僕が辞めるまではあれほど好感触ばかりだったのに、こうなった途端に世間は冷たい。どこも相手にしてくれない。こんなバカな、話が違うじゃないか。…でも、人生ってのはそんなものだ。

 電話しても電話しても相手にされない。やっと面接出来ても冷たくあしらわれる。自分の自信も揺らぐ一方。それでも何かせずにはいられない。自分のそれまでの作品を入れた重い荷物をぶら下げ、ジリジリ照りつける太陽の中をえっちらおっちら汗流して歩く。その姿は、例えて言うなら失礼かもしれないが、浮浪者のそれと変わりない。…というか、「そのもの」ズバリだ。自分は世間的には「社会人」ではないのだ。

 こんな日々がいつまで続くのか…と思うとめまいがしそうだが、それでも職を探して歩くしかない。

 自分がそんな惨めな状態になっているとは…さすがに誰にも話せるというわけにいかなかった。ほんの一握りの人間にはうち明けたが、ほとんどの知人は知らなかったと思う。

 自分の仕事に自信を持って打ち込むこと…僕が願ったのはたったそれだけだったのに、それはどんどん手の届かないところへ消えていく。誰にも何も言えないままに、僕は普通の人々の世界から遠ざかっていく。

 人にも相談できず、ただただ炎天下の下をはいずり回っていたあの夏…暑さも例年より暑かったし、残暑も10月ぐらいまであったと思う。何よりこの年は雨が少なかった。だからいつまでも涼しくならなかったのだ。

 雨がない事を恨めしく思っていた、あのクソ暑い夏の日の僕。外歩きの身にはむしろそれが有り難かったという当たり前の事に気づくのは、それからしばらく経って新たな職にありついてからだった…。

誰も知らない」(2004/09/20)

 

 物事には何でも最初がある。僕が最初にムチャをやって、賭け金を吊り上げたのはいつの事だろう。

 それはきっと10年前。自分のウツワを過信して、思い上がった行動に出たあたりから始まっているのではないか。

 仕事でいっぱしの口をきくようになり、自分もそれなりの人間になったと思い上がった。周囲からもそう見られていると思った。だから、不当としか思えない状況に黙ってられなくなった。そうなるしかない…その時はそう思っていたけれど、今考えてみれば僕の態度や言動に増長したものはなかっただろうか。自分が思っていたほど、周囲は僕を評価していたか。

 そんな無謀な振る舞いが、僕の人生をドンドンとジリ貧に追い込んだのだった。

 

 

 

 ズバリうかがいますが、あなたは子供の頃、いじめに合ったことがありましたか? それとも、人をいじめたことがありますか? 私は未熟児で生まれ、物心ついた頃は病気ばかりしていたため、小学校の最初の5年間は猛烈ないじめに合いました。よく「昔のいじめは大らかだった」なんて平気で言う輩がいますが、やられる方にしてみたら、そんなこと関係ありません。そんなことを言うような奴は、自分がやった方であるか、よっぽど単純な人間だからそんなことが言えるのです。あるいは「やられる方にも問題がある」…やった奴の方が筋が通っているみたいな歪んだ主張を通さないでいただきたい。いじめというものは、いつでもやられた側からすれば不条理そのものなのです。

 私個人としても、あれからもう30年という歳月が経とうとしていますが、いまだに自分の受けた仕打ちを忘れることができません。戦争と同じで、やったほうはいともたやすく忘れてしまいますが、やられた方にしてみれば忘れることも癒されることもないトラウマ、心の傷なのです。しかも、私はいわゆるいじめられっ子脱出の際に、それまで私の相手をしてくれた友だちに背を向けてしまいました。仕方がなかったと言えばそれまでですが、そのことに関して私は今でも自分の卑劣な行いを許すことができません。そして、状況が一変してからの、周囲の人間の態度の変化と言ったら! …私が、いまだに他人にどこか心を許せない理由も、たぶんそのへんにあるのでしょう。

25年目のキス」(1999/07/04)

 

 いやいや、そもそもの発端は…と、どこまでも遡っても本当は仕方がない。

 なのに何かというと、そんな風に自分の人生を反芻したくもなる。ヘタすりゃ子供の頃の話とかまで掘っくり返して…またぞろトラウマのせいにしようとするだけだ。

 そして、自分がいかに気の毒だったかを自己憐憫タラタラに並べ立てる。

 自分のことを周囲がいかに不当に扱ったかをクドクドと抗議する。

 でもよくよく考えてみると、それを際限なく続けて何になるのだろう。僕はいつまで「自分はヒドイ目にあった」「自分は割を食った」…と蒸し返せば気が済むのか。見ている方だって、いいかげんウンザリもするだろう。書いてる自分がそうなのだから…。

 

 

 

 ふと気づいてみるとタバコに火をつけている自分がいるから始末に負えない。ことほどさように習慣やクセってものは変えられないもんなんだね。

 それに近い…というよりそれよりひどいのが、実はネットへの依存症なんだよ。考えてみると家に帰ってくるや否や、マックの電源を入れている。そしてネットにつないではダラダラ何かやっているんだね。回線につないでないまでも、自分のサイトのためにゴチャゴチャやってる時間を含めれば、一日のかなりの長さを僕はネットに費やしていることになる。道理で最近何だか慌ただしく忙しい気がしていたんだ。考えてみれば、近頃部屋でボ〜ッとしていた覚えがない。休みの日にも映画を見た後は、喫茶店でパワーブック開いてカチャカチャ打っている。今ここでやっているようにね。

 これはいかん、ネットから離れる時間をもっとつくらなければ、他にもやりたいことはたくさんあるんだ…と焦りを感じた僕は、やれサイトの更新を休んでみたり、今後は特集の回数を減らしてみようと考えてみたりするのだが、あまり思ったほどの効果を上げてない。先日も知人と話をしていた時にそれを思い知らされた。たまたま今後のサイトの予定の話をしていたんだが、そこでズバリと問題を指摘されちゃったんだね。

 「これからは特集は出来るだけ減らす。まず、来年のこれをやった後で…」

 「あれ? 来年はもうやらないんじゃなかったの?」

 そうだよな、そんな事を言ってたんだっけ。いつの間に気が変わっていたんだろう。同じくサイトを運営している友人たちが、ツラいツラいと言いつつもやめられずにいる話をする時、決まって言うセリフがある。

 「でも、楽しみにして見てくれる人たちがいるからやめられない」

 バカを言うな、そんなサイトの一つや二つなくなっても、最初は寂しいとか言ってても誰も困りはしないんだ。人が楽しみにしてるからやめられないなんてナンセンス。本当は誰だってそんなもの単なる退屈しのぎで、実は楽しみになんかしちゃあいねえよ。そう自分でも分かってて、それを笑っていた僕なのに。なぜやめられないんだ。

 それは自分が楽しいから。

 本当にそうなのか。単に楽しいだけでやめられないのか。だいたい本当に楽しいのか。現に僕も含めてみんなツラいツラいと言っているではないか。なのにどうして?

 それは楽しいからではないはずだ。そして、もはやそこに厳然とした目的があるわけでもない。モチベーションは著しく低下して、それでもダラダラ続けているのが大半ではないか。では、なぜやってるの?

 それって実はもう中毒ではないのか?

レクイエム・フォー・ドリーム」(2001/08/27)

 

 結局のところ…事の発端を探りに探ってみても、実は意味がない。

 それは自分の過ちを誰かのせいにするだけのことだ。仮に誰かのせいに出来ても、僕の人生は何も変わりはしない。何も解決はされないのだ。

 第一、それは「誰かのせい」なのか?

 この数年間、僕はネット上であれこれ思いつくまましゃべってきた。それ自体は必ずしも悪い事ではなかったと思う。だがある時期を越えてからは、僕はあまりにそれに依存してしまった。それは、そこにグチグチと「自分の言い分」を垂れ流す楽しみを覚えてしまったからだろう。

 しかも長く続くうちには、そこに妙な輩も絡んで来たりした。何かと言いがかりをつけられもした。タチの悪いイヤがらせもネチネチと受けた。そのために不愉快な思いもしたし腹も立った。

 今それらの忌々しい出来事を改めて考えてみると、僕のどこかにそんな連中を引き寄せる何かがあったのかもしれない。あるいはそんな人物がつけ込む隙があったのかもしれない。

 きっと、僕が自分の人生を台無しにし続けたのも、それと同じ理由なのではないか。

 

 

 

 昔からくだらないチンケな根性と価値観を抱えているだけで、後は何も値打ちのあるモノを持ってはいない。全部、見栄なのだ。ウソでウソでウソで周りから自分までダマしていながら、実は誰一人ダマしきれてない。自分だってダマせない。本当は自分が三流の偽物だと、とっくの昔に分かっているのだ。

 ずっと子供の頃から…今はパッとしてないが、いつか認められる人間になるのだと思っていた。今は「仮」の姿なんだ。きっとみんなが驚く事をするぞ。だって、僕にはそんな予感がする。他の奴とはどこか違う気がする。他の奴とは違う…変な歪んだところがある(笑)。今は変で困ったところにしか思えないけど、それがきっと大きくなって役に立つのだ。それのおかげで恥ずかしい思いをしたり、軽く見られたり見下されたりしてきたけれど、きっとその分だけ他の奴よりもいい思いをするんだ。そうだ、そうだ…きっとそのはずだ。もうちょっとだけ我慢すればいいんだ。大丈夫だ、だってきっと巻き返しがあるんだから。そうでなきゃスジが通らないではないか。自分を信じるんだ。信じていれば、きっとすべてうまくいく。

 そう思って、気づいたらもう若さはなくなっていた。

 …というより、人生は半分以上過ぎてしまった。今はまだ「仮」だと思って棚上げにしてきた事もいっぱいあるのに、それらは手つかずのまま終わってしまった。もうチャンスは訪れない。二度と戻って来ない。そして人生の恩恵が訪れそうな予感も、どんどんやせ細ってくる一方だ。ついに訪れたと思った幸運は、僕を奈落に突き落とす最悪の災いだった。それでも僕はつい先日まで、自分の人生に素晴らしい事が起きるのだと信じて疑わなかった。

 そんな事は、もう二度と起きない。

 それは絶対に起きない。そろそろ、そのつらい事実を認めなきゃいけない。…そんな事を、三度のメシより好きな映画に教えられるホロ苦さを、一体どうやって人に告げればいいのだ。

 他人になど言えるはずがないだろう、本当に本当に本当の事は。

サイドウェイ」(2005/03/28)

 

 結局、僕はどこかで甘えていたんだろう

 人から与えられる事を当然と思っていた。自分のためのチャンス、自分の能力と意欲におあつらえ向きの仕事、自分がやりやすく都合のいいポジション、自分が気心が知れてうまくやれる人々、自分が自分の最良の力を発揮するために必要な何もかも。それらはいつも僕に与えられ続けて来たし、自分もまた与えられるべきだと思っていた。与えられなかった時には不当だと怒り、自分にそれを与えない周囲や置かれた環境が悪いのだと決めつけた。そしてフテった。あからさまにやる気をなくした。自分にはそうする権利があると思っていたもんだ。

 思えば友人にも恋人にも、僕は同じように振る舞っていた。僕に「与えてくれる事」を求めていた。僕への同意や共感、そして僕の置かれた立場を脅かさないこと…僕への忠誠心を求めていた。

 与えてくれないと、僕はキレた。

 与えられなかったものを奪おうとするか、ケツをまくって逃げた。冷たく切って捨てた。与えられるのが、僕の当然の権利だと思っていたから。

 もちろん、常に僕が与えられる立場だった訳じゃない。逆に僕の方がすべてを与えようとした相手もいた。

 実際にその人間には何から何まで与え、本当にケツの毛まで抜かれた。文字通りスッカラカンにされた。それを憤った僕ではあったけど、おそらく僕が与えた「それ」は彼女の求めていたものではあるまい。そういう意味では、向こうも僕から与えられていたとは思っていまい。人生とはそういうものだ。

 自分は一切悪い事をしていないし、むしろ割を食っている方だと思い続けていた。だが、それは間違いだ。

 そして…もういいかげん、人から与えられる事を期待するのも間違いだろう。

 

 

 

映画館主・Fの略歴:(フィクションを多分に含む)

1959年 1300グラムしかない未熟児として、東京に生まれる。

1964年 幼稚園に入園。病弱のため、家で寝ている期間の方が長かった。その間のオトモダチは本とテレビ。いきおい頭でっかちな可愛げのない子どもになる。

1966年 小学校に入学。抵抗力が弱く、一年生の時にはプールにも入れず。

1968年〜1971年 病弱で運動もできなかった事から猛烈なイジメにあうが、何とか登校拒否は免れる。実際、かなりイジメたくなるような子どもではあったはず。この時期から画家やマンガ家や小説家になりたいと次々妄想に耽り始めるが、本気か遊び半分か自分でも判断つかぬまま何一つモノにならず。

1972年 この頃より心機一転、ようやく少しはマトモな子ども時代を送る。

1978年 某私立大学付属高校に在籍するものの、都立高に行った友人にエスカレーター呼ばわりされて一念発起。あえて外の大学を受験。結果は当然の事ながらあっけなく一浪決定。(中学時代に片思いした優等生の女の子を追おうとしたという説もあり。)よせばいいのに虚勢を張る傾向はここから始まる。

1979年 某私立大学にかろうじて進学。高校時代から始めた8ミリ映画製作を本格化する。ただしその内容はお粗末なモノで、本人もプロになろうという気持ちはまるでなし。例によって本気なのか遊び半分なのか、何をやっても中途半端。

1982年 現実感覚が決定的に欠落している故の自業自得で、まるっきり就職活動に出遅れる。やっと内定をもらったと思えば新興宗教会社である事が発覚。クリスマス・ソングの流れる街で、改めての就職活動に奔走する。

1983年 大学卒業。やっと決まった航空貨物関係の会社にすがりつくように就職。

1984年 本社内勤から出張所での営業職に配置転換。職場の体育会系気質にも仕事にもまったく馴染めず。生来の甘さが案の定社会人としての最大のネックとなる。

1986年 突然、本来志望していた文筆業に転じる事を決意。この年いっぱいで最初の職場を退職。衝動癖と虚勢ぶりをいよいよ発揮。

1987年 求職活動に明け暮れるが、未経験者であるが故に当然のごとく仕事は決まらず。見通しの甘さが早くも露呈。ようやく夏も終わろうという頃に、ある業界新聞記者の職にありつく。

1988年 記者クラブを通じて知り合ったライバル紙デスクに声をかけられ、某航空会社のPR誌をつくる会社へと移籍。バブルも絶頂期の頃。

1989年 声をかけてくれた元・ライバル紙デスクが独立を目論み、会社は最終的に空中分解。不信感がつのる同氏とは袂を分かって、改めての求職活動。某印刷会社の企画部に籍を置くことになり、コピーライターの肩書きを得る。ここからはごく短いながらも最もキャリアが順調な時期。いっぱしの者になったつもりで、たちまち身の程知らずの増長ぶり。

1990年 惚れた女を追ってノコノコ海外へと出かけ、予想だにしなかった恐怖の一週間を経験。これまたよせばいいのに…の典型的事件。

1995年 社内人間関係の対立による混乱や顧客事情の変化など、職場内外の環境悪化により退職。すでにバブルは陰りを見せていたのに、またしても甘く考えたのが運の尽き。ここから職場を転々とする人生が続く。

1997年 某広告代理店にて海外のリゾート開発絡みの怪しげな仕事に巻き込まれ、現地で一週間針のムシロの日々を送る。ここで短かった絶頂期に培ったあらゆるプライドと自信が完全に失墜。帰国後失意のうちにまもなく退社。しかしまたしても見通しの甘さが災いし、日本経済はここから決定的な低落傾向に落ち込む。

1999年 別の某代理店で、キャリア的に不完全燃焼な日々を送る。何も考えず衝動的に個人サイト「DAY FOR NIGHT」を開設、華々しいとは言いかねるネット・デビューを果たす。創業社長から二代目への移行に伴うイザコザや、主要顧客からの撤退などの混乱に巻き込まれやむなく退社。

2000年 プライベートに関する限りは幸福感に包まれ、我を忘れて有頂天になる。ただしキャリア的にはますます退潮傾向が続くが、それには一切目をつぶる。年末に人生の一大局面を迎える決断をするが、それは一ヶ月を待たずしてポシャる。

2002年 現実を無視したツケが回り回って、公私ともに悪夢の出来事が相次ぎ不眠症に悩まされ始める。 奈落の底めざして一直線。

2003年 経済状態もキャリアもドン底の虚脱状態。本人としては不本意ながら、かろうじてネットのみで精神的安定を保って現実逃避が続く。

2004年 長く続ける気持ちもなかったサイト「DAY FOR NIGHT」を、例によって本気か遊び半分か分からぬ状態で続けているうち、思いもかけず5周年を迎える。ただし完全にネット依存になってしまった生活を見直し、プライベート、キャリアともに建て直しを図ることを真剣に考える。本人懲りずにその都度「これが最後」と思ってはいるが、すでに何度目かを数える「人生最大の転機」の気配。

 しかし、もはや若くない40代。すべては身から出たサビと分かっていても、現実から目をそむけたくても、残り時間はあとわずか…。

スパニッシュ・アパートメント」(2004/04/26)

 

 もうすぐ、僕は壊れちゃった人生を建て直さねばならない。

 何もかも人のせいにし続けた人生のツケを、ここでどうしても精算しておかねばならない。手持ちのわずかな猶予の中で、何とか自分の今までを整理して、それらと決別したい。

 出来るだろうか?

 ミック・ジャガーは唄っている。長年の流儀ってやつはなかなか変わらない…と。でも、絶対変わらない訳はあるまい。変われなきゃ困る。

 

 

 

 現実に疲れてしまった時に、僕はつい投げやりになってしまいたくなる時がある。愛している人親しい人のことを、つい悪く思いたくなる時がある。どうせうまくなんかいきっこない、人の世なんてそんなものという手垢のついた言葉を吐き捨てながら。でもそれじゃあいけないんだよな。人生も世の中もそれじゃちっとも良くなんかなりっこない。せめて自分は信じなくてはいけないんだ、愛する人とともに満たされた幸せをかみしめる日が来ることを。

 点子ちゃん、その時が来たら僕も何も言えないんだろうか、胸がいっぱいで。

点子ちゃんとアントン」(2001/08/27)

 

 

長年の流儀ってやつは変わらない…。

やっぱり変われないのだろうか?

そんな事はない、やり直しに遅すぎる事なんてないはずだ。

僕はそれを信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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