「マイ・ファーザー」

  My Father - Rua Alguem 5555

 (2005/07/18)


見る前の予想

 この映画の存在は、映画館のチラシで知った。ナチ戦犯とその息子のお話。チャールトン・ヘストン戦場のピアニストでナチ将校を演じて注目されたトーマス・クレッチマンの顔合わせ。特にヘストンのナチ戦犯というのが注目だ。

 ただしこの映画の存在自体知られていなかったし、公開は都内でも下から数えた方が早そうな小さい映画館。実際のところ、ビデオスルーされても仕方がなさそうな規模の映画だ。そもそも映画の国籍すらどこだか分からない。どうもアメリカ映画ではなさそうだ。

 それでもヘストンのナチ戦犯は魅力的過ぎる。これを見逃すのは惜しい。やっぱり僕はこの映画を、スクリーンで見ずにいられなかった。

 

あらすじ

 おまえと会える事を考えると、興奮を抑えられない。おまえにいつか会える事だけを願って、今までじっとこの機会を待っていた。だがこちらに来るのなら、じっくりと時間をとって来て欲しい…。

 あの便りが彼の手元へ届けられた時、彼の思いは千々に乱れた。父との対面…それは確かに彼にとっても待ち遠しい事ではあった。だがそれは同時に、忌まわしい過去の封印を解く事でもあるのだ

 彼…ヘルマン(トーマス・クレッチマン)は、その忌まわしさを理解できる現代のドイツ人だ。アウシュビッツの荒廃した収容所跡を訪れて、その耐え難い罪悪に思いを馳せたりもした。

 ナチの罪業…それはまさに許し難いものだ。その罪の重さが、ヘルマンの胸にずっしりと重くのしかかる。

 1985年6月、ブラジル。ある墓場の墓が暴かれる。長く逃亡生活を続けながら告発を逃れたナチ戦犯ヨゼフ・メンゲレの遺体が、この墓に葬られていると分かったのだ。確かに中からは一体の白骨死体が発見され、それらの骨はすべて回収される。それらはすべて衆人環視の中、白昼堂々数多くのジャーナリストやテレビカメラ、そして群衆の目の前で行われた。だが、それは本当にメンゲレの遺体なのか? 「死んだ」という事にして、さらに地下に潜伏して生き延びるつもりなのか?

 墓地に集まった群衆の中には、被害者のユダヤ人たちも多数集まっていた。そしてメンゲレの息子…ヘルマンもその場に立ち会っていたのだ。そんなヘルマンの姿を見つけると、ユダヤ人の老婆が彼ににじり寄って頬に憎々しげに爪を立てる。「人殺し!オマエはあの男を匿ったのよ!息子のオマエも同罪よ!

 ヘルマンはただ黙って耐えているしかない。ようやく老婆は引き離され、頬をキズつけられたヘルマンにはハンカチが手渡される。「これでお拭きなさい」

 ハンカチを手渡したのは、ユダヤ人側の弁護士であるポール・ミンスキー(F・マーレイ・エイブラハム)。ヘルマンが父の死を偽装している可能性がある…と睨んだ彼は、ヘルマンから何とか確認を得ようと近づいたのだった。だが、ヘルマンは何も語りたがらない。まるでヘルマン自身が「ナチ戦犯」みたいな扱いにも、じっと黙って耐えているしかない。

 ホテルに投宿したヘルマンだが、そこでもユダヤ人たちは彼に一息つかせない。外ではデモ隊が大騒ぎをし、投光器で彼の部屋にライトが照らされる。しまいにはガラスを破って石が投げ込まれる。ほとんど嫌がらせ同然に、執拗なまでに彼を苦しめる。それはもはや手が届かないメンゲレの代わりに、息子の彼に「復讐」しているかのようだ。さすがに耐えかねたヘルマンは、例のミンスキー弁護士を電話で呼び出す。

 しばらくして、ホテルの部屋にミンスキー弁護士がやって来た。いつの間にか、下の群衆も大人しくなっている。ヘルマンはやって来たミンスキー弁護士に思わず言った。「よくアレを抑えることが出来たな」

 「私にはそれほどの力はないよ。…私は、君がしゃべる気になったと行っただけだ」

 そしてヘルマンの目の前にテレコを持ち出し、そのスイッチを入れた…。

 それは8年前、1977年の事だった。「父」メンゲレからの便りを受け取り、ヘルマンはブラジル行きを決断したのだ。

 もちろん今さら父に会う事にためらいがない訳ではなかった。親戚はみんな大反対。行ってもムダだと言われた。確かに父メンゲレは史上まれにみる大悪党。悪魔のような男だ。確かに、会うのに二の足踏むのが当然な人物だろう。

 ヘルマンはこの「メンゲレ」の名前のせいで、子供の頃からいわれのないイジメを受けていた。殴られても殴った当人と一緒に、揉め事になるような言動を控えろと教師から注意される。そもそも教師は点呼の時に、彼の名字を呼ぼうとはしない。「メンゲレ」の名は呪われた名、それは「生ける恐怖」そのものだったのだ。

 そんな彼の家には、昔から定期的に「南米の伯父さん」から手紙が届いていた。母親はその手紙を読むや否や、すぐに暖炉にくべて燃やしてしまう。そのいわくありげな手紙については知っていたものの…それがまさか「父」からのものだったとは!

 15歳になったヘルマンがその事実を告げられた時、激しいショックを隠す事が出来なかった。自分の父が怪物のような男で、しかも現在も逃亡生活を続けて生きているとは…。

 そして巡って来た対面の機会。ヘルマンは自分の人生の「影」の部分を精算する意味でも、ここで父に会って直接話を聞かねば…という気分になっていた。父を理解し…出来れば、自首させたい

 こうしてヘルマンはブラジルの地へとやって来た。二日間ホテルで足止めをくった後、彼は「協力者」たちに連れられ、埃っぽい貧民街へとやって来た。

 「彼」はそこに立って、ヘルマンを待ちかまえていた。

 老いたりと言えども堂々たる体躯。ヘルマンをも圧倒させるような威圧感で、「彼」はそこにいた。やって来たヘルマンにいきなり駆け寄り、とまどう彼をガッチリと抱きしめた。

 「彼」…それが父親ヨゼフ・メンゲレその人(チャールトン・ヘストン)だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 ここから先の主人公ヘルマンの葛藤は、映画そのものをご覧になった方がいい。

 ところでこの映画で取り上げられた「死の天使」ヨゼフ・メンゲレというナチ戦犯は実在人物ながら、かつて劇映画のキャラクターとしても取り上げられている。それはアイラ・レヴィンの小説の映画化、フランクリン・J・シャフナー監督、ローレンス・オリヴィエとグレゴリー・ペック主演の「ブラジルから来た少年」(1978・日本劇場未公開)だ。

 ブラジルに潜伏するメンゲレとナチ残党が、ヒトラーの遺伝子を持った大勢の子供を全世界にバラまく。それを阻止しようとするユダヤ人組織…というお話。ここでのメンゲレ博士はグレゴリー・ペックが演じていた。ただし…この映画はフィクションだが、メンゲレ博士そのものは実在の人物。今回の映画はそれとは違って、あくまで「実話」だ。

 実際この映画が出来のいい作品なのかどうなのか、僕にはよく分からない。ただ実直に撮っているだけのような気もするが、ともかくそんな事はどうでも良くなる。映画の出来を云々するのも意味がない気がしてくる。それは「実話」だけが持つ衝撃だろう。

 見る前から想像はつきそうなものだが、実際その一部始終を目撃させられるのとはまるで違う。ここでの主人公ヘルマンの苦悩は、余人にはなかなか想像しがたいものだ。

 父親が歴史に名を残す「大悪人」「悪魔」であるというだけでも、僕ら凡人にはピンと来ない。主人公はそれで子供の頃から、いわれのない迫害を受けてきた。彼は何も悪い事をしていないのに、「当然の報い」みたいにひどい目に遭わされてきた。大きくなっても老婆には頬を引っかかれるわ、まるで彼自身が「悪魔」みたいな扱いを受けるわ…まるで本人には理不尽な事が次々降りかかってくる。それも一生もんだ。

 そんなアレコレを引きずっての父との再会では…「反省」どころかそもそも「罪の意識」そのものがない父親に唖然呆然。しかも父の罪を告発する息子の方が間違っているような言われよう。何をどうやったらこれほどシレッと出来るのか。あまり堂々としているので、自分の方がおかしいんじゃないかと思いそうになるテイタラクだ。

 そんな「ダークサイド」に引きずり込まれたくない思いで父を告発しようと思ったりもするが…何よりこの男は、誰が何と言っても自分の父親なのだ。そして、彼に無償の愛を抱いている事は間違いない。彼を信じ切ってもいる。そんな父親を、息子である彼が裏切ったり売ったり出来ようか…。

 一人の人間として、戦後ドイツ人として、それよりともかく息子として…主人公の中で善悪の基準がクルクルと替わっていく

 そんな主人公を、周囲の人間はそれぞれの立場でいとも簡単に非難する。言ってることはそれぞれバラバラのくせに、一人として彼を非難しない人間はいない。だが、事はそれほど単純ではあるまい。まさしく八方塞がりな状況で…この映画を見るのが例えばドイツ人かユダヤ人か…はたまた別の民族かによって感想はそれぞれ分かれるだろうし、それぞれ異論正論さまざまあるだろうが、正直言って僕はこの主人公にはかなり同情してしまった。変な話、彼もまたナチ思想の持ち主ででもあったなら、こんなに苦しまずに済んだだろう。なまじっか良心と良識と分別と常識があるだけに、この主人公の苦悩は深い。

 だがそんな彼は、結局一人ですべての重荷を背負うしかないのだ。ユダヤ人側の弁護士は唯一冷静に彼に対処してはくれるが、彼だって最後にはこう冷たく言い放つ。「私はあなたを同情はしない。あなたの側に付く事は、これから先もない」

 その言い方はないだろう。そう思っても、実際そうにしかならないのも事実。映画の最後まで、見ている僕らの暗澹とした気分が晴れることはないのだ

 で、やっぱり何と言っても、ヨゼフ・メンゲレを演じたチャールトン・ヘストンの好演が光る。

 「Time Machine」チャールトン・ヘストンの巻にも書いたが、何よりかつてのスペクタクル映画などで培った、抜群の安定感がモノを言う。この頼もしさ、威圧感、威厳、人間としての格と重み…これで堂々と「オレは悪くない」と言われたら、主人公ならずともグラついて頭がおかしくなりそうだ。これがいかにも悪人然とした人物が言うのなら、誰もこれほど苦しむまい。圧倒的な人間的魅力の持ち主ヘストンだからこそ、主人公も見ている側も「負けそう」になってしまう。よしんば負けなくても、今度は彼を裏切らねばならない運命に苦しくなって来る。

 今回のヘストンは、そうしたスターとしての往年のデカさと共に…皮肉なことに大ヒンシュクをかった「ボーリング・フォー・コロンバイン」(2002)での全米ライフル協会会長としてのイメージも、大いに活かされているのではないか。「ボーリング〜」未見の僕も、何となくそんな気がする。

 そして意外にもトーマス・クレッチマンがどこかヘストンと容貌が似ているのも、この映画には大いにプラスだった。本当に父と子という雰囲気が出ているのだ。

 監督と脚本を手がけたエジディオ・エローニコという人物はイタリア人らしいが、それまでどういうキャリアを築いてきたのか分からない。そもそも何でこのイタリア、ブラジル、ハンガリー合作映画を撮る事になったのかも不明だ。実際この映画の出来映えのどこまでが彼の腕前なのかは、僕には何とも言いかねる。だが少なくとも、余計な事だけはしていないようだ。この映画はそれでいい。

 物語そのものが、充分衝撃的なのだ。あとは素晴らしい適役俳優としかるべき舞台装置があれば、それでいい。

 

見た後の付け足し

 この映画でアレコレ言うとまたぞろ誤解を招きそうだから、あまり饒舌に語りたくはない。だが人間というものは、ちょっとでも自らを正当化出来たり優位に立ったりした時には徹底的に他者にひどい事をしたくなるし、また実際にそれをやってしまうものなのだ。…そんな事を、僕はまたしても思い起こさずにはいられなかった。それがナチだろうと何だろうと、はたまた全然関係ない人々だろうと同じ事だ。場面と人が変わっても、やる事は大差ない。やられた側が立場逆転したって同じだ。そしてやった側は、自分がやった事を悪い事とはなかなか思わない。

 人間は他者を叩きのめすのが好きだ。ちょっとでも相手の隙や理由さえあれば、他者を叩きのめすチャンスを決して見逃しはしない。それが「人間」というものだ。子供の頃に手ひどいイジメにあった事のある僕は、それをイヤという程痛感している。人間の本性は残念ながら「悪」なのだ。もちろん僕だって悪人だ。悪を行使する時の楽しさを否定できない。僕はその事をまったく疑った事がない。

 だからと言って、それで「やった側」が「やった事」を正当化は出来ないだろう。

 昨今のわが国を取り巻く状況と、わが国の中の雰囲気を見ていると、なおさらそう思う。こんな事を言っちゃマズイとは思いつつ…実は非難する側もされる側もすでに多数が新世代で、それを直接行ったり行われたりしていない人々なのだ…という事実は、正直言って極めて苦々しいものだ。そこに各国の思惑やら「国益」なども絡んで、何ともスッキリしない話になっていく。結局何をどうしたって許される訳もないし、する気もないのだ…と、絶望的な心境にもなってくる。

 だが、だからと言って「なかった」という事にも出来ないだろう。やられた側が、笑顔で忘れる事なんて出来るだろうか。マトモな神経で考えてみれば、容易に想像が出来るはずだ。今、我々双方ともに欠けているのは、この「想像力」なのだ。

 ともかくこの映画の主人公の葛藤は、まったく人ごとじゃないんだよね。

 

 

 

 

 

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