「バットマン・ビギンズ」

  Batman Begins

 (2005/07/04)


 

見る前の予想

 またぞろバットマン映画をつくると最初に聞いた時には、正直言ってウンザリというのが本音だったよね。

 何せその前につくられていた「バットマン」シリーズが、どんどんジリ貧になっていったという事がある。それに実際の話、僕は映画版「バットマン」の熱心な観客とは言えなかった。

 ティム・バートン監督の第一作「バットマン」(1989)は確かに大当たりはしたものの、僕は大して面白いとは思っていなかったんだよね。ただ、やたらにハイテンションなジャック・ニコルソンの演技と、主人公に選ばれたマイケル・キートンの意外性だけが印象に残った。何せ僕にとってのマイケル・キートンと言えば、ロン・ハワード監督が名声を決定づける前の作品「ラブ IN ニューヨーク」(1982)でのエキセントリックなコメディ演技がすべてだったからね。まさかこんなクールな役を演じられるとは思っていなかった。

 ところがバートンによる続編「バットマン・リターンズ」(1992)には、僕はかなりハマってしまった。何しろ主人公より悪役ペンギン(ダニー・デビート)やサブ・キャラクターのキャットウーマン(ミシェル・ファイファー)の方をこってり描くという変則的な構成。作り手もこの両者に完全に感情移入して描いているという脱線ぶり。だが…あまり自慢できた話ではないが、子供時代に猛烈なイジメを経験した僕には、この両者への思い入れの深さは人ごとではなかった。人工的で幻想的な世界観といい、僕は前作よりこの「リターンズ」の方がティム・バートン版「バットマン」の真骨頂だと思っている

 そんな僕だったから、バートンもキートンも降板して心機一転…という第三弾「バットマン・フォーエヴァー」(1995)に、期待など出来ようはずもなかった。それでも新たな監督ジョエル・シュマッカーは時折傑作を放つ不可思議な人物だし、新たな主役ヴァル・キルマーもちょっと危ない臭いを持ってはいた。ジム・キャリー、トミー・リー・ジョーンズ、ニコール・キッドマン…などなど周囲ににぎやかなキャラを配しているのも気にはなった。新たに登場の相棒ロビンにクリス・オドネルを加入させたのも、ひょっとしたらプラスになっているかもしれない。だからとりあえずは見たけれど、退屈はしなかったものの別に面白くも何ともなかったというのが正直なところだろう。

 さらに第四弾「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」となると、またしても主人公役者が交代。別にジョージ・クルーニーが悪いとは言わないが、こうなるともう誰でもいい…というのが正直なところだろう。正義の味方側にはさらにバットガール(アリシア・シルバー・ストーン)が加わり、賑やかになった…と言えば聞こえがいいが、一山いくらという感は免れない。しかもバカ芝居におけるハイテンションのサジ加減が分かっていないアーノルド・シュワルツェネッガーでは、「マンガみたいな役」が本当にマンガになってしまう無惨さ。彩りとしてのユマ・サーマンも、それだけのモノでしかない。面白くも何ともない…を通り越して、まさに空疎そのものだった。バカバカしい面白さ…ではなくて、単にバカバカしいだけという寂しい出来映えだったわけ。

 だからそんなシリーズがようやく終わって落ち着いたというのに、何もわざわざまたぞろキズ口を広げなくても…という気分がしたんだよね。やめときゃいいのに、そんな事。

 ところがそんな新作「バットマン」の監督に、何と異色作メメント(2000)で名を挙げたクリストファー・ノーランが起用されたというではないか。さらにさらに…肝心要のバットマン役に、これまた異色の若手俳優クリスチャン・ベールと来たもんだ。ここへ来て僕は、俄然この新作「バットマン」に関心を持ったというわけだ。

 特に監督ノーランもさることながら、主役にベールという点が気になった。これはひょっとしたら、大化けする可能性もあるんじゃないか?

 

あらすじ

 ブルース・ウェイン少年は、その日も自宅の屋敷に住み込みで働いている家政婦の娘レイチェル・ドーズと遊んでいた。たまたま見つけた原始人の「矢じり」の取り合いとなり、ふざけながら広大な庭を逃げ回るウェイン少年。ところがたまたま足下の腐った木の板を踏み抜いてしまい…。

 何と長いこと使われていなかった枯れた井戸に、真っ逆さまに転落してしまう。

 腰をしたたか打ったようで、どうしても立ち上がれない。そんな身動きもままならないウェイン少年の耳に、何やら騒々しい物音が聞こえてくる。それは井戸の底にポッカリと空いた、暗い横穴から聞こえていた…。

 無数のコウモリたちが、一気に穴から飛び出す!

 ものすごい数のコウモリたちが、勢いよく洪水のように井戸の穴を飛び回る。いきなり襲いかかられたウェイン少年の心には、コウモリたちが悪夢として強烈に焼き付けられたのだった。

 そんな悪夢から目覚めたウェイン(クリスチャン・ベール)は、すでに今は大人。ヒゲを生やし粗末な服に身を包んだ彼は、中国辺境の名も知れぬ汚い刑務所の中にいた。東洋の薄汚れた荒くれ者たちの中にあって、白人の若い男ウェインは思い切り浮きまくる存在。今日も今日とて、食事の配給時に悪党ヅラの男が難癖をつけてくる始末だ。だがウェインも負けてはいない。悪党ヅラ男をブチのめし、さらにこいつに加勢する奴らを次々倒していく。たった一人で数人相手に大立ち回りの真っ最中…気づいた看守たちがウェインを取り押さえ、そのまま独房へと引きずっていく。

 「身の安全のためだ!」

 「オレの身を守ってくれるのか?」

 「違う、オマエから奴らをだ

 こうして独房に追いやられたウェインだが、そこにこぎれいな身なりの白人男性が現れるではないか。その男ヘンリー・デュカード(リーアム・ニーソン)は、なぜかウェインの事を知り尽くしているように見えた。「悪党どもを成敗するために、わざわざ自ら刑務所に入るとは念が入っているな」

 そんなデュカードは、ナゾの言葉を残して独房を去った。「もし本当に悪と戦う気があるなら、ヒマラヤの山腹に咲く青い花を摘んで、枯らさずに山頂まで持ってこい

 やがて、ウェインはクルマに乗せられ刑務所の外へ。クルマから荒野へと放り出されるという、何とも荒っぽい形で釈放となる。その果てしない荒野を歩いて歩いて歩いて…ヒマラヤ山脈を見上げる高地へとやってきたウェイン。彼は、あのデュカードの言っていた「青い花」を摘んで、さらに高地へと目指す。途中の寒村ではウェインに「山頂へ行くな」と止める者もいるが、彼は脇目も振らず黙々と上っていく。するとやがて見えてきた雪と氷に閉ざされた山頂には…何やら岩場にへばりつくように建てられた木造の屋敷が見える。

 その重い扉を開けて入っていった暗い内部には…一人の僧侶のような東洋人の姿があった。

 その男の名はラズ・アル・グール(渡辺謙)。この屋敷の主にして、ここで日々自らを研鑽し、悪との戦いに備える「影の軍団」を率いる男。そして…あのデュカードの上に立つ男。

 ウェインを待っていたデュカードは、疲れ切った彼が休む間も与えず、いきなり襲いかかってくるから恐れ入る。「悪との戦いに休みなどない!」

 それからウェインはデュカードの厳しい指導の下、ありとあらゆる戦術・武術・剣術をマスターしていく。それはウェインが恐怖を克服し、悪と戦うための試練の道だった…。

 それは、ウェインがまだ少年のあの日に遡る。両親と共に正装して、ゴッサム・シティの中心部で上演されるオペラの初日に出かけたのだ。ただし、街の中心部へはクルマではなくモノレールで出かけた。それはウェインの父(ライナス・ローチ)の信念からだった。

 ウェインの父は大富豪ではあったが、深い人道主義の信念を持った人だった。それゆえ彼は自らの持つ大企業ウェイン・エンタープライズの経営を社長代理アール(ルトガー・ハウアー)に任せ、自らは病院で医師として働く日々だった。そして、人道主義こそはウェイン家代々のモットーでもあった。

 しかしゴッサム・シティの経済はさらに悪化し、街には貧民が溢れていた。そこで彼は安価な街の交通手段としてモノレール事業を発足。街のシンボルでもあるウェイン・エンタープライズ本社ビル「ウェイン・タワー」までを結ぶ、一大交通網として構築させた。そんなモノレールは、いわばウェイン家の理想の象徴だったのだ。

 だが、その夜のオペラはウェインにとって悪夢だった。それはまさに言葉通り…劇中でコウモリに扮した役者たちが闇を跋扈する場面が出てくる、ウェインにあの忌まわしい井戸での体験を思い起こさせるような「悪夢」のオペラだったのだ。そんな息子の様子に気づいた父親は、オペラを中座して裏口から劇場の外に出た。だが外はもう夜も更けて、劇場の外は人けもない荒廃した裏町だ。案の定、ウェイン一家を銃を持った浮浪者が襲う。

 「カネをよこせ!」

 見るからに貧しそうなその男に同情さえ感じたウェインは、ためらう事なく財布を放り投げた。だが男が妻のネックレスをむしり取ろうとしたのには、思わず抵抗してしまう。それは彼から妻へのプレゼントの品だったのだ。ところがこれがマズかった。銃声二発。冷たい路上には、ウェインの両親の死体が無言で横たわった。浮浪者はネックレスと財布を握って走り去った。

 後に残されたのは、怯えて震えるばかりのウェイン少年だけ。

 警察署ではそんな無言のウェイン少年を、温厚な警官ジム・ゴードン(ゲイリー・オールドマン)が優しく慰める。だが何を言っても今は空しい。葬儀の日、多くの招待客が去って行った後は、屋敷はガランと廃墟のようになった。ウェイン一家に仕えてきた忠実な執事アルフレッド(マイケル・ケイン)に、ウェイン少年はオズオズと尋ねるしかない。「僕のことを見捨てたりしない?」

 「決して!」

 そんなウェインの心には…両親を殺したのは自分だという後悔がなかなか消えなかった。今、ヒマラヤの奥地で修行を重ねるウェインに、師であるデュカードが今再び訊ねる。「今でも罪の意識に苛まれているのか?」

 「いや。今はそれは怒りに変わった

 とてつもない悪への憤り…それがウェインをここまで駆り立てたのだ。しかし、一時はその怒りが誤った方向に向かいそうにもなった

 両親の悲劇からか、大学入学を機にあの広大な屋敷から出て一人暮らしを始めた青年ウェイン。そんな彼が久々にゴッサム・シティに帰ってきたのは、ある公聴会に出るためだった。

 それは、彼の両親を殺したあのにっくき男が出席する公聴会だった。

 街の腐敗の元凶である犯罪王ファルコーネを告発すべく、警察に証言して協力する。…それと引き替えにそれまでの罪を帳消しにされるこの男を、ウェインはどうしても許せない。そこで彼は懐に拳銃をコッソリ忍ばせ、この街に単身戻ってきたのだ。そんなウェインとの再会を、今は美しい娘に成長した元・家政婦の娘レイチェル・ドーズ(ケイティ・ホームズ)は喜んだが、当然の事ながらウェインの心は別のところにあった。

 問題の公聴会は粛々と進み、例の男は「情状酌量の余地…」とやらで仮釈放の手はずとなる。それを聞いたウェインは、思わずいきり立って退席せずにはいられない

 やがて部屋から出てきた男を、じっと迎え撃つべく待ちかまえるウェイン。その手には拳銃が握られ、今にも男に向けられようとしていたが…。

 突然の銃声!

 何と、ウェインが鉄槌を下すまでもなく、何者かが男を射殺してしまったではないか。やはり公聴会を聞きに来たレイチェルは、そこに銃を持って呆然と立つウェインを見つけ、慌てて彼の手を引きながらその場から離れる。今こそ彼女はウェインが帰郷した理由を悟ったのだ。

 「復讐は正義ではないわ、それはただの自己満足よ!

 だがウェインは放心状態のまま、うわごとのようにおぞましい言葉を口走るだけだ。「ともかく、あいつを殺った奴に感謝したいくらいだ

 「なら、直接そうしたらどう?」

 感情に走った言葉を口走るウェインに苛立ったレイチェルは、彼をある場所に放り出してクルマで立ち去る。そこは、この街の悪の温床とも言うべき場所…悪党どもが巣くう怪しげなクラブだ。そしてそこは、例の悪の大ボス・ファルコーネ(トム・ウィルキンソン)の本拠でもあった。

 そんなファルコーネの前に単身やってくるウェインだが、所詮は小僧っ子。ファルコーネは彼などまるっきり屁とも思わない。「オマエは世の中を知ったつもりでいるのか? 所詮オマエは悪というやつが何も分かっちゃいねえんだよ!

 結局は根性だけあっても何もならない。手も足も出ないままウェインは、クラブを叩き出されるしかなかった。何よりツラかったのが、ファルコーネの指摘した事が図星だった事だ。ウェインはその場にいた浮浪者に自分の上等なコートを分け与えると、自分の身の回りのモノすべてを焼き捨て、存在をかき消すようにこの街から姿を消した…。

 それからというもの、ウェインは各地をさすらいながら、好んで底辺を這いずり回る暮らしを経験してきた。悪の気持ちを理解するため、あえて悪事にも手を染めた。そして流れ流れて行ったのが、くだんの中国辺境の刑務所だった訳だ。

 ラズ・アル・グール率いる「影の軍団」での日々は、ウェインに悪を理解させ、恐怖を克服させるためのものだった。

 デュカードは彼がこの場に持参した例の青い花をすりつぶすと、それを焦がして不思議な煙を立ち上らせる。さらにウェインに、その煙を思い切り吸い込め…と命じる。その花のエッセンスは…ウェインを幻覚の世界に誘い、彼の内なる恐怖と対峙させた

 それはあの洞窟のコウモリに象徴される、おぞましい恐怖のイメージ。

 だがしまいには、ウェインはそれをも克服した。そして師であるデュカードをしのぐまでの、武術の達人へと変貌したのだ。いよいよこれで免許皆伝か…。

 ラズ・アル・グールとデュカードがウェインに「影の軍団」に加わる第一歩として命じた事は、彼にとっては予想外のものだった。何と近くの村で盗みを働いた村人の首をはねて、これを処刑しろと言うのだ。確かに「悪に容赦は無用」ではある。だが、裁きもなしに一方的に処刑とは…。

 そんなウェインに、ラズ・アル・グールはとんでもない事を言いだした。

 「影の軍団」は悪と戦うために生まれた組織だ。そして実際にも、今まで数々の悪に腐敗した者たちを滅ぼしてきた。かつてのローマ帝国も、ヨーロッパのペスト大流行も、すべては「影の軍団」の仕業。そして、次はゴッサム・シティの番だ。腐りきってもはや処置のしようもないゴッサム・シティは、我々が滅ぼさねばならぬ。オマエはそのために見込まれ、ここに連れてこられたのだ…。

 これにはさすがにウェインも、言うことを黙って聞くわけにはいかなかった。「それは僕が目指していたモノとは違う!」

 たちまちラズ・アル・グールやデュカードと大立ち回りとなるウェイン。もちろんここまで知られた以上、ラズ・アル・グールもデュカードもウェインを生かしてここから出すつもりもなかった。

 ところが大立ち回りのドサクサで火が屋敷内の火薬に引火。あちこちで激しく爆発・炎上が起こり、「影の軍団」のメンバーたちが吹っ飛んだ。そんな最中、ウェインと戦っていたラズ・アル・グールも、崩れて来た柱の下敷きになって絶命。おまけに屋敷全体も大爆発だ。

 ドッカ〜〜〜〜ン!

 ヒマラヤの山頂に建造された巨大な屋敷は木っ端微塵。破片がすっ飛ばされる中、辛くも脱出したウェインとデュカードだが、デュカードはそのままもんどり打って谷底へと滑り落ちていく。慌てて師デュカードを追いかけるウェイン。

 間一髪、ウェインはデュカードのカラダが転落するのを、何とか崖っぷちで回避した

 気絶したデュカードの介抱を麓の寒村の住人に頼み、ウェインはヒマラヤから…そして自らの魂を探る旅から戻る決意をした。そんなウェインを、自家用ジェットと執事のアルフレッドがお出迎えだ。

 帰国途上のジェット機内で、今後を語り合うウェインとアルフレッド。アルフレッドは、ウェインが強い意志を持って何かを成し遂げようとしている事を察していた。

 「アルフレッド、僕には何かのシンボルが必要だ

 「何のシンボルです?」

 「悪が心底恐怖を感じるような、おぞましさの象徴だよ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まずはこいつを見ていただこう。

 マイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、ケイティ・ホームズ、ゲイリー・オールドマン、トム・ウィルキンソン、ルトガー・ハウアー、モーガン・フリーマン…まぁ、今やハリウッド・スター(笑)のつもりらしいケン・ワタナベはともかく、今回バットマンを盛り立てるべく集められた豪華キャストをご覧いただきたい。そこに豪華さと共に、何らかのキャスティング・センスの良さも感じてしまう顔ぶれではないか。つまり一言で言えば「分かってる」配役だ。例えばここに、申し訳ないがキャメロン・ディアズとかベン・アフレックとかを置いてみれば分かる。彼らが悪いという訳ではない。だが、置けば確実に彼らは浮く。これは、ある一定の何らかの美意識や趣味で貫いた選択であると言える。

 そして何よりバットマン=クリスチャン・ベールという選択こそがタダモノではない。

 ベールという俳優、とてもじゃないがトップスターとは言いかねる。だが映画が好きで、大作・ヒット作に限らず「面白い映画」が好きな方なら、このベールという男がここんとこ目が離せない存在だったとお気づきのはずだ。

 「黒いジャガー」リメイクシャフト(2000)でのケチな悪役あたりから、それは始まった。次いで登場したアメリカン・サイコ(2000)でのブチ切れ方のスゴイこと! あの映画での…悪趣味ポップスをガンガン流しながら女二人とベッドで汗を流しつつ、実は鏡に自分の姿を映しながら力こぶをつくってウットリ…という、とんでもない場面のインパクトは忘れがたい。ここで初めて、僕はクリスチャン・ベールという俳優の秘めた力を思い知った。

 その次にベールが選んだのが、近未来SF映画サラマンダー(2002)というのもスゴイ。何しろこの映画、近未来SFと言いながらドラゴンが火を噴き空を飛ぶというシロモノ。ハッキリ言ってSF映画ブーム、ファンタジー映画ブームのドサクサに紛れて登場してきた怪作なのだ。そういや共演のマシュー・マコノヒーもいきなり姿カタチがブチ切れていた。考えてみれば「黒いジャガー」のリメイクに出たがるという時点で特異な作品選択眼を伺わせていたベールのセンスは、ここでも遺憾なく発揮されているではないか。

 さらにさらに…ついに出てしまったのだ、リベリオン(2002)が。

 これは、またまた近未来SF映画で管理社会の恐怖を描いたモノ。だがそれだけならば、この映画は記憶に残るモノにはなってないはずだ。問題はここで展開されるアクション場面にある。

 クリスチャン・ベールたった一人に、敵は圧倒的に多勢。もちろん重火器装備。そんな連中に取り囲まれて、対するベールは二丁拳銃のみ。ところがベールはこの二丁拳銃を巧みに駆使し、素早くも淀みないカラダの動きで敵弾をすべてかわして、アッという間に自分は無傷のまま敵を全滅させてしまう。こんな…名付けて「ガン・カタ」なる新しい武術を、颯爽と…そしてヌケヌケと披露に及んだから、見ていたこっちは驚いた。ハッキリ言ってマンガもいいとこ、バカバカしいと言えばバカバカしい趣向のアクションなのだが、演じるベールは大マジメ。カラダを鍛え上げて、表情に一片のおふざけも漂わせず、ニコリともせず睫毛一本動かさずに敵をバンバン倒していくそのカッコ良さ! 見ようによっては次々とポーズからポーズへとキメまくる姿にも見え、どことなく「アメリカン・サイコ」での“自分にウットリ”のベッド・シーンをも彷彿とさせるところだが、ともかくこの演技は他の誰にも演じられるものではない。クリスチャン・ベール恐るべし!…の強烈なイメージを、世界の映画ファンの心に思いっきり焼き付けたはずだ。

 これに何より、こいつどこか変だよな(笑)

 そしてつい先日は、激ヤセして病気寸前という「マニシスト」(2004)もやってきた。さすがに僕はこれを見逃したが、今考えるとちょっと見るのが怖い気がしていたのかもしれない(笑)。あのスピルバーグの「太陽の帝国」(1987)の坊やがどうして?…と思われる方がいるかもしれないが、考えてみればアノ時点からベールは病んでいた(笑)。そう考えれば、これは当然の帰結かもしれない。

 そんな世界の映画界で今最もアブない男…クリスチャン・ベールを「バットマン」に起用するのは、むしろ当たり前と言えば当たり前だ。

 何しろバットマンは病んだヒーローなのだ。そして悪スレスレのダーク・ヒーローでもある。元々ティム・バートン版の時点から、それは明確になっていたではないか。

 それがクリスチャン・ベールという真にヤバイ俳優を得て、さらに明確になっただけだ。そしてベールのバットマンなら、つまらない訳がないのだ

 そして監督は、これまた怪作中の怪作「メメント」(2000)のクリストファー・ノーランと来る。こちらも危なさでは一歩も退かない。ドス黒くて危険なバットマンになるに違いない…少なくともシリーズの三作目、四作目みたいなコッケイなバットマンだけは避けられるはずだ。

 果たして、その期待は完全に満たされた

 まずはベールのバットマンは大成功。ベールの持ち味は、バットマンのキャラに何ともピッタリとハマった。…と言うより、ベールみたいな危ない俳優は、バットマン役みたいなキャラでもなければハリウッド娯楽大作の主役は演じられないのではないか。そういう意味で、これはベールにとって千載一遇のチャンスだったと言えるのではないか。

 集められた豪華キャストも、今回は見事に機能した。特に目に付くところを挙げていくとすれば…まずは何と言っても執事役のマイケル・ケイン。何をやってもケイン、来る仕事拒まずのケイン…だったマイケル・ケインだし、そんな彼をこよなく愛した僕だが、それにしても今回の彼は見事だった。ユーモアと暖かさを漂わせて、しかも英国流の気品もある。サイダーハイス・ルール(1999)以来の名演と言っていいかもしれない。

 さらに驚いたのは、ゲイリー・オールドマン。バットマンにオールドマン登場と来れば、これは悪役間違いなし…と思いきや、何とコレが善玉役。しかも善良かつ温厚なお人好しオジサン役とは意外中の意外。しかも、これが実にいいのだ。思えばゲイリー・オールドマンもその特異な個性で注目を集めたはいいが、たちまちハリウッドのタイプ・キャスティングの中で類型的な悪玉俳優としてどんどん消費されてしまった。アニメの声の出演だった「キャメロット」(1998)でも悪役だったのには恐れ入ったし、「ロスト・イン・スペース」(1998)あたりはもはや食傷気味だったからねぇ。温厚な善人役が、実はすごく新鮮に感じられたりする。そしてこういう役をやらせても、彼は実にうまいのだ。思えばハリー・ポッターとアズカバンの囚人(2004)あたりから意識的に役柄を変化させて来ているのかも知れない。

 あと、個人的に嬉しかったのは、久々にルトガー・ハウアーの顔を見れた事だろうか。一頃はあれほど売れていたのに、今ではサッパリなだけに喜びもひとしお。彼の顔をスクリーンで見たのは、下手したらノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(1997)以来だろうか?

 それより何より驚いたのは…悪玉側の精神科医ジョナサン・クレインを演じたキリアン・マーフィーだ。まだ若いのに、メチャメチャ目立ってるではないか。誰だコイツは?…と見てみたら、何とあの異色作28日後…(2002)で主人公を演じていた男ではないか。これにはすっかり驚いてしまった。ある意味で、クリスチャン・ベール以上に目立っている。これは先々かなり伸びてくるのではないか?

 そしてこんな素晴らしい役者たちを得て、クリストファー・ノーランが取った手法は…より現実味のある物語の創造だった。

 アメコミの映画化だから、それはどうしたってリアルじゃなくなる。どこか荒唐無稽になるし、そこはお約束の部分になっている。ティム・バートンさえ脳天気な正義の味方物語にしなかったものの、これをダークなファンタジーとして描いた。だからゴッサム・シティはどう考えても地球上にはない街に描かれている。

 ところが、どうもこの映画では違うらしい

 ゴッサム・シティは、中国やヒマラヤと同じこの地球にある設定だ。どう見てもそうなっている。つまりは我々が住む世界だ。視覚的にもこれは強調され、以前のバットマン・シリーズは人工的に見える世界観だったが、今回はCGではなくセットも建て込んでいるし、ロケ撮影も多い。ゴッサム・シティの場面ですらシカゴにロケしたらしい。

 これはノーラン監督の元々のシリアスな持ち味にとっても、そしてバットマンが他のヒーローと違って唯一超能力を持たないリアリスティックな存在であるという意味でも、実に賢明な選択だったと言える。題材と表現が、見事に一致しているという事だからね。

 リアルな土台に立った、すこぶる異常で特異な物語。それは…バカバカしい事でも鬼気迫るマジで取り組む、クリスチャン・ベールというユニークな俳優の個性にも合っている。こういう器を得て初めて…それまで単に「危ない俳優」だったベールは、かなり深みのある人物像を演じる機会を得たのだ。

 そんなバットマンが悪にとって「恐怖」の存在であることを、映画としてちゃんと視覚的に見せたのも面白い。例えば、麻薬取引現場にバットマンが現れるくだり。チンピラどもが一人また一人と襲われていくあたりの描き方は、まるで「13日の金曜日」でジェイソンに襲われていく若者たちを彷彿とさせる演出だ。ホラー映画みたいなタッチで、悪党たちはやっつけられていく。ホラー映画ではないものの、主人公と観客を心理的に追いつめる「メメント」インソムニア(2002)…などを得意とするクリストファー・ノーラン監督なら、こういう作り方はお手の物だろう。

 しかも“「僕のことを見捨てたりしない?」「決して!」”とか、“「復讐は正義ではないわ、それはただの自己満足よ!」”とか、“「人は中身ではなく、行動が決まるのよ」”とか…いちいち覚えてられないのが残念だが、無数の名ゼリフに彩られているのも本作の特徴だ。それらはあたかも人生の真理を言い当てる「格言」のように配置され、事実上一人の青年の「成長物語」として構成されたこの作品に、さらに重みとリアリティを与えている。そんなセリフが並み居る名優たちによって口にされるのだから、まさに御利益も倍増だ。

 前シリーズのケバケバしい三作目、四作目は問題外として、どこか人工的で閉ざされた世界だったティム・バートンによる二作をもしのいで、今回のバットマンはスケール感を増しているように思える。以前のバートンによるバットマンは、どこか本当に好む観客を選んでいたようなところもあったが、今回のバットマンはぐっと普遍性があるバットマンだ。それは我々の住むリアルな世界と地続きである点からもそうだし、そこに我々にとって身に覚えがある感情が含まれているからだ。

 

見た後での疑問

 だから面白かったし、とても興味深く見た。名優たちの共演も楽しんだし、何よりクリスチャン・ベールの初めて娯楽大作にハマった勇姿が素晴らしかった。非常に特異な世界を描いていながら、基本的にハリウッド王道の「成長物語」に帰結している作戦にも感心した。キャスティング、世界観、画面のトーンから脚本に至るまで、これは見事なモノだと大いに感心した。

 案の定、世評でもこのバットマンはかなり好評だ。それはそうだろう。面白いしハマってるからね。僕も…ひょっとしたらティム・バートン版より楽しんだかもしれない。この映画を楽しかったと言って、何もはばかるものはないのだ。

 だが…。

 なぜだろう? この感想文を書こうとしても、まるで筆が進まない。

 もちろん、映画を見るという行為は「感想文」を書くためにあるわけではない。単純に楽しんでそれっきりという映画があっていい。実はこれまでだってそうしてきた。僕は見た映画の感想文を全部書いたわけではないし、書かなかった映画が必ず気に入らなかった訳でもない。気に入った気に入らなかったという事は、感想文を書く書かないとは無関係だ。

 それでも今回の「ビギンズ」の場合、僕はこれほど映画に感心したんだからねぇ

 ところが感想文を書こうとしてマックのキーボードに向かっても、ものの5分でイヤになってしまう。感想文を映画のモノサシにするつもりはサラサラないが、それにしたってこんな事は初めてだ。確かにここ数日体調を崩したという事はあるが、実は書く書かないにそんな事はあまり関係がない。

 とにかく書けない。何かが変だ。

 ここであえて申し上げるが、僕は頭で考えて文章を書かない。アレは手が勝手に書いている。最初にどう書こうかなどとは考えない。行き当たりバッタリで書いているのが本当だ。構成などロクに考えた事もない。

 だが、手が文章を導いてくれる。僕ではなく、手が考えているのだ。そして快調なら快調なほど、文を書くスピードも速い。それが気に入った映画の事なら、なおさらだ。

 逆に言うと、「書けない」という事はそこに何かおかしな事、うまくいってない事があるからではないか?

 再度言っておくが、僕は自分で考えて書いてはいない。手が勝手に書いている。そして僕の手は、僕よりも頭がいいようだ。だから僕自身は簡単に丸め込まれたりダマされたりしても、この手は絶対にダマされない。ウソ臭いと思ったらガンとして動かない。そういうものなのだ。

 だからこの映画の感想文で僕の手が動かないとしたら、この映画に何か特殊な事情があると言わざるを得ない。僕自身が気づいていない、何か奇妙な点があるはずだ

 不思議な事に「なぜ書けないのだろう?」と考え直し、「自分は本当にあの映画が気に入ったのだろうか?」と自問自答し始めたところで、ようやく筆が進み始めた。いや、むしろ一気に書くペースが速まった。やはりこの映画には、何か辻褄が合わない事情があるはずだ。ただし…それが何だか分からない。書けば書くほどナゾが深まったのも確かだ。

 題材は監督の狙いとピタリ。ついでに言えば監督の資質ともピタリだ。主演男優もこれまた持ち味がズバリ的中で、しかも期待通り好演している。彼を取り巻く共演者たちも豪華極まる。その豪華さを楽しむだけでなく、彼らがまた何ともこの作品の世界観と合っているのだ。キャスティングには、明らかに監督のセンスが感じられる。

 物語には普遍性があり、面白い展開やら見せ場もふんだんにある。出てくる人物像も忘れがたく、彼らがそれぞれに含蓄のあるセリフを言うのもうまい設定だ。

 よりリアルな作品を目指すという監督のスタンスは、この作品のコンセプトとも一致して見事に効果を挙げている。視覚的も申し分ないし、何より今回はリアルな映像を目指して実写にこだわったのが効いている。バットモービルによる派手なカーチェイスも、なるほど実写ならではの迫力で重量感がある。また屋外に持ち出されたカメラがスケール感を増している。安っぽくCGを垂れ流さなかったのも正解だ。

 で、僕は感心したし、面白いと思ったのだろう?

 ならば何をそんなに引っかかっているのだ。何が気に入らないのだ。何から何まで素晴らしいこの作品の、一体何がマズイというのだ。すべての要素が申し分ないなら、それは優れた作品になるのではないか?

 いや…そうとは限らないかもしれない

 

見た後の付け足し

 イイ映画には、どこかゾクッとする瞬間があるものだ。

 駅馬車(1939)で西部の荒野を行く駅馬車が、前方に人影を見つけて停車するくだりがある。そこにいたのは悪名高いリンゴー・キッド(ジョン・ウェイン)。颯爽と立ちはだかる彼の元に、カメラがスーッと近づいていくあたりの呼吸の見事さ。その瞬間、僕らは彼がこの映画のヒーローだと信じて疑わない。

 ジャン=リュック・ゴダールのはなればなれに(1964)。喫茶店でアホな三人組(サミー・フレイ、クロード・ブラッスール、アンナ・カリーナ)が、退屈しのぎか何とも妙ちきりんなダンスを延々と踊る。その何ともけだるくも楽しげなこと。

 雨に唄えば(1952)で、雨の中で感極まって歌いまくり踊りまくる映画俳優(ジーン・ケリー)が、「アイム・ハッピー・アゲ〜ン!」と発声するかしないか、サッと横っ飛びして街灯に片手でぶら下がる。そのあうんの呼吸の振り付けとカメラのタイミングの見事さ。

 旧ソ連の不思議な恐怖映画妖婆・死棺の呪い(1967)。まだ坊主の卵でしかない神学生が、死んだ娘の祈祷を頼まれおっかなびっくり、教会で亡骸と一緒に閉じこめられるハメになる。ギギギ〜という音と共に棺のフタが開いて、そこからス〜〜〜ッと夢遊病者みたいに立ち上がった娘の亡骸。そのぎこちなくも薄気味悪く、気色悪いながらもユーモラスな、何とも奇妙な味わいは忘れがたい。

 ジョン・ヒューズのプリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角(1986)。貧しいけれどセンス抜群の女の子(モリー・リングウォルド)を、昔から片想いしていたイカレ気味の男の子(ジョン・クライヤー)。彼女の気持ちが自分にではなく金持ちのボンボン青年にあると知っての切なさゆえか、ヴィンテージなレコード店でロックンロールに合わせてシャウトしながらヤケクソに踊りまくる、何ともバカバカしくも嬉しくなる一瞬。

 キン・フーの出世作大酔侠(1966)。誘拐された兄の行方を捜しに来た、男装の麗人剣士「金燕子」(チェン・ペイペイ)。だが、彼女を迎えた宿屋の一階にある酒場は、たちまち不穏な雰囲気に包まれる。他の客を閉め出した荒くれ者たちが扉を閉ざし、辺りには殺気がたれ込める。酒場の外はにわかにかき曇って、稲妻が瞬き雷鳴が轟き渡る。大勢の荒くれ者に取り囲まれながら、平静を装って卓で酒を飲む「金燕子」ではあるが、あたりに張りつめた緊張感に気づかないはずはない。その今にも爆発しかねない、酒場内に充満した一触即発の空気…。

 ジョン・ヒューストンの遺作「ザ・デッド」(1987)。20世紀初頭のダブリンのクリスマス、若くして病で亡くなった初恋の人への妻(アンジェリカ・ヒューストン)のいまだ消え去らざる想いに、深い動揺と感慨に耽る主人公(ドナルド・マッキャン)。映画は“オーリムの乙女”なる甘く美しい歌が流れる中、しんしんと雪が降り積もっていく夜の街の様子、そして野原の様子を写し出す。そこに主人公のモノローグ…「生ける者の上にも、死せる者の上にも、雪は等しく降り積もる」…。その、心に染み渡るような絵と音。

 コマンドー(1985)で娘をさらわれ怒り心頭の元・特殊部隊員(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、悪党の手下を追っているうちスチュワーデスの姉ちゃん(レイ・ドーン・チョン)を巻き添えにしてしまう。だがしまいにはこの姉ちゃんもノリノリで加勢。ロケットランチャーをブッ放して敵を攻撃。そのおかしくも痛快な事ったら。

 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダの「大理石の男」(1977)冒頭で、ビルの廊下をガッシガシ大股で歩く男勝りのヒロイン(クリスティナ・ヤンダ)。彼女は映画学校の生徒で、今は卒業制作の真っ最中。1950年代の「労働英雄」について、ドキュメンタリー映画をつくろうと奮闘している。老カメラマンやら頼りない助手の男の子を叱咤激励しながら、自らもカメラ担いで飛び回る頑張り屋。それがスターリン時代の悪夢を蘇らせてしまうとは、この時点では夢にも思っていない。そんな彼女の眼差しのまっすぐさを象徴するように、広角レンズでガバッと画面にとらえられた、肩を怒らせながらの豪快な大股歩き。

 ジョン・カーペンターのリメイク版「遊星からの物体X」(1982)。南極基地にかくまわれた犬一匹。基地内は静まりかえり、ただ隊員の一人がラジカセで流しているスティービー・ワンダーの「迷信」が鳴り響いているだけだ。だがオリの中に入れられた犬の様子がおかしい。誰もまだ気づいてはいないけれど、基地内に漂うイヤ〜な雰囲気…。

 黒澤明の「用心棒」(1961)では、二つの田舎ヤクザが対立する荒廃した宿場町が舞台だ。主人公の素浪人・三十郎(三船敏郎)はその片方に自らを「用心棒」として売り込んだあげく、いざ「出入り」だという直前に「やめた!」とフケてしまう。だがこうなったら振り上げた拳は下げられない。両陣営の総勢が宿場の大通りに集まった一触即発の中、「これでこの町もキレイになるぜ」と言わんばかりにゴキゲンにニヤニヤしながら火の見櫓に上がる三十郎。その眼下でおっかなびっくりお互いに刀を振り回し合う両陣営のヤクザたち。シネマスコープ・サイズを生かした、その絶妙の構図。

 マーティン・スコセッシの初期の佳作「ミーン・ストリート」(1973)。リトル・イタリーの裏町のバーでお仲間とシケ込んでる主人公(ハーベイ・カイテル)の元へ、女を引き連れて悪ダチ(ロバート・デニーロ)が入ってくる。ローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」にピッタリとマッチした、絶妙のスローモーション・ショット。

 ミケランジェロ・アントニオーニの欲望(1966)では、スウィングイング・ロンドンで調子に乗る売れっ子カメラマン(デビッド・ヘミングス)が主人公。ところがある日、父と娘ほども歳が違う男女が小高い丘の公園に、いかにも訳アリの様子で上っていくのを目撃。ついついカメラを持ってその後をついていく。その時の、風に吹かれて木の葉がサラサラと音を立てる不穏な気配。

 カロリーヌ・リンクがエーリッヒ・ケストナーの小説を映画化した点子ちゃんとアントン(2000)。冒頭クレジット・タイトルが流れる中、抜けるような青空に点子ちゃんとアントンの二人が、トランポリンで気持ちいいほど元気よく舞い上がる。面倒くさい理屈抜きで、子供の可能性や自由な心を見る者に強烈に実感させる一場面。それを目にする観客の幸福感たるや…。

 いやいや、別に映画史に残る名作やら大ヒット作ばかりを挙げる必要はない。例えば最近見た中では愚作だと思ったサハラ/死の砂漠を脱出せよ(2005)でさえも、そんな瞬間が確かにあった。ロープに引っぱられて海底から揚がってきた宝物の上に乗って、ヒーローのダーク・ピット(マシュー・マコノヒー)がグランド・ファンク・レイルロードの「アメリカン・バンド」に乗って大見得切って登場するあたりのバカバカしい楽しさ。僕もあのイマイチな映画の中で、あそこだけは断然好きだな。あの瞬間だけなら何度でも見たいよ。

 映画には、それってとても大切な事だと思う

 うまく説明出来ないけれど、映画には何かそんなサムシングを感じさせる瞬間が多々ある。ストーリーだ映像だなどとあれこれ言ってはみても、結局僕らが映画に快感を感じるのはそんなサムシングの瞬間を体感する時ではないのか。僕は最近つくづくそう思うのだ。

 こんな事を言っては身もフタもないのだが、ひょっとしたら僕はこの「バットマン・ビギンズ」に、そんなサムシングを全く見いだせなかったのかもしれない

 いや、単なるイチャモンかもしれないとは思う。こんな事を言えば怒られちゃうとも思う。たぶん僕は映画が分かっていないのだろう。

 でも、本当にそう感じてしまったのだから仕方がない

 確かにストーリーがいい、キャラクターがいい、脚本がいい、絵づくりから画面のトーンもいい、配役が良くて役者の演技もいい、映画の世界観そのものもいい。

 だから一見映画自体もよく見える。いや…実のところ、かなりいいのだ。普通ならいい映画だと思うだろう。だが、これだけの演出、脚本、演技、撮影、美術などなどの達成度にも関わらず…それゆえ映画の質もかなり高くなっているにも関わらず…なぜか全くサムシングを感じさせないとしたら、それはかなり異例な事ではないのか?

 何でそんな事を言いだしたかと言えば、僕はこの映画のアクション場面にふと思い当たったからだ。

 何がどうなっているのか、見ていてあまりスッキリと分からない。位置関係やら空間設定やら物事の動作の段取りに至るまでが、あまりハッキリとは掴めない。

 例えば、バットモービルが街を爆走するカーチェイス場面。原寸大のバットモービルを建造し、CGではなく公道に持ち出して実際にスタントをやって撮影したのは賢明だった。そのため、実に重量感ある迫力が生まれた。そういう選択を下したというのは、まさに監督ノーランにある種の見識があるからだ。

 だがカーアクションそのものは、何がどうなっているのかスッキリは見えてなかったんじゃないだろうか。それがハッキリと露呈しなかったのは、先に述べた「見識」のおかげだと思う。

 それ以外でもバットマンが悪漢と戦うアクション場面では、どうなっているのか分かりにくいものが多い。前述した麻薬取引現場にバットマンが襲いかかる場面の場合は、どこから襲ってくるか分からない…という悪漢側から見たホラー映画的状況という演出になっていたから、今どうなっているのかが分かりにくくても構わない。…というか、その方がいい。だからこれらの場面では、比較的ボロが出にくかったんだろう。だがそれ以外でも…概ねこの映画のアクション場面は、見ていてスッキリ描かれているモノがあまりない

 最も分かりやすい例は…谷底へと転落しようとするリーアム・ニーソンを、クリスチャン・ベールが必死に止めて助ける場面かもしれない。さすがにここでは、何が起こっているのか観客に分からない訳はない。だが本来だったら…二人がどんどん滑り落ちている距離の長さと早さを描写する、引きのショットがあってしかるべきではないのか。あるいは落ちようとしている谷底の奈落ぶりを強調するショット、さらに広大なヒマラヤでの二人のちっぽけさを見せるショットが、どこかにあって当然ではないのか。そもそもヒマラヤの途方もなさや果てしなさが、この映画では描かれていたか。そういう何気ない感覚は、割と省みられてなかったようには思えないか。

 確かに僕が最近何かと嘆くように、近頃の映画のアクション演出はなってない。空間設定や距離感、位置関係から段取りの見せ方に至るまで、なっちゃいないのが多すぎる。だからこの「ビギンズ」もそういう流れの中にあるのだ…と決めてかかってもいいところだが、どうもそれとは違う気がしてならない。なぜなら、それ以外のクリストファー・ノーランの選択やセンスは、いかにも完璧なように見えるからだ。「パール・ハーバー」などのマイケル・ベイの下手さみたいに見てしまっては、いくら何でも間違いだろう。

 ここでのアクション描写のイマイチ感は、ひょっとしたら映画演出…さらには一種の「映画センス」みたいなものの一部が欠落している事を意味しているのではないか。「ヘタ」ではない、元から「ない」のだ。

 無茶は承知で言っている。だが、そうでも考えないと理解出来ない。

 そういう目でノーラン監督の以前の作品を見ると、「メメント」は映画の時制そのものを一旦破壊する事で面白みを出している作品だから、そこで生まれているゾクゾクとする面白さが果たして「映画文法」の中で生まれたものかどうかが分からない。そこでの映画文法のいじり方が、あくまでシークエンス単位である事が気になる。それは…いささか乱暴な言い方をすれば、小説などでも実現出来る面白さだからだ。決してカットそのものや、カットとカットのつなぎで生じるゾクゾク感ではない。そういう映画があっちゃいけないと言っているのではない。あってもいいが、それがノーラン監督の「映画センス」の証明には必ずしもならないのではないか…と言っているのだ。

 そして「インソムニア」。これは白夜が続く風土と自らを苛む罪悪感から、アル・パチーノ演じる主人公がどんどん不眠症に追いやられていく話。それを見ている観客も、主人公の不眠症的な焦燥感を仮想体験していくような映画になっている。つまり、見ていてどんどんかったるくなっていくのだ。「かったるくなる映画」をつくる…という意味では、それは確かに素晴らしい「映画センス」なのかもしれない。だが元々鋭い「映画センス」に欠ける作家として、自らの欠点を覆い隠す「隠れミノ」にはなった可能性も否定はできない。

 こうなってくると、申し訳ないがクリストファー・ノーラン監督の「映画センス」欠如疑惑について、僕としてはかなり疑わしいと言わざるを得ないのだ。

 もちろん、オマエはずいぶん大げさな事を言っていると言われれば、確かにそれまでだ。アクション演出のイマイチ感だけで、「映画センス」に疑いを持つのは乱暴というものだろう。それに、そもそもそんな「映画センス」の欠如した映画など、この世にゴマンとあるに違いない。…というより、絶対にある。いやいや…圧倒的にそんなモノがない方が多いんじゃないだろうか?

 たぶんこの「映画センス」は、おそらく傑作・名作の類にだけあるわけじゃないからクセモノなのだ。あるいは愚作の中にも、コッソリ潜んでいるのかもしれない。映画全体の出来は芳しくなくても、なぜか捨てがたい作品…そんなところにも、この「映画センス」は潜んでいるのかもしれない。

 一方「ビギンズ」は、先ほどから何度も述べているように、かなり優れた要素を持った作品だ。美点は多い。たぶん見た方はそれなりに満足感を感じるだろうし、イイ映画だと思うはずだ。僕もそう思った。だったら、それはそれでいいではないか。…確かに、そう言ってしまえばそれまでなのだろう。

 だが、やっぱりこの映画ってどこか「映画未満」な気がする

 映画なんだけど…これほどよく出来ているだけに、その「サムシング」がないのが極めて奇妙なのだ。そしてどこか歪んで見える。それ以外の選択やセンスは完璧。なのにサムシングには欠ける…それは映画として、かなり大きな欠陥を孕んでいるのではないだろうか。

 ひょっとしたら、クリストファー・ノーランって「映画」をつくろうとはしてないのかもしれないのだ。

 

見た後の付け足しの付け足し

 それにしても、さまざまな面で質の高さを感じるだけに、余計に「サムシング」の欠如が納得出来ない。実に惜しい。実に奇妙だ。僕にはどうしても、そこが引っかかるんだよね。

 実際この映画を見る前に、すでに僕はかなり期待を抱いていた

 すでに述べているように、この映画の質の高さはかなり予想がついていた。監督もピッタリな感じなら主役もハマってる感じだった。何よりバットマンというコンセプトに似合ってると思ったし、豪華キャストも期待が大きかった。だから面白くなりそうだし、なるしかないんじゃないかと思った。実際に映画が公開されると、かなりいい評判がどんどん伝わって来た。…つまり僕が実物に接する前に、期待は最大限に膨らんでいたと言っていい。

 だからひょっとすると、それで今ひとつ乗り切れなかったかもしれないのだ。

 実際のところを言えば、いろいろ冷静に考えてもやっぱり映画としての「サムシング」に欠けていた…というのが僕の今の正直な結論だ。やっぱり何か足りなかったはず…と僕は思っている。だが、単に期待値が高すぎたからだ…という可能性もない訳ではない。

 ここでは念のため、一応その可能性もある…と押さえておく必要があるかもしれない。

 

 

 

 

 

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