「ザ・インタープリター」

  The Interpreter

 (2005/06/06)


見る前の予想

 シドニー・ポラックの新作…と聞いて、僕はすごく久々な気がしたんだよね。

 実際にはかつての全盛期ほど活発ではないものの、ポツポツ…とではあるが監督作品を発表してはいた。だが最近は…と言えば、「サブリナ」(1995)、「ランダム・ハーツ」(1999)というハリソン・フォード主演の2作しかない。で、これらがどっちもパッとしなかったから、ご無沙汰なムードが漂ってしまったんだろう。

 しかもこの人、最近は何かとプロデューサーとして名を連ねているから尚更。さらにウディ・アレン「夫たち、妻たち」(1992)、スタンリー・キューブリック「アイズ・ワイド・シャット」(1999)…と役者業も本格的に始めちゃったみたいだから、余計に監督業がお留守に見えてしまう。実際のところ、僕はもうこの人監督からは足を洗うのかも…と思ってたんだよね。

 だけど昔はこの人はバリバリの第一線の作家だった。問題作を娯楽味たっぷりに、スターを起用して面白く作り上げる名手だった。その全盛期だった1970年代から1980年代前半と言えば、まさに僕の映画原体験の時代。だから僕にとっては、シドニー・ポラックと言えばアメリカ映画の面白さを体現するような人だった。

 そんなシドニー・ポラックが帰って来た。それだけでも僕はワクワクする。

 しかも今回は、主役にニコール・キッドマンショーン・ペンと来た。現代アメリカ映画で最もホットな二人の競演だ。ポラックの本気が伺えるではないか。しかもしかも、この二人の顔合わせって…ちょっと今まででは考えにくいのではないか。ポラック抜きで考えても、この二人の競演というだけで注目に値いする

 ビッグ・バジェットの超話題作ではなくA級娯楽映画のアベレージ作として、アメリカ映画としては久々に期待できる作品ではないだろうか。「“ザ”・インタープリター」ではなくて「“ジ”・インタープリター」ではないのか?…という疑問は、この際どうでもいいではないか(笑)。

 それとも、母音の前の「THE」の発音…云々って、今はもう関係ないんだっけ?

 

あらすじ

 アフリカ・マトボ共和国。独裁者アール・キャメロン大統領が幅を利かすこの国の田舎道を、炎天下に一台のクルマが走って来る。乗っているのは現地の人間らしい黒人男性と、その仲間らしき白人男性。さらにフランス人カメラマンのイヴァン・アタルだ。彼らはどうもこの国で起こった大虐殺について調べているようで、殺された人々の名前をノートに書き留めて記録していた。

 彼らは荒れ果てたサッカー場へとやってくると、そこでクルマを停めて外に出た。ただし、クルマから出たのは前述の黒人男性・白人男性の二人だけ。カメラマンのアタルはクルマで待機せよと告げられ、渋々従った。

 ボロボロのサッカー場には、何人かの子供たちが遊んでいた。だがそこに二人の男性が現れると、「死体が見たいのか?」と言って彼らを競技場の地下へと連れて行く。果たしてその地下室には…立ちこめる異臭の中に、累々たる屍の山が築かれているではないか!

 だが、二人が無事だったのもそこまでだった。子供の手には銃が握られ、二人に向けて乱射される。たちまち二人の男性は、血を流してその場に倒れ込んだ

 一方、クルマの中で待機していたアタルは、銃声を聞いて事態を察した。アタルは慌ててクルマから飛び降りると、物陰に隠れる。

 すると…どこからともなく現れた高級車から、一人のスーツを着た黒人男性が現れた…。

 さて舞台は変わって、ここはニューヨーク・マンハッタンの国連本部。本会議場では今日も各国の要人を迎えて、あらゆる国際的な問題についての討議が行われていた。透き通るような白い肌の女ニコール・キッドマンは、この国連で働く職員の一人。彼女は今日も本会議場に設けられた特設ブースの中で、珍しい地域の言語を英語へと同時通訳している

 ところが本部への入場者をチェックする探知機の故障から、突然全施設からの避難命令が出される。それでもそんな事は日常茶飯事なのか、職員たちは慣れたものだ。ザワザワと国連本部から退去する職員たち。

 むろんキッドマンも同僚たちと外に出たが、夜も更けてから私物を置き忘れていた事に気づいて、一人で本部ビルに舞い戻った。

 真っ暗で人けのない本部内。

 狭く暗いブース内に入ったキッドマンは、室内の蛍光灯のスイッチを入れる。だが古くなった蛍光灯はすぐには点灯しない。そんな時、彼女は聞いてしまったのだ…あのささやき声を

 それは聞き慣れない言語で、本会議場で電源が入ったままになっているマイクから拾われた声だった。だがその言葉を聞いて、キッドマンはサッと顔色を変える。果たしてその言葉はどのような意味であったのか…。

 ところがタイミング悪く、いきなり寝ぼけたように蛍光灯が点灯した。ブースの窓が突然明るくなり、外からキッドマンの姿がミエミエになる。慌てたキッドマンは急いで蛍光灯を消し、ブースから逃げ出すように飛び出した。

 その頃、場末のバーで飲んだくれる一人の男がいた。その男ショーン・ペンは、演奏中の店のジュークボックスの電源コードを引き抜く。そしてギョッとする客たちを横目に、新たな曲を選んで流し始める。どうも彼にとって思い入れのある曲らしい。さらに彼は公衆電話から電話をかけると、受話器の向こうから流れてくる声に聞き入った。それは女の声だ。

 「外出中なので電話に出る事が出来ません。ご用のある方はメッセージをどうぞ」

 一回聞くと電話を切り、再び電話をかけて同じメッセージを聞く。だが酔いどれたショーン・ペンの表情はあくまですぐれない。

 さて翌朝、愛用のスクーターで出勤のキッドマン。だがバックミラーを見ると、後方から煽るように高級車が接近してくるではないか。他のクルマが割って入ったおかげで大事には至らなかったものの、明らかに彼女を狙ったとしか思えない

 そんなキッドマンは、上司から内密な打ち合わせの席上に呼ばれる。それはアフリカのマトボ共和国の要人たちからの、国連への要請を聞くミーティングだった。彼らは同国の大統領アール・キャメロンに、国連本会議場での演説を行う機会を与えるよう頼みに来たのだった。キッドマンはこの国の珍しい言語クー語を理解する数少ない通訳だったため、この席に呼ばれたのだ。

 実はキャメロン大統領は、国内で起きた虐殺の責任を国際法廷で問われようとしていた。そこで起死回生の策として、国連総会で弁明演説をぶとうと画策していたのだ。アレは虐殺ではなくテロ対策として仕方なかったのだ、今後も民主化のためにさまざまな努力をする…と。

 「大統領は元々が教師…“先生”ですから」

 そんなマトボ共和国の要人の言葉を聞いて、キッドマンの表情がにわかに曇った。彼女には例の「ささやき声」の意味が分かったのだ。

 やがて派遣されたのは、外国要人の警護を行うシークレット・サービスのメンバー、キャサリン・キーナーとその上司…あの酒場で飲んだくれていたショーン・ペンだ。同僚が何かと気遣うペンは、どうやら最近まである出来事で仕事から離れていたらしい。

 彼らが今回かり出されたのは、マトボ共和国のキャメロン大統領暗殺計画に関する捜査だ。

 実は先日キッドマンが聞いた「ささやき声」は、“先生はここを生きては出られないぞ”…というものだった。その時は言葉の意味が分からなかったキッドマンだったが、翌日マトボの要人たちが大統領を「先生」と呼んでいた事から事情を察したのだ。

 だがペンたちには、そんな通報そのものがマユツバものだった。そもそも珍しい言語で、ニューヨークでも解する者が何人もいないクー語…その「ささやき声」を、たまたま偶然その言葉を知っている者がその場に居合わせて、聞き取ってしまうなんて事があるものだろうか? ともかく通報者であるキッドマンから事情を聞こうと、ペンとキーナーは国連本部に乗り込む。

 だがこの場所は、アメリカであってアメリカではない。どうも勝手が違うものを感じながらも、キッドマンと接触を持つペン。だがキッドマンとペンの会話は何ともかみ合わない。そもそもキッドマンは自分が疑われているようなのが面白くないし、ペンが自分を警護するのではなく尋問しているのが気に入らなかった。一方ペンはと言えば、彼女の第一印象を同僚キーナーにこう告げる。「間違いない、彼女はウソをついている」

 だが今アメリカは、国際的に評判を思い切り落としていた。こんな時ここで外国要人が暗殺されるような事があれば、まさに国家の威信に関わる。ここは大事をとって、最悪の事態に備えねばならない。そんな中、「声」を聞いたキッドマンを格好のオトリとして利用するという捜査方針が打ち出されるが…。

 そんな緊迫した事態の中、キッドマンは夜な夜な公衆電話から…そして電子メールで…何者かとの接触を続けていた。「今どうしているの? 必ず連絡して…」

 さてペンとキーナーを中心に、警察、FBIやCIAなども交えた合同捜査会議では、この一件に関するすべての背景が改めて洗われていた。まずは渦中の人物アール・キャメロン大統領。かつては国に理想と平和をもたらす人物として登場してきた英雄が、いつしか腐敗して独裁者になり果てた。そんな彼には政敵が二人…反政府を掲げる平和主義者のゾーラなる人物と、現在はこのニューヨークに亡命中のジョージ・ハリスだ。

 また、通報者であるニコール・キッドマンの過去も洗われた。彼女は元々マトボ共和国に暮らす白人一家に生まれた子供だったのだが、両親と妹は大統領側が仕掛けた爆弾の事故で死亡。彼女と兄の二人だけが生き残ったという過去を持っていた。こう見ていくと、キッドマン自身もかなり怪しい。

 捜査本部にはキャメロン大統領の外人警護役でもあるジェスパー・クリステンセンも加わり、キッドマンのウソ発見機を使った尋問が行われた。だがその場に立ち会うクリステンセンを見たキッドマンは激しく動揺し、ウソ発見機での真偽の判断は不能。さらにペンたちが席を離れた隙にキッドマンを挑発するクリステンセンに、ペンは不快なものを感じずにいられない。「ハッキリ言っておく、今後アメリカ市民に尋問する時には必ず許可を取れ!

 だが、そんなクリステンセンからキッドマンの過去を示す証拠が送られて来た時には、さすがのペンも不信感を再燃させない訳にはいかなかった。それは例の大統領の政敵である平和主義者ゾーラの集会に、支持者として立ち会っているキッドマンの姿をとらえた写真だ。それまで国連職員として「無色透明」の立場で関わっていると語っていたキッドマンに、ペンはこの写真を直につきつける。一体何を隠しているのか…ペンはキッドマンが信じ切れなくなっていたのだ。

 だがキッドマンは、そんなペンの疑いを故郷の「クー族の風習」を語って否定する。家族を殺められた時、クー族はその仇の手足を縛って、水に溺れさせるか否かを決める。溺れさせたら、彼らは一生肉親を失った悲しみから逃れられない。だがもし救ってやる事が出来たら…悲しみを過去のモノとして解放される事が出来るのだ。キッドマンもそんな故国の風習を信じていた。

 「復讐は安易な解決でしかない。私は国連の理念を信じている。私は銃に銃ではなく、言葉で対峙しようとしているの

 そんなキッドマンの言葉を聞いても、どうしても納得できないペン。そんな彼には、彼なりの事情があったのだが…。

 ところが帰宅したキッドマンを、窓の外から仮面をかぶって脅す人影が!

 近所の住人からの通報もあり、ペンとキーナーに警察関係者もやってくる。さすがにキッドマンの身辺も危うくなって来たため、彼女にも警備がつくようになった。怯え苦しむキッドマンに、ペンは初めて苦しい胸の内を語るのだった。

 実はペンの妻は男と出奔したあげく、思い直して帰宅しようと決心した直後、相手の男の運転ミスで交通事故死したのだった。ペンはついつい本音を吐き出すように語る。僕はあいつを溺れさせたい、顔を水に押しつけて殺してやりたい…。

 「僕は、クー族にはなれない…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして打ち解けたように見えたペンとキッドマンだが、まだまだ彼女は何かを内に秘めていた。24時間監視している警護スタッフの目を盗んで、突然接触してきたフランス人カメラマンのイヴァン・アタルと会うキッドマン。アタルはキッドマンの兄と行動を共にしていたのだ。そしてキッドマンは、大統領の政敵ゾーラが殺害された事を知る

 そんなキッドマンの無茶に怒るペンだが、彼女はさらに新たな事実を小出しにしてきた。何と彼女はかつてゾーラの恋人だったと言うのだ。そしてゾーラは死んだ。これには何も言えなくなってしまうペンではあった…。

 だがキッドマンは、そんなペンを横目にさらに暴走を続ける。またしても警護スタッフを振りきってブルックリンへとやってくると、亡命中のジョージ・ハリスと接触。一緒にバスに乗り込んだから尾行中の警護スタッフは驚いた。さらにこのバスには、別の件で追跡中だった不審人物も乗り込んだから大変だ。尾行スタッフから刻々と伝えられる無線連絡に、聞いているペンとキーナーには緊張が走る。

 実はキッドマンは亡命中のハリスに頼んで、彼のツテによって兄の安否を知ろうとしていたのだ。その頼み事を告げると、バス停で降りて行ったキッドマン。彼女が降りるや尾行中の不審人物もバスを降りた。だがバス内には不審人物が置いていった荷物が残されて…。

 走行中のバスは、二人の捜査員とジョージ・ハリスもろとも大爆発!

 ブルックリンの目抜き通りで起きた爆弾テロ事件は、捜査陣に激しい衝撃をもたらした。まるで中東の街中のような惨状の中、呆然と佇むペン。しかもいまや彼の手元には、今度は銃を持ってテロリスト然とした格好の、マトボ共和国時代のキッドマンの写真が送りつけられていたのだ。一体どこまで彼女を信用すればいいのか?

 そんな渦中、キッドマンのアパートにコッソリ忍び込む、例の不審人物の姿があった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対に映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイルドに見えて骨っぽいシドニー・ポラック

 久々のシドニー・ポラック作品は、やっぱり僕が期待していた通りのシドニー・ポラック作品だった。面白かった。僕はこれを待っていたんだよね。これぞアメリカ映画の、最も良質な部分の面白さだ。

 シドニー・ポラックと言えば前述のように僕が映画好きになった頃を思い出させる映画作家だが、その作品でも僕が見た最も初期のものは、ジェーン・フォンダとマイケル・サラザンが主演した「ひとりぼっちの青春」(1969)ではないだろうか。もちろんリアルタイムではなくテレビではあるが、印象は強烈。大恐慌時代に貧困にあえぐ人々が、優勝賞金を懸けてマラソン・ダンス大会に挑戦する無惨。何とイランのモフセン・マフマルバフがパクって(…いると僕は思うのだが)「サイクリスト」(1989)をつくったくらいだから、お話の面白さは保証付き。そしてここでマフマルバフの名前が出てきたのも、あながち偶然とは言えない。ポラックはあくまでハリウッド王道の娯楽映画作家ではあるが、常にどこか「社会的」な視点を潜ませている良心的映画作家なのだ。

 その姿勢は一貫していて、作品はどう見たってハリウッド娯楽作の典型中の典型なのに、必ず一点シリアスな要素を忘れない。逆に言えば…社会的題材を扱っているのにヒットを狙った大衆娯楽作。それも必ず豪華一線級スターを配しての面白さだ。そんなポラックの姿勢が一番分かりやすく出たのが、おそらく大ヒット作「追憶」(1973)だろう。

 “メ〜モリィ〜〜ズ”…というバーブラ・ストレイサンドの大ヒット主題歌で知られるこの映画は、まさに直球ストレートの大メロドラマ。演ずるはロバート・レッドフォードとバーブラ・ストレイサンドのボリューム感溢れる2大スター。ホロ苦い味わいで酔わせる恋愛ドラマの王道ではあるが、その中心にはハリウッドが未だ古傷として抱える「赤狩り」の問題が真っ正面から据えられているのだ。こういうとこが意外に骨っぽくて大胆不敵なんだよね。

 2002年の第74回アカデミー賞授賞式ロバート・レッドフォードが名誉賞に選ばれた時、ストレイサンドがプレゼンターとして出てきたのにはこういう背景があるわけだ。ちなみにこれはあの「9・11」の翌年の授賞式。思い切り右傾化して締め付けが厳しくなったアメリカで、なぜか本来保守的なハリウッドの祭典が珍しく「表現の自由」を強調していた。それもこれも、ハリウッドには「赤狩り」での苦い体験があったからなんだよね。レッドフォード自身もスピーチの最後を、「この自由をいつまでも守っていきたいものだ」と締めくくっていた。もちろんプレゼンターのストレイサンド登場のBGMは、かの有名な“メ〜モリィ〜〜ズ”…のメロディーだった。つまりは…そんなこんなの“象徴”としてとらえられるような作品が、この大甘メロドラマのコロモを着た「追憶」という映画なのだ。

 そして、シドニー・ポラックは常にそんな映画作家だ。

 非情なスパイ抗争に巻き込まれる下っ端諜報員の物語をレッドフォードとフェイ・ダナウェイの顔合わせで描く「コンドル」(1975)、歩く広告塔と化したカウボーイとニュースキャスターの恋をレッドフォードとジェーン・フォンダで描く「出逢い」(1979)、報道の自由と人権の問題を描くポール・ニューマンとサリー・フィールド共演の「スクープ/悪意の不在」(1981)、女装して役を手に入れる役者の物語からジェンダーの問題に斬り込むダスティン・ホフマン主演「トッツィー」(1982)…このシドニー・ポラックの「娯楽・社会派」路線は、トム・クルーズとジーン・ハックマン主演の「ザ・ファーム/法律事務所」(1993)あたりまで一貫している。

 そもそもポラック自身が最もウマが合って最も起用している俳優が政治意識の強いロバート・レッドフォードという点からして、そんな反骨ぶりが伺えるではないか。「雨のニューオリンズ」(1965)、「大いなる勇者」(1972)、そして前述の「追憶」「コンドル」「出逢い」…さらにオスカー受賞作「愛と哀しみの果て」(1985)、「ハバナ」(1990)…と、何と7本も組んでいるのだ。これは単にビジネスとしてだけでなく、人間的にも相通じるところがあると見るのが自然だろう。ポラックもまた、いかに娯楽の王道を貫いていても政治に関心がないわけがないのだ。

 そんなポラックのもう一つの路線は、「非アメリカ」社会への興味だ。

 なぜかポラックはアメリカ社会以外を舞台にしたり、外国社会への興味を物語の中心にした映画を撮りたがる。これは先に挙げた彼の作品の本道ではないが、しばしばそこからは異色作が生まれる。実は僕がこよなく愛するポラック作品も、そうした作品群の中に潜んでいるのだ。

 その最たるものが、たぶん高倉健とロバート・ミッチャムが東映任侠映画の世界で大暴れするザ・ヤクザ(1974)だろう。どう考えてもポラックとは畑違いの世界だし、アメリカ映画としても摩訶不思議な一作。普通に考えた場合、この作品がポラックのフィルモグラフィーに存在する事実は、いささか理解に苦しむ。だがここにヨーロッパを舞台にレーサーと不治の病に冒された女の恋を描くアル・パチーノとマルト・ケラー主演のボビー・デアフィールド(1977)、アフリカの大地を舞台にしたレッドフォードとメリル・ストリープ共演の「愛と哀しみの果て」…あたりを並べてみると、何となくうっすらポラックの意図が透けて見えないでもない。あるいはキューバを舞台にしたレッドフォードとレナ・オリン共演「ハバナ」を加えてもいいし、ハリソン・フォードとジュリア・オーモンド共演で「麗しのサブリナ」(1954)リメイクを試みた「サブリナ」(1995)の、ヒロインのパリ在住場面あたりを想起してもいい。

 僕はこうしたポラックの海外志向を、彼がどこかでアメリカ国粋主義みたいなモノを否定しているからではないか…と考えている。どこへ行ってもアメリカ流を押し通しアメリカ流を押しつける無神経なアメリカ・イズムに、彼はどこかでノーを突きつけているのだ。非アメリカ社会や非アメリカ民族に対して、それなりの敬意や共感を表したいというのが、おそらくポラックの姿勢だと思われるんだよね。

 ただし…そうは言ってもポラックはアメリカ人で、残念ながらどこまでもおめでたい楽観主義やら理想主義の人でもある。だから「愛と哀しみの果て」などは、あくまで白人から見たアフリカでしかないと批判を浴びてしまう。「ザ・ヤクザ」のトンデモ日本だって相当な誤解に満ちたものだ。本人の気持ちは分かるのだが、何となく空回りしてしまうのがポラックという人の限界なのだろう。

 例のハリウッド「赤狩り」に斬り込んだ「追憶」だって、批判する人に言わせると「食い足りない」という事になる。早い話が甘っちょろいというわけだ。まぁ、基本的には商業的に成功するような作品にしている訳だから、どこか甘く薄まっている印象は否めない。

 だがそうは言っても、ポラックの気持ちは本気だ。それもかなり覚悟が座った本気だと思う。

 例えば、それは「ザ・ヤクザ」を見ればよく分かる。トンデモ日本映画になってしまった作品ではあるが、それでもそこに流れる欧米人の「日本人の気持ちを理解しよう」という心情は、決して笑っていいものではあるまい。そして「郷に入らば郷に従え」ではないが、日本人の流儀に合わせてみようと主人公のアメリカ男は指まで詰める。それの是非はともかく、主人公は決してアメリカンの傲慢で接しようとはしていない。勘違いではあっても、そこにはポラックの誠実を感じてしまうのだ。このあたりは僕が「Time Machine」シドニー・ポラックの巻に書いたくだりを、改めてご参照いただきたい。

 ポラックの映画は、だからいつも誠実だ。誠実だからこそどこか甘いし、ヌルくユルく感じられる事もある。だがそのマイルドさを、僕は嫌いになれない。むしろ世知辛い世の中で、それは美徳だと思えるのだ。

 そして「オレって頭いいだろ?」的なスノッブないやらしさもない。こういう「社会派」主張が大きな支持を得られないのは、大抵それを発言する者の「オレってエライ」という自己顕示にしかなっていないからだ。だがポラックは、あくまでエンターテイナーぶりを崩さない。「お客様は神様です」という姿勢を貫いて、おのれが「エライ」素振りなど毛ほども見せようとしないのだ。

 それに外見ほどにポラックは、甘く柔い男でもなさそうだ。大甘メロのふりして「赤狩り」告発をシレッとやってしまうあたり、実はなかなかどうして肝っ玉も座っているはずではないか。見た目で侮ってはいけないのがこの男だと思うよ。

 ところがそんなポラックも、近年は監督作が激減してしまう。プロデューサー業が過密になってきた事もあるのだろうが、なぜかオスカー受賞作「愛と哀しみの果て」以降ガックリと作品発表ペースが落ちてしまうのだ。しかも最近作の「サブリナ」と「ランダム・ハーツ」(1999)の二本のハリソン・フォード主演作では、作品的にも興行的にも芳しい結果は得られなかった。実はここだけの話、僕は「サブリナ」は世間で言われているほどヒドイとは思っていないんだけどね。ハリソン・フォードは確かにいただけなかったが、ヒロインのジュリア・オーモンドがかなり好みなので…(笑)。だが次の「ランダム・ハーツ」は、確かにかなりしょうもない出来だったよねぇ。

 そんな訳で今度のこの作品、ポラック・ファンとしては絶対見逃せない一作となったわけ。

 

見た後での感想

 何よりこの作品、久々のポラック作品という事を除いたら、ニコール・キッドマンショーン・ペンという、当代きってのアブラの乗り切ったスターの正面衝突ぶりが注目だろう。

 まずはキッドマンは、ムーラン・ルージュ(2001)あたりから向かうところ敵なし状態。何をやってもうまくいく。芝居がうまいのどうのなんてケチな事は言うまい。スターとしてボリュームが厚くなったし、大輪の花が咲き誇った感じ。輝きが違うのだ。対するショーン・ペンも、作品的には僕は疑問符を付けてしまったイーストウッドのミスティック・リバー(2003)ではあるが、確かにあのあたりから役者としてのスケール感は格段に増した。

 だがこの二人の共演ってのは、なかなかありそうで想像がつきにくかった。それはキッドマンはともかく…ショーン・ペンのフィルモグラフィーに理由があったからだろう。「ロンリー・ブラッド」(1985)、「カラーズ/天使の消えた街」(1988)、「カジュアリティーズ」(1989)、「デッドマン・ウォーキング」(1995)、「シーズ・ソー・ラブリー」(1997)、「シン・レッド・ライン」(1998)、「ギター弾きの恋」(1999)、「アイ・アム・サム」(2001)、21グラム(2003)…と、ズラッと並んだ「問題作」の数々。ハッキリとクセのある作品かクセのある役柄を選ぶ、曲者役者の位置づけが定着しちゃっていたんだよね。スターではあるがストレートな娯楽作品にはなかなか出ないし、演技力はあるがいわゆる「普通の人」の役は演じない。そのあたりが…ニコール・キッドマンだって決して無難な作品に出ている訳ではないのだが、どうも彼女との共演という像を結ばせなかったのだろう。

 実際のところ、社会派的ニュアンスがあるとは言いながら…あくまでマイルドな味付けで「面白い」娯楽作であるポラック作品もまた、こうしたペンのフィルモグラフィーとは結びつきがたかったのだ。だからこの異色の顔ぶれに実はかなりワクワクした。近年こんなに“豪華スターの顔合わせ”に期待した事はなかったよ。

 そして結果から言うと、この二人の起用は大成功だった

 特にやっぱりショーン・ペンが大収穫。彼が実にいいんだよね。この映画の魅力の多くの部分は、彼の存在によるものだ。妻を亡くした男のうつろな心情をキッチリ見せて、これがなかなか絶品なのだ。逆に言うと、妻を亡くした捜査官の心情と「容疑者」でもあるヒロインの心情が二重写しになる…なんてお話は、ご都合主義だと言えば言えなくもない。それこそ日本の刑事ドラマなどでも見られるような、ありふれた作戦でしかないのだ。これはペンほどの演技者が演じたから、リアリティを持って見せる事が出来たのだろう

 そして娯楽サスペンス映画にペンというシリアス役者を持ってきたのが、何よりこの映画をフレッシュに活性化した。いつも問題意識のある映画ばかり好んで出ていたペンが主演したせいで、この映画にもそんなマジメな雰囲気が漂っているんだよね。これは思わぬ収穫ではないか。

 もちろんニコール・キッドマンも、本来「非アメリカ人」である彼女の特質が生かされたミステリアスな役どころ。ハッキリ言ってつかみどころのない女を、どこか「悪女」的なニュアンスも持つ彼女ならではの好演ぶりで見せる。特に似たようなシチュエーションの彼女の旧作「ピースメーカー」(1996)と比べてみれば、その進境の著しさがハッキリ分かるはずだ。

 こうしたノリに乗ったスターを得て、ポラック演出も元気いっぱい。もう枯れちゃったのかと心配になっていたけど、まったくそんな衰えを感じさせない演出ぶりだ。特にバス爆破前後のあたりから終盤にかけての、畳みかけるような緊迫感は余人にマネの出来ないところ。まさに貫禄十分としか言いようがない堂々たるエンターテイナーぶりだ。実は脚本にはところどころ甘い部分も見受けられなくもないのだが、それでも演出にパワーがあるから最後まで見せられてしまう。

 今回驚いたのは、フランス人カメラマン役に…小さい役ではあるが、フレンチなしあわせのみつけ方(2004)を監督・主演したフランスのイヴァン・アタルを起用している事。この作品にアタルを起用するとは、ポラックは彼の旧作でエリック・ロシャン監督の「哀しみのスパイ」(1994)あたりを見ていたのではないだろうか?(このくだりについては、「My Favorite Directors」エリック・ロシャンの巻を参照のこと。)

 そういえば、ポラックはアメリカ映画にあまり縁のないヨーロッパの役者を使いたがるところがある。「ボビー・デアフィールド」のフランスのマルト・ケラーアニー・デュプレー、「愛と哀しみの果て」のクラウス・マリア・ブランダウアー、「サブリナ」には何と晩年のトリュフォーにとって公私ともにパートナーだったファニー・アルダンまで登場。この人って実際ヨーロッパ映画が好きなんじゃないだろうか。まぁ小さな役なんで騒ぐ程の事もないのだが、今回のイヴァン・アタル登場にはそんな事を改めて感じたよね。

 あとは何と言っても、今回初めて撮影が許可された国連本部内部でのロケ。これはかなりの見ものだよね。テレビなどでおなじみの、あの本会議場のモノホンが映画に出てくるんだから感激ものだ。他の場所ならいざ知らず、国連本部ばかりは見た事がないから、その内部を見れるってだけで価値がある。確かにこの映画は、ここで撮らなきゃ意味がない。だから当然だとは言え、よくもまぁ実現したものだと感心した。そんなあたりにも、シドニー・ポラックの並々ならぬ意欲が感じられるよね。

 ただ…確かにどこかユルくてヌルい…問題意識の鋭さは誰しもが認めるところだろうが、「社会派」映画としてのシドニー・ポラック作品には、何かと異論もあるところかもしれない

 今回のポラックの言いたい事はズバリ…「復讐とは最も安易な方法でしかない」という問いかけだ。それをニューヨークのど真ん中、国連本部を舞台に展開して見せた。その志やよし。目と鼻の先には、あの「9・11」の「聖地」となった世界貿易センター・ビルの跡地もある。

 あれ以降「復讐」に血道を上げたあげく、世界を混乱に巻き込む一方だったアメリカは…しかしつい最近まで、それに意義を唱えられられる雰囲気すらなかった。「愛国」「軍国」一辺倒のムードの中で、そんな発言は「反アメリカ」的と揶揄されるしかなかったのだ。

 そんなアメリカ映画でこの映画のような主張…「復讐は無意味だ」「銃より言葉だ」…を唱えるのは、いくら沈静化してきた今であってもかなり勇敢で大胆な事ではあると思う。

 だがその語り口は、あくまでポラック流のマイルドさだ。

 先にも述べたように、ポラック映画のスタンスは不動だ。社会的題材を扱っているのに大衆娯楽作。それも必ず豪華一線級スターを配しての面白さ。むろん、それはこの「ザ・インタープリター」でも変わらない。

 何だかんだ言っても、表向きのイメージは2大オスカー・スター初共演の娯楽大作。ショーン・ペンですらここでは「デッドマン・ウォーキング」など数々の問題作の主演者というより、「ミスティック・リバー」でオスカー主演男優賞獲得の旬のスターとしての意味合いが強い。大体彼が、シークレット・サービスなんて特殊な職業ではあるが…「堅気」の役柄を演じるなんて珍しいではないか。映画の内容だって、サスペンスに満ちた娯楽作だ。決して声高な主張や演説などは出てこない。ハラハラドキドキの見せ場とミステリーで楽しめる映画だ。それは何かを主張すべきと思っているような人々からは、日和った態度と受け取られるかもしれない。あるいは、あくまでハリウッド商業主義から抜け出せない腰抜け、臆病者の根性なし。…強烈な主張をストレートに発表する「問題作」作家と比べると、いささか弱々しくも見えるかもしれない。

 だが…だからこそ伝わるメッセージもあるのだ

 一見反骨さに乏しい日和見な態度に見えて…実はシドニー・ポラックのこの姿勢には、信念に近いものまで感じさせられる。これだけ終始一貫してこのスタンスを貫いているには、それなりの理由があると見ていいだろう。そのフィルモグラフィーから信念と誠実さこそを嗅ぎ取れるポラックなら、なおさらそのはずだ。

 

見た後の付け足し

 どうも昨今、僕らの国では「毅然とした態度」がやたらモテはやされている。

 その「毅然とした態度」とやらが言葉通りのモノかどうかもすこぶる怪しい。実はフンぞり返った無反省な傲慢さの事を「毅然」と言い間違えてるフシもないではないが、それはともかく…仮に本当にそれが文字通りの「毅然とした態度」であったとしても、これほど誰もがそう主張するといささか胡散臭くも感じられるんだね。それは、その主張すべき事が何であれ…だ。

 特にイマドキではこの「毅然」のみが正しい態度とされ、ともかく「毅然」とすれば何でもいいものであると見なされているような案配だから驚く。謙虚だったり慎重な態度が望ましいと言う人がたまに出てくると、イマドキではコテンパンに退けられる事が多い。「屈辱」だの「自虐的」だのと言った案配で、まるで「負け犬」のように揶揄される。だが、みんないつからそんなにご立派で強くなったのかい

 確かに退いた態度の発言というのは、イマイチ威勢の良さに欠ける。どちらかと言えば勇ましくてイケイケドンドンの発言の方が、それこそ腹が据わってるみたいで胸がすく思いだ。頼もしくもあるし正しいような気もする。

 だが「毅然とした態度」と言っても、それを出来る立場であるかどうか、それを出来る時と場合であるかどうか…何より自分たちにそれを言うだけの「中身」が伴っているかどうかが、まずは問題だ。それもなしに「毅然」としたがったところで、それは単にフンぞり返りたがってる愚か者でしかないだろう。

 現実には、こうした「毅然」野郎こそクセモノって事がままあるものだ。

 いや、ズバリ言おう。「毅然」野郎の方がずっと胡散臭い。言ってる事やってる事が右であれ左であれ上であれ下であれ、そいつの立ち位置がどこにあったとしても…それは同じだ。

 実はこういう奴ほど腰抜けだって事の方が多い。それはみなさんだって、今までの人生の中で何度も経験していることだろう。こういう「毅然」野郎はデカい事を言って周りをかき回したあげく、テメエはケツをまくってトンズラなんて事がよくある。いざとなったら、てんで意気地がない。仕事の場面だって学校だって友達の間だって、ええカッコして偉そうな事を言う奴ほど使えないってのは、よくある事だ。あるいは、もっと悪ければウソつきだったりする。だから僕は、こうした「毅然」野郎が大嫌いだ。

 威勢のいい事ばかり言う奴ってのは、それだけイカガワシイ人間なんだよね。あるいは言ってること、やろうとしてる事が正しくても、「毅然とした態度」がそれをブチ壊しにする。

 本当に実のある人間は、そんな無責任な事はしない。本当に何かを実現したい、何かを人に伝えたいならば、決してテメエだけがカッコつけるような「毅然とした態度」などは取らないのだ。

 そして我らがシドニー・ポラックも、そんな威勢のいい事はしない男だ。

 ポラックは別に声高に主張したりはしない。面白そうで一般の観客がみんな見たいと思うような娯楽作を、素敵な大スターをズラリと配して見せてくれる。むろん出来映えはたっぷりと楽しめる内容だ。大金だってかける。「客に媚びてる」と言わば言え。単なるハリウッドの娯楽職人監督の顔をして、観客にサービスこれ勤めてくれるのがポラックという男だ。…そして、たった一つまみだけ自分の主張を入れる。

 だがその主張こそが、なかなかどうして余人には言えない事だったりするんだよね

 かつてコワモテでならしたショーン・ペンも、今回の映画では一皮むけたみたいに素晴らしかった。演技者としてスターとして、さらに華が一回り大きくなった。それってひょっとしたら、シドニー・ポラックから何かを得られたからではないか? そして今ならみなさんもお分かりだろう。

 ちょっと日和見でヌルく見えるシドニー・ポラックこそ、真の反骨の人なのだ…と。

 

 

 

 

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