「やさしくキスをして」

  Ae Fond Kiss...

 (2005/05/30)


見る前の予想

 ケン・ローチの映画って以前はすごく好きで、公開されると欠かさず見てたんだよね。

 それがここのところは何作か連続でパスしてしまった…というより、公開されている事を知らずに見逃してしまったと言うべきだろうか。

 別に見たくないと思っていた訳ではない。ケン・ローチの映画は「社会派」と言われたり「政治的」と言われる事が多い作品群だが、だからと言ってそれがイヤという訳でもない。そもそもケン・ローチの映画は、世間で俗に「社会派」「政治的」と言われる作品のような、そんなケチなシロモノではない。何より面白くて感動的で…「映画」として素晴らしい作品ばかりなのだ。

 だからケン・ローチの映画は大好きで、公開されるたびに飛んで見に行ったものだ。それがここ数年、なぜか縁遠くなってしまったのだ。本当に巡り合わせが悪かったとしか思えない。だが、今度ばかりは見逃してはならないと固く心に誓った。

 しかも今度は恋愛映画だと言うではないか。もちろんケン・ローチの事だから、一筋縄の恋愛映画ではあるまい。だが「単なる恋愛映画」として見たって、卓抜したものを見せてくれるに違いない。映画ファンならこれは見逃す手はないのだ。

 僕も今度こそは絶対に見逃さない。見たら絶対に面白いに決まっているからね。

 

あらすじ

 夜、クラブは若者たちの熱気で一杯だ。そんな激しいリズムの中、このクラブのDJとして働くパキスタン系の男カシム(アッタ・ヤクブ)のノリノリの姿があった。

 その翌朝、ここはスコットランドのグラスゴーにあるカソリック系高校。パキスタン移民の女の子タハラ(シャバナ・バクーシ)は、クラスメイトの前で自らのアイデンティティーを披露する。

 「私はパキスタン人でイスラム教徒だけど、こうしてカソリックの学校に通い…」

 ここまで一気にしゃべると、いきなり制服を脱ぎ出すタハラ。その下には…地元サッカー・チームのユニフォームを着た彼女がいた。「…そしてレンジャースの大ファンでもある。そんな文化のミックスが私なの!

 このみんなの前のパフォーマンスは大ウケだったものの、一部の悪ガキの男の子も刺激してしまった。授業が終わって帰ろうとしている彼女を、悪ガキどもは追い回して差別意識丸出しでからかう。「パキ野郎、パキ野郎!」

 そんな彼女をクルマで迎えに来たのは、昨夜のDJで彼女の兄でもあるカシム。だが彼の前でも悪ガキどもは追い回す事をやめない。さすがにキレたタハラは、怒り心頭で逆襲に出た。男の子たちを追って学校に逆戻りのタハラを、慌てて追うカシム。「おい、やめておけ! 頭を冷やせ!」

 勢い余って男の子たちが飛び込んだのは音楽室。次いで飛び込んだのがタハラと兄カシムで、このドサクサに音楽室の備品であるギターが壊れてしまった。個人レッスン中の生徒と音楽教師ロシーン(エヴァ・バーシッスル)は、いきなりの騒々しさにビックリだ。「静かに! やめなさい!」

 さすがにこれはマズかったか…と男の子たちは退散。興奮状態のタハラの様子に、ロシーンも事情を何となく察した。「大丈夫?」

 こうして音楽室での大立ち回りは、アッという間に終わりを告げた。落ち着きを取り戻したタハラは兄カシムに付き添われて音楽室を後にする。ロシーンはピアノに戻り、生徒への個人レッスンを続行する。生徒は古いスコットランド民謡を歌い始める。

 やさしくキスをして、そしてお別れ。さようなら、それは永遠…。

 そんなピアノを弾くロシーンの姿を、先ほどのカシムが扉から覗いている。だが、そんな事をロシーンは知る由もない。

 その次の日。ロシーンが仕事を終えて学校から出てくると、カシムが彼女を待っているではないか。何と彼は壊したギターの代わりを持ってきたのだった。生憎と音楽室は彼女がカギをかけてしまったところ。結局ギターはロシーンの家に持っていこうという事になり、カシムは自分のクルマでロシーンを家まで送って行くことにする。

 こうしてロシーンの家に上がり込んだカシム。彼が実は輸送関係の仕事を始めたいと思っていると知って、ロシーンは彼にひとつ頼み事をする。それはグランドピアノの搬入だ。彼女には別居中の夫がいて、その家にピアノが置きっぱなしになっていたのだ。これを引き受けたカシムは、お仲間の力を借りて重い荷物を何とか彼女の部屋まで引き揚げた。カシムのお仲間が仕事を終えて去った後、彼はロシーンを自分がDJを勤めるクラブへと誘う。ここでイキイキと働くカシムを見て、ロシーンは徐々に彼に惹かれていくのだった。

 こうしてこの夜、ロシーンの部屋で二人は結ばれる

 だがカシムにはカシムの、パキスタン人としての暮らしがあった。昔気質で厳格ではあるが、子供思いでもある父タリク(アーマッド・リアス)と母サディア(シャムシャド・アクタール)を中心に、一家が肩を寄せ合って生きる暮らし。この日は長女ルクサナ(ギザラ・エイヴァン)の婚約者(パーシャ・ボカリ)が親と共にやって来た。将来も安定している好青年との良縁に、ルクサナも大喜びの様子。もちろん彼女はこの青年の事をまったく知らない。これは両方の親が決めた縁談だ。だがルクサナはそんな古いしきたりを踏襲する事に、まったく疑いを持っていない。

 それに比べると妹のタハラは、少々そんなイスラム家庭の空気に息苦しさを感じているようだ。この日も姉の婚約者一家に将来の事を聞かれ、ジャーナリスト志望と答えて一悶着。実は両親は地元大学で、彼女に医者の勉強をさせたがっていたのだ。

 そんな本人と親の気持ちが裏腹という点では、カシムだって大きな事を言えない。彼は自前でクラブを持つ事を夢見ていたのに、親の前では貿易関係の仕事をやりたいなどと取り繕う。それだけではない。実は彼自身にもちゃんと親の決めた「婚約者」がいた。それは従姉妹の女の子で、9週間後にはパキスタンからここにやって来て、彼と結婚する段取りになっていた。彼はこの結婚のこと、そしてロシーンの事を、一人で胸にしまって悶々としていたのだ

 そんなある日、ロシーンは学校から正式に教員としての採用を認められて有頂天。これまでは非常勤だったので、これで晴れて教師としての安定した暮らしが手に入るのだ。ウキウキして帰宅する彼女は、途中にあった旅行代理店で「激安!スペイン旅行」の貼り紙を見る。

 そんな彼女からカシムの携帯に、スペイン旅行への誘いが来たのは間もなくの事。実はカシムは、お仲間と家の増改築の真っ最中だった。それも…例の「花嫁」との新生活のための新居づくりというわけ。さすがにそれを放っぽらかして、しかも別の女とスペイン旅行とは気が退けたものの、彼女すでに予約してしまったと言うではないか。そこで仕方なく…というか、渡りに船というか、ともかく家には「出資者と会う事になった」とかウソを言って、ソソクサと出かけていくカシムだった。

 陽光まぶしいスペイン。すっかり開放的な気分になった二人は、昼間っからベッドで戯れる。そしてロシーンは、静かに自分のプライバシーについて語りだした。19歳でスタートさせた前の結婚のこと、それまではずっと家族もなく孤独だったこと…そんな彼女の心の内を聞いているうちに、カシムは徐々に苦しくなっていった。…そしてついに告白してしまった。9週間後に結婚する身であることを。

 「今頃、何を言っているの? どうして早く言ってくれなかったの?

 カシムの告白を聞いたロシーンは、驚くと共に突然激怒した。今まで男ではいい思いをした事がないロシーンなら尚のことだ。「あなただけは信じられると思ったのに!」

 すっかり気まずくなったその時、カシムもまた彼女を愛している事に改めて気づいた。そうなると、もはやただただ謝るしかない。「もう結婚は出来ない、両親にもちゃんと話すよ」

 こうして誠心誠意、平身低頭で語り続けているうちに、何とかロシーンの態度も軟化した。そうなれば元通りの仲睦まじさの二人。そんなカシムとアツアツのところを、空港でたまたま生徒たちに見られてしまうロシーンだが、もはや彼女はそんな事は気にもならなかった

 だが、やっぱり家族には本当の事は言えない。カシムの「新居」も着々と出来上がってきた。どんどんカシムの胸の内は苦しくなっていく。耐えきれなくなったカシムは、ついにロシーンに別れを告げた。

 「どうして? 私たち、相性は最高じゃないの

 「僕らの相性は…良くない

 どう考えても相容れないモノがある二人。事を単純に考えるロシーンと、家族を愛するカシムとの落差は大きすぎた。去っていくカシム、泣き崩れるロシーン。

 やさしくキスをして、そしてお別れ。さようなら、それは永遠…。

 そんな折りもおり、タハラが遠方の大学から推薦入学の許可をもらう。ところがそれは両親に無断で申請していたものだったため、家族は大モメ。両親はガンとして言うことを聞かず、親に従順な長女ルクサナもこれに同調。おまけにカシムまで「もっと慎重に考えろ」などと言い出すもんだから、それでなくても血の気の強いタハラはブチ切れた

 「この偽善者!」

 タハラはコップの水を兄カシムにぶっかけて、怒り狂ってその場を立ち去った。タハラは兄とロシーンとの関係を知っていたのだ。父親も姉も部屋を出ていった後、妹タハラの言葉に我に返ったカシム。彼は一人部屋に残った母に向かって、絞り出すように本音を口にするのだった。「もう結婚は出来ない…」

 こうしてカシムは家を出て、友人の家にシケ込む。そんなある日、街中でロシーンに出会ったカシムは、彼女に「やり直したい」と頼むが剣もホロロだ。それでもロシーンはやっぱりカシムが気にかかるのか、彼の父が経営する食料品店に客として顔を出す。そんなロシーンを見つけたタハラは、彼女にカシムの家出を告げるのだった

 こうして再び和解した二人。カシムはロシーンの部屋で同棲するようになる。だがその事は両親には内緒だ。そんな中、カシムの姉ルクサナが内緒でロシーンに会いに来る。聞けば彼の父親はパキスタン移民社会ですっかり顔をつぶし、ルクサナ本人の縁談も風前の灯だと言う。だが最後には「弟と手を切れ」と迫るルクサナに、ロシーンは「侮辱だ」と怒りしか感じない。あげくの果てにカシムの家族を差別主義者と決めつける始末だ。

 ところが、事はそんなに単純ではなかった。ロシーンが正式の教員になるための手続きとしてカソリックの司祭のサインをもらいに行くと、いきなり司祭は彼女の私生活に対して高圧的に説教をブチまける。これにはさすがに唖然とする。

 「差別主義者」は別に「異教徒」だけではなかったのだ。

 そんな彼女を校長は支援してくれると言ったが、結局はそれも力及ばず。何といきなり本日ただいまより授業は打ち切り。別のカソリック系以外の学校への転任を告げられてしまう。これにはますます激高するロシーンは、家に帰ってカシムにグチをブチまけ。大事な仕事の話で外出しなければならないのに、自分の話を聞け…と無理難題を言って引き留める。だが仕事は仕事だ。カシムはロシーンを振り切って、慌てて家から出かけて行った。

 そんなカシムに怒ったロシーンは、商談から戻ったカシムを家から叩き出す。仕方なくカシムは再び友人宅に転がり込んだ。

 ところがそんな二人に、カシムの家族はとんでもない反撃を目論んでいたのだ…。

 

「社会派」よりも映画づくりの巧者のケン・ローチ

 やっぱり面白かった! 見てよかった! さすがはケン・ローチだ! 素晴らしい!

 確かにイスラムのパキスタン人とカソリックのスコットランド人との宗教的・民族的なぶつかり合いを通じて、イマドキ全世界的にあちらこちらで起きているさまざまな紛争をも象徴させるようなテーマではある。恋愛とは一対一で成立する「人間関係の最小単位」である…と考えれば、ここでケン・ローチがやろうとした事は、人類全体の問題を分かりやすく見せようとしたサンプル・ケースだと思えなくもない。いや、確かにそういう意図はあっただろう。

 だが、それで終わらないところがケン・ローチのしたたかさだ。

 そうは言っても…ここで僕が一人で舞い上がっていても仕方がない。まずは僕がなぜケン・ローチを気に入ったのか…から知ってもらわなければいけないだろう。

 僕とケン・ローチとの出会いは、確か「リフ・ラフ」(1991)での事だった。

 ムショ帰りの失業者が歌手志望の女の子と知り合い、付き合いを深めていく話を中心にして、現代ロンドンの下層に暮らす人々の厳しい日常を見つめる作品…と書くと何ともマジメくさった見ていて息が詰まりそうな作品を連想されるだろうが、そんな事は全くない。日本の左翼系文化人がつくってそうな、その手の「良心的」作品とは一線を画している。主演のロバート・カーライル(彼を見たのはこれが初めてだった!)の人間味溢れる演技のおかげもあって、実に見ていて楽しくなる作品だった。まぁそうは言っても…ラストには苦い衝撃が待っているのだが、ここには間違いなく「面白い映画」だけが持つ見応えが溢れていた。そのあたりの事は…当サイトの特集ビートルズ/マジカル・ミステリー・シアター中に僕が書いたビートルズ・スクリーン・ミュージック大全集をご一読いただきたい。劇中でリンゴ・スターの快唱でお馴染み「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」を、実に粋に使いこなしているのだ。こんなゴキゲンな趣向を見せてくれる監督が、ガチガチの屁理屈野郎である訳がない。「政治的」とか「社会派」だとかで見ちゃもったいない、何とも「分かってる」映画作家なのだ。

 何でもこの「リフ・ラフ」はケン・ローチ作品の25年ぶりの日本公開とかで、かなり鳴り物入りで紹介されていた。ここまでケン・ローチ作品は海外では名高かったらしいのだが、何よりその「社会派」のイメージとヨーロッパ作品の日本市場での冷遇ぶりから、ここまでずっと公開されずじまいだったわけだ。それがなぜ封印が解かれたかと言えば、この当時飛ぶ鳥落とす勢いだったミニシアター・ブームのおかげ。こうなるとソフト不足だから、「社会派」だろうが何だろうが構っちゃいない。むしろそれまで公開されてないが故に、「ミニシアター的」にはハクも付くし有難みもある。こうしていきなり前触れもなしに、「リフ・ラフ」が僕らの目の前に現れたわけだ。

 しかもこの時には「リフ・ラフ」ともう一本「レイニング・ストーンズ」(1993)が、ほぼワン・セットで公開された。こちらも貧しい人々を主人公にしたお話だ。失業者の中年男が何とか金をつくろうと奔走する話。それも羊を捕まえて売り飛ばしたり、キレイに整地された芝生を剥がして売り飛ばしたりとムチャクチャ。それもこの中年男の幼い一人娘が、近々「聖餐式」を控えているためだ。この「聖餐式」ってのが僕にはイマイチよく分からないのだが、どうも日本の「七五三」をもっと盛大にしたイベントみたいなモノか。その時にはちゃんとドレスでおめかしして、「晴れ姿」をさせてやるのが親心というわけだ。それでムチャを重ねていくうちに、のっぴきならない事態に巻き込まれて…。

 この映画、とんでもない窮地に主人公を追い込みながら、アッケラカンとしたウルトラCの結論で見事に救い出してしまう。これには思わず嬉しくなってしまった。拍手したいくらい喜んでしまった。これでますますケン・ローチが好きになった僕だったんだよね。

 だから「レディバード・レディバード」(1994)公開に合わせてローチの旧作がドッと上映されるや、僕はいても立ってもいられず駆けつけた。もちろん仕事の関係でロクに見られなかったけど、それでも何本かは見ることが出来た。

 中でも「ケス」(1969)はスゴかった。貧しい家庭の、貧相な男の子。その八方塞がりで息が詰まる日常の中で、この男の子がひょんな事から一羽の鷹のヒナを育て始める。これの名前が「ケス」だ。一生懸命「ケス」を育てる男の子は、そのおかげでだんだんイキイキしてくるのだが…。最後は悲惨極まりない終わり方をするのだが、それでも不思議な感銘が残る。厳しい映画だけど、決して退屈なんかじゃない。むしろ見ていて目が離せない。確かに暗くて地味な話だが、そういう映画がキライな人でもたぶん惹きつけられてしまうのではないだろうか。

 この時に、かつて日本公開されたローチ作品「夜空に星のあるように」(1968)が上映されたのも収穫だった。何とテレンス・スタンプが主演のこの作品、基本的にケン・ローチのスタンスはこの当時からまったく変わっていないというのが驚異だ。イマドキ映画ファンのみなさんには、スティーブン・ソダーバーグがテレンス・スタンプを起用して撮ったイギリスから来た男(1999)で主人公の過去の場面にこの「夜空に星のあるように」の断片が引用されていると言えば、何となくお分かりいただけるかもしれない。

 そんな満を持した状態で接した「レディバード・レディバード」は…と言えば、それまでのケン・ローチ作品の中でも群を抜いた厳しさに貫かれていた。気性が激しくいささか言動にも穏やかならぬところが少なくない女性が、法の管理下で「母親失格」と見なされて子供を次々と奪われてしまう。それに激高してわめき暴れれば暴れるほど、彼女の立場がますますマズくなる…。

 何より見ていて強烈なのは、この主人公の女性が決して愛すべき人間には見えないことだ。普通なら子供を奪われる悲しみと理不尽さを描くあまり、この手の「良心的」メッセージ映画では主人公を善良で感じのいい人間に描くだろう。そして子供を奪う当局側を、憎むべき「悪代官」並みにステレオ・タイプに描くだろう。だが、実際にはここに出てくるヒロインは、確かに相当困った人ではあるのだ。決して共感など出来ない。

 だが…だからこそ…“それでも”母親の手から子供を奪っていいのか?…というテーマが先鋭的に浮かび上がる。このトンがり方はスゴイよ。で、妙に主人公を「善玉」、当局を「悪玉」とわざとらしく描き分けてないから、ちゃんとリアリティが感じられる。だからこそ、そこで起きている事態の沈痛さが身に染みるのだ。簡単に結論など出さないから、見ている側はどんどん引き込まれてしまう。

 続いての「大地と自由」(1995)にも、思わず駆けつけてしまった。何しろこれはそれまでの映画とはチト違う。スペイン内戦を描いたちょっとした大作なのだ。主演は「僕たちの時間」(1991),「バック・ビート」(1993)で注目の“ジョン・レノン役者”イアン・ハートというのも惹かれた。映画は理想に燃えてスペイン内戦に参加したイギリス青年の目を通して、革命や共産主義の理想が挫折していく姿を描く。これまた屁理屈や頭デッカチな理論で物事を考えない、ケン・ローチだからこその「革命」映画になっていて実に明快。もちろん…やっぱり「面白い」のだ

 だがこの後は…というと、先に述べたように巡り合わせがまずくて「カルラの歌」(1996)、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(1999)、「ブレッド&ローズ」(2000)、「SWEET SIXTEEN」(2002)…と、立て続けに見逃し。まったくもって不本意ながら、今回の作品は僕が久々に見るケン・ローチ映画となったわけ。だが僕から見たケン・ローチ映画の印象は、常に終始一貫していた。

 僕にとってケン・ローチ映画ってのは、まず「面白い」

 「社会派」?…とんでもない! 「退屈」?…冗談じゃない! 「難解」?…そんなこと全くない!

 そんなチンケでケチなものじゃない。僕にとってケン・ローチは、「面白い」映画の代名詞だ。いわゆる笑えたりポップコーン食えたりする映画ではないが、映画を見てドキドキしたい人なら必見なのがケン・ローチ映画だ

 そして「ハリウッド映画みたいなのとは違って」…などという「ありがち」な冠を乗っけたくもない

 この場を借りて言わせてもらえば、そもそも…そういう「ハリウッド的」なモノをバカにする映画ファンって、一体どれだけ本当のハリウッド映画を知っているのか。僕だってすべて知っている訳ではないからデカい事は言えないが…イマドキのヘタクソなガキ映画はいざ知らず、本当にプロが本腰入れてつくった良質なハリウッド映画ってのはそんなものではない。ちゃんとしたドラマトゥルギーや鍛え抜かれた話芸に裏打ちされた、伝統芸能に近い素晴らしさがそこにはある。こう言っちゃ悪いが、半可通な映画ファンに安易に「ハリウッド映画」をバカにされちゃ困る。せめて見事な匠の技への謙虚さぐらいは持っていて欲しい。

 ある意味では…こう言われる事を決して本人は喜びはしないだろうが、ホンモノの「ハリウッド映画」以上に話術に長けた技を見せるのがケン・ローチ映画なのだ。もちろんそこに持ち込んでいる方法論は全く違う。だが、彼の映画を語る技術見せる技術はハンパじゃない。だから彼は、メッセージが突出して伝わる事を良しとはしていない。まずは映画として力があること…それがケン・ローチの目指しているものだ。彼はアジテーターではなくて、その前に映画のプロフェッショナルだ。忘れてもらっちゃ困る。

 そこを見てあげないと、ちょっとおかしな事になっちゃうと思うんだよね。

 

見た後での感想

 だから今回だって何がしかの象徴的な意味合いを感じるべきだろうし、主人公の二人が代表する民族的・宗教的相違と対立について、問題意識を持って語るべきなんだろうとは思いつつ…僕はあえてそれはしない。それはどこかの頭がいい誰かがやってくれるだろう。僕には手に余る事でもあるから、そんな難しい事は他人に任せる。

 というか…大きな声では言わないが、そこの部分だけで見てはこの映画は物足りない気がする

 イスラムのパキスタン男とカソリックのスコットランド女に限るお話だったら、ハッキリ言えば僕らにとって人ごとだ。日本に住む大半の仏教徒や…あるいは無神論者の男女にとっては、どう考えても人ごとだ。僕らだけでなく、世界中の大半の人間にとって人ごとでしかない。人ごとっていうのは…言い方はいささか悪くなるが、見る人にとってはどうでもいい話だ。いくら問題意識を持てと言われたって、そうそう親身には考えられない。政治的な理屈話が好きな奴以外、たぶん誰も身を乗り出して話に入り込んでは来ないはずだ。そういう奴らだって、せいぜい自分が利口だとか良心的な人間だとか自己満足に浸りたいがためにハマるだけだろう。

 だけど、これが僕ら自身の問題だったら…とても人ごとなんて醒めた気持ちでは見ていられない。

 今回、貧困やら社会問題やらに目を向けた映画をつくり続けてきた「社会派」ケン・ローチは、あえてど真ん中の「恋愛映画」をつくろうとしている。

 スコットランド民謡だという「やさしくキスをして」という歌の、何とも巧みな使われ方はどうだ。男が子供みたいに指一本で弾いた「きらきら星」を、彼が部屋を出ていった後で女が幾通りにもアレンジして弾くあたりの、二人の恋心の見事な表現はどうだ。「ハリウッド」どころではない。ちゃんと見る側に男女の恋する想いが伝わってくる出来映えだ。このあたりの語り口が、惚れ惚れするほどうまいんだよね。まずは切ない恋愛映画としてよく出来ている。ここのところをちゃんと押さえておきたい。

 そして、これこそがケン・ローチの意図するところだと思うのだ。

 なぜなら…実際のところ恋愛の成就というものは、決してたやすいものではないからだ。それはパキスタン人とスコットランド人じゃなくたって、イスラム教徒とカソリック教徒でなくたって…ひょっとしたら男と女じゃなくたって、とても一筋縄でいくものではない。生まれ育った家庭環境の違いやらお互いの文化的ギャップなんて誰もがみんな持っている。年齢の壁もあるだろう。価値観なんて誰もがバラバラだ。経済観念やら食い物の好みに至るまで、誰もがみな個人レベルで相違を持っている。…いや、馬鹿にしてはいけない。むしろこのレベルになればなるほど、実はゆるがせにできない部分だったりするから厄介なのだ。僕も痛い目にあったから分かる。大体恋愛相手の親なんて、今までどいつもこいつもロクな人間であったためしがない(笑)。正直言って、最初から相手が孤児だったら…と何度思ったか分からない。

 うまくいっていると思っていても、いつどこでヒビが入るか、いつ対立が火を噴くか…誰にも分かったものではない。それを保証するモノなどどこにもない。むしろ、うまくいかせていく事の方が奇跡に近い。人間関係とは、そんな危ういところで成り立たせているシロモノなんだよね。

 それは、言ってみれば無謀なバクチだ

 イスラムのパキスタン男とカソリックのスコットランド女のカップリングとは、そんな人間関係そのものの最も極端な比喩でしかない。いくら賭け金を張ろうとバクチはバクチ。要は賭場で転がすサイコロの、絵柄の違いみたいなものでしかないのだ。

 

見た後の付け足し

 この映画において、対立と相違から生じる悲嘆と憤怒を、もっとエグく、もっと強烈に…盛り上げようと思えばきっと出来たはずだ。そしてそんな対立と相違と不寛容を声高に告発することだって出来た。典型的メッセージ映画なら、きっとそうしたはずだ。

 だが意外にもこの映画は、予想以上に穏やかでおとなしい

 確かに何度か二人は対立するし、それぞれ怒りを露わにもする。ツラい思いもする。だが、それは二人が抱えている問題の大きさからすると…むしろ静かでささやかなモノにさえ思える。そのへんで、この映画をどこかユルくヌルい映画だととらえる人がいるかもしれない。ちょっと辛さが足らないと思われる方がいるかもしれない。だが、それには僕はちょっと異論があるんだよね。

 それはあくまでケン・ローチが、この映画を「恋愛映画」として描こうとしたからだろう。そして我々にとって身近な物語として描こうとしたからだ。「社会派」的な諸々のハードな要素で、見る人に身構えさせないように意図したからだと思う。だってかつての作品では、いくらだってハードな映画をつくってきたケン・ローチだ。それが出来ない訳はあるまい。今回は彼なりの狙いがあっての事だと思うよ。

 だからこの映画では…エンディングも極めて静かだ

 男の家族がとった非常手段に、強烈なショックを受けて逃げ帰る女。それを追って家にやってくる男。二人は共に老いるまで一緒にいようと決意して、身を寄せ合うようにキスを交わす…。

 だが何も事態は解決していないし、二人はそれに打ち勝つすべを何も持ってはいない。先の保証は何もない。それでも二人は一歩踏み出そうとするのだ。…そして、これこそがハッピーエンドだ

 なぜなら世界中のどんなカップルだって、本当はこれと大差ないからだ

 お互いの抱える問題…あらゆる対立や相違は解決される訳がない。そして先の保証だって全くない。その点だけ考えてみれば、誰もがみなこの映画の主人公カップルと同じなのだ。

 失敗する者もいるだろう。先になってそれに気づく者もいるだろう。別れられずに苦しむ者もいるだろう。精神的に経済的に、そして社会的に、大きなダメージを被る者もいるだろう。…だが、それを承知で人はバクチを打ってみる

 バクチとは、成功率が決して高いとは言い切れないからこそのバクチだ。

 この映画では極端な状況の二人を一般のカップルと同等に描く事によって、彼らの気持ちを万人に分かるように普遍化した。誰もがこの映画を見れば身近に感じるし、我が事と照らし合わせて実感出来る。そうする事によって…メッセージは何よりもストレートに伝わるのだ。

 そして、この結論はこうも見えないだろうか?

 こんな危うい土台の上に立ったカップルたちが、今日も地球のどこかで結ばれている。彼らはみな一人残らず、そんなヤバいバクチを打っている。

 ならば…どんな民族的・宗教的相違や対立だって、政治的な背景だって、何とかできない事もないのではないだろうか?

 それこそが、打つべき価値あるバクチではないか?

 

 

 

 

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