「ライフ・アクアティック」

  The Life Aquatic with Steve Zissou

 (2005/05/23)


 

見る前の予想

 ザ・ロイヤル・テネンバウムズ(2001)でいきなりチヤホヤされて出てきたウェス・アンダーソン監督って、どうもその時の印象があるせいか胡散臭い奴という感じだ。

 その前に2作ほどあったらしいが、それが日本公開されたのかビデオ発売かも知らない。どっちにしろ華々しく公開された訳ではあるまい。だからほとんどの人間にとって「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」はこの男の初お目見えだったはず。ところが出てきていきなり「天才監督」と来たからね。

 なぜか広告でもチラシでも「天才」「天才」とうるさい事うるさい事。何でそんなにムキになって「天才」と飾り立てなきゃならないのか? それともこいつはホントはバカなのか(笑)? 「天才」かどうかは映画を見たオレたちが決めることで、映画を送り出す側が勝手に「天才」を押しつけて来るな。…正直言って最初のコレで、すでにムッと来た。だってその言い草って、“この監督は「天才」なんだから、この映画が気に入らなければ、それは見た観客がバカだからだ”…という一種の「思い上がり」を含んでいるではないか。最初にガツンと脅して、観客からのケナしを封じているように見える。

 その脅しが効いたか、それとも本当にそう思ったのか、僕自身の「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」の感想文を読むと…なぜか結構ホメてるね(笑)

 だが正直に言わせてもらえば、現時点で僕の中での「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」の記憶はほとんどゼロ。見た時は本当に良かったのかもしれないが、今では良かったか悪かったか思い出せない。乾いたユーモアを感じさせた印象はあるが、それを批判的に見たか肯定的に見たかは思い出せない。最近の僕って大抵の映画の記憶がこんなものだから別に不思議な事ではないが、少なくとも圧倒的に良かった訳でも悪かった訳でもなさそうだ。

 では、そうなって来ると…今回のこの映画から、僕の中でのウェス・アンダーソンの評価が定まって来そうではないか。豪華なオールスター・キャストには大いに惹かれるが、前作では異様にキャストが豪華だったのがかえって不信感を抱かせた気がする。そもそも近年のウディ・アレン映画やロバート・アルトマン映画など、クセのある作家映画にオールスターがよってたかって出たがるようになると、決まってロクな映画になってなかったりする。そんなイヤな気配が映画に漂ってしまうんだよね。

 では、今回のこれはどうか?

 

あらすじ

 豪華な劇場を会場にして、今年も「ロカスト映画祭」がニギニギしく開催されている。世界的な海洋記録映画作家スティーブ・ズィスーことビル・マーレイは、自らのクルー「チーム・ズィスー」を引き連れてここに乗り込んできた。この映画祭をワールド・プレミアにして、彼らの最新作をお披露目するためだ。

 その最新作…「水中の生き物/ジャガー・シャーク・パート1」の内容は…。

 例によって馴染みのクルーと海に出るズィスーことマーレイ。27年来の相棒シーモア・カッセルと共に潜ったのが悲劇の始まりだった。いきなり水面に浮かんでくる真っ赤な血。次の瞬間、マーレイが焦り狂って浮かび上がってきた。「彼が食われた! 食われちまった!」

 何と一緒に潜った相棒カッセルが、マーレイの目の前で未知なる巨大生物「ジャガー・シャーク」…とっさの印象でマーレイが命名…にパックリと食われてしまったと言うのだ。このあまりな展開に、プレミア会場の雰囲気は思いっ切り落ち込んでしまう。

 だが会場が盛り下がった理由は、それだけではない。何しろ肝心のカッセルがやられた瞬間は、迂闊にもフィルムに納められていないのだ。おまけに「ジャガー・シャーク」なる生物の実態も怪しげだ。それでもズィスーことマーレイは、次回作「ジャガー・シャーク パート2」でこの生き物を殺す…と宣言。会場からの質問者は、そんなズィスーことマーレイにこう問いを投げかける。「この生き物は稀少種であると思われますが、わざわざ殺す必然性は何です?」

 「…復讐だ!」

 さてそんな新作の評判はと言うと、実はあまり芳しいモノではない。実は世界的海洋記録映画作家のズィスーではあるが、ここ数年作品はコケ続けだ。今回の作品ですら、カッセルの死は「ウケ狙い」だと非難される始末。ファンからは「次は誰を殺すんだ?」と揶揄されるテイタラクだ。

 だから次作の資金集めもままならない。長年プロデューサーを勤めるマイケル・ガンボンはサウジ映画社の役員を「金ヅル」として連れてきたが、果たしてこの人物が資金提供してくれるかも怪しい。

 もっとズィスーことマーレイを悩ませているのが、妻アンジェリカ・ヒューストンとの不仲だ。聡明な彼女は側面から彼と「チーム・ズィスー」を支える文字通りの「ブレーン」。だが全体を率いていると自負するマーレイには、そんな彼女がいささか疎ましい。逆にヒューストンはヒューストンで、どこか最近のマーレイを冷ややかに見つめ始めてもいた。そのせいでもないが…前夫ジェフ・ゴールドブラムにヤケに親しげに近づくヒューストン。それがまたまたマーレイには気に入らない。

 ゴールドブラムとは、マーレイのかつてのルームメイトにして現在の宿敵でもある。彼もまた海洋学者だが、何しろこの男は世渡りがうまくて金稼ぎもうまい。最新鋭機材と素晴らしい船を持って、この「ギョーカイ」で幅を利かせているから気に入らない。そして何より、ヒューストンの前の亭主と来る。あのどこか人をバカにした態度も、いちいちムカつくではないか。

 そんなズィスーことマーレイも、ゴールドブラムに及ばずとも自らのささやかな「王国」を持っていた。ズィスーをひたすら崇拝するドイツ人ウィレム・デフォー、音楽担当のノア・テイラー、ギターの弾き語りばかりしているセウ・ジョルジ…他にも日本人やインド人などなど、世界各国から集まってきた多士済々な面々。彼ら「チーム・ズィスー」と共に、中古の探査船「ベラフォンテ号」を根城にして世界の海を探険してきた。「チーム」の結束は、そのユニフォームと赤い帽子が象徴している。

 そんなマーレイと「チーム・ズィスー」が新作のための船上パーティーを「ベラフォンテ号」で行っている時に、ある一人の若い男が現れた。その名をオーウェン・ウィルソンと言う。最初単なるファンだと思っていたズィスーことマーレイは、彼の母親の名前を聞いて顔色を変えた。

 「キミはオレの息子か?」

 ごく最近病弱を苦にして自殺したというウィルソンの母親は、昔ズィスーことマーレイの恋人だった女だ。そして、こうしてその息子が現れたという事は…ウィルソンはマーレイの息子である可能性が大だ。これに激しく動揺したズィスーことマーレイは、まずは船首で一人になってタバコを一服。落ち着きを取り戻してから、彼を「息子」としてヒューストンに紹介する。さらには彼ともっと知り合いたいと言い出して、次作準備も兼ねて彼らの前線基地…ペセスパダ島へとウィルソンを誘う。

 ペセスパダ島、そこは「チーム・ズィスー」の本拠地であり、立派な観測所と住居を備えている。だがそれらはすべて妻ヒューストンの両親の出資によるもの。それがズィスーことマーレイにとっては、何とも面白くない理由の一つでもある。

 さて、そんな夜のこと。島の砂浜に多数の光るクラゲの大群が打ち上げられ、「チーム・ズィスー」は早速そこからカメラを回し始めた。あげくその場に駆り出されたウィルソンに、「チーム・ズィスー」への参加を誘うマーレイ。彼の快諾を得てご満悦のマーレイだったが、その瞬間にカメラを止めたデフォーには失望を隠さない。「なぜカメラを止めた? 感動的なシーンだったのに!

 実はこのデフォー、ズィスーへの崇拝があまりに強いあまりに、そこに後から割り込んだカタチのウィルソンに内心穏やかではなかったのだ。面白くない気分をモロにウィルソンにぶつけてもいた。だが、そんなデフォーの気持ちをマーレイは理解していない。

 そんな最中に島にやって来た珍客が一人。それはマーレイへの独占取材にやってきた、女性ジャーナリストのケイト・ブランシェットだ。だが妊娠中で腹も出始めているブランシェットに対して、ズィスーことマーレイはどう接すべきか態度を決めかねた。宣伝はして欲しいがジャーナリストは信用できないし、アレコレ探られたくはない。そんなこんなで、またしても一同に不安定要素がまた一つ増えた

 さらにさらに…夫婦仲が暗礁に乗り上げ、焦りも手伝ってかいささか強引かつ頑ななズィスーことマーレイの姿勢に愛想を尽かしたか、妻のヒューストンが島を離れてしまう。これにはマーレイも不安を隠せないが、だからと言って謝ろうと言う気はハナっからなかった。こうしてヒューストンは、「良き航海を!」との一言を残して島を離れていった…。

 さて、妻ヒューストンと入れ替わりのカタチで島へやって来たブランシェットだが、いきなりの質問はかなりキツイ内容のモノ。そうなると元々虚勢を張りたがるズィスーことマーレイは、ますますその態度を頑なにするばかり。かくして取材は最初から険悪な雰囲気に突入。ブランシェットはわざわざ取材に来た事を悔やみ、昔からの憧れの人だったズィスーことマーレイへの失望を隠さない。マーレイとて自分を持ち上げるオベンチャラ取材じゃなかった事に、テメエ勝手にガッカリしていた。

 そこへサウジ映画社からの出資話が消滅との知らせが飛び込み、さらに八方塞がりな状況に陥るズィスーことマーレイ。強気の態度を解かない彼だから内心の動揺は毛ほども見せないものの、実はかなり煮詰まっていたのは間違いない。そんな彼に助け船を出したのは、意外にも「息子」オーウェン・ウィルソンだった。彼には母親から相続した巨額の金があったのだ。かくして「息子」を筆頭出資者として、新作話はにわかに現実味を帯びて来た。だがそんな「息子」に対しても、勝手な改名を押しつけたり…とテメエ勝手一筋のズィスーことマーレイではあった。

 ともかくウィルソンの出資金を元手に銀行からの融資も決定。これで順風満帆と思いきや…出資にあたっては銀行から条件が付くではないか。まず一つは、例の「ジャガー・シャーク」を殺さないこと、さらにもう一つは…銀行からの予算管理人バット・コートを航海に同行させること。これにはズィスーことマーレイも閉口するが、最初から敵意ムキ出しのマーレイに対し、コートは穏やかながらもキッパリと一言。「私は予算管理人ですが、その前に一人の人間です!」

 チンケなメガネの中年男然とした風貌とは裏腹のその毅然とした態度に、さすがのマーレイも思わず黙らざるを得なかった。かくして今回の冒険に、またしても余計な不確定要素が一つ…。

 こうして船出した「チーム・ズィスー」ではあるが、ウィルソンを面白く思わないデフォーが彼にクギを刺したり、ブランシェットに傲慢な態度を崩さないマーレイが内心「その気」十分だったり、そんなマーレイにブランシェットがウンザリだったり、ウィルソンがブランシェットにチャッカリ接近していったり…と一触即発な要因がウジャウジャ

 しかも今回の冒険を焦るズィスーことマーレイは、いきなりジェフ・ゴールドブラムの無人観測所に無断で侵入。その観測機材などをゴッソリ頂戴(もしくは拝借)して「ジャガー・シャーク」追跡を目論んだ。しかも追跡には最短コースとは言え、「危険水域」を行く無茶な旅だ。だがそんなマーレイのやり方に、今度ばかりは馴染みのクルーの中からも意義が出てくる。先行きはますます不透明だ。

 そんな強引に無理を重ねるズィスーことマーレイは、この冒険で無事に「ジャガー・シャーク」に到達出来るのだろうか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 相変わらず才気走ってすっとぼけた笑い…という点では、前作を踏襲しているようではある。だが…前作をあまり覚えていないでこう言うのも何だが…今回はピッタリとハマっているのではないだろうか?

 というのは、前作「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」を今にして思えば、“ジーン・ハックマンってあの映画にシックリ来ていただろうか?”…と、多少疑問に思わないでもないからだ。

 むろんハックマンはうまい俳優で僕も好きだ。コメディだって出来ないはずがないと思う。ただコメディに使う時にはいつもと違って「万能」ではなく、いささか「取り扱い注意」の部分があるのかもしれないね。そんな事をフト感じたのは、前作「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」と共に、ハックマンのコメディ映画での実績をいろいろ考えてみたからだ。ダン・エイクロイドとのコンビネーションがスベっているなどという生やさしいモノではなかった刑事コメディ「キャノンズ」(1990)、「Mr.レディMr.マダム」のリメイクで笑えるはずがイマイチはじけてなかった「バードケージ」(1996)など、どうも何となくシックリ来ない映画ばかりが頭に浮かぶ。やっぱりハックマンはちょっと違ったんじゃないか?

 その点、ズバリと今回のビル・マーレイはハマってる。

 あのトボけた食えない顔が効いている。面白くも何ともなさそうな仏頂面がモノを言う。そこに元々持っているスノッブな味も、このどこか頭デッカチで屁理屈っぽい映画に合ってるではないか。しかもマーレイはロスト・イン・トランスレーション(2003)で、ちょっとメランコリックなイイ味出してたもんね。要は彼のユーモアやコミカルさって、コメディ本来の「バカやってます」…ってものじゃない。こういう言い方しちゃうと鼻持ちならない感じだが、どこか頭良さげな態度をチラつかせながらのバカっていうところがあるからね。それってこの映画の作り手のポーズと、ピッタリ同調してるんだろう。

 そのせいか、今回は前の映画よりピシャッと焦点が合ってるように見える。前の映画をホメていながら今になってみると忘れてるというのは、おそらくそのへんのピントが微妙にぼやけていたからではないか。あるいは「うまい」けど何となく「人ごと」になっちゃってたところがあるかもしれない。今回は僕にも、ウェス・アンダーソンの言いたい事が何となく分かった気がするよ。「うまい」かどうかは知らないが、結構身につまされたりする。

 要は…これもまた「人生の峠を越えちゃった」人物の映画だ。

 どうもピークを振り切っちゃった感じで、近頃何をやってもうまくいかない。ズバリ言って下降線辿ってる気がする。だから不安になってますます頑なになる。それでますますドツボに陥る。

 長くから関わりを持っていた人間との別れがやって来る。望みもしない新しい人物との関わりが出てきてしまう。このトシになって新たな関係構築は厄介だし避けたい。だが、それが「自分が今まで避けて来たもの」だとしたら、この不調打開のためにも仕方ないと我慢せざるを得ない。否…それにすがりたくもなる。

 女との関わりもうまくいかない。今まで黙ってついてきてくれた古い女は去っていくし、新しく目をつけた女はいう事を聞いてくれない。

 一緒にやって来た仲間ですら、あれこれとギクシャク言ってくる。落ち目で焦っている自分の気持ちなどよそに、余計なプレッシャーをかけてくる

 だが自分だってもういいトシだから誇りがある。おまけにうまくいってた時の「いい目を見た」気分も忘れられない。だから今さら頭も下げられない。むしろどんどん強引に傲慢になってしまう。それじゃいかんと思っても止まらないし、そもそも「それじゃいかん」に気づかない事も多い。

 そんな余計なモノがフジツボみたいにこびりついてしまった上に、いろいろ用心深くなっている事もあって、どうしても人に構えて接してしまう。時には敵意をムキ出してしまう。それが自分への失望を生み出してしまったり、逆に相手に対して自分の小ささを見せてしまったりして、さらに焦りが深くなる。

 本来は男の実力、大人の余裕を見せなきゃならない場面でも、逆に自分の小ささを暴露してしまう。そんな時、否応なしに自分は「小物」だし「子供」だなと痛感する。

 それどころか、何でどいつもこいつもオレの言うことを聞かないんだ…とムシャクシャする。そこで「オレについていきたくない奴は去れ」などとタンカを切るが、ホントに落伍者が出るとは思いもしてないからすごくショックを受けたりする。

 オレって落ち目だよな〜っ。

 そうなると何よりも、あのビル・マーレイの苦虫噛みつぶしたような仏頂面が効いてくるのだ。

 今回の豪華キャストも、賑やかさより皮肉さやニヒリズムの顔ぶれと見てみればなかなか絶妙ではないか。ウィレム・デフォーがそうだし、何よりジェフ・ゴールドブラムがそうだ。変なアクセントでしゃべるケイト・ブランシェットだってそうだ。引き合いに出しては何だが…前作のグゥイネス・パルトロウとかダニー・グローバーとかを頭に思い浮かべてみても、やっぱりシックリ感が全然違う。これはキャスティングが大きかったのではないか。

 そこへ持ってきて、海洋生物などをすべてストップモーション・アニメでやってしまったのも慧眼だった。だってここでの海洋生物って、一種の例えに過ぎない。それは人生がもたらしてくれる、一種の豊かな実りのシンボルだからね。ホンモノを出してもしょうがない。それを「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」(1993)の監督ヘンリー・セリックにやらせるというのが、また実にワカッテル。ティム・バートンが音頭を取ったこのアニメーション…そこにあったのもダークでちょっとシニカルなユーモアだからね。

 今回は、題材と表現がすべての面で一致したと言えるんじゃないだろうか。

 

見た後の付け足し

 先にも述べたように、これは「人生の峠を越えちゃった」人物の映画だ。

 そしてこの映画は、そんな焦りの中でもがく主人公が…良くも悪くも何らかの落ち着きを取り戻すまでの物語なのだ。

 自分の日常に新風と混乱をもたらした新参者は、登場した時の唐突さでまた去ってしまった。それは所詮願っても叶わないものだったのか。

 去っていった女の価値を思い起こした主人公は、初めてその傲慢を取り下げる。何を置いても必要なモノがあると、彼は改めて悟るのだ。

 自分に憧れを持って接してきた人間には、愚かにも失望を与えてしまった。だが、それで良かったかもしれないと諦めもついた。それがありのままの自分なら、それも仕方ないではないか。もういい加減、自分を実際以上に大きく見せかける気もなくなった

 去っていった人間には惜しむ気持ちもあるが、それもまた運命だ。世の中には仕方のない事もあるのだ。そんな中でも踏みとどまってくれた人間もいる。ならば自分は彼らを大事にすべきではないか。

 目の仇にしていた人間を助け出して和解に至る主人公は、そこで不思議な心の平安を得る。初めて自分の前で謙虚な言葉をつぶやく「宿敵」に、今なら自分も素直な気分で「誰だってそうさ」と言える。

 そんな主人公は仲間たちと共に、あの「ジャガー・シャーク」を目の当たりにするのだ。

 その時に彼が「ジャガー・シャーク」を仕留めないのは、単に言葉通り「ダイナマイトがない」からではないだろう。「ジャガー・シャーク」を見つめる主人公の目には、巨大な存在に対する深い畏敬の念が伺える。それは時として人間にままならない仕打ちをして歯ぎしりさせながらも、結局は人知の及ばぬところにある超然とした存在だ。それに「復讐」しようなんておこがましい事だ…と、主人公はそこで改めて悟ったのだろう。

 そんなこの映画の「ジャガー・シャーク」を、やれ「人生」の例えだの「時」の象徴だの…と言うのは、興ざめだからここでは避けたい。いわんや「神」だなんて言うのはよそう。

 ともかく人間にはどうにもならない「何か」があるのだ。それが人生をメチャクチャにもするし、思わぬところで救ってくれたりもする。泣いて頼んでも非情に裏切るくせに、思わぬところでご褒美をくれる。それは絶対に僕らの思いのままにはならない。だが…それを感じた時、それに触れたような思いがした時、僕らは何か畏れのようなものを感じずにはいられない。

 「それ」がいる以上、人生の危険は回避出来ない。どうにもならない事はどうにもならない。だが逆に言えば…ダメになってしまっても、ダメなままとは限らない。「それ」は、とても気まぐれなものだからね。

 ラストに至って主人公が、小さい男の子を肩車して前進していく姿は象徴的だ。今まさに、彼はそれまで避けていた厄介事も何もかも引き受けて、さらに先に行こうとしているんだよね。前と同じではないかもしれないが、それでもまだまだ船出は出来る…。

 にも関わらず、あの仏頂面は微動だにしていない(笑)

 若造じゃあるまいし、気持ちを入れ替えたからって俺のスタンスは変わらねえぞ…その気持ちが痛いほど分かるから、嬉しくって大いに応援したくなるんだよね。

 

 

 

 

 

 to : Review 2005

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME