「愛の神、エロス」

  Eros

 (2005/05/09)


見る前の予想

 またしても大物監督のカップリングによるオムニバスの登場だ。

 去年は大物がゾロゾロ出てきた10ミニッツ・オールダー(2003)二本組があったが、今度はウォン・カーウァイ、スティーブン・ソダーバーグ、ミケランジェロ・アントニオーニという新旧・洋の東西にまたがるウルサ方三人が組んで、愛とエロティシズムについての三部作。その名も「愛の神、エロス」とくる。このいかにもスカした感じがこの三人…中でもウォン・カーウァイにはピッタリって感じ。カーウァイのパートは力入りまくってるのか、コン・リーとチャン・チェンを起用しての豪華版だ。

 だけど…これって面白いのかねぇ?

 そもそもスゴイ顔ぶれのオムニバスってのが、前評判通り面白かったためしはほとんどない。「10ミニッツ・オールダー」は割と良く出来ていた方だが、それでもその顔ぶれから期待されるほどの出来ではなかったはずだ。オムニバスとは元々そういうモノなのだ。

 しかもこの三人…いずれも何とも怪しげだ

 ウォン・カーウァイについては最近は僕だけでなくてみんなアレコレ言い出したから、もうあまり悪口は言いたくない。ただいつも現場とスケジュールがメチャクチャになる悪癖は、今回発揮しなかったようだ。そうなると、それはそれで胡散臭い。何で今回はメチャメチャにならなかったのか? そしていかにもスカした「エロス」なんてテーマで、奴がどんな偉そうな事を言ってるのか…何だかあまり見たくないな。

 ソダーバーグって男も…毎度毎度言うとしつこいとは思うけど、そもそも「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)や「KAFKA/迷宮の悪夢」(1992)撮ってた男がハリウッド本流になって、スターをかき集めてオーシャンズ12(2004)やってるんだからね。こんなにイカサマ臭い男もいないよ。それがまたぞろアントニオーニとツルむ。まるでつい先日ジュリア・ロバーツと悪ふざけしていた事などなかったかのようだ。どうもこいつは信用できない。これは僕の経験から分かる。

 アントニオーニについては信用できない訳ではないが、こう言っては何だが…今のこの人に映画が本当に撮れているのか。確か脳卒中で倒れて以来、身体の自由も利かなければ口もきけないんじゃないか? 前の「愛のめぐりあい」(1995)もヴィム・ヴェンダースの力を借りてやっとこ撮ったというのに、短編とは言えこの映画がちゃんと自力でつくれるのだろうか?

 もっともらしい「エロス」なんて看板掲げているけど、本当に彼らで大丈夫なのか? 映画ファンとしては見ずにいられない顔ぶれではあるが、おそらく誰もが不安を感じる顔ぶれでもあると思うよね。

 

あらすじと感想

「若き仕立て屋の恋」 The Hand

 まだ見習いの若い仕立屋チャン・チェンが、上得意客の高級娼婦の元に使いにやらされる。だが娼婦の「仕事場」の隣で待たされていたチャン・チェンは、その声と気配にすっかり身体を反応させてしまった。やがてチャン・チェンの前に姿を現した娼婦コン・リーは、そんな彼の緊張ぶりをすぐに察する。

 「ズボンを脱いで! 下着もよ」

 彼女はチャン・チェンの股間を手で刺激しながら、言い聞かせるようにこう語った。「いい仕立て屋になるには、多くの女に触れなければダメよ。今日のこの手の感触を覚えておきなさい

 そして月日が流れた。

 精進して今ではいっぱしの職人となったチャン・チェン。相変わらずコン・リーはこの店の上客だ。いつも出来上がった服を持っては、秘かな期待を秘めてコン・リーの元を訪れるチャン・チェンではあったが、彼女はロクに顔を出す事もない。それでもコン・リーのご指名は、いつもこのチャン・チェンであった

 コン・リーの羽振りはすこぶるイイ。有力なパトロンをガッチリ掴んで、結婚のウワサさえある。いよいよ玉の輿…とも思われた彼女ではあったが、好事魔多し。やがてパトロンとの間に不協和音が聞こえてくる。電話でのひっきりなしの口論。パトロンに捨てられ、また夜の街の仕事に戻るコン・リー。…そんな一部始終を、チャン・チェンは彼女のそばでじっと静かに聞いていた。

 そのうち支払いも滞るようになるコン・リーは、すっかり落ち目をウワサされるようになった。店の主人は、チャン・チェンに取り立てに行くように命じる。

 だが彼を迎えたコン・リーには、すでに金がなかった。その代わりに…と彼女は、今まで作らせた服を差し出す。これを売って金をつくってくれ…と。

 間もなく、コン・リーはそのアパートから姿を消していた

 それからしばらくして、久方ぶりにコン・リーからチャン・チェンへのご指名がかかる。言われるまま訪ねた彼女の住まいは、以前のアパートとは比べモノにならないしがない安宿。そこでコン・リーは有り金すべてを差し出し、チャン・チェンに新しい服の注文をした。かつてのパトロンと久しぶりに会う事になった、これが最後のチャンスだ…と。

 チャン・チェンは金を受け取らず、コン・リーにこう言った。「前の服があります。手直しさえすれば十分着れますよ」

 彼は、あの服を売ってはいなかったのだ

 チャン・チェンは店に戻ると、とっておいた服を真心込めて直し始めた。だが彼が服の手直しに精を出している間も、コン・リーは身体を安売りして金稼ぎに奔走せざるを得ない。やがて彼女は、忌まわしい病に取り憑かれてしまった

 出来上がった服を届けに行くチャン・チェン。だがもはやコン・リーの身体はおぞましく冒され、この服を着るチャンスは奪われていた。「もう服はいいわ。男は去ったから」

 やつれ果てて病の床に伏せている彼女は、二人の出会いの頃の事を語り出す。「私の手の事を思い出す?」

 「ええ。あの手の感触のおかげで、私は一人前になれました」

 「お礼をしたいけど、今では身体もいうことがきかない。手ではダメかしら?

 こう言うとコン・リーは、チャン・チェンの股間に手を伸ばして優しく愛撫を始めた。感極まって彼女を抱きしめ口づけしようとするチャン・チェンだが、コン・リーは口を手で覆ってやさしく彼を止めた。こうして狂おしくも切ない時間を過ごす二人…。

 

 三つのエピソードのトップ・バッターは香港のウォン・カーウァイ。例によって…と言うべきか、花様年華(2000)、2046(2004)に引き続いて1960年代の香港のおぼしき舞台設定。登場人物が香港の日常語である広東語ではなく北京語をしゃべるのも、当時の香港映画のムードを再現しようとしているらしい…と、僕も今なら何となく察する事が出来る。そういう意味では舞台背景やら当時のラテン・フレーバー漂う音楽使用だとか、コマ数を遅くした現像段階でのスローモーション処理やスタイリッシュな絵づくりだとか…毎度お馴染みのウォン・カーウァイ映画だと言える。

 だが、今回はここんとこ何作かのウォン・カーウァイ映画の中で一番いい

 カーウァイ作品への批判は何度も何度も繰り返して来たから、もうあまり言いたくはない。ただ、あの気取りやら回りくどさ、見た目のカッコ良さに比べての内容の空疎さ…などなどが鼻につきまくっていた。その頂点が「ブエノスアイレス」(1997)だ。その後「花様年華」、「2046」…と改善の跡は見られるものの、前述した悪癖が完全に払拭されたとは言えなかった。だから今回も同じような作品…という事になれば、当然内容的にも五十歩百歩…と思っていたんだよね。

 ところが今回は、結構良いのだ

 一途な男の愛と、それを黙って察する女…何とも切ない物語。その切なさがこれほどケレンなくストレートに伝わってくるのって、あの「欲望の翼」(1990)以来じゃないだろうか。しかも回りくどい訳でもない。分かりやすい。変にスカした感じもない。久々にウォン・カーウァイ作品で素直に酔えた。

 考えてみると、今回はウブなチャン・チェンの男の純情で押し通した物語だ。これが良かったのではないだろうか?

 あの最悪作「ブエノスアイレス」では、トニー・レオンとレスリー・チャンというナルシスティックな男二人がお互いにカッコつけ合戦を繰り広げていた。「花様年華」と「2046」でも、カッコいい男トニー・レオンがちょいとワルびれたラブ・アフェアを展開していた。トニー・レオンそのものは決して悪くないし、カッコいい男を出してもいいが…そこに「オレってこんな感じの男さ」とでも言いたげなウォン・カーウァイのマズいツラ(笑)がチラついてくるから、何となく鼻についてきちゃうんだよね。いくらサングラスかけてスカしてみても、オマエは違うだろと言いたくなる(笑)。どう見たって劇画原作者の梶原一騎がいいとこのガラの悪さ。いい歳こいてバカ言ってるんじゃねえって。

 その点、今回はお話が身の丈サイズだったのが良かったのではないか。せいぜいウォン・カーウァイじゃあ、女との関わりもこの程度だろう(笑)。ウソを言ってはいけない。

 そして控えめで気持ちを抑えて抑えて、ひたすら愛に殉じるチャン・チェンが素晴らしいのである。これは「2046」をダラダラ撮影したあげく、ほとんど彼の出番を抹殺してしまった事に対するウォン・カーウァイの罪滅ぼしだったのだろうか? だとしたら、そんな謙虚さを見せるところからして心構えが違う。知らず知らずに、そんな気持ちの入り方は映画ににじみ出るものだ。今まではウォン・カーウァイの傲慢と思い上がりと気取りばかり…おまけにツラのマズさとセンスの悪いサングラス(笑)…ばかりが目立って、良く出来ていても素直に受け取れなかった。今回これほど素晴らしいと思えるのは、やはりそんなカーウァイの姿勢が出ているからだろう。相変わらずダサいサングラスをかけてはいるが、今回に限っては照れ隠しと許してやってもいい(笑)。

 そして今までもその傾向は多分にあったが…今回も「あえて語らない」「あえて見せない」を徹底して、思わぬ効果を上げているのが見逃せない。最初のシークエンスで、チャン・チェンが話しかけている相手のコン・リーは画面に出てこない。そこからいきなり回想に入るが…隣の部屋で待たされている若きチャン・チェンには、寝室での声と気配しか分からない。だが、それだからこそ限りなく妄想がかき立てられる。コン・リーその人の姿が初めて画面に現れるのは、実にその後なのだ。

 コン・リーの羽振りの良さも、その行き詰まりと没落も…観客に伝えられるのは間接表現のみ。すべてはチャン・チェンが店の主人から告げられる言葉やらコン・リーの電話でのやりとりのみで表現される。出てくるのはコン・リーとチャン・チェンとの濃密なドラマだけで、それ以外の要素は見事に刈り込まれて間接的に伝えられるだけの「盆栽」みたいな映画なのだ。でも…だからこそ無限に想像力が広がる。そして間接表現ゆえに寡黙な映画ではあるが、決して気取り過ぎず分かりにくい事もない。これは実に見事だよ。

 そして映画自体と同様、どこかストイックで献身的な「愛の殉教者」風の主人公ながら…決してパトリス・ルコント映画の「それ」みたいに押しつけがましくもない。これはチャン・チェンという役者の持つ、どこか爽やかな持ち味も幸いしたのかもしれない。ともかく、いかにもルコント映画にありがちな「こんなにオンナを献身的に愛するオレ」…を誇示する訳でもない清々しさは、まさに特筆に値する。今回のウォン・カーウァイには、そんな傲慢さが微塵も感じられないのだ。

 この簡潔さと明快さ、そして濃密さは、おそらく今回の作品が短編だから得られたものなのだろう。いつものように無意味に回りくどい事をやっていたら、30分程度というサイズには収まらない。こうして無駄も自己満足もないから、引き締まった面白い映画になったんじゃないかと思うんだよね。

 こうしてずっと鼻についていた要素が陰を潜めてみると、やっぱりウォン・カーウァイって素晴らしい。彼がいかにいい映画作家かを再確認したよ。本人も改めて、こういう映画作りを思い出したんじゃないだろうか?

 

「ペンローズの悩み」 Equilibrium

 ベッド脇に佇む美しい女…やがてその女はハダカのままバスルームに立ち、やがて化粧をし身繕いをして、バッグを持って部屋を出ていこうとする。その間、ずっと電話のベルが鳴り続けているが…。

 ここは1955年のアメリカのある大都市。ロバート・ダウニー・ジュニアは広告代理店で働く男で、同僚がカツラをかぶって以来それが気になって仕方がない。そもそも今抱えている目覚まし時計の宣伝の仕事で煮詰まっている。そして何より…同僚のカツラ以来、毎晩妙な夢を見る。それが例の美しい女の夢だ。

 それを気に病んで、ダウニー・ジュニアは精神科医アラン・アーキンのドアを叩いた。夢の話をウッカリ女房にしたものだから、彼女との関係もギクシャクしている。何とかすぐにでも夢の問題を解消したい。

 そんなダウニー・ジュニアに目を閉じて横になるように告げると、精神科医アーキンは彼の告白を聞き始める。だが実はアーキンは、ダウニー・ジュニアの話など聞いていない。窓の外を双眼鏡で覗いたり、窓の外の何者かに知らせるために、紙飛行機を窓から投げるのに夢中だ。ダウニー・ジュニアがあれこれとマジメに話しているのに、アーキンは心ここにあらずだ。だが、アーキンのいいかげんな受け答えから、ダウニー・ジュニアは勝手に問題を解決していってしまう。「そうか、あの電話のベルは目覚まし時計の音に違いない」「そうだ、目覚ましのベルを切っても再び鳴る機能を付ければ売れるぞ」…原因は目覚まし時計の宣伝に悩んでいた事だ…と、一人で問題解決して喜ぶダウニー・ジュニア。

 そんな彼が…夢から覚めると、そこには例の美しい女…彼の妻がいた。

 

 スティーブン・ソダーバーグのパートは、夢に関するお話。精神科医がカウンセリングをしているフリをしながら全然人の話を聞いていない…というユーモラスな趣向もあるが、簡単に言えば「幻想と現実が交錯する話」だ。

 ズバリそのあたりから分かる通り、これはソダーバーグでもハリウッド・エンターテインメント作品の系列ではない。「セックスと嘘とビデオテープ」「KAFKA/迷宮の悪夢」に始まり、ソラリス(2002)やフル・フロンタル(2002)にまで至る作品系列。要はソダーバーグは「本当はオレはこっちをやりたいんだ」って事なんだろう。

 だが残念ながら、やりたい事をやればうまくいくという訳ではない

 今回のこの映画、結局言いたい事はと言えば…本当の事は最初から自分で分かっているものなのだ…という「灯台もと暗し」みたいな話のようだ。「…のようだ」と歯切れ悪く言わざるを得ないのは、実は僕にもあまりよく分からないからだ。分からないってのは、僕が頭が悪いからかもしれない。だが、それだけとも思えないんだよね。正直言って、ちょっとこの映画の描き方って曖昧なのだ。

 実際のところ…僕がこの映画の結論を上記のようなものだと思えたのも、あくまでラスト・クレジットを見た上でのこと。「夢の女」を演じた女優が最後にもう一度出てきた時、それが「妻」の役だったのだとハッキリ確かめられたからだ。だが画面だけを見ているだけだと、「夢の女」が「妻」だとは確信できない。ハッキリそうだと分かる描き方をしていないのだ。これでは何の話だか分からないではないか。

 このエピソードは「オチ」が命…の短編らしいつくりになっている。だとしたら、この回りくどさや曖昧さってちょっと致命的なんじゃないだろうか?

 大体この映画の最後の方では、アーキンが窓から飛ばした紙飛行機のショットを何度も何度も繰り返して見せているが…これが何だかアマチュア映画みたいな描写なんだよね。あれってどういう意味があるんだ? 何だか青臭くて見ていて恥ずかしくなった。だとすると、一連の「曖昧さ」はアマチュア映画にも似た「背伸び」なり「気取り」なのかもしれない。ソダーバーグは「巨匠」アントニオーニを前にして、何だか「高級な映画」をつくってるポーズを見せてしまったように見える。

 大した事ない話を回りくどく見せて…おまけにそれがアマチュア映画並みの青さ。こう言っちゃ何だが、これをプロの仕事というのはいささか恥ずかしいんじゃないか?

 

「危険な道筋」 The Dangerous Thread of Things

 保養地で日光浴をしているバカンス中の夫婦クリストファー・ブッフホルツとレジーナ・ネムニ。だがそんな気楽なはずの時間も、この二人はガタガタガタガタ口げんかが絶えない。ウンザリしてクルマで引き揚げようとする二人は、途中で静かな渓谷を見つける。そこには二人の若い娘が全裸で水浴していた。

 「こんな場所があったんだ」

 「忘れていたのね、大事なものを」

 とか何とか分かったような事を言っていた二人。たまたまメシを食いに海辺のレストランに行くと、そこに目を惹く若い娘がいた。彼女は近くの石造りの塔に住んでいると言う。

 結局メシの後でまたまた口げんかの二人。女房のレジーナ・ネムニは怒って帰ってしまった。一人になったブッフホルツは、石造りの塔へと足を延ばす。案の定そこには例の若い女…胸がでっかくて肉感的なルイザ・ラニエリがいた。彼女に誘惑されるように家に導き入れられるブッフホルツ。二人は激しくベッドで抱き合う。

 やがて妻ネムニのもとに、ブッフホルツから電話がかかる。彼は今パリにいると言う。ネムニは「まだ愛は終わっていない」と告げるが、ブッフホルツは何が言いたいんだか「雪がキレイだ」とか何とか訳の分からない返事が返ってくる。

 浜辺にあの娘ラニエリがやって来る。全裸になって奔放に踊り、砂浜に横たわる。やがてその浜辺に妻のネムニもやって来る。彼女の全裸になり大胆に踊り狂う。やがて横たわったラニエリの傍らにやって来ると、ネムニの影がラニエリの身体に重なった。そして見つめ合う二人であった…。

 

 ハッキリ言ってよく分からない(笑)。悪いんだけど、全然面白くも何ともなかった。これが分からない僕はバカなんだろうか。とにかく眠かった。

 出てくる役者たちも貧相で、見ていて何の喜びも感じない。般若の面みたいな顔した妻役の女優が脱ごうが何だろうが、こっちはちっとも嬉しくない。乳房スケスケの服を着てるのも意味が分からない。あれは色情狂なのかと思ったよ。もう一人の若い女優だって、胸がデカいのは分かるが品がない。あのホルスト・ブッフホルツの息子クリストファーといい…何だか二流の役者ばかり集めて来たみたいで、見ていてどんどん気が萎えていった。

 考えれば前作「愛のめぐりあい」は、ヴィム・ヴェンダースの助けを借りながらも全体が小咄集みたいなつくりになっていた。アントニオーニってもう長編をまるまるつくる気力はないんだろうな。今回のオムニバスもアントニオーニから声をかけたらしいが、今はこういうカタチでないと映画が撮れないって事なんだろう。

 それでも「愛のめぐりあい」は退屈せずに見れたし、僕は嫌いじゃない。全盛期とは比べるべくもないかもしれないが、それでもそれなりの良さはあった。全部のエピソードの出来が良かったとは言わないが、ちゃんと面白かったと思うよ。

 だが…今回のは申し訳ないけどいただけなかったね

 深読みすると「自然に帰れば人間は素直になれる」とか何とかいうメッセージとも取れるが、それもこじつけめいている。しかも、もしそんなメッセージなら恐ろしく月並みだ。そして、そんなメッセージじゃないのなら、まったく何を言いたいんだか分からない。何なんだろうね、これは。

 過去に実績のある巨匠に失礼な事は言いたくないが、少なくとも僕の口には全く合わない。恥ずかしながら分からない作品だった。

 

見た後の付け足し

 というわけで、実はウォン・カーウァイのエピソード以外、ソダーバーグもアントニオーニもいただけない。見ているそばからどんどん調子が落ちていく…という、何ともツラいオムニバスだった(笑)。仮に僕が分かっていないだけなら、無礼をお許しいただきたい。でも、別にこの映画を理解したくはないな(笑)。

 大変申し訳ない言い草ながら、アントニオーニは明らかに衰えなんだろう。見ていて何の喜びも感じなかったもんねぇ。もし僕が思った通りのテーマだったら、あまりにつまらなすぎて困ってしまう…。

 そしてソダーバーグは、どう考えてもアントニオーニを前に背伸びしまくったんだろう。そのあげく、底の浅さをモロに露呈してしまった

 こうなると、やっぱりウォン・カーウァイは大したものだと感心せざるを得ない。

 だが、それはそれでちょっと頭に来るんだよね

 カーウァイと言えばいつだって現場がダラダラ、スケジュールは延滞しっぱなしというのが恒例になっているけど、今回は他の監督の手前もあってキッチリこなしたはず。

 ならば、いつだってちゃんと出来るのではないか?

 尊敬する大先輩アントニオーニを前にして、手抜きしてスケジュールに合わせたという事はあるまい。やれば出来たんだよね、こいつは。

 なら何で今までそれをやらなかったんだ。アントニオーニが相手だからちゃんとやったと言うなら、こいつはそれまでプロデューサーも俳優もみんな軽く見てバカにしていたという事なのか。ナメてるのかオマエは。フザけるんじゃねえ。もうこんな甘えは許されない。断じて許してはならない。みんなもっと怒るべきだ。

 今回のカーウァイ作品がどこか謙虚で気取りが影を潜めているのは、やっぱり一種のアントニオーニ効果と言っていいだろう。さすがに大先輩を前にいつものあの態度はマズイはず。それくらいウォン・カーウァイだって分かるんだろう。スカしてるって見破られちゃうだろうし、そんな虚勢が空疎な事もバレる。そうなったら何より自分が恥ずかしい。だから素直に謙虚になって、本来の素晴らしさが出てきたんじゃないか。

 ならば、ここで僕から提案だ

 これからもこの三人のコラボレーションを続けたらどうだろう? それがウォン・カーウァイのためだ。カーウァイが新作を撮りたいと思ったら、まずは脚本をアントニオーニに提出してチェックしてもらい、それでオッケーになったら撮影だ。マズけりゃ何度でも書き直させる。もちろんアントニオーニには現場にも来てもらい、厳しく目を光らせてもらう。あまり長引くとアントニオーニの具合が悪くなるから、無駄な事もやらず現場もキビキビと進むに違いない。クリストファー・ドイルとの慣れ合いもなくなるだろう。もちろんラッシュもアントニオーニに目を通してもらって、編集もアントニオーニが行う。カーウァイは一切コントロールしない。許してやるのはダサいサングラスだけ(笑)。それでも奴は大先輩アントニオーニには文句が言えないだろう。これならきっと素晴らしい作品が出来るんじゃないだろうか。

 アントニオーニにとっても、これは好都合だ。ハッキリ言って、もう自分の映画を撮るのは無理だろう。でも厳しい批評眼なら持ち合わせている。ならば手加減の必要は一切ない。少しでも自己満足がチラついたら、即刻断固ダメ出しして欲しい。クリストファー・ドイルがカッコつけ過ぎたショットがあったら、まずそこからバンバン切っていただきたい。センスは抜群のカーウァイを手足のようにコキ使って、ぜひ素晴らしい映画を撮ってもらいたいのだ。

 さらにソダーバーグはハリウッドでのコネを総動員して、資金集めに奔走すればいい。こいつにはそれしか期待しない(笑)。口八丁の調子の良さとスターとのコネで、ぜひお金をたくさん集めて欲しい。時折ハリウッド仕込みのシビアな予算管理で、カーウァイをバッチリ締め上げればベストだ。あいつは放し飼いにしたらロクな事にならないのだ。自分で自分を管理出来ない奴に、同情する余地なんてこれっぽっちもないよ。

 どうだろう? 世界のプロデューサーでこの話に乗る人はいないだろうか? もし乗るならこのアイディアに歩合で全世界興行収入の5パーセント、僕の銀行口座に振り込んでもらいたい。何だったら3パーセントまでまけてもいい。

 連絡を待つ(笑)。

 

 

 

 

 

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