「バッド・エデュケーション」

  La Mala Educacion (Bad Education)

 (2005/05/09)


 

見る前の予想

 ペドロ・アルモドバルの最新作。まず最初に、この邦題にだけはケチつけていいだろうか。

 「ライブ・フレッシュ」「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」…そしてこの「バッド・エデュケーション」。スペインの監督がスペインの俳優を使ってスペインで撮っているスペイン語の映画が、なぜ英語読みカタカナ表記のタイトルばかり付けられているのか。

 営業上の問題やらいろいろな事情で、一度や二度そういう事があっても文句は言わない。英語の方が通りがいいって事も、情けないけどわが国の映画観客だったらあり得そうな話だ。だがこうも何度も続けるのは、さすがにおかしくないか。これってマトモに考えれば、かなりコッケイな事だろう。さすがにこればっかりとなると、邦題を付けた人間の常識を疑う。いくら何でもやりすぎだ。配給会社ならびに担当者の猛省を促したいところだ。

 さて、そのアルモドバルの映画だが…前のトーク・トゥ・ハー(2002)は結構気に入っているが、そのもう一つ前の「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999)はまるっきりダメ…と、僕にとってはその善し悪しが大きくバラつく映画作家なんだよね。世評では毎回大絶賛なのに、僕の中では評価がまったく安定しない。だから途中何作か見ていない時期もある。

 今回も僕にとって面白いかどうか…微妙なところなんだよねぇ。

 

あらすじ

 1980年、ここはマドリード。若手の映画監督エンリケ(フェレ・マルチネス)は、次回作の題材探しに煮詰まっていた。そんな彼の元に、突然一人の青年が訪れる。彼の名はイグナシオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)。16年前にエンリケと同級生だったと言う。名前を聞いてエンリケも思い出した。イグナシオは彼の親友だった子だ。そして…「初恋」の相手でもあった。あまりにも変わっていたのでそこに昔の面影は見いだせなかったが、イグナシオの名前は忘れた事がなかった。そんなイグナシオは現在役者をやっていて、エンリケに仕事をもらいにやって来たのだ。さらに彼は一冊のシナリオを手渡す。その題名は「訪れ」と言った。

 早速シナリオを読み始めたイグナシオは、その内容にスッカリ引き込まれた。そこには彼ら二人の秘められた子供時代が反映されていたのだ。その物語は…。

 ある田舎町に女装のショーガール…ドラッグクイーンのショー一座がやって来る。主人公はたまたまショーを目撃し、中でも抜きんでて美しい歌姫サハラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)に惹きつけられる。舞台がはねた後、彼女=彼に接近する主人公。二人はそのままホテルへとシケ込むが、主人公は深酔いしたかベッドで眠りこけてしまう。これ幸いとばかり身の回りのモノを失敬しようとする女装の歌姫サハラだが、彼女=彼はそこでハタと気づいた。この眠りこけている相手は…かつての「初恋」の相手ではないか。

 これで火が付いたか、女装の歌姫サハラはかつて二人が在籍した神学校へと足を延ばす。今こそ借りを返す時だ…サハラは教会に忍び込み、マノロ神父なる人物(ダニエル・ヒメネス・カチョ)に接近した。

 「昔、神学校にいたイグナシオという生徒を覚えてらっしゃいますよね?」

 美しく汚れのない少年イグナシオ(ナチョ・ペレス)…彼の姿に、マノロ神父の視線は常に釘付けだった。自らの欲望を抑えきれないマノロ神父は、連日のようにイグナシオ少年に迫る…。

 そんなイグナシオの前に、一人の少年が現れる。

 その少年の名はエンリケ(ラウル・ガルシア・フォルネイロ)。エンリケの存在はたちまちイグナシオの心を虜にした。二人はいつも一緒に行動し、お互いに恋心を抱くようになっていた。

 そんな眠れぬある夜、二人してトイレの中で語り合うイグナシオとエンリケ。ところがそこにマノロ神父が飛び込んで来た。嫉妬に狂った神父は二人が「汚らわしい行為」に及んでいたと決めつけ、エンリケを退学処分にすると息まいた。そんなマノロ神父にイグナシオは必死に懇願する。「エンリケを退学させない代わりに、僕を捧げます」

 だがイグナシオは、マノロ神父に裏切られた。神父はイグナシオを犯しながら、エンリケを神学校から追い出したのだ。その時から、イグナシオは神を信じなくなった…。

 脚本を一読した映画監督エンリケは、たちまちこの物語に魅了された。後日現れたイグナシオに映画化を確約。歌姫サハラ役での出演を熱望するイグナシオと、それに否定的なエンリケという意見の相違はあったが、ともかくエンリケはイグナシオを自宅へと連れて行った。

 もちろんエンリケには、何がしかの期待がない訳ではなかった。

 自宅プールに全裸で飛び込むエンリケ。だがイグナシオは、なぜか全裸になるのを避けた。さらにエンリケからの誘いをさりげなく拒む。これにはエンリケも困惑せずにはいられない。

 そもそもこのイグナシオと自称する男には、かつての少年時代の面影がない。昔好きだった歌にも無反応なら、自らを芸名「アンヘル」で呼べとこだわるのも不可解だ。「キミが本当にイグナシオかどうか、僕には信用出来ない!」

 これに腹を立てた自称イグナシオこと「アンヘル」は、捨て台詞を吐いてエンリケの家を飛び出した。「ケッ、こいつホモだぜ!」

 だが、どうしてもイグナシオが気になる。シナリオ「訪れ」以上に彼の気持ちを駆り立てる企画も生まれなかった。そんなエンリケは自称イグナシオが置いていったライターから、彼の実家を探り出す事に成功する。訪れたエンリケを暖かく迎えるイグナシオの母親。だがエンリケは、そこで驚愕の事実に遭遇するのだった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 先にも述べた通り、実は僕にとってのアルモドバル映画って本当に評価が一定していない。

 一番最初に日本に来た「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(1987)は面白く見たが、個人的なツボにハマったという程ではない。むしろその後の「アタメ」(1989)がひどく気に入った記憶がある。次の「ハイヒール」(1991)は面白かったかつまらなかったかの記憶さえなくて、その後2作ほど見逃した作品が挟まる。実は「私の秘密の花」(1995)に至っては、見た事さえ忘れていた(笑)。こうして僕がこのサイトを始めてから初のアルモドバル映画「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999)が登場するが、世評の高さにも関わらず僕にとっては退屈極まりない映画だった。これはどうしようもなかったね。

 で、前作にあたる「トーク・トゥ・ハー」(2002)…これは結構気に入っている映画というわけだ。

 まぁ、ザッとこんな感じで…僕にとって面白いんだかつまらないんだか分からないアルモドバル映画だが、それでもまったく受け付けなかったのは「オール・アバウト・マイ・マザー」だけだったんじゃないか。これはダメだとハッキリ覚えているからね。だからこのサイトが始まっているにも関わらず、感想は書いていない。

 さて、今回の作品だ。

 見ていてハッキリ分かる、フィルムノワールへの傾倒ぶり。ミステリアスな物語という点で、飽きさせない構成だ。明らかに「トーク・トゥ・ハー」といいこれといい、アルモドバルってお客を楽しませる事をまず第一に考え始めたのではないか? これは誰もが指摘する事だろうが、いわゆる「ファム・ファタール」ものをアルモドバル風にゲイ・テイストたっぷりでカラフルに映画化。なるほどこういう味付けもあるかと楽しんで見た。

 そして…アモーレス・ペロス(1999)や天国の口、終りの楽園。(2001)などで売り出し中の若手、ガエル・ガルシア・ベルナルがまたまたオイシイ役で登場。ミステリアスなナゾの男、その彼が女装して見せる「ファム・ファタール」ぶり、さらにその彼の過去の場面でのパッとしない素朴な男の子ぶり…と、見事に演じ分けてみせるのには驚いた。とにかく彼が単なる「イケメン」なんて安っぽい表現では不適切なほど、「そっち」の気のない僕の目からも十分に魅力的に見える。もちろん女装の彼もグラマラスで華がある。だが一番僕が感心したのは、彼がそっちに開眼する前のヤボっちい男の子ぶり。これほど魅力的な男が、こんなにフツーのアンチャンになりきれるというのはスゴイ。今回の彼には心底たまげたよ。

 華も身もあるスターが揃って、ナゾめいた設定がある。伏線を張った巧みな脚本があって、伝統的なフィルムノワールのフォーマットを踏襲している。さらにもちろん、アルモドバル独自の意匠であるカラフルさで料理している。これはなかなか巧みな作戦だよね。まずは娯楽映画的に楽しまされてしまう。

 だが…何かがモノ足りない

 いや、分かったような事は言うまい。ズバリ言おう。僕はこの映画がよく分かっていない。

 この映画、確かに面白い事は面白いが…おそらくそれだけで終わるべき映画じゃないはずだ。絶対にアルモドバル本人の個人的な部分を内包していて、それが観客の感情にダイレクトに訴えて来るように出来ているはずだ。それでなければ…時代設定を明確に設定する必要のないお話に、冒頭から「1980年、マドリード」などとクレジットするはずもない。その年は、アルモドバル本人の監督デビューの年ではないか。きっとこれには何か思い入れがあるはずだ。

 それなのに…僕にはそれが何かが分からない

 世評も大絶賛だし…それも中味空っぽのヨイショじゃなくて、ちゃんと理由があっての反応らしきものが伺えるのに、僕にはそれがなぜかピンとは来ない。

 さまざまな人々の感想の中には、「ゲイ趣味がない人」には分からないかも…という意見もあったが、ちょっとそういう事とは違うような気がする。ハッキリ言って今回のガエル・ガルシア・ベルナルは、男でも思わず惹きつけられそうな魅力があるからね。彼の起用は、むしろ「その気」がない人にとって正解だったと思ったくらいだ。男に惹かれる気持ちがどうしても理解出来ない…という観客でも、あのベルナルを見たら有無を言わさず納得させられそうではないか。

 むしろ心理的に何らとっかかりがないという点で、僕はその「訴えたい事」を捕まえ損なった気がする。何となく自分との接点がない気がするのだ。あるいは、単に僕の感性がニブいという事なのかもしれない。少なくとも、それが映画のせいでない事だけは確かだと思う。

 言おうと思えば知った風な事も言えなくもないが、それをやるのは往生際が悪かろう。ズバリ言って、僕はこの映画の本質を捕らえられてないと思う。他の人の感想を読んでも、イマイチ理解できない。

 白状すれば…僕にはこの映画の最も大事なところが、情けない事にまったく分かっていないのだ。

 

見た後の付け足し

 そんな訳で、この作品については偉そうな事などまったく言えない僕だが、映画としては結構それなりに楽しんだ。それはこの映画が、僕の大好きなある映画作家の作品に敬意を表しているように思えたからだ。

 その映画作家の名は…フランソワ・トリュフォーだ。

 この映画「バッド・エデュケーション」は確かに「ファム・ファタール」もののフォーマットを踏襲しているが、正確には“「ファム・ファタール」もののフォーマットを踏襲したトリュフォー映画”を踏襲しているような気がしたんだよね。それは例えば、近年ではアシュレー・ジャッドとユアン・マクレガーが主演した氷の接吻(1999)などと近いテイストだと思う。それすなわち…トリュフォー映画へのリスペクトという事ではないか。

 そう考えてみると、符合はその他にもいくつか見受けられる。そもそも子供時代のトラウマに重きを置くあたりからして、「大人は判ってくれない」(1959)のトリュフォーの独壇場だ。全編に流れるドラマティックな音楽も、耳を澄ませば明らかにトリュフォー作品常連作曲家ジョルジュ・ドルリューの「それ」を思わせる。大体が…映画監督が主人公で映画製作の話で収束するという構成からして、トリュフォーの「アメリカの夜」(1973)を連想させるではないか。そしてその主人公は、明らかにどこか作者=アルモドバルを投影した人物のはずだ。

 その下敷きにした作品はズバリ…カトリーヌ・ドヌーブが「ファム・ファタール」となってジャン=ポール・ベルモンドを翻弄した、「暗くなるまでこの恋を」(1969)であると見た。

 どうだろう? これって結構当たっていると思うのだが。

 まぁ…これはいささか邪道な楽しみ方かもしれないが、僕はアルモドバルのフランソワ・トリュフォーへの意外な傾倒ぶりに、ちょっと嬉しくなったんだけどね。

 

 

 

 

 

 to : Review 2005

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME