「アビエイター」

  The Aviator

 (2005/04/18)


 

今回のマクラ

 そういえば、僕は久々にこの「マクラ」ってやつを書くことになるのだろうか? ここのところそんな気になれない事ばかりあったし、何となく言ってる事が偉そうになってきた気もしてやめていた。別に無理して屁理屈こねることもない…とも思ってたしね。

 そんな僕でもここんとこのライブドアによるニッポン放送乗っ取り劇は、無責任に面白おかしく見てはいた。ライブドア対フジテレビ、新興勢力対既存勢力の争い…さらにはソフトバンクなんとか(笑)の登場。結局はライブドアとフジテレビの間で手打ちが行われる事になったみたいだが…僕は株がどうしたとかM&Aがどうしたとか、そんな事に明るい訳じゃない。それにこいつらに直接利害も何もない。ハッキリ言って、どっちがどうなろうと知った事ではないのだ。

 ただ世間では最初の頃、堀江氏に「若い人が物事を変えるのはいい」…などと単純素朴かつナイーブな事を言っていたりするが…そいつはどうかなぁ?ってのが正直な気持ちだった。あの男がどこをどう「変える」のか分からないし、本当に「変える」のかすら分からない。そもそも「若い」のが良い事なのかどうかも怪しいし、堀江氏が本当に「若い」と言うに相応しいかどうかも分かったものではないのだ。青春ドラマじゃあるまいし、あまりに甘っちょろくておめでたすぎる意見としか言えまい。

 かと言って、フジテレビを応援しようなどと言う気はもっと起きなかった。「公共のメディアである放送」…云々などという戯言は、休み休み言っていただきたい。彼らはその言葉に見合うだけの、「公器」としてのメディアの責任など果たしてはいまい。クズ・タレントをかき集め、カスみたいなバラエティ番組をタレ流しているだけだ。「金の力」を行使するやり口を批判するなら、それはそっくりそのままテメエに返ってくる事にはなるまいか。チャンチャラおかしいとはこの事だ。タレントたちに「自主的」に抗議させる卑怯さも見苦しい。みんなにプレッシャーかけて言わせてるのがミエミエ。こんなサル芝居見たことないよ。見ているこっちが恥ずかしい。

 乗っ取りを本気でやるつもりにしては、当初あまりに得意げで…軽率かつ無思慮な言動が目立った堀江氏に対して、フジテレビ日枝会長の一貫してハッキリ人を見下した傲慢な態度も「どっちもどっち」。ましてソフトバンクなんとか(笑)の北尾とかいう感じの悪い男がシャシャリ出て来ようと、こいつらだって所詮は同じ穴のムジナ。大体が北尾という名前は、とんでもない極悪相撲取りを思い出させるしねぇ(笑)。さらに裏で「孫悟空」だか何だかいうオヤジが糸を引いていようといまいと、いかがわしさでは五十歩百歩なのだ。元々、善悪みたいなモノサシで判断するのが間違いで、これは単なるマネーゲームに過ぎない。だからこいつらが全部共倒れになってスッテンテンになって消えてくれた方が、ナンボか世の中良くなるか分からない。少なくとも笑いは提供してもらえる。正直言って僕はそう思ってたんだけどね。

 一応フジテレビ側の作戦勝ちで終わったみたいな雰囲気が漂っているが、果たしてどうなんだろう。実はオイシイ思いをしたのは、北尾とかいう無礼千万なオヤジって事にはならないか? あいつの高笑いで終わるのだったら、まだホリエモンの方がいくらか可愛げあったような気もするんだけどね。オレはあの「孫悟空」がイヤで福岡のホークスまで素直に応援出来なくなった(笑)。

 ただ、ひとつだけは言えるかもしれない

 堀江氏が今回の一件でバカのひとつ覚えみたいに言ってるのが、「ネットと放送との融合」とかいうお題目。だがこれってどこかの中小企業の経営者が、「月刊プレジデント」か何かの受け売りを言っているに等しい。イマドキ風だけどまったく中味のない言葉でしかない。最近になって「女子アナ」と「ネット」を結びつけたいなんて話が伝わって来たけど、コレにはさすがに情けなくなった。こんな事しか発想していないのかねぇ。フジテレビには「女子アナ」しか価値のあるコンテンツがないのか(笑)。これで会社を乗っ取ろうとするなら、これほど「若さ」や「革新性」から程遠い「オヤジ」な発想もあるまい。

 無茶でもとんでもなくても構わない。どんな新しい事を「やりたい」のか…いや、そもそも「やりたい」事自体あるのかどうか…。それこそが最大の問題ではないだろうか。

 

見る前の予想

 マーティン・スコセッシギャング・オブ・ニューヨーク(2002)に次いでまたしてもレオナルド・ディカプリオと組むと聞いて、僕はちょっと驚いたんだよね。

 なぜなら「ギャング〜」でのスコセッシとディカプリオのコラボレーションは、必ずしもうまくいっていたようには見えなかった。作品的にも興行的にもイマイチと思っていたので、まさか再び組むとは思っていなかったんだよね。

 ところがスコセッシは、この後もディカプリオと何度もコンビを組むプランがあるらしい。とすると、スコセッシとしてはディカプリオは新たな「ロバート・デニーロ」のつもりなんだろうか?

 そんなこんなであまり期待していなかったこの作品…それでも今年のアカデミー賞で最有力候補と目されていたのだから大したものだ。何だかんだ言ってもあれだけノミネートされていたのだから、それなりの作品ではあるのかもしれない。そう考えれば、スコセッシとディカプリオで「ハワード・ヒューズ伝」を撮るという企画それ自体も魅力的ではある。制作している事は大分前から聞いてはいたが、これほどの大作とも思っていなかった。なるほど、これはスゴそうだ。

 ところが肝心のオスカー・レースでは、有力部門をことごとくズッコけてしまった。

 考えてみればあの「ギャング・オブ・ニューヨーク」ですら、オスカーでは有力候補に挙げられていたっけ。オスカーでの評価が実際の中味と比べてどうか…と言えば、すこぶる怪しいところでアテには出来ない。だがこの「アビエイター」も、力作ではあってもいささか力及ばずのところがあったのではないか。

 しかもスコセッシとディカプリオのコンビの後続企画を聞いたら、香港映画「インファナル・アフェア」と黒澤作品「酔いどれ天使」のリメイクと言うではないか。こいつらリメイクしかやるモノがないのか。

 もっと言えば…3時間近い上映時間にかなり気が萎える部分もあった。「ギャング〜」もそこで疲れちゃったからねぇ。長くてつまんないと苦痛だよ。

 それでも僕には、この作品に期待するところがあったんだよね。

 主人公のハワード・ヒューズが熱中するのは「映画」と「飛行機」。この作品は、まさに「映画」と「飛行機」についての映画になっているらしい。

 「映画」と「飛行機」…その二つこそ、昔から僕の心を捕らえているモノでもあるからだ。

 

あらすじ

 ハワード・ヒューズの幼少の頃の思い出は、屋敷に閉じこめられて母親に身体を洗われている自分の姿だ。母はまだ幼い彼に言い聞かせるように、何度も何度も「ある言葉」をつぶやく。「か・く・り、カ・ク・リ、隔・離…悪い病原菌がウヨウヨしているからね…“隔離”って言葉は覚えたわね?」

 

 そして、時は1927年。ヒューズ(レオナルド・ディカプリオ)は若くして両親の遺産と事業を引継ぎ、巨万の富を欲しいままにしていた。今も彼は広大な荒野に「私設空軍」と言われるほど飛行機を動員し、「地獄の天使」なる航空映画を製作中だった。新たに雇われた管財人ディートリッヒ(ジョン・C・ライリー)に向かって、早速お得意の持論をブチかますヒューズ。「誰が何と言おうと、僕が必要だと思ったカネは使う。いいね?」

 目下の悩みは理想とする空中戦が撮れないこと。そのためには後2台ほどカメラが必要だ。ただし、すでに30台以上のカメラを動員した上に…だが。ヒューズはカメラ調達のためにMGMのメイヤー社長に頭も下げるが、ナメられた上に願いは拒否される。ヒューズの行くところ、この反応は必ず付き物だ。まずは好奇の目にさらされ、常識はずれを嘲笑され、体よく追い出される。だがそんな事には一向にメゲないのも、またヒューズという男なのだ。

 さらにやっと撮れた空中戦シーンも、ラッシュ試写を見て気に入らないと撮り直しを決意。背景がただの空ではスピード感が出ない…と気づいたヒューズは、わざわざ気象学の大家フィッツ教授(イアン・ホルム)を雇って「雲」を探させる。こうして「雲待ち」で撮影は長らく中断した。

 その傍らでヒューズは、航空技術者オデカーク(マット・ロス)を雇って「より早い飛行機」の開発に邁進してもいた。「映画」と「飛行機」…この二つにトコトンのめり込むヒューズ。当然、カネはいくらあっても足らない。その都度、財政状態の悪化を心配するディートリッヒはヒューズに進言するが、そんな事にまったく頓着しないのがヒューズという男。「雲が出た」と聞けば全軍を率いて駆けつけ、本番さながらの空中戦を展開。それを自ら取り憑かれたかのようにカメラで取り続けるヒューズは、ようやく「地獄の天使」にケリをつけたかに見えた。

 ところが今度はトーキーの襲来。「大衆はこれを求めている」と本能的にかぎ取ったヒューズは、それからいきなり「地獄の天使」トーキー化に向かって全面的に撮り直し。かくしてこの一本に三年の歳月、とんでもない巨費を投じて映画は完成した。

 ハリウッドのチャイニーズ・シアターでの完成試写の夜。有名人が押し掛け、マスコミのフラッシュが瞬く中、ヒューズは主演女優ジーン・ハーローを伴ってやって来た。映画は万雷の拍手を浴びて大成功。まぎれもなくその夜の最高のスターは、ヒューズその人だった。

 そんなヒューズは、ある一人の女性に惹かれた。その名はキャサリン・ヘプバーン(ケイト・ブランシェット)。彼女の撮影中のロケ地に飛行機で押し掛け、いきなりゴルフへと誘う大胆さ。だが彼女もまた、大富豪で気難し屋のヒューズに臆する事もなくズケズケ物を言う大胆な女だった。そんな自分をタジタジにさせる彼女の言動が、さらにヒューズの心を捕らえる。

 やがてヒューズはヘプバーンを伴い、楽しい時間を過ごすようになる。だがそんな彼には、誰も知らない悩みがあった。

 それは彼自身の並はずれた潔癖性だ。

 その日もヘプバーンとクラブに出かけたヒューズは、たまたまその場で顔を合わせた映画俳優エロール・フリン(ジュード・ロウ)と雑談に興じる。ところがヒューズのために特別調理された料理にフリンが何げなく手をつけると、ヒューズはたちまち気分が悪くなった。他人に手をつけられた料理など食えない…他人の服に付いたちょっとした汚れやら、手のアブラのついたドアノブにハンドル…そんな諸々に耐え難い苦痛を感じるのが、ヒューズという男の弱点だった。だから酒も飲めずにミルクを愛飲。精神的にパニックになると、トイレに籠もって薬用石鹸でひたすら取り憑かれたように手を洗う。

 そんなヒューズの気持ちを察したヘプバーンは、彼を伴ってクラブを出た。その代わりヒューズは、ヘプバーンに素敵な夜をプレゼントする。それは彼の自家用機にヘプバーンを乗せて、夜のハリウッド上空を遊覧飛行する事だ。ヘプバーンは美しい夜景とシャレた趣向に魅了される。

 そんな最中、ヒューズはそれまで誰にもしなかった事をした。自らの飲んでいるミルクの瓶を、ヘプバーンと分け合ったのだ。それはヒューズが、ヘプバーンに特別な何かを感じ取っていたからか…。

 明け方にヒューズ邸に戻った二人は、そのまま結ばれたのだった

 そんな一方で、新型飛行機の開発と…新たに航空会社TWAの買収も目論むヒューズ。持ち前の完全主義で徹底的に空気抵抗を封じ込めた新型機テスト飛行の日、実際に操縦桿を握ったのはヒューズその人だ。途中燃料切れで畑に不時着するものの、記録的なスピードを出したヒューズは得意満面。そんなヒューズの喜びを分かち合えるのは、あのヘプバーンただ一人だった。そんな彼女の前なら、ヒューズも素直に自分の気持ちが言える。

 やるならトコトンやらずにいられない性分だが、それゆえ自分でも抑えが効かず、訳が分からなくなってしまう事もある…。

 そんな事を打ち明けるヒューズは、自分でもその危うさに気づいてはいたのだ。

 やがて親しさをさらに増したヒューズとヘプバーンは、彼女の家族が待つ屋敷へと招かれる。だが、これがマズかった。彼女の両親をはじめ一族郎党、さらには未だにツルむ前夫たちの中で、ヒューズは耐え難い思いを味わう。無思慮で無神経で無遠慮で無礼…ヒューズはそんな人々の集まりそのものがたまらないのだ。気まずい思いで家を飛び出してしまうヒューズ。

 これが発端になったか、二人の間は急速にうまくいかなくなる。次から次へと女たちとの関係をゴシップネタにされるヒューズに、ヘプバーンもイラついた。だが彼女がヒューズに文句を言っても、やれ事業のこと、飛行機のことで電話をかけまくり、ロクに話も聞かない。そんなこんなで疲れ果てたヘプバーンの前に、一人の男が現れたのはまもなくの事だった。

 そしてヘプバーンは、ヒューズに別れを告げにやって来た。これにはさすがのヒューズも、取り乱さずにはいられない。よせばいいのに精一杯虚勢を張って、彼女を冷たく追い出す。ヘプバーンとの思い出をすべて振り切るように、スーツもシャツも下着も衣類は何もかも火にくべて燃やしてしまうヒューズだった。

 ここからヒューズの破綻は始まったのか。

 わずか15歳の新人女優フェイス・ドマーグ(ケリー・ガーナー)と個人的に「契約」。TWA買収に神経をとがらすパンナム社長ホアン・トリップ(アレック・ボールドウィン)が探りを入れてくれば、わざわざ手の内を明かしてしまうヒューズだった。「大西洋線に乗り出しますよ、ウチは!」

 ロッキード社の新型機をすでに大量発注済みのヒューズは、強気も強気だ。国際線進出のために、わざわざ航続距離の長い機種を買い付けた。一方でかつての恋人ヘプバーンが新たな相手スペンサー・トレイシーとの密会現場を写真に撮られたと聞きつければ、そのモミ消しのためにネタを掴んだゴシップ記者(ウィレム・デフォー)とサシで話もつける。最初はカネを積み、カネで片がつかなければ脅しもかけて…こうしてヒューズは、秘かにかつての恋人を危機を救ったのだった。さらには軍用に必要…と自ら思い立った巨大輸送機「ハーキュリーズ」の開発に、文字通りカネに糸目を付けずに邁進。軍からの支援を取り付けるため、関係者にも惜しみなくバラ撒いた。

 だがヒューズを警戒したパンナム社長のトリップは、自分の息のかかった上院議員ブリュースター(アラン・アルダ)にヒューズ追い落としを働きかけた。トリップは、国際線をパンナム独占市場にするための法案を成立させようと企んだのだ。

 良くない事は重なるもので、ヒューズの新作映画「ならず者」が映画協会の倫理規定に引っかかる。新たな恋人になったエヴァ・ガードナー(ケイト・ベッキンセール)とのデート現場に、捨てた女ドマーグが押し掛けて来て修羅場となる。新型軍用機のテスト飛行に自ら乗り出すと、突如エンジンが停止してビバリーヒルズに墜落する…と、次から次へと不測の事態が続出。特に最後の墜落事故では、ヒューズは重傷を負って長期入院の憂き目にあう。そんな病室のヒューズにダメ押し的に舞い込んだのは、軍による「ハーキュリーズ」発注取り消しの通知。それでも計画を諦めず、「ハーキュリーズ」完成を目指すヒューズだった…。

 こうして退院したヒューズではあったが、足に不自由は残ったまま。身体全体に火傷の跡も残った。そして何より…心の中に癒しがたいキズが残っていた

 そんなヒューズをブリュースター上院議員が会食に招く。それはパンナムの意向を汲んだ「国際線から手を引け」という意思表示だった。さもなければヒューズの悪事を暴く…という脅しも忘れてはいない。その会食の場そのものも、潔癖性のヒューズを追いつめる事を計算に入れたブリュースターによる設定だった。だがハワードは、そんなブリュースターの揺さぶりを断固としてはね除ける。とは言え、ヒューズの精神が持ちこたえられたのもさすがにそこまでだった

 自社の試写室に立てこもり、そこから一歩も出ずにヒゲも髪も生やし放題。服をすべて脱ぎ捨てて全裸状態で、差し入れられるミルクだけで暮らす日々。用を足すのもミルクの空き瓶の中という徹底ぶりだ。もはやヒューズの精神は完全に破綻してしまったのか。

 心配したヘプバーンがヒューズを訪れるが、自分の今の姿を見られたくないヒューズは扉を開けない。結局為す術もなく、その場を立ち去るヘプバーンだった。

 そんな状態にも関わらず、ヒューズを吊し上げるための公聴会がブリュースター上院議員を議長として開かれようとしていた。軍に対する汚職の罪を問われ、いまや絶体絶命の危機だ。

 果たしてヒューズは病んだ精神を立て直し、この窮状を乗り切る事が出来るのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 スコセッシの前作「ギャング・オブ・ニューヨーク」は、力作ではあるし大作だとも思う。その制作意図にマジメで誠実なものも感じるし、アメリカという国の根本に「暴力」があるという主題も間違ってはいない。その主題を描くという目的は、十二分に果たされている作品ではある。だがあそこに描かれたキャラクター、特に主役三人のうち二人…レオナルド・ディカプリオとキャメロン・ディアズの役柄については、ちゃんと描かれたとは言い難い。特に映画の後半に至っては、まるでドラマになっちゃいなかった。

 そもそもディカプリオは役柄に合っていると言い難いし、ヒゲも似合っているとは思わなかった。何よりこの主人公が何を考えているのか分からなかった。これはちょっと致命的だったのではないだろうか。

 そんなスコセッシ=ディカプリオのコンビ作が続く…と聞いたら、それはさすがに違和感を感じる。特にディカプリオは、久々に快作キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)でイイ味を出していただけに、何もまたスコセッシと組まなくても…と思わざるを得なかった。スコセッシはスコセッシで、「ギャング〜」に次いでまたまた超大作というのが気になった。大作専門監督という柄じゃないもんねぇ。そんなこんなで、映画の出来映えに対しては不安材料しか見つけられなかったのが正直なところだ。

 ただ…これも前述した事だが、ハワード・ヒューズは「映画」と「飛行機」に取り憑かれた男だ。だからこの映画でもそのへんがコッテリと描かれると聞けば、話はいささか違ってくる。何より「映画」と「飛行機」とは、僕の人生での最大関心事でもあるからだ。それを見届けるためだけでも、この作品の価値はある…などと思ったりもしていたわけだ。

 ついでに言えば、ハワード・ヒューズがハリウッドでやらかした騒動のいくつか…特に「地獄の天使」と「ならず者」についてはいろいろとウワサには聞いていた。そのへんについても、どう描いているか興味があったんだよね。

 で、実物を見たら…こりゃ面白い!

 この映画のハワード・ヒューズ役に、レオナルド・ディカプリオがドンピシャ。いやぁ、これは素晴らしい。堂々としたボリュームがあるし、変に熱演だけしている訳でもなくスターとしての「華」がある。実はこれ、スコセッシの企画ではなくてディカプリオが暖めていたものだと言う。それが今回は幸いしたんじゃないだろうか(笑)。ともかく、この映画のディカプリオは実にいいのだ

 周りもスターで固められていて、ディカプリオ、ブランシェット、ベッキンセールだけでなく…アラン・アルダやアレック・ボールドウィン、ジョン・C・ライリーなんてところがゾロゾロ。ジュード・ロウやウィレム・デフォーあたりなどは、彼らでなくてもいいくらい小さなもったいない役だ。これには驚いてしまった。

 また全編にデジタル処理がしてあるのかラボによる調整の結果なのか、まるで昔のテクニカラーみたいな色彩設計が施されている。特に「赤」と「緑」の色彩が独特だ。これがまた何ともリッチな雰囲気を出しているんだよね。

 さらには…スコセッシ映画にしては珍しくほとんどCG処理なのだろうが、ヒューズ開発による新型飛行機の勇姿が次々登場。それを見ているだけでも飽きない。

 だが…ともかくこの映画はディカプリオに尽きる。

 考えてみれば、若手で目立った存在だったディカプリオが初めて危機に陥ったのは、皮肉な事に「タイタニック」(1997)の大成功以後の事だった。「大スター」になってしまったディカプリオは、それによって身動きが出来なくなってしまった。これは本人はかなり焦ったと思う。

 もったいつけたあげく出演したザ・ビーチ(2000)は、作品自体もディカプリオの評価もイマイチ。僕はこの映画を決して悪いと思っていないが、果たして「スター」ディカプリオにとって適切な選択だったか…と問われれば確かに疑問も残る。もう、ディカプリオは単に“成長株の若手俳優”ではなくなっていたからだ。スーパースターたる者、常に「横綱相撲」をとることが要求されるのである。

 次いでの「ギャング〜」でのディカプリオも、“ちょっと違うんじゃないか”…という印象しか残っていない。この時期で唯一成功したのが、ハタから見た「スーパースターのディカプリオ」像を誇張したかのようなセレブリティ(1998)での小さな役のみでは、まったく皮肉にもならなかった。

 そんな折り、ついにディカプリオが自分の活かし方を掴んだ…と思わせたのがスピルバーグ作品「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」での天晴れなスターぶりだ。今回の「アビエイター」での好演ぶりは、この「キャッチ・ミー〜」に匹敵する…いや、下手をするとそれを上回る素晴らしさだと言っていいかもしれない。そのくらい、このディカプリオには魅了されてしまった。

 考えてみると今回の役柄は、今のディカプリオを活かす要素がすべて詰まっている。それは「キャッチ・ミー〜」の時に気づいた要素と同様だ。

 実はディカプリオは…あまりに若くしてスーパースターの座を掴んでしまった事から、極めて危ういポジションに立ってしまった。しかもアクションや男臭さで売る役者でもなく、演技のうまさや個性で売るほどクセモノでもない。下手したらアイドル的要素に転落しかねない危うさがある。こういうカタチでスーパースターの座を維持するのは、極めて難しいと言わざるを得ない。ところがこうしたハンデをすべて活かしきったのが、「キャッチ・ミー〜」の役柄なのだ。

 まだまだ安定感のない若さを残しているから、「高校生」としての役柄でもいける。一方でもう「若手」として売るには妙に貫禄も出て来ちゃったからこそ、「ガキのくせにパイロットを騙るサギ師」が演じられる。この若さにしてスーパースターだからこそ、パンナム・パイロットの扮装も似合う華やかさが出る。しかもFBIなどをキリキリ舞いさせる「傲慢さ」も漂う。元の若手俳優時代のイメージも残っているから、父の面影を求める主人公の心情が演じられる。

 ハッキリ言って「キャッチ・ミー〜」の役は、ディカプリオのためにあつらえたようなものだ。

 そして、これはそっくりそのまま今回のハワード・ヒューズ役にも当てはまる。まだまだ安定感のない若さを残しているから、純粋に夢を追い求める「夢想家」が演じられる。一方でもう「若手」として売るには妙に貫禄も出て来ちゃったからこそ、「若くして巨万の富を持つ億万長者」が演じられる。この若さにしてスーパースターだからこそ、飛行機パイロットの冒険心も演じられればヒューズの持つカリスマも表現出来る。元の若手俳優時代のイメージも残っているから、トラウマで自滅していく陰影を描く事も出来るのだ。

 これまたディカプリオのために特別あつらえしたような役ではないか。

 その意味では、いつものスコセッシ節は一歩後退していると言えるかもしれない。実際スコセッシ自身も、この作品を雇われ監督として撮った映画だと位置づけているようだ。

 とは言っても…ヒューズの追いつめられた精神状態の描き方には、スコセッシ本来が持つ独特の個性が感じられる。トイレで狂気に取り憑かれてひたすら手を洗う場面だとか、映写室に閉じこもって世捨て人のようになるくだりでは、「レイジング・ブル」(1980)の自滅的な主人公を思い出さずにいられない。精神状態が破綻して同じ言葉をむやみやたらに繰り返し始めるあたりでは、「タクシー・ドライバー」(1976)の主人公が“オレにガン飛ばしてるのか?”と何度もスゴむ一人芝居の場面を連想せざるを得ない。そういう「神経症」的なところはさすがにスコセッシらしい(笑)スゴ味がある。

 また、ヒューズがパンナムとの衝突で公聴会にまで引っ張り出されるくだりなどは、誰がどう見てもフランシス・コッポラの「タッカー」(1988)を連想せずにはいられないだろう。「自由の国」であるはずのアメリカにはびこる既得権益の壁は、コッポラやスコセッシ、さらに「タッカー」のプロデュースに携わったジョージ・ルーカスを含めて、メジャー・スタジオと戦った若手監督たちだった彼らのトラウマとも言えるテーマなのかもしれない。そういう意味で考えてみれば、興味深いところだ。

 この公聴会が引き金になった「敗北」こそが、長い目で見てパンナムを没落に追いやったとも言える訳で、「飛行機」好きの僕にとってはそんな感慨深い面もある映画だ。

 だが…やっぱり何と言ってもこれはディカプリオの映画だろう。彼の演じる…スーパースター的なハワード・ヒューズ像を味わうための映画。この映画の正しい鑑賞の仕方は、まさにそこにあると思う。

 

見た後の付け足し

 実際のところ、この映画の出来映えに文句のつけようがないのか…と言えば、僕には何とも言いようがない。

 ヒューズがなぜあんなトラウマを引きずっていたのか、その説明が乏しいと言われればそうかもしれない。ヒューズがキャサリン・ヘプバーンやエヴァ・ガードナーになぜ惹かれたのかの説明もない。いきなり口説いていたりくっついていたりして、途中経過がスッ飛んでいるのだ。だから彼女たちの関わりも、いささか語り足りてない気がしないでもない。

 ジョン・C・ライリーも重要な役どころで、彼なりにヒューズ=ディカプリオへの思いもいろいろあっただろうに、そういう要素がほとんど見られずに終わってしまっている。ライリーがやっているからあのボリュームがかろうじて出たものの、本当はもっといろいろ見せる役だったのではないか?

 そもそもジュード・ロウやらウィレム・デフォーなどという大物を使っていながら、ホンのわずかの出番というのも贅沢というより無駄に思える。ひょっとしたらこの映画はもっともっと長く撮ってあって、それを切って切って切りつめたあげくの3時間弱なのかもしれないのだ。だからたまたま今挙げたような部分が、ことごとく舌足らずになっているのかもしれない

 だが、実は僕にはそんな事どうでも良くなっていた

 劇中でヒューズがキャサリン・ヘプバーンに語る言葉が印象的だ。正確にどう言ったのかは覚えていないが、確かこんなニュアンスの事を言っていたはずだ。

 やるならトコトンやらずにいられない性分だが、それゆえ自分でも抑えが効かず、訳が分からなくなってしまう事もある…。

 この言葉を聞いた時、もう僕はこの映画の主人公を応援しようと決めていた。なぜなら、それこそ僕の事だからだ。またかよ…と笑わないでいただきたい。自分がハワード・ヒューズのつもりか…と呆れられても困る。だが、本当に僕は自分がダブる気がしたんだよね。またまた勝手にメチャクチャ共感してしまったよ。

 何かにこだわったり夢中になると、タガがはずれて抑えが効かないのはいつもの事。人がやらないような突拍子もない事をするのが何よりの喜び。落ち着きを失った時には、トイレの手洗いではないが極端な異常行動にはしってしまう。妙に神経質で潔癖性になる一面、ズボラでどうなってもいいとメチャクチャに投げ出したりもする。折り目がついたり汚れたりするだけで苛立つのに、部屋はとっ散らかってようが何だろうが全然気にしない。そして無神経な他人の言動がとてもイヤだ。人が集まる場所も苦手で、パーティーとか宴会はよほどの事がないと出たくない。下手にそんな席に出ると、どいつもこいつも俗物でデリカシーがないのに息が詰まりそうになる。おまけに僕もこの主人公と同じく、子供の頃は病弱で家からあまり出られなかった。

 笑われても仕方ないが、この一点だけで僕はこの映画を支持しようと決めた。そして支持しようと決めた途端、この映画の主人公の何もかもが自分に近しく思えたのだ。

 特に同感だと思ったのは、ヒューズがヘプバーンの家族と対面した場面だ。

 自分たちが優位な立場に立っていると思っている連中ならではの、無礼と無神経が目に余る。相手が絶対に下手に出ると分かっている場面での、あのデリカシーのなさが我慢ならない。まったくあの映画に描かれている通りに不愉快なものだ。僕もああいう席で、何度もイヤな目にあったものだ。あの気持ちは本当によく分かるよ。

 それに何より、この映画の主人公は「映画」と「飛行機」に夢中ではないか。

 だったらこの映画は、僕のための映画だ。こいつの言い分も分かるし欠点も知っている。何よりやろうとしている事の意味が理解できる。人のやらないような事…バカバカしいまでに新しい事をやるというのは、そうそう誰にでも出来る事じゃない。それをやろうとしているだけで価値がある。

 それに共感したから…映画の完成度なんてケチ臭い事はもうどうでもいいんだよ。 

 

 

 

 

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