「エターナル・サンシャイン」

  Eternal Sunshine of the Spotless Mind

 (2005/04/11)


  

見る前の予想

 マルコヴィッチの穴(1999)とアダプテーション(2002)の脚本担当、才人チャーリー・カウフマンの新作がやって来た。僕は特に「アダプテーション」にはグッと来たから、この映画には少なからず期待してしまう。

 主演はジム・キャリーと聞いて、彼が苦手な僕は多少退くところがない訳ではない。だが前作ブルース・オールマイティー(2003)はさほど気にはならなかったっけ。ならば今回も何とかいけるのではないか。ケイト・ウィンスレットもいい時はいいからね。

 お話は、恋の記憶を忘れるの忘れないの…って話。何となく自分の記憶の隅がチクチクする気もするが…たぶん映画は楽しめるんじゃないだろうか。

 

あらすじ

 これと言って予定のないバレンタイン・デーは、実にいたたまれないものがある。

 寝覚めの悪い朝を迎えたジム・キャリーは、今朝もいつものように仕事場に出発。だが駐車場で自分の車がへこんでいるのを見て、早速ウンザリだ。そのせいか、突然乗ろうとした通勤電車をエスケープ。衝動的に海岸行きの電車に乗り換える。

 だが冬の海岸ほど、物寂しくも退屈なものもない。貧寒とした雰囲気。ロマンスのカケラもない。フード付きのウィンドブレーカーを着込んだ、変な女が一人いるだけだ。

 飯を食っている時に、このウィンドブレーカー女がこちらをチラチラ見てるのが分かるが、気の小さいキャリーは控えめに眼差しを投げるだけ。この女は帰りの駅にも現れ、チラチラと挨拶を交わす。すると気になるくせにこちらも小さく挨拶を交わすだけのキャリーだった。

 いよいよ列車に乗り込むと、この女はいよいよキャリーに近づいて来た。髪を青く染めたこの女は、ケイト・ウィンスレットというちょっと変わった娘。控えめに彼女を歓迎するキャリーだが、もちろん悪い気がするはずもない。ついつい気の利いた事を答えようとするが、不器用なキャリーにそんなマネが出来るわけがない。あげく答えをマズって気まずい沈黙。「ごめん、気に入られたくてそんな事を言ったんだ

 だが、しばしの沈黙の後でウィンスレットはまた会話を始める。ギコチなく答えるキャリーも、だんだん楽しげな表情を取り戻す。どこに話題が飛んでいくか分からないウィンスレットの会話はついていくのが大変だが、キャリーも噛み合ってるんだか合ってないんだか分からない程度についていこうとする。だが、またどうやら地雷を踏んだ様子。しばし気まずい沈黙。

 それでも会話はまた戻ってきて…そんな事を何度か繰り返すうちに、キャリーはまた自分の世界に戻ろうとした。彼はマンガ入りの絵日記をつけていたのだ。「ごめん、これを書かなくちゃ」

 こうしてキャリーとウィンスレットの会話はとぎれた。

 駅で電車を降りたキャリーはクルマに乗り込む。見るとウィンスレットが一人歩いているではないか。ついついキャリーは窓からウィンスレットに声をかける。「乗っていかないか? 外は寒いよ!」

 こうして車中の人となったウィンスレット。ここで早速、二人は翌日のデートの約束を交わす。

 翌日の夜、キャリーとウィンスレットは凍り付いた湖へと来ていた。氷上をドンドン歩いていくウィンスレットに、ビクビクもののキャリー。そのうちウィンスレットは氷上に仰向けに寝っ転がって、キャリーを隣に誘う。怖がっていたキャリーも、それに渋々従った。

 寝っ転がって夜空を見上げている二人。その時、彼らには永遠が見えた気がした

 

 ある夜のこと、思い詰めたような顔でクルマに乗っているキャリー。どうやら彼女との仲は終わってしまったのか。ある晩最近恒例になってきた言い争いの末、キャリーが言っちゃいけない一言を投げかけ、ウィンスレットは出ていってしまった。それ以来、自分のした事を悔やんでも悔やみきれないキャリーだった。

 もちろん未練タラタラ。内心ヨリを戻したいと願っているキャリーだが、彼女の職場の書店に出向いて行くと、もう彼女はキャリーなど知らん顔だ。それに、新たな恋人ができたようでもある。これにはキャリーは二重の大ショックだ。

 ところが友人夫婦とまたぞろウィンスレットの事を蒸し返して話している時、キャリーは妙な事を告げられた。彼らの元に妙な便りが届いたと言うのだ。それは…。

 「ケイト・ウィンスレットの記憶からジム・キャリーの記憶を消しましたので、その人物に関する過去の事は触れぬように願います」

 「ラクーナ社」という奇妙な会社から届いたそのカードに、キャリーはビックリ仰天。早速その「ラクーナ社」を訪ねてみることにする。するとそこは…恋に破れた人々に、ツラい思い出を捨てさせる「記憶消失屋」が商売の会社ではないか!

 受付嬢のキルスティン・ダンストも医師トム・ウィルキンソンも、ごく当然のごとくこの仕事を淡々とこなしている。結局ウィンスレットは自分の意志で、キャリーの記憶をすべて消してしまったのだ。元々どこか衝動的で移り気なところがある彼女のこと、「記憶の抹消」とてやりかねない。もはやヨリを戻すすべての望みを断たれたキャリーは、自分も心の中のウィンスレットの記憶を消す事にした。

 こうして「消すべき記憶」について、ウィルキンソン医師に洗いざらい申告させられるキャリー。家にあるウィンスレットにまつわる品々もすべて「ラクーナ社」に提出させられ、準備はすっかり整った。後はキャリーが一晩自宅で眠るだけ。

 そう…彼はただ一晩眠っているだけだ。あとはすべて「ラクーナ社」のスタッフがやってくれる。彼が眠るのを見計らって「ラクーナ社」のスタッフであるマーク・ラファロとイライジャ・ウッドが自宅に乗り込み、キャリーの頭に配線されたヘッドギアをかぶせてパソコンでプログラムを起動させる。こうして「記憶の抹消」が確実に実行されるわけだ。

 ところが「ラクーナ社」からやって来た二人が、ともかくユルみきった連中だった。毎日の事だから珍しくもないのか、何しろやってる事が緊張感ゼロ。しかもイライジャ・ウッドは、本当はこの会社としてやってはいけない事をやっていた。ケイト・ウィンスレットが「治療」のために訪れた際、ウッドは彼女に一目惚れ。あげく記憶を失った事をいいことに、彼女が自分を好きになるように画策していたのだ。しかもドサクサに紛れて彼女のパンティまで盗んだと言う。それを聞いたラファロはあきれ果ててモノが言えない。

 それでもウッドは、今度はキャリーが捨てた“ウィンスレット・グッズ”を手に入れ、ますます事を有利に運べると喜んでいた。だからこうしている間も、彼女と離れているのがツラい。

 一方ラファロはラファロで、「ラクーナ社」の受付嬢ダンストとよろしくやっていた。そこでキャリーの自宅にも彼女を呼びだし、夜通し楽しもうといいかげんな事を考えていたのだ。そんなこんなでウッドはウィンスレットの元へと出かけ、ラファロとダンストはキャリーが眠っている傍らでイチャつく…というアリサマだ。

 ところがキャリーの脳の中では…。

 最初はウィンスレットについて、どうにも苦々しい記憶しか出てこない。確かに彼女には手を焼いた。最後の頃は諍いばかりだった。でも最初はこんなではなかったのに。そもそも彼女とのなれそめは、ある日の海岸でのこと…。

 そんな「かつて」の二人の記憶をたぐり出すうちに、楽しかった事や幸せだった事を思い出さざるを得ないキャリー。そのうちキャリーの脳裏に、漠然とした疑問がわき上がる。

 この美しい記憶を、こんな簡単に消していいものだろうか?

 そんな事をしている間も、キャリーの耳にボンヤリながら周囲の状況が聞こえてくる。何だって? ウィンスレットに横恋慕した奴がいる? そいつが調子よく立ち回ったあげくパンティまで盗んだって? そんな…絶対許せない!

 そのうちキャリーの思いは、ますます断固たるものになってきた。今こそキャリーは、自分の本当の気持ちが分かったのだ。彼は眠ったまま自分の脳の中で、必死に思いの丈をブチまけるのだった。

 イヤだ、忘れたくない! 記憶を消すのを今すぐ止めてくれ!

 だがそんなキャリーの思いを、イチャつくラファロとダンストが気づく訳もない。プログラムは情け容赦なく脳の中をかき回して、ウィンスレットの記憶を消していく。そして記憶をたぐればたぐるほど、それらのかけがえのなさに気づくキャリー。それに気づきながらも、思い出すそばから消えていく記憶…。

 果たしてキャリーはウィンスレットの記憶の抹消を防ぎ、彼女を守ることが出来るのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想その1

 何だかこの映画のストーリーって、詳しく書くのが虚しい。冒頭のリアル感はぜひ語っておきたいところだが、お話が主人公の脳味噌の中に移ってからは詳しく語るのがめっぽう難しくなる。実際、複雑に入り組んだ構成になっているので、見終わった直後でも正確には覚えていられないのが本当のところなのだ。どうかこの作品については、ぜひ実際にみなさんの目でご覧いただきたい。そうでないと言葉では説明のつかない映画だ。何しろ「マルコヴィッチの穴」(1999)、「アダプテーション」(2002)の脚本家チャーリー・カウフマンの作品だからね。かなり知的でひねっていて、発想が独特で奇抜なわけ。これは余人にマネが出来ない芸当だ。

 今だから話す事だけど、最初に「マルコヴィッチの穴」を見た時にはこれをどう考えていいのか分からなかった。バカだと思われそうだったんで、あまりあちこちで言わなかったけどね。いや、実は今でもあの映画はよく分からない。だがとにかく今まで見た事もない映画だという事だけは分かった。発想があまりにオリジナルで、驚かされっぱなしだったんだよね。

 ところがその「マルコヴィッチの穴」の監督スパイク・ジョーンズ、脚本チャーリー・カウフマン…のコンビが次に放った「アダプテーション」には、すっかり感情移入してしまった。相変わらず卓抜した発想だし、構成も凝りに凝っている。だが今回は言わんとしている事は分かった。ニコラス・ケイジが演じた双子のC調の弟の方、彼が終盤に語る打ち明け話には感激した。「結果がどうかは関係ない。自分が情熱を傾ける事そのものが大切なんだ」というメッセージには、「知的」で「緻密」な構成を誇る「マルコヴィッチの穴」の作者とは思えない熱さを感じたんだよね。僕には理が勝ちすぎている「マルコヴィッチ」より、「アダプテーション」の方が好ましく思えた

 そして「アダプテーション」のお話の作り方から、どうも創作の原動力はチャーリー・カウフマンの方が握っていると分かった。だから監督は替わっても、カウフマン脚本の新作「エターナル・サンシャイン」が俄然気になっていた訳だ。

 そして、今回はさらに身につまされ方が増した。抜群の発想、脳味噌の中を引っかき回すような展開は、「マルコヴィッチ」以来相変わらずのカウフマン節。だがハートに届く度合いは比較にならない。クドクド言ってもしょうがないのだが、発想の豊かさ、伏線の張り方の巧みさもさることながら、数々のエピソードの実感のこもり方は尋常ではない。

 冒頭からして、あの生々しさに息をのむ。まるで記録映画ばりに…実際それを意識しての手持ちカメラのフラつき方やらピントのボケ方なのだが…二人の出会いにリアルな空気が立ちこめる。「いい人に見られたくて」地雷を踏んだり、シラケを誘ったりという男のオタオタした応対の仕方、問答無用でストレートで狙いも定めずとりあえず話しかけてくるという女のアプローチの仕方、どちらも何となく…そのギコチなさ気まずさも含めて身に覚えがあるだろう。ヘマな答えを返して会話がとぎれて、それでもなおかつ何とか出会いのチャンスをつなげていこうとする危なっかしさ。…もうあのへんから僕はたまらなかった。

 それ以降の展開については、見ていただくしかないだろう。才気煥発な見せ場の連発なのは間違いない。

 ただ面白い事は面白いが、見ているうちに「これってどうやって終わらせるのか?」とだんだん心配になってきた。「赤い糸の伝説」みたいに、「いくら消そうとしても消えない思いがある」とか「縁は異なモノ味なモノ」みたいな話に持って行かれたら…。よく出来たラブコメにはなるかもしれないが、それ以上にはなり得ないとしか思えなかった。それって、これだけの発想の作品としたらつまんない結末だろう。一体どうやって終わらせるのかって、ものすごく気になって来たよね。

 記憶を消されていって初めて思い出の大切さに気づいた主人公は、自分の脳の中で孤立無援の抵抗を繰り広げる。それと平行して記憶を消す業者の人間たちのてんやわんやが描かれるうちに、どんな苦々しいものであっても、恋愛の…あるいは人と人との出会いの記憶…そして「出会い」そのものはかけがえのないモノなのだ…というメッセージが描かれる。「なかったものには出来ない」ものなのだ…と主張される。

 やがて抵抗虚しく記憶が消されていく主人公は、「どうしよう?」と脳内の過去の記憶に生きるヒロインに問われたあげく、笑顔でこう答えるのだ。

 「この記憶を楽しもう!」

 このセリフには、さすがに胸が痛くなってしまった。理由は説明しないが…この僕にも「それ」が消えてなくなると分かっていて、とにかく「今」を楽しもうとした事があった。

 結局この物語は途中で巧みなスパイラル構造を形成している事が分かるが、それでエンディングに到達するだけなら単に「よく出来たお話だったな」で終わる。この映画は、それだけにはとどまらないから素晴らしいのだ。

 記憶を消す業者の受付嬢は自分も記憶消失療法の被験者だったと知って、それに反旗を翻すべく患者たちに「過去」のファイルを送ってしまう。「過去」のファイルは当然の事ながら、主人公やヒロインの手元にも届いてしまうのだ。

 そこには記憶消失療法の準備用に録音したテープが入っていて、消すべき「過去」について本人が語った内容が収録されている。むろんその時点では「消したがっている」ものだから、どれも当人にはロクな過去だと思われていない。当然そこでは相手のさまざまな思い出が、赤裸々に悪意に満ちて語られているのだ。つまりは相手の事をボロクソにケナした言葉のオンパレード

 それが、せっかくいいムードで復活しようとした主人公とヒロインの仲に水を差す。

 主人公はヒロインの告白を聞いて激怒するし、ヒロインだって主人公の告白に平静ではいられない。我慢しようとしても耐えられない。「本気じゃなかった」「心にもない言葉だ」と言われても、とてもそうとは思えない。

 なぜなら…それが「本気でない」はずがないからだ。

 そこで語られているおぞましさもウンザリ感も、すべて真実だ。彼にとって彼女はそんな女だろうし、彼女にとっての彼もそんな男だ。どれほどイヤになって失望したか分からない。そりゃそうだ。

 人間にとって、他者とはそんなものなのだ。

 この映画は最終段階に至って、内包する「よく出来たラブコメ」的な要素に自ら思いっ切り冷水を浴びせる。テープを聞いてサッと我に返ったヒロインは、どうしようもなく「これが現実だ」と思い知る。これが本当だ、こうなるしかない、バラ色の未来や理想や愛なんて夢なのだ…。

 ここでヒロインが放つ言葉は、僕らみんなに覚えがある言葉だ。彼女は血を吐くような覚悟で、しかし絶対の確信を持って、やむにやまれぬ思いでこう叫ぶのだ。「どうせこうなってしまうのよ! あなたは私にウンザリする、私もあなたに息が詰まってしまう」

 だがその後に主人公が語る一言は、そんな混乱し錯綜した感情を一刀両断で斬り結ぶ断固たる決意なのだ。

 「それでいいじゃないか…」

 

見た後での感想その2

 ジム・キャリーは、今まででベスト! ファンには申し訳ないが、僕はあのアクの強さがいただけなかった。普通の善人役やシリアス演技をやっても、あの過度に「いい人」ぶる表情が鼻についた。僕にとっての許容範囲は、「ブルース・オールマイティー」がやっとのところだったわけ。ところがこの映画では、あの冒頭の列車でのケイト・ウィンスレットとのやりとり。あのギコチない会話が何とも素晴らしい。万事石橋を叩いて渡るタイプで、自分の人生も退屈。しかもそれが居心地いいと思っている人間だから、気の利いた答えも返せない。それでも「好かれたくて」気の利いた答えを返したつもりで、しばしば墓穴を掘ったりする。そして本当は、他人に面白い奴だと思われたがっている。これって本当にこの通りなのだ。こういう奴は実際にいる。実はこの僕がそうだ。見ていて胸が痛くなってしまった。

 自分をつまらない奴だと痛感しているから、そんな自分と自分の日常に風穴を空けたいと思う。主人公が自分と全然違うヒロインに惹かれる気持ちも分かるし、それが徐々にツラくなっていく気持ちも分かるのだ。

 そしてケイト・ウィンスレットの奔放にして可愛らしい好演ぶり! 今までもうまいと思った事はあったが、これほど彼女を好ましいと思った事はなかった。彼女もまた今までの出演作のベストと言い切っていい。

 他にもキルスティン・ダンストイライジャ・ウッドなんて人気者が、今までのイメージを覆す役で登場。ところがそれがまたいいのだ。特にダンスト嬢の切ない役などは、このお話の絶妙な味付けになっている。彼女の存在があるから、お話もグッと苦みが増した。

 監督のミシェル・ゴンドリーは、「ヒューマン・ネイチャー」(2001 )ですでにカウフマン脚本と組んだ人。「ヒューマン・ネイチャー」を見てないから分からないが、ひょっとしたら彼の方がカウフマン脚本の良い面を引き出せているのかもしれない。そのくらい…この真に迫り方は尋常じゃないよ。

 

見た後の付け足し

 正直言ってこの映画の主人公の言動には、かなり身に覚えのある部分があったんだよね。ただ…実はそれって恋愛関係が破綻してからの悲嘆に暮れるアリサマとか、脳内で記憶消失療法と果敢に戦っているあたりではない。

 むしろそんなドラマチックな部分ではなくて、実は映画冒頭で主人公とヒロインが出会うあたりの、何とも言えないバツの悪さや居心地の悪さなど…。あのあたりの何気ないディティールに、尋常ならざるリアリティを感じてしまった。「いい人に見られたくて」…と白状するジム・キャリーが、とても人ごととは思えなくなったのだ。

 実はだからこそ、僕はこの映画についてあまり語りたくなくなった。

 サイドウェイの感想文の時もそう言いながら饒舌に書いてしまったけど、実は書いていたのは自分の勝手な妄想だけだった。今回もいろいろゴチャゴチャ書くけど、たぶん他の人には何を言ってるか意味が分からないだろう。話もバンバン飛ぶかもしれないが、そうするより他にないのだ。またしても僕は、この映画について書くべき言葉が見あたらない。見ていながら脳裏に渦巻いていたのは、ただただ映画に関係ない自分の事だけだった。

 かといって、昔の思い出の事などグダグダ書くのもいいかげんにしたいし、実は僕自身それにはもう飽きた。思い出など、今は写真が何枚か残っているだけだ。

 

 

でも、それだけあれば十分だろう。

 

 

 あとはどこかへしまい込んでしまった。

 

 

 もう今ではほとんど思い出す事もない。

 

 

それでも、決して忘れはしない。

 

 

ありがたいことに記憶はどんどん薄れてはいるが、

 

 

たぶん今後もまるっきり忘れる事はないだろう。

 

 

 そればかりは、僕にもどうする事も出来ない。

 

 

 忘れていたのに、時折何かのキッカケでふと思い出したりする。それは例えば、こんなちょっとした一言だ。

 「いい人に見られたくて」

 …その一言を聞いた時、僕はこの映画のジム・キャリーにいきなり胸をわしづかみにされた。

 いい人に見られたくて、僕も随分地雷を踏んだものだ。その都度、気まずそうに笑って誤魔化したものだ。そして相手の気まぐれにも調子を合わせた。その時には、それでいい…と僕には思えたからね。

 ともかく僕はこの映画に大いに動揺させられた。そして先にも述べたように、ただならぬ実感を感じた事も事実だ。だが、実はその結論に100パーセント同意した訳ではない。

 僕も自分の思い出を「なかった事」にはできない。

 だが正直言って、そこに戻りたいとも思わない

 この映画の最後の最後に来るセリフ…「それでいいじゃないか」という言葉は本当の事だと思いつつ、正直な話それが言えない時だってあるとも思う。…むしろ言える時の方が少ないはずだ。なかなか言えないからこそ、そこには計り知れない価値があるんだろう。

 そんな言葉を、僕もいつか言えたらいいと思う。

 

 

 

 

 

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