「フェーンチャン/ぼくの恋人」

  Fan chan (My Girl)

 (2005/04/04)


見る前の予想

 先日、インドネシアから来たイキのいい青春映画ビューティフル・デイズ(2002)を見たかと思えば、今度はタイ映画「フェーンチャン」。どちらも昨年の東京国際映画祭「アジアの風」部門で上映された作品だ。実はこちらの方も秘かに注目してはいた。どうもちゃんと劇場公開されそうだと聞いていたので、映画祭では見送ったというわけ。

 何しろイマドキのタイ映画は、なぜかやたらに元気がいい。そのへんのアレコレは「ビューティフル・デイズ」感想文にも書いたから、ここであえて繰り返しはしない。ともかく僕ら日本にいる人間からすると、ナン・ナーク(1999)以来、来る映画来る映画がどこか違う。新しいし新鮮だしセンスがいい。この映画もそんな鮮度の高さと趣味の良さを感じさせるのだ。

 お話は子供時代の初恋物語。きっと甘酸っぱい思いをさせてくれるのだろう。そしてアジア映画だからこその身近さを感じるであろう事も予感していた。身につまされ方もひとしおかもしれない。…だが僕は、そこに一抹の不安も感じないでもなかった。いや、かなり不安だな。

 そしてもう一つの不安は…この映画が脚本を6人共同で書いたというならまだしも、何とこの6人で監督も共同にやったというのが信じられなかった。監督…を6人でどうやって一緒にやるのだ。

 第一、それって「作品」と言えるのだろうか?

 

あらすじ

 ここは大都会バンコク。ジアップ(チャイン・チットソムブーン)は友人の結婚式を間近に控え、あれこれと準備に余念がない。だがその週末、いきなり実家の母親から電話が来る。幼なじみの女の子ノイナー彼女の結婚式があると言うのだ。生憎とそれは友人の結婚式と同じ日。とても両方は出られない。ジアップは母親にノイナーの結婚式への欠席を告げながらも、いつの間にかカーステレオには古びた懐メロのカセットテープを放り込んでいた…。

 

 ノイナー(フォーカス・ジラクン)はお下げ髪が似合う女の子だった。

 ジアップ(チャーリー・タライラット)の家と彼女の家は、食料品店を間に挟んだ両隣にあった。しかもどちらも床屋。ジアップの父(ウォンサコン・ラッサミータット)は職人気質、ノイナーの父(プリーチャー・チャナパイ)は芸術家肌…と床屋としてのスタイルも対照的なためか、両者の仲はすこぶる悪い。だがジアップの母(アヌサラー・ジャンタランスィー)とノイナーの母(ニパポーン・タウィーポーンサワン)はそんな亭主たちをヨソにすこぶる仲が良く、そのため子供のジアップとノイナーも赤ん坊のうちから友だちになっていた。そして、そのまま育った。

 同年代の男の子たちはみな市場の周辺にいて、ジアップの近所にはまったくいなかった。だからノイナーが昔から一番の友だちだった。毎日毎日一緒だった。毎朝学校へと通うバスの席もいつも一緒。

 ただ彼女は女の子だったから、遊びも女の子の遊び。ままごとにゴム跳び。ノイナーはゴム跳びがうまく、近所の女の子たちのリーダーみたいな存在だった。

 市場の方へ行こうと思わなかった訳ではなかった。だがジアップの近所から市場へ行く途中には、やたらクルマの往来の激しい大通りがあった。ある日もちょっと足を延ばして…と自転車で大通りまで行ってはみたが、目の前で子供がはねられるのを見てビビりまくり、シッポを巻いて退散せざるを得ないジアップだった。

 だが、ホントは男の子の遊びに興味津々

 市場の近所の男の子たちは、2年ダブってて一回り身体の大きなジャック(チャルームポン・ティカマポーンティラウォン)をリーダーにした5人組が幅をきかせていて、いつも何か面白そうな遊びをしていた。ジアップもそこに加わりたいのだが、ジャックが仲間に入れてくれない。いつも女の子とツルんでいる「オカマ野郎」というわけだ。

 だが、どうしてもジアップはジャックたちが気になって仕方がない。ある日ついに勇気を奮い起こして、自転車で大通りを突っ切るジアップ。こうして相変わらずノイナーたちと遊びながらも、時間を見つけてはジャックたちの周辺をウロつくジアップであった。

 そんなジアップに、ある日チャンスが到来した

 ジャックたちがヨソの男の子たちに挑戦して、賭けサッカーの試合をやっていたのだ。ところが相手は6人、ジャックたちは5人。それでも構わず始めてみたものの、たちまち点を入れられて惨敗の気配が濃厚。ジャックは仲間たちをヘタクソと罵り出した。だが、5人では6人に敵わないのは明白。

 そんな時…ジャックはそばで見ていたジアップに目を付けた

 イヤイヤながらジアップを仲間に加えたジャックたち。ところがこのジアップがすこぶる勝負センスがいい。彼の加入と同時に形勢逆転。こうなるとジャックは嬉しくてジアップをベタホメだ。仲間たちもみんなジアップに一目置いた。ジアップだって本領発揮で悪い気がする訳がない。こうしてついに念願叶ったジアップだった。

 だが…その一方で長い付き合いのノイナーを捨て置ける訳もない。結局相変わらずノイナーたちともツルんでしまい、ジャックたちに不義理をしてしまうジアップ。またしても賭けサッカーの日にスッぽかしてしまい、決定的に男を下げてしまった

 頭に来たジャックは、ジアップの前でノイナーをバカにする。これにキレたジアップはジャックとケンカになってしまった。こうしてまたまた「男の子グループ」から締め出しをくうジアップ。結局ノイナーたち女の子の遊びに戻らざるを得ず、さすがに元気がなくなった。

 そんなジアップに元気を出してもらおうと、ノイナーだって心を砕いていた。彼のためにボールを借りてきて、慣れぬサッカーを女の子たちでやろうともした。途中転んでしまうノイナーだったが、それでも笑顔で頑張った。だが所詮は女の子サッカー。ハッキリ言ってジアップだって面白くはない。どうしてもシラけてしまうのは免れなかった。

 やっぱり「男の子グループ」に戻りたい

 そんなジアップに、ジャックは三つの課題を出した。「仲間になりたいなら、まず男である事を証明しなくちゃダメだ」

 その一つ目、両手放しで自転車に乗るのは難なくクリア。二つ目、素っ裸で橋から川に飛び込むのもクリア。そして三つ目…。

 ゴム跳びで遊んでいるノイナーはじめ女の子たちの中に割って入っていったジアップは、そのゴムをハサミで断ち切ってしまった。歓声を上げるジャックたちに向かってニッコリしながらも、何となく後ろめたいジアップ。そんな彼にノイナーは悲しそうな顔で近寄ってくるではないか。「ねえ、どうしてなの?」

 これはジアップもたまらない。思わずノイナーを突き飛ばしてしまう。その場に倒れたノイナーは、目から涙をポロポロこぼし始めた。とんでもない事をしてしまった…と思いながらも、ノイナーに背を向けてその場を離れてしまうジアップ。…というか、背を向けて彼女を見ないようにするのが精一杯のジアップであった。

 翌朝、通学バスの席にノイナーの姿はなかった

 マズイ事をしてしまったという思いで一杯のジアップだったが、だからと言って素直に謝る事が出来ない。ノイナーの家を遠目で覗いてみるが、中に入っていく勇気がない。仕方なく…彼女の父親に髪を切ってもらうという口実で店の中に入っていくジアップだが、その彼の後ろを…黙って通り過ぎていくノイナーの姿が見えるではないか。しかもあのお下げ髪を切って…。

 その夜、ジアップは母親からとんでもない事を聞かされた。何とノイナーの一家が、もうすぐこの土地から引っ越してしまうと言うのだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

見た後での感想

 どうせこの映画を見た誰もが同じ事しか言わないだろうが、作品に漂う実感というか身につまされ方は尋常ではないね。

 僕は子供時代を送った年代も違えば、何よりお国が違うのだから全然ピンと来ないはずだ。ところが何ともリアリティがあるし、確かに自分に思い当たるフシがある。全編に流れる当時のヒット曲とやらの醸し出す雰囲気すら懐かしい。

 これを「高度成長を遂げる前の日本」と「かつてのタイ」とが似ているとか、「やっぱりアジア」…的な発想で、「私たちは、何か大事なものを捨ててきてしまったのではないか?」みたいな紋切り型の感想で締めくくりたい気になるのは確かだが…実際、この映画のパンフレットには同様の趣向の文章も掲載されてはいるが…僕はそういうまとめ方でこの映画を語りたくないな。そういう部分もなきにしもあらずだが、それがこの映画の魅力のすべてではあるまい。第一こういう題材の映画のたびに「私たちは、何か大事なものを捨ててきてしまったのではないか?」…みたいな事しか書けないんじゃ、ちょっと「映画ライター」の肩書きが泣くんじゃないか。

 この映画は、いわゆる「純朴なアジア」だから素晴らしい…って映画じゃないだろう

 そもそもこの映画の語り口は、かつてのその手のアジア映画とは比べモノにならないほど洗練されている。それこそインドネシアの「ビューティフル・デイズ」じゃないが垢抜けている。ハッキリ言って僕らにとっては、「ナン・ナーク」以後の新しくなったタイ映画の肌触りがある。スピリットに「純朴さ」はあるかもしれないが、語り口は実に新しいのだ。プロデューサーたちもアタック・ナンバーハーフ(2000)に関わっていた連中らしいから、いい意味でのエンターテインメント性も持っているんだろう。そこのところを、ミソもクソも一緒にして「アジアの純真」で語っちゃったらどうにもならない。それでは映画を語った事にならないよ。

 僕はこの映画を見るにあたって二つの不安を挙げたが、そのうちの一つが…6人の監督が共同で脚本を書いて演出している事だ。確かにあまりそんな映画の作り方を聞いた事はない。監督を「作家」として考えるなら、複数人数いる事は混乱の素にしかならないと思う。

 だがこの映画の場合は、この6人共同体制が功を奏しているのではないか?

 この映画で特に優れているのが、ディティールの確かさなんだよね。それは僕らには伺い知れない時代色の部分もあるだろうし、何より子供ってこういう時にどうするか…って言動の部分が大きいと思う。ディティールがしっかりしていて、しかもリアルなので、お国柄も違えば年代も違う僕らでも「懐かしい」と感じてしまう。これっておそらく6人がかりの「複眼的」な視点で見ているからじゃないかと思うのだ。

 おそらくこれだけの人数でチェックしていったら、個人的な思い込みやら暴走もないだろう。物語の穴や矛盾、見落としやケアレス・ミスだって減るだろう。何より不特定多数の観客に届かせたい映画として、ある種の「普遍性」は獲得できるだろう。複数作者による作品には確かに「諸刃の剣」的な危なさもある。「作家性」やら「個性」の喪失、作品の「平均化」「平凡化」のワナもあるだろう。だが、この作品ではどうも「6人体制」がうまくいったとしか思えない。

 考えてみれば、イタリアのルキノ・ヴィスコンティは複数ライターで脚本を書いていた。何より黒澤明が複数ライター制を敷いていた。一番多い時で5〜6人ぐらいいたのではないだろうか。それはみんなで討議しながら切磋琢磨して書いていく、気の遠くなるような忍耐力の要る仕事だ。だが、だからこそ磨き上げられた脚本が出来る。黒澤の場合だったら、難題を吹っかけつつそれを次々危機突破させていった「隠し砦の三悪人」(1958)にそれが顕著かもしれない。

 逆に後年の黒澤は、複数ライターで練り上げていく忍耐力を失った。結局自分のやりたいようにやればいいのだから、全部自分一人で書いてしまった。結果、詰めの甘いユルい作品ばかり出来てしまったとは言えないだろうか。やっぱりどうしても…あの黒澤でさえ、一人でやると自分に甘くなるのだろう。

 だが6人がかりとなると、そこに甘えが忍び込む隙間はないかもしれない

 主役二人をはじめとする子供たちのキャスティングの確かさを見ると、それを確信せざるを得ない。そして脚本の見事さ。ジアップがノイナーなんか忘れて輪ゴム遊びに熱中していると見せて、それが彼女への詫びのつもりのゴム跳び用のゴムづくりのためだった…とオチをつけるあたりを見よ。対立していた隣の床屋の主人が、何を思ったか髪を切ってもらいに来るくだりの「無言の男の思い」を見よ。ジアップにノイナーと仲違いさせる原因をつくりながらも、それをどこか後ろめたく思っていたであろうジャックが、ノイナー一家の乗ったトラックを必死に追おうとする様子を見よ。ちゃんと練り上げられた脚本だけが持つ絶妙な伏線がピタリピタリと決まるあたりは、実に小気味がいいほどだ。

 そんなディティールの確かさは、演出の場面でも活かされているに違いない。

 そして最後の最後…結局友人の結婚式出席を辞退した「大人」のジアップは、ノイナーの結婚式のために故郷に帰ってくる。隣の食料品店はコンビニ「セブン・イレブン」に変わり、あんなに怖かった大通りには歩道橋が出来て、何もかも変わってしまったと見せて…。

 あの花嫁登場の場面たるや…。

 ラストの花嫁を“あのような処理”で見せた事について、人によって意見は食い違うかもしれないが、僕はアレで正解だったと思う。まさに、あれこそが作者たちの言いたかった事なんだろうしね。あそこに普通にど〜んと普通に花嫁が出て来ちゃっても、面白くも何ともない。何より…これぞ最高のSFXではないか。他にどうやって見せたとしても、これ以上の効果はとても期待できないだろう。

 この6人、映画学校でみんな同窓だったという。当然のことながら、ここにアマチュアリズムやら稚拙さはまったく感じられない。実に堂々たるプロの仕事ぶりなんで、目を見張ってしまうんだよね。

 

見た後の付け足し

 先に僕は、この映画を見る前の不安が二つある…と書いた。一つはすでに述べたように、6人の共同監督制の弊害だった。では、あと一つとは…?

 実は僕は、あまり愉快ではない子供時代を送った。病弱だったためにあまり近所の子と遊ぶ機会もなく、そんなこんなで良い思い出がない。もしこの映画がリアルな子供時代を再現しているのなら、そんな僕の思い出したくもない子供時代をも甦らせてしまうのではないか?

 予感は的中してしまった。

 実際に僕はこの映画の主人公に近い経験もしているから、思い当たるフシはいろいろある。だから見ていてツラくなる事もしばしばだった。あの居たたまれなさ、居心地の悪さ、気まずさやら息苦しさ、痛ましさやらやりきれなさは…すべて僕が子供の頃に経験した事に他ならない。実際に、本当は子供時代の方が何かとツライものだ。子供の頃は、早く大人になりたいと願った。そしてこの映画を見て、今の自分が大人である事が嬉しかったよ。あの頃に戻りたいなんてこれっぽっちも思わなかった。そんな事を思うのは、単純で脳天気に幸せな子供時代を送れた奴だけだ。

 実は僕も、本当に悪いことをしちゃったな…と後悔している女の子が一人いる。ずっとその事が心の底に引っかかってはいたのだ。実は…それが祟って、これまで女ではロクな事がなかったのか…とも思ったりしたのだが(笑)、ともかく忘れたフリはしながらも気になっていたんだよね。

 だけど、それがこの映画を見て…少し救われた気がした

 映画自体は、とてもじゃないが「楽しめた」とは言い難い。良い映画だと思うし素晴らしいと思うが、自分から距離がとれなくて困っちゃった映画だ。子供時代のツラい記憶が次々甦って痛々しい気分になった。だけど最後には救われた。少なくとも後ろめたさは和らいだ

 それは単なる代償行為ではある。でも、この映画を見なかったら味わえなかったものだ。だとしたら、やっぱりこの映画を見て良かったと言えるだろうね。

 それだけでも、僕にとってこの映画は十分見る価値があったはずだ。

 

 

 

 

 

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