「ロング・エンゲージメント」

  Un long dimanche de fiancailles (A Very Long Engagement)

 (2005/04/04)


  

見る前の予想

 何と言ってもこの映画の興味はアメリ(2001)の監督・主演コンビ、ジャン=ピエール・ジュネオドレイ・トトゥが再び組んだ事に尽きるだろう。

 実際、僕も最初は驚いた。あまりに強烈なハマり役だったトトゥもこんなに早くジュネと組みたがるとは思わなかったし、そもそもジュネ自身が「アメリ」でトトゥを起用したのも「鮮度」を求めていたからだろうと思っていたからね。もう一度組んだらいいな…と「アメリ」を見て夢中になったファンはみんな思っただろうけど、その実現性が極めて薄い事も分かっていたはずだ。だからそれが実際に実現する…それもこんなにすぐに実現するとは思ってもみなかったわけだ。

 ところがその作品の予告編などがオフィシャル・サイトで見られるようになると、これは「アメリ」の再現など期待しない方がいいとすぐに分かった。

 第一次大戦下で引き裂かれた恋人たちの話。戦場で行方不明になった彼氏を追って、トトゥ扮するヒロインは待って待って、ついにはどこまでも行方を探していく。

 戦場の描写や当時のパリの映像にCGをたっぷり使っているあたりはジュネらしいと言えるが、それまでの作品と「アメリ」がガラッと傾向を変えていたように、この「ロング・エンゲージメント」も「アメリ」とは大分違うようだ。何より題材が題材だけにシリアスなムードが強い。

 作品規模もかなりデカいようで、だからなのか…ワーナー・ブラザース・フランスの資本が投じられている大作でもある。そのせいか、ジョディ・フォスターが出演しているという情報も入って来た。一体なぜ、どこにジョディ・フォスターが出てくるのだ? ひょっとしてヒロインは、アメリカまで恋人を捜しに行くのか?

 後になってメイン・キャスト表を見ても、ジョディ・フォスターの名前は出ていない。これほどのスターがわざわざフランス映画に出てくるなら、当然デカデカとクレジットされるはずだ。さては、あれはガセネタだったのか?

 それより何より…何だかんだ言ってやっとこ日本公開されたこの映画だが、あの「アメリ」の監督・主演者の新作でアメリカ資本まで持ち込んだ超大作が、これほどまでにヒッソリと公開されているのはなぜだろう?

 な〜んとなく不安にはなってこないかい?

 

あらすじ

 1917年、第一次大戦下のフランス。しとしとと雨のそぼ降るこの場所は、最前線の塹壕「ビンゴ・クレピュスキュル」。その塹壕を、5人の死刑囚たちが連行されていく。

 その一人目は、死んだドイツ兵の長靴を履いていた家具職人ジェローム・キルシャー。眠っているところをネズミにたかられ、それを払おうとして誤って指を切り落としてしまう。これを故意に行ったと思われたキルシャーは、死刑を宣告された。

 二人目は溶接工ドニ・ラヴァン。彼は元々この戦争には腹を立てていた。金持ちは甘い汁をすすり、貧乏人はどうあってもバカを見る。だがそれを主張したところで何も変わらない。自暴自棄になった彼は、撃ちまくった直後の機関銃の銃身を素手で掴んで大やけど。これまた故意の負傷で、死刑を宣告された。

 三人目は農夫のクロヴィス・コルニャック。妻子と農場にいるところをいきなり徴兵された彼も、軍には嫌悪感しかない。何しろ部下の遺体を蹴り飛ばした上官を殺すほどだ。彼も手を自分で撃って、死刑を宣告される。

 四人目は売春婦のヒモのドミニク・ベテンフェルド。ヤクザな揉め事で服役し、そのまま徴兵された。彼も自分で手を撃って死刑を宣告される。必死に大統領恩赦を待ち望んでいるが、その願いは叶えられそうにない。

 そして五人目は…まだ幼い顔で20歳になるかならないかのギャスパー・ウリエル。灯台守の息子で、故郷には恋人オドレイ・トトゥが待っている。彼は徹底的に戦場が向いてなかった。特に目の前で友軍兵士が吹っ飛ばされ、全身にその肉片を浴びてからは神経も痛めつけられた。そこで彼は火を付けたタバコを手に持って、わざわざ見えるように塹壕の外へとかざした。案の定、敵の弾丸が彼の手を吹っ飛ばして指を二本損傷。だが故意にやった事がバレて死刑を宣告された。

 最前線「ビンゴ・クレピュスキュル」に連れて来られた5人の死刑囚を見て、この塹壕の指揮官であるチェッキー・カリョ軍曹はおかんむり。「奴らを外へ放りだせ!」

 この塹壕と、ほんの目と鼻の先のドイツ軍の塹壕との間にある「中間地帯」…そこに5人を放り出せと言うのだ。それが「死刑」の代わりだ。もっとも敵の矢面に立たされるだけでなく、弾丸に当たらずとも飢えと寒さが襲ってくる「中間地帯」では、結局のところ「死刑」と何ら変わらないようなものだ…。

 それでも…5人のうち一番若いギャスパー・ウリエルの恋人オドレイ・トトゥは、彼の生還を諦めていなかった。

 彼女は幼い頃に小児マヒを患い、足を引きずって歩く少女だった。しかも間もなく両親もバス事故で失った。こうして叔父ドミニク・ピノンとその妻シャンタル・ヌーヴィルの夫婦に育てられたトトゥだが、そんな事情もあって心を閉ざした寂しい子供時代だった。そんな彼女の前に現れて、その心を開くキッカケをつくったのがウリエルだ。それは彼が11歳、彼女が10歳の頃のことだった。以来、二人は一緒に成長し、そして恋人になった。そんな「運命の人」ウリエルが死んだなんて…とてもトトゥには信じられない。

 叔父夫婦は「諦めろ」と再三トトゥを説得するが、彼女は納得しきれない。かくして当時の事情を知る人々を調べる、トトゥの長い長い旅が始まった。

 そんなトトゥに5人についての顛末を語ってくれたのは、彼らを最前線に連れて行ったジャン=ピエール・ベッケル。トトゥは何とかこのベッケルの居所を突き止め、病院に療養中の彼を訪問したのだ。だが彼は、トトゥに絶望的な知らせをもたらした。負傷した兵士からのまた聞きによれば、5人は全員死んだと言うのだ。

 たまたまベッケルは5人の遺品を預かっており、それを遺族に手渡す役目をトトゥに頼み込んだ。こうしてトトゥは、この遺品から5人の足取りを追う事になった

 パリに赴いて「イタチより悪賢い」と自称する敏腕探偵ティッキー・オルガドを雇ったトトゥ。オルガドもまた、トトゥの依頼に格安の料金で応えた。それは、オルガド探偵自身の娘も足が不自由だからだろうか。トトゥの両親の遺産を管理する弁護士アンドレ・デュソリエも「こんな事は無駄」と決めつけるが、結局は彼女に無理矢理調査に付き合わされる。

 だがトトゥが必死に調査を進める一方、5人の死刑囚のうちの一人…ベテンフェルドをヒモにしていた売春婦マリオン・コティヤールもまた、真相を探るべく「ビンゴ・クレピュスキュル」を巡る男たちの周囲に出没していた…。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 実物に接して、予想以上の大作である事に驚いてしまった。やっぱりワーナー・ブラザースは単に配給するだけでなく、巨額の資本も投資しているようなのだ。

 ワーナーと言えばアジア支社ターンレフト・ターンライト(2002)をつくったばかり。ヒットメイカーのジョニー・トーを起用して、ミーハー人気の金城武を起用しての「絶対安全パイ」作品だったよね。そして今度はワーナー・フランスで、大ヒット「アメリ」チームを使ってのこの作品。何となくこの展開って、コロンビア映画がアジアでグリーン・デスティニー(2000)をつくり、さらにヨーロッパでフランカ・ポテンテ主演のアナトミー(2000)をつくったあたりの動きとどこか似ている。今、ハリウッド・メジャーの映画会社は、こうしたアジア・ヨーロッパを両輪とした「世界戦略」に着々と乗り出している最中なのだろうか。まぁ、アメリカ本国の映画があそこまでつまらないんじゃねぇ…。

 それはともかく…扱っている題材は「アメリ」とは様変わりしているものの、映画づくりのスタイルそのものについてはジャン=ピエール・ジュネの姿勢に何ら変わりはなかった。それはハリウッド映画のヒットシリーズを手がけた「エイリアン4」(1997)はともかく…「デリカテッセン」(1991)、「ロスト・チルドレン」(1995)とは題材がガラリ様変わりした「アメリ」が、ユニークなヴィジュアルや独特なユーモアなどという映画スタイルにおいて、以前とそう変わってはいなかったというのと同様の事だ。かつての盟友マルク・キャロと切れた事によって、「閉じた」映画から見事に脱却しているという事では「アメリ」と同じ。そして実は物語の話法においても、「ロング・エンゲージメント」は意外なほど「アメリ」と似ているのだ。それは映画の冒頭からハッキリと見てとれる。

 塹壕を歩かされている5人の死刑囚の姿で始まるこの映画は、次にこの5人のバックグラウンドを一人ひとり紹介していく。そのスタイルって、「アメリ」でヒロインの生い立ちから両親についてのディティール、さらには新たな登場人物が出てくるたびに、それらのバックグラウンドについて仔細に紹介していった語り口を連想させるではないか。

 何しろ「アメリ」の場合、紹介されるバックグランドやディティールが大切な事もどうでもいい事もゴッチャで語られるだけでなく、そうしたバックグラウンドが紹介される人物が必ずしも重要人物ではない…という具合。そこが何とも変なのだが、それがあの映画にはしっくり合っていた。

 そこに強いて意味づけをしていくならば、くだらない事も重要な事も全部人間を形成している事なんだよ…という、あるいは重要な人も通過するだけの人も世の中を形成する必要な要素なんだよ…という、それもこれも全部ひっくるめての「人生完全肯定」あるいは「人間賛歌」みたいなモノを感じさせていたような気がする。一方、表層的な意味ではそんなコチョコチョとおかしなディティールが「カワイイ」と解釈され、少なくとも女性観客には圧倒的にアピールしたものと思われるのだ。

 その意味では、今回の作品もいきなり5人の死刑囚の人となりをコチョコチョと語り始めるあたり、「アメリ」の方法論を再現しているように思える。ただし見進めていくうちに分かるのだが、こちらの語り口は「アメリ」のそれと大きく目的を異にする。それは何より、映画のジャンルと題材に大きく関わっているのだ。

 まずこの映画は、ヒロインの恋人が一体どうなったか?…あるいは最前線の塹壕では何が起きていたのか?…を追い求め、どこまでも調べていく一種のミステリー映画のカタチをとっている。だから、まずは事件の起きた場所、その時の状況、そこに関わった人々の詳細なデータが必要になる。やってる事は同じでも、目的と結果はまったく違う。「アメリ」とは違って、この映画における登場人物の情報開示は不可欠のものなのだ。この映画の「探偵」であるヒロイン(と観客)にとって、当初は情報に優劣は付けられない。どれが重要でどれが不要か分からない。だからどれもこれもほぼ等価値で提示されていくのは必然なのだ。

 もう一つは…これは誰もが感じる事だと思うが、「戦争映画」としての必然だ。

 この5人に限らず、たまたまヒロインの恋人…あるいはあの日のあの塹壕にわずかなりとも関わるハメになった人々のディティールやバックグラウンドが、「探偵」ヒロインが調べを進めていくにつれて次々と露わになっていく。そうした過程は、観客にすら素性も名前を知られぬまま戦場でバタバタ倒れていく数知れぬ人々にも、それぞれ少なからずディティールとバックグラウンドが存在する事を気づかせてくれる。決して彼らは「兵士その1」とか「死体その2」ではないのだ。

 ただし、映画が今までそういうアプローチをしてこなかったかと言えば、そんな事は決してない。今までだって、戦場で倒れている兵士たちは決して「無名」なんかじゃない…という主張は何度も繰り返されてきた。ところが従来この手の映画でそれを語ろうとすると、恋人やら親子やらの涙ナミダのエピソードやら、逆に「あんなに楽しい人だったのに」的な笑えるエピソードをチラつかせて泣かせるやら…とにかく観客にインパクトある要素を見せる事で、それらの兵士たちを強烈に印象づけるのがお約束だったはずだ。それによって、個々の兵士それぞれも「無名」じゃないんだよ…と思わせる。

 それに対してこの映画では、兵士たちのエピソードを語る時にも「アメリ」流。どうでもいい事やらくだらない事や、重要でもないしインパクトもない事も横並びに並べて、決して不自然に強調したり悲愴感やら感動を押しつけない。少なくともこいつらにもアレコレ何がしかの「人生」があったはず…と思わせるだけで、それらを一瞬に「モノ」に帰してしまう戦争の非人間性が暴き出されるのだ。これはうまい方法だな…と、僕は少々感心したんだよね。

 何でも監督のジュネは、この原作小説の映画化を「アメリ」以前から構想していたのだと言う。すると「アメリ」が一種の予行演習だったと考える事もできる。あるいは「アメリ」でたまたま編み出した手法が、ミステリ趣向や戦争映画にも活かせると気づいて、あえて再び使ってみたとも考えられるのだ。これは確かに戦争というものを描く上で、実に非凡な考え方だとも思う。

 

見た後の付け足し

 そんな訳でジュネが「アメリ」で使っていた方法論をここにも見事に活かして、ミステリー映画としても戦争映画としても興味深い出来上がり。見ている途中でこれに気づいた僕は、結構感心してしまったんだよね。

 ところが…白状してしまおう。僕はこの映画を見ている途中で、ひどく眠気に襲われてしまった。

 とにかく眠い。

 眠くて眠くて仕方がなくて、それをこらえているものだから映画が長く感じられて仕方なかった。実際長かったと思うよ。それでも何とかかんとかエンディングまで我慢したものの、最後のクレジットの途中でついに力尽きてしまった。体調的なものもあったのかもしれないが、とにかく眠かった事は間違いないよ。それはハッキリ言って、どこか退屈だったんだろうと思う。そもそも長く感じたという事はそうだろう。

 今回のゴチャゴチャしたディティールは、ミステリーとして必然性があった。ところがそこでは聞き慣れないフランス人の人名がワンサカ出てきて、彼らのバックグラウンドもゴチャゴチャと紹介される。出てくる人物の大半は、塹壕内で同じ軍服を着た泥だらけの人物ばかり。ハッキリ言ってどれがどれだか分からなくなる。「探偵」ヒロインの捜査の過程で、ドイツ軍から奪った長靴が誰の持ち物で、それが誰から誰に移って、元々が誰の持ち物だった…な〜んて事を延々言われても分からなくなる。しかもジュネの「アメリ」以来のあの語り口だから、別に細かく覚えてなくても問題あるまい…と、こっちも油断して聞いていたのがマズかった。たちまち何が何だか分からなくなって、そのうちどうでも良くなって来ちゃったんだよね

 実はそれらって詳細に覚えてなくても問題ない。映画の内容を把握するには支障はないと最後まで見ると分かるのだが、途中で追っていくのが面倒くさくなると気持ちがキレそうになる。この映画にはそんな頭でっかちな点が、致命的なレベルで存在している感じなんだよね。

 実はこれってミステリ趣向の映画にはある程度付き物で、一つ例を挙げればウォーターゲート事件を描いたアラン・J・パクラ監督大統領の陰謀(1976)もその一つ。ダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォード扮するワシントン・ポスト紙の記者たちが、ニクソン大統領の悪事を追ってさまざまな証言者や関係者にあたっていく。当然その途中で名前と顔が錯綜して、実は誰が誰だか分からなくなる。映画としては、それでもちゃんと結末は着くのだが、途中の過程ではどうなってるのか分からなくなったりもする。だが…なぜかそれで退屈した記憶はないのだ。どうしてだろう?

 「大統領の陰謀」では、黙々と調べて取材していく二人の記者をとにかくカッコよく描いていた。「カッコよく」とは語弊があるかもしれないが、ともかく僕はそう思ったんだから仕方がない。演じているのがアブラが乗っていた頃のホフマンとレッドフォードだったということもあるが、彼らが図書館で資料をブチまけてチェックしていくアリサマ、ワシントンのあちこちに取材に飛び出す姿、さらにワシントン・ポスト社内の編集室を所狭しと駆け回る様子…特にこの編集室場面は巨大なセットをスタジオ内に建設して、縦横無尽にカメラを動かしてアクティブに撮っているのが見事だった。そんな「取材活動」のアレコレをカッコよく見せてくれるので、観客としてはまったく飽きない。ホフマンとレッドフォードがよれたネクタイでラフにキメてる姿を見ているだけで楽しい。映画のテーマとしては邪道かもしれないが、それで「退屈さ」を見事にリカバーしていたのだ

 ならば、この「ロング・エンゲージメント」はどうか?

 実はこの映画でも、同様の計算はなされていたはずだ。何しろ卓抜したビジュアル・センスの持ち主ジャン=ピエール・ジュネだ。彼が撮るならワン・カット、ワン・カットが退屈しないはず。確かに絵は今回も素晴らしくはあった。

 だがそれらは彼がマルク・キャロと組んでいた頃の奇想天外さでも、「アメリ」のちょっとファニーで不思議な絵でもなかった。今回の彼のビジュアル・センスとCG技術は、映画の時代背景当時のパリの風景だとか戦場の風景だとか、それらの壮大さやリアリティを描き出すのに費やされてしまった。いつもの「不思議感」の名残みたいなものはヒロインと恋人の思い出エピソードに少し感じられはするが、それもスズメの涙程度。正直言って「大作感」は感じられたとしても、それで退屈しないところまでは持っていけない。これはジュネにとって大きな誤算ではなかっただろうか。

 誤算と言えば…今回意外に豪華なキャスティングが組まれていたりするのだが、それらがほとんど無駄遣いに終わっているのも不思議だ。せっかくレオス・カラックス作品やツバル(1999)でお馴染みドニ・ラヴァンなんか使ってるのに、出てるのか何だか分からない。もっとビックリなのはジョディ・フォスターで、何と彼女は普通のフランスのオバチャン役でフランス語をしゃべってる。これってアメリカ市場向けのワーナーからの要請って訳ではないだろう。クレジットでも完全にその他大勢扱いなんだからね。確かにフランス語はうまいのは分かったけど、一体この役を彼女にやらせる意味ってあったのか。これはジョディ・フォスターの自己満足なのか。結局彼女のやった事って、アメリカのスターがフランスの女優の仕事を奪っただけではないか。ハッキリ言って不毛な事をやったとしか思えない。

 それより何より致命的な事は…オドレイ・トトゥのサエないヒロイン像だ。

 まぁ毎度毎度「アメリ」を比較対象に持ってきては、彼女が気の毒だ。だがそれにしたって…このつまんなさは尋常ではない。大体、彼女と恋人との思いの丈が全然伝わって来ない。必死に追い求めるには、それなりの必然性が要るだろう。先にも述べたように恋人とのスズメの涙程度の思い出エピソードでは、そんな執着ぶりがまるで説明つかないのだ。そもそも、見ている僕らだって熱心に応援できない。

 しかも僕らは、見ているうちにだんだん気になってくるのだ。これほど大騒ぎして周りをほじくり返して真相に辿り着いたとして…「だから何なのだ?」。もちろん恋愛はハッピーエンドを求めるものだ。だが映画は、少なくともこれほど大仕掛けになった映画には、何らかのそれに見合った結論を期待するものだろう。これで「二人は再会できました」で終わっちゃったとして、それのどこが面白いのだ…という気になってくるんだよね。

 もちろん普通なら…引き裂かれた恋人たちの再会だけで、十分映画としては感動的なエンディングのはずだ。だが先にも述べたように、この映画はそこまで二人が愛を育てて来た過程をあまり見せてはくれない。ひどく簡単に済ましてしまっているのだ。それで、最後に「二人は再会できました」で終わられちゃってもねぇ…。

 ところが映画は、まさにその「二人は再会できました」…で終わってしまう!

 正直言って唖然としているうちに映画は終わり、僕は一気に睡魔に襲われていった訳だが(笑)…ともかく見終わった後、僕はこれは「ハッピーエンド」でも何でもないんじゃないかという気になったんだよね。

 だって戦場でバタバタと倒れる豆粒大にしか見えない兵士たちにも、それぞれディティールやバックグラウンドがあると主張している映画なんだよ。そして、それらのディティールやバックグラウンドは、この映画ではすべて回想場面で表現されている。だからこの映画では、兵士たち一人ひとりが持つ記憶、人々が兵士たちに持っている記憶こそが重要視される。そこに記憶がある限り、彼らは「無名」でも「豆粒大」でもないと主張されるのだ。それは今回の映画作りの志としては、僕もよく分かる。

 だが、それではあの「ハッピーエンド」はどうなのだ?

 苦心惨憺探し回って、今は多くの人々の「記憶」の中だけで生きている兵士たちの生き様を探りまくって、そのあげく辿り着いた愛しい恋人は…「記憶」を失っていた

 この映画では、兵士たち一人ひとりも決して「無名」などではないと主張してきた。その「証」として、彼らが自らの記憶にさまざまな人々をとどめており、さまざまな人々もまた兵士たちを記憶にとどめていた…という点を重視していた。記憶こそが、彼らが確かに生きていた事をこの世にとどめているのだ。

 ところがやっとの事で探し出した恋人…ヒロインとさまざまな思い出を紡いだはずの彼は、そんな記憶のすべてを失っていた。それは、ヒロインの捜索そのものをも無に帰するものではないのか

 その「悲惨」…それをもたらした戦争の「非情」をこそ描きたいと言うのなら、まだ僕にも理解できないでもない。だが、どうもそんな事を描いているようにも思えない。ヒロインは単純に再会を喜んでいた。作者も観客に、単純にハッピーエンドを喜べと言っているようだ。

 それに…考えてみよう。この恋人たちは、覚えているに足るだけの価値ある思い出を残していただろうか。とても映画では、そのようには思えなかった。あまり気を入れて撮ってる感じでもなかったよね。だとしたら、そのあたりからこの映画は誤算だったのではないか。

 戦争を扱った映画って、しばしば戦争そのものに似てくると言う。だとしたら…「壮大な徒労」という意味で、まさにこの映画もその通りだと思うんだよね。

 

 

 

 

 

 

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