「ビューティフル・デイズ」

  Ada apa dengan Cinta ? (What's Up with Love ?)

 (2005/03/21)


  

見る前の予想

 この映画は、昨年の東京国際映画祭「アジアの風」部門で上映された作品。その時から、僕はこの映画に秘かに注目していたのだ。インドネシア映画で、しかも映画祭後に劇場公開も予定されている。日本で一体どれくらいのインドネシア映画が公開されたか知らないが、ちゃんと劇場公開されるというのは極めて珍しいではないか。こういう珍しい国の映画というだけで、見たくなったというのが正直なところだ。

 そしてこの映画が、「青春映画」というのも気に入った。僕は元々「アメリカン・グラフィティ」(1973)が大好きだったし、「セント・エルモス・ファイアー」(1985)やらジョン・ヒューズの映画が大好きだった。結構いい歳こいてからも、かなり青春映画を好んで見ていた気がする。

 ところが気づいてみると、最近まるで面白い青春映画に出会っていない。というより、「青春映画」そのものに巡り会ってない気がする。これって近年青春映画があまり公開されていないという事か。それとも知らない間に青春映画を見逃すようになっていて、面白い作品は僕の目の前を素通りしていたのだろうか。

 だからこそここらで一本、イキのいい青春映画が見たい

 予告を見ると、何となくイイ感じが伝わってくるではないか。そして…いわゆる誰もがイメージする「アジア映画」ではなく、かなり垢抜けている予感がする。ひょっとして「韓流」で躍進著しい韓国映画やら、近年いきなりのし上がって来たタイ映画などと同様に、僕らにとって未知のインドネシア映画も大いに盛り上がっているのだろうか。これは絶対に確かめずにはいられないではないか。

 誰よりも早くイキのいい映画に接したい、新しモノ好きの僕としては…。

 

あらすじ

 彼女の名はチンタ…「愛ちゃん」

 そんな誰からも愛されるような名を持つチンタ(ディアン・サストロワルドヨ)は、学園の人気者。彼女を取り巻く親友たち、メガネのマジメっ娘アリヤ(ラディア・シェリル)、ひょうきんなミリー(シシー・プリシラ)、スポーツ万能の筋肉系カルメン(アディニア・ウィラスティ)、オバンくさいマウラ(ティティ・カマル)…の4人と共に、学校新聞をつくったりして積極的にスクールライフをエンジョイしていた。

 だが、そんなハッピーを絵に描いたようなチンタと仲間たちにも悩みがあった。それはアリヤの「家庭の事情」…。彼女の父親はいわゆる「暴力亭主」で、何かというと妻や子供に当たりまくる。そんな訳で今日も今日とて、アリヤは肩に大きなアザをこしらえてきた。それでも彼女の父親は、後で憑き物が落ちたように「許してくれ」と謝ってくるという。アリヤ本人にそう言われてしまうと、周りの人間としてはそれ以上言えない。それでも「何かあったら仲間には相談して」…とアリヤに告げるチンタ。なぜなら彼女たちは、「仲間のことは自分たちのこと」として共有すると誓っていたから。その「誓い」は、彼女たちのノートにもバッチリ書いてある。

 さて、彼女らにとって次なる話題としては…明日に迫った学校の「詩」のコンテストのこと。才気煥発で前年もこのコンテストで優勝したチンタが、今年も優勝間違いなし。そう言って盛り上がる仲間たちの言葉に、チンタもまんざらでもない様子。

 てなわけで、校庭で全校生徒を集めての表彰式でも、連中は今にもチンタが優勝するかのように大騒ぎ。だが先生が発表した名前は意外なものだった。

 「優勝者はランガ!」

 さすがにいささか気落ちしたチンタだが、キズついたプライドはともかく…このランガなる人物が誰なのかが気になった。

 その頃、当のランガ(ニコラス・サプトラ)は…と言えば、そんな事になっているとはツユ知らず、校舎内で一人で本を読んでいた。そこに用務員のオッサンが現れ、彼の詩が優勝したと告げる。これにはランガはビックリ。実はランガの詩を気に入った用務員のオッサンが、彼に無断で応募していたのだ。だがランガは、まるでふてくされたように知らん顔だ。

 一方どうしてもランガの事が気になるチンタ。その後「優勝作」の詩を入手した彼女は、その出来映えにますます興味を惹かれる。仲間内には「盗作じゃないといいけどねぇ」などとあんまりな言葉を吐きながら、実はこの作者が気になって仕方がない。「コンテスト優勝者」は新聞で取材しなければ…とか訳の分からない言い訳をつぶやきながら、チンタはランガへの接触を試みる事にした。

 ところが…これが最悪の出会いだった。

 図書館でうるさい二人組をドヤしているランガの、どこかピリピリした様子に少々ビビるチンタ。「コンテスト優勝おめでとう」…と声をかけても、ランガの態度はまったく取りつくシマがない。「取材するなら審査員にでもしろ」…との失礼な答えに、さすがの「愛ちゃん」もキレた。新聞部の部室に戻ったチンタは、仲間たちに思いっ切り不満をブチまけまくりだ。「ったく、ゴーマンで偉そうでスター気取りで思い上がって…サイテーな男!」

 それでやめときゃよかったのに、チンタはまだまだ憤懣やるかたなかった。ランガの詩を読めば読むほど、気になって仕方ないから余計に腹が立った。それに…私は学園でみんなに愛される「愛ちゃん」なのよ、何であんなに失礼な言われ方されなきゃいけないのよ!

 そんな怒り爆発の罵詈雑言を手紙にしたため、ランガの机に置いておくチンタ。今度はこれを読んだランガが怒り心頭。わざわざ新聞部の部室へと乗り込んで来た。実はこうも相手に関わって来るとお互い意識し始めたって事なんだが、本人たちはとにかくカチンと来っぱなし。とにかく話は決裂して、ランガはまたしても捨て台詞を残して去って行った。ただし…今回はただ去っただけではなかった。彼が肌身離さず持っていた愛読書…「おれ」と称する本を落としていってしまったのだ。実はチンタもこの本には最初から気になっていた。だから彼が落とした本を秘かに拾って、こっそり自宅で読みふけり始めた。こうなると一気にのめり込んでいくから不思議だ。

 一方、ランガの方では、なくした本を必死に探していた。ところがある日、学校の机の上に丁寧に紙で包んで置いてあるではないか。しかも心を込めたチンタのメッセージつきで!

 早速、チンタの前に現れるランガ。みんなはあれだけ険悪ムードだった二人だけに一触即発を恐れたが、ランガは打って変わっての友好ムードだった。そんなランガに急速に好意を抱くチンタ。この「おれ」という本を媒介にして一気に話がはずむではないか。

 この「おれ」という本は、古い本だけになかなか手に入らないと言う。この手の本に興味があるなら…と、ランガはチンタを馴染みの古本屋へと誘う。「もちろん、これはデートの誘いなんかじゃないよ」

 こうして一緒に古本屋へと出かけるランガとチンタ。いいムードが漂って来たのだが…残念ながらチンタが別件の用事を思い出した。例の仲間たちと、ロックバンドの野外コンサートに出かける約束をしていたのだった。これにはランガが怒り出した。あげく「いつまでもお仲間とツルんでばっかで主体性がない」…などと言わなくてもいい事を言うもんだから、チンタはまたまた言い争ったあげく帰ってしまう。

 「ホラ、彼女は本気で怒ってないぞ。追いかけて謝ってやれ!」

 馴染みの古本屋の主人はそう言ってくれてるのに、つまらない意地を通してシカトのランガ。チンタはチンタで、コンサートで合流した仲間たちにランガの事は語らなかった。あれだけボロクソに言った手前、今さらそんな事は言えない…というのも正直なところだ。

 それにチンタには、一応「付き合ってる」ボーイフレンドがいた。ボルネ(フェビアン・リカルド)というのがその男の子だが、チンタとしては「カレシ」とまでは思っていない。それでも何となく彼に後ろめたさは感じていたのだ。

 ある日、仲間たちやボルネと共にカルメンのバスケットの試合を応援に行ったチンタの元に、驚いた事にランガがやって来る。ランガはチンタに謝りに来たのだ。だが、あまりに間が悪すぎる。さすがにいささかバツが悪くなったチンタは、結局ランガに冷たい言葉を浴びせてしまう。何のことはない、またまたケンカ別れの二人だった。

 しかもその様子を見ていたボルネが、面白く思うはずもない。仲間を引き連れたボルネは、一人で読書していたランガをボコボコに痛めつけるのだった。「オレの彼女に手を出すな!」

 さらにボルネは、チンタに電話であれこれ話す。彼によれば、ランガの父親は何やら評判が悪いらしい。だがそう言われれば言われたで、妙に気になるチンタではあった。

 ところがその日を境に、ランガが学校に来なくなる。ますます彼の事が気になるチンタ。実はその頃、ランガにニューヨーク留学の話が持ち上がっていたのだが、そんな事をチンタは知る由もなかった。

 いよいよ気になったチンタは、思い切ってランガの家を訪ねてみる事にした。すると…自宅でのランガは、いつもの肩を怒らせたような態度は微塵もない。学者である父親と二人で暮らす家は、貧しいながらも何となくいい感じの住まいだった。そこでランガは料理までつくるマメさを見せるではないか。チンタはランガのそんな素顔にますます惹かれるのであった。

 ところがそんなくつろいだ茶の間に、いきなり火炎瓶が投げこなれるではないか!

 慌てて火を消すランガと父親。ランガが怒って外に飛び出すと、バイクに乗った与太者が慌てて逃げ出していくのが見えた。

 「この卑怯者!」

 あまりの事に驚いて言葉もないチンタ。だが、これがランガの秘密だった。彼の父親は、かつて役人の不正や汚職を告発した。ところがそれが災いして職を失い、周囲からも「共産主義者」扱いされて迫害を受け続けた。世の中が変わったはずの今でも、こうしていわれのない恨みを買っている。そんな中で、ランガの母も彼の弟や妹を連れて家を出ていってしまった。ランガにどこか陰りがあるのは、そんな事情からだったのだ。

 この一件が、チンタとランガの間の垣根を一気になくした事は言うまでもない。

 さらにランガから、ライブハウスでのコンサートに誘われたチンタ。だがその日は仲間たちとの予定が入っていたので、チンタもすぐには返事出来なかった。迷いに迷った末にランガを取ったチンタは、仲間には病気とウソをついて完全に「デート」モードでお出かけする事になる。

 ところがランガが家まで誘いに来たその時、家庭内暴力に悩むアリヤから電話だ。何やら揉め事があったのか、今すぐ会いたい話したい…と懇願するアリヤ。しかし、それはあまりに間が悪すぎた。結局「後で会いに行く」…などと付け焼き刃の返事をして、慌てて電話を切るチンタ。彼女の頭には、今はランガとのデートの事しかなかった。

 ランガとの初デートは、チンタを夢見心地にさせた。彼も完全に打ち解けて、チンタに心を開いてくれた。帰りのタクシーが拾えずに二人でしゃべりながら帰り、深夜に幸せいっぱいで自宅に戻ったチンタ。

 だが、彼女の両親が血相を変えて出てくるではないか。一体何が…と思いきや、両親はチンタに予想外の事を告げた。

 よりによってこんな時に…親友アリヤが手首を切って自殺を図ったと言うのだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

見た後での感想

 この映画を見ていて真っ先に思い出したのは、昔、東京国際映画祭で見たある一本の映画だ。

 それは1992年の第5回映画祭でのこと…現在の「アジアの風」部門の前身である「アジア秀作映画週間」で上映されたタイ映画「クラスメイト/Hong 2, Run 44 (Classmates)(1990)という作品があった(本サイトエイズと映画作品リスト内に収録)。バンコクの女子高の仲間たちの友情と、その行方を描いた青春映画。何とも素朴でギコチない語り口ではあったが、アメリカ映画「グッドモーニング・ベトナム」(1987)にも出演した主演女優チンタラー・スカパットの好演もあって、シンミリしたり笑ったりと楽しく見れた作品だった。あの女の子たちのまっすぐな友情を、10数年経って改めて見せてもらった気がしたんだよね。ただし、その語り口はかなり違うけど…。

 もっとも向こうはタイ、こちらはインドネシア。一緒にするのはあまりに乱暴だ。東南アジアというと一纏めで語ってしまう、我々日本人の悪いクセだとは思う。だけど、やはりどこか共通するモノを感じさせるのがアジアの国々ではあるよね。

 それにしても、今回見たインドネシア映画「ビューティフル・デイズ」の垢抜け方と言ったら!

 映画が始まってすぐに、今風ポップスに乗って始まるオープニング・シークエンスからして新しい。カラフルなクレジット・タイトル・デザインの使い方もシャレている。このアッと意表を突かれた洗練ぶりは、かつて中国映画スパイシー・ラブスープ(1998)を見た時に受けた衝撃にも似ていた。あの時僕は、中国映画は完全に変わった…と、イヤというほど思い知らされたのだ。もはやチェン・カイコーやらチャン・イーモウさえ「先端」ではないという気がした。それが大衆商業ベースで実現しちゃってるスゴさ。今回のインドネシア映画「ビューティフル・デイズ」も、まさにそれなのだ。

 それにしても…あの当時以後のアジア映画の変貌ぶりには、誰もが目を見張ったのではないだろうか。シュリ(1999)に始まる韓国映画の大攻勢は言うまでもないだろう。さらに僕らは、ナン・ナーク(1999)、シックスティナイン(1999)あたりに始まるタイ映画のニューウェーブも目撃した。さらに昨年の第17回東京国際映画祭・「アジアの風」部門で上映された四人夜話(2004)というマレーシア映画のホラー・オムニバスだって、カラッと見事なまでにドライに乾いていた。しかも語り口に稚拙さなど微塵もなかった。そして今回この「ビューティフル・デイズ」だ。

 NHK教育テレビで土曜や日曜の昼間から放送していた、誠実で真摯で素朴で…だけど泥臭くてヤボくさくてヘタクソな、あのお勉強のために見せられるような「アジア映画」など影も形もない。創る側の意識、そして見る側の意識が、根底から覆っちゃったとしか思えない。だけどどこの国もそれなりの経済発展を遂げ、生活にゆとりが出来て、幼い頃から映像作品に親しんで同じポップ・ミュージックを聴いていれば…どうしたってみんな一斉に垢抜けてもくる。そういう連中が、映画を作る側見る側に回ってきたと言うことなのだろう。いい事なのか悪い事なのか分からないが、現実問題としてそうなって来ているのだ。

 まぁ考えてみれば、これはそういう生活水準の問題だけ、そしてアジアに限った問題…とは必ずしも言い切れない。なぜなら「スパイシー・ラブスープ」が中国に登場した当時は、イギリスからロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ(1998)、ドイツからラン・ローラ・ラン(1998)やノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(1997)、オランダから「アムス-シベリア」(1998)…などなど、雨後の竹の子みたいに次々と若い感覚の新しい映画が飛び出してきたのだ。その西欧からの飛び火とアジアの急成長が結びついて、こうしたアジア映画の洗練が促進されて来たと見るのが妥当だろう。いまや世界は密接に結びついているんだからね。ネットでも使えばリアルタイムに結びついてしまう。

 そして「アジア」「アジア」とガタガタ言っているが、それは近年の日本映画の変貌ぶりとも結びついているに違いない。大衆商業映画レベルで一般の人々の鑑賞に耐える作品が続々生まれているあたりが、そもそも共通するものを感じさせるではないか。日本映画は確かに昔から面白かったのだろうが、それを一般に訴求させるコロモが追いついていなかった。企画や発想の時点でみんなが見たがる映画をつくれるようになるという事は、実は大変な事なんだよね。その意味で「ビューティフル・デイズ」は…例えばスウィング・ガールズ(2005)みたいな作品とも同じ地平に位置する作品なのだ。当然の事ながら日本も「アジア」の国なんだよね。

 さて、そんな垢抜けまくったアジア…インドネシア映画だが、どうもこれが一般水準かと言えばそうでもないらしい。その「垢抜け方」がウケたから「ビューティフル・デイズ」が大ヒットしたという事は、まだまだこれって特別なのだろう。この映画の製作者たちはその前にいくつかヒット作、話題作に絡んでいるらしく、どうもそのあたりからニューウェーブは始まったばかりのようだ。それでもこれが大ヒットにつながったのだから、明らかにニューウェーブが主流になる日は近いはずだ。韓国映画が一気に変わった素早さを考えれば、おそらくアッという間の事だろうね。

 ただ語り口や見せ方はソフィスティケートされたものの、その根幹のスピリットの部分はまだ変なスレ方をしてない。実はここが今回の映画の最大の魅力だ。

 ヒロインが友情と恋愛で揺れるあたりの、初々しさを見よ。比較対象にしては何だが…アメリカ映画フォーチュン・クッキー(2003)に出ていたヤング・スター、リンゼイ・ローハンあたりを見てみればいい。芝居も達者だしコメディ・センスもあるし、映画も楽しかったから文句を言う気はない。だがローハンは心も体もすでに異様に爛熟しきって衰退が始まっているみたいだ(笑)。正直言ってストレートな真摯な言葉も聞かれそうにない。言うにしても、何か曲がってひねた言い草になるだろう。もう人生見えちゃった感じ(笑)。これは当然若い人だけでなく、大人ももちろんの事だ。それが観客にとって、いかに真摯な訴求力を削ぐかは想像に難くない。

 この映画に出てくるヒロインたちの言動は、そうした「爛熟」をまだ通過していない。それはいい加減カッコよくなったつもりの我々勘違い日本人にもまだ残っている「何か」…ヤボっちさと背中合わせの部分に直接訴えかけてくるストレートさなのだ。

 実はここが今のアジア映画の最大の魅力ではないか。

 さすがに昔のアジア映画のように技術的に稚拙だったり表現的にヤボっちかったりしたら、イマドキの人はついて来れなくて退いてしまう。だから垢抜けさせて洗練させ、包装紙を換えてオシャレにしているのだ。だがコロモをリニューアルしても、スピリットにはそれまでの「ピュア」さを確実に温存している。これは映画としてすごく魅力だと思うんだよね。

 というのは、映画って基本的には「若さ」のメディアだと思うからだ。

 創る側に体力が必要だったり、観客の主流が若い人だったり、どこか流行りやファッションと密接に結びついているって事は確かにある。だが僕がここで言っている「若さ」はそういう事ばかりではない。どこかフレッシュで純粋である事こそ、映画らしさであり映画の魅力だと思っているんだよね。

 何より映画は「感覚」に訴えかけるメディアだ。映像と音で…それが躍動感一杯に迫って来る事で訴求するメディアだ。創るにも受け取るにも、感覚のフレッシュさが要求されるのは間違いない。それが映画の「すべて」ではないかもしれないが、「主流」である事は間違いない。そこで重要になってくるのは、やはり何がしかのストレートさだろう。

 欧米の映画…中でもフランス映画あたりは、それを失ったあたりから衰弱したと思う。

 例えば…かねてより何度も引き合いに出して大変申し訳ないが、大分前に見たジャン・ユーグ・アングラードとマリー・トランティニャン主演のフランス映画「真夜中の恋愛論」(1990)という映画などはその典型だった。男と女が裸になってベッドに入ろうというところで、ああでもないこうでもないと屁理屈こね回し大激論。この不毛ぶりたるや…今ではその「不毛」こそ描こうとしていたのかどうかも定かではないが、ともかく見ているこっちが「ゴチャゴチャ言ってないで早く一発やって寝ろ!」と言いたくなるような愚劣さ。あの回りくどさや頭デッカチさには恐れ入ったよ。これくらいフランス映画の衰弱ぶりを象徴した映画もない…とその時正直に思ったよね。今でも僕にとってはダメ映画の印象が強烈だ。

 やっぱり映画はそうじゃないだろう。どこかストレートでピュアであることや、パワーや鮮度こそが身上ってところがあるだろう。常にそこには例外はつきまとう…と保留した上で、それでも映画の「主流」はそうだと思いたいんだよね。

 そんなあたりに、この映画はズバリと直球で迫ってくる。

 可愛らしいヒロインのディアン・サストロワルドヨはじめ、主役格の5人の女の子の取りそろえ方が「スウィング・ガールズ」主役格5人のバラエティぶりを連想させたり、ヒロインの相手役ニコラス・サプトラのいかにもイケメンぶりに笑っちゃったり、どこの映画も観客も基本は同じだな…とスッカリ親近感を感じさせてくれるのも嬉しい。ヒロインがいつも「学園の人気者」で、自分もそれを当然と思っている陽性の「思い上がり」ぶりとか、イケメン男の子の世をすねた生意気な「突っ張り」ぶりなど、彼らの「青二才」っぽさも微笑ましい。それがお互いのぶつかり合いを通して、最後にはちゃんと成長を見せているあたりは、良質のアメリカ映画の伝統や基本をちゃんと踏襲しているオーソドックスな語り口。やっぱり良い物は良いのである。これが35ミリ劇場映画第一作というルディ・スジャルウォは、ちゃんとそこらへんを勉強して分かっているんだよね。

 他にも…ヒロインがライブハウスで詩のパフォーマンスを演じている場面と、親友の女の子がシャワールームで自殺未遂するくだりをカットバックで見せていくあたりの演出ぶりだとか、その自殺未遂場面をヒッチコックサイコ(1960)のシャワールーム場面からの引用ショットでさりげなく見せるとか(笑)…この監督もイマドキの「映像世代」である事がハッキリ分かる。しかも彼はアメリカで映画学校に通った事があるというから、後で知って「やっぱりな」と驚いた。

 それに引き替え今日びのハリウッドのバカ監督どもはまったく…(涙)。根っからのアメリカ映画好きとしては情けなくて仕方がない。先輩たちに顔向けができるのかと言いたいよ。やる気があるのかね、あいつらは。ロクに検査してない牛の肉でも食って、脳味噌がスポンジになったのか(笑)。

 この作品は往年のアメリカ映画話法のような「基本」をキチッと押さえていて、ちゃんと王道を行こうとしているのが素晴らしい。それでいてハッとさせられるのが、アクチュアルなこの国の現実をチラリと見せるあたりだ。

 イケメン青年の家庭が出てくる場面で、それがもっとも顕著に伺える。父親が汚職を告発して、かえって迫害を受けてしまうあたり…いかにも政治に腐敗が付き物のアジア(もちろん日本とて例外ではない)ならではの話だなと納得してしまった。ヒロインは思わず「でも、今は改革の時代じゃないの!」と言うが、どうも今でもダークサイドはいろいろ痕跡を残しているのだろう。全然時代は違うけれど、インドネシアの政治動乱を描いたピーター・ウェアー監督のオーストラリア映画「危険な年」(1982)のことをチラリと思い出してしまったよ。

 こんな政治的でもない可愛らしい映画で「迫害」の現場が描かれるという事は、実際にもまるっきりシャレになってないはずだ。そういうアクチュアルな現実がちゃんと顔を覗かせているあたりは、やっぱりどこかの中心で叫んでるどこかの映画とはモノが違う気がする。

 ヒロインとイケメン青年とを結びつけるのが、映画化されていないシナリオ本だったりするあたりも、向こうの人ならピンと来る趣向なのだろう。このシナリオ作品自体に、何か象徴的な意味があるのではないか?

 そもそも学校で「詩」のコンテストをしたり、ヒロインなりその他の登場人物がこれほど「詩」に親しんでいたりするところを見ると…インドネシアの人々は暮らしの中に自然に「詩」が存在しているのだろうか。ちょっと日本では考えられない感じだ(汗)。

 こう考えてみると、単に垢抜けていながら純粋な可愛い映画…というシロモノにとどまらない。結構辛口な点も見え隠れしている映画なんだよね。

 

見た後の受け売り話

 さて、ここで余談ではあるが、ちょっとこぼれ話を…。実はちょうどいい機会だったので、僕はキネカ大森で行われた「東南アジア映画講座 /インドネシア映画:音楽あふれる映画の系譜」なる催しに参加してみた。講師は、インド映画を中心にアジア映画全般を研究する松岡環(たまき)氏。インドネシア映画の状況を、一通り分かりやすく噛み砕いて紹介していただいた。以下はここで伺った話などから、100パーセント受け売りで付け加えてみたい。

 この講座ではインドネシアでの映画の発祥からこの「ビューティフル・デイズ」まで、まさに絶妙のタイミングでお話を聞くことが出来た。そのお話から考えると、やっぱりこの「ビューティフル・デイズ」は一種のインドネシア・ニューウェーブの一環として登場してきたようだ。

 インドネシアの「新感覚映画」は1998年の「クルデサック/Kuldesak」というオムニバス映画によってその幕を開けたようで、そのあたりの雰囲気は台湾ニューウェーブの発端となったホウ・シャオシェンらによるオムニバス映画「坊やの人形」(1983)を彷彿とさせるところがあるが…それはまた別のお話。インドネシアのニューウェーブはこの「クルデサック」に参加したリリ・リザの監督、ミラ・レスマナのプロデュースという陣容で発表した「シェリナの冒険/Petualangan Sherina」(2000)の大ヒットで、いよいよ決定的なものになったようだ。

 この催しでは1970年代の歌謡映画を含め数本の映画の断片がビデオ上映され、その中で僕はこの「シェリナの冒険」も見ることが出来た。そこで見る限りでは、それ以前のいくつかの作品と比べると垢抜け方に格段の差があるんだよね。おしゃまな女の子が事件に巻き込まれたりする娯楽映画で、彼女が歌ったり踊ったりのミュージカル趣向もある。ちょっと「ホーム・アローン」(1990)的な雰囲気もあるが、基本的にはおそらくドイツのカロリーヌ・リンク監督点子ちゃんとアントン(2000)の影響が大と見た。ほんのわずかの断片でも、見ていて楽しい映画だったんだよね。

 今回の「ビューティフル・デイズ」は、この大ヒット・コンビがプロデュースに回っての新作。だから「血統書付き」と言ってもいいくらい、ニューウェーブ直系の作品と言う事が出来るわけだ。

 なお、この日いただいた資料から考えると…あのイケメンくんの父親が迫害される原因になったのは、たぶん1960年代から20年ぐらい続いたスハルト政権の腐敗によるものだったんだろうね。情けないけどインドネシア事情に疎い僕は、それさえシカと分からなかった。とりあえず、これは受け売りその1(笑)。

 受け売りのその2は、例の「詩」について。講師の松岡氏いわく、来日したヒロイン役ディアン・サストロワルドヨ嬢にインドネシアの生活習慣として「詩」が身近にあるのか聞いたところ、そんな事は全然ないとアッサリ答えた(笑)…との事。これは完全に僕の考えすぎでした(涙)。

 ちなみにキネカ大森での「東南アジア映画講座 」は今後もタイ映画、フィリピン映画など月イチで4回予定されている。僕みたいな門外漢にも分かりやすく面白いので、もしご興味を持ったらぜひご参加いただきたいと思う。

 

見た後の付け足し

 やっぱり「ビューティフル・デイズ」は確実に新しい時代の映画なのだ…と思いを新たにした僕だが、そうは言っても…映画が始まってしばらくは、40過ぎた男が見るには少々こっ恥ずかしい点も多々あったよね(笑)。何せ「ガーリー・ムービー」だもんねぇ。まぁ基本的には他愛もない話だし、可愛らしい映画だ。それを「包装紙の新しさ」と鮮度の高さ、テンポの良さで楽しく見せている映画…というのが、この作品の正しい評価の仕方なのだろう。ノリがいいのは間違いない。若い人なら無条件で楽しめるはずだと思うよ。

 エンディングなどジ〜ンとさせる泣かせどころで終わらせるかと見せて、最後にチョ〜ンと拍子木を打つみたいな脱力ギャグで幕…とは、作り手は何ともシャレが分かっているではないか。このセンスの乾き方こそが新しいんだよね。

 驚いたのは、この映画のポスト・プロダクションってオーストラリアで行われたみたいなんだよね。なるほど、それで気が付いた。編集やらダビングやらコンピュータ処理やら…そういった技術部分でオーストラリアのノウハウを導入しているから「新しい」。少なくとも技術的な限界やら稚拙さはない。もちろん映画冒頭の…あの「垢抜けぶり」を強烈に印象づけたタイトル・デザイン処理も、きっとオーストラリアで行われたのだろう。

 そういえば、ここで映画なんて作ってたのか…とビックリしたシンガポールからの作品フォーエバー・フィーバー(1998)も、その技術やノウハウやスタッフをオーストラリアから持ち込んでいた。今のアジア映画の「新しさ」って、ひょっとしたらオーストラリア映画界が大きな役割を果たしているのかもしれないね。

 そして僕は、見ているうちに奇妙な事に気づいたのだ。

 先にも述べたように、ヒロインも可愛らしい「傲慢さ」を持っているし、イケメン青年もガキっぽい「フテっぷり」を見せている。それって当事者としては頭に来て仕方がないから、二人は最初何かとケンカ腰なのだ。

 でも、考えてみると…昔は僕もこんなシチュエーションを映画で見たら、主人公たちと一緒にムッとしちゃったかもしれない。

 おそらく映画の中にまったく同化して、主人公レベルで一喜一憂していたような気がする。たぶんそうだ。そして最初はイヤな感じがしたイケメン青年が、だんだんイイ奴に見えていったかもしれない。僕は映画を見るときには、実は人一倍感情移入して見るタイプなのだ。それが映画を一番楽しめる見方だと思っていた。だから、笑っちゃうほど簡単に、映画にのめり込んで泣いたり笑ったりしちゃうんだよね。…だが今回の映画では、僕の反応は明らかに違っていた。

 ヒロインの可愛い「傲慢さ」もイケメン青年のガキみたいな「フテっぷり」も、最初から笑って済ませられる気がしたんだよね。どこか微笑ましく眺めていて、彼らの気持ちをあれこれ手に取るように分かった上で見ている気がした。そこには、どこかハッキリと「距離」があるような気がしたんだよね。

 ドツボにハマってからのヒロインも、まるで励ますような気持ちで見ているから驚いたよ。何と言うのか…今回初めて気づいたんだけど、まるで「自分の娘」でも見ているような気分で「頑張れよ!」って声をかけたくなった(笑)。それに気づいた時、僕は軽いショックを受けちゃったよね。

 今までは、かなり歳をとってからも青春映画を「感情移入」して見れたのに…久しぶりに見た時には「自分の娘」(笑)。いつ、一体どこで…僕の気持ちはガラッと変わってしまったのだろう?

 この文章の冒頭に、「最近まるで面白い青春映画に出会っていない」…って書いたよね。だけどこれってひょっとしたら違うのかもしれない。「面白い青春映画」がなかった訳じゃない。僕が変わってしまっただけなのではないか?

 そして過渡期を過ぎて…僕はまるで「自分の娘」を見るように、「頑張れよ」って声をかける立場で青春映画を見られるようになった。

 だとしたら、その変化ってどのへんで起きたんだろう? それって僕にとっては、アジア映画の変貌ぶりなんかよりずっと重大事件なんだよね(笑)。

 

 

 

 

 

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