「猟人日記」

 (ユアン・マクレガー主演)

  Young Adam

 (2005/03/14)


見る前の予想

 あのユアン・マクレガーの新作。今そう聞いて心ときめく人間って何人いるのだろうか?

 確かに「トレインスポッティング」(1996)でバ〜ンと出てきた時には鮮烈な印象があった。あの時は英国映画が大流行の時期だったよね。何だか今考えると「夢でも見ていたみたい」だけど(笑)。「フル・モンティ」(1997)だの「マイ・スウィート・シェフィールド」(1998)だの、他にもいろいろあった。マイク・リーやマイケル・ウィンターボトムが日本に紹介されたのも、こうした流れの延長線上ではなかっただろうか? あの頃は、いわばちょっとした「イギリス映画ブーム」だったんだよね。

 「トレインスポッティング」はその象徴とでも言うべき作品で、マクレガーの他にもロバート・カーライルなどがガンガン世界に乗り出していった。ところが、そんなイギリス映画の好調ぶりも今は昔…。

 そう言えば、そのカーライル自体も最近では噂を聞かない。

 思えばカーライルがレオナルド・ディカプリオ主演のザ・ビーチ(2000)に客演し、007/ワールド・イズ・ノット・イナフ(1999)の悪役まで演じるに至ったあたりが彼としてのピークではなかろうか。一方でユアン・マクレガーもスター・ウォーズ/エピソード1:ファントム・メナス(1999)でのオビ・ワン役というメジャーぶりを見せていたのがこのころ。確かにみんな貧しくてぺーぺーの若者やらヤク中やら失業者で脚光を浴びたのに、この「大出世」ぶりは違和感あったよね。

 そうは言ってもマクレガーは、カーライルとは違って「低迷」はしなかった。作品にも恵まれたし、成功もした。それでも…あの「トレインスポッティング」が元々の出だからねぇ。

 それってまるっきり言いがかりで偏見かもしれない。それでも僕は最近のマクレガーに「これ」というものを感じていなかった。

 ところが…。

 そんな僕がこの映画「猟人日記」の存在を知って、オフィシャル・サイトを見て、チラシを手にしてみると…何とも言えない予感がしてくるんだよね

 これは、僕が求めていたユアン・マクレガーを見せてくれる映画かもしれない。

 それは理屈じゃない、何の根拠もない。別に「猟人日記」が「トレインスポッティング」に似ているとも思っていない。

 だが何となくこの映画に漂っている陰鬱な曇天みたいなムードが、僕に何かを期待させるではないか。

 

あらすじ

 白鳥が川の水面を滑るように泳いでいる。そのどこかおっとりした優雅な姿と裏腹に、ひとたび水面の下を覗くと白鳥の脚がバタバタとせわしなく動いていたりする。さらに水底を見渡せば、誰が捨てたのかタイプライターの残骸など、多くのゴミが無惨に醜く沈んでいるアリサマ。この水の内外を見るまでもなく、物事の内面はかように見えないものなのだ。

 今まさにそんなナゾを抱えながら、一つの「モノ」が水面に漂よっていた。いや、「モノ」と言っては適切ではない。それはつい昨日までは、「人」として生きていた…薄いスリップを纏った女の肉体だ。若い女の死体が、顔を水につけたうつぶせの状態で浮かんでいた。

 そして水面と言っても、ここは川ではなく海。港に停泊している船のすぐそばだ。船の上にいる一人の若い男、ユアン・マクレガーが、この女の死体を何とか棒で引き寄せようとしていた。手こずっていると横から中年男ピーター・ミュランが出てきて、棒で巧みに女の死体を引き寄せる。こうして陸の上に引き揚げた女の死体は、格好が格好だけに妙になまめかしくもあった。

 そんな男二人の様子を、船の上から一瞥する一人の女。生活に疲れ、所帯やつれしたその女ティルダ・スウィントンは、水死体に対する男たちの無遠慮な視線に気づいたのだろうか、軽蔑の表情を露わにしてマクレガーを見つめる。

 根っから労働者階級のミュランとスウィントンの夫婦は、幼い息子と共にこのシケた貨物船を住居としていた。仕事場が家の彼らは、来る日も来る日も変わりない暮らしで先の展望も楽しみも何もない連中だ。マクレガーはこの夫婦に下働きとして雇われた男で、やはり船で寝食を共にしている。だがマクレガーは彼らとはいささか異なり、暇な時には読書などする毛色の違う人種ではあった。それでも毎日をやっとこ貧しく暮らし、先の見通しなど何もない点では中年夫婦と同じだった。

 さて、水死体の発見が単調な日常に変化をもたらしたのか、興奮したミュランは何かというと話題に出そうとする。食卓でもその話に、思わずイヤがるスウィントン。だがそんな食卓の下で、マクレガーは秘かに自分の脚をスウィントンの脚と触れ合わせていた。

 どちらかと言えば若くも美しくもない。水気もなくなって萎んだような女だ。だがあの水死体が、マクレガーに何かを思い出させたのかもしれない。あるいは何かの刺激を与えたのかもしれない。もとより夫ミュランに少なからず性的な欲求不満を抱いていたスウィントンは、その変わらぬ表情の下で何を思っていたのか。

 たまたま息子を連れて、近くの遊園地に遊びに行ったミュラン。マクレガーも誘われたが、途中で帰ってしまった。一人で船へと戻って来たマクレガーは、さりげなくスウィントンを誘惑する。すると飢えきったように彼女は身体を開いた。

 貧寒とした身体と身体の重ね合い。

 一回関係を持つと、「これっきり」と言いながらまた一回。スウィントンは徐々に大胆さを増していく。そんな彼女に、マクレガーは果たしていかなる感情を持っているのか。

 

 マクレガーはかつて海辺で若い女エミリー・モーティマーと出会い、さりげなく…しかし断固として口説いた。その押しの強さと裏腹のさりげなさに、女心はたちまち傾く。その日のうちに海辺の岩陰で、二人の関係を決定的にしたのは言うまでもない。

 

 ミュランはマクレガーとスウィントンの関係を気づかない。息子を学校に行かせるために、スウィントンは妹夫婦に預ける。息子がいなくなった事は、二人の密会の機会を増やすだけだった。

 

 久々にモーティマーと再会したマクレガー。二人は別れてしばらく経っていた。やたらと懐かしがるモーティマーだが、別れを切り出したのは彼女の方。そう冷たく指摘しながらも、マクレガーはなし崩し的に彼女を抱こうとする。月明かりの港で夜風に吹かれながら、着ている服を脱いでいくモーティマー。二人は野外で全裸で抱き合い、一時心を通わせたかに見えた。

 「私たち、うまくやれると思うの」

 なりゆきで復縁と結婚を迫るモーティマーに、マクレガーは思わず腰を退かせる。何と彼女は妊娠したと言うのだ。それもマクレガーの子だと言う。

 「そんな事、分かったもんか」

 すでに別の男と付き合っているという彼女のこと、本当かどうか分かったものではない。どうせその男とは不倫関係なので、マクレガーに白羽の矢を当てたに違いない。マクレガーの態度は一気に冷たくなった。彼女に背を向けて海岸っぷちを歩き出すマクレガー。そんな彼を追おうとしたモーティマーは、全裸に薄物一枚だけ羽織って、海岸っぷちを歩き出したのだが…。

 ザブンッ!

 そんなモーティマーを無視して歩いていたマクレガーは、しばらく異変に気づかなかった。やがて、モーティマーがどこにもいないと知り、さすがに慌てるマクレガー。だがおそらく彼女を飲み込んだであろう海面は、今では静かに波立っているだけだ。今さらどうにもならない…。

 怖くなったマクレガーは、自分の服を抱えてその場を立ち去った。

 

 マクレガーとスウィントンの慣れ合い関係はますます続く。そして水死体…モーティマーの一件は殺人事件と見なされ、警察が捜査に乗り出した。だがマクレガーはこの件について、常にこう呟くだけだ。「殺人とは限らない。事故だったのさ」

 そのうちスウィントンの大胆さが災いしてベッドで寝過ごし、二人の関係がミュランに露見してしまう。だが、これも実はスウィントンが望んだ事だったのか。船の甲板で行ったり来たりを続けるミュランに対して、覚悟を決めたマクレガーは謝りに出ていく。だが「船を出ていく」と切り出したマクレガーに対して、ミュランは自分から身を退いた。実はスウィントンの所有物だったこの船、ミュランは自らの立場をわきまえていたのだ。

 かくして「何もジャマ者がなくなった」船で、マクレガーとスウィントンの蜜月が続く。ダラダラといつまでも爛れた関係が続く。スウィントンはマクレガーとの結婚を望んでいるようだ。だがマクレガーは常に、何もかも心ここにあらず。

 今の彼には、そんな事よりもっと気になる事があったのだ。

 モーティマー「殺人事件」は、意外な展開を見せていた。ついに「犯人」が捕まったのだ。その男はモーティマーと不倫関係の相手だった人物。おそらく彼女が「付き合っていた」と語っていた本人だろう。気の毒に…降って湧いたような災難だ。なぜなら彼が「無実」である事は、他ならぬマクレガー自身が一番よく知っている。

 だが、この男の「無実」を証明する術がない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

見た後での感想

 これが、僕の知っているユアン・マクレガーだ!

 いつまで「トレインスポッティング」を持ち出すんだと言われても、でも本音だから仕方がない。実際にあの時は鮮烈そのものだったからね。いくらハリウッド・スターぶったってお里が知れている(笑)。

 今改めて思い起こしてみれば、アッという間に「ブラス!」(1996)やらピーター・グリーナウェイの「枕草子」(1996)やら「普通じゃない」(1997)やら「ベルベット・ゴールドマイン」(1998)やらに連続主演…破竹の勢いとはこの事だろう。このあたりは「いかにも」で僕もそれなりに納得して見ていた。

 そして「スター」として決定的になったのは、誰が何と言っても「スター・ウォーズ/エピソード1:ファントム・メナス」(1999)でのオビ・ワン・ケノービ役。確かに売れてきたな…とは思っていたが、まさか「この役」までとは思わなかった。

 この後はムーラン・ルージュ(2001)、ブラックホーク・ダウン(2001)、恋は邪魔者(2003)、ビッグ・フィッシュ(2003)…と、ハリウッド・メジャー作品が目白押し。すっかりビッグ・スターになっちゃったなと思わされた。

 ただ正直な話、それらって個々の作品はそれぞれ好きだったりするけど、ユアン・マクレガーに感心したって事はあまりなかった。それはこの文の冒頭で語った通りだ。

 何でだろうと考えても分からない。でも、ひとつだけ言えるのは…それらってユアン・マクレガーでなくても誰でも出来そうだからねぇ。別に彼でなくては…という映画は一本もなかったんじゃないか?

 白状すると、僕はユアン・マクレガーって「トレインスポッティング」にトドメを差すと今でも思っている。そのイメージがあまりに強すぎる。さらに、オビ・ワンってのがどうも違和感あるんだよね。マクレガーを見て、アレック・ギネスを連想しないではないか。言いがかりとは百も承知だが、どうしたってマクレガーは「こう」じゃないと思ってたんだよね。

 そんなマクレガーが、今回久々にイイ

 この役はマクレガーでなければ出来ない。そんな雰囲気をプンプン漂わせて、イギリス映画にマクレガーが堂々帰ってきた

 まずは映画の巻頭から結末に至るまで、徹底的に底冷えしてくる冷たそうな空気感とどんよりした曇天が、終始一貫してスクリーンを支配している事。もうこの肌寒そうな雰囲気だけで、イギリス映画としての陰鬱さはバッチリ。そこに虚無的・刹那的…というキャラクターを絵に描いたような、われらがユアン・マクレガーが出てくる。もう屁理屈はいいから、これだけで十分。

 この男のどうしようもなさは見ていれば分かる。徹頭徹尾テメエ勝手で責任やら拘束やら押しつけやら不自由からは逃れたい。逃げられるものなら逃げたい。そんな男。

 あくまで労働者階級の貨物船夫婦とは、実は微妙に人種が違う。だが彼としては「身を落とした」…という思いや一種の自堕落さがかえって自分にとって心地よい…という、何とも不健康でイヤミな男なのだ。

 世話になっている男の女房にチョッカイ出すのも、そんな自分の「堕ちてしまった」感の味付けとしてイイ感じなわけ。でなければ、若い女にだってモテるこの男…自分の魅力が分かりすぎるほど分かっているこの男が、こんな鳥ガラみたいな中年女に手を出す訳がない。案の定、手違いで自分が「亭主」の座に転がり込む事になってみると、たちまち居心地が悪くなる。この女の萎んだような肉体にハエがたかっている描写は、そんな幻滅をズバリと表現していて秀逸だ。

 結局この男は、自分の心地イイことしかしないで、都合悪くなったりウンザリしたりすると逃げ出していく。そして、次に腰を落ち着けた場所でもまた同じ事をする。呆れ返ったグズグズ男だが、まぁそれって結局は程度の差こそあれ我々男というものの本質なのは、近作イタリア映画赤いアモーレなどでも描かれた通りだ。

 この男は「自分は労働者階級に身を落としたぞ〜」と言わんばかりの状態になっていながら、何かというと「読書」というあたりで、「オレは本当はこんなケモノのような暮らしには似つかわしくないのだ」とさりげなくアピール。そのへんのイヤらしさがたまらない。さりとてインテリのブルーカラー・ポーズと言うにはシャレになってない部分もある。

 かつて、女のヒモになり下がりながらもそれを自分に正当化させていたのは、「オレは作家になろうとしている」という自負だった。高級な「創作活動」をやっている自分が、女にタカっているのは仕方ない事。むしろ才能のある者がない者に奉仕されるのは当然…と言い聞かせていたのに、結局は才能なんてからっきしなくて小説はいつまでも書けない。あげく女におっぽりだされてしまうアリサマ。タイプライターを「無用の品」と川底に沈めた時点で、もうこの男の中で何かが死んでいたのかもしれぬ。

 そんな女が妊娠したと迫って来られると、ただただ逃げの一手。偶然に起きた女の自滅によって本当に逃げ切る事が出来ると、心の底で秘かに「ラッキー」と思わずにいられない。そして女をそれほど非情に扱った割には、いざ人の生き死にの問題に直面するとビビりまくらずにいられない情けなさ。

 しかもそれによって無実の罪に問われる人物が現れても、我が身可愛さにどうする事も出来ない。結局は見殺しにするだけ。言い訳のように密告文を出したりするが、そんなもの何の役にも立たないと知っていたはずだ。アレは「自分は何か手を打とうとした」という自らに対する言い訳の意味でしかない。

 こんな臆病で無能で虚勢ばかり張った薄汚い卑怯者…つまりは「男」という生き物を、ユアン・マクレガーが実にリアリティを持って演じていて見事。一見ナイーブそうに見せてズルい男。これこそ、実は僕がマクレガーに望んでいたものなんだよね。

 

見た後の付け足し

 この映画はアレグザンダー・トロッキの小説の映画化ということだが、お恥ずかしい話トロッキの小説自体を読んでいないから話にならない。だが、この貧寒とした心の荒野みたいなタッチには惹かれた。下手をすればドライサーの小説「アメリカの悲劇」というか映画「陽のあたる場所」(1951)と同じようなお話になりかねないところを、ちゃんと一線を画して描ききったのは見事だ。

 見る者がまったく共感を寄せられないキャラを、まるで「自分自身」のように引き寄せて見せてくれる…この映画はそんな映画だ。だからある意味で、この映画を撮るのはすごく難しいと思う。下手をすればイヤな奴が出てくる陰気くさくて退屈な映画にしかならないからね。

 出演者もみんな素晴らしいが、マクレガー以外で特筆ものは何と言ってもティルダ・スウィントン「オルランド」(1993)で知られるようになった彼女は、「ザ・ビーチ」などハリウッド・メジャー映画にも顔を出すようになったが、この「猟人日記」がベスト・アクトではないだろうか。とにかくくたびれきった肉体表現のスゴさが尋常ではない。

 この映画では最初に女の水死体が上がり、それから船主女房との不倫があって…その後で若い娘との出会いが描かれる。以後は船主女房との不倫と若い娘との関係が交互に描かれていって、観客には徐々に「若い娘=水死体」であり、過去の出来事がドラマの途中に挿入されている…と分かる仕組みだ。

 ところがエミリー・モーティマー扮する「若い娘」の描写には、それがドラマ中の「過去」であると分からせる要素が全くない。冒頭に出てくる水死体も、観客はその顔を見ることが出来ない。だから映画を見ていても途中までは、観客には「若い娘=水死体」と分からない。「そうかな?」…と疑う人はいるかもしれないが、ストレートにそれを分からせてはくれない。若い娘が海に転落するくだりが出てきて、初めて「若い娘=水死体」と納得する事になる。

 何でこんな構成をとったのか、その理由は僕にはハッキリ分からない。ただ、見ていて一つだけ気づいた事はあった。ひょっとしたらこの映画の作り手は、主人公の心理に一切の因果関係を持ち込みたくなかったのかもしれないのだ。

 若い娘がいなくなった寂しさから、人妻を抱いた。あるいは良心の呵責に耐えかねて、忘れたくて人妻に溺れた。…普通の時制で起きた順にドラマを構築していくと、容易にそんな因果関係で主人公の心情を見られてしまうかもしれない。それを避けたかったのではないか?

 娘を死なせたのもこの男、人の女房に手を出したのもこの男。だが、それらには原因も理由も何もない。どれもがこの男の本質で、仮に順番が逆でもおかしくない。この男は、単に「そんな男」なのだ。それだけの事でしかない。

 こうなったから改心した…とか、このせいで悪事にはしった…とか、そんな安易な説明などしない。良いも悪いもどっちもこの男…いや、「男」というものの本性だ。きっと作り手はそう言いたかったんだと思うんだよね。

 それを端的に表しているのが、主人公が船主夫婦の息子を助けるくだり。この男は人の女房に平気で手を出して何の良心の痛みを感じない非道ぶりを見せながら、川に落ちた子供をとっさに助ける善良さも持ち合わせている。ところが別の場面では、彼はこうも言っているんだよね。「子供はキライだ。船にいるガキなんざ、川に叩き落としたくなる

 この矛盾。そのどちらもが「男」なのだ。

 こうしたデリケートで伝えにくいニュアンス、それぞれ矛盾する要素を矛盾したまま放り出した構成、簡単に共感など得られないキャラクター…それらを何とかかんとか分かりやすく映画的に描き出した監督・脚本デビッド・マッケンジーはお手柄だ。その肌寒さまで感じさせるヒリつくような冷気溢れる映像に、近頃では珍しくなってしまった珍重すべき「イギリス映画らしさ」も漂わせて、ちょっと前の「イギリス映画ブーム」の作品群をも彷彿とさせてくれる。僕もここまでゴチョゴチョと屁理屈並べて語って来たけど、ハッキリ言えばこの映画の良さは理屈抜き。いかにも「イギリス映画」然とした、どよ〜んとした肌触りが何ともイイ感じなのだ。しかも、それだけにとどまらない。

 柄にもない役ばかり演じていたユアン・マクレガーを本来の居場所に取り戻したこと…それこそがこの作品の最大の功績だと感じるんだよね。

 

 

 

 

 

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