「大統領の理髪師」

  The President's Barber

 (2005/03/07)


  

見る前の予想

 この映画は、昨年の東京国際映画祭に出品されたものだ。その時は韓国映画で有名俳優出演の作品なのでチケット入手が困難そうだし、どうせ公開されるだろうから…と見ようとはしなかった。でも、「面白そうだな」とは思っていたんだよね。

 何しろついこの前まで軍事独裁政権が続いた韓国の現代史を、すぐそばで見つめる事の出来た専属理髪師=庶民の目から描く。そんな着想が素晴らしい。

 そもそも韓国映画はつい最近まで、娯楽作と言えどもそんな自国の特殊性をどこかに織り込んできた。純愛とイケメンとどんでん返しとホラーが氾濫するまでは、むしろそっちの方がメインだったのだ。

 一番顕著な例がペパーミント・キャンディー(1999)だろう。一人の男の狂ってしまった人生と韓国現代史とを連動させた上で、逆回転で見せていく荒技だった。例えばイム・グォンテク監督が野に下った尼僧の物語を描いた「ハラギャティ」(1989)にも、チラチラとそんな韓国の世相が挟み込まれたりした。

 最近では殺人の追憶(2003)にも、そんな片鱗が覗いたではないか。いざ連続殺人犯の犯行を未然に防ごうと、機動隊の出動を要請するとデモ隊鎮圧中…など、あの映画は当時の世相と無関係には語れない物語だった。

 今回はそれを大統領の「至近距離」から描く。ただし、あくまで「庶民コメディ」として…。ここが韓国映画としては画期的に新しいではないか。何せモノがモノだけに辛口に描かざるを得ないとは言え、今までどんな作品でもシリアスにシビアにハードに描いてきた「あの時代」を軽くコメディ・タッチに描くとは…。「恨(ハン)」の国・韓国もそこまで来たか…と、さすがに僕も感慨に耽ったよね。

 そしてあくまで軽妙コメディ・タッチで描くからこそ、今までの絶叫型や苦渋に満ちた回顧型で描いてきた「あの時代」が、よりリアルに見えてくるところもあるんじゃないか? それはある意味で、韓国映画や韓国社会の「成熟」も意味しているんだろう。

 しかも主人公の理髪師にソン・ガンホとは、その庶民性から言っても芸達者ぶりから言っても最良の選択だろう。妻役がムン・ソリというのも贅沢だ。あまりにど真ん中。これじゃどう考えてもハズしっこない。きっと面白いし、いい映画なのだろう。これは公開されたら絶対見なきゃ。

 そうそう、面白いに決まっている。どう考えたって着想が抜群だもんね。

 そして年が明けて2月、いよいよ東京での公開が始まった。案の定、評判は上々だ。そうだろうな、だって面白いに決まっているもんな…。

 で、何となく見に行かずにズルズル…。

 面白いに決まっているとは思う。イイ映画だろうとも思う。だけど面白いに決まっているものを、それも「どう面白いのか」が分かっているものを、わざわざ確認しに行く意味があるのだろうか(笑)? 

 何となく僕は、昨年グッバイ!レーニン(2003)を見る前に感じた気分と同じものを感じていたんだよね。「グッバイ!レーニン」も自国の現代史の暗部を笑い飛ばすような、発想が抜群の映画だった。そしてあまりに発想が抜群でそれらが知れ渡っていたから、もう映画そのものを見なくてもいいくらい分かっちゃった映画にも思えたんだよね。だってその発想がすべてだ。確かにうまいところに目をつけたなぁ…と感心してしまう。だけどその時に見るタイミングを逸すると、どんどんこっちの鮮度が失せていくタイプの映画だ。その発想以外の驚きが、どう考えても見いだしにくい映画なんだよね。

 実はこの「大統領の理髪師」にも、同じものを感じた。

 一介の庶民が、軍事独裁政権の大統領とお近づきになる立場に置かれる。そこから見た韓国現代史。ホロ苦い笑いの中で描かれる、歴史の皮肉に翻弄される弱き庶民たち。演じるのは先に挙げたソン・ガンホとムン・ソリ…。

 ホラ! もう誰の頭の中にも、映画を見たかのようなイメージが出来上がるだろう?

 そもそも僕がここまでこの映画について書いて来た内容ぐらいで、いろいろな雑誌などのこの映画のレビューはお茶を濁しているんじゃないか? つまりは、見なくてもこの映画のレビューは書けちゃうということだ。ひょっとしたら本当にみんな見てやしないかもしれない。

 逆に言えば、どう考えてもそこから大して膨らみそうもない映画とも言える。この映画はこうした事前イメージがハッキリしているが故に、実像がそこから大きく裏切られたり意外な面を見せたりする可能性が少ない。つまりは、見に行っても何の驚きもない可能性が濃厚だ。だから、僕はもう見た気になっちゃっていたんだよね。そして、見なくても「もうたくさん」という気分になっていた。

 しかも、実は豪華で適役と思えるソン・ガンホとムン・ソリというキャスティングが、最も見る気を削がせる一因でもあったのだ。こんな事を白状したら、映画ファンに殺されるかもしれない(笑)。だが市井の人々を演じる役者として、彼ら以上の適役はいるだろうか? 逆に言うと、ここに何かビックリする要素が入り込む余地はあるか? あり得ない。ピッタリとハマりすぎていて、意外性など毛ほども見られないだろう。

 特にここではムン・ソリが問題だ

 オアシス(2002)では神業的な脳性マヒ演技、浮気な家族(2003)では若いのに倦怠主婦役。自分を若く美しく魅力的に見せようなんて微塵も感じない「演技の虫」。いろいろなインタビューでも、そんな「優等生発言」しか見られない。その発言にウソはないだろうし、実際見事だとも思う。「オアシス」では僕だって圧倒された。だけど…正直言って「そればっかり」というのも何だかねぇ。

 おそらく彼女の事だ、今回もキレイに見せようなんてまるっきり考えず、オバチャン演技をばっちり見せてくれるのだろう。そして世間は、いかに若くて華奢な彼女が見事にたくましいオバチャンになりきったかをホメそやすだろう。それはそれで結構だ。ただ、体当たり演技はリッパだと思うけれど…こんな事を言ったらこれまた怒られちゃいそうだけど…そればかり売り物にされても食傷気味というのが正直なところではないか?

 いまやムン・ソリってどんな芝居でも出来る演技巧者っていう事になってるみたいだけど、皮肉な事にそれが彼女の選択を狭めてはいないか? どんな役もこなせるくらい難役を演じているといいながら、実際にはどんな役も出来るとは言いがたい。拳銃を片手にカッコいい女刑事のムン・ソリとか、イケメン男を誘惑しようと健気に振る舞うムン・ソリとか、宇宙服で未知の惑星に降り立つムン・ソリとか、テレビ局の人気キャスターを演じるムン・ソリなど、誰も想像出来ないだろう。それが似合うかどうかは別にして…だ。その前に、彼女は決してそんな「チャラチャラ」した役を演じはしまい。だが俳優というものは、いかにも「難役」と思える役をひたすら「熱演」すればいいというものではない。それに「難役」を「熱演」する方がリッパというのも、何となく安易な発想という気がする。芸道とはそんなモノではないだろう。

 おまけにハッキリ言うと、いまやムン・ソリにとっての難役と言えば、むしろ女刑事やテレビ・キャスター役などの方ではないか。クリクリ・パーマの床屋のオバチャンなど、彼女のストライク・ゾーンのど真ん中でしかない。そこには何の驚く余地もないんだよね。

 一応映画ファンとしては「映画は見なければ分からない」し、「見なければ語れない」というのが原則だ。僕も日頃そう公言しているし、確かにそういう一面はある。…というか、そういう事にしとかないと「映画好き」としてはマズイ(笑)

 だが実際はそんな言葉に該当する、「真に見るに値する映画」ってほんの一握りにしかすぎない。映画好きを自認している身でこう言っては何だが、ほとんどの映画は見る前に中味が分かっちゃっていたりするのだ。

 それでも…やっぱり見るに値する映画なのかなぁ、この映画は。

 確かに面白い事は面白いのだろう。そして、決して退屈はしまい。予想した以上のモノはなくても、最悪でもソン・ガンホとムン・ソリの芝居を楽しめればいいか…などとブツブツ言いながら、僕はようやく重い腰を上げたのだった。

 

あらすじ

 僕の父さんは理髪師、名前はソン・ガンホ。母さんの担当はヒゲ剃りでした…。

 ここは大統領官邸・青瓦台のある孝子洞。ソン・ガンホはこの街に理髪店を持っていた。助手は上京したての田舎娘ムン・ソリ。だがソン・ガンホは、ムン・ソリの突きだしたお尻が気になって仕方がない。たまらず客が帰ったその後で、何だかんだと言って彼女を連れて店の裏手へ…。

 父の人生は、決して平坦なものではありませんでした。なぜなら、父は大統領専属の理髪師だったからです…。

 無学で善良でお人好し…ソン・ガンホはお国のために良かれと思えば、協力を惜しまなかった。1960年の大統領選の時でも、町会長の言う通りの候補に票を入れた。多少誤解から行き違いがあったが、それでもちゃんと票は入れた。開票作業の手伝いに駆り出された時も、他のみんなと一緒に票をフトコロに入れたり食べちゃったり。あげくの果てに、停電につけ込んでゴッソリ盗み出した票を地面に埋めたり…と、一生懸命に協力した。言われた通りするのがイイと信じたから、彼はそうした。

 さらに誰かが政府の憲法改正に関して「四捨五入」と揶揄したのを聞いて、「四捨五入」とは何ぞや?…と仲間内に問いただすソン・ガンホ。そこでなまじっか新しい言葉を覚えたソン・ガンホは、妊娠させちゃったムン・ソリにこの「四捨五入」の定義を披露。故郷に結婚を誓った相手もおり、子供を産む気などなかったムン・ソリに、ソン・ガンホは無理矢理「四捨五入」理論で納得させてしまう。「いいか? 四捨五入だから、五ヶ月ならば産まなきゃ」

 こうして泣く泣くムン・ソリはソン・ガンホの嫁さんになった。

 そんなムン・ソリが産気付いたのは、不正選挙に怒った学生たちの蜂起の真っ最中。デモ隊と警官隊が入り乱れる中、ムン・ソリを乗せたリアカーを押して、必死に病院へと急ぐソン・ガンホ。こうして二人の息子イ・ジェウンが産まれ、旧政権は耐えきれずに倒れた。

 だがそれから間もなくの1961年5月16日の夜、そんなソン・ガンホの店の前に一台の戦車がやって来る。戦車に乗った軍人は、ソン・ガンホに大統領官邸の場所を聞いて去っていった。こうして出来て間もない新政権が倒れ、軍人による政権が出来上がった

 そんなソン・ガンホの店に、いかにも政権中枢の側近風の男がやって来る。この男ソン・ビョンホは、何と大統領警護室長。この日は単に昼寝がしたかったために店に立ち寄っただけだが、どうもソン・ガンホは利用価値があると踏んだらしい。ひょっとしたら、町会長に言われるまま大統領の肖像写真を額に入れ、店に飾ったのが功を奏したのかもしれない。帰り際、ソン・ビョンホは「今夜あたりスパイが暗躍するぞ」…とソン・ガンホに入れ知恵して去って行った。

 案の定、その夜屋根の上から何やら物音がする。慌てて外に出て様子を伺うと、何者かが屋根の上にいるではないか。慌てたソン・ガンホは警官を呼んで来て、問答無用でこの男をひっ捕まえた。

 こうして大統領官邸に呼ばれるソン・ガンホ。実はこの「スパイ」は情報部の人間。大統領警護室長のソン・ビョンホが、中央情報部へのイヤがらせに仕組んだものだった。だからソン・ガンホの顔を見た中央情報部長のパク・ヨンスは、いきなり彼に蹴りを入れる始末。だが大統領の前に引き出されたソン・ガンホは、この件で表彰状を受けるから二度ビックリだ。

 さらにさらに…ある日店にやってきた警護室長ソン・ビョンホは、いきなり散髪道具を持ってついて来いとソン・ガンホに告げる。慌ててついて行った先は大統領官邸・青瓦台。何とソン・ガンホは、大統領の散髪を命じられたのだ。「竜顔にキズをつけるな、いいな!」

 ちなみに「竜顔」とは大統領の顔とのこと。ピンと来なかったソン・ガンホがボケッとしていると、警護室長ソン・ビョンホの叱責が飛んだ。「腕立て伏せ! 復唱せよ、閣下は、国家だ!

 そんなこんなで緊張でコチンコチンのソン・ガンホの前に、大統領その人がやって来る。だがいかんせん、いつもの余裕など出る訳もない。しかもヒゲ剃りの時に、何がどうマズかったのか一滴の血が垂れてきたではないか。何とかその場はつくろったものの、生きた心地のないソン・ガンホだった。

 こうして次回の日時を指定され、秘密厳守を確約させられて解放されたソン・ガンホ。彼は帰宅して妻のムン・ソリに問いつめられても何も答えられず、ただただ放心状態でグッタリしているしかなかった…。

 だが、それはまだソン・ガンホにとって、この後に延々と続く栄光と受難のほんの序曲にすぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

見た後での感想

 今回は、ここまで書くのがやっと。実は一回ストーリー紹介を途中まで書いたのだが、コンピュータのトラブルで全部飛んでしまった。それをまた繰り返すのも虚しい気がする。

 そもそもこの映画の設定が分かるように書くというなら、おそらく上記までで十分だろう。この後どうなるかも、容易に想像がつくに違いない。だから今回はここまででお許しいただきたい。

 ご存じの通り、この映画のお話は韓国現代史を背景にしたもの。正確に言うとイ・スンマン(李承晩)政権の退陣からパク・チョンヒ(朴正煕)政権の成立あたりを発端にして、チョン・ドファン(全斗煥)政権の成立で幕となる。1961年から1979年におよぶ、主にパク・チョンヒ政権下の20年近くを描いた作品だ。それは大体見る前から誰でも分かっている事だろう。

 ドラマの骨格だけを見ていると、これはアンドレイ・コンチャロフスキーのアメリカ作品「映写技師は見ていた」(1991)にちょっと似ている。舞台はスターリン体制下の旧ソ連。一介の映写技師でしかない男(トム・ハルス)がスターリン専属の映写技師に取り立てられ、そのことによって運命が狂っていく話。あまり物語はよく覚えてないが、陰鬱でとてもじゃないがコメディなんかじゃなかった。それだったらお話の骨子はまったく異なるが、現代史を笑いで見直す前述の「グッバイ!レーニン」の方が近い作品だろう。

 で、先に「見る前の予想」で語ったように、どんな展開になるかも察しがつく。そういう意味ではまったく驚きを期待できない作品だ。だから僕もイマイチ気乗りがしなかった。では、実際に作品を見てみたらどうだったのか…?

 まったく予想通り。

 驚くべき要素は何もない。当然の事ながら思った通りだ。たまたま独裁者の権力中枢を間近で見ることになってしまった市井の人を中心に、庶民の目から見た圧制下の韓国を笑いを絡めて描く。…そのスタンスはまったく見る前に想像していた通り。何もビックリする事はない。

 権力者たちの奢りと、そこから生まれるどこかコッケイな事態が、コメディ・タッチだからさらに浮き彫りにされる。それに振り回される庶民の一喜一憂も、さらに心に迫る。シリアス・ドラマもマジメな姿勢として悪くはないが、どこか人ごとにもなってしまうし敷居も高くなる。絶叫憤怒悲嘆型ドラマではないコメディだからこその「風刺」と「真に迫り方」が、この映画の身上だ。それは分かる。分かりすぎるくらい分かる。実は見る前から分かっていた。

 だからその発想の良さを評価はしても、見る前に見た気になってしまったのも事実。「見る前の予想」で語ったのは、このへんの偽らざる気持ちだった。贅沢なイチャモンではあるけれど、本音を言えばそういう事だ。では、やっぱりこの映画には何の驚きも鮮度もなかったか?

 いや…実はかなり感激してしまった

 最初はそんな調子でタカをくくっていたんだけど、それでもやっぱり持って行かれてしまった。それも、かなり感慨に耽ってしまったよ。

 確かに再三再四繰り返し繰り返し述べているように、「大統領の理髪師」という視点を発想した時点で「勝負はあった」。そしてソン・ガンホ、ムン・ソリなどの主演陣もハマってる。もうこれだけで、映画としてある程度のモノになるのは保証されてはいる。

 だから「イイ映画」にはなっていると確信したが、それと「本当に見て面白い映画」とは…またどこか別物だろう。見てその見事さに納得はしても、それ以上の感慨はあるまい。だが僕はこの映画を見て、かなり感心しちゃったし身につまされもした。これほどとは…と驚いちゃったんだよね。

 では、何がそんなに感心させる程良かったのか?

 「思った通り」だったし「付け加えられているモノはない」…とは言え、何か「見る前には思いつかなかった要素」が付加されなければ、このような驚きや感嘆は生まれまい。ならば、それって一体何なのか?

 僕がよく分からないなりに挙げてみた「付加的要素」とは、次のようなものだ。

(1)圧制下韓国の尋常ならざる事情

 この映画に描かれていた選挙の不正とかデモ隊だとかクーデターだとかってのは、考えてみれば僕が子供の頃から何となく知っていた事だ。パク・チョンヒの暗殺だってテレビでニュースを見た記憶がある。実際あの頃はソウルって年がら年中デモ隊と警官隊が対決していた感じだし、催涙弾の煙の絶えないところって印象があったんだよね。キム・デジュン(金大中)が日本から拉致されちゃったというトンデモナイ事件もあったし、「韓国」って言えば「ヤバイ」ってイメージがあった(まぁ、それを言うなら日本も相当ヤバイはずなのだが、我々日本人は相当な愚民なのか自らをそうとは思っていない)。

 これは決して偏見じゃない。マジでヤバかったはずだ。本当にとてつもなく真っ暗な闇がある感じだったわけ。今でこそイケメンと純愛が「韓流」だけど、当時の「韓流」と言えば独裁と拷問って感じかな(笑)。こう言っちゃ悪いけど、僕なんかはそれが強烈に焼き付けられてるわけだ。理屈じゃない。

 韓国現代史はそんなダーク・ゾーンであり続けたし、だから映画に取り上げられる時もダーク・ゾーンのまま。「ペパーミント・キャンディー」などに出てくる通りだ。

 だが、それらはあくまで背景や点景としてのみの扱い。真っ正面からど〜んと取り上げられる事はあまりなかった。「ホワイト・バッジ」(1992)やシルミド(2003)など、個別の事件や問題については取り上げられても、当時の政権中枢にバッチリ目を向けたものってなかった。なぜなら…それってヤバすぎるもんねぇ

 先に述べたように、韓国現代史ってハンパじゃないヤバさなのだ。存命中の人々も多い。ハッキリ言うと、僕が子供の頃の「ついこの前」の事なのだ。それを真正面から映画化するという事の困難さたるや…まして娯楽映画としてつくるなんて問題外だ。

 いろいろ問題のあった国の現代史を、庶民レベルでユニークな観点からコメディ化するってアイディアは、確かに素晴らしいけどありふれてもいる。つまり「よくある手」だ。それは「グッバイ!レーニン」に絡めて述べた通りで、アイディアを聞いたらそれでオシマイのネタとも言える。

 だが、こと韓国現代史に関して言えば…ズバリ「モノが違う」としか言いようがないだろう。そのスゴさ・ヤバさのレベルが桁はずれなのだ。僕らはイケメン・ヨン様・なんとかのソナタのせいで忘れていたけど、実はそのくらいこの国はヤバかった。その発想以前の大変さを、僕はうっかり気づいてなかったんだよね。

 だからこの映画は、こうして出来上がった事自体が評価に値するはずだ。「今なら出来る」…のかもしれないが、それを実際に「やる」のは「やれる」って事とまた違った問題だ。それを「やった」だけでも評価に値する。これはそれくらい、スゴイ事なのだ。

 見ているうちに思い出したアレコレの事件などを考えて、僕は改めてその重要性に気づいたよ。それを忘れていた僕が、迂闊だったとしか言えないんだよね。

(2)悲劇をギャグとするための成熟度

 そもそも権力者が権力を乱用したり、それに便乗して甘い汁をすする人間がいたり、あるいはそれに媚びへつらおうとする人間、何とかそんな状況の巻き添えをくわないようにしようとする人間がいる限り…というか、大半がそうならざるを得ない状況こそが「独裁体制」なのだが、それって元々その渦中を第三者が見ると、限りなくシュールでナンセンスなものだ。「独裁」状況そのものが無茶で理不尽なものなのだから、確かに自分に火の粉が降りかかって来ない以上それは笑えちゃう状況に違いない。しかもそれって実は「独裁」体制下だけでなく、誰かが何か訳の分からないルールを他人に押しつけようとしたり、誰かが訳の分からない理屈で人を裁こうとしたり、自分の利害優先の行動が不当でありながら正当であると押し通したり…という、人間社会ならばどこでも起き得る問題でもある。実際僕らの身の回りでも、今もざらに起きてはいる。ミニサイズの「独裁者」なら、君の隣にもいる。

 だがギャグ的状況をギャグとして描くには、これは作り手にそれなりの「成熟」が必要になる。先にも述べたように、それをギャグと受け取れるのは「第三者」に限る。当事者は…不正や不条理を行使する人間はそれを「当然」と思っているし、受ける側の人間は「シャレにならない」。どっちにしろ笑ってる場合じゃない状況だ。つまりは「人ごと」でなければ笑えない

 「人ごと」と言っては語弊があるだろうか。ならば言葉を換えて言おう。

 それがまだ進行中なだけでなく、終わったとしても湯気の立った状況ならば、とても笑い飛ばす訳にはいかない。あるいは時間が経ったとしても、当事者たちの中での気持ちの整理が出来なければ…自身と状況に対する「客観的視点」を持たなければ、とても「ギャグ」化などは出来ないのだ。そして自らを客観視するということは…それは「理性的に考える」という事でもある。それゆえの、作り手の「成熟」が必要となってくるのだ。

 もちろんこれはこの手の国々、この手の事情、そしてこの手の作品には付き物。だからある程度は想像もついてはいた。だが先の(1)の要素同様に、これほどの深刻さだった韓国の…まだ「つい先日」のような事情を僕は忘れていた。だとすると、これほどの早さにしてこれほどの「成熟」を手に入れた韓国人とは…そして韓国映画界とは、改めて僕の想像を超えていたと言える。

 そして状況のひどさが際だっていたからこそ、ギャグとしても尖っていたし笑いの破壊力もデカい。それは僕が事前に想像していた度合いをはるかに超えている。だからこそ、想像はしていたけど「これほどとは」…という驚きにつながったんだよね。

(3)コメディからファンタジーへ

 先に挙げた歴史的事件を覚えているだけでなく、韓国のベトナム派兵は「ホワイト・バッジ」やラブストーリー(2003)で、北朝鮮特殊部隊による暗殺計画は「シルミド」で描かれており、一応何となく知った気にはなっている。

 それらは先に述べたようにまるでシャレにならない出来事だったし、本来だったら笑えるものではない。前述の何本かの映画でも、シリアスにハードに描かれていたはずだ。ところがこの映画ではとんでもないギャグ(北朝鮮兵が下痢に見舞われる事など)を飛ばしたり、本来の深刻さをカラッとドライにやりすごしたりして見せていく。それによって、この映画を観客にとって受け入れやすいものにしてもいるわけだ。

 実際には悲憤と絶叫で語らなければならない事柄なのだろうし、そうするべきモノなのかもしれない。だが正直に言わせてもらえば、当事者以外には悲しい事にその痛みと切実さは届かない。過度にそれを押しつけたところで、程度を超えたら人を退かせてしまうだけなのだ。だからこそ、こうしたライトな改変は必要不可欠だし、それゆえに普遍性が獲得出来るとも言える。これがこの手の作品において、感情も大切ながら「理性」と「成熟」が必要とされるゆえんなのだ。

 当然コメディ化した時点でこれはお約束だし、そうなると想像はついていた。そして、その点でもこの映画は良くできていた。…だが、そこから先は想像出来ていなかったよね

 実は映画の後半では、政府が「共産主義者」を告発していく一種の「魔女狩り」的ヒステリー状態と、その渦中に巻き込まれていく主人公たちの悲劇的状況がメインとなっていく。ここでは前半同様に状況のバカバカしさを描きながら、さすがに作品のキーをいささかマイナーに転じざるを得ない。特に拷問から戻った息子が足を不自由にされるに至って、主人公は初めて耐えきれずに悲痛な声を上げる。確かに大統領の昼食会に呼ばれて辱めを受けるくだりなど、ところどころマイナーな箇所はチラついてはいた。だがここまで正面切って怒りと悲しみを前面に出した箇所はない。実はこの映画では、ここ一カ所と言ってもいい。

 ところがこの映画、この息子の受難あたりからそれまでと違うニュアンスが顔を出してくる。ユカイな「風刺コメディ」にとどまらない…それはファンタジー性の強い「寓話」としての要素だ。

 足を患った息子を背負って、責任を感じた主人公は全国行脚を始める。西に鍼灸師がいると聞けば治療を受けさせるために連れて行き、東に妙薬があると聞けばまた連れて行く。クルマで行けないところは徒歩で行く。川があったら真冬でも素足で渡る。それはまるで、あたかも聖者の苦行や求道のようにも見えるのだ

 そうして辿り着いた山奥の漢方医は、まるで禅問答のような言葉を吐き出す。「数年後に竜が死んだら、竜の目を削って菊の茶で飲ませなさい…」

 後々これが大統領暗殺の出来事と絡み、「竜顔」の持ち主である大統領の肖像画の目を削る…という神秘的かつ緊迫感ある展開へとつながるのだが…物語はこのあたりから、一気に「寓話性」を増していく。そこで初めて、この映画はその本来の姿を露わにしていくのだ。

 例えば主人公の息子の電気拷問のくだり、豆電球をいっぱい点滅させてクリスマス・ツリー状態にする場面を思い起こしていただきたい。あの場面には発想の素晴らしさに思わず胸が熱くなったが…例えばターミナル(2004)で主人公トム・ハンクスが、恋した相手のキャサリン・ゼタ=ジョーンズに自作の電飾噴水を見せる場面のような、スティーブン・スピルバーグ演出を彷彿とさせるファンタジー性を強く感じなかっただろうか?

 あるいは、大統領に随行しての主人公の渡米シーン。記録映像とCG合成してのあの場面こそ、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994)に使われたCG処理そのものではないか。この映画のあちこちにチラつく、いかにもスピルバーグ風あるいはロバート・ゼメキス風手法を見よ。…つまり作り手は最初から、「この映画はファンタジーであり寓話ですよ」とハッキリ言っているのだ。

 そしてこれがファンタジー性の強い「寓話」だと考えるなら、今度はまったく別な映画の名前も浮かんでくる。物語の真の主人公は、ナレーターでもある子供。その子供に肉体的異変が起きたり、超自然的現象や能力が関わってくる。お話は何十年かに渡るある国の現代史と、そこで右往左往せざるを得なかった人々の姿が描き出されたもの。そこでは権力の醜悪さまでが笑い飛ばされる…。そんな映画が確かに他にもあったよね。

 そう…ちょっと見のスタイルがあまりに違うので気づかないが、映画の構造を見ていくとよく分かる。この「大統領の理髪師」は、おそらくフォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」(1979)にそのヒントを得ているはずだ。

 「ブリキの太鼓」の主人公は、3歳の時に成長をやめようと決意した「子供」だ。そして自らの生い立ちの理由(元々が男による無理強いによるもの)に始まる全編を、「子供」自身のナレーションで語っていく。先に述べたように、主人公は自らの意志で成長を止めており、時に超音波みたいな泣き声で周囲を威嚇するという一種「超自然的」設定が施されている。そして映画のラストで、主人公の「子供」は改めて成長を再開する。お話はポーランドの戦前から終戦に至るお話で、ナチの勃興に巻き込まれるくだりではそこで右往左往する人々の悲喜劇が描かれる…。

 このように本作品と「ブリキの太鼓」は、並べてみると見事なまでに相似型を描き出していく。ただ「ブリキの太鼓」の方はそれらを醜さも含めてえぐり出して冷笑しているので、外見上のタッチがまったく違って見えるのだ。同じようにファンタジー性の強い「寓話」ではあるが、「ブリキの太鼓」はその腐敗やら醜悪さこそが強調される。

 それでも外面と枝葉を取り払ってみれば、これだけの類似点が見いだせるのだ。やっぱり僕は本作品の作者…これが監督第一作目のイム・チャンサン…の発想の原点に、おそらくこの「ブリキの太鼓」があったに違いないと思うんだよね。

 そして「ブリキの太鼓」が「子供」役のダーヴィット・ベネントの存在感でもっていたように、この「大統領の理髪師」も息子役イ・ジェウンが素晴らしい。先に挙げた電気拷問の場面など、鳥肌が立ってくるほどイイのだ。

 この映画の主演陣ではソン・ガンホは相変わらず良いし、僕が事前にあれほどくさしたものの…やっぱりムン・ソリも手堅く見事なオバチャンぶりだった。だが、この息子役イ・ジェウンの達者ぶりには驚いたよ。この映画の最大の「付加価値」は、たぶん彼ではないだろうか。彼の存在こそがこの映画を見る喜びだし、ちょっとした驚きでもある。

 そしてこの映画は、仮に「ブリキの太鼓」を下敷きにしていたとしても「まったく別の映画」としての独自性があるし、「ブリキの太鼓」よりも多くの人々を惹きつける魅力を持っている。それは本作品が、あくまで「庶民の悲喜劇」を暖かい視線で楽しげに描き出そうとしたところに最大の理由がある。

 絶叫でも悲嘆でも激怒でもない、さりとてグロテスクで酷薄な冷笑でもない…あくまで「暖かい視線」で描いていくこと。それがこの作品の最も優れた点であると、僕はここで改めて強調したい。

 そして、それが何より「成熟」と言うべきものなのだ。

 

見た後の付け足し

 この映画の終盤、パク・チョンヒ大統領が暗殺されて新たな大統領チョン・ドファンが登場すると、主人公は再び大統領直属理髪師を指名される。もうコリゴリ…が正直な気持ちの主人公は力無く「もう遠慮します」と口の中で呟きながらも、またまた大統領官邸に連れて行かれてしまうのだ。そこでチョン・ドファンの禿頭を見た主人公は、思わず「髪が伸びてから、また来ます」…と口走ってしまう。

 これぞ今だからこそ描けた表現…と感慨にも耽ってしまうが、ともかくコレで主人公はお役ご免。袋に詰められて家の前に放っぽり出される事になる。もちろん軍人上がりの大統領側近たちに、さんざボコボコにされた上で…だ。

 ところがその場面で、主人公ソン・ガンホは微笑んでいる。そして息子のナレーションもこう言っているのだ。「そう言って、父はなぜか心が軽くなったそうです…」

 もちろんこれがチョン・ドファン時代の後に来るべき、「誰もが言いたい事の言える」民主国家の夜明けを暗示しているのは間違いない。息子の足が癒えるのも、そうした暗喩なのだろう。そんな時代の到来を前にして、ついつい出た本音が「もう遠慮します」という事なのだろう。

 もう独裁者などコリゴリ、ウンザリ、脅かされてたから大人しく従ったが、正直なところチャンチャラおかしい…。

 だが主人公は、先立つ場面でまるでそれとは相反するような態度も見せているのだ。

 最後に大統領を散髪した日、彼は大統領にお互い「長い関わり」である事を感慨深く語る。その直後に暗殺された大統領の葬儀では、主人公は深々と何度も頭を垂れては跪き、故人の冥福を心底から祈っているのだ。そこには「せいせいした」という本音は微塵も見られない。むしろそこに見られるのは、主人公の大統領に対する深い敬愛の情みたいなものだ。

 そもそもこの映画では独裁者を批判し笑い者にしたいがあまり、大統領の非道さをあざとく強調したり、わざわざ矮小化して卑しげに見せる事が全くないのが気持ちいい。むしろそんな事をやられたら、映画自体が汚らしく見えてしまったかもしれない。それがないから…そして主人公の情がストレートに出たから、この映画は清々しくも暖かい映画に出来上がった。ここで作品に高い品格が出た。

 主人公の身にもいろいろあったが、長く側に仕えているうちには情だって湧くだろう。敬愛の情を拭い去れないだろう。それは人間の感情としてあるのが自然な事だ。そんな感情があった上での…それでも口を突いて出てしまう「もう遠慮します」の言葉

 この映画の深みのある味わいは、そうした人間性の「厚み」まで描く事が出来たからだろうね。

 

 

 

 

 

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