「ライフ・イズ・コメディ!
 /ピーター・セラーズの愛し方」

  The Life and Death of Peter Sellers

 (2005/02/14)


見る前の予想

 今年は最初からいきなり、芸能関係の有名人の伝記映画が大流行みたいだ。

 レイ・チャールズを描いたレイ、コール・ポーターを描いた五線譜のラブレター…そしてピーター・セラーズの生涯を描いたこの「ライフ・イズ・コメディ!」と来るからね。

 近年の有名人の伝記映画は彼らのダークサイドまで踏み込んだような内容になってきている…というような事は、「レイ」感想文にも述べた事だ。さすがに、昔みたいな偉人伝では通用しなくなってるからね。

 そして、あまり素顔が知られていない「五線譜」のコール・ポーターはともかく…それら有名人の容貌をかなりのところまで再現しているのもスゴイ。「レイ」のジェイミー・フォックスがレイ・チャールズそっくりなのはもちろんのこと、この「ライフ・イズ・コメディ!」も決して負けてはいない。主演のジェフリー・ラッシュが、何とピーター・セラーズそっくりに化けてるんだからね。

 しかもこの映画、ピーター・セラーズが駆け抜けた(主に)1960年代から1970年代の映画界について、楽屋裏を覗かせてくれる興味もある。これは映画ファンにはたまらない趣向だろう。登場する他の人物の中には、スタンリー・キューブリックブレーク・エドワーズもいる。こうなると、映画ファンならこれを見ずにはいられないはずだ。多少内容が薄っぺらくても、その楽屋裏を覗く面白さだけで楽しめそうだ。

 そうそう…セラーズの妻でちょっと気になるエッチな女優、ブリット・エクランドまで出てくる。演じるのはシャーリーズ・セロンと来れば、もう言うことナシだよね。

 

あらすじ

 1950年代のロンドン。ピーター・セラーズ(ジェフリー・ラッシュ)はBBCラジオのコメディ番組「グーン・ショー」で人気を取っている、目下売り出し中の俳優だった。だがラジオではそれなりに築いた名声も、他ではまだまだ。映画会社のオーディションを受けに行っても、「ラジオの役者が映画に出る」事への抵抗からか役はもらえない。さすがに「自分はこれどまり」かな…と思い始めたセラーズだが、彼の母親ペグ(ミリアム・マーゴリーズ)はそんな彼を許さない。もっと貪欲に、成功は自ら掴まなければ…と激しくハッパをかける。そんな母の知った激励の甲斐あってか、派手な売り込みで見事役をゲットするセラーズ。このようにここまでのセラーズのキャリアは、母の絶え間ない溺愛と叱咤のおかげとも言える。

 そんなセラーズは映画出演を続け、ついには英国アカデミー賞の主演男優賞を手に入れる事になる。 妻アン(メアリー・ワトソン)にはすでにこの「成功」で十分。二人の間に出来た長男・長女の二人の子供との幸せな暮らしが出来ればいい…と思っていたのだが、果たしてセラーズは満足出来たのかどうか

 母ペグと対照的に静かで大人しい父(ピーター・ヴォーン)は、そんなセラーズを影ながら心配した。溺愛のあまりセラーズに何でも与えてしまったペグの教育の結果、セラーズは「満足」が出来ない人間になってしまったのではないか…彼は内心それを恐れていたのだ。そして、その恐れは的中する。

 イタリアのスター女優ソフィア・ローレン(ソニア・アキーノ)がイギリス映画に出演する事になり、その共演者となったセラーズは、たちまち彼女の魅力に夢中。妻子がありながら、彼女の気を惹こうと涙ぐましい努力を始める。彼の家屋敷がロンドンから離れている…とローレンに言われるや否や、たちまちロンドン中心部の豪華なアパートメントを購入する始末。しまいにはマジで口説こうとするセラーズに、たまらずローレンは「奥さんの元へお帰りなさい」とたしなめる。するとセラーズは何を思ったか、妻アンや子供の前で「離婚したい」と何のてらいもなく語り始めるアリサマだ。そんなセラーズの衝動的な行動に振り回される妻アンは、さすがにセラーズを見放してしまった。「あなたのお守りはもうたくさん!」

 失意のセラーズは、これをキッカケに怪しげな有名人専門の占い師モーリス・ウッドラフ(スティーブン・フライ)の元を訪ねるようになるのだが…。

 その頃セラーズに、転機となる仕事が飛び込んで来た。アメリカのブレーク・エドワーズ監督がヨーロッパで撮る娯楽大作「ピンクの豹」に、何と彼が大抜擢される事になったのだ。英国ではスターだったセラーズだが、いまだ英国ローカルの存在でしかなかった。そんな彼にハリウッド…世界への飛躍の道が約束されたわけ。最初はピーター・ユスティノフが蹴った役…と聞いてプライドを大いにキズつけられながらも、セラーズとてこのチャンスをみすみす逃すつもりはなかった

 そして向かった撮影現場…イタリアはローマのチネチッタ撮影所。セラーズは現場に来る間に、すでに劇中人物「クルーゾー警部」になりきっていた。ハリウッドで実績を積んできた大家ブレーク・エドワーズ(ジョン・リスゴー)監督も、そのアチャラカぶりに舌を巻く。何せやたら目立ちまくりで、主役のデビッド・ニーブンを食ってしまう勢いだ。

 完成試写でも終始ゴキゲンなエドワーズだったが、しかしセラーズの表情は優れない。不思議に思って声をかけたエドワーズに、「君は僕の才能を空費した」と毒づくアリサマだ。これには愕然とするエドワーズだが、次の瞬間にアッケラカンと「一緒に女と遊びに行こう」と誘うセラーズの豹変ぶりにはさらに二度ビックリ。セラーズのつかみ所のなさは、ますますエスカレートしていく。

 だがこの「クルーゾー警部」が当たりに当たった。これでセラーズは押しも押されもせぬスーパースターにのし上がるから分からない。そんな折り、セラーズの父が危篤状態に陥ってしまった。慌ててセラーズは病院へと駆けつける。

 彼にとってショックだったのは、母親ペグが父の危篤を自分に知らせなかったこと。彼女いわく「スターが来るところじゃない」とのことだが、父をないがしろにし続けた態度に疑問を感じるセラーズ。彼は生まれて初めて、母親に醒めた感情を抱き始める

 さて波に乗ったセラーズは、気鋭の監督スタンリー・キューブリック(スタンリー・トゥッチ)の新作「博士の異常な愛情」に起用される。ここでキューブリックは、セラーズに一人四役を演じる事を要望する。今までも一作品で多重人格的に演じてきたセラーズも、要求が厳しいキューブリック作品でコレをこなすのは至難の業だった。

 そんな真っ最中に、間の悪いことにスタジオに母ペグが訪ねてくる。セラーズは母親の前に、劇中人物「ストレンジラブ博士」の扮装のままで登場。それだけではない。キャラクターから何から「ストレンジラブ博士」そのもので接したのだ。そんな異変に最初は気づかず、相変わらずセラーズのアレコレを仕切ろうとする母親。だがセラーズ…「ストレンジラブ博士」は、吐き出すように母親にこう告げる。「母親は不要だ!」

 劇中人物に託してではあるが…というか、そうでなければ言えなかっただろうが、セラーズは母親を拒絶した。母親ペグは、失意のうちにスタジオを去っていく。

 そんなセラーズに、ハリウッドはまたしても好評の「クルーゾー警部」を演じる事を要求してくる。だがエージェントもスタジオも、セラーズがこれをシブる事を察していた。そこで奥の手…例の占い師ウッドラフに金を積んで、イカサマ占いでセラーズをその気にさせる事にしたわけ。ウッドラフはウッドラフで金のためなら何でもする男。かくして彼はセラーズにこうお告げを下す。「あなたの人生に大きな意味を持つ人物…頭文字B.E.を逃してはならない

 もちろんこの頭文字が「ピンク・パンサー」シリーズのブレーク・エドワーズ監督を表しているのは言うまでもない。だがセラーズはタブロイド紙の一面に、イギリスに着いたばかりの新進スウェーデン女優ブリット・エクランドを見いだしてしまった。

 「頭文字B.E.を逃してはならない!」

 いきなりエクランド(シャーリーズ・セロン)の前に現れるや、口説きに口説くセラーズ。たちまち二人は恋に落ちた。思いっ切り若いエクランドに付き合って、年甲斐もなくハシャぐ。そしてアッという間に結婚。二人は意気揚々と「映画の都」ハリウッドへと新婚旅行に出かけた。

 ところがそのハネムーン中に、激しい心臓発作に倒れるセラーズ。新婚間もなくの新妻エクランドが心配して見守る中、セラーズは病院で生死の境を彷徨うハメになる。一時はダメかと思われたセラーズだが奇跡的に回復。ここでセラーズは、今の自分の生活を変えたいと望むようになる。

 次の作品「カジノロワイヤル」では、ジェームズ・ボンドを演じる。もう道化ではない役を演じたい。だがおどけないセラーズを回りは承知しなかった。そこで、不本意ながらもついついウケをとってしまうセラーズ。そんなものがいくらウケても、彼の心は空虚だった。自己嫌悪にたまらず撮影現場をエスケープしてしまったりもする。

 妻エクランドがセラーズに妊娠を告げたのは、ちょうどその頃の事だった。セラーズとしては子供はもうたくさんというのが正直なところだったが、エクランドに押し切られ夫婦の第一子が誕生。だがその弊害は、早くも仕事場でハッキリし始めた。子連れで共演していたエクランドに、セラーズの怒りが炸裂。徹頭徹尾テメエ勝手さを全開で見せ始める。

 ちょうどそんな時に母ペグから電話がかかる。彼女はその時入院中で、すでに自分が長くないと悟っていた。そこでセラーズに見舞いに来て欲しいと懇願するが、彼は仕事で忙しいとこれを拒絶。まもなく母ペグは他界していった。

 たちまちどん底に落ちるセラーズ。

 一生懸命エクランドが励まそうとしてもムダ。かえって逆効果で、エクランドを殴るアリサマ。これには耐えきれず、エクランドはセラーズの前から去っていった

 絶え間ない孤独。それらをドンチャン騒ぎで紛らわす日々。だがそんな中でもセラーズの焦燥感は消えない。意に添わぬながらも金のために「ピンク・パンサー」シリーズの新作契約にサインするセラーズは、その頃から心に決めた一つの企画があったのだが…。

 

見た後での感想

 ピーター・セラーズについて…実は僕がリアルタイムで知っていると言えるのは、「ピンク・パンサー2」(1975)以降…ということになるのだろうか。ただ彼の出ている「ピンク・パンサー」ものは、どうにも好きにはなれなかった。何しろ泥臭くて幼稚なドタバタにしか見えなかったからね。それはたぶん今見ても同じだと思う。あの当時、なぜあの「ピンク・パンサー」映画があれだけ大流行したのかが分からない。この映画でもピーター・セラーズが「クルーゾー警部」役を毛嫌いし、ブレーク・エドワーズをボンクラ監督呼ばわりする気持ちもよく分かる。…まぁ、エドワーズには「ティファニーで朝食を」(1961)、「ビクター/ビクトリア」(1982)などの好きな作品もあるので、僕は必ずしも「ボンクラ監督」とは思わないが(笑)…それでも「ピンク・パンサー」シリーズでのエドワーズは才能のカケラも感じられない演出ぶりだったと断言してもいい。キューブリックともサシでやりあったセラーズとしては、「クルーゾー警部」なんてやってられないというのが正直なところだったのではないか。しかし…そんな役で世界的に人気を博してしまったという悲劇…。

 そしてリアルタイムで見た時にはそんなセラーズの窮状も知らなかったし、何よりまだ青二才だったから何も知らなかった僕でも…「チャンス」(1979)でのピーター・セラーズが“どうやらいつもとは心構えが違うみたいだな”…ぐらいの事は、何となく画面からも感じられたんだよね。何よりも…「クルーゾー」は極端な例にしても、それまでの「やりすぎ」というかトゥマッチな芸風を一変させていたのはガキなりに見て取れた。何十年も屋敷の中だけにいた庭師がいきなり外界に放り出された…という設定で、ありとあらゆる強烈さ、個性、自己主張を抑えに抑えて徹底的に「無垢」な主人公を見事に演じたセラーズには、それほど彼に注目していなかった僕も驚かされた覚えがある。

 だからこの映画が描くセラーズの生涯は、自分が知らなかった事も含めて…どこか見た覚えがあるような、思い当たるフシのあるセラーズ像という感じなんだよね。“なるほど、アレってああいう訳だったんだ”…とピンと来る。これが1950年代や1960年代から彼を見てきた人だったら、いろいろ連想できてもっともっと面白いんじゃないだろうか。

 冒頭にも書いたように、近年の有名人の伝記映画と言えば単に偉人伝や成功談を並べるようなモノではなくなってきている。ダークサイドまで踏み込んで描くのが当たり前になってきてるんだよね。そして、その作品ならではの独自の「切り口」を持つようになってきている。それというのは…ただダークサイドに踏み込むだけでは、単なる露悪趣味の暴露モノに成り下がってしまうからだろうね。それはあくまでその個人の人間性に肉薄するための手段…と考えるなら、ただダークサイドを並べるだけでは「その人」を描けない。その作品ならではの「工夫」が必要となってくるわけだ。

 例えば「五線譜のラブレター」だったらコール・ポーターの生涯を「オール・ザット・ジャズ」風のミュージカル形式で描き出していた。「レイ」、「ドラゴン/ブルース・リー物語」(1993)、「ラ・バンバ」(1987)などでは、それぞれの主人公が終生囚われていたトラウマから生涯を再構成した。その意味で今回の作品がユニークなところは、ピーター・セラーズの生涯をあたかも「ピーター・セラーズ自身の映画」のスタイルで再構成した…という点だろうか。

 何せ自作で一人何役も演じるのがこの人お得意のスタイル。そこでこの映画では、彼の周囲を取り巻く人間に突然彼がなり代わったりする。そして彼らにそれぞれのセラーズ像を証言させるのだ。これは実に巧みな作戦だよね。つまりは…“目的=ピーター・セラーズの実像追求”“手段=ピーター・セラーズ映画の演技表現”とが、「ピーター・セラーズ」という一点でシンクロしている。「題材」と「表現」が見事に一致するという、映画の語り口としては最も良いカタチが取れているわけだ。

 そして作品全体がそんな「ピーター・セラーズ主演映画」…っぽい構成でつくられているので、何となく1960年代の娯楽映画へのオマージュめいても見えてくる。マジメにつくった「オースティン・パワーズ」とでも言おうか…そのへんも僕らのファン意識をくすぐってくれるんだよね。

 監督はスティーブン・ホプキンス…と聞いて、「えっ?」と驚いた人は少なくないんじゃないか? 僕はこの人って「プレデター2」(1990)とか、ジェフ・ブリッジスとトミー・リー・ジョーンズ主演のアクション映画「ブローン・アウェイ/復讐の序曲」(1994)、そして「ロスト・イン・スペース」(1998)…で記憶している人だからね。才気走ったところが感じられない…というより、どっちかというと凡作ばっかり撮ってる人って印象が強い。唯一意外だったのは、なぜかイギリス製作のオムニバス「チューブ・テイルズ」(1999)に参加していた事だろうか。どう見たってこの人浮いてるのに、何で参加したんだろう?…と不思議に思ったものだ。そのあたりから、この人の隠されていた部分が出てきたのだろうか?

 僕はひょっとしたら、それって脚本のクリストファー・トーマスとスティーブン・マクフィーリーのコンビのお手柄だったんじゃないかと思っている。…というか、そう思いたい(笑)。それと言うのも、このコンビって今ディズニーが制作中のC.S.ルイス原作「ナルニア国物語/ライオンと魔女」の脚本も手がけているから。「ナルニア」シリーズ・ファンの僕としては、この二人の脚本が優れている事を祈る気持ちで願いたいところだからね…どんなボンクラ監督が撮っても良い映画になるくらいに(笑)。

 ジェフリー・ラッシュの素晴らしさについては言うまでもないだろう。「セラーズにそっくりだからうまい」…などと乱暴な事を言うつもりなどないが、それにしたってよく似ている。よくよく見るとちっとも似ていない二人なのに、よくもここまで似せたものだ。しかも今回はセラーズが演じた数々のキャラクターまで演じてしまったのだからスゴイ。それまでもうまい人とは思っていたが、「これほど」とは思っていなかった。

 もっと素晴らしかったのがシャーリーズ・セロン。彼女が演じているセラーズの妻=ブリット・エクランドが、実に「感じ」を掴んでいるんだよね。実は見た目にはまるで「似ている」訳ではない。だけど、エクランドを知っている人なら誰しも、「あの感じ!」とうなってしまうはずだ。

 とはいえ、実はブリット・エクランドってそれほど素晴らしい女優でも有名女優でもない。セラーズの妻だったり、この後でロッド・スチュワートの妻になったりしたから名前だけは知られているものの、さほど傑出した作品があった訳でもない。まぁ、某エステのテレビCFに出てくるベッカムの女房みたいなものだ(笑)。いや…さすがにアレよりはマシかな。一緒にしたら可哀相かも。

 彼女の代表作と言えば何になるのだろう? ボンドガールを演じた「007/黄金銃を持つ男」(1974)って事になるのだろうか。でも、アレってビキニ姿以外は何の意味もない役だったしねぇ。憎たらしいクソガキになってサイコ化したマーク・レスターに、弱みを握られてハダカにされたりする若い義母を演じた「ナイト・チャイルド」(1971)あたりだろうか…。

 僕がエクランドの出演作で一番印象に残っているのは、閉鎖的な島を訪れた刑事の恐怖の体験を描く怪作「ウィッカーマン」(1973)にトドメを差す。カルト・ムービーの声も高いこの作品、何とも得体の知れない気色悪さに満ちた映画だが、エクランドがここで演じているのは島に住む娘。彼女が夜な夜な何とも奇妙なポーズでハダカ踊りを見せる場面があるのだが、これが一生忘れられないほどおかしくもコワイ場面なのだ。

 まぁ、出ている作品も作品だし、必ずハダカやビキニが付き物という事から見ても分かるように、典型的なB級女優のエクランド。だけど1970年代あたりの映画を見てきた者には、何となく気になるエッチな雰囲気を持った女優さんだったのだ(笑)。

 そんなエクランドを…シャーリーズ・セロンは実に見事にスクリーンに再現してくれた。ある意味で完全な肉体改造を行ったモンスター(2003)より、こっちの方が名演と言っていいんじゃないか? 何とも可愛らしく健気なエクランドを、セロンは自身の美しさを活かして好演。これは本当に見事と言っていいね。

 それにしても…セラーズにトゥマッチな演技…ことに「クルーゾー警部」に代表される演技ではなく、それらとは別に本来目指したかった演技の方向性があったというのは、何となく分からないでもない。そして彼のトラウマの原点に母親がいたというのも、この映画を見るまでは知らなかった事だがありがちな事でもあり、割とスンナリ受け入れられる結論だ。そこまでなら…この映画は面白いとは言え、特に傑出した作品と驚くこともなかっただろう。

 だが、そんな彼が自ら強迫観念の原点を見つめ直して演じた「チャンス」での役柄が、ずっと彼の母親の肥大したエゴに押しつぶされながら慎ましく生きてきた「父親」へと彼を導いていく…という展開には、正直言って鳥肌が立つほど感動させられた。何だかタマネギの皮を剥いて剥いて…剥き終わって最後に残った「核」みたいな気がした。それこそ「市民ケーン」(1941)での「バラのつぼみ」とでも言おうか。あまたある有名人の伝記映画でも、ここまで「言い切った」観のある作品は少ないからね。

 この映画での結論が正しいかどうかは、僕はセラーズ本人を知らないんだから分かる訳もない。だが、こういう人間像があり得る…という事は分かる。この映画にはそんな「実感」が備わっているのだ。それがあるから、この映画のセラーズは「人ごと」にはならない。

 自分もいつか、そんな「タマネギを剥き終わった核」を手にする事が出来たらいいと思っているからね

 

見た後の付け足し

 ここからは映画からちょっと離れてしまうかもしれないが、僕は今回のこの作品を見て…ずっと前から考え続けて来た事を思い起こされる気がした。

 つまり、「人はなぜ表現するのか?」ということだ。

 ピーター・セラーズは母から「絶対満足しない事」を強く教えられて、そのまま大きくなって一種の人格破綻者になった。だが、それが彼を偉大な俳優にもしていたのは間違いないだろう。

 「満足しない」というのは「妥協しない人」みたいで、何だかすごく良い意味に受け取れそうな気がする。だが、それって見方を変えると…「自分の現状を肯定出来ない」という事でもあるだろう。「今あるがまま」の自分を、自分で認められないという事ではないか。少なくとも、この映画ではセラーズをそう描いていた。それって無間地獄に等しい。生涯自分の「今の状態」を「良し」とは出来ない事なんだからね。

 実は、先に僕は「人はなぜ表現するのか?」…と言ったけれど、それとこの事は不可分に絡まっているように思う

 世の中には、絵でも写真でも彫刻でも文章でも作曲でも、踊りでも演技でも歌や演奏でも…とにかく「表現」しようという人々が大勢いる。

 だが…「表現」などしたいとも何とも思わない人間は、それよりももっともっと大勢いる。大半の人間は、そんな事をしたいとこれっぽっちも思わない。「表現」をしたがる人間は、ある意味で「それなしに生きられない」くらいの思いを持っているが、他の人間にとってはそれってまったく必要のないモノでもあるのだ。この落差の大きさは、一体どこから来るのだろうか?

 僕は昔から、これって「自分を肯定出来る」「自分の今の状態で満足できる」…か否かってところが違いなんじゃないかと思ってきたんだよね。

 だってそれって、才能のあるなしは関係ない。どんなヘボな奴でも「表現してしまう」人間はどうしようもなく表現してしまう。逆に文章がうまかろうと何だろうと、それに喜びを見いださない奴もゴマンといる。うまい下手の問題ではないんだよね。まぁ、「好きこそモノの…」って世界はあるから、「表現をしてしまう」人間の方がうまくなる確率は高い。だが、それって必ずという訳ではないのだ。

 僕は宇多田ヒカルって好きでも何でもないし、別に才能があるとも思わない。だけど彼女が昔雑誌のインタビューか何かで発言した言葉は、今でもハッキリ覚えている。彼女はこう明言したんだよね。「自分が幸せだったら、曲なんてつくらない」

 あるいはフランソワ・トリュフォーの生前のエピソードを思い出すこともある。耐え難い頭痛に襲われていたトリュフォーは、それでも医者に行ってその痛みを取り除こうとは思わなかったというのだ。トリュフォーは、その「痛み」こそが自分の創作力の源泉だと信じていたんだよね。

 今の自分が好きになれない、幸せではない、何らかの「痛み」を抱えている、「これでいい」とは思えない…つまりは「満足出来ない」。それが創作の原動力なのではないか…という長年の僕の考えに、この映画はまたしても確信を加えてくれたような気がする。

 僕だって自分が「若大将シリーズ」の主人公みたいな人間だったら、こんな下手な文章を並べていやしないだろう。おそらく主役をやっていた加山雄三だってそうなんじゃないか? 彼が本当に「若大将」だったら、「若大将」なんかやってるわけもないだろう。

 で、それってちっとも幸せじゃない

 この映画のラストは、その意味でも象徴的だ。セラーズは「チャンス」の役柄が、自分に欠けている「何か」をもたらしてくれるものと本能的に知っていた。自分に満足できず、自分を否定し、自分以外の何者かになり続けたセラーズは、結局自分がない…がらんどうな人間になりつつあった。だが、セラーズがそれに苦痛を感じていたというのは…結局は「がらんどうな自分」をも肯定出来なかったからなんだろう。

 「チャンス」の彼の役柄は、徹底的な「無垢」。つまりは純度100パーセントで「何もない」人間だ。そして…それを完璧に演じるということは、セラーズにとって初めて自らの「がらんどう」さに実体を持たせるという事にはならないだろうか。自分をどうしても肯定出来なかった彼は、それでも自分が演じた役だけは肯定出来た。だから「がらんどう」な男を演じる事によって、「がらんどう」な自分を認める事が出来たはずだ。

 「チャンス」の原題名は「Being There」…すなわち「そこにいること」…だ。この映画の主人公は、「そこにいる」というだけの人物でしかない。にも関わらず、この映画ではそれが「絶対の無垢」として肯定されるのだ。

 だから…実際のセラーズはどうか知らないが、少なくともこの映画に描かれたセラーズは…そこで初めて自分に「満足」を感じられたはずだ。それは同時に、彼に演技の面での「完全燃焼」をもたらしただろう。彼はもう演じる必要がない、「表現」をする必要がない…なぜなら、彼はもう「満足」出来たのだから。その後、まるで燃え尽きたようにセラーズが世を去るという事実は、とても象徴的だ。

 そんな「満足」を、僕もこの目で見てみたい

 大した才能も能力もない人間には、苦痛があるだけだ。早くラクになりたい。それが「幸せ」というものならば…。

 

 

 

 

 

 

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