「赤いアモーレ」

  Non ti muovere (Don't Move)

 (2005/01/31)


見る前の予想

 お正月第二弾映画の候補作の中にこの映画を見つけたのは、昨年の8月頃のことだったか。

 まずは、イタリア映画というだけで珍しい。東京は世界有数の映画上映本数を誇る街なのに、何とフェリーニやヴィスコンティやアントニオーニやベルトルッチの国、マルチェロ・マストロヤンニやソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレやピエトロ・ジェルミやステファニア・サンドレッリの国、ジュリアーノ・ジェンマやフランコ・ネロやセルジオ・レオーネの国、ヴィットリオ・ガスマンやウーゴ・トニャッツィやエットーレ・スコラの国、ジャンカルロ・ジャンニーニとリナ・ウェルトミューラーの国、リリアーナ・カヴァーニやらナンニ・モレッティやらタヴィアーニ兄弟の国…巨大なチネチッタ撮影所を誇るかつての映画大国イタリアの映画は、ほとんど公開されていないのだ…。公開されるのは「韓流」ばかりなり…って事にケチをつけるつもりはないが、一方でこのイタリア映画の無視されっぱなしってのは寂しすぎるよね。イタリアだけではない。ヨーロッパ映画の無視のされ方ってスゴくはないか。さらに言うなら、近年香港映画だってあまり公開されない。香港だけでなく中国語圏の映画全体が冷遇されっぱなしだ。

 アメリカ映画が多いのはいつもの事だが、今はかつてより本数が激増している。アメリカ映画だけではこの本数にはなるまい。

 では、一体どこの映画が入ってきているのだ?

 本当に分からない。世界有数の上映本数って、一体どこの国の映画が入ってきているんだろう? ナゾだとしか言いようがない。

 閑話休題。ともかく珍しやイタリア映画。ところが…なぜかスペインのペネロペ・クルス主演作ではないか。スペインとイタリアはどこか似たようなテイストを感じないでもないが、それでも全く違う。つい最近ハリウッド上陸を果たしたばかりのペネロペ・クルスが、今度はイタリア映画に登場するのか?

 ただペネロペってハリウッド映画じゃ全然いいと思わなかったけれど、久々ヨーロッパ映画に戻ってウェルカム!ヘヴン(2001)に出てみると、作品的にはイマイチでも彼女だけは光っていた。ハリウッドでもゴシカ(2003)は珍しく良かったな…と思ったら、フランスのマチュー・カソヴィッツの監督だった。こりゃよくよくペネロペって人は、ヨーロッパの水の方が合ってるんじゃないか。

 だとすると、スペインとイタリアの違いこそあれ、この映画の彼女は期待出来るかもしれない

 タイトルは「赤いアモーレ」。何が何だか分からない題名。それでも何となく僕はこの映画に惹かれたんだよね。

 

あらすじ

 冷たい雨が降り続くある日のこと、街の交差点のど真ん中でバイク事故が起きる。路面に投げ出されたのは一人の少女だ。彼女は間もなく救急病院へとかつぎ込まれる。血まみれの彼女は、頭部に重大な損傷を受けているようだ。担当医の一人の女医が少女の身元を調べるべく持ち物を探っているうち、何かに気づいて表情がみるみるうちに変わる。この女医は慌てて病院内を駆け回ると、ある医師を見つけて呼び止めた。

 この医師は外科医のセルジオ・カステリット。事故にあった少女は、彼の娘であるエレナ・ペリーノ。たまたま彼女は父親の勤める病院に収容されたのだ。

 血相を変えて手術室にやって来たカステリット医師。手術を担当する主治医も知り合いだ。淡々と状況を語る主治医だが、カステリットとて素人ではない。娘の今の状態が、分からない訳ではないのだ。

 「君は、娘が助からないと思っているな?」

 だがこの場合は、いくら医師とは言えカステリットにも出来る事は何もない。隣の控え室にいて、固唾をのんで見守る事以外ない。

 窓の外では相変わらず冷たい雨がしとしと降っていた。ところがカステリット医師が窓の外を見ていると、一人の女が椅子を引きずって歩いている…。

 この女、外は雨が降っているにも関わらず、傘もささずに歩いている。しかもオモテのど真ん中にドンと椅子を置いたかと思うと、雨ざらしの中で椅子に座り平然としているではないか

 終始カステリットの側に背を向けたままのこの女、しかしカステリットには誰だかすぐに分かった。椅子に引っかけたカラフルなパッチワークのバッグに見覚えがあったし、そうでもなくても彼女の事を片時も忘れた事はなかったからだ

 愕然として思わず窓から顔を背けてしまうカステリット。だが彼が再び振り返った時、その思いは一気に15年前へと遡っていた…。

 

 それはジリジリと日差しが照りつける、真夏の焼け付くような真っ昼間のこと。クルマがエンコしたカステリット医師は、ヨレヨレになりながら近くのバーにやって来る。自動車修理工を捜していた彼は、たまたまバーにいた一人の女に案内してもらう事にした。カラフルなパッチワークのバッグを肩から下げたその女…身なりも貧しく下品でケバケバしい化粧を塗りたくったその女こそ、カステリットにとって「ここで会ったが百年目」の女、ペネロペ・クルスだった。

 クルスに連れて行ってもらった自動車修理工は、生憎と留守だった。仕方なく電話をかけたいと言うと、彼女はカステリットを自宅まで案内する。その自宅たるや…建設途中で工事中断したがらんどうな巨大団地群に、周囲三方を囲まれたオンボロの家。おそらくはこの家一軒が立ち退かなかったが故に、団地建設も滞ってしまったのであろう。だが家はガタガタで窓はビニールで塞いでいる始末。クルスがおよそ荒んだ暮らしをしている事が伺えようというものだ。

 カステリットがそんなクルスの家から電話したのは、まるで同じ地球上にあるとは思えない海辺の豪華な自宅。だがこれまた生憎と、電話には誰も出てくれない。

 最初のバーに戻ったカステリットは、あまりの暑さに冷えたウォッカを注文。ちょっとした病に悩むバーテンの相談に乗ってやったお礼に、欲しくもなかったウォッカのお代わりが来て、これまたキュッと一杯。留守だった自動車修理工が戻ってきたので、またまた炎天下に出て自分のクルマまで連れて行く。

 暑い、熱い、アツイ…。太陽の暑さだか、ウォッカで焼けたカラダの熱さだか分からない。

 再びカステリットは、あのケバい女クルスの家にやって来た。また電話を貸してくれ…と頼みに来たのだが、実はそれは口実に過ぎないと自分でも気づいていなかった。

 気づいた時には…半ば廃屋のクルスの家の中で、力無く拒む女を無理矢理犯していた

 そそくさとクルスの家から飛び出したカステリットは、何食わぬ顔で自宅へと戻る。そこには美しく知的で上品な彼の妻クアウディア・ジェリーニが待っていた。水着に着替えて楽しげに海で遊ぶ妻ジェリーニを見守るカステリットだが、彼が足下の砂浜に大きく字を書いていた事を妻は気づいていなかった。

 「私は女を犯した」

 それから間もなく、カステリットは再び団地の廃墟へと舞い戻っていた。そしてあのクルスの前に、「謝りたい」と言って姿を見せるカステリット。だが何のことはない。また彼女の家に上がり込んで、またしても彼女のカラダを激しく犯すだけだ。カステリットが去っていった後、そこに何枚かの紙幣が置いてある事にクルスは気づいた…。

 こうして気が向いた時にフラリとクルスのボロ家に現れては、事が済んだらそのまま帰っていくカステリット。なぜにこの女に入り浸っているのか自分でも分からない。自分でも分からないしそれ以上深入りしたくない。ところがそう思ってはいても、なぜかいつの間にかクルスの手料理を食べるようになったりして、思いの外深入りしてしまっているカステリット。自分の劣情を満たすためのセックスだけの関係…と決めつけていたのに、なぜかいつの間にか「人と人との心のふれあい」を持ってしまう。最初は暴力そのものの交情が、いつの間にか愛の行為と化していくのを、カステリットも認めざるを得なかった。

 そしてそんなカステリットを拒もうともせず、怒りもせず達観したように受け入れていくクルスという女…。

 なぜカステリットはこの住む世界も何もかも違う粗野で貧しい女に惹かれたのか? なぜクルスはこのカステリットの身勝手で一方的な関係を拒まなかったのか?

 カステリットには、幼い頃のトラウマがある。ある日突然、父親が夕食の食卓で怒鳴った。こんな毎日も家も女房も、その女房がつくったスパゲッティもたくさんだ! その夜、父親は家を出て、二度と戻ってこなかった…。その身勝手で貧しく粗野な、心の荒んだ男の血…忌み嫌うべきそんな男とは逆の、知的で誠実な男として優雅で豊かな暮らしを手に入れたカステリット。だがその内面には、忌まわしい父の「男の血」がざわざわと騒ぎ続けていた。そんな彼の隠していた内面が、貧しく下品な女クルスに本能的に噴き出してしまったのか?

 クルスもまた悲しい過去を持った女だった。幼い頃、きれいな服を見とれているうちに男に犯された。しかもその男は…実の父親だった。今、彼女が何をして暮らしているのか、カステリットは分からない。おそらく学歴も資格もなく、ろくな職にも就けずにいるのだろう。カラダを売って暮らしているやもしれぬ。そんなクルスは…しかしその心の奥底で、自分と同じ血をカステリットが持っていると見破ってしまったのではないか。どんなによそよそしく身勝手に振る舞っても、クルスとは違う世界に住んでいる素振りを見せつけても、「お里が知れている」のはミエミエ。そしてその苦しみ痛みも分かっている。そんなクルスには、カステリットを拒む事が出来なかったのではないか?

 これ以上クルスに深入りしないためにも…と思ったのか、カステリットは妻ジェリーニに子供をつくるように提案する。だが知的で上品で美しい妻は、もとより子供などつくる気がなかった。こうしてズブズブとクルスに深入りしていくカステリット。何と学会への出張にも秘かに彼女を同行させて、ホテルの部屋で肉欲に溺れる二人だ。

 そんな折りもおり、クルスは妊娠してしまった。

 さすがに冷水を浴びせられるような思いのカステリットは、事ここに及んで理性を取り戻した。これはマズイ。何とか「処置」しなければ…。

 友人の医師に堕胎してもらう手配をして、クルスを病院まで見送ったカステリットだが…フラフラとハイヒールをグラつかせながら不安そうに歩く彼女を見た時…。

 いや、ダメだ! そんな事は出来ない!

 結局カステリットはそこまで非情になりきれない。慌ててクルスを止めて、「子供を産んでくれ」と頼むカステリットだった。

 それからは二人の短い「蜜月の時」。心の平穏をクルスに見いだしたカステリットは、いつしかジェリーニと離婚して、クルスと暮らそうと思うようになった。「今夜、妻に別れようと言う」…そう言って、クルスのボロ家を後にしたカステリットだったのだが…。

 自宅で妻ジェリーニを待っていたカステリットは、彼女がヤケに上機嫌で戻ってきたのに驚いた。それでも言うべき事を言おうと身構えたカステリット。だがジェリーニが次に放った言葉には、思わず凍り付かずにはいられなかった。

 「私、妊娠したの…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

見た後での感想

 まずこの映画、知的で誠実そうに見える主人公が、まるっきり似合ってない貧しく下品な女をいきなり犯してしまうあたりで、「こりゃついていけない」と退いてしまう人もいるんじゃないだろうか。

 正直言ってあまりに唐突だし、何しろ行為が行為だから「共感しかねる」と思う人がいても当然。特に女性の中には、「冗談じゃない」と怒り心頭の人も出てくるのではないか。そういう人がいたとしても、僕は「分かってないな」とは思わないよ。そう思う人がいてもおかしくないと思う。そりゃそうだろう。

 特に女性の場合には、主人公のとった暴力的な行為もさる事ながら、それをロクに拒まずズブズブにハマっていくヒロインにこそ、耐え難いものを感じてしまうかもしれない。男の身勝手かつ暴力的な行為を、ただ責めないだけでなく受け入れて「愛人」になってしまう。女性側からすると、それじゃあ「強姦も和姦に変わる事がある」とか「イヤよイヤよも好きのうち」とか、性犯罪者のテメエ勝手な主張を肯定するようなモノではないか…と頭に来るかもしれない。それも当然だと思う。

 この映画の原作小説が女性作家の手によるものでなければ、実際このお話は受け入れがたいモノになったんじゃないかと思うよ。そして幸運にも、原作者マルガレート・マッツァンティーニを公私ともに理解した存在…彼女の夫がこの小説を映画にしたから抵抗も少なかった。この映画の監督・主演を手がけたセルジオ・カステリットこそが、彼女の夫だ。

 まぁ、そんな訳で映画が始まってのっけから見る人を選別してしまうような映画だ。事実、僕も「ええっ」とちょっと腰が退きかけた。それがギリギリのところで踏みとどまったのは、「強姦」というヤバい行為をやった主役の男が、どことなく誠実さと好感を感じさせる俳優カステリットだったから…という事もあっただろうね。

 先にも述べた通り、いまやわが国でのイタリア映画の現状はお寒い限り。何がどうなってるのかまったく分からない。新しい映画作家もスターも伝わって来ない。たまに東京で「イタリア映画祭」なんてモノが開かれても、知らない役者と知らない監督の作品ばかりで見たいという気にならない。もうこうなると「ニワトリが先かタマゴが先か」だ。やっぱりコンスタントにある程度の作品数は公開されないとマズイんだよね。

 だがそんな中でも、僕はかろうじてセルジオ・カステリットの名だけは知っていた

 後々になって調べてみると、エットーレ・スコラの「ラ・ファミリア」(1987)、リュック・ベッソンの「グレート・ブルー」(1988)、マルガレーテ・フォン・トロッタの「三人姉妹」(1988)、さらにはイザベル・アジャーニ主演の「可愛いだけじゃダメかしら」(1993)やジュゼッペ・トルナトーレの「明日を夢見て」(1995)などでもお目にかかっていた。その中で僕がハッキリ覚えているのは、何と言っても「明日を夢見て」のインチキ映画製作者の役柄だろうか。この映画はいろいろ問題の多いトルナトーレ映画の中でも、結構僕が気に入っている方の作品だ。

 だが何と言っても、僕にとってセルジオ・カステリットという役者は「かぼちゃ大王」(1993)の主演で忘れがたい存在となった。「かぼちゃ大王」は心の病を患っている女の子を救おうと、彼女と心を通わすようになる小児精神科医の物語だ。そこで主人公の精神科医を演じていたのが、お察しの通りこのセルジオ・カステリット。この時の優しそうで誠実そうなイメージ、さらに「医者」というポジション…今回の「赤いアモーレ」でのカステリットは、僕にとっては「かぼちゃ大王」の彼のイメージをそのまま踏襲したかのようだ。

 そんな彼が映画が始まっていきなり強姦してしまうのだから、衝撃もあるし腰も退けるのだが…まぁ彼がやっているからこそ、ギリギリのところで「性的異常者」「卑劣漢」と一発で唾棄される事だけは免れる。そういう描き方そのものが気に入らない(そもそも「強姦男」など一切肯定出来ようがない)…という向きがあることは重々承知しながらも、そしてそう思うのは無理もないどころか当然と十分認識しながらも…ここでは「それでも観客にとって理解の余地のある人物」と描きたいがゆえの、「誠実そう」なセルジオ・カステリット登板だということが察せられるのだ。つまりはこの場面のこの人物のこの行為を「道徳的」にどう思うか…は一応保留して、この人物を「自分たちの理解の範疇の人間」として見よう…という、この映画の「ゲームのルール」を提示しているのがセルジオ・カステリットの出演だろう。あくまで「肯定」などしてはいないが、その人物への「観察」は続けていく…というのがこの映画の態度だ。そしてそんな姿勢は、この後ずっと映画を見ていけば明らかになっていく。

 まずはカミュの「異邦人」での主人公の殺人のごとく、「暑かったから」「ウォッカが効いたから」…というような、一種衝動的な女との交情に及んだ主人公。興味深いのは、主人公とヒロインの明らかにミエミエな相違点だ。片やクルマはボルボ、外科医として知的で人に認められてカネもある、妻はキャリアウーマンで品があって美しい、主人公本人も育ちの良さそうな品の良さだ。一方ヒロインはボロ家住まい、見るからに貧しく無教養、下品で身持ちが悪く汚らしい。どう考えても合わない二人だ。

 そんな二人なのに、主人公に思わずヒロインを犯させ、しかもその後も切れずにズルズルと関係を続けさせていたものは何か? それは自らの中に流れる「汚れた男の血」だ。

 幼い頃に自分と母親を捨てた、身勝手で粗野な父親。それによって母子の生活は貧困のどん底に落ちもしたろう。母は泣いただろうし、悲惨な状況に陥りもした。主人公はそんな父親を恨みに恨んだに違いない。

 彼が知的な職業に就いたのも、そんなデリカシー・ゼロの父とは違うところを見せたかったからだ。豊かな生活を築いたのも、父によってもたらされた貧困への怒りと豊かさへの渇望のゆえ、そんな父を見返したかったからだ。キャリアウーマンの妻を得たのも、身勝手に母を苦しめた父と違って自分は女性の地位や立場に理解がある男と証明したかったからだ。

 だが…反発し否定しても、否定しきれない「忌まわしき父親の血」

 実はそれって、僕は「主人公の父親」の…というより「男」すべてが持つ共通の忌まわしさだと思っているのだが、ともかくそれをずっと隠し続けてきた主人公は、思いっ切り貧しく汚らしいヒロインを見つけるや否や、それを一気に噴出させてしまう。そんな本人もどうにも出来ないくらい、やむにやまれぬ衝動として描かれたのが「強姦」という行為なのだとここは理解したい。

 他にもそんな主人公の隠れた一面は、暮らしの中でもそこかしこに出てくる。妻の実家でいきなり衝動的に飼い犬をいたぶる、歪んだ暴力衝動。妻に挑みかかっていくセックスも、とてもじゃないが「愛の行為」というアリサマではない。それと「強姦」とどこが違うのだ。何かムチャクチャにしたい、自分の好き勝手にしたい、自分に覆い被さってくるすべてをウッチャリたい、鬱屈する思いを暴力で発散したい、言葉ではもどかしいから手を出して解決したい…それはすべての「男」に抜き去りがたい、忌まわしき衝動なのだ。

 ここで「だから男は…」と単細胞なフェミニストたちにアレコレと言われるのは我慢ならない(笑)が、そういう衝動が「男」の根本にある事を認めるぐらいのわずかながらのフェアな気持ちはまだある。それは実際のところ、「男」本来のサガだ。自分は違うと言う男がいたら、そいつはウソつきだ(笑)。もちろん僕は、ここでミエミエに「女の方が偉いですよね」「女には敵いませんね」などと媚びを売りながら実は女を見下している、性根がズルい男たちにも与したくはない。男なら男らしく、ここは「男」の汚さを認めたい。ついでに…実のところ「本音」では開き直りたい。

 主人公がヒロインにそれをブチまけてしまうのは、ヒロインに自分と同じ「忌まわしさ」「みじめさ」の臭いを嗅いだからではないか。片や「加害者」の性、片や「被害者」の性ではあっても、二人は互いに似たようなシチュエーションを体験していた。その体験が、身に染みついて消えないとも自覚していた。相手がそれに人知れず苦しんで来た事も即座に理解した。主人公が自分の一種の「甘え」をブチまけられるのも、彼女がそれを受け入れてしまうのも、お互い同じ土俵の上の人間と瞬間的に察知したからだ。「ここで会ったが百年目」の相手だったのだ。

 で、そんな「ここで会ったが百年目」のヒロインを演じるのが、問題のペネロペ・クルス。スペイン人の彼女がイタリア語をマスターしたとか、そんな話は正直言って日本人の僕には分からない。だがこの映画での彼女の、まるで画面から臭ってくるかのような「汚れ」の表現には驚かされた。身に染みついてこびりついて取れないような「汚れ」。生まれついてからずっと、自然と漂ってくるような「品の悪さ」。モンスターシャーリーズ・セロンもスゴかったが、あれが見事な肉体改造の結果だとすると、こっちはまるで「地」を出しただけのようなスゴさ(笑)。スターとしてここまでやっちゃマズイんじゃないかと思わされる、究極の「汚れ役」だ。これには正直言って驚いたよ。

 それから後に続くズルズルは、正直言ってあまりビックリするような展開でもない。割と定石の展開で、特に卓抜しているという訳でもない。だが、何とも言えないショッパイ味があって捨てがたいのだ。それはさすがに成瀬巳喜男の「浮雲」(1955)ほどではないものの、それらに共通するような「やるせなさ」とでも言えばいいだろうか。

 そして何より痛いのが…男なら誰でも持つであろう「男」という性への忌まわしい思い。その苦みこそが、どうにも人ごとには思えないのだ。

 

見た後の付け足し

 「男」をやっている者なら誰でも分かると思うが、男ほど女々しいものはない。「男」は元々が女々しいからこそ、「男らしさ」という看板をかけずにはいられない。あの看板があればこそ、男はイヤイヤながら無理矢理「男らしく」振る舞う事が出来るのだ。

 この映画の主人公が、徹頭徹尾テメエの身勝手、暴力衝動や性欲、「とにかく欲しい」「やりたい」「義務や責任からは逃げ出したい」「他人に抑えつけられずに思い通りしたい」「相手を支配したいけど支配されたくはない」…のムチャクチャな思いだけでとってしまう、まるっきり理屈が通ってない幼稚で衝動的言動も、それを何とか誤魔化して帳尻を合わせようとする往生際の悪さやズルさも…それこそが「男」そのものだ。カッとなったら四の五の言わずに手を出したり、何もかもうっちゃらかしてケツまくりたくなるところを、理性と法律と道徳心と世間体と保身と自分の流儀で何とか抑えている。「男」とはそんな生き物なのだ。どうだ、文句があるか?

 文句あるよね。それでいいわけがない。申し訳ない(笑)。

 そしてもっとマズイ事に、なまじっか中途半端にイイ子になって相手を思いやってやろうかとたまに思ったりするからこそ、かえってキズが深くなるのも「男」ならでは。性欲と居心地の良さだけで抱いたはずの女に情が湧くと、後先考えずに「一緒に暮らそうかな」なんて言ってしまう。だがそもそもこの男に、世間体やら生活レベルやらを無視したそこまで思い切った行動が起こせるか疑問だ。案の定女房に子供が出来るや、「離婚しよう」なんて言えなくなる。どっちにもいい顔してしまう。でも、それも相手をキズつけたくない一心。とは言え、そんな事やっていればドツボになるのはガキだって分かる。ところが「男」とはガキ以下の脳味噌を持つ生き物なのだ。

 いやいや…少々キツく言えば、女をキズつけたくないと言うより、バレて女に罵倒されたり泣かれたりするのがイヤなだけかもしれない。うるさく言われるのがイヤなのかもしれない。本当に相手の事を考えれば、あんな「先送り」になんかしないだろう。「先送り」にするのは、もうちょっとだけでも自分が目先のイイ思いを味わいたいからだ。もうちょっとだけでいいから、この女の機嫌をとって甘くオイシイ思いをしたい…。

 それは僕にだって覚えがある。

 物理的にも精神的にもこの女と一緒にやっていく事は無理だ、自分の世界も女の世界もお互い相容れないモノとハッキリ分かっていた。もうどうにもならない、先がない関係と自分では分かっていた。それなのに…すべて結論を先送りにした。この先どうするつもりなのか、女は僕の確固たる考えが聞きたかったはずなのに、それをあえて忘れたフリをして結論を出さなかった。あたかも別の結論があるかのごとく振る舞った。それは相手が待ちきれなくなるまで出来るだけ長く結論を引き延ばして、その間少しでも長く「イイ思い」を貪りたかったからだ。すべては自分の目先の損得のため…。

 しかも相手がついに待ちきれなくなって結論が出てしまったというのに、それでも女を自由にしてやらなかった。その時はハッキリ言って女も女だったし腹も立ったが、女が何をやろうと考えてようとこの際関係はなかろう。結局はいつも徹頭徹尾自分のことしか考えていない…何と鼻がつぶれてしまいそうなほどの腐臭漂う、醜く歪んで薄汚れたこのオレ。

 「男」…何と汚く卑怯で器の小さい生き物

 いささか俗っぽく手垢がついたお話ではある。だから良く出来ているともすごく面白いとも思わないながらも、この映画は…少なくとも「男」である僕にとって妙に忘れがたい印象を残す

 それは…女の前で素直に非を認めるなんて冗談じゃない、謝るなんてまっぴらごめん、向こうにへりくだるつもりなんてサラサラないし、ましてゴチャゴチャ言われるのが死ぬほどキライではあるものの…たまには自らの「忌まわしさ」「汚さ」「醜さ」「至らなさ」「ダメさ加減」をコッソリ女に悟られないように詫びたいという、「男」の中にほんのわずかながら痕跡のように残った「良心のカケラ」のせいかもしれないね(笑)。

 

 

 

 

 

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