「酔画仙」

  Chihwaseon - Printed Fire

 (2005/01/31)


  

見る前の予想

 イム・グォンテク監督…と来れば、韓国映画の巨匠である。その巨匠の作品がやって来る。上映するのは「岩波ホール」…。それを聞いて、何とも複雑な心境にならざるを得ない僕だったんだよね。

 いろいろ素晴らしい映画を上映してくれる映画館であり、ケチをつける余地もないミニシアターの元祖「岩波ホール」。随分お世話にもなったし、ここがあったおかげで見れた映画も数知れず…。だが僕には、あの映画館の学校やら図書館やら研究所みたいな佇まいは少々敷居が高すぎる。

 ここからはいささか無茶な言いがかりと片付けてもらっていいが、僕の正直な本音でもある。大体、何であんなにお高くすました雰囲気を持たねばならないのだろう。自分たちの上映している映画は世間で出回っている下賤なシロモノとは違うのだ…と言わんばかりの態度(実際にここで上映される映画のパンフレットには、このようなニュアンスの言葉が書かれている事もしばしばだ)は、僕には逆にいささか下品な態度に感じられる。「教養」や「芸術」などという言葉を恥ずかしげもなく振り回す態度も何となく見苦しくて、本当に「教養」ある人間の態度とはにわかに考えにくい(笑)。本来、「教養人」とはもっと自らに「照れ」ってものを持っているものだろう。そして抜き去りがたい「権威」主義。どうもそのへんの高飛車な態度の漂い方が、僕には引っかかって仕方ないのだ。

 翻ってイム・グォンテクという監督は、韓国映画ニューウェーブの時代から頭角を現しながら、ニューウェーブが廃れても生き残って来た人だ。そもそもそのキャリアはニューウェーブはるか以前に遡る。

 語るべき作品も多く、修行僧たちのお話「曼陀羅」(1981)や韓国映画を初めて世界的に評価させた「シバジ」(1986)や「ハラギャティ」(1989)、南北分断の悲劇を見つめた「キルソドム」(1985)や物欲の世に生きる無垢な娘を描く「アダダ」(1987)…などなど。その作風は誠実にして崇高…ことに近年は「巨匠」としての風格がいやが上にも増して…朝鮮戦争に翻弄される人々を描く大作太白山脈(1994)、韓国でのお葬式の風習を扱った「祝祭」(1996)の他、「風の丘を越えて/西便制」(1993)と春香伝(2000)では朝鮮の民族的伝統芸能パンソリに材を取った映画づくり。いずれも見事な出来映えだったんだよね。

 で、確かに文句のつけようもなかったし…どれもこれも立派は立派なんだけど、近年は何だか韓国の「国民的映画監督」みたいな感じがしてきて、それはそれでちょっと敷居が高くなっちゃったかなぁ…と思い始めていたんだよね。ここんとこの映画って、どれも何となく「骨董品」めいて見えていたからね。まぁ見ている側は勝手なものなんだけど、それはそれで正直な印象なわけ。

 イケメン・スターが女にモッテモテって映画やら、やたら恋人が病気や事故で死ぬ映画ばっかも困ったもんだけど(笑)…あまりごリッパ過ぎるのもねぇ…。

 今回のイム・グォンテク新作の「岩波ホール」上映は、だから「ついに来るべきものが来たか」…って感じがあったんだよね。いよいよこの人の映画はここまでリッパになっちゃったのか…って。それじゃあもはやシモジモの僕らのところなんかに降りて来てくれやしないよね。

 だが何と言っても韓国映画をここまで牽引してきた監督だ。それに…正直言って小ジャレた「韓流」映画にもいささかウンザリし始めた。少しは骨のある映画を見たい。しかも今回のキャストはいつにも増して豪華キャストではないか。

 例えいささか敷居が高くとも、これを見ないでいる手はない。仕方なく「敵地」の「岩波ホール」まで出向いて行ったわけ。

 

あらすじ

 半紙の上を筆が滑っていくと、そこに墨の濃淡によって絶妙な絵が生まれていく。

 絵を描いているのは張承業=チャン・スンオプ(チェ・ミンシク)なる画家だ。一心不乱に筆を走らせる彼の様子を、周りを取り囲む紳士たちが固唾をのんで見守る。描くと思えば傍らに控える女から酒を受け取ってグイグイ引っかけ、飲むと思えばまたまた筆を取って墨を紙一杯に叩き付ける。その取り憑かれたような様子に、一同は息をのまざるを得ない。そうして描き上がった絵には、集まった一同の誰もが目を見張った。「様式的かと思えば型破り、型破りかと思えば様式的だ」

 そんな賞賛の言葉にも、スンオプは不敵に笑うだけ。「オレの絵を語るのに様式を持ち出すな」

 だが、そんなスンオプを不愉快に思う者もいる。そんな連中の嘲りの言葉はいつも同じだ。「フン、卑しい出の者のくせに!」

 そんな言葉を背に浴びせながらも、スンオプは気にせずにその場を立ち去った。所詮、賞賛も罵倒も大した意味はないのだ。オノレの絵の価値は、オノレが一番良く分かっている。

 時は1882年、場所は漢陽(今のソウル)の街。国内は王制の腐敗とそれを不満を持つ勢力、さらに国内の乱れに乗じての介入を虎視眈々と狙う日本や清の動きもあって、一触即発の穏やかならぬ雰囲気が漂っていた。当然のことながら人心は荒廃し、みなどこか浮き足だっているように見えた。そんな時代と世の中を、スンオプは生きていた。

 さてスンオプは、今度は日本の新聞記者の前に通される。この日本人は彼の絵を褒め称え、自分にも描いてもらいたいと語る。だがスンオプは気があるんだかないんだか。そんな彼に日本人記者は、ある質問を投げかけた。「失礼ながら、先生は卑しい生まれの出だと聞きましたが…」

 その通り。彼は決して恵まれた生まれ育ちをしていない。それを語るにはこの時から30年ほど遡らねばならない。

 ある日のこと、薄汚いオヤジからボコボコにされている一人の貧しい子供がいた。通りかかった紳士があまりのひどさに見かねて止めたが、この子供は一枚の絵を握りしめていた。その幼いながらも見事なこと…我流で描いた絵に驚かされた紳士はこの子供を家に連れてきてメシを食わせたが、しばらくするとこの子供は自分から家を出ていった。おそらくこの家は彼を養うほど豊かではないと察して…。

 その幼い子供がスンオプ、そして紳士は開化派の学者キム・ビョンムン(アン・ソンギ)。それがその後何十年にも及ぶ、二人の最初の出会いであった。

 それから数年して、ビョンムンは画材屋で働くスンオプとバッタリ出会う。もう少年に育っていたスンオプを、通訳官のイ・ウンホン(ハン・ミョング)の屋敷へ連れて行くビョンムン。それは、教養人であるウンホンの家の下男として働きながら絵の勉強が出来るように…というビョンムンの計らいだった。

 だが他の下男たちは、何かと絵の練習をしているスンオプが気に入らない。夜に乗じて袋叩きにするなど陰湿なイジメも繰り返される。それでも何とかその屋敷での務めを続けていたのは、彼なりの理由があったからだ。

 それは、通訳官ウンホンの妹ソウン(ソン・イェジン)。生まれつきカラダが弱いというこの娘は、美しく清らかで、どこか儚げでもあった。そんな彼女を、スンオプは遠目に見ている事しか出来ない。それでも彼はソウンに深く惹かれていた。ある時など、絵を描いているところをソウンに声をかけられ、スンオプの胸がときめく。だが、それが彼と彼女の唯一の関わりとなってしまった。

 やがてソウンに縁談が持ち上がり、彼女は嫁に行ってしまった。もはやスンオプは何も描く気がしない。ところがその頃、スンオプの描いた模写が通訳官ウンホンの目に留まる。何とこれらの模写は、ウンホンが所蔵する絵をたった一回盗み見ただけで描いたというのだ。その正確さと生々しさに、一同は目を見張る。だが、スンオプにはもはやこの屋敷に用事がなかった。

 やがて野に下って模写画で食うようになったスンオプだが、そんな彼の才能を惜しんだ通訳官のウンホンは、彼を大家のヘサン先生の屋敷へと連れて行く。こうしてスンオプは、ヘサン先生の多くの弟子たちと共に絵を勉強する事になった。

 こうして弟子たちと共に芸術談義をしながら、毎日精進し切磋琢磨するスンオプ。そんな折りに出会ったキーセンのメヒャン(ユ・ホジョン)と、スンオプは自然な成り行きで結ばれる事になった。

 だが好事魔多し。王によるキリスト教大弾圧のおかげで、キリスト教徒たちが多数虐殺される。クリスチャンだったメヒャンの身を案じるスンオプだったが、彼女の姿はついに見つける事が出来なかった。

 そして初恋の人ソウンとの再会。いよいよ病状重くなってきた彼女は婚家から帰され、あの通訳官ウンホンの家で養生していたのだ。ソウンから呼ばれて病床に駆けつけたスンオプは、彼女のために絵を描く事を頼まれる。それは彼女からスンオプへの最後の頼みだった。

 愛する者たちとの別れ…やるせない想いを抱きながら悶々とするスンオプ。

 ある日、勉強のためとビョンムンに呼び出されたスンオプは、ある文化人の元に連れて行かれる。身分も高く学もあるし目利きと自認するこの男は、秘蔵の絵を見せながらあからさまにスンオプを見下した態度をとる。「絵がうまいからじゃダメだ、学と品格がなければな!

 これにはスンオプも怒り心頭。夜中にグデングデンになって家に帰ると、一緒に暮らす女と拾った物乞いのガキを叩き起こして酒をかっくらう。「ケッ、何が学だ。絵に自信がないから詩なんざくっつけやがって!

 こうして家を飛び出して流浪の旅に出るかと思えば、またフラリと戻って来たりと気まぐれ三昧。それでもそんな折々に描いた絵は、いずれも素晴らしい出来映えだった。ある時は偉い官僚に呼ばれて絵を描くことになり、師匠のヘサン先生より優遇された事から弟子たちのやっかみを受ける事もあった。

 まこと浮き沈みの激しいスンオプの絵描き人生だったが、その節目節目でビョンムンが現れてスンオプに示唆を与えていった。「そろそろオマエも自分の魂のこもった作品を描く時ではないのか?」

 そう、スンオプにも分かっていたのだ。彼は変わらなければいけない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 やさぐれた天才画家が創作にもがき苦しみながら、女を抱き酒に溺れ…「酒や酒や、酒買うてこ〜い!」と「浪速恋しぐれ」みたいなセリフ(笑)を吐いて暴れ狂う。周りには描き損じの紙がクシャクシャ。

 この映画には最初っからそんなイメージが浮かんでいた。たぶんこの映画を見る誰もがそう思っていたと思うんだよね。

 で、それが実は「敷居が高くなったイム・グォンテク」以上にこの映画から腰を退かせてもいた。

 だってイマドキそのイメージって古すぎやしないか?

 何で今でも「天才肌のアーティスト」って、「王将」の坂田三吉とか「巨人の星」の星一徹とか、そういう自滅型のイメージで酒飲んで女抱いて暴れるってワンパターンでしかないのか? テーブルクロスがキチンとかかった食卓で、トースターでパンを焼いてちゃいけないのか(笑)? たしかに「やさぐれた芸術家」には常人にない超然としたものを感じるし、それゆえに惹かれるところがないわけでもないが、いつになっても「そればっかり」ではいささか手垢が付きすぎてないか。それって映画監督っていうと黒澤明ばりにスタッフ・キャストを罵倒しまくる…ってくらい、いまや陳腐でリアリティを失ったイメージではないのか。

 だからこの映画を見るまでは、「またソレかよ〜」といささかゲンナリもしていたんだよね。で、やっぱりそれは今回も同じだった。思ったとおりの場面が「絵に描いたよう」に登場して、あまりのワンパターンぶりに驚かされもした。

 ところがね、今回の映画がこれでなかなか楽しめたから不思議だ。

 やってることは毎度おなじみ「やさぐれ芸術家」のお話。だからウンザリするほど何度も見たような話なんだけどね。そして何か工夫を凝らして見せているようにも思えない。ただそれらをカッチリ丁寧に見せているだけだ。

 ただ、今回はそれを演じている人間がハマってる

 「レールからはずれちゃった男」を演じさせたら現在世界一、あのチェ・ミンシクに演じさせたってのが大正解だった。最初に見たシュリ(1999)ですら、北朝鮮の工作員として国の意向からはずれて暴走。次に見たクワイエット・ファミリー(1998)でも、たぶん仕事がうまくいってなかったんだろう。兄貴の宿屋を手伝う中年男。テメエは失業、女房は昔の男と浮気という「ハッピーエンド」(1999)もある。ともかくかつては「失業者」やらせりゃピカイチだったロバート・カーライル同様、この人の持ち味は一貫している。その最たるものが、何と言ってもオールド・ボーイ(2003)の中年男だろう。

 この人って不思議な役者さんで、豪快にレールからはずれちゃったらはずれちゃったほど、見ていて何だか気持ちいいというユニークな持ち味の人。だからワンパターンだって楽しい。レールをはずれてくれればはずれただけいいのだ。これはなかなか巧みなキャスティングだね。

 そして、それってかなりタイプ・キャスティングでもある。

 考えてもみてくれ。「世界的名匠」…となったイム・グォンテクというイメージからすると、意外なまでに「スター・システム」を意識したキャスティングではないか。主演の「やさぐれ芸術家」には先にも述べたように、「シュリ」のはぐれ工作員、「オールド・ボーイ」の人生台無しにされた中年男で知られたチェ・ミンシクだ。彼を常に見守る庇護者としては、韓国映画界の重鎮アン・ソンギ黒水仙(2002)、MUSA/武士(2001)、シルミド(2003)と同様、脇に回って支える安定感ある役どころだ。貫禄・知性・人間的魅力…すべてに渡ってハマり過ぎるくらいハマってる。ある意味では、近年のアン・ソンギ起用法のパターンをそのまま踏襲しているとさえ言える。

 そして、その最たるものが…主人公の「初恋の人」を演じるソン・イェジンではないか。ラブストーリー(2003)、永遠の片想い(2003)…とイマドキ当の韓国でもこの人ぐらいじゃないか…と思わせるほどの「清純派」。本当に今日の映画界で、「清純派」やらせて無理がないのってこの人だけだろう。おまけに「病弱」(笑)。だからこそ…「初恋の人」にウリ二つの女が登場した時の、主人公の当惑と幻滅が際だつ…。イム・グォンテク監督はこの「今が旬」の清純派女優を、そのイメージの「まんま」で起用している。大胆で意欲的な「新生面開拓」とか巨匠ならではの「斬新な起用」なんて発想は、そこには一切見られない。

 こう見てみれば分かる通り、ハッキリ言って今回のイム・グォンテクは、臆面もないくらい「スター・システム」によるワンパターン・キャスティングで固めているんだよね。で、毎度お馴染みスターの持ち味を、十二分にお客さんに楽しませようという映画づくりとも見えるのだ。

 もちろん、イム・グォンテクが最初からそういう方針を持って映画をつくろうとしたかどうかは、僕には分からない。だがこの画家・張承業=チャン・スンオプの生涯を追っていくと、どうしたってワンパターンに見えちゃうな…という予測は早いうちについたはずだ。それが恐ろしく陳腐で退屈なモノである事も想像がついた。

 ならば、あたかも「スターの魅力を見せるエンターテインメント映画」のような体裁でつくったらどうか?…ひょっとしたらイム・グォンテクは、どこかでそう発想を転換したのかもしれない。スター映画ならば、人はそういうスターの持ち味を知り尽くして、それが見たくて映画を見に来る。ワンパターンとは思わない。だってお客さんは「それ」が見たいのだから。

 また、この映画では「絵を描く」という行為自体がエンターテインメントだ。

 絵描きの創作の場を映画にする試みと言えば、ジャック・リヴェット「美しき諍い女」(1991)がすぐに頭に浮かぶが、この映画も負けてない。むしろ水墨画だけにその分かりやすさが際だつ。サッサと激しく素早く走る筆遣いの妙、瞬時に紙の面に描かれる絵柄の妙…強いて言うなれば、マイノリティー・リポート(2002)でトム・クルーズがコンピュータの空中ディスプレイを操作している場面のよう…とでも言えばいいだろうか(笑)? この映画の「絵を描く」場面を見ていると、その爽快感に自分でも筆を持ちたくなる。何となく自分でも描けるんじゃないかと思えてくる。少なくとも「描く」事の喜びの一端は、絵を描かない人間にも伝わるはずだ。何かを創作する、イメージする以前に、紙の上で筆を動かす事自体に快感があると分かる。

 何でもそうだけど、物事の根本は心地よさだ。モノをつくる人間は…自らの想いがカタチになる楽しみも無論あるが、それ以前に非常に肉体的なところで気持ちよさを感じている。それがなければ創作などという退屈な行為は続かない。筆を紙の上で動かす…それ自体が気持ちいいから続けられる。そんな絵画のフィジカルな部分、パフォーマンスに近い部分の魅力さえ伝わってくるあたりが非凡なのだ。

 そして、それはダンスやらサッカーやらカンフーやら、あるいはアクション映画やらの魅力に近い部分で見る者を魅了する。これぞエンターテインメント映画でなくて何だろう。

 だが…「巨匠イム・グォンテク」がエンターテインメント? 「岩波ホール」映画がエンターテインメント? 何より朝鮮の著名な画家の生涯を描いた映画が、本当にエンターテインメントなのか?

 僕はまず…イム・グォンテクって映画作家がお高くとまった映画をつくるはずがない…ってことを、ここで指摘しなくちゃいけない。

 お坊さんたちを中心に据えた一種の「宗教映画」である「曼陀羅」や「ハラギャティ」では、“堕ちた者こそ真の悟りを開ける”…とでも言わんばかりに破戒僧の行き着く先をどこまでもみつめていた。「風の丘を越えて/西便制」では、パンソリ芸人一家が下層に堕ちて食い詰めて、乞食同然になってまで守り抜く芸の道がこれでもかというほど描かれていた。

 汚れてこその清らかさ、「濁」あってこその「聖」…イム・グォンテク映画って、そんな「世俗にまみれた求道精神」みたいなものを描き続けて来た気がするんだよね。だからキレイ事のお話は好まず、むしろ避けようとするはずだ。対象を「神棚」に上げようとするはずがない。むしろ「俗」なる僕らの領域に引き下げようとするに違いない。

 ところがそれを追求するがあまり、皮肉な事にここ何年かは逆に「骨董品」みたいな作品づくりへと傾斜していたとしたら…もし僕が考えている通りのイム・グォンテクなら何とかそこから離脱しようと模索するはずだ。ひょっとしたらこの「酔画仙」のスター映画ぶりってのは、そのへんの事情を反映したものかもしれないよ。

 それにイム・グォンテクって人自体が、元々がエンターテインメントの人だった。

 そもそもが1970年代あたりから、職人として映画をつくり始めた人だ。決して「作家」的な映画ばかりつくっていた人じゃない。むしろそれは最近の事だ。

 それに、今だってそっちを止めちゃったわけではない。ベネチアで受賞したりパンソリがどうのと言ってたりしていた時期でも、この人は「将軍の息子」(1990)という立派な娯楽アクション・シリーズをつくったりしていたのだ。決してそっちを止めちゃった訳ではないんだよね。

 それに僕には、イム・グォンテクがこの映画を「確信を持って」エンターテインメントとして描いたと思う根拠がある。そんな主張は、物語にも随所に顔を出している。

 主人公は常に庇護者である学者キム・ビョンムンからアドバイスを受けたりヒントを与えられたりして、少しづつ方向転換を果たし成長を遂げていく。「絵には深みが必要だ」「もっと自分を出せ」…などの言葉は、その時々でそれなりに説得力もある。主人公はそんなビョンムンに一目置いて、その助言を受け入れもする。

 ところがある時点で、それが一変するのだ。

 「オマエの絵は美化で虚飾だ。もっと民衆のありのままの苦悩を描いたらどうだ?」…ビョンムンは例によって例の調子で、主人公にこう助言する。これに対して主人公は、初めて敢然と反論するのだ。

 「民衆は本当に苦しいのです。美化で慰めになるのなら、それも絵の役割ではありませんか?

 実はこの映画では、主人公の生涯の背景として朝鮮の近代の歴史が描かれる。王政の腐敗は人々を苦しめている。だがそれに対抗すべく出てきた開化派も東学も、所詮は頭のイイ連中の頭でっかちな空疎な理想に過ぎない。いずれも三日天下で終わるか、日本など諸外国の介入を招くだけだった。本当の意味で民衆のためにはなろうとしていなかった。ビョンムンはそんな一方の旗頭、開化派を信奉していた学者なのだ。

 人々に対する「愛」のない政治思想やイデオロギーは、どこか空虚だ。ヘタをしたら、それは上に乗っかる権力者が交代するだけの事かもしれない。そんなものに自分は決して与しない。それならば自分はむしろ「美化」であり「虚飾」であり「慰め」を取る…。それは主人公の主張であると同時に、イム・グォンテク自身の主張であるようにも思えるのだ。

 他にもそんな主張は、劇中で再三再四繰り替えされている。事あるごとに主人公の絵にイチャモンをつける、自称「文化人」を思い起こして欲しい。「絵には学がなければ」云々というこの男の戯言に、主人公は「ごまかしだ!」と怒り狂うではないか。もっともらしい「権威」やら「肩書き」やら「お題目」の偽善さ・空虚さ…そんなものとオレは一線を画したい。絶対にこの映画では、主人公に託してイム・グォンテクのこういう主張が展開されているはずなんだよね。

 それはイム・グォンテクの「エンターテインメント宣言」ではないのか。

 僕はこの映画が初めて「岩波ホール」で上映されたイム・グォンテク作品だというのが、何より皮肉で笑えると思うんだよね。

 いや、もちろん今までの「岩波ホール」の果たしてきた役割や業績は大したものだと思う。いろいろ貴重で面白い映画も見せてもらって感謝もしてる。

 だけど「岩波ホール」の人たちは、この映画を見てまったく何も気が付かなかったんだろうか? 自分の喉元に刃が突きつけられていると分からなかったのか? だってこの映画は、この世の「岩波ホール」的なものすべてに対して異議申し立てをしている映画なんだからね。

 早い話が…アンタら何かと偉そうすぎるんだヨ(笑)。

 

見た後の付け足し

 そんなこの映画の最後のエピソードに、僕はただならぬ実感を感じてしまった。それは主人公のスンオプが窯元へと出向き、焼き物に絵を描こうとするくだり。そこで絵を描いたツボを焼きながら、陶工の一人がスンオプにつぶやく言葉が印象的だ。

 絵描きは絵がキレイに出ることを願い、上薬を塗った者は美しいツヤが出ることを願い、陶工は傑作が焼き上がる事を願う。でも、実は作り手にはどうする事も出来ない…。

 「最後は火が焼き物をつくるのです」

 これって確か「窯変」って言葉だと思うのだが、最終的には窯の中で焼いているうちに「化ける」ものなのだ。僕はそれをハプニングと言い直してもいいと思う。

 人間の出来ることやら知恵やらってのは、所詮「それだけ」のモノでしかない。思い通りに出来上がっても、実はそれって大して面白いものでもないのだ。その時、その場でしか起きないモノ…ハプニングこそが「作品」を完成させるのだ

 僕もモノづくりの末席を濁す人間だから、これはすごく分かる。人事を尽くして天命を待つ…ってのは、まさにこの事なのだ。最後は何か「別の要素」が作り上げる。それを「神の為せる業」と言う人もいれば、僕みたいに「ハプニング」と言う者もいる。いずれにせよ、予測不能な何らかの要素こそが「作品」を完成させるものなのだ。

 例えば一例を挙げれば、僕はこの感想文を書くにあたって「イム・グォンテクはエンターテインメントを狙っている」などという結論を決めてはいなかった。これは書いているうちに生まれて来た結論だ。僕はここで感想文を書く時に、結論を決めて書いた事はただの一度もない。すべてはハプニングの産物なのだ。そして、「ハプニング」こそが決め手だ。

 「最後は火が焼き物をつくるのです」

 それを聞いた主人公スンオプは、微笑みながら窯の火の中に身を投じる。それは「神の意志」と一体化したい…という「作り手」なら誰しも願う境地ということなのだろう。

 きっと誰もが探している…いささか大げさに言うならば、「神の意志」ってやつの在りかをね。

 

 

 

 

 

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