「五線譜のラブレター」

  De-Lovely

 (2005/01/24)


  

今回のマクラ

 唐突で申し訳ないが、スティーブン・スピルバーグの最新作ターミナルについて、もうちょっとだけ語ってみたい。

 何で今さら、こんな別の映画の感想文の冒頭でゴチャゴチャ語るんだ…って文句はごもっとも。だが僕はあの映画について、どこか語り足らない気持ちがあるんだよね。確かに僕は彼の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に次いでの「復活」第二弾として歓迎もした。昨年のベスト10にランク・インもさせた。だがあの映画の完成度に問題がある事も、イヤと言うほど承知している。それに目をつぶってもいいほどの美点も見つけたし気に入ったからこそ高く評価したものの、本当はもっとこうしたら…と悔やまれる点もないではない。

 じゃあどうしたらいいのか?

 もちろんこれは妄想だ…という事を前提に、一つだけ僕が思いついた事がある。それは「ターミナル」をミュージカル映画としてつくったらどうだったか?…ということだ。

 というのは、あの映画のウィークポイントについて改めて考えてみたからだ。あの映画は主人公が一種のイノセントな存在に描かれた「おとぎ話」だ。ところがその一方でキャサリン・ゼタ=ジョーンズとの関係の描き方には、苦い人生の実感みたいなものをにじみ出させようと努力した形跡がある。

 それはそれで悪くない…と僕は思っているが、結果的に全体を「おとぎ話」としてつくろうとした意図からは、若干剥離してしまった印象を与えてしまう。ここがまず気になる点だ。

 そして、それより気になる明らかな欠点もある。それはエンディング…物語の意図は主人公がターミナルから出られた時点で消滅しているのに、さらに主人公が自らの旅の目的を果たすまでがダラダラと描かれていることだ。

 これは二重の意味でマズイ。一つには、ある意味でどこから来たのかも旅の目的も曖昧(それぞれ劇中で語られてはいるが、物語にとってさほど重要には扱われていない)だった主人公の「旅の目的」の結末を見せてしまったら、「おとぎ話」が途端に現実的な話になってしまう…という話法の混乱を生じてしまうこと。もう一つには、そもそも「旅の目的」そのものが描くに足る必然性を感じさせない…ということだ。だから余計なモノが最後にくっついて来た印象を与える。

 僕がなぜミュージカル化について云々したかと言えば、それが前述したウィーク・ポイントを…全面的とは言わずともある程度まで解決する手段になるのではないかと思ったからだ。

 まずゼタ=ジョーンズとの関係にまつわる苦さが「おとぎ話」と剥離してしまうあたりだが…ミュージカルが総じて「現実」の「おとぎ話」化みたいなモノだと考えれば、これはもっとも適切な解決方法だとは思えないだろうか。

 そしてエンディングの「蛇足」だが…少なくとも、ジャズ・ミュージシャンの自筆サインなどというドラマ本筋とまったく繋がりがない「必然性のなさ」と「唐突さ」を、いくらかでも音楽つながりで結びつける事が出来るだろう。そのためにはミュージカル化した劇中の音楽についても、何か共通するコンセプトを一本背骨のように通す必要があるだろうが…少なくとも「ただの蛇足」となる事は避けられるのではないか。ミュージカル映画として、「ジャズ」を全編に一貫させたコンセプトにする事だって出来るだろう。

 撮影は元々がスタジオにターミナルのセットを一個まるごと建設した…という、ミュージカル映画を撮るには理想的過ぎる状況。ゼタ=ジョーンズは「シカゴ」でミュージカル経験済みだし、トム・ハンクスだって「ビッグ」(1988)で、ニューヨークの玩具店「シュワルツ」店内でのミュージカル趣向の場面を演じている。

 問題なのは、スピルバーグにミュージカルが演出できるかどうか

 ミュージカルというのはコメディ、ホラーと並んで特殊なジャンルだ。誰にでも出来るという訳ではない。しかもミュージカルの伝統が死に絶えた今日、そうした状況をつくるのは容易な事ではないのだ。

 だが、この点だって大丈夫なはずだ。スピルバーグはミュージカルにもその腕前を実証済み。その証拠は多くのみなさんだってご覧のはずである。

 「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(1984)の冒頭部分を思い起こしていただきたい。ヒロイン女優ケイト・キャプショーが歌って踊る、見事なレビュー・シーンがあったではないか。

 そこで歌われた曲こそかの有名なスタンダード・ナンバー…コール・ポーターの「エニシング・ゴーズ」だ。

 

見る前の予想

 さまざまなミュージカルの舞台や映画でその名を知られ、アメリカのポピュラー・ミュージックの歴史に燦然と輝くソング・ライター…コール・ポーターの生涯をミュージカル仕立てで描く。この企画そのものは抜群に素晴らしい。全曲コール・ポーターの自作…はもちろんだろう。ポーター作品ならば、ただ並べただけでも魅力的なはずだ。そこに現代のポピュラー・ミュージック界の実力者を持ってくるあたりも素敵な発想だ。

 問題は今回も同じ…ミュージカル映画の伝統が死に絶えた今日、果たしてミュージカル映画を再生出来るのか?

 監督は…プロデューサー上がりのアーウィン・ウィンクラー。これはどうだろう? それでなくても困難さが付きまといそうなこの映画、いささか彼には荷の重い仕事ではないだろうか?

 

あらすじ

 1964年、ニューヨーク。明らかに死期も間近な老いたコール・ポーター(ケビン・クライン)が、孤独なアパートで一人ピアノの弾き語りを行っていた。そこに忽然と現れるゲイブなる不思議な男(ジョナサン・プライス)。だがポーターは彼の事をよく知っているかのようだった。

 やがてゲイブは、ポーターをある劇場の客席へと誘う。その舞台には、ポーターの人生を彩って来たさまざまな人々が勢揃いして、彼の門出を見送ろうと派手なショーを繰り広げていた。ゲイブはそんなポーターの「人生」という名のショーの演出者だ。

 そんなショーの登場人物の中でも最も重要なのは、彼の妻となった女性リンダ(アシュレイ・ジャッド)。「人生」という名のショーは、たちまち1920年代へと遡る。

 パリで友人マーフィー(ケビン・マクナリー)夫妻と遊びほうける日々だったポーターは、そんなパリの社交界で一人の魅力的な女性と出会う。その女性こそが「パリで最も美しい離婚女性」リンダだった。その魅力に惹かれたポーターはたちまち彼女と仲良くなるが、イマイチ関係を進められない事情が一つだけあった。それは…ポーターの「男出入り」。だがリンダはそれもとっくにお見通しだった。それでもポーターの人柄と…何より才能に惹かれていたリンダは、それもこれも折り込み済みで「独立したカップル」としてやっていこうと提案。こうしてまさに「理想的」な伴侶を得たポーターはリンダと結婚。結婚式当日にリンダの元の暴力夫が押し掛けてくる一幕もあったが、無事にヴェネチアで新婚生活をスタートさせた。

 ところが創作面ではスランプに陥り、たちまちバレエ・ダンサーとの関係に溺れるポーター。そんな彼を救ったのはリンダの機転だった。彼女は有名な作曲家アーヴィング・バーリンをヴェネチアに招き、ポーターにクリエイティブな刺激を与えた。さらにポーターの才能に目を見張ったバーリンは、ポーターにブロードウェイでの仕事を紹介する。後込みするポーターだったが、リンダはそんな彼を後押しした。こうしてリンダはポーターを、陽の当たる場所へと引っ張り出したのだ。

 ミュージカル「パリ」の初日に、特注のシガレット・ケースをプレゼントするリンダ。それはポーターの新作のたびに行われる、二人の儀式のようになっていった。

 こうして一気にスター作曲家となったポーターは、次々にヒット作を連発。だが生活の乱れも一段と激しくなっていった。それを杞憂していたリンダだが、ある日ついに流産の憂き目にあう。これに目を覚ましたポーターは彼女のために心機一転、ハリウッドを目指すことにする。

 ところがハリウッドは、ポーターにさらに生活の荒みを与えただけだった。MGM社長ルイス・B・メイヤーのアホな要求に開き直って、作品の質は彼の目指すものからどんどん低下していく。ハリウッド人種たちの爛れた享楽的生活に、彼もどんどん染まっていく。健康を害し始めていたリンダには、そんなポーターは見るに忍びなかった。「みんなであなたを甘やかしてしまって…つまらない音楽なんかのために!」

 そしてリンダはポーターの元から去り、パリに舞い戻ってしまう。

 ところがそんな折り、ポーターが乗馬で両足を折るというアクシデントが起きる。それも両足切断の危機を伴う大事故だ。リンダは取るモノも取らず、息せき切ってパリからポーターの元へと駆けつけた。大事故にも関わらず、ポーターは微笑む。「やぁ、君を取り戻す事に成功したぞ!」

 両足切断はリンダが断固としてはねつけたおかげで免れたものの、足の不自由はいつまでも残った。ピアノのペダルが踏めない苦しさ、度重なるリハビリと手術。その後発表した作品は、どれも往年の輝きを失っていた。さすがに自信を失いかけるポーターだが、リンダは常に変わらず支援を続けていた。

 こうして生まれたのが、ポーター最後にして最大の成功作「キス・ミー・ケイト」だ。だがその成功の美酒に酔う間もなく、ポーターには新たな…そして決定的試練が訪れようとしていた。

 それはリンダを蝕み続けてきた、情け容赦ない運命の仕業だった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 映画が始まってまもなく、死期間近いケビン・クラインのポーターの前に現れる「神」とも「死神」ともつかぬ奇妙な存在…後になって大天使ガブリエルと分かる、ジョナサン・プライス演じる「狂言回し」的な役どころが出てきた時、僕は「おおっ?」…と目を見張ったんだよね。

 というのは…この映画をつくるにあたって、最初から何かの「仕掛け」が必要となってくるはずだからだ。

 コール・ポーターの生涯をミュージカル映画化するという企画そのものはいいけれど、それをそのままやる訳にはいかない。すでにケイリー・グラントがポーターを演じた「夜も昼も」(1946)という作品が存在しているからね。これがすでにある以上、ただ単に生涯を年代に沿って映画化したのでは「夜も昼も」の「実録モノ」版あるいは「内幕暴露モノ」版…みたいな展開しか考えられなくなる。ポーターとその作品にトリビュートしたいであろう作者としては、それだけはやりたくなかったんじゃないかと思うんだよね。

 もちろんイマドキの映画として、「夜も昼も」みたいなキレイごとに終始したらリアリティもない。それなら作る意味もない。だがダークサイドに触れたとしても、「それ」も含めてすべて彼なのだ…と丸ごと肯定的に認めたい…という、それこそ妻になったリンダみたいな態度で映画化したかったんだろうと思うのだ。

 それと、何だかんだ言っても昔のショービズの人・ポーターを、今は廃れてしまったミュージカルというジャンルで映画化するとしたら…そのままでは古色蒼然としたモノになりかねない。だとすると、「今の映画」として鮮度のある、何らかの工夫か仕掛けが必要だろう。

 ここでのジョナサン・プライスの存在は、明らかにそんな「工夫」であり「仕掛け」だ。

 さらに見ていくと、このジョナサン・プライスの「狂言回し」がポーターを劇場へと連れて行き、ここでポーターの人生がショーとして上演されていくというのがこの映画の趣向。その後のドラマの途中にも、この劇場での「狂言回し」と老ポーターとのやりとりは何度も割って入ってくる。何よりポーターの人生を彩って来たすべての人物が、ショーの登場人物として一同に会しているではないか。

 そうか、オール・ザット・ジャズか!

 「オール・ザット・ジャズ」(1979)は現代ニューヨークのショービズを舞台にした物語。ロイ・シャイダー扮する演出家が多忙なスケジュールの傍ら、女出入りに酒にタバコにドラッグと乱れた生活を続けたあげく心臓発作で死期間近となる。その幻想の中に出てくるのは、ジェシカ・ラング扮する「死の女神」だ。彼女に導かれながらロイ・シャイダーは自らの人生を反芻し、人生で関わったすべての人々の前で臨終のショーを演じる。歌い踊るは「バイ・バイ・ラブ」ならぬ「バイ・バイ・ライフ」だ。

 「オール・ザット・ジャズ」でロイ・シャイダーが扮した主人公は、明らかに監督・脚本を手がけたボブ・フォッシーその人と分かる人物だ。これはどっぷりとショー・ビジネスに身も心も浸かった人間の物語なのだ。そのあたりが今回の「五線譜のラブレター」と完全に共通する。ロイ・シャイダーの演出家が才気煥発ながら決して品行方正な人物ではない点も…それでいて愛すべき人物として捕らえられているところも、今回の「五線譜」が狙いたかったところだろう。

 ズバリと言ってしまおうか。

 「五線譜のラブレター」は、コール・ポーターの伝記ミュージカルを「オール・ザット・ジャズ」方式で映画化した作品だ。彼の「ダークサイド」にもズバズバ踏み込んでいきながら、それも「アリ」だと言い切ってしまうあたり、完全に両者の狙いは一致する。これはハッキリ言って正解だっただろう。事情が分かってしまえば「あまりにモロのパクり」なのに驚かされるが、ここはどちらかと言えば「うまくやったな」…と誉めてあげたいね。

 考えてみれば、“その手のアレコレ”といった意味の「オール・ザット・ジャズ」というタイトルは、ポーター代表作の一つ「エニシング・ゴーズ」=“何でもアリ”にどこか通じているではないか。そしてこの“何でもアリ”精神こそが、ポーターの精神的支柱だと言える。この両者は、どこか似通った臭いがあるのだ。

 実際この映画の場合、ポーターの「ダークサイド」は切っても切れない重要な部分だと言える。これをどう扱うかが、映画の最も難しい点だからだ。

 道徳的に批判するのは最も愚かな事だろうし、それは21世紀の現代の映画としてはかなり鮮度を落とす事になってしまう。「芸」の世界に生きていた人間という、常人にはない「業」の部分もあるからね。ただこれを一本調子に深刻に描くのもいたずらに肯定するのも、ポーター解釈としては「???」になりかねない部分があるのだ。これはなかなかバランスのとりようが厄介だよね。

 それらを丸ごと観客に受け止めてもらうために、ポーターの作品そのものを使って表現したのは正解だったと思う。

 今にして驚かされるのは、ポーターの曲の数々の歌詞の大胆さだ。「鳥だってやってる、ミツバチだってやってる、ノミだってみんなしているよ」…とうたわれる「レッツ・ドゥ・イット」に始まり、「何でもアリ」とそのまま題名にしてしまった「エニシング・ゴーズ」など、あの当時よくもまぁこんな表現が許されたと驚く。それはセックス表現の大胆さ…とだけ受け取ったら正確ではないだろう。彼はあまたある「快楽」をすべて楽しむ事をオープンに肯定してしまった。タテマエや既成のワクや偽善などは無意味だと取っ払ってしまった。そんな彼の「人生哲学」こそが彼の作品を今に通じるものにした…おそらく作り手はこう言いたかったのではないだろうか。

 そんな思想は、人間が自らを不自由にしているものから解き放たれるための、大きな武器になるに違いない。ポーターの曲とは、単なる甘ったるく楽しい歌ではない。人が本当に自由になるという事への渇望を表現したもの。すなわち、一種のアナーキズムだ

 だが、それがともすれば彼の人生を荒ませもした。作者は妻リンダを通して、そんな彼にピシャリと一撃も食らわせるんだよね。

 「みんなであなたを甘やかしてしまって…つまらない音楽なんかのために!」

 「軽み」を装いながらリスクと覚悟も背負っての…洒落やダンディズムや心意気を帯びた一種の「志」のある「快楽全面追求」なら理解もできる。だが妻リンダと作者たちは、甘ったれた状況下で単にグズグズになったような安易な「快楽への耽溺」は決して肯定していないのだ。だがこの両者は、実に紙一重のキワどい線に立ってもいる。このあたりの示唆は、作り手の見識を感じさせるところだよね。

 考えてみると、監督のアーウィン・ウィンクラーという人は不思議な男だ。元々はプロデューサーで、ロバート・チャートフと組んで「ロッキー」(1976)などヒット作をつくっていたんだよね。ところが、その後たびたびチャートフと切れて単独で発表するプロデュース作は、明らかにコンビ作とは異なるテイストを持っていた。フィリップ・カウフマンの宇宙開発秘話「ライトスタッフ」(1983)、フランスのベルトラン・タヴェルニエと組んでのジャズもの「ラウンド・ミッドナイト」(1986)、これまたヨーロッパのコスタ・ガブラスによる問題作「ミュージック・ボックス」(1989)、マーティン・スコセッシ作品「グッド・フェローズ」(1990)…などなど、どれも一癖も二癖もある作品ばかり。強いて言うなれば「真面目」な意図を感じさせる作品揃いだ。

 だからアーウィン・ウィンクラーが監督デビューした時には驚いたものの、それが「赤狩り」に翻弄された映画人の悲劇を描いたロバート・デニーロ主演の「真実の瞬間」(1991)だった事は、むしろ僕には「当然」と受け取れた。そんな「硬派」な題材こそが、彼には似合っている気がしたんだよね。

 次の「ザ・インターネット」(1995)には首を傾げてしまったが、これも今考えてみれば「ネットによる情報管理の怖さ」を彼なりに描きたかったのかもしれない。次に来るのが「海辺の家」(2001)と来れば、ウィンクラーの真面目さはみなさんにもご理解いただけると思う。

 だから今回の作品も、彼のそんな「真面目さ」が活かされた作品だ。ウィンクラーは彼なりに、ポーターの「快楽追求」への何らかの共感を寄せているはずなのだ。

 ただし…それだけで映画として面白くなるなら苦労はない。

 まして前述した通り、イマドキ実現が難しいミュージカルならなおさらだ。そもそも近年このジャンルでの成功例は、非常に少ないように思われる。

 実際、ざっとここ20年間ぐらいのミュージカル映画での成功例を考えると、いささか変化球ではあるがバズ・ラーマンのムーラン・ルージュ(2001)があるくらいか。あの才人ケネス・ブラナーにして、恋の骨折り損(1999)は愛すべき作品ではあるが成功とは言い難い。

 あとはディズニー・アニメの作品群を除いたら…非ミュージカル映画の中で散発的に見ることが出来た、ホンのわずかのミュージカル的趣向の場面しかない。「恋の骨折り損」感想文でも触れたメル・ブルックスの「珍説世界史PART I」(1981)の宗教裁判のエピソードであるとか、前述した「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」冒頭部分ぐらいのものではないか。かようにミュージカル映画の実現は、イマドキの映画界では難しい。

 まして…「真面目」が持ち味のウィンクラーに、「粋」が身上の芸人を主題にした「粋」が必須条件のミュージカル映画などつくれるのだろうか?

 そこで彼は…かなり熟慮して作戦を練ったんだろうね。

 まず物語を詰め込むワクとして、「芸人」の権化ボブ・フォッシーが自分を語った「オール・ザット・ジャズ」をそのまま持ってきた。そしてワクに詰め込んだ中味には…。

 な、何と、何も味付けをしなかった!

 驚くべき事にこの映画では、ドラマをある方向に誘導しようとする手付きが見いだせない。ケビン・クラインもアシュレイ・ジャッドも、歌や踊りや老けっぷりは大したものだ。アシュレイ・ジャッドなど、僕が今まで見てきた中では一番素晴らしいのではないか。だがそこに、観客をどこかに誘導しようとする押しつけがましさは全くない、必要以上に何かを語ろうとはしていない演じっぷり。まるで影絵のキャラクターのように、余計な事はせずその人として「そこにいる」。だから展開も語り口も冗舌にはならず、不自然にならない範囲で脱臭・脱色されたドラマになっている。

 そして、この映画はそれで良かった

 何かを語るのは…すべてポーター自身の楽曲にやらせてしまった。そのために選曲にはかなり神経を使ったのだろうが、すべてはポーターの曲の歌詞が語る展開になっている。

 ウィンクラーには自らが分かっていたのだ。

 自分が「真面目」に堅物ぶりを発揮したり、役者と共に作為的に何かを語ろうとしたら、ミュージカルの「粋」が出てこない、芸人の「艶」が出てこない、何より主人公の「心意気」が伝わらない。元よりウィンクラーは、そんな事をうまく語れる「器」ではないのだ。

 だから彼はあえて何もせず、すべてをポーター自身に語らせてしまった。それで良かったのだ。この彼の判断は、とても大胆だが正しかったと思うよ。

 なぜならポーターその人こそが「艶」そのものだし、彼の作品こそが「粋」の結晶みたいなモノだからね。

 ポーターの歌があればこそ、彼の「ダークサイド」もミュージカルとしてお客さんにスンナリ受け入れてもらえる。何よりポーターの歌こそが「ダークサイド」の証人そのものだ。グダグダ理屈を並べたり苦悩の演技を見せるよりも、ポーターの歌があれば「ダークサイド」の理由も意味も分かる。お客さんの共感だって得られる。だから、歌がポーターの「人物像」を語れる余地をつくろうとした結果、ドラマや演技がストイックに寡黙になったと言うべきだろうか。

 ポーターという「人間」を語るには多くを必要とはしない。ポーターの歌自体が最も雄弁だし、何よりもポーターという「人そのもの」なのだから。

 

見た後の付け足し

 今回この映画でポーターの歌を演じるために集められたアーティストたちは、まことに豪華かつ多彩なメンバーだ。多彩と言えば聞こえはいいが、ズバリ言えば雑多とも言える。ナタリー・コール、シャリル・クロウ、アラニス・モリセット、エルヴィス・コステロ…などなど、それぞれがコール・ポーターとの相性もどうかと思わせるアーティストばかりだし、彼ら同士の出どころも個性もバラバラだ。

 だが…ともかくポーター作品と言うとこれだけのメンツが集まってしまう事に感心したね。

 そう言えば、かつて故ジョージ・ハリソンが1976年のソロ・アルバム「33 & 3/1」の中で、コール・ポーターの「トゥルー・ラブ」をカバーしていてビックリした覚えがある。アレンジはすっかりジョージ・ハリソン流になっていて、間奏部分では「マイ・スウィート・ロード」みたいなリード・ギターが演奏されたりしていたけど(笑)、美しいメロディ・ラインはやっぱりポーターのもの。正直言ってそのアルバムの中でも一番イイ曲だったからツラいところだ。ともかく、それだけミュージシャンにもリスペクトされているという事なのだろう。

 今回の映画では集まったメンバーの顔ぶれにもそれを感じたし、何より彼らの演じっぷりがそれを物語っていた。

 これだけクセの強いメンバーにも関わらず、彼らは「彼ら自身」を演じようとはしていなかったんだよね。ちゃんと曲と映画に合わせようとしていた。これはかなり贅沢な事だよ。でも、それをさせる力がポーターの曲にはあったんだよね。

 実際「ミュージカル映画として」どうかと言えば、映画の滑り出しの頃はところどころキツいところもない訳でもない。正直言って妻リンダの死後はウィンクラーの元来の真面目さが顔を出す上に、どうしたって気勢が上がらない話にしかならないところを無理矢理盛り上げているきらいがなきにしもあらずで、映画の狙いが見えなくなりそうな点がない訳でもない。

 だがそれでも…映画を見ているうちに、そしてポーターの曲を次から次へと聴いているうちに、どうしたって彼の歌の虜になってしまう。

 この映画の主役は、何を置いてもポーター自身の曲そのものだ。監督から参加アーティストから、関わったすべての人々がそれを分かった上で黒子に徹しているあたりが、この映画の何より素晴らしいところだと思うんだよね。

 

 

 

 

 

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