「カンフーハッスル」

  功夫 (Kung Fu Hustle)

 (2005/01/10)


  

見る前の予想

 少林サッカー(2001)の大ヒットで、グッと日本でもポジションが上がったチャウ・シンチーの最新作。その「少林サッカー」感想文で書いたように、自慢じゃないが僕はこの人の映画って見たことなかった。唯一の例外は「0061/北京より愛をこめて」(1994)。これって池袋のちっちゃい名画座みたいなところで、いきなり二本立てでやってたような気がする。確か二本立てのもう一本はジェット・リー…その頃はリー・リンチェイ主演の、「ボディガード」と「レッド・ブル」を合わせて香港版にしたみたいな映画だったっけ(笑)。

 それが今回は、東京国際映画祭の特別招待作品(!)。試写会も東京国際フォーラムの、5000人も入る会場でド〜ンと上映だ。この落差は一体何なのだ。

 それもそのはず。今回は「グリーン・デスティニー」などで知られる、あのコロンビア・ピクチャーズ・フィルム・プロダクション・アジア・リミテッドが後ろ盾になっての制作。ホントに偉くなっちゃったんだねぇ、この人。ちょっと驚いたよ。

 確かに「少林サッカー」は、僕のような香港コメディ門外漢、チャウ・シンチー・ファン以外でも大いに楽しませてくれた。バカバカしさも、あそこまでいけば芸のうちって気がした。

 それがこれだけの後ろ盾を得たら、まさに無敵ではないか。まぁ、映画としての味わいや深みを求めるのは無理だろうが、さらにエスカレートした面白さは期待出来るんじゃないか?

 なお、僕はこの文章を2004年の11月24日に行われた試写会の直後に書いている。この映画の公開日2005年1月15日以降にアップされる(注:その後、公開日が繰り上がって1月1日に変更された)が、それに先立つこと約二ヶ月前に書かれたものであることをご承知いただきたい。

 

あらすじ

 1930〜1940年代の上海。来るべき乱世を前にして、世間は何かと荒れていた。

 今日も今日とて警察署ではワルが大暴れ。それも警官たちが怯えきって平身低頭。ヤクザの方が警官ブチのめしてデカいツラというアリサマだ。何でも道ばたにツバ吐いて捕まった女が、ヤクザの親分の姐さんだったらしい。それでヤクザが警察署に乗り込んでのやりたい放題。結局警官をブチのめしたヤクザは大層満足な様子で外に出た。

 ところが!

 ノッシ、ノッシ…と、どこからともなく「ジュラシック・パーク」みたいな振動が伝わってくる。その瞬間、ヤクザたちは何やら危険を察知して、空に向かって信号弾をぶっ放した。

 ド〜〜〜〜ン!

 そんな彼らの前に現れたのは…タキシードにシルクハット、すっかりダテ男の風貌になぜか斧を手に持った一団…名付けて「斧頭組」の面々。それも街路を埋め尽くさんばかりの人数だ。その親玉チャン・クォックワンは、不敵に笑ってヤクザたちに告げる。

 「オマエらが警察署にシケ込んでる間に、手下どもはみんな寝返ったぜ

 慌てたヤクザたちが周囲を見ると、どこの建物も窓や扉を閉ざしてしまう。警察署も閉めっきりで知らんぷりだ。もはやこれまでか。

 こうしてヤクザたちは斧でメッタ打ち。一人助けるかに見えた姐さんも、ショットガンで撃ち殺してしまう。「斧頭組」の組長は高笑い。買収された警察署の署長は、もらったカネの勘定に忙しい。というわけで、事ほどさように巷では無法が罷り通っていた

 そんな無法から唯一逃れていた場所…それは貧民街

 ここばかりはカネとは縁がないため、悪党どもも寄りつかない。そこで貧しい人々が肩を並べて、つましく日々の暮らしを営んでいた。そんな貧民街の一つに、「豚小屋砦」があった。

 力自慢の人足シン・ユィやらナヨっとした仕立て屋チウ・チーリンやら仕事に精出す麺打ち職人トン・キーホアが働き、いかにも不景気を絵に描いたような住民たちがたむろする。そこに貧相ながら気のいい大家ユン・ワーが女に色目使いながらウロチョロ。そんな亭主をブチのめしたり、住民に「家賃を払え!」とわめくのに忙しい大家のカミさんユン・チウ…と、今日も大騒ぎ。

 そんな「豚小屋砦」にやって来た二人の凸凹コンビ

 一人はうだつの上がらそうな男チャウ・シンチー、もう一人はデブ男ラム・ジーチョン。こいつらは床屋にやって来て髪を切らせたあげく、金を払うどころか金をよこせと来た。デブは「斧頭組」の親分、チャウ・シンチーはその手下だと言うのだ。

 だが床屋はこいつらを恐がりもせず、一歩も譲ろうとはしない。それどころか、スゴむチャウ・シンチーに「豚小屋砦」の住民誰もが譲ろうとしない。実際貧相な奴らとナメてかかっていたら、どいつもこいつも侮れない連中だ。おまけに頼みのデブ男ラム・ジーチョンは居眠りこき始めて、チャウ・シンチーは孤立無援のヤバ〜い状態に追い込まれた。

 ええい、ままよ…とお仲間を呼んでやるとばかりに、ホイッと花火の球を信号弾よろしく放り投げたチョウ・シンチーだったが…。

 何とそれが…たまたま往来を通りかかった、「斧頭組」のナンバーツーの帽子を吹っ飛ばしたのがいけなかった。「斧頭組」ナンバーツーとその配下の者たちは怒りをかみ殺しながら「豚小屋砦」にやって来ると、呆然とする住民たちに「誰の仕業か?」と尋ねる。慌てたチャウ・シンチーはモノのはずみで、例の床屋を指さした。こうして、今にも床屋がブチのめされそうになったその時…。

 誰の目にもとまらぬ早業で、ナンバーツーが吹っ飛ばされるではないか

 一体誰がどうやったのか? あまりにあまりの速攻だったため、「斧頭組」の連中すら分からない。慌てふためいた「斧頭組」の連中は、急を知らせるために例の信号弾を空に放った。

 ド〜〜〜〜ン!

 アッという間に「斧頭組」の連中が、ワンサカと「豚小屋砦」に押し掛ける。これにはさすがに住民たちもビビる。うるさい大家のカミさんも寝たふりをする。もはや事の発端となったチャウ・シンチーなど、どこかへ行ってしまった。

 一体誰がやったのか。名乗り出ないとただでは済まない…「斧頭組」の連中は、住民の貧しい母娘を捕まえて、頭から油をぶっかけ火を放とうとする。そこに立ちはだかったのは一人の男…。

 あの力自慢の人足シン・ユィではないか。

 ところが侮ってはいけない。こいつをいたぶろうと殺到した「斧頭組」の連中が、バッタバッタとなぎ倒される。とんでもなく強いこの人足、ただ者ではあるまい。だが、それにしてもあまりに多勢に無勢…。

 …と思いきや、そこに思わぬ伏兵が参戦してきた。それはナヨっとした人の良さそうな仕立て屋チウ・チーリンだ。いきなりカーテンをぶら下げていたいくつもの鉄輪をジャラジャラと引き離すと、それらを手首に通してのヨロイ代わり。その鉄輪で「斧頭組」の斧の猛攻をかわしながら、これまたかかってくる敵を手当たりしだいに叩きのめす。

 さらにはまたまた伏兵登場だ。今度は麺打ち職人トン・キーホアが、麺の生地を広げるために使っている長い棒をブンブン振り回す。「斧頭組」の連中もたまらず次々吹っ飛ばされるアリサマ。慌てて退散していくしかない。こうして「豚小屋砦」の平和は辛くも守られたのだが…。

 こんな市井の連中にやられたとあっては、泣く子も黙る「斧頭組」の面目が立たない。親分チャン・クォックワンはカンカン。おまけに組員でもないのにその場で組員風を吹かしていた、チャウ・シンチーとデブも目障りだ。危うくアッサリ始末されそうになった二人だが、あわやと言うところで妙な小賢しさを発揮するチャウ・シンチー。これには親分チャン・クォックワンも「小物には小物の使い道があるかも」と意外な方向転換。

 「組員になりたきゃ奴らを殺れ!」

 こうして「斧頭組」の組員になるチャンスを得たチャウ・シンチーとデブ男。「今度はやったるぜ」と言わんばかりのチャウ・シンチーに、デブ男ラム・ジーチョンは何の根拠もないその自信の裏付けを知りたがる。こうしてチャウ・シンチーが語り始めたのは、少年時代の思い出だ…。

 あの日、たまたま通りかかった浮浪者が、まだ子供だった彼を見込んだのだ。オマエには拳法の中の拳法「如来神掌」を会得する資質がある、そのオーラが漂っている、ついてはこの「如来神掌」の会得本を譲ってやるから、お小遣いをオレによこせ…と、まぁ体のいいキャッチセールスの類とも言えなくもないが、その浮浪者は見るからに訳アリの風貌にも見えた。ともかくこの浮浪者を信じた少年時代のチャウ・シンチーは、貯め込んでいた有り金全部を浮浪者に渡したのだ。そして、日々「如来神掌」の会得のために汗を流した。

 その腕を披露する機会は、意外にもすぐにやってきた。悪ガキどもにつかまって、女の子がペロペロ・キャンディーを奪われようとしている。だが泣きじゃくる女の子は何も言えない。彼女は口がきけない子だったのだ。今こそ「如来神掌」を会得したチャウ・シンチー少年が、満を持して正義の鉄拳を奮うべき時が来た。

 ところが…逆にブチのめされた。さんざバカにされて小便までひっかけられた…。

 以来、幾年月…チャウ・シンチーは「悪こそ力」と思い込み、悪党になろうと決意するに至った。この世は悪い人間が力を持つ時代なのだ。そんな気持ちを実践するかのごとく、たまたま通りかかったアイスクリーム売りの女の子ホアン・シェンイーの屋台からアイスを奪うチャウ・シンチー。だが「してやったり」とご機嫌で立ち去るチャウ・シンチーに、アイス売りの娘ホアン・シェンイーは何か訴えたげな表情。それは決してチャウ・シンチーを責めたがっているだけではないようだったが…。

 さて「豚小屋砦」では例の大暴れの英雄三人組…人足シン・ユィと仕立て屋チウ・チーリンと麺打ち職人トン・キーホアが、つらい立場に立たされていた。「斧頭組」をやっつけたはいいが、その後必ず報復が行われる。これ以上この場にいてもらってはトバッチリが来る…というのが、大家のカミさんユン・チウの言い分。これに助けてもらった住人たちは「あんまりだ」と反発。だが大家のカミさんに譲る気はない。

 だがその時、チャウ・シンチーとデブ男ラム・ジーチョンは再び「豚小屋砦」に忍び込んでいた。もちろん手柄を立てて意気揚々と「斧頭組」に入れてもらうためだ。ところがデブのドジのおかげで、ナイフを投げるつもりが全部チャウ・シンチーに刺さる。おまけに飼っている毒ヘビのカゴに頭から突っ込んで、唇に猛烈キッスを受けるハメになってしまう。踏んだり蹴ったり。さらには大家のカミさんユン・チウに見つかって、鬼のような顔で追いかけられる始末だ。チャウ・シンチーこれには命からがら逃げ出すしかない。

 何とか大家のカミさんはまいたものの、ヘビの毒は回って唇が巨大に腫れ上がるわ、ナイフが刺さった傷は痛むわで半死半生のチャウ・シンチー。ところがしばらくするとケロッとした顔でデブ男ラム・ジーチョンの前に姿を見せた。この男、大して強くはないが、妙に生命力はあるみたいだ。

 その頃「斧頭組」に、古い琴を抱えた二人組の怪しげな男たちが現れた。彼らは「豚小屋砦」の三人…人足シン・ユィと仕立て屋チウ・チーリンと麺打ち職人トン・キーホアのことを知っていた。二人組いわく、彼らはみな武術に精通した達人ながら、争いごとにイヤ気が差して市井に身を潜めたと言う。

 「彼らと戦うのは、我々にとっても挑戦です」

 そう…この琴奏者二人組は、「斧頭組」が「豚小屋砦」の三人を討つために招聘した殺し屋だったのだ。

 その晩、荷物をまとめた人足シン・ユィが「豚小屋砦」を引き払おうと歩いていると…「豚小屋砦」の広場に陣取った琴奏者二人組が、ポロンポロンと琴を奏で始める。すると…。

 人足が歩いていくのを追っていくように、モノがチョン切れ、ネコがチョン切れ…。気配を感じた人足シン・ユィが振り返ると、さらなる琴の一撃で彼の首が吹っ飛んだ!

 次に襲われたのは仕立て屋チウ・チーリンだ。最初は仕立て屋の店に始まって、広場へと死闘が繰り広げられる。琴奏者二人組の琴の音色は、そのまま凶器となって襲いかかる。これにはさしもの仕立て屋チウ・チーリンも大苦戦だ。見かねた麺打ち職人トン・キーホアが助太刀しても、麺打ち職人の槍は次から次へとへし折られる。もはやこれまで。琴から繰り出す音の刃に、もはや為す術もなくやられっぱなしの二人。ところがそこに思わぬ援軍が…。

 「やかましいから、いいかげんにやめて〜〜〜〜〜〜〜ッ!」

 窓を開け放ってわめいた大家のカミさんユン・チウの咆哮一発! すさまじい大音響に、琴の音の刃もことごとくヘナヘナ。それどころか琴奏者二人はボロボロにされて、その場にボロ雑巾のごとく倒れ込むばかりだ。何とこの「豚小屋砦」の大家夫妻こそ…武芸に秀でた真の達人だったのだ。

 降りてきた大家夫妻は、琴奏者の様子を見て一言。「こりゃもうオシマイだな…」

 様子を物陰から見ていた「斧頭組」親分チャン・クォックワンも、大家夫妻にさんざ脅かされた。ビビりまくった親分がその場を逃げ出すことで、ともかく無事にその夜は収まった訳だが…。

 結局あの三人は亡くなってしまった。「もっと早く助ければ良かったのに…」と住民に責められる大家夫妻だが、彼らには彼らの事情もあった。かつて戦いで息子を失って以来、武術は使うまい…と心に誓ったのだ。だが、戦いの火蓋が切られた以上このままでは済まない。もはや「豚小屋砦」は閉めるしかない。住人は「自分たちも戦う」などと言い出すが、大家夫妻は否定的だ。「真の資質のない者には無理だ…」

 そんなある日、チャウ・シンチーはまたしてもデブ男ラム・ジーチョンを引き連れ、往来で悪さを働く。あのアイス売りの女の子ホアン・シェンイーの屋台を襲い、金を奪おうとしたのだ。ところが金を探しているうちに、思わぬモノが出てきた。それは古びて黄ばんでしまったペロペロキャンディー。それを見たとたん、チャウ・シンチーはすべてを見てとってしまった。すべてを悟ってしまった。アイス売りの女の子ホアン・シェンイーは黙っているのではない、「話せない」のだ。

 だが、その目がチャウ・シンチーに何かを訴えている。耐えられなくなった彼は、思わずペロペロ・キャンディーを地面に投げ捨てた。そして金を奪って逃げ去った。

 ペロペロ・キャンディーは、砕けて割れた。

 どうにもやりきれなくなったチャウ・シンチーは、金をデブ男ラム・ジーチョンに押しつけて立ち去った。あの女の子との再会…それがこんなカタチで訪れてしまうとは…。

 さて、そんな思いとは裏腹に、晴れて「斧頭組」の一員になったチャウ・シンチーは、親分チャン・クォックワンから重要な任務を言い渡される。それは、ある研究所から一人の人物を連れてくること。その名も「異人類研究所」なる怪しげな研究所だ。チャウ・シンチーは事情を知らされていないから平気な顔をしているが、実はここに閉じこめられているのは超・危険人物。まるでハンニバル・レクターのように常人ではない人物だ。この怪人を例の大家夫妻にぶつけようというのが、今回の「斧頭組」親分チャン・クォックワンの狙い。

 ところがチャウ・シンチーが連れてきたその男は、単なるスダレ・ハゲのオッサンに見えるブルース・リャン。ランニングシャツとパンツのパッとしないオヤジだ。この男がそんなにも危険人物なのか?

 アレコレ刺激してみても涼しい顔。これは一杯食わされたかと「斧頭組」の親分チャン・クォックワンは苛立つ。ところが手下に命じてオヤジの頭を拳銃で吹っ飛ばそうとすると、このブルース・リャンは弾丸を指でつまんで止めてしまうではないか。恐るべし!

 かくして「斧頭組」はこの怪人ブルース・リャンにひれ伏した。早速、例の大家夫妻とぶつける事になる。ちょうど大家夫妻はいいタイミングで、「斧頭組」経営の賭博場に顔を出していた。「斧頭組」親分への「弔いの鐘」の土産も持参して、ここは逃げ隠れせず勝負をつける時…と夫妻自ら出向いてきたわけだ。

 怪人ブルース・リャンの顔を見るや否や、事情を察する大家夫妻。「火雲邪神」と称される武術の達人が自分たちと勝負をつけに来たこと、ひとたび勝負となれば命のやりとりになること…それはもはや避けられない。もちろんブルース・リャンとて大家夫妻の存在は知っていた。かくして賭博場を縦横無尽に暴れまくり、あたりをブチ壊しまくっての大勝負が始まった。

 だがさすがの大家夫妻が二人束になってかかっても、「火雲邪神」ブルース・リャンは倒せない。それどころか終始劣勢に押される大家夫妻だ。これはいささか勝手が違う。危うくやられそうになったその時、とっさの機転で「弔いの鐘」の先端部分をチョン切り、デッカいメガホンにしてのカミさんの咆哮一発! アッという間に「火雲邪神」ブルース・リャンはぶっ飛んだ。

 これで勝負あった、ブルース・リャンも平身低頭…と思ったらどっこい油断できない。いきなり妙な金属製の細い棒みたいな武器を突きだし、大家夫妻を攻撃。そのまま大家夫妻とブルース・リャンは、緊張感ビリビリの三すくみ状態で動けなくなってしまった

 これを見ていた「斧頭組」の親分チャン・クォックワンは、同じく様子を伺っていたチャウ・シンチーに棒を渡して怒鳴る。「あいつらの頭をぶん殴れ!」「殺せ!」「ぶん殴れ!」「殺せ!」…。

 するとチャウ・シンチー、なぜかいきなり親分チャン・クォックワンをぶん殴ってしまう。「殴るのか殺すのか、どっちかハッキリしろ!」

 そしてそのままブルース・リャンの頭をぶん殴ると、三すくみの緊張状態を解いた。

 「オレを殴ったのはきさまか!」

 確かに殴った。何と「斧頭組」の組長チャン・クォックワンも殴ったし、怪人ブルース・リャンも殴った。一体どうしてそんな事をしたのか分からないが殴った。まるでチャウ・シンチー自身も事情を飲み込めてないかのように…。

 だが「火雲邪神」ブルース・リャンはチャウ・シンチーに容赦しなかった。彼の頭を床にめり込むほど殴りつける。さらに深くめり込むほど殴りつける。さらにさらに深くめり込むほど殴りつける。どう考えても常人では命がない。

 その時、緊張状態から我に返った大家夫妻がボロボロになったチャウ・シンチーを助け出し、その場からもの脱兎の勢いでいなくなった。だが、一度パワーが全開した「火雲邪神」ブルース・リャンはもう止まらない。そんな火の付いたブルース・リャンに生意気ホザいたから、「斧頭組」の親分チャン・クォックワンまでひねり殺されてしまった。こうなると、もはや一体何のための戦いだか分からない

 大家夫妻は満身創痍のチャウ・シンチーを「豚小屋砦」に連れて帰り、医者に診せて治療させる。血まみれでボロボロになった彼は、混濁した意識の中で床に血文字を描いた。

 それは、ペロペロ・キャンディーの絵だ!

 生きるか死ぬかの瀬戸際に、ようやく眠っていた良心が蘇ったのか。だがあまりにグチャグチャに粉砕されたチャウ・シンチーは、もはやどう考えても死んだも同然のはず。包帯でグルグル巻きされたその身体は、生きているのが奇跡な程だ。大家夫妻はここに至って、初めてこのチャウ・シンチーの正体について思い至る。「この生命力…さてはこの男、あの伝説の『如来神掌』の器たる人物では?

 だがその頃、あの「火雲邪神」ブルース・リャンも、「斧頭組」を乗っ取って手下を引き連れ「豚小屋砦」に向かっていた。もちろん、今度こそカタをつけるためだ。

 ところが…あたかもサナギが脱皮してチョウに生まれ変わるように…。

 今、一人の男が生まれ変わり、本来あるべき姿として蘇ろうとしていたのだった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

見た後での感想

 まずは、いろいろゴタクを並べる前に言っておきたい。…と言うか、言っておかねばまたしてもお叱りをいただく事になりかねない。まずはこの映画、文句なし理屈抜きで面白い映画だ。それを最初にここで言い切っておきたい。みなさんがここでこの感想文を読むのをやめちゃっても、僕は一向に構わない。

 だからこれから後に僕が書くゴタクも、まったくのヤボでしかない。それをまずここで言っておかないと、「屁理屈並べやがって」と非難ごうごうになるので、まずはそれを明らかにしておきたい。…そうは知りつつも、この映画を見たら何かを語らずにはいられないんだよね。

 さて「少林サッカー」の大成功を受けてのこの映画は、当然あの壮大なバカバカしさを引き継ぐものだという予想がつく。その予想はまったく間違っていない。間違っていないどころか、今回はそれがさらにエスカレートしている。

 戦いの場面はそんなバカバカしさの連続だ。特に典型的な場面を挙げるとしたら、それは逃げるチャウ・シンチーを大家のカミさんが追いかけるという場面。両者ともアニメの「ロードランナー」というか、赤塚不二夫のマンガみたいに、足をチャカチャカテケテケと猛スピードで前後させて土煙を上げながら爆走する。本来だったらくだらなすぎる趣向だが、それをCGがリアルに表現してしまう。「少林サッカー」感想文の時に、CG技術はこういうくだらなくてマンガみたいな表現をするために開発されたんじゃないか?…などと僕は書いたが、今回もさらにその傾向が強い。CGだからこそ出来た、究極のマンガ的表現だ<注1>

 ギャグのアイディア自体はどれもこれも「思いつき」の域、飲んだ席でのバカ話の領域なのだが、それをここまで金と時間と手間とテクノロジーを注ぎ込んで実現しているのがスゴイのだ。というか、ネタがバカバカしいだけに一層スゴさが増す。このへんのノウハウは「少林サッカー」での成功例を踏襲し、さらに活かしたものだろう。だがその反面、今回の映画では前作とは打って変わって影を潜めたものもある。

 それは…生理的にクドく、嫌悪感を催す表現だ。

 「少林サッカー」における主人公たちへの度を超した執拗なまでの辱めの描写とか、ヒロインのムチャクチャな汚しっぷりとか…俗にエグい描写と言ってもいいのだが、ギャグ自体の幼稚と言ってもいいバカバカしさや下品さと相まっての、面白さと背中合わせの「エグさ」とでも言おうか。まぁ、正直言って人によっては退きかねない要素だと思うし、実際にそこで退いた人も少なくないと思う。

 僕は「少林サッカー」を肯定的に見た人間だが、それでもあの「エグさ」にはいささか辟易した。実際、ちょっとイヤ〜な気分になるところもあったもんねぇ。ただ、僕はそれも込みで作品全体を肯定した。それと言うのも、あれってあの映画に「付き物」だ…と思っていたからなんだよね。「エグさ」はエスカレートしたギャグと不可分のもので、それなしに作品も成立しないのかも…と、僕自身を納得させて見ていた。それは間違ってはいなかったと思うけどね。

 ところが…今回どうやらチャウ・シンチーは、そんな「エグさ」の分離に成功したみたいなんだよね。

 見た人ならお分かりのように、今回あの手の嫌悪感を催す描写は極端に減っている。前の作品に退いた人でも、これなら見れるはずだ。そういう意味では、これが今回の作品の最大の特徴であり…ここは大いに意見の分かれるところだが、最大の変化と言ってもいい。

 では、なぜ今回「エグさ」を分離出来たのか?

 それを解き明かすには、なぜ前作に「エグさ」が必要だったのか…を知る事が必要だ。それは、先に「エスカレートしたギャグと不可分のもので、それなしに作品も成立しないのかも」…と書いた事に関わってくる。前にチャウ・シンチーのギャグは、僕が最初に彼の映画を見た「0061/北京より愛をこめて」の時と、基本的に何ら変わっていない気がするんだよね。マンガみたいで単なる思いつきで…まぁ、ズバリ言ってしまえば表層的には「幼稚」。実はその「幼稚」をまったく照れもせずに、堂々といい大人が手間ヒマと大金かけてやってるところがスゴいんだけどね。でも、基本的に「幼稚」である事は否めない。「幼稚」であるということは、言い方を帰れば「無邪気」であり「童心」でもあるだろう。それって「可愛らしく」もなっちゃうよね。

 翻ってイマドキの観客の心情からすると、それって果たしてどうだろう? ドライに笑いたい今の観客にとって、どのように思えるのだろうか? 「幼稚」ギャグをどんどんエスカレートさせた「可愛らしさ」が、イマドキ観客をシラケさせる事にはならないだろうか?

 少なくとも、チャウ・シンチーはそれを恐れた可能性がある。コメディ作家としては、それが怖かったんじゃないかと思う。そこで「幼稚」ギャグに「下品」さを媒体にして「エグさ=毒」を注入した。あるいは「童心」の持つ残酷さに着目しての「エグさ」注入だったかもしれない。ともかくそういう「エグさ」…生理的嫌悪感を伴いかねないクドい要素を盛り込んで、映画全体あるいはギャグが本来持っている「可愛らしさ」を覆い隠そうとした。僕はそれがあの「エグさ」の真相だったんじゃないかと思うんだよね。「エグさ」描写の数々の持つ、どこか「偽悪的」な雰囲気もその印象を強めている。あれは一種の「ポーズ」だったのだろう。

 では、今回それらが影を潜めたというのはどういう事を意味するのだろうか?

 そこにはいくつかの理由が考えられるだろう。一つには、彼が映画づくりへの自信を深めたということだ。CG技術という味方を得てギャグを目一杯エスカレートさせれば、偽悪的ポーズなしでも観客をシラケさせない事を確信した。そこまでやれば、ギャグは「可愛らしさ」と受け取られかねない「無邪気」や「童心」をブッちぎって、まったく別の破天荒なゾーンへと突入してしまう。

 いわく、宣伝コピーにもあるあの文句…「ありえねー」だ(笑)。

 あるいは彼は、演出上の緩急の妙というものを会得したのかも知れない。実は今回の映画には、「エグさ」が影を潜めた以上により大きな特徴がある。

 それは、トゥマッチとミニマライズの共存だ。

 トゥマッチは…以前から行ってきた事の延長であるのは間違いない。これでもかのエスカレーション。これでもかの物量。これでもかのバカバカしさ。「少林サッカー」である程度までの結実を見せていたものを、ここでさらにパワーアップさせている。過剰すぎるくらい過剰。

 だがそれと同時に、以前にはあまり見られなかった「抑制をかけた部分」も多く見られる。

 つまらない例を挙げれば、「豚小屋砦」の住人たちの姿をカメラがサーッとナメていくショット。実はそこに尻を出してクソを垂れている人物がさりげなく写っている(笑)。ところがそれは本当にチラッとしか見えない。笑わせようとするこれみよがしな強調はまったくしていない。だからこそなおさらオカシイのだが、明らかに「押し」一辺倒ではない「引き」のギャグ描写が行われているのだ。

 また、冒頭でヤクザが足を斧でブッた切られる描写でも、血の一滴も出ない。まるで「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)のエンディングでの、ルーク・スカイウォーカーみたいな描き方だ。これが意識的に行われた事は、その後の描写を見れば分かる。チャウ・シンチーが「豚小屋砦」のオバサンから腹に一撃食らう場面を見れば、彼は思いっ切り血を吐き出しているではないか。明らかにチャウ・シンチーは、場面に応じてデリケートな表現の使い分けをしている。その上で…先に述べたような「エグさ」や生理的嫌悪感を取り除くために、巧妙な努力を行っているのだ。

 そんな「抑制」は、映画の構造全体にも見られる。

 例えば思いっ切り湿っぽくなりそうなヒロイン絡みのエピソードを、この映画では思いっ切り刈り込んで描いている。全体の中ではほんのちょっぴりの分量でしかない。では取るに足らない要素かと言えば、まったくそんな事はない。むしろ映画全体のテーマと関わる重要な部分なのだ。これは一体どういう事か?

 このヒロイン絡みのエピソードでは、極端に目立つ傾向が見いだせる。それは描写の「記号化」、あるいは「アイコン化」だ。

 ヒロインの思いと主人公の内なる「良心」は、ペロペロ・キャンディーという「アイコン」として画面に登場する。ペロペロ・キャンディーは劇中で一度砕かれ、瀕死の身になった主人公の蘇生に先立っての「精神の蘇生」として血染めの絵で表現され、いよいよ最後にはキャンディーの店というカタチで結実を見せる。

 さらには戦いの終わりがもたらす平和や、邪悪に対する善の勝利というものを、敵の武器からモーフィングさせた花びらで表現。その花びらはヒロインの元へと降りてくる。このようにヒロインのエピソードは、徹底的な「象徴」による描写で終始している。

 そこでは、主人公とヒロインのグチグチメソメソした会話なりやりとりは皆無だ。そもそもヒロインが話せないんだから無理もない。そして、それはすべて「アイコン」によって十二分に描かれている。だから冗長に描く必要などないのだ。むしろ「抑制」したからこそ、それは鮮やかに表現出来る

 第一、ヒロインに「話せない」というハンディキャップがあること自体、一種の「抑制」を狙っているのは明らかだろう。それは「ストイシズム」と言い直してもいい。もっと言ってしまえば、それって例の「エグさ」の排除と共に、一種の「ソフィスティケーション」と見なしてもいいんじゃないかと思う。どちらもチャン・シンチー「らしくない」言葉だが、僕にはそう感じられるんだよね。

 まぁ、ひょっとしたらこのあたりこそが、今回の映画の評価が大きく割れるところだろうか? というのは、旧来からのチャウ・シンチー・ファンや香港映画ファンは、あの「エグさ」や「臭み」こそを愛好しているかもしれないからだ。それが影を潜めたチャウ・シンチー映画はつまらない、あるいはチャウ・シンチー映画とは言えないと思うかもしれない。「くさやの干物」を愛好する人と同じ(笑)…で、得てして「マニア」とはそういうものだろう。

 前作の世界的大成功で一気にマーケットを拡大させたのであろうチャウ・シンチーとしては、やはりあの「エグさ」「臭み」がネックになっている部分もあると痛感したかもしれない。今回その方面のテイストが抑制されたのには、そんな事情も大いに働いてはいるだろう。僕にはそれは明らかに「進歩」だと思えるのだが、このへんの受け取られ方ばっかりは僕にもちょっと何とも言えない。マニア的にはいささか喜ばしくない傾向と受け取られるかもしれないね。またぞろマニアには、「オマエは分かってない」とお叱りを頂戴するかもしれない。だが、ここで自分にウソをついてもしょうがないだろう。

 だが、今回チャウ・シンチーが「エグさ」という偽悪的ポーズを抑えた理由は、それだけではない。それは前述のごとく彼が緩急のついた演出を手の内にして、自らの映画づくりに自信を深めたという事だと思われる。その上で「抑制」のきいた演出を行うために、「エグさ」がジャマになると思った部分も少なくなかったはずだ。

 そして僕は、彼が偽悪的ポーズを取るのをやめたことについて、実はさらにもう一つ理由があると思うんだよね。

 それは、彼が自らの意図をオープンにするのを躊躇しなくなったこと。

 映画づくりのモチベーションについても、映画づくりの姿勢についても、「真摯な気持ち」を露わにする事を恐れなくなったという事があるんじゃないか?

 

チャウ・シンチーが見せる「映画史」への真摯な眼差し

 この映画ってチャウ・シンチーはブルース・リーに対するオマージュとしてつくったと発言しているらしい。確かにそれはそうだろう。この人自身がブルース・リーにかなり傾倒しているというのは、門外漢である僕ですら知っている。しかもそれで「カンフーハッスル」と来れば、意識しない訳があるまい。ここではブルース・リーと、彼が象徴するところのカンフー映画そのものに対して、深い敬意を持ってつくっているのだと思う。

 劇中で仇役を演じるブルース・リャンも、カンフー映画が好きな人なら嬉しいキャスティングらしい。「らしい」と言わねばならないところが僕の情けなさだが、正直言ってあまり詳しい人間じゃないからね。だが、その名前だけは知っていた。蛇足を承知で僕と同じような門外漢の方のために言わせていただければ、「ブルース・リャン」という名前ではあっても決して1970年代の「ドラゴン」ブームに乗ってウジャウジャ出てきた「バッタもんブルース・リー」の役者たちみたいな人ではないらしい。カンフー映画ファンには相当注目されていた、割と「通好み」の役者さんだったらしいんだよね。これはモノの本の受け売りだが、このあたりの人選からしてチャウ・シンチーの意図は明白だろう。そんな「ホンモノ」カンフー・スターを、あえて宿敵役に持ってきたわけだ。

 そういう意味で言えば…実は今回の映画を語るには、僕は適任者ではないんだよね。というのは、僕はあまりに香港映画を知らなすぎる。カンフー映画も知らなければ、それ以前の豊富な娯楽映画の遺産も大して知らない。だからこの映画に含まれているであろう、数々の引用も分かっていない。こうやって書いていても、いわゆる「通」の人々に冷笑されるための材料づくりを、わざわざ自分からしてやっているような気がする。だが、確かにそこに「何かがある」ことだけは伝わってくるのだ。ここでは分からないなり、どこかの受け売り知ったかぶりなりに、この映画のそういった側面について考えてみたいと思う。今回はそのあたりをご理解の上、どうかみなさんにはご容赦願いたい。

 大体情けない話だが、今回の映画の舞台はいつ頃でどこの街か…実は最初はよく分からなかった事を白状しなくてはいけない。ただ、モダンな雰囲気ではあったのでかつての香港か、仮に大陸ならば上海ではないか…と当たりをつけたわけだ。公式サイトを覗くと実際には上海が舞台で、しかも「革命前夜」ということのようだ。中国に共産党政権が出来たのは1949年。そしてこの映画に登場するポスターの映画「トップ・ハット」は、1935年当時の作品だ。そこから類推して、時代設定は1930年代後半から1940年代前半と考えるのが自然だろう。

 もちろんここで時代設定をこのような過去に持ってくるのは、チャウ・シンチーが「カンフー」映画へのオマージュを捧げようとしているなら定石なんだろう。中華チャンバラの時代劇の頃からブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」(1971)にある日本占領下の中国に至るまで…どちらかと言えばカンフー映画は過去に舞台を設定するのが主流なはずだ。

 だが、今回いかに大資本の導入が可能になったとは言え、あの上海の街のセットはあまりに壮大にして豪華だ。そこには一種の執着のようなモノまで感じる。ズバリと言い切れなくて申し訳ないが…そこには香港映画のルーツともなった往年の作品群、かつてかなりの隆盛を見た「上海映画」へのリスペクトが見てとれるのではないか? 作品を数多く見ている訳ではないし、系統立ててちゃんと研究した訳ではないのでハッキリ言えないが、香港映画の基礎はおそらく1930年代あたりの上海映画人がもたらしたもののはずだ。そして当時の上海映画の雰囲気は…僕が見た中でのわずかな例を思い起こせば、あの時代にして目一杯ハイカラでモダンでソフィスティケートされたものだったはずだ。

 それって、今回の「カンフーハッスル」がバカバカしいとは言いながらチャウ・シンチー映画なりの「ソフィスティケーション」を遂げている事と、どこか一脈通じているものがあるのではないか?

 また口のきけないヒロインと主人公との関わりを描くエピソードの、イマドキ珍しいくらいの純朴さにも驚かされる。それは単にベタな設定と言うだけでは、ちゃんとその趣向の本質を言い表せない。そんな「ベタな設定」なんて「いかにも今風」で聞いた風な言葉では、そのモノ自体を表現しきれない。実際そんなモノではないだろう。むしろ「街の灯」(1931)あたりのチャップリンの作品群あたりに始まる、サイレントからトーキー初期あたりの「映画の原初的な風景」までを彷彿とさせるものではないか。

 と言うのは、この「カンフーハッスル」という作品には「映画の揺籃期」…その原初的風景にかなり敏感で意識的な態度が終始見え隠れしているからだ。

 そうでなければ壮大な上海セットを、あのように執拗なまでにリアルにつくり込まないではないか。この徹底的にバカバカしい映画にして、背景の1930年代上海の空気はあまりに過度に雰囲気を出してはいないか。だが、そこに香港映画…中国映画の「青春時代」があったとしたら、映画史に敏感な映画人なら敬意を表したいと思うはずだ。ここにはそういう意味合いがかなり濃厚に感じられるのだ。

 しかもある時期、カンフー映画・イコール・香港映画…と少なからず言える時期があった事を考えても、チャウ・シンチーが真剣にカンフー映画へのオマージュを捧げたいと考えたなら、それは「香港映画史」への旅というカタチをとる事が必然だったはずだ。

 おまけに「斧頭組」一味とチャウ・シンチーの終盤の戦いなどは…広場で繰り広げられる多勢に無勢の死闘、ポンポンと空中に放り出される黒服の一団…という絵柄から、何となくマトリックス・リローデッド(2003)のネオ対エージェント・スミス軍団の戦いあたりが脳裏に浮かんでくる。おまけにアクション指導はその「マトリックス」も手がけたユエン・ウーピン。つまり最終的にハリウッドにまで辿り着いた香港アクションの象徴だ。

 しかもヒロインの登場場面に出てくる、映画「トップ・ハット」のポスターを思い起こして欲しい。ここでは明らかに、作者が「それ」と見せようとしているのは明白。そしてこの作品は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの名コンビの文字通り「代表作」だ。

 こうなると時空を超えた香港映画…いや、アステア=ロジャースと「マトリックス」をブックエンドにして、洋の東西をも越境した映画の歴史を丸ごと見ているような感慨すら受けてしまう。そこでの共通のキーワードは、スクリーンにおける肉体による「パフォーマンス」だろうか。あるいはアステア=ロジャース映画のソフィスティケーションが上海を経由して香港にたどり着き、やがてその香港から新たな映画言語がハリウッドへと再発信されていくプロセス…。

 劇中で「シャイニング」(1980)の引用などが出てくるのはご愛敬ギャグとしても、映画の「器」全体に見られる「映画史」への眼差しは、どう考えたって真剣そのもののような気がするんだよね。もちろん香港映画人としての立場からの、それは真摯な眼差しだ。「カンフーハッスル」が「カンフー」である所以は、そこにこそある。

 ここに僕が並べたゴタクは、ひょっとしたら…というより、かなりの確率で戯言だと断言されてしまうかもしれない。何しろチャウ・シンチーがもしそうした作品群に敬意を表そうとしているならば、僕はその大半の部分であるカンフー映画そのものをよく知らないのだ。こういう作品には沈黙を守っている方が賢明であるのかもしれない。おそらく僕は墓穴を掘っているだけだろう。だがこの作品には…仮に「単なる娯楽」であったとしても、すでに何やらただならない雰囲気が漂っている。

 この映画の日本での宣伝コピーは先にも挙げたように、「ありえねー」という軽薄そのものの文言だ。だがこうした映画全体の構造を考察すると、このコピーがいかにこの作品にそぐわないものかお分かりいただけるだろう。この映画がマジメな意図でつくられたものである理由は、僕がここまで挙げた通りだ。

 この映画がバカ映画である事の方が、むしろ「ありえねー」のである。

 

見た後の付け足し

 先に僕はこの映画を、いつになく「抑制」が効いていると述べたよね。その例として、いわゆる「エグい」描写の大幅な削減やら、ヒロイン絡みのエピソードの驚くほどの比重の少なさを挙げたと思う。

 だが実はそんなモノよりも、もっとビックリするほど極端に少ない要素がある。

 それは、肝心要の主人公…チャウ・シンチーその人の登場場面だ。

 まずは冒頭場面からして出てこないのはともかく、出てきたと思ったらすぐに場面の中心から排除されて姿を消している。その後も延々とそんな調子だ。実は物語の中盤を過ぎるまで、彼は主人公らしい活躍は全くしていない。というより、そもそも画面に出てきていないのだ。

 確かに多彩なキャラクターを次々出していって、観客を面白がらせたいという意図はあっただろう。だが、それにしたって異例に出番が少ない。それでいて…彼が主人公である事は間違いがない。あくまで主人公…それもエンディングまで見れば、ヒーローとして出ている事は誰の目からも疑いの余地がない

 だが、こんなに主人公の登場の比重が少ない映画って、純粋娯楽映画で今まであっただろうか?

 これはロバート・アルトマン映画なんかじゃない。ヒッチコックのサイコでもない。コミカルで単純な大衆娯楽映画もいいとこだからね。それなのに、この主人公の出番の意表を突いた少なさ。ハッキリ言うと、大衆娯楽映画のドラマトゥルギーやセオリーから見て、この映画は構成上大きく破綻しているんじゃないかとさえ思えるんだよね。

 だがそうは思っても…この映画はすごく面白いし、「成功作」であることを僕は信じて疑わない。なぜか?…を説明するのは極めて困難だが、確かに構成は破綻しているにも関わらず、素晴らしい出来だと言わずにいられないのだ。あまりの熱気とパワーに圧倒されてしまう。

 で…構成は破綻しているのに訴求力は圧倒的…と語っていくと、このサイトを見ていただいているみなさんには、何かピンと来るものが感じられるのではないか?

 そう! 僕は2004年を彩った数々の映画で、この顕著な特徴をさんざ挙げていた。

 それらはすべて、映像テクニックに長けた作家たちがあえて構成上の「うまさ」や「バランス」を捨て去って、強烈で圧倒的な訴求力を手にしようと試みた作品群だ。成功作もあれば失敗作もある。意図的にそれを狙ったものもあれば、たまたまそうなっちゃったごときものもある。だが、どれもそんな「従来よりのバランス」をあえて崩した作品であることは間違いない。

 そして…そこにこのチャウ・シンチーの作品を当てはめるのは、いささか勇み足であるとも思える。

 だが従来の彼の作品は、その度を超した「過剰さ」と「エグさ」を除けば、基本構成は意外にオーソドックスだったはずだ。ところが今回は、なぜか構成のバランスを大きく崩している。

 それは一体何のためか?

 もしこの作品が、前述のさまざまな作品群同様に「あえて破綻を選んだ」作品であるならば、それは従来より以上の「強烈で圧倒的な訴求力」をどこかに持ち込もうとしたからに他ならない。

 僕はそれを、前述したごとくチャウ・シンチーの「真摯な気持ち」であると考える。

 映画づくりのモチベーションについても、映画づくりの姿勢についても、「真摯な気持ち」を露わにする事を恐れなくなった…。真面目につくっている事を隠さなくなったと思うし、そこで語ろうとしている事も…実はかなり真面目な事じゃないかと思える。それがかなりストレートに出てきているんだよね。ここでは彼本人をグッと後方に押しやる事で、ここまでに至る香港ないしは世界「映画史」への目配せを行ったと見るのが妥当じゃないかと思っている。自分はその「末席」を濁す一人だと…あるいは自分もまたこうした映画の伝統や歴史の一端なのだ…と。

 それは彼の映画を愛する気持ち…無邪気なまでの一途さを感じてやまない。

 ではチャウ・シンチーをして今回そこまで「真摯な気持ち」を露わにさせたものは、一体何なのだろうか? それを考えるにあたっては、まず「なぜ従来はそうしなかったのか?」を考えてみる必要性があるかもしれない。

 実は「少林サッカー」感想文でも述べていたが、僕はチャウ・シンチーって実は意外とマジメなんじゃないか?…って思っていたんだよね。それで思い出したのは…オースティン・パワーズ・ゴールドメンバー(2002)でのマイク・マイヤーズの事だ。あれもバカ映画としてひたすらくだらなさが喧伝されてはいたが、妙なところで意外なまでのマジメさがひょっこり顔を出してくる。その時に思ったのは、あのバカバカしい笑いこそ作り手マイヤーズの猛烈な照れ隠しなのではないか…ということだった。

 実はチャウ・シンチーにも、同様のことは言えないだろうか。

 そういや前作の「少林サッカー」でのヒロイン=ヴィッキー・チャオの悲惨な扱いなど、誰かが「男の子が可愛い女の子をついついいじめてしまうみたい」と表現していたが、さもありなん。実際にチャウ・シンチーなる人は、可愛い女の子とロマンティックな場面など演じるなんて、冗談でも照れくさくてたまらないのではないだろうか。「単純幼稚」ギャグをシラケさせないため…という理由もあったろうが、あの「エグい」偽悪者的ポーズは、むしろ照れ隠しの意味合いの方が強かったのかもしれない。

 ところが今回、彼はそんな「照れ隠し」をほとんど行っていない。

 今回のヒロインなど、汚しもオチャラカしもされずにキレイなまま。そこでチャウ・シンチーは、堂々たる360度のカメラ回転で再会場面を撮って幕としている。ブライアン・デ・パーマやヒッチコックも真っ青のロマンティシズム全開。それを目撃する観客にとっては、まさに「至福の瞬間」だ。そしてそこでうたい上げられているのは、誰もが子供の頃に持っていたはずの「純粋さ」「良心」「善性」の復権…。

 それは、「少林サッカー」でも最終的にうたい上げられていたものだ。だが前作では、これほどハッキリと分かるカタチで打ち出されてはいなかった。

 チャウ・シンチーが、今になってそれをフィルターなしのストレートで打ち出す気になった理由は、実は僕にもシカとは分からない。だが作品というものはどうしたって作り手そのものを表現するものだ…と言うのなら、確かにそこにこそチャウ・シンチーの本音があるだろう。

 今一度、思い起こしてみよう。主人公の目覚めはサナギからチョウへの脱皮で示され、クライマックスの戦いでは天に神仏まで現れる。そのあげく、武器は花びらとなって舞い落ちる。もはやそれは暗示や比喩でもない。言わんとしている意味「そのまんま」のアイコンが提示される。

 ひょっとして、もはや「人や世の中はかくあるべき」というチャウ・シンチーの思いを偽悪的ポーズとオチャラケというオブラートに包んで描いていられるほど、世の中にも彼自身にも余裕がなくなってきているのではないか? 身近な事を見ても広い視野で考えても、確かに人心は殺伐として荒廃の極みと言えなくもない。事態はもはやそこまで差し迫っているのではないか? だからこそあえて作品バランスを崩してでも、圧倒的訴求力を選んだのではなかったか? だとしたら、この映画にはチャウ・シンチーの真摯な祈りのような思いも込められているのかもしれない。

 キャンディー屋の前で童心に返って微笑み合う二人…あまりにあまりな直球ストレートの結論を目の当たりにして、すべては自分の妄想と知りつつ、僕はついついそう考えざるを得ないんだよね。

 

 

 

<注1>

偶然ではあるが、僕はDVDやVCDとして復刻発売中のショウ・ブラザース作品の中に、「如来神掌/Buddha's Palm」(1982)なるタイトルの作品が存在するのを見つけた。しかも劇中には「火雲邪神」なる名称まで出てくる。内容は明らかに時代劇なのに、手からレーザー光線みたいなものを発射するような荒唐無稽なもの。どうも原作はマンガのようで、そのまま絵が出てくる場面すらある。もしこれが元ネタだとすると、チャウ・シンチーの発想以前…その原点からしてバカバカしい誇張に満ちていたようだ。ただし「如来神掌」をタイトルに含む作品は、1964年の同名作品やその続編などこれ以外にも多数存在する。また「如来神掌」自体が、香港では極めてポピュラーな固有名詞である可能性もある。そして、それらが実際にはどのような内容のモノなのかも僕には分からない。従ってこれらが本当に「カンフーハッスル」発想の原点か否かは何とも断定し難い。分かったようなフリをする気もない。

(もしこの事がカンフーやら香港映画に詳しい人からすれば「常識」で笑止千万だったとしたら、どうか僕の無知を笑ってお許しいただきたい。)

 

 

<追加>

この感想文をアップ後に、上海のセットは「上海版映画村」という既存の施設を使って撮影されているのではないか…とのご指摘をいただきました。そうなると上記感想文には大きな誤りが含まれることになりますが、その部分を削除して間違いを犯さなかったフリをするのも気が退けますので、このまま訂正せずにこの「追加文」を加える事に致しました。何とぞご了承下さい。

 

 

 

 

 

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