第29回:人の絆の大切さ、ウィリアム・ゴールドマン

William Goldman, the Man Related to Somebody

(2004/07/26)


脚本家兼小説家のウィリアム・ゴールドマンって今でも現役で頑張っている人だけど、そのホントにスゴかった時期ってのは1970年代なんじゃないかと思うんだよね。この時期のゴールドマンってのは、確かにアルヴィン・サージェントらと共に、アメリカ映画をしっかりと支えていた。そしてロバート・レッドフォード、ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマンといったアメリカ映画界の一流スターと組んで、実に多彩な活躍を見せていた。そう。この人って、人との関わりを大切にして、今までずっと仕事を続けてきたフシがある。実はそれってこの人の作品そのものにも言える事なんだけどね。ここではそんなゴールドマンにアブラが乗り切っていた、1970年代中期の作品に注目してみたい。

 

「大統領の陰謀」 All the President's Men (1976)

ゴールドマンのフィルモグラフィーを見ていくと、奇妙な点に気付く。それは同一映画人との関わりと、それが新たな関わりを生んでいく過程だ。私立探偵ルー・ハーパーの活躍を描いたハードボイルド探偵映画「動く標的」(1966)で主役を務めたポール・ニューマンとは、「明日に向かって撃て!」(1969)で再び組むことになる。ここでニューマンと共演したレッドフォードとは、その後「ホット・ロック」(1971)、「華麗なるヒコーキ野郎」(1975)で立て続けに一緒に仕事をすることになる。自作の小説の映画化「マラソンマン」(1976)でダスティン・ホフマンと組んだと思えば、次に来る「大統領の陰謀」ではレッドフォードとホフマン共演と来た。実はこうしたゴールドマンの人から人へ…の系譜はその後も続くのだが、特にこの時期アメリカ映画の中心的存在だった男性スターたちと関わっていたということが、確実にゴールドマンのポジションを重要なものにしていたのは間違いないところだ。

この「大統領の陰謀」、もちろんみなさんご存じの、ニクソン大統領を失脚に追い込んだウォーターゲート事件と、それを追求したワシントン・ポスト紙の記者二人の活躍を描いたものだ。原作はこの二人の書いたルポだから、まさに実話もの。元々政治には関心の深いレッドフォードが映画家権を押さえたが、スタジオ内にワシントン・ポスト者の編集部をそのままセットで作り上げるなど制作費がかさみ、当初無名の役者でいくはずがレッドフォード自らが主演することになったわけ。そうなるともう一人の記者も大物役者が要るということで、やはりこの原作獲得に意欲を燃やしていたホフマンが呼ばれる事になった。

監督はそのちょっと前にウォーレン・ビーティ主演の政治サスペンス「パララックス・ビュー」(1974)でいい味を出していたアラン・J ・パクラが指名された。そして脚色は…もちろん本稿の主役ウィリアム・ゴールドマンだ。

ゴールドマンと言えば前述「動く標的」「マラソンマン」など、ミステリー・タッチのサスペンスものがお手のものだ。つまりは「探偵もの」が得意なんだよね。それはこの後のキャリアについても一貫している。この時も、そこらへんの力量を買われたのは間違いない。ウォーターゲート事件も、ある意味で大統領の悪事を調べていく「探偵物語」だからね。そして何よりレッドフォードの厚い信頼を得ていた事が大きかったのは事実だったろう。

1972年のある日、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党オフィスに不審な男たちが侵入し、うっかり警備員に見つかってしまう。この些細な事件が発端となって、再選を狙うニクソン大統領が敵を撹乱すべく悪事を企んでいた事があぶりだされていく。

とにかくアメリカの政治や選挙に関わる事で、それでなくても日本の僕らにはなじみが薄い。そこへ来てカタカナのアメリカ人の名前や固有名詞がゴチャマンと出てくる。だから正直言って映画を見ていても、今、レッドフォードとホフマンの記者がどの程度真相に肉薄していて、どんな事実が分かっているのか、何を調べようとしているのか…ハッキリ言ってまるで見ていて分からないわけ。

では、つまらないのか?

それが違うんだなぁ。日本で言うところの国会図書館みたいな所に通い詰めて膨大な資料と格闘したり、さまざまな証人にシラミつぶしに会いに行ったり、そんな最中に身の危険を感じ始めたり…そんなレッドフォードとホフマンの演じる記者二人の一挙手一投足がとにかくカッコいい。そんなこんなでお話はまるで見えないけれど、カッコよく見せられてしまう。

その最たるものが二人が勤めるワシントン・ポストの編集局でのやりとりだ。記者たちがひしめく編集室の中を、レッドフォードとホフマンが縦横無尽に行ったり来たり。それをカメラが自由自在に追いかける。劇中何度も繰り返されるこの手のショットが、何ともシビレるくらいにカッコいいんだよ。

この映画の制作予算が膨らんだためにスターのレッドフォードとホフマンを投入しなくちゃならなくなったと先に書いたけれど、その予算の掛かった部分の一つがこの編集部のセット。それも、実際のワシントン・ポストのそれと寸分違わぬホンモノっぽさってだけじゃない。リアルなタッチで撮影するために照明はすべて蛍光灯で行われたらしいのだが、映画用カメラとレンズで撮影可能なようにセットの天井に膨大な数の蛍光灯が取り付けられ、しかも光量を自由に調節出来るようにしてあったらしい。そして完成した映画を見れば分かる通り、編集部のセットの中をカメラがダイナミックに行ったり来たり出来るようにもなっていたはずだ。なるほど、これでは実際のワシントン・ポストでのロケ撮影は無理だ。巨額のセットは伊達じゃない。むしろこの映画の「命」と言ってもいいんだよ。

で、それってアラン・J・パクラの演出プランだったのかもしれないが、ドラマの当初の構想からあったんじゃないかと思うんだよね。つまりはウィリアム・ゴールドマンの脚本に…だ。

多彩でさまざまな人物が右往左往し、いろいろな名前が飛び交って時にはディティールが見ている側には見えなくなりつつドラマは進行していく…それってアメリカのハードボイルド私立探偵ものにありがちなパターンではないか。それでも見る側が物語を完全に見失う事はない。なぜならディティールはどうあれ、物語の大筋だけハッキリしていれば何となく分かるからね。後は悪漢が誰かが分かればいい。では、こういう物語の命はどこにあるのか…と言えば、主人公である探偵のカッコよさと彼をとりまく状況のムードさえうまく出せれば、結構面白く見せられるのだ。そして「探偵もの」はゴールドマンのお手のもののジャンル…。

証人たちに当たったり資料を調べたり、何より自分たちの根城のワシントン・ポスト紙編集部での立ち振る舞いがとにかくカッコいい。そしてそんな彼らが取材に明け暮れるのは、独特な空気の漂う政治の街ワシントンD.C.。そして悪漢は世界最高権力者、アメリカ大統領ニクソン。すべては「探偵もの」のルーティンに見事に収まっている。

おまけに真相究明に道をつけてくれるナゾの告発者「ディープ・スロート」(ハル・ホルブルック)の登場シーンなど、人けのない駐車場での場面が何とも独特な怪しい“それ”風の雰囲気なのだ。さらには主人公二人の上司にあたる連中が、ジェースン・ロバーズ、ジャック・ウォーデン、マーティン・バルサム…と、一癖もフタクセもある辛い味わいの男優ばかり。中でもジェースン・ロバーズと来たら「ジュリア」(1977)でハードボイルド作家ダシール・ハメット役を演じているだけに、デスクに豪快に足を投げ出していかにも“それ”っぽい。ハードボイルドな「探偵もの」のお膳立ては一切合切そろっているじゃないか。

考えてみれば「探偵もの」って、人と人の関係性を探っていく話だよね。さらには人から人へ人脈をつたって行くように、証言や証拠を求めて尋ね歩く。

また「探偵もの」では、しばしば思いもかけぬ人と人の関わりが暴かれたり、関わるはずではなかったはずの人と人が関わり合う事で予想外の事件が起こる…というシチュエーションが語られる。そういうドラマの骨格そのものが、人間同士の関係性という要素を重要視するウィリアム・ゴールドマンの資質に合致していたと思えるんだよね。そして探偵ヒーローを、カッコよく面白く見せる活かし方を知っていた。

そんな「人と人との関係性」を重視するゴールドマンらしい場面が、実はこの映画のラストに出てくる。

“大統領や側近たち”の犯した罪を告発するために、一心不乱に編集部でタイプを打ちまくるレッドフォードとホフマン。その同じ部屋に置いてあるテレビ画面には、得意満面のニクソンの顔が映っているのだ。劇中では最大の悪党=ニクソン本人は出てこない。実際に二人とニクソンは会うこともないし、元々関わりなど持つはずもない人間だった。こうやっている今も両者はまったく違う場所で、片や最高権力者、片や吹けば飛ぶような新聞記者とまったく違う状況にいる。…にも関わらず、この強大な権力者は、吹けば飛ぶような記者に今にも凌駕されようとしている。互いに顔を合わせる事もないのに…。

 全く違う境遇、違う場所にいる、会ったこともない人と人…それだってどこかで何かでつながっている。それこそが「人と人とのつながり」で世の中渡って来たようなゴールドマンの人生観なのかもしれないよ。

 

 

「遠すぎた橋」 A Bridge Too Far (1977)

さて、ゴールドマンはさらに戦争超大作「遠すぎた橋」の脚本を手がける事になる。原作は「史上最大の作戦」のコーネリアス・ライアンというのだから、あの顔見せ興業風のオールスター戦争大作というイメージがどうしてもつきまとう。で、実はもうこの1970年代中盤という時点で、そのタイプの戦争ものと言うと時代遅れな印象がせざるを得なかった。

それでもこの映画の豪華キャストが発表された時には、僕も正直言って驚いた。ショーン・コネリー、マイケル・ケイン、ジーン・ハックマン、エリオット・グールド、アンソニー・ホプキンス、ジェームズ・カーン、ライアン・オニール、ロバート・レッドフォード、エドワード・フォックス、ダーク・ボガード、マクシミリアン・シェル、ハーディ・クリューガー、リヴ・ウルマン、ローレンス・オリヴィエ…まぁ、とにかくよくもまぁこれだけ集めたものだ。当時の米英の一線級の男性スターはほとんどっていいほど出てるんじゃないか。少なくともこの当時で国際的知名度のあるドイツ男優は、クルト・ユルゲンスを除く二人をバッチリ網羅してある(笑)。レッドフォードとかはこんな顔見せ映画に出ないと思ってたから、僕は驚いたよ。それもこれも、ひょっとしたらゴールドマン脚本効果なのかもしれないね。

しかも、これを俳優のリチャード・アッテンボローが監督すると聞いて二度ビックリだ。大丈夫なのか?

で、物語はと言うと、実はおめでたくも勇ましい「史上最大の作戦」(1962)とはまるで違う傾向の作品だったんでまたまた驚いたんだよね。あんな連合軍大勝利なんて調子いい話じゃない。ナチスを一気に壊滅にかけるべく、オランダで空から陸路から一気に攻め込み、ベルリンへの進撃路を奪還する「マーケット・ガーデン作戦」の全貌を描くものだが、これってハッキリ言うと負け戦なのだ。それもナチの猛攻にあったからじゃない。むしろこの時はナチは退潮の一途をたどっていて、連合軍は自らの見通しの甘さとノルマンディ上陸作戦勝利からの慢心で自滅する。その途方もない徒労のすべてを、巨額の制作費と3時間近い上映時間を投じて描ききるというのがこのプロジェクトの狙いだ。

だから連合軍の兵士たちや罪もない村人たちが、いとも簡単にコロコロ死んでいく。村の建物はバンバン破壊され木っ端みじん。意気揚々と出かけていった連合軍兵士はみんなヘトヘトでグッタリ。何とも全編に渡って厭戦気分の漂う「超大作」なのだ。つまり極めて真面目な意図を持った映画なんだよ。

ならば…この映画の「豪華な超大作」気分ってのは、その訴えたい内容とそぐわないのではないか?

長尺と莫大な制作費ってのは、僕は意味があると思うよ。それはこの作戦の持つ意味…あるいは戦争全体に渡って普遍的な事かもしれないが、ただただ「壮大な徒労」「虚しい浪費」…を描くためにどうしても必要だったということだ。確かにこの映画にはセリフで一言もそれに類する事を伝ることなしに、有無を言わさず「戦争の壮大な無駄」を観客に実感させるところがある。それはこれだけ時間をかけてお金をかけて、セットをブチ壊してエキストラを動員して初めて、無言で分からしめるものなのかもしれない。金さえかけりゃいいってもんじゃない…とはよく言われる超大作批判だが、映画ってものには金をかけなきゃ描けないってものもあるのだ。

だがそれでも、この映画のオールスター投入ってのはよく分からなかった。先に述べたようにお金がかかるのは仕方ない。だけど一人や二人じゃない半端じゃない数のスターで全編を敷き詰めて「豪華大作」に見せちゃったら、せっかくの真面目な意図が全然届かなくなっちゃうんじゃないの?

そして、この映画にはもう一つ困った問題点があった。それはいくつもの方向から5つの橋を攻略すべく攻めていく連合軍側とそれを死守しようとするドイツ軍側が、一体いかなる位置関係でどのように戦っているのか…そもそも戦況はどうなっているのか、映画を見ているだけではサッパリ分からない点だ。一応場面が転換するたびに、場所と時間が画面に出てくる。だが、すぐにそんなのは何が何だか分からなくなるのだ。あとは途方もない破壊と殺戮、徒労と浪費…。

それでも僕は、たっぷり出てくるスターの見せ場を楽しんで、それなりに元は取った気になっていたけどね。特にジェームズ・カーンが自分より若いひ弱な上官を守って、必死の敵中突破を行うくだりは圧巻。絶対守ると約束したこの上官を何とか味方陣営に連れ帰ると、なかなか傷を診ようとしない医師に銃まで突きつけて診察させようとする。今にも本気で撃ちそうなこのキレっぷり、一途ぶり。さすがカーンだ。その場が戦場だろうと何だろうと、納得出来ないと相手構わずブチギレる(笑)。僕がカーンに期待している魅力のすべてを見せてくれるから嬉しくなる。こういう小さい見せ場が無数にあるのがこの映画なのだ。つまらないとは言わせない。

ただ、先に述べたようにバランスの悪い映画ではあると思ったんだよね。だからこの映画の日本公開に併せて、エリオット・グールドやアンソニー・ホプキンスと共にゴールドマンまで来日した時、このあたりの質問がゴールドマンに集中したのは仕方なかったのかもしれない。実際にゴールドマンには、映画ではどこで何をやっているか分かりにくい…などの指摘が飛んだ。そんな事を言われてゴールドマン気を悪くするかと思いきや、「わかりにくかったかねぇ?」などと悪びれなかったから人格者なのか何なのか。ともかくその淡々ぶりに、僕は驚いちゃったんだよね。そして僕は、実はゴールドマンってそんな戦況や位置関係なんて、全然ハッキリさせるつもりがなかったんじゃないか…って改めて気付いちゃったんだね。でなきゃ、あれほど平然としていられるワケがないだろう?

考えてみれば「大統領の陰謀」で、あれほど調査の進展ぶり、陰謀の全貌、事の真相…を分かりにくく描いたゴールドマン。おそらく彼には、元々そんなものを描く気なんかないのだ。ただ彼が描きたいのは、そういう状況下で人々が本来あり得ないカタチで絡み合い、関わり合っている様子だ。そして、それが最終的には一度も出会った事のない両者の予想もしなかった葛藤…新聞記者の取材がもたらす大統領の失脚…を生み出すって事をこそ描きたかった。それさえ分かれば、ディティールなんか飛んじゃっても全然問題ない。

ならばこの「遠すぎた橋」でも、ゴールドマンは同じ事をやろうとしたんじゃないか?

何カ国もの混成チーム、それぞれ姿勢も違えばモチベーションも異なる兵士たち…しかも同国軍人であっても上の人間と一平卒では全然置かれた状況から気持ちに至るまで違う。彼らは顔を合わせる連中もいれば顔を合わせずじまいのヤツらもいる。それらが本来なら結びつかないカタチで結びついて、とんでもない誤算と予想外の事態を巻き起こす。もちろん最前線の向こう側には見知らぬ敵ナチス・ドイツだっている。

それって例えば彼の現代サスペンス「マラソンマン」とも共通するテイストではないか。平凡なマラソン青年がひょんな事からナチの残党に追われ、それまでの生活が一変してしまう。その落差…本来出会うはずのない、まるで縁がなかった人々が絡まり合って、とんでもない事件が起こってしまう…。

「遠すぎた橋」でもゴールドマンは、こうした戦場のカオスを通して自らの十八番「人と人とのつながり」「関係性」の不思議さ皮肉さを描きたかったんじゃないか?

ただ、これを延々やっても本当に何だか分からないし、おそらく退屈してしまうだろう。個々の主要キャラクターにスターを起用したってのは、おそらくこれを防ぐためだったんじゃないかと思うよ。だとすれば、これはかなり勇気ある作戦だ。その見方で見れば、この「遠すぎた橋」はまた別の見え方をしてくるから不思議だよ。

さてゴールドマンはこの「遠すぎた橋」での縁で今度はアッテンボローとつながりが出来て、その次作「マジック」(1978)を手がける事になる。というか、アッテンボローがゴールドマンの原作小説と脚本にほれこんだということか。ゴールドマンとアッテンボローは、チャップリン伝記映画「チャーリー」(1992)でもコンビを組んでいる。さらにロブ・ライナーに見込まれ「プリンセス・ブライド・ストーリー」(1987)で組むと、このコンビは「ミザリー」(1990)へと発展する。さらにさらに、ここでは原作者のスティーブン・キングに気に入られ、以降コラボレーションが続いている。…というように、どこまでも「人と人のつながり」を大切にするゴールドマンなのだ。

ただしさすがのゴールドマンも、近年は「将軍の娘/エリザベス・キャンベル」(1999)などイマイチな観があった。やっぱり全盛期は遠のいちゃったかなぁ…と思ってたんだよね。映画界の状況も1970年代とはガラッと変わったし。

ところが、そんな僕を喜ばせるゴールドマン映画が、今頃突然ひょっこりと現れたから驚いた。スティーブン・キング原作の映画化、ローレンス・カスダン久々の新作「ドリームキャッチャー」(2003)がそれだ。

凶悪な宇宙生物による地球侵略と、ある意味でそんな宇宙生物よりも邪悪な地球の秘密組織。そんな忌まわしき暗闘の最中に放り込まれた数人の男たちが主人公だ。だが、映画はあくまで主人公たちの幼い頃からの友情と、その奇妙な因縁を描き出す方に主力を置いているように思える。確かに映画としてのバランスはすこぶる悪い。だがSFホラーとしてのバランスを崩してまで「人と人とのつながり」「関係性」にこだわらずにいられないあたりが、ストーリーの説明不足を引き起こしてもあえて自分好みの構成をとった「大統領の陰謀」「遠すぎた橋」のゴールドマンらしい気がしたんだね。

そんな久々にゴールドマンらしい作品を、またまたスティーブン・キングがらみの仕事という「人と人とのつながり」の中で放ったというのも、実に彼らしくて嬉しかったよ。

 

 

 

 

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