第24回:見世物精神の権化、チャールトン・ヘストン

Charlton Heston, Mr. Spectacle

(2002/12/09)


今年になってマスコミに公表されたチャールトン・ヘストンのアルツハイマー病の発病のニュースは、長年映画ファンやってる僕にはかなり衝撃的な事件だったんだよね。だってこの人って、近年でこそ全米ライフル協会会長だとかガチガチの保守びいきだとかあまりいい話が伝わって来なかったものの、本来はアメリカ映画の大型スターとして燦然と輝いてた人だもんねぇ。まぁ、その「大型」っていうのは単純に体格がデカイってこともあったけど、とにかくこの人の出る映画ときたらスケールがやたらバカでかい。でもこの人は近年のアメリカ映画の変質の中で何度か低迷期を迎えながら、そのつど奇跡的な復調を遂げても来たのだ。今回はそんなヘストンの活躍を、この人としては比較的地味な作品から振り返ってみたい。

 

「地球最後の男/オメガマン」 The Omega Man (1971)

僕がチャールトン・ヘストンをスクリーンで最初に見たのは、このSF映画から。実は僕が映画好きになったのにはいくつか段階があって、幼い子どもの頃の東映まんがまつりと「黄金バット」実写版に始まり、ビートルズ映画熱とテレビの洋画劇場ブームの最中の、この「オメガマン」で決定づけられたというのが正確なところなんだね。

この映画、広告がとにかく面白そうだったんだろう。当時すでにSF小説が好きで、J・G・バラードの終末モノをむさぼるように読んでいた僕にとっては、これも「人類滅亡モノ」として面白いはずだと盛り上がったはずだ。で、確かロードショーなんかとっくに終わった後の二番館か三番館でこの映画を見たような記憶がある。冒頭にワーナー・ブラザースのマークが出ただけで興奮して、俺はハリウッド映画見ているんだぞ〜って気になった(笑)。子供の頃の刷り込みってのは怖いもので、僕はいまだにワーナーのマークを見ると(マークそのものは昔と変わってるのに)えらく興奮してしまうんだよ。

で、主役がチャールトン・ヘストン。このワシ鼻の彫りの深い男の顔は、「オメガマン」一本で僕の脳裏に強烈に印象づけられたわけ。劇場パンフレット買って二度ビックリ。何と「十戒」(1956)や「ベン・ハー」(1959)の主役やってる大スターじゃないか。まだそんな有名作品も見ていない僕は、それだけで驚いた。

今この文章を読んでいるみなさんは、僕がなぜヘストンが大スターと知って驚いたか、なかなかピンと来ないだろうね。これには少々説明がいる。SFとくればテレビでどんな映画を放送しても喜んで見た僕。だけど、そのほとんどはロクな作品じゃなかった。ハッキリ言って二束三文の映画。当然スターなんて出るようなもんじゃない。実際、SF映画って昔は子供だましのジャンルで、まともなスターや監督が関わるようなジャンルではなかったんだね。

ところがこのヘストン、ハリウッドの大スターなのにこのSF映画に果敢に挑戦したわけ。それが「猿の惑星」(1968)だ。それ以前には一流映画人としては「遊星よりの物体X」のハワード・ホークス、「地球が静止する日」のロバート・ワイズ、「渚にて」のスタンリー・クレイマー、「博士の異常な愛情」のスタンリー・キューブリック…ぐらいしか数えることが出来ない。大スターとなると、ほとんど皆無に等しい(前述「渚にて」のグレゴリー・ペック、エバ・ガードナーやら「博士の異常な愛情」のピーター・セラーズはいたが)。そこに、このヘストンの参戦は実に大胆だったんだね。

もっともヘストン自身にも事情がないわけではなかった。何しろヘストンと言えば、後述するが史劇を中心に大作映画、スペクタクル映画で大いに名を売った人。だけど、それも1960年代半ばにはかなり制作本数が減っていた。実はアメリカ映画の衰退はこのあたりがピークに近くって、1960年代末期には低予算で若い奴が好き勝手にやった、「俺たちに明日はない」とか「イージー・ライダー」とかのアメリカン・ニューシネマの天下になるところだったんだね。当然、ハリウッドの大作のニオイがプンプンするヘストンの出番はいやが上にもなくなっていたんだと思う。そこで背に腹は代えられずのSF映画出演だったんじゃないか?

当然この「オメガマン」も、SFにも出るスターとしてのヘストンの出番と言うわけだったんだろうね。

さてこの「オメガマン」、生物兵器を使用した最終戦争が起きて人類が絶滅した近未来が舞台。わずかに残った人々は、生物兵器による疫病で日の光に絶えられない別種種族へと変貌を遂げていた。われらが主人公のヘストンは滅亡間際に血清を注射して事なきを得ていたが、もはや怪物化した「日陰人間」たちに脅かされる日々。自由に行動できる昼間に外出しては、生活用品を入手しながら日陰に隠れて休む「日陰人間」たちを殺すことを日常としていた…というお話だ。

何と後で知ったんだけど、これって「激突!」の原作者として知られるリチャード・マシスンの小説の映画化なんだよね。僕はこの人の小説って大好きなんだけど、この時も偶然に彼の作品の映画化にブチ当たっていたわけ。不思議なもんだよね。

映画はこの後、ヘストンが別の生存者の女ロザリンド・キャッシュと出会って急展開するんだけど、正直言って映画としてはここからただのアクション映画に変貌してしまうような印象がある(見たのが昔なので、記憶がおぼろげではあるが)。この作品の見どころは、ズバリ前半なんだよね。

人っ子ひとりいない荒れ果てたロサンゼルスの街。そこをヘストンがグラサンかけながら、思いきり燃費の悪そうなデカいアメ車のオープンカーを乗り回す。これって理由は説明できないんだけど、ヘストン、グラサン、アメ車…という取り合わせが、白昼の滅亡ロサンゼルスに絶妙にマッチしてるんだよね(笑)。子供心に「いいなぁ〜」って思った。またヘストンはビルの一室を自分の住まいにしていて、夜中に「日陰人間」たちが入ってこれないように厳重に閉ざされたこの一室で、何でも出来るような自給自足体制をつくり上げている。これがまた、自分の部屋に何でもかんでも持ち込むクセのある、片付け下手の僕の心の琴線を微妙に刺激するんだよね(笑)。あの部屋みたいな何でもかんでも集めた場所に住みてえ〜。これじゃ部屋が片付くわけはないやね(笑)。

ともかくおそらくは早朝に撮影したとおぼしき、誰もいないロサンゼルスの「画」が圧倒的にいいわけだよ。トム・クルーズ主演の「バニラスカイ」にチラッとだけ出てきた無人のニューヨーク、タイムズスクエア。あれがもっと「地球の終わり」っぽく紙くずとか散らかって、映画の全編にわたって出てくると思ってくれ。なかなか壮観だろう?

 途中でヘストンが無人の映画館に入り、自分で映写機を操って見る映画が、何とあのロック・コンサート映画「ウッドストック」。同じワーナー映画ということもあっての「ウッドストック」使用だろうが、ガチガチ保守のヘストンとザ・フーやジミヘンが出てくるロック・コンサート映画の取り合わせは、今見ると何ともミスマッチな感じだね。それでもヘストンがシンミリ、「昔はこんなに人がいたんだなぁ」と「ウッドストック」の野外ステージに群がる観客を見つめるシーンはグッとくる。

ともかく、ガラ〜ンとした大都会にポツンと一人いる、ヘストンのデカい身体ってところが何とも不思議な「画」だったわけ。

ヘストンのSF作品はこの後も「ソイレント・グリーン」(1973)などもあるが、気の毒なことにまたも少々パッとしなくなってきた。そんな彼がふたたび上昇気流に乗ったのが、「大地震」「エアポート'75」(ともに1974)だ。スケールのでっかい大作。さすがヘストンらしい…と言っても、この時代のスペクタクル映画は、もはやヘストンが最初の黄金時代を築いた頃のスペクタクル大作とは違う。「大地震」「エアポート'75」とも奇想天外な「画」が売り物で、どこかSFチックな特撮勝負のパニック大作だからね。

でも、ヘストンが昔出てた「ベン・ハー」にしても「十戒」にしても、片や巨大な競技場での戦車競走場面、片や紅海真っ二つ場面…と奇想天外な「画」が売りものだったことには変わりないよね。そしてその「画」と拮抗すべく、ヘストンの彫りの深い顔とデカい身体が必要だった。それって実は猿が人間を支配する世界という「猿の惑星」の奇想天外な「画」にもピッタリとマッチしていた。必要に迫られてのSF作品出演とは言え、ヘストンには分かっていたのかもしれないね。自分という俳優の資質を活かすのはこうした「画」の存在だと…。つまりは、それは見世物だ

でも、英語の「スペクタクル」って、まさにこの「見世物」の意味なんだよね。

昔も後年に至っても、ヘストン成功作のカギはそこにある。それは大作映画を知り尽くしSF作品を通過したヘストンだからこそ似合う世界=「見世物精神」の世界だったわけなんだね。

 

 

「ハムレット」(ケネス・ブラナー監督・主演版) Hamlet (1996)

上記したようにヘストンの輝かしいスター・イメージは、常にスペクタクル大作と共にあった。セシル・B・デミルが彼を見い出して「地上最大のショウ」(1952)に起用し、前述「十戒」に主役モーゼ役で再起用したところでその俳優イメージが確立したからね。ハリウッドきっての大作屋デミルに目をつけられた時から、それは運命づけられてもいたのだ。

折りからハリウッドはテレビの攻勢に怯えつつあった時期。ブラウン管では見られない映画ならではの魅力を模索した結果、大型スクリーンでのスペクタクル映画制作にメジャー各社が走り出していた頃だったわけ。そうなると、あのヘストンのデカい身体、彫りの深い顔だ。当時のスペクタクル大作といえば、今のようにSF映画がメジャーでなかったこともあって、大セットと絢爛豪華な衣装に多数のエキストラが出てくる歴史劇が主流だったわけ。そこにバッチリ彼の容貌がハマった。ヘストンはこうした時代の追い風も受けていたんだよね。今でこそまるでなくなったけど、昔は70ミリ映画、シネラマ映画なんてのがコンスタントに公開されたもんだった。

そこからの彼のフィルモグラフィーと来たら、もう大作のオンパレード(笑)。出演作の制作費合計出したら、歴代のスターでもヘストンがダントツじゃないの(笑)? たぶん後を追うのがデビッド・リーン作品レギュラーで、後年「スター・ウォーズ」サガにも出たアレック・ギネスか?

ともかく、「エル・シド」(1961)、「北京の55日」(1963)、「華麗なる激情」(1964)、「偉大な生涯の物語」(1965)、「カーツーム」(1966)…。その中心はあくまで歴史劇やコスチュームプレイだったが、西部劇ですらヘストンが出ると俄然大作化して「大いなる西部」(1958)になっちゃう。とにかく、「スペクタクル大作はヘストン」というイメージがメチャクチャ定着しちゃったわけ。いつぞやのオスカー受賞式で、スティーブ・マーティンが「グラディエーター」にヘストンが出ている云々というジョークを言ってたけど、それって全然冗談になってないんだよね。

後年そんなスペクタクル路線も破綻してきてヘストンの苦難が訪れるんだけど、彼がそこをSFで切り抜けたのは前述した通り。その後も脇に廻って悪役に挑戦の「三銃士」(1973)、「四銃士」(1974)、肉じゅばんを着てデップリ太って出演の「王子と乞食」(1977)など、彼としては異色の役柄ながら大作イメージを買われてのコスチュームプレイ出演は続いていたんだね。

「ピラミッド」(1980)あたり以降はテレビに行ったり、もっぱらゲスト出演でお茶を濁す程度。それでもドサクサにまぎれてジョン・カーペンター作品(!)「マウス・オブ・マッドネス」(1994)、ジェームズ・キャメロンの「トゥルーライズ」(1994)などに顔を出してたんだから大したもの。そんな時期に彼が出たのが、ケネス・ブラナーのシェイクスピア大作「ハムレット」なんだよね。

ブラナーって言えばシェイクスピア。だからこの「ハムレット」も彼ならば“さもありなん”なんだけど、僕としてはちょっと奇異な感じもしていた。だって、これのすぐ前にフランコ・ゼフィレッリ監督、メル・ギブソン主演の「ハムレット」が公開されたばかりなんだよ。

ただ今回は4時間を超える前後編に分けての巨編。時代背景こそ原作から移したものの、それまで映画化の際には必ず割愛されてきた原作のエピソードも活かした、「完全映画化」との触れ込みだ。

出演者はハリウッド映画好きなブラナーよろしく、豪華絢爛なオールスターが配されている。オフェーリアに「タイタニック」のケイト・ウィンスレットはともかく、ビリー・クリスタル、ジャック・レモン、ロビン・ウィリアムズ、リチャード・アッテンボローからフランスからはジェラール・ドパルデューまで引っ張り出しての大判振る舞い。それぞれに小さいながらもスターの持ち味活かした見せ場をつくったりして楽しませる。そんなオールスターキャストの中に、われらがヘストンもキャスティングされたわけ。

ただ、やっぱりブラナーがハリウッド映画っぽく楽しく映画化したシェイクスピア映画の「から騒ぎ」などと比べると、悲劇ってこともあるのかイメージ的に娯楽映画って感じがしにくいよね。おまけに「完全映画化」を掲げちゃった以上、長大で重厚って感じが必要以上に出てきちゃう。これは、シェイクスピアを一般のお客さんに気軽に楽しんでもらうことをモットーにするブラナーとしては、頭を抱えちゃったところじゃないかと思うよ。スターの大量投入も、そんな重いイメージを拭い去るためにやったことなんだろうけどね。

で、そこでヘストンの投入となったと思うんだよね。

ヘストンが全盛期だったかつてのハリウッド大型スペクタクル歴史劇映画は、スクリーンサイズもでかくて重厚、しかも上映時間も長かった。前後編に分かれてもいた。娯楽映画にも関わらず、長ったるく重ったるい。それでも、お客はそういうもんだと楽しんだ。あれってそういうジャンルだし、そうであるからこそ見応えのある娯楽映画であり得たのだ。

ここでのヘストンの登場は、どうしても長く重厚で厳しい印象を与えがちな新作「ハムレット」を、これは昔の歴史スペクタクル映画と同じなんですよ、娯楽映画なんですよ、そういう映画と同様に楽しんでくださいよ…とお客さんに伝えるための暗号になっているのではないか。

ヘストンの役そのものは、旅役者の一団の座長。映画全体での役割は小さい。だが、ここでヘストンには実に素晴しい見せ場が用意されている。ブラナー=ハムレットに請われて、芝居の一節を語ってきかせるくだりがそれだ。朗々と語るヘストンの口跡は、数々のスペクタクル歴史劇で鍛え抜かれた気品と重みを感じさせる。目をつぶれば「十戒」のモーゼが思い浮かんでくるような、近来の映画ではとんと耳に出来ない伝統芸能のような出来映えだ。ヘストンここでは久々に真価を発揮して、実に素晴しかったんだね。

このヘストンの語りは、歴史劇で培われた彼の「芸」を久しぶりにみんなに再認識させたのかもしれない。ディズニー・アニメ「ヘラクレス」(1997)でアニメとは言え「歴史劇」に久々ナレーター起用されたのは、たぶんそんな事情からだと僕は思っている。そして、やはりナレーターとしてジェリー・ブラッカイマーの超大作「アルマゲドン」(1998)に呼ばれたのも同様だ。小惑星の地球激突という未曾有の災厄を語る「天の声」としては、モーゼその人ほどの重みがある語りがどうしても必要だったからなんだろうね。

 

 

 

 

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