第23回:好色スペクタクル一代男、デヴィッド・リーン

David Lean, the Sensualist of the Spectacle Film

(2002/10/21)


デヴィッド・リーンって名を聞くとみなさんは何を思い浮かべるだろうか。おそらくは「アラビアのロレンス」などの超大作群の数々がまず頭に浮かぶだろうね。だが同時に今の人々には、何だか「映画史に残る名作」みたいな面白くもなくて古くさく、やたら図体のでかい映画のイメージが湧くかもしれない。確かにビデオもDVDも手に入る。テレビでも地上波やBS問わずよく放映されているし、作品そのものも旧作にしてはリバイバルされる頻度が高い。一時期のコロンビア映画など困った時には「ロレンス」出していたっけ。だけどそうやって今時リーン作品見る人って、もうすでにかなり映画好きな人に限られちゃうよね。しかも見る側としてはやっぱり構えちゃって、「映画史に残る名作」を見させていただくみたいに正座して見ることになっちゃう。だけど、これじゃつまらないんだよね。リーン映画は面白い。そしてちょっと別のお楽しみもあるんだ。「巨匠」だって? よしてくれ。デヴィッド・リーンほど過激でスキャンダラスで挑発的な映画作家はいないんだよ。今回は構えもデカいし上映時間も長い、後期のデヴィッド・リーン大作群を少々ヤブニラミ的に楽しもうという試み。そのキーワードは「助平」だ(笑)。

 

「アラビアのロレンス」 Lawrence of Arabia (1962)

…とか何とか言ってデヴィッド・リーンをご紹介などと言っても、実は僕はリーンがアメリカ資本に乗って大作路線を歩み出してからの作品しか知らない。だから「逢びき」(1945)とか「大いなる遺産」(1946)とか、「オリヴァ・ツイスト」(1947)とか「超音ジェット機」(1952)なんて作品も見たことない。でも、もうこの時にはすでにリーンはイギリスのエース監督だったらしいんだね。だから、それって「ラストエンペラー」以降しか知らないのにベルナルド・ベルトルッチを紹介するみたいで、僕としてはちょっと気が退けるんだけどね。

でも大作主義を敷いた後年の作品群は、スタッフがほぼ固定化したということもあるけど、彼のテイストが完全に確立した時期じゃないかと思えるんだよね。この時代の作品を見れば、どれもまごうことなきリーン味が染み込んで、どこを切っても金太郎飴みたいにそれはハッキリしてる。それは作品を見る前の「構え」だけ見てもハッキリしてるよね。だけど上記した「逢びき」などの作品をイギリスで発表している頃のリーンって、まだそこまでの明快な個性は発揮していなかったんじゃないだろうか? まぁアメリカ資本で大金を使えるようになって、映画会社からも大作を期待されるようになったという環境が、おのずから題材を決定していったとも言えるけどね。

そんなリーンのアメリカ資本導入第一弾がまず「旅情」(1955)だ。これなんか今の映画ファンはまず見ないだろうね。古色蒼然たるタイトルでまずみんな退いちゃうだろう。イタリアのベニスにバカンスに来たアメリカのオールドミス(キャサリン・ヘップバーン)が、地元のナイスミドルな紳士(ロッサノ・ブラッツィ)と出会い恋に落ちる話。ヒロインのちょっと寂しげで物欲しそうな気分あたりも、今なら下半身だらしない日本のOLが、旅の恥はかき捨てで現地のリゾラバにやられちゃうのと同じに勘違いされかねない。そんな映画じゃないんだぜ。まったくテメエと一緒にするなと言いたいよ(笑)。

ただ、ここではすでに後年のリーンの大作群への伏線が引かれている。器的に言えばアメリカ資本による豊かな資金、華やかな海外ロケ、そんなロケの風景を最大限に生かせるビッグスクリーン。内容的には、上記海外ロケの必然性として異民族異文化同士の激突、そしてロケの風景とビッグスクリーンへの必然性として周囲の環境と人間の関係。ここで定まったフレームは、その後のリーン映画の規範となり続けたわけ。

で、そんなリーン大作群が本格的に始動し始めるのは、次の「戦場にかける橋」(1957)から。お話は有名過ぎるからここでは物語を詳しく言わないが、タイ・ビルマ国境付近の日本軍捕虜収容所を舞台に、川に架ける鉄道の橋の建設をめぐって、日本の武士道、英国の騎士精神、米国の合理主義が激突して大爆発。「オリヴァ・ツイスト」にも出ていたアレック・ギネスが、リーン組のレギュラー化したのもこの映画。そして次に来るのが「戦場〜」プロデューサーのサム・スピーゲルと再び組んだ「アラビアのロレンス」だ。

この映画、70ミリ大画面に砂漠をとらえた雄大なスケールをはじめ、賞賛の言葉はみんなウンザリするほど聞いているだろうから、そんなこと僕はあえて言わない。

僕がこの映画で語りたいのは映画の後半部分、ロレンスがトルコ軍に捕えられるくだりだ。

ここでロレンスはトルコ軍に縛りあげられ、どうも拷問やら何やら蹂躙の限りをし尽くされる。その指揮をとるトルコ軍の指揮官ホセ・ファーラーがまた何とも怪しげなキャラクターだ。この映画の発表された1962年当時では性表現にも限界があったが、今見ると明らかにここでのロレンスへの蹂躙は同性愛的、サドマゾ的色彩を帯びていたことが明白だ。 このロレンスがトルコ軍に囚われるくだりは、この作品がオスカー作品賞に輝いた堂々たる大作にも関わらず何だかヤバいものを目撃しちゃったムードが濃厚なんだよね。「名作」の中に潜む意表を突いたヤバさ…それはまるで小津安二郎の「東京物語」の終盤で、いきなりえらい勢いで原節子がグイグイと笠智衆ににじり寄ってくる場面を見た時に感じたヤバさにも似てる。

それまでのロレンスは英国の特命を帯びてアラビアの砂漠を駆け巡り、アラブ民族の統一という理想をも実現するために奔走する英雄的な人物だ。ちょっとカリスマ的超人的なムードすらある。本人も、自分はマッチョでヒロイックな軍人であると思っていたに違いない。だが映画はロレンスに、最初からこうした性的嗜好があったことをチラつかせている。例えばそれは、ロレンスが事あるごとにマッチに自分の指を押し付けて火を消す行為に現われている。観客も登場人物も、いわんやロレンス自身ですら、これは一見強さを示す行為に見ている。だが、それがロレンスの内面に隠されているマゾヒスティックな願望の現われだったらどうだ。そもそも過酷な砂漠での戦闘を、彼が苦にすることもなくやり遂げてきたことすら、英雄的などではないマゾ願望ゆえのものだったもしれないのだ。ロレンスはこのトルコ軍による虐待体験で、自分の中にそうしたヤバい願望があることを徹底的に思い知っちゃったんだね。

ロレンスを演じるピーター・オトゥールは、当時リーンが大抜擢した新人(余談だが、同じく実在の人物の伝記超大作としてつくられた「ガンジー」が、主役を知名度の低い新人、脇をベテラン名優やスターで固めてつくられたのは、おそらくこの「ロレンス」に習ってのことだろう)。やっぱり英雄然とした人物ではなくて、どこかひ弱そうなひょろっとした風貌が買われたようだ。実際のロレンス本人もどこか弱々しい容姿だったようで、そういう意味では事実に忠実だったとも言える。また、その後オトゥールが「将軍たちの夜」(1966)で演じた変態ナチ将校にも通じる、どこかアブない個性もリーンの目を引いたに違いない。

トルコ軍での蹂躙の果て、自分の隠された性的嗜好を気付いてしまったロレンスには、もう以前のような自分への自信や確信は持てなくなる。以降、彼はなし崩し的に挫折していく。自分が本国に弄ばれる将棋の駒の一つに過ぎないことを思い知り、アラブ民族統一の理想も空しく潰え去っていくのだ。

これほどの超大作…70ミリ画面に広大な砂漠が広がり無数のエキストラを動員した大スペクタクル・ドラマの原動力が、実は一人の男の奥底に隠されていた性的嗜好だったというところが、デヴィッド・リーンの非凡なところだと思うんだよね。

 

 

「ライアンの娘」 Ryan's Daughter (1970)

「ロレンス」大成功の後、デビッド・リーンが手がけたのはロシア革命に翻弄される人々を描く「ドクトル・ジバゴ」(1965)。これも巨大なスケールの風土と歴史のうねりをドカ〜ンと舞台に据えながら、実はリーンが描きたいのは一人の男ジバゴ(オマー・シャリフ)とその可愛い妻トーニャ(ジェラルディン・チャプリン)、そして情熱的な女ラーラ(ジュリー・クリスティー)の三角関係ドラマ。公開当時の批評は、まるでメロドラマだと批判的だったらしい。でも、これ元々メロドラマとしてつくろうとしてるもんねぇ。当時のアメリカ人はもっと共産主義批判とか入れて欲しかったのだろうか。バカだねぇ。

で、さらに次に来るのがアイルランドの小さい港町を舞台にした「ライアンの娘」だ。

この映画も背後にはアイルランド独立戦争がチラついていて群衆シーンなどもあり、そもそもこの港町をリアルに一個建設しちゃったあたり、さすが巨匠リーンの大作ではある。だが、ここまでの大作路線の作品は、タイで橋を一個つくって蒸気機関車ごと爆破しちゃったとか、砂漠で大エキストラ動員して派手な戦闘をやらかしたとか、マドリッド郊外にモスクワの街をまるまる再現して路面電車走らせたとか…と、どれも破格のものばかり。だからそれらの「超」大作群からすれば、やや小品と言えなくもない。それでも70ミリ画面がやけにスケールでかく迫ってくるのが、やっぱりリーンの作品なんだよね。

…で案の定、アイルランド独立だの何だのよりも、リーンの関心はまず他にあった。

オッサン教師ロバート・ミッチャムと、まだうら若い娘サラ・マイルズがめでたく結婚。だが、祝福されて迎えた初夜は、花嫁にとっては不満が残るものだった。そんな欲求不感が鬱積したあげく、サラ・マイルズはこの地に赴任したばかりの若き英国軍人クリストファー・ジョーンズとの不倫にはしってしまう…とまぁ、やっぱりリーンの関心はセックスに向かうんだよ。

この若い二人が愛の巣として不倫に耽る森での描写が、何ともリーンの真骨頂。この時代にしてようやく大っぴらになったヌードでのラブ・シーンなのだが、それでも描写そのものはおとなしいものだ。直接行為は描かれず、周囲の森にあるタンポポみたいな花の種が風でフワ〜ッと飛ばされる…なんて描写で象徴する、実に優雅なものだ。

ところで、従来の映画でも直接描写が出来ない時代や国々のものは、こんな間接描写がよく行われていたよね。例えば韓国映画の「於宇同」とか「桑の葉」などは、男と女が水車小屋に入ると、水車がガッタンゴットン、杵と臼がドンツクドンツク。旧ソ連の「クロイツェル・ソナタ」では、事が始まったとたんに蒸気機関車がシュッシュッポッポ、そしてフィニッシュは汽笛がポ〜ッ(笑)。ハッキリ言って笑っちゃう。寒すぎ。

ところがリーンの間接セックス描写は、思わず息を詰めて見てしまう。それは…本当にイヤラシイから(笑)。これだけではない。例えば「ドクトル・ジバゴ」の前半、ジュリー・クリスティーが自分の母の愛人であるガハハオヤジのロッド・スタイガーと初めて寝るくだりがそれだ。この二人のシーンは、デモ行進する労働者や共産主義者たちに国王軍が襲いかかるシーンとカットバックされている。そこで処女だったジュリー・クリスティーが犯されることが示唆されるや否や、デモ隊の人々が軍刀で斬られて白い雪にパッと真っ赤な鮮血が散るカットが挿入されるという、実に息を飲むような鮮烈な間接描写を行っているのだ。

間接だけどイヤラシイ。ふやけたモロ出し本番アダルトビデオより、見ようによっては70ミリ大作映画の方がずっとイヤラシイかもしれない、この「ライアンの娘」の間接セックス描写。それは撮っているリーン自身が心底助平だからに違いない。これって僕はマジメに言っているんだよ。リーンの助平は気合いの入った本気の助平だ。そこんとこがデヴィッド・リーンの真髄の部分かもしれないんだよね。

そもそも「ロレンス」だって、隠された性的嗜好が主人公を高揚させあそこまで引っぱっていきもしたし、そんな自身に気付いた彼を崩壊させもした。「ジバゴ」の主人公は可愛く貞淑な妻がいながらも情熱的で奔放な愛人に惹かれ続ける。セックスが主人公の運命を引っぱり、下手をすると歴史をも変えていくのだ。「ライアンの娘」もしかり。

さらにこの後、何と14年ぶりにリーンが発表した遺作「インドへの道」(1984)でも、英国上流階級の娘(ジュディ・デイビス)の奥底にくすぶっていた性への興味と願望が、インドの官能をくすぐる空気の中で爆発。それが民族運動の導火線ともなる大騒動を引き起こしてしまう。いやいや、例はまだある。ニュージーランド出身のロジャー・ドナルドソンが監督、メル・ギブソンやアンソニー・ホプキンスらが主演した「バウンティ/愛と反乱の航海」(1984)がそれだ。実はこの映画、デヴィッド・リーンが自分の新作にしようと企画を進めていたが、結局断念してしまったものなんだね(だから脚本は「ロレンス」「ジバゴ」「ライアン」など、後期リーン作品を支えたロバート・ボルト!)。たまたまタヒチに停泊した戦艦バウンティ号の乗組員が、楽園のようなタヒチの魅力的な娘たちの肉体に溺れ、艦長一派に反旗を翻すというお話…この映画だって、またしても「セックス」が人間の行動に大きな影響を与え、歴史に刻印を残すというパターンが繰り返されているわけ。

いやいやいや、他にもある。そう言えば「旅情」のヒロインだってそうだ。彼女は人類や民族や国家の歴史こそ動かさなかったものの、それまで頑として動かなかったであろうオールドミスとしての自分の個人史は、イタリア男とのセックスで確実に揺り動かせたじゃないか。

そういや、このあたり何作かのリーン作品のヒロインって、みんな似たようなイメージあるよね。「ジバゴ」のジュリー・クリスティー、「ライアン」のサラ・マイルズ、「インド」のジュディ・デイビス。知的で上品なんだけど、どこか奔放さや情熱を隠し持っていて…ハッキリ言ってイヤラシイ(笑)。これがリーンの女の好みだったかは分からないけど、実際のところデヴィッド・リーンってかなり女好きだったらしいんだよね。で、女好きならもちろんアッチだって好きに決まってる。

巨大な歴史のうねりも民族や文化の衝突も、すべてはゴチャゴチャ理屈は抜き、所詮は何だかんだ言ってもアソコが勝負…というこの主張。映画史に残る名作を数多く放った真の「巨匠」が残したメッセージとして、これってあまりに過激過ぎやしないか? ゆえにデヴィッド・リーンは偉大だと僕は心底思うんだね。だって凄くイヤラシイじゃないか(笑)。オチャラカしじゃない、本気で助平な奴は偉いんだ。

そして教訓はたったひとつだ。女たちにソッポを向かれないよう、男たるもの常に臨戦体制を整えておけ(笑)。

 

 

 

 

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