第19回:青春の巨匠、ジョン・ヒューズ&ハワード・ドイッチ

John Hughes & Howard Deutch, the Masters of the Youth

(2002/06/10)


1980年代に青春映画で一斉を風靡した…と言えば、誰でも思い当たるフシがあるよね。そう、「青春の巨匠」森田健作…じゃなかったジョン・ヒューズ(笑)。後年はファミリー映画に転向してしまったが、一時期は青春映画を大量生産して一世を風靡していたのは間違いない。そのフィルモグラフィーを見渡してみると、彼が監督ではなくプロデューサーに回って、ある一人の監督に作品を委ねて成功した2本の心にしみる佳作に目が止まる。その監督の名はハワード・ドイッチ。そしてドイッチ自身、この時の2本が現在のところの代表作でもあるのだ。果たしてこの2人の共同作業にはいかなるマジックが働いていたのか? 改めてこの青春コンビ(笑)に注目してみた。

 

「プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角」 Pretty in Pink (1986)

昔の秀作ならいざ知らず、現在の日本映画で今風な役者を使っての青春映画というと、「貧富の差」「階級差」がそのテーマとなることはほとんど考えられない。大評判になった「GO」なんて極めて稀な例だよね。これは日本全体に行き渡った「一億総中産階級化」幻想の徹底ぶりを物語ってもいるが、さすがに資本主義の元祖アメリカはそのへんがシビア。青春映画のバックグラウンドにこの貧富の差、階級差がバンバン出てくる。もちろん「青春の巨匠」ヒューズも好んでこのテーマを持ち出している。「ブレックファスト・クラブ」(1985)の主人公たちにキャラの違いの他に階級差が存在していることは、昼飯に持ってきている弁当を見ればわかる。サンドイッチとか粗末なパンを持ってきている奴がいるかと思えば、何と高級食だったスシを持ってきている金持ち娘モリー・リングウォルドもいるわけだ。ただし、このスシって一体どうやってカバンに入れて持ってきたのかという疑問は生じるが(笑)。

そのリングウォルドが一転貧乏娘に回って主演するのが、この「プリティ・イン・ピンク」。アリー・シーディー、アンソニー・マイケル・ホール、ジャド・ネルソン、などなどの青春スターを続々輩出させ、そのお抱えスターシステムを自作に次々とっかえひっかえ起用して青春映画を大量生産していったヒューズ。そのヒューズが生んだ最大の青春スターがリングウォルドだったのだが、彼女が人気爆発したのはこの「プリティ・イン・ピンク」からだった。その人気の秘密が彼女のファッションだったんだね。

お話は一言で言うと「貧乏娘と金持ち息子の恋物語」。そこを「ボロは着てても心は錦」の心意気で乗り切るリングウォルドが大ウケ。しかし、彼女はただボロを着てたわけではない。手持ちの古着を独自のセンスで合わせ着重ね着。そのリサイクルなエコファッション(笑)が人気のヒミツだった。ちょうど「アニー・ホール」でのダイアン・キートンのように、一時はティーンのファッションリーダー風なもてはやされ方をした彼女だったのだ。彼女はド〜ンとスターダムを上り詰めて、一時はユナイテッド・アーティスツ映画社の重役スターにまでなった(!)はずだが、大人女優への転換に失敗したかその凋落も早かった。そうそう、いま気付いたんだけど、「天国の門」大コケによるユナイテッド・アーティスツ経営危機も、彼女の転落に拍車をかけたのだろうか。ともかく、ビデオ発売のみの未公開映画で脱いだとかホラー映画で惨殺されたとか聞いたのが最後だが、今はどこでどうしているのやら。

相手の金持ち息子はこれまたヒューズ子飼いの青春スター、アンドリュー・マッカーシー。そしてリングウォルドを片思いしている幼馴染みにジョン・クライヤーという顔触れだ。クライヤーって俳優はこれ以前に「恋人ゲーム」って映画でデミ・ムーアと共に浮上してきた人で、そのデミ・ムーアはそこから当時の青春映画の集大成的作品「セント・エルモス・ファイアー」(1985)に出て…って感じで、これらの青春スターたちは一連の大量生産された青春映画群で、それぞれとっかえひっかえ入れ替わり立ち替わり共演していた。それらのすべてにヒューズが関与していたわけではないのだが、何となく全体的に「青春映画はヒューズ」というムードが出来上がっていたんだよね。

だけど、僕はヒューズ作品って基本的には好きな世界のはずで実際作品も楽しんで見たのに、どこかノリ切れないところもあったんだね。それはなぜかと考えてみると、理由の一つは若者にコビてる甘やかしが見え隠れするからなんだと思うんだよ。それも、こうして若者に迎合しとけばヤツらのウケはオッケーみたいなマーケティング的な考え方がチラつくあたり。元々こいつ広告屋というのも信用の置けないところだしね。そして理由の二番目は、本人が当時の今風音楽に強いと自認している風で、実はあまりセンスの良くないところ(笑)。さらに理由の三番目が、ギャグが本人が思っているであろうほどには面白くないところ。…と、まぁ時々悪ノリが過ぎて寒いスキマ風を感じてしまうんだよね(涙)。

ところが、そんなヒューズ作品も監督作でなくプロデュースに回ると文句なくいい時があった。そんな例外の一つがハワード・ドイッチと組んだ「プリティ・イン・ピンク」だったわけ。これって、二人の相性が良かったところに、ヒューズの俗悪さが程よく中和されるような解毒作用でもあったのかねぇ?

キャストでは、何と驚くべきことにリングウォルドの甲斐性なし父ちゃん役で、シブい名脇役ハリー・ディーン・スタントンが登場。ショボくれてるところをジョン・クライヤーに「歳だからって気落ちしないで。ティナ・ターナーだって頑張ってますし」と、励まされてるんだか何だか分からない言葉をかけられるという「見せ場」があるところがニクい(笑)。

まぁそんなこの作品、前述したように「貧富の差」「階級差」が話の原動力なんだが、この彼が見初めたリングウォルドにアタックする際の趣向が、当時の僕らに衝撃を与えたんだよ。何と学校でのコンピュータ授業中に、マッカーシーがひそかに持っていたとおぼしきリングウォルドの写真を、彼女のディスプレイ上に表示させるという手のこんだ口説き方なんだね。これ、今考えるとメールをつかったのか、はたまたいかなるネット上のツールを使ったのか皆目見当がつかないが(笑)、当時は僕なんかパソコンなんか触れもしない。だから、ただただ「スゲ〜」と目を見張るだけで、コンピュータがあるとあんなことも出来るんだと唖然とするだけだったんだね。そもそも、学校でコンピュータを一人一台触れる状況ってのがマブしかった(笑)。

それより何より衝撃だったのが、この「貧乏娘」リングウォルドが中古とは言えマイカーで通学しているところ! それだけじゃない。自宅には個室を持って、そこに電話を入れている。これでヤツらは「貧乏」なのか? この生活水準でも同級生にバカにされてしまうのか? それよりずっとセコい生活をしていた東洋の島国の僕らには、ビッグ・アメリカがさらに大きく見えたものです(涙)。

 

 

「恋しくて」 Some Kind of Wonderful (1987)

青春映画の旗手と目されていたヒューズだったが、実はその時期ってさほど長くはなかった。ケビン・ベーコンとエリザベス・マクガバン共演の「結婚の条件」(1988)も青春映画と言えれば言えるが、あれはむしろヒューズとそのファンをティーン映画から大人映画へ橋渡しするためにつくられた作品だと言える。しかもヒューズはすでにスティーブ・マーティンとジョン・キャンディ共演の「大災難P.T.A.」(1987)で一般コメディ映画、ファミリー映画への転換を始めていた。厳密な意味でのティーンを扱った青春映画はこの「恋しくて」が最後と言えるんだよね。

今回またまたハワード・ドイッチを起用しての2作目は、前作「プリティ・イン・ピンク」の人間関係をほぼ逆転させたものと言える。金持ち男のガールフレンドがいて、その彼女に片思いの貧乏青年がいて、その青年に秘めた想いを抱く幼馴染みの貧乏娘がいる。ここでの主人公はほぼ貧乏青年だ。面白いのは「プリティ・イン・ピンク」では主人公(=貧乏娘)の願いは成就して金持ち男と付き合えるのだが、「恋しくて」では主人公(=貧乏青年)の想いは成就しないこと。女のシンデレラ願望は叶うけれど、男は身近に目を向けろって話になるんだよね。この違いってどうして起きるんだろう?

今回のキャストはやはり青春スターではあるんだけど、今までヒューズ映画とは縁のなかった新鮮な顔触れが揃った。主人公のナイーブ貧乏青年にはエリック・ストルツ、彼に想いを寄せられる金持ち男のガールフレンドにはリー・トンプソン、そしてストルツに片思いする女の子に新顔のメアリー・スチュアート・マスターソンという面子だ。この時いちばんの知名度を誇っていたのはリー・トンプソンで、当然今回も彼女が売りの映画だった。日本でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」以来、かなり人気が出てきていたからね。だけど、彼女の「恋しくて」出演には、実は彼女なりのスター生命が懸かっていたんだよね。

実は彼女、それなりにスターダムに乗りつつあったのだけれど、ずっと青春映画専門であることに焦りを感じつつあったわけ。だって、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」当時ですでに24歳。いつまでも青春スターって訳にもいかないわけ。しかも、青春映画どまりでなかなか本格的なドラマや大作に起用されないジレンマもあった。だから、ビッグスターへの脱皮を模索してもいたんだろうね。

そんな彼女にある日、ビッグチャンスが舞い込んだ。熱望していたメジャーな仕事だ。役柄も実年齢に合った、しかもそれまでのイメージを脱することが出来る仕事。あのジョージ・ルーカス制作のSFX大作の主役だ。

ただし誤算が一つあった。それがジョージ・ルーカス最大の失敗作「ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀」(1986)だったことだ。

スター生命の致命傷になりかねない大失敗に、トンプソンは焦りに焦ったはず。だが、神はまだ彼女を見捨てなかった。次に掴んだ仕事が、慣れ親しんだ青春映画の仕事。それも「青春の巨匠」ジョン・ヒューズの「恋しくて」だったというわけだ。

さて、トンプソンと言えば青春スターは青春スターだが、その顔がどこか日本の倍賞千恵子を連想させるように庶民性が売り物でもあったんだね。で、今度の役柄は金持ち男のガールフレンド、取り巻きたちも金持ち連中ばかり。この役柄って彼女で大丈夫なのかと思いきや、そこはさすがにヒューズぬかりはない。彼女の演じる女の子は金持ち男のガールフレンドと言っても自身の家が金持ちではない。金持ち男と付き合っていることで、何とかそのお仲間の一員ヅラしているという設定なのだ。だから、彼女でもこの役でいける。

そして、トンプソンは金持ち男と熱愛中だから、そのままでは貧乏ストルツの出る幕はない。ところが金持ち男がバカをやって仲違いしたことから、あてつけでストルツの相手をすることになり…というあたりがミソなんだよね。

このストルツ、ナイーブで純粋でいかにも文科系の男で、ハッキリ言ってちょっとクラい。実は彼って何で一番知られているかと言えば、あの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」主役に抜擢されて撮影にまで参加しながら、どうも役柄に合わないとマイケル・J・フォックスと代えられたことで有名なんだよね。この映画での純粋だけどクラい彼を見ていると、どう考えてもそれは仕方がないと改めて思わされる。ハツラツさに欠けるんだよねぇ。

そんなこの「恋しくて」なんだけど、実はここから超ダークホースが出現したんだよね。それは、名前も知られていなかったニューヒロイン、メアリー・スチュアート・マスターソンだ。彼女が演じる女の子って、男の子っぽくて髪を短く刈込み、下着も男もののデカパン履いてるドラマー志望の子。しゃべり口調も男っぽい汚い言葉ばかり。だからストルツも彼女を女扱いせずに、ダチ同士みたいに何でも相談する。彼女の方もずっと前からストルツが好きだったにも関わらず、それは叶わぬ夢と思って何とか彼の想いを叶えてなりたいと思う。ここがミソなんだよね。

しかも、このボーイッシュでガラッパチな役柄を演じるマスターソンが、決して本来こんな役柄がハマってる女優なんかじゃないんだよ。清楚で整った美貌のキュートな女優さんだ。そこがヒューズ&ドイッチの非凡なところっていうか、ヒヒジジイ的感覚って言うか、カワイ子ちゃんにこういう扮装と役柄を与えることで、一種コスプレみたいなミスマッチな倒錯した魅力が生まれることを狙ってるわけ。それは見事に成功しているんだよね。

そしてお話がお話だけに、それでなくても一途で健気なマスターソンに観客は好意を抱いていくわけ。こうなると魅力爆発。それまで無印だったダークホースのマスターソンが、何馬身もブッちぎりでリードしちゃうのも仕方ないというわけ。

エンディングは当然のごとく、マスターソンの愛の勝利。エルヴィスの名唱で有名な「好きにならずにいられない」をアイリッシュ・ケルト・ミュージック風にアレンジしたバージョンが流れる中、わかっちゃいるけど感動のハッピーエンドで、それまでノーマークだったマスターソンは鮮烈に観客の脳裏に焼き付いたわけ。

翻ってお気の毒なのがトンプソンで、ある意味で前半はタカビー女をやらされ、後半は善人になるもののストレートさには欠ける役どころ。これではいくら何でも彼女は損な役回りだ。マスターソンの引き立て役になって、思いっきり霞んでしまったんだね。そしてそれが災いしたのか、この作品を境にして彼女のスターとしての輝きにも出演作のラインナップにもガクッと陰りが出てしまった。最近じゃスクリーンでお目にかからないなと思っていたら、実は今はほとんどテレビで活躍しているんだとか。彼女にとっては「ハワード・ザ・ダック」でのつまづきを、この映画でダメ押し的に決定づけてしまったようなものに思える。

でもねぇ、こうやってヒューズ作品関連の役者たちを眺めていると、あれほど一時期はとっかえひっかえ出演作が公開されていたのに、今でも生き残っている奴なんて皆無ではないか。そうしてみると、どいつもこいつも結果的には変らなかったのかな、遅かれ早かれ。

当のヒューズ自身、その後ファミリー映画に転じて「ホーム・アローン」(1990)というホームランをかっ飛ばすに至ったり、「101」(1996)などの作品も手がけてはいるけど往年の勢いは望めない。何と「ホーム・アローン」や「ベートーベン」なんかの「3」までつくらなければならないあたりに、彼の低迷ぶりが伺えようというものだ。それと言うのも、やっぱり本人に「これがつくりたい」という欲求が感じられず、こうやりゃウケるという勘だけでつくってた風なところが問題あったんじゃないかな。彼って前からどうもそれが露骨に見えるところがあった。ヒューズ風青春映画の集大成的作品「セント・エルモス・ファイアー」が、実はヒューズと無関係に制作されているというのもそのあたりに原因があるのかもしれない。自分は若い奴や観客の望むものが分かると思ってたようなんだが、歳とともにそれがズレることもあることまでは思い至らなかった。作品ってのは多少なりとも、つくった人とその人のキャパを語ってしまうものだということも思いもよらなかった。若者や大衆への自分の嗅覚に自信を持ち、実際それ頼みでそれだけしかないヒューズは、それゆえに色あせていかざるを得なかったんだろうね。

一方のドイッチはというと、長らくその名を聞かなかったが、先日久しぶりにキアヌ・リーブス、ジーン・ハックマン主演のフットボール映画「リプレイスメント」(2000)で健在ぶりを見せた。一流役者を使った大人の娯楽映画をキッチリとつくってて、好感が持てたよ。大傑作や超話題作をつくりはしないだろうけど、この人はこれからも堅実に作品をつくっていくんだろうと僕は思う。

さぁ、今回は「青春の巨匠」を紹介するにふさわしく、青春映画のいまや古典と言える「アメリカン・グラフィティ」風に登場人物のその後を語ってきた。それらの人々の顛末を知ると、みんなそれなりにシビアーだよなと感じずにはいられないが、この一文を終わらせるにあたってこれだけは述べたいことがあるんだね。それは「恋しくて」でスターとしての運命を一転させた女優、リー・トンプソンのその後だ。彼女はこの映画で陰りが出て、その後仕事的にも恵まれずペースダウンしていったような書き方をしてしまったよね。でも、実はそれには訳があったのかもしれない。そして、「恋しくて」出演が彼女の運命を暗転させたとも言えないかもしれないんだ。それは、今回僕がトンプソンの経歴を調べた時に分かったんだね。そう、誰にとっても人生は仕事や名声だけがすべてじゃない。それを改めて考えさせられたよ。

女優リー・トンプソンは、現在、映画監督ハワード・ドイッチ夫人なのである。

 

 

 

 

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