第16回:ブライアン・デ・パーマの世界名作劇場

Brian DePalma presents The World Movie Theater

(2002/02/11)


いまや大監督…と言っていいのかブライアン・デ・パーマ。確かにルーカス、スピルバーグ、スコセッシらと同期にあたる監督だし、何しろ名前は有名だし。だけどスピルバーグほどヒット作に恵まれてるわけでなし、スコセッシほど「名匠」というわけでもなし。ついこの前までは失敗作連打で影薄くなってて、トム・クルーズに拾われて「ミッション・インポッシブル」で一息ついたりしてるから、イマイチ大監督と言われてもピンと来ないんだよね。そしてこの人のそうした存在感の「軽さ」って、出発点がホラー、サスペンス、スリラー畑だということも災いしているかもしれないね。

だが一番の問題点は、この人、根っからの映画マニアなのか、やたらに自作に過去の映画の引用をやらかすこと。それも田舎の高校の映研でもやらないようなあんまりな作品のあんまりな引用(笑)なんで、オマージュなんて言うよりただのパクりと言ってしまいたくなる。

そんなデ・パーマのパクり精神は、まさに古今東西のあらゆる映画にわたるわけなんだよね。ここではそんな彼のパクり代表例を挙げてみた。

 

「殺しのドレス」 Dressed to Kill (1980)

デ・パーマというと日本では「キャリー」あたりからその名が知られ始めたんだけど、その最初の頃からヒッチコック・フォロワーだということはよく言われてきた。「愛のメモリー」が明らかに「めまい」の変奏曲だったり、全然作品としての仕上がりは違うけど冒頭のシャワーシーンからの連想で「キャリー」が「サイコ」を思わせたり…ってあたりが、そう言われ始めた理由なんだろうか?

実はそのごく初期には必ずしもホラー、サスペンス、スリラー作品ばかり手がけていたわけではなかったものの、名が売れ始めた頃からはずっと「怖がらせ」映画専門みたいになってきちゃったため、なおさらヒッチコックの名前がかぶせられたわけ。ところが後年のサスペンス作品「ミッドナイトクロス」なんて見てみると、終盤に「泥棒成金」を思わせる大花火なんぞ上げながら、実は映画全体としてはアントニオーニの「欲望」のパクりをやっていた。これでも分かるようにデ・パーマは間違いなくパクり体質であることは確かだったが、その対象は必ずしもヒッチコックばかりでもなかったんだけどね。

で、こうもクドクドとヒッチコック、ヒッチコックと繰り返し言われ続けると本人もその気になったか、それとも開き直って「そこまで言うならやったろうじゃねえか!」とケツまくったか、全編ヒッチコック引用で攻めまくった怪作が「殺しのドレス」だ。

 

 

 

 

 

これから映画見る人は遠慮してね

 

 

 

 

 

主演は当時の愛妻ナンシー・アレン。そして当時としては珍しく外様から大物マイケル・ケインを招く。そして大年増アンジー・ディキンスンに再び脚光を浴びせたのも見事だ。物語をここでクドクド説明するのもまどろっこしいが、前半部分は浮気願望に突き動かされ、大年増人妻ディキンスンがよろめくお話が延々続く。美術館での描写の雰囲気は「めまい」かな、そもそもディキンスンがブロンドってとこがヒッチ的だな…な〜んて考えてると、主要人物だと思ってたディキンスンがアッサリ殺される。あぁ、な〜るほど。浮気が物語の主旋律でもなければ、スター級のディキンスンも前半ですぐ退場。それってあの「サイコ」が金の持ち逃げや不倫の物語でなく、スターのジャネット・リーも前半で殺されて消えるというあたりを踏襲してるんだなとすぐわかる。

たまたまディキンスン殺しを目撃したのは、気のいい娼婦のナンシー・アレン。彼女はディキンスンの息子キース・ゴードンと一緒に真相を探るわけ。後半はディキンスンを治療していた精神科医ケインとそれに探りを入れるアレンのやりとりが続くんだけど、アレンのお色気攻勢に対するクセ者ケインの何ともいえない二人の演技の応酬がなかなか笑える。最終的にはケインは女装癖の変質者で殺人者という、「サイコ」のアンソニー・パーキンスを思わせる結末がやってくるわけだが、考えてみるとこれも凄いね。確かに単純アメリカンのヒーロー役者とは扱いが違った英国俳優マイケル・ケインだが、当時はまだまだハリウッド映画の主演スターを張っていたことも多かった。それをいきなり女装癖の変態扱いだからねぇ(笑)。ごていねいに精神病院でキレた殺しを見せる場面までダメ押し的にあるんだから凄い。やったケインも偉いけど、やらせたデ・パーマも偉かった(笑)。後年のオスカー俳優としてのケイン、それも「クイルズ」の超変態悪役から「デンジャラス・ビューティー」のおネエ言葉の美容コンサルタントに至るまでの硬軟自在の芸達者ぶりは、ここに端を発してるんだよね。

もちろんエンディングは十八番の「サイコ」シャワールーム・マーダーの徹底的パクりだが、嫁さん脱がせてこれをやるデ・パーマに、「ミッドナイトクロス」のジョン・トラボルタ的自虐精神というか、「腐ってもクリエイター」魂を感じるのは僕だけじゃないだろう。今はデ・パーマと別れてしまったアレンだけど、その最盛期の美しい肉体はちゃんとデ・パーマのこの映画に刻印されたのだから。確かに映画監督やカメラマンだったら絶対これはやりたいだろうね。そんな気持ちは、僕にも痛いほど分かります。

 

「スカーフェイス」 Scarface (1983)

デ・パーマの怖がらせ路線は、この後の傑作「ミッドナイトクロス」で一旦は終息してしまう。そして、そのあたりからデ・パーマはもう「普通の」映画作家として、幅広いジャンルを手がけることになるんだね。

だけどそんな中でもパクり精神は消えなかった。有名な例は「アンタッチャブル」での「戦艦ポチョムキン」階段シーンだろうね。大娯楽作「アンタッチャブル」で、あんな古典的有名作品の一番有名なシーンを、しかも「まんま」パクるかい(笑)? あれにはマイったよね。まず普通じゃ恥ずかしくて出来ない。

あと有名なのは「虚栄のかがり火」の冒頭の長回しだろうかね? 長回しって言えばオーソン・ウェルズ「黒い罠」ってただそれだけのことなんだけどね(笑)。あれって作品的にもほとんどそうする意味なんかない。映画そのものもドツボだったっけ(涙)。

実際のところ他の映画作家なら、引用するにしても普通はもうちょっと消化して使うものね。例えばゴダールは「軽蔑」のエンディングで溝口健二の「山椒太夫」のラストを引用したって言ってるけど、そんなの言われなきゃ分からない。いや、言われても分からないかもよ。あれなんて、実際はゴダールが溝口の名前出してハクつけてるだけなんじゃないかと怪しんでるんだけどね(笑)。なのにデ・パーマはどれも「まんま」使う(笑)。ひょっとするとデ・パーマの場合、長い間ヒッチコック、ヒッチコックとばかり言われてきたから、俺はヒッチコック以外だって知ってるんだぞと言いたくてやってるのかも(笑)。

そんなデ・パーマのフツー監督路線第一弾が、たぶんこの「スカーフェイス」だったと思うよ。なぁんだ、これ引用と言うより、ハワード・ホークスの「暗黒街の顔役」のリメイクじゃねえかとおっしゃるアナタ、それは甘〜い(笑)。

確かにこの映画がベン・ヘクトの脚本から正式に脚色した「暗黒街の顔役」のリメイクであることは、ちゃんとクレジットされている通りだ。だけどデ・パーマのパクり精神は、そんなリメイクごときの部分で発揮されたりはしない。実はこれオリジナル作品のイメージ踏襲してる点は希薄で、もっと意外な作品から引用している。それはシェイクスピアの「マクベス」から翻案した黒澤明の時代劇巨編「蜘蛛巣城」だ。

一応「スカーフェイス」では主人公トニー・モンタナ=アル・パチーノをキューバ難民と設定して、マイアミあたりを拠点にのし上がっていくあたりをこってりと描いていく。確かにイキがよくってハジけてて、頭角を表わすにふさわしいガッツある悪党パチーノ。でも口を開けば「ファック!ファック!」を連発するこの下品な男、実は大物になるには決定的な何かが欠けている。それはディグニティー…気品だ、なんて言うと「雨に唄えば」のジーン・ケリーの台詞みたいだが(笑)、この言葉を「威厳」とでも訳せば雰囲気がお分かりいただけるだろうか? つまりは大物としての「器」に欠けているのだ。

ところが、アメリカは成り上がり者でも行くとこまで行けちゃうチャンスの国。こうしてパチーノのチンピラギャングは途方もない夢を見る。その夢が一つのかたちを成すのは、ある女との出会いがあったから。それがボスの情婦、ミシェル・ファイファーだ。

このあたりで僕が何を言いたいかお分かりだろうか? 上記のストーリー、設定は確かにオリジナル「暗黒街の顔役」にもあったものではあるが、そっくりそのまま黒澤「蜘蛛巣城」とも共通するテーマなのだ。優秀な兵士=家来ではあっても城主となるにはチト器が小さい三船敏郎が、よせばいいのに身の丈に合わない妙な野望に目覚めるお話…とくくれば、何とも似通ってくる両者ではないか。しかもこの三船が野望に突き動かされる要因も、ボスの情婦ではないものの「女」= 自分の妻である山田五十鈴という点まで似てる。こうしてパチーノ=三船は調子に乗ってボス=城主を殺して、自分が頂上に登り詰めるのだった。

だけど所詮はこいつ、ボスの器じゃない。だからこいつの天下は短かった。妹メアリー・エリザベス・マストラントニオに妙な愛情抱くあまり、妹とデキちゃった相棒のスティーブン・バウアーをブチ殺す。しかも調子こいてるうちにヤバい連中の怒りもかってしまう。気付いたら南米ギャング連中にデカい屋敷を取り囲まれてた。三船蜘蛛巣城が敵の軍勢に包囲されちゃったように。

ラストの壮絶な銃撃戦はかなりの見ものだが、実はパクりの名手デパーマの真骨頂はこれからだ。今までの「蜘蛛巣城」引用はつくる側の気持ちの部分にとどまってて、映画を見たらモロに分かるという類のものではない。だからここまでは、僕も「スカーフェイス」が「蜘蛛巣城」のパクりとは気付かなかった。だけど、さすがデ・パーマ。やっぱり最後の最後にやってくれるんだねぇ。

味方が誰もいなくなって、たった一人でマシンガン抱えて敵とやり合うパチーノ。しかし最後はバンバンバカバカ弾丸に穴だらけに撃ち抜かれてしまうんだね。それでも死なない。しかも敵の前に堂々立ちはだかって叫ぶのだ。

「てめえらチンピラどもに殺せるか!俺はあのトニー・モンタナさまだぞ!

このあたり、「蜘蛛巣城」の三船が雨あられと飛んでくる矢にブツブツ刺されながら仁王立ちする場面に通じる雰囲気なんだよね。三船はさすがに「俺はトニー・モンタナだ!」なんてタンカは切らないけれど(笑)。そして両者とも最後に一発、とどめの弾丸=矢をくらって死んでいく。そのあたりの呼吸というかテンポが、何とも言えないほど似ているんだよ。一回試しに「スカーフェイス」エンディングと「蜘蛛巣城」終盤を並べて見てごらん。絶対にデ・パーマは黒澤を意識しているから。

そして最後に漂う「無常感」まで何とも似ている。だって、そもそもこの「無常感」っていうもの自体、アメリカ映画にはないものだもんねぇ。

考えてみれば、例の「黒い罠」長回しパクりもその後の「スネークアイズ」ではちゃんと敗者復活戦よろしく活かし切って、作品自体も往年の「怖がらせ」サスペンスの王道に戻りながら、キチッと主人公ニコラス・ケイジにオトシマエ付けさせてて見事だったよね。デ・パーマの「世界名作劇場」の試行錯誤も、本当はいろいろな作品のいいところを吸収するためのものだったんだろう。つまりは「スネークアイズ」あたりで、彼もやっとそれを自分の血肉に出来るようになったのかな。そしてその発端となったのが、「蜘蛛巣城」から学んだこの「スカーフェイス」の無常感の表現あたりからだったように、僕には思えるんだよね。

 

 

 

 

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