第15回:西部のストレンジャー、クリント・イーストウッド

Clint Eastwood, the Stranger in the West

(2002/01/21)


西部劇の精神を今に伝える男クリント・イーストウッド、だからその存在そのものがアメリカのイコンであり、100パーセント・アメリカンと思いきや、それが実はだいぶ違うというところがこの人の面白いところなんですねぇ。特に映画作家としての彼はまるで違う顔を見せていると言っていい。考えてみると西部劇役者としての彼も、元はハリウッド本流じゃなくてマカロニから出発しているあたりからして、微妙に屈折した映画人生がスタートしているのかも。 ここではそんなイーストウッドの本音がかい間見える異色作二本をラインナップ!

 

「ブロンコ・ビリー」 Bronco Billy (1980)

自ら西部のヒーローのブロンコ・ビリーを名乗り、ワイルド・ウエスト・ショーを率いて各地のサーカスをドサ回りする旅芸人一座の座長がイーストウッドの役どころ。この男とこの一団、自分たちでも西部の心意気を体現しているとの自負心からか、思いあまって現実と虚像が境目なくしてるところがある。夢のない現実のアメリカに西部の夢とロマンを…という志やよし。だけど言い方変えればこのショーの中ではみんなヒーローで夢の体現者でいられるけれど、現実世界ではまったく居場所のない連中ばかり。このヒーローたち、中でも「我はブロンコ・ビリーなり」とショーがはねた後も西部イズムで語り行動しようとする主人公イーストウッド自身がかなりの道化者。彼は実はしがない靴のセールスマンだったわけで、それが女房を銃で撃って前科者になってしまったというのが実像。彼に限らずこのショーのメンバーは、サム・ボトムズのベトナム徴兵拒否男を筆頭に、みな現実に破れて逃避してきた連中なのだ。映画開巻まもなく流れてくる「ヒーローと道化者」というカントリーの主題歌がまさにそのあたりを言い尽くしている。だからショーが危機に瀕してジリ貧になった彼らは、何を血迷ったか大マジで列車強盗なんかやらかそうと企てる。だけど現在の列車のスピードにはブロンコ・ビリーの馬は追いつかない。襲おうとした列車に寂しく置いてけぼりをくわされる彼らの情けない姿は、そんな彼らの現実感覚の欠如ぶりと、夢だけはある、いや夢だけしかないアリサマを何より象徴的に表しているんだね。

そんな彼らの元にひょんな事からまぐれこんできたニューヨークの大富豪の女ソンドラ・ロック。この女がまた徹底的なタカビー&ワガママ女。遺産相続のために仕方なく政略結婚したものの、イヤミと横暴のあまりに男が音を上げて逃げ出した末のトラブルで、彼女はイヤイヤながらワイルド・ウエスト・ショーに参加するハメになる。殺伐とした現実を体現したロックと、夢に生きながら夢しかないイーストウッドのせめぎ合いが映画全編の見どころになる。案の定、ワガママ金持ち女ロックの「じゃじゃ馬ならし」という様相を呈してくるんだが、実はワイルド・ウエスト・ショーのバカバカしくもロマンがある夢の暮らしにロックが開眼してくる話と見せかけて、夢に逃避していたイーストウッドが、何より男にとっての究極の「現実」である女に目覚めるあたりがこの映画の隠しテーマじゃないかと思うよ。決して「夢は素晴らしい」なんてことだけを言いたい映画じゃないはずだ。

そんなイーストウッドのキャラクターを表現するエピソードとして秀逸なのが、彼がロックに嫁さんを撃った事情を回想するやりとり。その原因となったのが、彼の嫁さんと彼の親友の浮気。ロックは当然のごとく、なぜ男の方でなく嫁さんを撃ったのだと尋ねるが、それに返したイーストウッドの答えがまたいいんだよね。

 「奴は俺の親友だったから」

 そんなどこまでもガキ、どこまでも男の子のロマンに生きているようなイーストウッドが、終盤ロックに去られてメロメロになるあたりで、彼の「現実」への目覚めを描いてぐっと来る。「現実」だけでは味気ない、だけど「夢」だけでは生きているとは言えない。これって最近では「アメリ」にも共通するテーマとも思えるんだけどどうだろう? こんなテーマを、イーストウッドはこんな昔からさりげなく提示していたんだね。

 

「タイトロープ」 Tightrope (1984)

イーストウッド演じるのはニューオリンズ警察の殺人課刑事…というと、当たり役ダーティ・ハリーを彷彿とさせるけど、その目指すところは180度違うから驚きだ。女性の猟奇殺人事件が連続して起きて、その犯人を追うイーストウッドというのは想像通りだが、問題はそれからのイーストウッドの行動ぶり。コワモテに暴れてマイペースで捜査を続けるって従来パターンではない。彼はこの猟奇殺人者の足取りを追い、その犯行を追っていくうちに、大都会のセックス無限地獄に足を踏み入れる。ここでのイーストウッドは嫁さんと別れて男手ひとつで娘二人を育てている男で、そんな独り身の寂しさも身にしみる毎日。ついつい犯人がウロついた歓楽街に自ら入り込んで犯人の足取りを追ううちに、売春婦と手錠を使ったセックスに耽るなど犯行の追体験に溺れ始める。それを察した犯人はイーストウッドを挑発し始め、イーストウッドもヤバいと思いながらも、どんどん犯人に代表される爛れたセックスの世界に巻き込まれていく

これって一般に流布しているイーストウッド・イメージからすると意外だよね。変態セックスに溺れるイーストウッドなんて、ちょっとそれは違うんじゃないかとお思いの方も多いと思うんだけど、これが意外や意外。実はイーストウッド、昔からこうした世界に少なからず関心を抱いていたみたいなんだよ。過去にも南北戦争当時にケガをした南軍兵士が、修道院に匿われているうちに女の園のセックス地獄に巻き込まれる「白い肌の異常な夜」(1971)とか、ラジオの人気DJがファンの女をつまみ食いしたあげくストーキングされちゃう「恐怖のメロディ」(1971)とか、危険なセックスの臭いがする映画に関わっている。「恐怖のメロディ」なんて初監督作品なんだから、その関心の深さはかなりのもんだと思うよ。そこでイーストウッドが描きたいのは、みんなそういう事が日常や普通からかけ離れたものと思っているけど、実はそういった衝動って誰の心の中にもあるんだってことなんだろう。

そんな中でイーストウッドは、最初は煙たがってたレイプ対策センター責任者のジュヌビエーブ・ビュジョルドと親しくなっていく。それはどんどん自分の内面に広がっていく倒錯したセックスという「イリュージョン」への誘惑を断ち切り、女という「現実」と向き合っていきたい気持ちゆえの行動に思える。ここでも女という「現実」の直視が物語のヘソとなっているわけだ。

考えてみれば一見西部劇の復権をうたいあげたふうな「許されざる者」(1992)も、その背後には人間が誰も抱える暴力衝動とそれに対するアンビヴァレンツな感情が描かれていた。そのエンディングを思い起こして欲しい。イーストウッドは「娼婦を人間扱いしろ!」と叫びながら立ち去っていくではないか。そしてこう付け加えることも忘れない。「そうしなきゃブッ殺すからな!」

彼は人間の中に巣くう暴力や歪んだセックスの衝動を見て見ぬふりをするな、それを自覚した上で行動しろと言っている。ケダモノである己を知り、その上で人として振る舞えと提言しているのだ。何と「許されざる者」をつくるに当たって、白人警官たちが黒人青年を集団暴行したロドニー・キング事件を意識したって言うんだから、「マルコムX」なんかより過激なんだよ。保守的なアメリカイズムの体現のように見えて、実はスパイク・リーなんかよりずっと先を行く時代のトップランナー・イーストウッド。「スペース・カウボーイ」(2000)で宇宙にまで飛び出すのも、そりゃ当たり前の話だったんだよね。

 

 

 

 

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