「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人

  HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban

  ロング・バージョン

 (2004/07/12)


  

 

 

 

手早く結論知りたい人はこちら

 

 

この文章はまぎれもなく映画「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」の感想文ではありますが、良い子のお子さまには不適切な表現がいくつか含まれております(笑)。十分ご注意ください。

 

 

映画としての「ハリー・ポッター」シリーズは?

 ご承知のように、イギリスのファンタジー小説「ハリー・ポッター」シリーズは世界的に大成功を遂げたし、その映画化作品も過去の二作…賢者の石秘密の部屋は大ヒットした。だが、映画の出来映えは…というと、映画ファンにはすこぶる評判が悪い。

 もちろん元来がヘソ曲がりな映画ファンだから、こういう映画には難癖がつくのが常。古い映画ファンは最近の映画は気に入らないし、ミニシアター映画好きの連中はアメリカの大作映画はキライだ。シリアスな映画が好みな人々はSFXがたくさん使われているのもイヤだろうし、現実的でないファンタジーには何かと反発も強い。何よりヒットしたと言うだけで「映画ファン」は面白くない。一般のお客さんより自分の方が映画が分かってると思い込みたいから、それでなくてもヒット映画は毛嫌いする。「通」ぶりたいという歪んだ気持ちが、正しい判断を鈍らせる。つまり映画ファンの評判など、全く当てにならない事が多いのだ。

 では、そういうオマエはどう思っているのだ?…と言われると、世の映画ファンが躍起になって血祭りに上げるほど、映画「ハリポタ」シリーズが目も当てられない史上最低の出来栄えとは思わない。まぁ、ソコソコ普通の冒険映画というところ。ただし出来映えの本当のところはと言えば、言いたいことは山ほどあるけどね。少なくとも面白くなりそうな材料は揃っているのに、なぜか決定的なところでハズしているという感じが強い。

 実は「ハリポタ」シリーズが面白くない…という話はたくさん聞くが、それがなぜかを的確に言えている人はごく少数だ。それでもそこで挙げている不出来の理由は、大きく以下の二つに大別されるように思う。そして、これらについては僕も同意せざるを得ない。

 

(1)原作の要素をもれなく詰め込みすぎ

 原作の内容を出来るだけ割愛せずに盛り込もうとしたため、とにかく映画が長い。後で考えてみて、こんなエピソードが必要あったのかと思える要素まで取り込んである。僕は原作を読んでいないが、おそらくは原作と要素的には印象が変わらないであろう事は間違いない。映画というものが分かってないのに、自作の小説には異常に愛着を持った原作者に振り回されたあげく、監督クリス・コロンバスがオベンチャラを使った末のテイタラクではないのか。

 世界に原作のファンがいるからこの映画はコレでいい…などという意見もあるが、チャンチャラおかしい。原作を読んでいない奴だって映画は見る。それに不出来な映画を見せてもいいって事はないだろう。原作を活かした映画、原作ファンにも愛される映画…はある程度めざす必要があるが、原作のまんまなら映画にしない方がいいよ。

 おまけに原作ファンは、こんなに原作に縛られた映画化でも不満らしい。「アレが削られた、コレが見れなかった」と大騒ぎだ。それなら映画なんか最初から見ない方がいいではないか。これだけ要素を詰め込んでいるにも関わらず原作ファンが「割愛された」と騒ぐあたりに、「ハリポタ」映画化失敗の秘密があるように思われる。原作者のエゴか監督・脚本家の勘違いかは知らないが、出来る限り原作の要素を取りこぼしなく映画に入れようとしても、映画という器と上映時間には限界がある。要素は出来るだけ減らさず枠に押し込もうとするには、どれもこれもちょっとづつ刈り込んでいくしかないではないか。

 ジェームズ・キャメロンが映画を撮るたび上映時間の枠に苦労して、編集で泣く泣くカットしているのは有名な話だ。その編集にあたっての考え方は、「アビス」「エイリアン2」などのDVDに収められたそれぞれの「完全版」を見ればよく分かる。キャメロンはそれぞれのシーン、エピソードをちょっぴりづつ切って帳尻を合わせるのでなく、シークエンス丸ごとバッサリやってしまうのだ。だから「完全版」と「公開版」では印象も少なからず違う。物語も変わってしまう。だが彼にとっては「映画」の編集とはそういうものなのだ。全部のシーンが揃っていている事が映画としての完成ではない。「映画的」であるというのは別の問題なのだ。

 カロリーヌ・リンクが人物も設定も物語も大胆に改変しながら、ケストナーの原作の精神を見事に活かした点子ちゃんとアントンの映画化作品の素晴らしさを見れば一目瞭然だ。原作の「要素」に忠実であることと、原作の「精神」に忠実であることは違う。「ハリポタ」映画化が成功していないのは、おそらくそのへんに理由の一端があると思われるんだよね。

 それにそもそも、ファミリー・ピクチャーが2時間半を超えるのは異常だ。これは「ドクトル・ジバゴ」や「戦争と平和」ではない。こう言っちゃ語弊があるが、“たかが”「ハリー・ポッター」なんだからね。そこらへん常識で考えてくれ。

(2)主人公のキャラクターに問題がある

 主人公のハリー・ポッターはある宿命を持った男の子で、最初から魔法界のVIPみたいな少年。魔法学校に入学する際も、すでに「あのポッター」で大騒ぎだ。むろんそういうシチュエーションが悪いとは言わないが、あまり彼だけが特別扱いされるようなイメージは、娯楽映画としてはかえってツライだろう。ハンディを持ったり屈辱を受けたり、あるいは挫折を味わった主人公が最後に勝利してこそ、大衆的なドラマというものは盛り上がるし感情移入しやすいもの。そこを最初からセレブでは、大衆映画としてはつくりにくいのではないか。このポッターのVIPぶりについては激しく嫌悪する映画ファンもいるが、さすがに僕はそこまでは思わない。それでもドラマ構築上、この主人公の設定は難しいだろうとは思う

 そんなハンディを持っていても、主人公が魅力的なら問題はない。実はマズイのはこの主人公のキャラで、彼にはオッチョコチョイなところも狡いところもない。ユーモラスでもなければひとクセある訳でもない。弱みがある訳でもなければ人に嫌われている訳でもない。何かに夢中になると前後見境がなくなるとか、食いしん坊だとか犬がキラいだとか、何かというと鼻クソを丸めるとか今時ルービックキューブに凝っているとか…何でもいい。実は特徴的なものが何もない…という極めて印象薄いキャラクターなのだ。これは困ってしまう。ただメガネをかけているだけ(笑)。

 しかも彼の周囲を固める友人二人、ロンとハーマイオニーのキャラクターが際だっているので、なおさらポッターの印象は薄くなる。だから観客としては彼に共感したり感情移入したり、好きになったり心配したりがなかなか出来ない。おまけに放っておいてもみんなが寄ってたかって何とかしてくれる魔法界のセレブ。これで主人公を好きになれと言われても無理だろう。そして大衆映画にとって主人公への感情移入は必須条件だ。もうこの時点で、「ハリポタ」シリーズの映画が観客にアピールしにくいのは、かなり決定的な事がお分かりだろう。原作ファンが喜べばいい…という意見があるのは前述の通りだが、ただ原作の挿し絵と顔が同じ…というレベルで喜ぶなら絵本にすればいい。これは全くナンセンスな意見だ。

 そもそも好きになれないし自分と同化出来ない上に、おまけに魔法が出来てみんなも助けてくれるような奴が危機に陥って、一体誰が心配するというのだ? その段階でこの映画はスベってるとしか思えない。

 

 この二つが大体映画ファンから寄せられた批判だと思うが、僕はこれらより致命的な欠陥があると思っている。それは次の理由だ。

(3)クライマックス解決に必然性が乏しいこと

 娯楽映画の結末には大きな見せ場があるのが定石。それは激しいファイト・シーン、アクション・シーンであったり、カーチェースや爆発や…ともかく派手なヤマ場だ。それなしには事件は解決しないし、娯楽映画は終わらない。例えば「ロッキー」ならロッキーとアポロの試合があり、「スター・ウォーズ」一作目ではデス・スター攻撃シーンがある。これは娯楽映画の基本なのだ。

 もちろん「ハリポタ」過去二作にもヤマ場はあった。そこは派手なアクションやスペクタクルで彩られていた。だけど思い出してみると…なんでハリー・ポッターが勝利したか分からない。特別な武器が出てきた訳ではない。何かの伏線が作用した訳でもない。彼がとっさの機転を働かせたという訳でもない。いつも何となく勝っている事にお気づきだろうか?

 僕は「勝利」(仮にここでは「勝利」という言葉を使うが、娯楽映画のヤマ場を彩る事件の「解決」と言い直してもいい)には絶対に理由がある…と言いたい訳ではない。実は必ずしも理由が必要とされている訳ではない。だがよく出来た娯楽映画のヤマ場には、少なからずそういう結末(=「勝利」)を迎える必然性が、作中に提示されているものだ。それが娯楽映画のセオリーなのだ。それは現実的な必然性ばかりではない。

 例えば「スター・ウォーズ」デス・スター攻撃シーン。抵抗軍が帝国の悪の本拠地デス・スターを襲うが、難攻不落で苦戦。むしろ劣勢に転じてしまいそうなちょうどその時、どこからともなくハン・ソロのミレニアム・ファルコン号がやって来る。「カネにならない事はやらない」とばかり、敵との戦いにソッポを向いていたと思っていたハン・ソロが、ルークらを助けに戻ってきた。これに勇気百倍、抵抗軍は勢いづいてデス・スター破壊に成功する。

 ここで別にハン・ソロが加勢したからと言って、冷静に考えれば戦況が劇的に変わる訳ではない。しかし娯楽映画では、こうしたメンタルな要素で最後の勝利を導き出す事がよくある

 もっと言えば、「ロッキー」では試合中に劇的に戦況が変わる要素など出てこない。ただこれほどロッキーが善戦すると思わなかったアポロが、思わずうろたえるという部分はある。では、なぜロッキーが予想外に耐えているかと言えば、物語の前半で彼のモチベーションがこってりと描かれていることで分かる。愛する人の出現、それまでの鬱屈とした暮らし…逆にチャンピオン・アポロの奢り…。

 なぁんだ、それって「根性」って事か?

 ひょっとしてこれをお読みの方は、僕が挙げた例からそう結論づけるかもしれない。実は正確にはそうではないのだが、確かに娯楽映画ではそれに似た要素で「勝利」する事もあり得る。そのヤマ場の真っ最中に「必然性」が絵で提示されずとも、それまでの主人公の胸の内が描かれているから、「根性」とも思える精神性で「勝利」するように見える…そういう作劇法も確かにないわけではない。

 では、ハリー・ポッターは「根性」で勝ったのか(笑)?

 それにしては、彼には精神性が脆弱ではないか。一作目はまだしも「みぞの鏡」の前で両親との再会の願いに葛藤するが、その誘惑を振り切るに至った「理由」は提示されない。さらに二作目に至っては、そんな余地はまったくない

 本来、ポッターにとって「根性」的なファクターが生じる部分は、父母が殺されている事と、それによって義理の両親に惨い仕打ちを受けている事だろう。この両者は、確かに彼に強烈な精神性を持たせるファクターになり得る。

 このうち特に両親の死については、このシリーズの原動力のようなもので、前二作も確かに事あるごとにそこにこだわっては来た。

 ところが、それは彼の生まれの「特殊性」を意味する要素でもある。だから彼は両親の話が出てくるたびに、何だかんだと特別扱いされる。早い話が「サラブレッド」だ。こうしてポッターはその「生まれ」や「血統」によってチヤホヤされてしまう。これでは彼が両親と死別しているという悲痛感も、いとも簡単に相殺されてしまうではないか。

 加えて後者の義理の両親からの虐待については、上映時間の制約もあって映画の中でほんのわずかの時間しか描かれず、ファミリー・ピクチャーの宿命として大して惨くも描かれず、主人公に激しい感情を焼き付けるには至らない。少なくともそうは見えない。そう見せようともしていないのは、コミカルに描かれていることでも明白だ。そして物語はすぐに魔法の世界の話になって、ポッターはみんなにチヤホヤされてしまう。この「魔法界のVIP」というか「サラブレッド」としてのチヤホヤぶりは、彼にとって二重にマズイのだ

 しかも元から特徴やら面白みのないキャラだから、見ている側は彼の内面に入っていけない。だから観客には何の思い入れもないし、ヤマ場でポッターが「根性」を発揮するだけのものにも見えない。彼に何かあるとすれば、シリーズで繰り返し強調される亡き両親への思いだけ。第一作のヤマ場ではわずかにその片鱗があったように見受けられるが、それでもさんざっぱら「サラブレッド」ぶりで相殺され骨抜きにされた後では、一発大逆転のファクターとしては脆弱な設定だったと思うんだよね。

 まして先に述べたように、それ以外の伏線とか有効な武器とかとっさの機転なども見出せない。となると、どう考えてもポッターはただ何となく勝ってしまったようにしか見えないのだ。原作ではどうなってるか知らないが、少なくとも映画では分からない。それってちょっと一本の映画作品としてはマズイだろう。

 

 以上の理由から、このままでは「ハリポタ」映画は面白くならない…と僕は思ったんだよね。それはこれだけのネタを使いながらもったいない事だとも思うよ。

 

見る前の予想

 ところが今回、前二作のクリス・コロンバスが監督から降板すると言う。後任の名がアルフォンソ・キュアロンと聞いて、僕は正直言って驚いたんだよね。

 キュアロンと言えばメキシコ映画天国の口、終りの楽園。の監督ではないか。あれはなかなかいい映画だったけど、何しろ冒頭から若者たちの激しいセックス・シーンがバ〜ンと出てくるように、およそ「ハリポタ」の世界とは相容れないように思えたわけ。

 ところがこの監督、すでに「小公女」の映画化「リトル・プリンセス」なんてのを撮っているから驚いた。一体誰が、何でこの監督にこの仕事を頼んだかは分からないが、こういう児童文学の映画化も手がけていたとはねぇ。

 しかも「大いなる遺産」も撮っていた。世界名作文学全集みたいなのが好きなのか(笑)? ともかくこれなら児童文学の映画化も、有名でイメージの固まった原作の映画化も、アメリカ映画の製作も問題はない。確かにこれはかなり意表を突きながらも、実に的を得た人選ではないか。僕はこのキュアロン起用で、第三作「アズカバンの囚人」をちょっと期待したんだよね。

 そしていよいよ予告編が劇場で上映され始めた。

 すると、僕は妙な胸騒ぎを感じたんだよね

 今回の「悪役」…アズカバンの囚人役には、ゲイリー・オールドマンが起用されていた。また悪役か…とは思ったが、それでも僕の中には妙な予感があった。これってホントにオールドマンが悪役なのか?

 もう原作を読んだ人間なら知っているだろうが、今回の映画って意外性の映画かもしれない。ひょっとしたら「スター・ウォーズ」シリーズ第二作、「帝国の逆襲」みたいな、見てビックリの映画になるんではないか?

 そうなると、あの予告編がまたしても気になる。

 ポッターが怒り心頭で叫ぶ台詞「友だちだったのに!」…友だちだった?…そう言えば、このくだりではポッターとハーマイオニーしか画面には写らず、なぜかロンが出てこない

 そう言えばこの予告編のヤマ場っぽい場面には、なぜかポッターとハーマイオニーばかりでロンが出てこないではないか。いつも三人ワンセットだったのに、今回はなぜか二人しか出ないカットが多い。

 どうしたんだ?

 ひょっとしてロンが何かしでかすのか? それともロンが裏切る…それとも元々ロンの正体とは、何か忌まわしいものなんだろうか?…そうなってくれば、物語としては妙に盛り上がってこないか?

 キャラクターが薄い「ハリポタ」映画の中でも、愛すべきキャラとしていい味出してたロンが仇役になるのは残念至極。だがそれくらい荒療治をやらなきゃ、盛り上がらないシリーズかもしれない。

 僕は映画を見る前に、結構ハラハラドキドキしてたんだよね。このシリーズ見るのに、こんなに期待するとは思わなかった。

 

あらすじ

 ここはロンドンのベッドタウン。ハリー・ポッターことダニエル・ラドクリフは、相変わらずこの一角にある家に住んでいた。もちろんいまだに、唯一の身寄りである家の主人リチャード・グリフィスと妻フィオナ・ショー、そして出来の悪い息子ハリー・メリングの元に身を寄せる肩身の狭い立場。だが前二作で何度も実力行使を受けたのに懲りたか、大分大人しくはなった様子。

 夜になれば義理の親に隠れて、ベッドの中でアレコレ怪しげな事をせっせとやっている。そりゃこんな年頃ならそんな事もあるだろう。ともかく今晩もせっせ、せっせと…何をやっているかはあえて言わない(笑)。まぁ、一人でシコシコやる「あんなこと」も覚えたということだ。

 ところがそんな家に、無神経なババアがやって来た。それは主人の妹パム・フェリスおばさん。事情をまったく知らないこのババアは、よせばいいのにポッター=ラドクリフの亡くなった両親について悪口を言い放題。それを聞いたポッター=ラドクリフは激怒を抑えきれない。もう大人しくしているタマではないポッター=ラドクリフ。何せ「あんなこと」も覚えちゃったもんね。

 すると、たちまちフェリスおばさんのカラダに異変が起きるではないか

 「あんなこと」とはいささか困った魔法の事。だが、その「あんなこと」もあなたが思い浮かべた「あんなこと」と同じ。そういう年頃には覚えたくなるもの。覚えたらヤリたくなるものだ。そしてヤリだしたら止まらない。

 おばさんはカラダが風船みたいにパンパンに膨れる。膨れたまま空中に浮かんでしまう。そして家の者たちが慌てふためく中、ポッター=ラドクリフは荷物を持ったまま家を出ていく。

 だがフテって家を出たものの、行くあてなどない。仕方なく真っ暗な町中でボケっとしてたら、暗がりに何やらどう猛そうな黒い犬がいて、ポッター=ラドクリフをじっと見つめるではないか。

 ところがビビッたのもつかの間、そんなポッター=ラドクリフの元に一台の二階建てバスがやって来たから驚いた。これはどう考えても、魔法界のシロモノに違いない。

 案の定、バスは魔法の世界の乗り物だった。ものすごいスピードでロンドンを走り回り、ポッターを「漏れ鍋」なる宿屋へと連れていく。もちろんここも魔法の世界の宿屋だ。むろんこの名前では人間界のラブホは出来まい。気分としては名前だけでも「漏れ」ちゃマズイ。

 ここでいきなり魔法大臣に呼ばれたもんだから、ポッター=ラドクリフはさすがにビビる。あのムカつくババアを風船にした事で、魔法学校を退学になっちゃうのだろうか? ところが大臣はそんな事は大して気にも留めていない。それよりも気になる事があるのだ。

 それは、アズカバン刑務所を抜け出したある脱獄囚のこと

 この脱獄囚がポッター=ラドクリフに危害を加えるやもしれぬから、用心に越したことはない…てな奥歯にモノの挟まったような話だ。まったく大臣と名の付く者の言う事は今日び何ともスッキリしない。年金法案が通った後で出生率が下がった事を発表するような連中を、信じられる訳がない。

 だがポッター=ラドクリフはこの事を知っていた。それは例のカミカゼ二階建てバスの車掌が教えてくれたのだ。アズカバン刑務所に服役中だった、凶悪犯のシリウス・ブラック=ゲイリー・オールドマンが脱走した…。元々危険極まりない男ではある。それが脱獄不可能と言われた刑務所からの脱獄で、今また凄みにハクがついた格好だ。

 さて、この「漏れ鍋」には魔法学校への旅立ちを前にした、あのロン・ウィーズリー=ルパート・グリントとハーマイオニー・グレンジャー=エマ・ワトソンもいた。久々の再会を喜び合う三人。だがロン=グリントとハーマイオニー=ワトソンは、それぞれ自分が飼っているネズミとネコのことで口げんか。まぁロン=グリントのネズミをハーマイオニー=ワトソンのネコが食おうとするしない…という他愛のない話。だがそんなやりとりの影には、「オレの股間の小ネズミちゃんも食ってくれよお」「いやん、昼間っからぁ。それよりアタシのチーズをナメてっ」…とか、お年頃のお二人ならソレで頭がいっぱいな会話が展開されているとは、いくら最近一人でシコシコ「あんなこと」に熱中のポッター=ラドクリフも想像がつかなかった。

 そんなロン=グリントの父親マーク・ウィリアムズは、ポッター=ラドクリフに恐ろしい事実を教えてくれた。例の脱獄囚ブラック=オールドマンがポッター=ラドクリフの両親の死に関わっていること、一旦は力を失い獄に繋がれたが、ポッター=ラドクリフを殺す事で力を取り戻そうとしていること…。つまり、奴はポッター=ラドクリフを狙っているはずだ。これにはポッター=ラドクリフも戦慄せざるを得ない。

 ま、それはともかくポッター=ラドクリフたち三人は例によって魔法学校行きの列車に乗る。だが生憎とどの席も一杯で、彼ら三人は居眠りこいてるオッサンと同席する事になった。このオッサンがまた何とも奇妙な男で、何を考えているのか日本の素浪人のなりをして、カラダをボリボリとかきながら、時に「う〜ん、寝てみたい」などとブツブツ言っている。

 そんな道中の途中、なぜか列車が途中でストップ。どうも妙だと当たりを見回すと、どこからともなく濃い霧が漂い出すではないか。しかも窓の外から何者かが列車に入り込もうとしている。それはまるでガイコツのような手を持ち、怪しげな黒装束に身を固めた連中だ。こいつらは列車の中に入り込むと、何とポッター=ラドクリフに目を付けて迫ってくる。しかしポッター=ラドクリフはどうする事もできない。そのうちこの得体の知れない黒装束は、ポッター=ラドクリフから何やらチュパチュパ吸い出すではないか。いや、吸い出すと言っても勘違いしてもらっては困る。そんなイイことをするような連中じゃない。奴らは人の魂を吸い出す連中なのだ。

 その時、席で居眠りこいていたオッサンが、いきなりガバッと飛び起きた!

 このオッサン、何と日本刀を取り出すと例の黒装束に突きつけ、いきなり訳の分からないセリフをつぶやくではないか。「まったくかわいいツラをしてるな、テメエたちは」

 この言い草に黒装束はどよめく。「なにをっ!」

 「叩っ斬られても文句はねえな」

 「フン、斬れるものなら斬ってみろ」

 「斬られりゃあ、痛てえぞ」

 いきなりオッサンが一太刀浴びせると、黒装束もたまらず退散だ。だがポッター=ラドクリフはあまりの事に失神…。オッサンはと言うと、やたら肩を怒らせてカラダを揺すりながら去っていった。その去り際に背中を見せながら捨てぜりふだ。

 「あばよ!」

 それにしてもこのオッサン、一体何者なのか? そもそも、先ほどの台詞は一体何のつもりだ?

 ともかくポッター=ラドクリフたちは学校に着いた。着いて早々ワルガキのドラコ・マルフォイことトム・フェルトンが例によって例のごとしで彼らに毒づき、ポッター=ラドクリフが失神したことをバカにする。だがこいつらを相手にしているヒマはない。

 なぜか今学期の学校は、どこか物々しい雰囲気だった。それもそのはず、あの凶悪犯ブラック=オールドマンの脱獄によって、この魔法学校も危機的状況にあったのだ。そこでアズカバンの刑務所の看守をしていた「吸魂鬼」のディメンターたちが、この学校の警備に駆り出されていたのだ。だがこのディメンターについては注意を要する。校長のダンブルドア=マイケル・ガンボンも、生徒たちに改めて用心を呼びかけた。

 ディメンター…それは列車でポッター=ラドクリフを襲った恐ろしい黒装束の連中だ。

 このディメンターは恐ろしい連中で、魂を吸い取ってしまいには殺してしまう。そしてアズカバンの看守をであり、今回は学校の警備を担当するとは言っても、いざとなったら相手が悪人だろうと何だろうとお構いなし。これでこの学校の用心棒になるのか?

 「用心棒は用心棒でも、雇った方が用心しなくちゃならねえ用心棒ってのもいるぜ」

 ビックリするポッター=ラドクリフたちの前に、あの列車で同席したオッサンがカラダをポリポリかきながら現れた。

 「あなたの名前は?」

 「オレか? オレの名は三船…じゃなかった…」

 そして一回ためらった後、改めて名乗った。「…狼三十郎だ。もうすぐ四十郎だがな」

 「オオカミ?」

 するとダンブルドアことガンボン校長は笑ってこの素浪人をみんなに紹介する。「ハハハ! 新任のルービン先生ことデビッド・シューリス先生だ」

 この先生、もうみなさんお分かりのように黒澤映画の三船敏郎の大ファン。だから言うことやることいちいち三船めいているという妙な先生だ。だがそれにしても、「桑畑」「椿」ならともかく「オオカミ三十郎」とは一体いかなる意味があって名乗った名前なのか? 何かいわくありげではある。

 てなわけで、またまた新学期が始まった。

 新任の先生はこのルービン=シューリス先生だけではなかった。ど近眼メガネのトレローニー=エマ・トンプソン先生もその一人。トレローニー=トンプソン先生の専門は占星術だ。

 ところで最初はこの授業に出ていなかったはずのハーマイオニー=ワトソンが、なぜかいつの間にか席に着いているではないか。それもやたら汗をかいてハーハーと荒い息をしている。アレレ、これって…?

 するとトレローニー=トンプソン先生は、よせばいいのに図星を突いてしまった。「そういうお年頃なのは分かるけど、あまりし過ぎるとカラダに毒なのよ」

 このあまりにあまりな指摘にハーマイオニー=ワトソンはプッツン。顔を赤らめて部屋を出ていってしまった。これを見たロン=グリントは大喜び。「あいつ授業のたびにトイレに入ってコイてるのかなぁ?」

 そう言えばハーマイオニー=ワトソンはやたらめったら授業を受けているが、中には時間がダブって受けられないはずの授業まである。彼女が躍起になって勉強するのも不可解だが、一体どうやってそれらの授業を受けているのかも分からない。それに加えてトイレでコイてるヒマなんであるんだろうか? 確かに最近目の下のクマが濃くなってはいたが…。

 ところがポッター=ラドクリフはと言うと、ハーマイオニー=ワトソンの事で笑ってる場合ではなかった。占いで「黒い犬」の印が出たからだ。黒い犬と言えば「死に神」の象徴。そしてロンドンでバスに乗る直前に見たのも「黒い犬」だ。ますます不吉な予感がよぎる。

 魔法学校恒例のクィディッチ試合も、今年は生憎と雨天決行。エースのポッター=ラドクリフは羽根の生えたボールを追ってホウキで飛びに飛ぶ。ところが行く手にあの忌まわしいディメンターたちがウヨウヨ出てくるではないか。たまらずポッター=ラドクリフは、そのまま気絶して転落してしまう。

 そんな事もあってかポッター=ラドクリフは、例のルービン=シューリス先生の恐怖を克服する授業で、相手が怖がっているモノに変身する魔物をあのディメンターに変えてしまう。その場はルービン=シューリス先生が何とか抑えて事なきを得たが、いまやポッター=ラドクリフは恐怖に囚われ、トラウマの影響から逃れられずにいた。

 「少し急激に世の中を見過ぎたんだ。いわば子どもで言えば知恵熱だ」

 そうルービン=シューリス先生に「赤ひげ」の三船みたいなセリフで慰められても、全然心が晴れないポッター=ラドクリフ。

 ある日、ポッター=ラドクリフがポツンと一人でいると、あのルービン=シューリス先生がまたまた得意の三船の声色で声をかけた。「飲んでますか?」

 もちろん飲んでいる訳はない。ポッター=ラドクリフは、あのディメンター…そして彼らを引き寄せてしまったシリウス・ブラック=オールドマンの事が頭から離れなかったのだ。それにしても、ディメンターはどうして僕ばかりに寄ってくるのか?

 そんな彼にルービン=シューリス先生は、教え諭すように語った。奴らは人の苦しみを吸い取って生きる。君の過去には他の人にないような苦しみがあった。だから奴らは君に関心を持っているのさ…。

 ルービン=シューリス先生は、かつてポッター=ラドクリフの両親とも親しかったらしい。ポッター=ラドクリフの胸中を察した先生は、学校に内緒でビールを奢ってくれたのだった。「こういう時は飲むに限る。男は黙ってサッポロビールだ」…こんな時でも三船好きを押し通すルービン=シューリス先生なのだった。

 またある時、透明マントを羽織って秘かに外出したポッター=ラドクリフは、ダンブルドア=ガンボン校長、マクゴナガル=マギー・スミス先生らの後に付いていき、マダム・ロスメルダことジュリー・クリスティーが営む居酒屋にコッソリ侵入した。ところがそこで一同に話された話は、ポッター=ラドクリフも知らなかった彼の両親と脱獄囚ブラック=オールドマンに関する物語…。

 ポッター=ラドクリフの両親の死に荷担した囚人ブラック=オールドマンは、実はその際に一人の男を殺しているらしい。それはブラック=オールドマンの元にいながら彼を裏切り、ポッター=ラドクリフの両親の元へ危機を知らせに行った男…ピーター・ペティグリューことティモシー・スポールだ。その殺し方は惨たらしく、指一本を残すのみのバラバラな状態だったとか。

 しかももっと驚くことに、何と囚人ブラック=オールドマンはポッター=ラドクリフの名付け親でもあったと言うのだ! 彼の名付け親ということは…両親とは友人どうしだったということか!

 ポッター=ラドクリフは何とか怪しまれずに居酒屋を出たが、外に出た彼は怒り心頭。彼の身を案じるハーマイオニー=ワトソンらの前で、どうしても大声で叫ばずにいられない。「友だちだったのに! 友だちだったのに僕の両親を殺したんだ!

 そんな事で驚いてはいけない。自分の国の国民が人質になっても、「自己責任」とか言って見殺しにする首相もいる。人に年金を払えと言いながら、自分じゃロクに払ってない政治家もいる。アメリカに確認した訳でもないのに、ジェンキンス氏に身柄は保証すると豪語するイカサマ師もいる。ポッターよ。そんな事ぐらいで驚いちゃいかん。

 そんなルービン=シューリス先生は、ある時ポッター=ラドクリフにディメンターを撃退する方法を教えてくれた。それは自分の人生の中で最も楽しい事を思い出しながら、「守護霊よ、守れ!」と唱えるという事だった。だが例の変身する魔物を使ってディメンター退治の練習をしても、なかなかうまくはいかない。それは…。

 ポッター=ラドクリフには、そんな圧倒的な喜びの記憶がなかった

 「オマエまだイッたことなかったのか?」とバカな事を言いそうになったルービン=シューリス先生だが、さすがにここは危うく踏み止まった。そして落ち込みそうになるポッター=ラドクリフを何とか励ました。

その甲斐あってか…そんなポッター=ラドクリフでも、ついには何とかディメンター「もどき」を退治する事が出来た。それは彼の幼い頃の記憶の片隅にあった、両親のことを思い出したからだ。

 本当の思い出かは分からない。だが、彼にとってはそれこそが、もっとも喜びを感じさせるものだった

 だがそんなルービン=シューリス先生も、なぜか突然休みをとる事があった。その代わりに教壇に立ったのは、あのおっかないスネイブ先生ことアラン・リックマン。どうもスネイブ=リックマン先生はルービン=シューリス先生とソリが合わないようで、何かというと当てこすりばかり。あげくなぜかオオカミ男についてアレコレと語り始めるのが奇妙だ。スネイブ=リックマン先生はルービン=シューリス先生を、どこか疑っているようでもある。

 そんなポッター=ラドクリフに、友人がイケてるブツを持ち込んだ。それは奇妙なマップで、この魔法学校の全景を見渡せるもの。何よりスゴいのは、部屋にいながらにして学校全体の様子が分かることだ。そこにいる人物の名と足跡がリアルタイムで液晶表示されるから、どこに誰がいるかが一目で分かる。こりゃあスグレものだ。どれどれ、ハーマイオニー=ワトソンはまた女子トイレに籠もってるか…。

 ところがそこに、どこかで聞いたような名前が…「ピーター・ペティグリューことティモシー・スポール」? それってブラック=オールドマンに、10年以上前に殺された男の名ではないか?

 慌ててポッター=ラドクリフはマップを頼りに、真夜中にも関わらずその足跡を追ってみる。だが、その場所には誰の姿も見えない。しかも夜中に怪しげなマップを持ってウロウロしていたので、スネイブ=リックマン先生に見つかってしまった。そこに通りかかったルービン=シューリス先生が庇ってはくれたものの、結局はこのルービン=シューリス先生にまで叱られてしまうハメになる。「こんな夜にノコノコ歩いてるとは。ったく、バカにつけるクスリはないな!」…ポッター=ラドクリフを叱る時でも、ついつい三船三十郎のセリフが口をつくルービン=シューリス先生。

 しかも先生はさすがにこのマップの機能を見抜き、ポッター=ラドクリフから取り上げてしまった。ところがポッター=ラドクリフから「ペティグリュー=スポール」の名前があったと聞くや、その顔色がサッと変わる…。

 ユウウツな事はまだあった。魔法学校の庭師ハグリッドことロビー・コルトレーンが今学期から先生に昇格。ポッター=ラドクリフたちは大喜びしたが、案の定あの根性曲がりのマルフォイ=フェルトンが足を引っ張った。

 ヤツはちょっと荒っぽいが慣れれば優しい、ワシの首と羽根に馬の胴体と脚を持ったケモノ「バックビーク」の扱い方の授業でビビらされ逆恨みしたのだ。ちょうどその時同じように驚いたハーマイオニー=ワトソンは、ドサクサに紛れてロン=グリントのイチモツ握りしめるというオイシイ思いをしていたが、マルフォイ=フェルトンはただただ大ハジかかされただけだから怒り心頭。危ない目にあったと難癖を付け、有力者の親父を使って攻撃したからたまらない。そういう意味ではわが日本も魔法界も、教育を取り巻く環境に大差はない。こっちじゃ旗を降ろすの揚げるの、歌をうたうのうたわないの、起立するのさせないので大騒ぎ。右から左までどいつもこいつも教育なんか語って欲しくない連中ばかりだ。

 閑話休題。そんなわけで一時はハグリッド=コルトレーンの職も危ない状況だった。ポッター=ラドクリフたちは「いやぁ、51議席取れなくたって、辞めることはないですよ」と言っていたが、ハグリッド=コルトレーンはそんなウソつき無責任野郎ではない。

 それでも校長先生の奔走もあってか、何とかクビはつながった。ただしめでたさも中くらいなり。彼が可愛がってきた「バックビーク」は、すぐに処分が決まったから不運だ

 今日はいよいよ「バックビーク」処分の日。みんな何かとイラだっていた。ロン=グリントも自分の飼っていたネズミがいなくなって、ハーマイオニー=ワトソンのネコに食われたと思って怒っていた。ハーマイオニー=ワトソンは濡れ衣だと怒っていた。ポッター=ラドクリフはと言えば、両親を裏切って死に追いやったブラック=オールドマンに怒っていた。そんな折りもおり、調子に乗ったマルフォイ=フェルトンが「バックビーク」の処分を大喜びしていたのはマズかった。三人の中でも旗日で気が荒れていたハーマイオニー=ワトソンは、いきなりマルフォイ=フェルトンの股間にガッシと手をやった!

 パララ〜、パパパッパパパパッパララ〜!

 どこからともかくトランペットの音が高らかに響く。平尾昌晃作曲の夜のムード歌謡に乗って、ハーマイオニー=ワトソンはマルフォイ=フェルトンの股間を握る手をさらに強める。もちろん繰り出すはあの「必殺仕置人」、山崎努が得意とする必殺技だ。

 ゴリゴリッ!

 いや〜な音がしてタマがつぶれる。マルフォイ=フェルトンたちは、タマらずその場を逃げ出した。「ふん、いい気味よ!」

 改めて女は怖いと心底実感したポッター=ラドクリフだったが、ちょっとM入ってるロン=グリントは、「オレにもやってくれぃ」と思ったか思わなかったか。ともかく野郎二人はそんな事はおくびにも出さず、ハーマイオニー=ワトソンと共にハグリッド=コルトレーンの家を訪ねる。「バックビーク」処分でしょげている彼を励まそうというわけだ。

 だがハグリッド=コルトレーンは気丈にも耐えていた。逆に何とか庇おうとしたダンブルドア=ガンボン校長に感謝しているほど。そんな彼はロン=グリントに、いなくなっていたネズミを渡す。ネコに食われたかと思っていたら、こんな所にウロウロしていたのか。

 そんな時、突然窓から石が飛んできた。慌てて窓の外を見ると、ダンブルドア=ガンボン校長や「バックビーク」を処刑する首切り人たちがやって来るところだ。

 こんな所にいるところを見つかったら大変だ!

 ポッター=ラドクリフたちは慌てて裏口から出ていく。処理されてしまうとは知らない「バックビーク」は、ただその場に大人しくしていた。

 ところがそんな三人は、突然うなり声をあげる黒い犬に出くわしてしまう。これがルービン=シューリス先生の十八番、黒澤「用心棒」なら手首をくわえて走ってくるところ。ところがこの黒い犬と来たら、ロン=グリントの足首をガブッとくわえて、いきなり引きずって行くではないか。そして何とクネクネと枝を振り回す奇怪な大木の根本までやってくると、そこにポッカリ開いた穴の中にロン=グリントともども入ってしまうではないか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらわれたロン=グリントの叫び声が響いてくる。ここはくねくね電動コケシみたいに枝を振り回す、卑わいな大木の根本。そこにポッカリ開いた真っ暗な穴というところが、また何とも卑わいだ。「これはひょっとして…」「何だ、何て言うんだ、言ってみな。声に出して言ってみろよ」「えっ、そんな」…などとエロ・ビデオ見過ぎなやりとりの末、ポッター=ラドクリフとハーマイオニー=ワトソンはその穴に入っていく事にした。すると何とこの穴、近所で幽霊屋敷として有名な、今は廃墟と化した洋館に通じているではないか。

 しかもそこでロン=グリントをさらって待っていたのは、誰あろうあのブラック=オールドマンその人だ!

 「待っていたぞ、ポッター」

 さらに驚いた事には、そこにあのリーベン=シューリス先生もやって来た。何とこの先生もグルだったのか。

 だがこの二人、どうも悪びれてはいない。むしろその逆で、ポッター=ラドクリフを守りに来たような口振りだ。

 ところがさらにビックリ。そこにスネイブ=リックマン先生まで飛び込んで来た。スネイブ=リックマン先生はブラック=オールドマンとリーベン=シューリス先生を見つけると、「やっぱりオマエらか!」と一喝。前々から怪しいと睨んでいたスネイブ=リックマン先生は、リーベン=シューリス先生を見張っていたのだった。

 「オマエは昔から早合点が多いなぁ」

 ブラック=オールドマンとリーベン=シューリス先生は呆れ顔だが、あくまでスネイブ=リックマン先生は大マジで、二人を相手に威嚇する。ところがそんなスネイブ=リックマン先生を、ポッター=ラドクリフが吹っ飛ばして失神させた。ここでスネイブ=リックマン先生にすべて事を片づけられては困る。彼にはまだ知りたい事があった。

 そんなポッター=ラドクリフの気持ちに応えるように、ブラック=オールドマンとリーベン=シューリス先生はタネ明かしを始める。実はポッター=ラドクリフの両親を裏切ったのは、ブラック=オールドマンではないと言うのだ。彼は無実の罪を着せられていた。実は元凶はブラック=オールドマンに殺されたというピーター・ペティグリューことティモシー・スポールだった…。

 しかしペティグリュー=スポールは死んだはずではないのか?

 話がここまで来たところで、ブラック=オールドマンはロン=グリントに飼っている小ネズミをよこせと言い出した。そんないきなりの話にイヤがるロン=グリントだが、ブラック=オールドマンはあくまでよこせと繰り返す。そのやりとりを見ているうちに、ポッター=ラドクリフにも事の真相がのみ込めて来た。

 だが例の小ネズミはロン=グリントの手から離れると、一目散に逃げて壁の穴を通り抜けようとするではないか。そんな小ネズミに、ブラック=オールドマンが魔法をかけた…いや、この場合は魔法を解いたと言うべきか。

 すると穴を通り抜けようとした小ネズミは、いきなりデカい男の姿に豹変!

 これでは穴など通り抜けられない。その男…ペティグリュー=スポールは、ブラック=オールドマンとリーベン=シューリス先生に捕らえられ、しぶしぶ観念する事になった。

 「やっぱりオマエだったか、ふざけやがって!」

 「いやぁ…人生いろいろ

 そんな人をナメきった事を平気で言うペティグリュー=スポール。それじゃあ小ネズミじゃなくてコイズミだろうが…(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まず結論から言わせてもらおう。ロン・ウィーズリーは裏切り者ではなかった(笑)。忌まわしい運命も持ってなければ、ハリー・ポッターと反目した訳でもない。いやいや、お騒がせしました(笑)。

 実はロンではなくて、ロンの飼っていたネズミが問題だったとは…すっかりやられてしまった(笑)。でも、あの予告編はホントに思わせぶりだったんだよなぁ。世界中に原作ファンがいて、彼らはストーリー知っているんだから「まさか」とは思うが、僕みたいな勘違いする奴もいるに違いないとわざとこういう予告編をつくったのか。ともかくロンはシロだった。ご安心を。

 ただし、作品のテイストは前二作とかなり異なる。そして面白い。僕はこのシリーズ三作の中で、いちばん面白いと思うよ。よく出来ている。

 監督が変わったのはダテじゃなかった。ポスターなどのビジュアルの印象が変わったのもコケ脅しではなかった。確かにこのシリーズ、意識的に空気を変えようとしているのがアリアリだ。

 まず今回のポッターは、少なくとも何を考えているのか分かるし、ハッキリとしたハンディを抱えている。映画が始まってすぐに脱獄囚のシリウス・ブラックに命を狙われていることが明らかになり、それとは別に吸魂鬼ディメンターなる忌まわしい存在が現れ、ポッターに実際に襲いかかる。その時の恐怖が脳裏から離れず、彼は今回の物語の間ずっとトラウマに悩まされるのだ。今回、彼は初めて「魔法界のVIP」然として安穏とはしていない。

 だから彼の身に迫る危機が、ちゃんと観客にも届く。映画にサスペンスが生まれるのだ。

 そりゃあそうだ。元々魔法ができるってだけでもユルいのに、魔法人としての資質も生まれながらに抜群。しかも周りには助けてくれる重鎮がいっぱいいて、頼りになるダチもいる。球拾いには事欠かない。おまけに生来の強運も相当なものだ。これでどうやってポッターのことを心配したりハラハラできる?

 今回はあえてハンディキャップを課することによって、ポッターをドラマの渦中に引きずりこんでいく。元々の原作からしてそうなのかもしれないが、おそらく脚色上もそうした工夫がなされているはずだ。いつもは過剰なほどポッターを構ってくる魔法学校の先生たちも、今回はなぜか一歩退いている。ロンやハーマイオニーとは相変わらずマブダチだが、彼らとの関係もどこかクールだ(これについては後で詳しく語る)。そして宿命の男ブラックとの遭遇が迫ってくる上に、ディメンターのダイレクトな攻撃がある。

 何しろ今回は、いつも「若大将」シリーズみたいにポッター一人勝ちの大活躍に終始するクィディッチ試合も、ディメンターの登場であっけなく墜落というブザマな状態で終わる。何をやってもうまくいくし、みんなにもウケるポッターではない。考えてみれば「人気・実力・強運」と三拍子揃ってるポッターって、ハッキリ言ってイヤミと言えばイヤミだよね。こんなヤツあまり身近にいて欲しくはない。少なくとも、共感や親しみを持つキャラとは言えない。

 今回のポッターは先生も特別扱いしないし、ダチも親しくはあるが異常にベッタリしない、やることなすことうまくいくわけじゃないし、怯えたり心配したりすることもある。…って、別に彼を貶めているわけでもないよね。それって僕らと同じ、普通の人ということだ。ただ魔法ができるだけ(笑)。ならばポッターだって、凡人である僕らの共感の対象になり得る。今回はこのへんの描き方が実に巧みなんだよね。

 もう一つ巧みなのは、ここで描かれる子どもたちのナマっぽさ。もちろん良い子の見るファミリー・ピクチャーだから限界はある。だけど明らかに前二作とは一線を画した描き方なんだよね。ともかくポッターは怯えまくってるし悩み続けてる。さらに、大人たちがシリウス・ブラックについて語っているのを盗み聞きしたポッターが、ロンもハーマイオニーも放ったらかして一人でキレまくる場面は象徴的だ。

 このように今回の仲良し三人組は、必ずしも意志や感情を共有しない。だからハーマイオニーも、時空を旅するペンダントを使って時間的にダブる授業を全部受けていたのに、そのことを仲間には隠している。こんな状態の中、最も親しみやすく気のいいロンでさえもが、前二作とは微妙にキャラを変えている。ハーマイオニーが占星術の授業で使うガラスの玉を部屋の外に投げ出してしまった後で、玉を元に戻そうと言ったポッター(ここは相変わらずいい子の彼なのだが)に、ロンは実に素っ気なく「オレ、やだ!」と言い捨てて去ってしまうのだ。この協調心のなさ、このクールぶり…でも、それこそが普通の子の感情ってものじゃないだろうか。別に悪い子って訳じゃないだろう。これで当たり前だ。むしろ親しみがわく。

 しかも今回の三人組は、クールなだけじゃなくてやたら苛立っている。何かとキレる。ポッターは何しろ命は狙われてるしディメンターは怖いし…でイライラ。ハーマイオニーは先生に気持ちの余裕のなさを指摘され、図星なだけにこれまた思いっきりキレる。悪ガキのドラコ・マルフォイをぶん殴るのも彼女だ。それは活発さと言うよりも、気が荒ぶるというか絶えず怒りが発散場所を探しているような描き方だ。あまりコミカルで愉快な笑わせるための描き方じゃないんだよね。

 そんな中で今回唯一最初からポッターをかばい続け、彼自身も心を許して慕うのが、デビッド・シューリス演じるリーベン先生。だがこのリーベン先生も、人に言えないダークな面を持っているのが何とも象徴的だ。この先生でさえも、ホントのホントに信じていいの?…という存在でしかないのだ。

 しかもこの先生は後半のヤマ場では自らコントロールを失い、ポッターの安全すら脅かしてしまう。さらには、本人にとってはまことに理不尽なカタチながら、そのダークな面が災いして学校を去ることを余儀なくされる。このあたり、何とも苦い苦い存在なのだ。前作「秘密の部屋」での妖精のドビーのラストでの扱いと比べると、これがいかに苦い味わいかお分かりいただけるだろうか。

 それというのも、「天国の口、終りの楽園。」の監督アルフォンソ・キュアロンだから…と考えればうなずけるのではないか?

 「天国〜」では主人公の若い男二人と年上女の旅を通して、若者の人生への目覚めを描いていた。そこでの主人公の若い男二人はエゴと性欲のカタマリだったし、若者特有の傲慢さで一杯だった。つまりは、そこらにいる普通の若者だ。僕も若い頃はあんな風だった…と痛みも含めて思い出させる、キレイ事ではない若者だった。あの映画の終盤にはハッキリと子供時代の終わりがリアルに刻印されていて、何とも苦い味わいがあった。

 そんなキュアロンだから、「ハリポタ」を撮ってもこうなる

 決して特別な「いい子」ではない、普通の子供に描かれる。しかもハッキリと、彼らの思春期への突入が表現されているのである。いや、思春期…に特化すべきではないな。だって、これは誰もに共通する感情だからね。

 魔法使いだからと言ってもオールマイティーではない、回りにもやたらに持ち上げられないし助けてもらえそうもない、恩人やダチでさえ胸の内すべてまでは他者に見せない、おまけに終始自分を脅かす影は消えない、自分自身でさえ自分を持てあましてしまう。そして、自分も含めてみんなにナゾがあって常に不安に駆られる…こういうヤツなら僕はよく知っているよ。今でも東京に一人いる。

 さすがに「天国〜」のようにハードなセックス・シーンは出せないまでも、キュアロンは「ハリポタ」を普通の人間の次元に引き戻した。だから過度に善良に振舞わないし、時に素っ気ない。そして思春期特有の不安定な感情で、怒りや恐れを露にする。今回心優しく人なつっこいキャラであるロンの出番が大きく後退した理由も、おそらくはこのへんにあるのだろう。彼らのギスギスした面をクローズアップさせたかったに違いないのだ。劇中でも三人組がおなじみの魔法学校の制服を着ているより、私服を着ている場面が多いのはそのせいだろう。できるだけ僕らと近しく思えるような設定にされていると考えるべきだ。

 それは色彩設計においても徹底しており、今回は現像処理かフィルターワークか、映画全体にわたって色が極端に抑えられている。ポッターが「バックビーク」にまたがって空に舞い上がり、湖の上を旋回するあたりの画面をご注目いただきたい。このあたりでは映像はほとんどモノクロに近い脱色ぶりだ。「ハリー・ポッター」をつかまえてこんな言い方も何だが、極端な言い方をすれば今回はよりハードで硬派で辛口な作品になっているのだ。まぁ、そうは言っても「ハリポタ」だから知れたものだが、それでもこの作品のワク内限度いっぱいまでやっている。

 キャスティング的にも豪華を極め、今回はゲイリー・オールドマンを筆頭に、「シャンドライの恋」のデビッド・シューリス、近作では「ラストサムライ」まで出ている超売れっ子のティモシー・スポール、そして何とも凝った扮装のエマ・トンプソン、さらには「トロイ」に次いで瞬間芸的な出番のジュリー・クリスティーと、前二作からの英国名優陣総出演的パターンをさらに推し進めている。中でもオールドマンは今回最大の「引っ掛け」キャスティングで、僕は逆に裏目読みしすぎて大ハズシしてしまった。「レオン」「フィフス・エレメント」「エアフォース・ワン」「ロスト・イン・スペース」と、娯楽大作でのキレる悪役がいささかパターン化してマンネリとも見えてきたオールドマンだけに、今回のこの役は天の恵みとも思えたのではないだろうか? ハリウッドでウケた従来のキレる演技に加え、一転して意外な顔を見せるという最近のオールドマンにしてはオイシイ役。彼にとっても今回の起用は、絶対にプラスに働いたと思えるんだよね。

 今述べたようにこの映画では、シリアス・ブラックとの対決と見せかけて途中で巧みなズラシが行なわれている。しかもポッターを直接脅かす存在として物語の前半からディメンターが出てきているから、このズラシは観客にはそれと気づかれない。そして前二作と違って今回は、ポッターが自らを脅かすトラウマと戦うわけだから、必然がちゃんとそこに生じるのだ。

 また今回は、ハーマイオニーの時空移動ができるペンダントを使った活躍がヤマ場となる。だから前二作のように、「対決」〜「勝利」というワンパターンな展開にはならない。このあたりも、作品を新鮮で面白く見せていると思う。

 もちろん原作からしてこういう設定ではあるのだろうが、前二作との違いを考えると、ここには脚色と演出の工夫も功を奏しているように思われる。間違いなく、今回のキュアロン起用は正解だったと言えるのではないだろうか。

 

見た後の付け足し

 ただしこの映画を見に行った劇場で、僕はとんでもない酷評を耳にしてしまった。二人連れの女の子が、「全然よくなかった!」とボロクソにケナしていたのだ。僕は思わず耳を疑ったが、この二人は大マジメ。その理由たるや「見せ場や特殊効果に偏っていてドラマが描けてない」ってな、どこかで聞いたような話だったから笑ってしまった。

 どうもこの二人は原作のファンだったらしく、前二作は楽しめたようだ。それなのに、僕が初めていいと思った「ハリポタ」第三作は大酷評。

 これはどうしたことだろうか?

 まず彼女たちが「ドラマが描けてない」と言うのは、エピソードが割愛された…ということのようだ。

 僕も今回の作品は、いつもよりスジがスッキリしている印象があった。いつもだとあっちへこっちへ話が行ったり来たりしたあげく、ゴチャゴチャと挿話が詰め込まれていた。それに対して今回は、従来よりかなり枝葉を刈り取った印象だ。これなら映画のポイントがストレートに絞りやすい。

 単純に上映時間を見ても、このへんの事情は伺える。第一作は2時間30分余、第二作は人物や設定の紹介も要らないはずなのに、なぜかさらに長尺の2時間40分余。それに対して今回は、シリーズ最短の2時間20分余り。これだけをとってみても、今回いかに映画がシェイプアップされて贅肉がそぎ落とされているか分かる。

 ところが、これが原作ファンの不興を招いてしまったのだろうか

 原作ファンの多くは、とにかく原作そのものがただ絵解きのように映像化されていれば嬉しいのだろうか。確かに原作の世界に浸りたいというのが本音なのかもしれない。だから、前二作はいいと言うのだろう。だがそれでは、「ハリポタ」テーマパークみたいなものだ。それって「映画」じゃないよ。

 まぁ、原作と映画という問題は映画化作品には付き物ではあるが、こんなに評価が極端に割れるのは「ハリポタ」ぐらいではないか? そういう意味では、この小説自体に読者を過度に意固地にさせたり頑なにさせる、何か特別な要素があるのかもしれない。ただ、だからと言ってそんな調子でいい映画が出来る訳もない。

 暴論は承知の上だ。原作者のオバサンや原作ファンもここはひとつ涙を飲んで、割愛には目をつぶって割り切った上で映画を見た方がいい(笑)。その方がきっと、「ハリポタ」映画の出来栄えはぐ〜んとマシになると思うけどね。

 

 

 

 

 

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