「キル・ビル/Vol.2

  Kill Bill Vol.2

  ロング・バージョン

 (2004/05/10)


  

 

 

 

手早く結論知りたい人はこちら

 

 

 

この感想文は「キル・ビル/Vol.2」サントラCD収録、シバリーの「グッドナイト・ムーン」を聞きながらお読みになることをお勧めします。

 

 

 

今回のマクラ

 実は僕は、あまり社交的な男ではない

 子どもの頃の不幸な体験が災いしてか、どうも他人というものを信用しない。どこか気を許さないところがある。たぶん、そのガードはかなり固い方だと思うよ。親しげに振る舞ってはいても、どこかで用心してしまう。

 ただ、一度気を許すと…これがまったく逆転する。

 こいつは自分の「身内」だと思えば、今度は徹底的にガードをはずしてつき合う。そいつが多少難のある部分を見せても許す。徹底的に大目に見る。見なかった事にする。あるいは何か理由があったものと考える。「身内」にはめっぽう気持ちが緩くなる僕なのだ。ま、「内弁慶」とも言える。

 それが、かつてつき合った「彼女」の時は災いしてしまったのか。

 僕は前述したような性格のせいで、それまで関わりを持った女たちとも本当の意味で心を通わせた事はなかった。まず本音を言った事がなかった。つまりは「身内」と思った事がなかった。だから、結局どれもこれもうまくいかなかったのも当たり前なんだよね。

 ところが「彼女」だけは違った。とにかく違っていた。何より知り合った経緯があまりに偶然。…いや、ここまでくると「必然」だ。だから「これぞ求めていた女だ」…と僕は油断してしまったのか、とにかく異例に自分の本音をさらけ出して接した訳なんだね。もう、これは絶対に「身内」だと思った。僕がそんな事を女に思った事は、それまで一度もなかったんだよね

 それからの短い「蜜月」期間は…それは実に素晴らしいものだったよ。それは認めなければならない。

 だが、それも徐々に陰っていったんだよね。しかも急速に。「彼女」はめったに僕を喜ばせてはくれなくなった。僕のために小指一本動かしてもくれないムードが漂ってきた。

 オカシイとは思っていたんだけどね。でも僕は、それを責めたりとがめたりはしたくなかった。それには理由がある。

 それに彼女は以前、精神的にかなりツライ目に合っていたと聞く。だから僕は、彼女をつるし上げたくなかったのだ。

 それに彼女は「身内」だ。「身内」の事なら多少の事は目をつぶる。信用して許して、理解しようとする。何か訳があるのだろう…と事情を察してみる。親兄弟となら、どんなにケンカしても食事時にはちゃんと顔を合わせるだろう。子どもを心底憎めはしない。それと同じようなものだ。それが「身内」なのだ。

 だが、それが甘かったんだね

 結局、目を背けたくなるような事が起きた。それは正直言って身を刻まれるような苦痛で、それが長く長く続いた。そんな事実が露見してからも、僕はまだ責める気にはならなかったのだ。今考えれば、サッサと切り上げれば良かったと思うよ。だけど、あの時は完全に思考停止状態だった。何しろ「身内」がそんな事をするなんて夢にも思えないからね。そこによりによって、僕にとって選りすぐりの最悪の選択ばかりしてくれた。まったく理解出来ないわけ。

 また心のどこかでは、何とか目を覚まして欲しい…と愚かにも思っていたのかもしれない。実はもうとっくに「彼女」が「目を覚ました」結果、こんな状態になってしまったんだけどね(笑)。でもそれには気づかなかったし、気づきたくもなかった。また、何かの間違いだと無理にも思おうとした。「身内」と見なしたからには徹底的に信じるべきだと思っていたからね。そのくらい「身内」だと実感出来る相手は貴重だし、数少ないものだ。だから、そんな相手を失いたくはないというのも本音だったんだよね。

 それが決定的な結末を迎えたのは…そう、それは「トドメの三日間」とでも言おうか。さすがの僕も…こりゃどうする事も出来ない、どう無理に解釈しても良い方向に見てやる事など出来ない、コイツは別世界の生物とでも思うしかない、共存など不可能だ…とイヤが上にも思い知る事件が起きたのだった。

 もちろん第三者なら、そんな事はとっくに分かっている。分からなかった僕がバカなのだ。…というか、僕だって分かってはいたのだろう。だけど、どうしても自分を納得させる事が出来なかったんだよね。

 この「トドメの三日間」の出来事で、さすがの僕も目が覚めた。そもそも「彼女」は「身内」なんかじゃなかったんだ…と、ようやく納得した。

 そして、やっと僕の心に平穏が訪れた…。

 それから長い時間が経った。気持ちの整理も済んだ。記憶も風化した今なら…。あの一連の出来事を振り返って、僕も当時と違う感慨を抱かないでもない。

 あの泥沼の時期、「彼女」もそんな状態を清算したがっていたんだろうな…と、つくづく思う。向こうにとってはやっぱり自分が可愛いし、オイシイ思いもしたかったに違いない。いささかムシは良すぎるだろうが、それでも障害になるものは邪魔者以外の何者でもなかったろう。だから「彼女」がもしその気になれば、もっと早い段階でもっと思い切った行動に出ることだってあり得た。それが出来なかったのは、僕に対して何がしかの負い目があったからかもしれない。

 それが、かえって泥沼を長引かせてしまった。

 結局、あの悪夢のような「トドメの三日間」がなかったら…泥沼は続いていたかもしれない。

 そして僕の苦痛とダメージは、さらに致命的なものになったかもしれない。立ち直れないところまで行ったかもしれない。そういう意味では、僕はアレで救われた。まさに崖っぷちから生還したようなものだった。

 だとしたら…。

 ひょっとしたら…「彼女」のあまりにあまりな一連の言動は、実は「確信犯」だったとは言えまいか?

 分かっていて、「あえて」やった事ではなかったか?

 時に理解に苦しむ事もある。それでも人間と人間の間には、そんな不思議で説明不能な感情が芽生える事もあるんじゃないか?

 

前作のあらすじ

 事は今から4年前。テキサスの砂漠のはずれにあった小さい教会から物語は始まる。「ザ・ブライド」ことユマ・サーマンは、凶悪な暗殺集団「毒ヘビ暗殺団(DiVAS)」の一員として押しも押されもせぬ存在だった。そのボスが、「ビル」ことデビッド・キャラダインという男。サーマンはこの「ビル」=キャラダインの恋人としても、組織の中で不動の存在だった。それが、いかなる理由で彼女が別の男と結婚しようとしたか…そのあたりの事情は定かではない。ともかくサーマンはお腹に赤ちゃんを宿した花嫁姿で、このささやかな式に臨もうとしていた。ところがそこにいささか手荒な祝いの客がやって来る。アイパッチを付けた金髪女殺し屋ダリル・ハンナ、日中混血の女侠客ルーシー・リュー、紅一点ならぬ黒一点のマイケル・マドセン、黒人女ヴィヴィカ・A・フォックス…といった「毒ヘビ暗殺団」の連中。そして彼らを率いる「ビル」ことキャラダインその人…。

 たちまち教会は修羅場と化した。彼らは一人残らず殺した。唯一残ったサーマンもいたぶるだけいたぶったあげく、頭に弾丸をブチ込むという念の入れようだ。その時にサーマンが言い残した言葉…赤ちゃんは「ビル」の子だという一言を、果たして当人はちゃんと耳にしたかどうか。

 ところがサーマンは奇跡的に生き延びていた。ただし頭に弾丸を食らうという致命的とも言える深手だけに、意識を取り戻すことなく病室に横たわる日々。

 ところが4年を経過したある日、そんなサーマンの意識が蘇る。

 当然のごとくお腹にもう子どもはいない。ならば復讐だ。結婚式をメチャクチャにし、客を皆殺しにし、自分をいたぶって4年の歳月を奪った。しかも子どもを亡き者にした…あの「ビル」たちに復讐するのだ

 まずは小手調べとでも言うべきか、今は幸せな家庭を築いて娘までいるヴィヴィカ・A・フォックスの自宅へ乗り込む。あげく娘の目の前で彼女を殺す…という実に後味の悪い結果にはなったものの、復讐は順調にその第一歩を記し始めた。

 次は、いまや東京のヤクザ界を牛耳る女親分となったルーシー・リューの番だ。

 その前に、サーマンは沖縄に寄り道した。ここに今は引退した伝説の刀鍛冶・服部半蔵ことソニー・千葉がひっそりと暮らしているのだ。サーマンはこの半蔵こと千葉に頼み込み、復讐のための剣を新たにあつらえてもらう。「ビル」たちを成敗するには、それなりの道具がいるのだ。

 こうして東京に乗り込んだサーマン。彼女はリューの取り巻きであるゴーゴー夕張こと栗山千明、正体不明の黒装束軍団「クレイジー88」たちをことごとく血祭りに上げたあげく、リュー本人ともサシで剣を交えて倒す事が出来た。

 こうして一歩一歩着実に「ビル」へと迫るサーマン。彼女はリューの相棒で「ビル」の側近でもある女秘書ジュリー・ドレフュスの両腕を見せしめにブッた斬り、それを「ビル」へのメッセージとした。にわかに緊張がはしる「ビル」と「毒ヘビ暗殺団」たち。

 だが、サーマンはまだ知らなかった。実は彼女のお腹にいた子どもは、死んではいなかったということを…。

 

前作の感想文の趣旨

 この「Vol.1」、タランティーノが好きな僕でも見る前は複雑な思いだった。なぜなら、さすがの映画の「悪ガキ」タランティーノも前作「ジャッキー・ブラウン」ではしがない中年男女の思いを描いて、ちゃんと「大人の映画」に仕上げていたから。その成熟した路線をいくのかと思っていたから、今回の「何でもアリ」な雰囲気にはビックリした。チャンバラに任侠映画にアニメ…見る前は「大丈夫か」と不安にもなった。

 で、見たら…面白かった。古今東西の「ジャンク・ムービー」をつなぎ合わせたような構成だけど、楽しめた。

 ただ、これが「ジャンク・ムービー」をしたり顔で引用するだけの、オタクな趣向だけが突出した映画だとは僕は思わなかった。オタク心を楽しませてはくれるが、オタクそのものではない。それは日陰に甘んじていた映画たちに日を当てようという試みではあるが、元よりタランティーノには日陰モノだけをモテはやしてメジャーをくさそうという、オタクならではの贔屓の引き倒しじみたいやらしい思惑はない。あくまでメジャーもジャンクも等価値だ…と見なす、「相対化」の方向にいく。そこに僕はタランティーノのフェアな健全さを嗅ぎ取れると思う。

 そして、それはタランティーノの「映画への愛」から来るもののように思われる。映画史を辿ってみると、アート系の作家映画も職人による娯楽映画も、メジャー映画もマイナー映画も、アメリカ・ハリウッドもアジアもヨーロッパも、映画という水脈を介してどこかで繋がっている事が分かる。そこでどっちが上だの下だのと言っても意味がない。タランティーノはおそらく、こうした「映画」というものの性質に敏感で、だから丸ごと愛してしまおうとしているに違いない。

 さらに「Vol.1」に横溢するユーモア。それっておそらく批評精神ではないのか。ジャンク・ムービーは何だかんだ言っても、少々困ったところのある映画だ。タランティーノはそれを知っている。決してジャンクを大傑作なんてバカな持ち上げ方をしていない。それを承知の上で、サラッと笑った上で愛のある眼差しで見てくれ…と観客に頼んでいるのだろう。

 そんなこの映画に僕が感じたのは、「癒し」の効果だ。いささか手垢のついた言葉で恐縮だが、これは本当に感じた。映画を見る前まで個人的な事情で毒々しい気分だった僕は、この映画を見てスッカリ気分が晴れやかになった。それって「復讐」の映画だからか?

 まず、この映画ってジャンク・ムービーの集積で、それをどこか笑って見ているところもありながら、妙に痛みの感情表出が際だっている。そこに何がしかの真剣さを見てとってしまったんだよね。だけど、それが癒された…というのは、決して「復讐」によるものではないと思う。「復讐」が成し遂げられていくから、スカッとするというものではないんだよね。

 まず劇中の設定からして(アニメで描かれるルーシー・リューの過去など)「復讐」を肯定的に扱っていない。さらに「復讐」のための戦いが、なぜかどんどんシリアスに見えなくなっていく。手足がポンポン飛ぶ立ち回りは、マジメにつくったものではないだろう。「復讐」のための戦いが、まるで冗談みたいになっていく。だからここでは「復讐」によってカタルシスが生まれる訳ではない。「復讐」の成就によって気が晴れた訳ではないはずだ。

 むしろバカバカしく、マンガのようにヴァイオレンスが描かれ、残酷はどんどん記号化・抽象化されていく。それってもっと言えば単純化・完全燃焼化の方向に向かっているとは思えないか? まるでスポーツでも見ているかのように…。

 それを実現できるのは、どこか不出来で笑ってしまうジャンク・ムービーだからだ。ジャンク・ムービーとは「ジャンル・ムービー」であり、いずれも極度にルーティン化しているから記号化・抽象化の方向に進む。それより何より出来損ないぶりに笑ってしまうシロモノだから、それがリアルよりも単純化・完全燃焼化へと向かっていくのだ。だから見ているうちに、チマチマした毒々しい気持ちがどこかへ消えていく。

 タランティーノはおそらく体験的に、こうしたジャンク・ムービーの効用を知っていた。そして今回は…そんな怒りとか恨みとか毒々しい感情を完全に燃焼し昇華するほどパワーアップした映画を、ジャンク・ムービーのカタチを借りてつくろうとしたのではないか。

 だから僕には、この映画が「復讐」物語とは思えない。むしろ怨みなどとは対極のところにあるように思える。少なくとも「復讐」を肯定するお話とは思えない。それが「Vol.1」を見ての、僕の率直な感想だ。

 さて、「Vol.2」ではそれが果たして現実のものとなるのか?

 

本作を見る前の予想

 怒濤の映画キル・ビル/Vol.1を、僕は久々にため息をつくような思いで見た。確かにバカバカしいまでの大立ち回りが痛快だとか、いろいろとガラクタみたいに詰め込まれた引用に嬉しくなるとか、そんなこんなで一時も目を離せない気分で見終わった。そんな映画の最後に、まるでとどめを刺すように梶芽衣子の「怨み節」が流れるんだからね。スッカリ圧倒されてしまったよ。映画ファンのバカ話みたいな内容が、お金をかけたアメリカ映画としてちゃんとつくられているんだからね。

 だからスッカリご機嫌になった。

 さらに「Vol.1」では、最後の最後にとんでもない事実が発覚する。その一言の台詞で、この物語はこの後どうなっていくのだろうと興味がいやが上にも増した。この、元は一つだった映画を二つにブッた斬った上で、ここの部分で切り離したタランティーノのセンスには毎度ながら感心させられたよ。

 だから待った。約半年後にやって来るという「Vol.2」を。

 ところが、年も改まって映画館に登場した「Vol.2」の速報チラシは、何とも意表を突いたモノだった。

 「ザ・ラブ・ストーリー」。

 「キル・ビル/Vol.2」というタイトルの下に、サブ・タイトルめいたカタチで書かれたこのフレーズは一体何だ? しかも宣伝コピーはさらにヤバいことに、「キル・イズ・ラブ」と来る(笑)。

 まぁ、今日び映画という映画は、強弁すればすべて「ラブ・ストーリー」であると言えなくもない。だから「キル・ビル/Vol.2」が自らを「ラブ・ストーリー」と名乗るのも何らおかしくはないが、それって何だかなぁ…。

 なぜ「キル・ビル」を「ラブ・ストーリー」と括るのか、その理由だって容易に思い付く。前作の「ザ・ブライド」(ユマ・サーマン)への「ビル」(デビッド・キャラダイン)の非道な行いは、あれは彼なりの「愛」だった。さらに「ザ・ブライド」の「ビル」への復讐も、一種の「愛」ゆえの意趣返しだ。…まぁ、そう言えなくもないし、そう言っちゃうんだろうけどねぇ。

 この「キル・ビル」、前作もアメリカと日本では宣伝用のメイン・ビジュアルはかなり違っていたようだ。輸入盤のサントラCDなど、ジャケットは全然違ってたもんね。だから、このコンセプトが日本独自のモノである可能性は高い

 何だかんだと「愛」さえくっつけておけば、日本の映画観客の大部分を占める女性観客をうまい事ダマしておけるとでも考えたのか。女さえ味方に付ければヒット間違いなし、小泉政権も安泰というわけなのか。年金問題の不祥事も、福田一人を切れば安泰なのか。何ですぐに辞めなかったんだ菅直人。ウンザリするぜ。

 実際のところ「前作の感想文の趣旨」でも述べた通り、僕も「キル・ビル」の本質はホントは「復讐物語」ではないんじゃないか…と思ってはいた。そういう意味で、結論は何らかの「ラブ・ストーリー」(…という言葉で言っちゃうと、何とも凡庸な印象になってしまうのだが)になるのではないかと思っていたんだけどね。それでも真っ正面から「ラブ・ストーリー」なんです…と言われちゃうと、ちょっと戸惑わざるを得ない。人間の感情らしきモノが描かれれば、何でもかんでも「ラブ・ストーリー」っていう事もないだろうし…。

 考えてみれば…というか、どこぞのサイトの掲示板での書き込みを受け売りさせてもらえば、この「キル・ビル/Vol.2」って「ロード・オブ・ザ・リング」以上に底が割れたお話ではないか。「ザ・ブライド」が復讐を遂げて、ビルを殺す。そういうタイトルの映画なんだからね。もし、そうでない結末があったら驚きだが、そのためには相当観客を納得させるための仕掛けが要る。

 つまり確かに期待はかき立てたれはするが、「キル・ビル/Vol.2」という映画は最初からかなりのリスクを抱えた作品にならざるを得ないのだ。あれだけハチャメチャにやった前作は、しかも最初の一発だったから鮮度も抜群だった。今度はあれをもう一度やっても鮮度は落ちている。しかも期待値は前作とは比べモノにならない。そして行き着くべき結論は、最初から目に見えている。何ら新しい展開も期待出来そうにない。

 当初から二部作にするつもりではなかった「キル・ビル」だが、こうなってしまった以上、リスクは折り込み済みのモノとしてつくらざるを得ない。

 「ラブ・ストーリー」云々はともかく、「Vol.2」はあまり楽観出来ないかもしれない。そう思いつつ、それでもタランティーノなら何とかしてくれるだろう…と期待してしまう僕だったのだが…。

 

本作のあらすじ

 荒野のハイウェイに、オープンカーをひた走らせる女が一人。ご存じ「ザ・ブライド」ことユマ・サーマンだ。彼女は風に金髪の髪をなびかせながら、かつての恋人にしてボス…さらに復讐の相手である「ビル」ことデビッド・キャラダインの命を奪うべく、決意も新たにその思いを口にしていた。何と…彼女はあの後も復讐の旅を続け、ついに残すところ「ビル」=キャラダインただ一人となっていたのだ。

 ではサーマンの復讐の旅は、ここまでいかなる経緯を辿っていたのか?

 その前に、我々はこの復讐の源流へと遡らねばならない。言うまでもなくそれは、あのテキサスの砂漠の中にある教会で始まった。

 その時、サーマンは新郎と式の予行演習中。式に出席するのは新郎側の知人のみで、新婦サーマンには出席者がいなかった。すると…。

 どこからともなく聞こえてくる笛の音。

 それを聞いたサーマンは、たちどころにサッと顔色を変えた。案の定、そこには因縁の「ビル」ことキャラダインが立っていた。恋人だった「ビル」の前から黙って姿を消したサーマン。だがその彼女の結婚式にやって来た「ビル」は、至って落ち着いて彼女を祝福するように見えた。新郎は中古レコード店店主。サーマンも今はそこで働いている。音楽に包まれた安らぎの暮らし…それこそが自分の望みだと言うサーマン。

 だが、サーマンを黙って祝福すると見えた「ビル」は、その場に配下の「毒ヘビ暗殺団(DiVAS)」4人衆を送り込んでいたのだ…。

 こうして例の修羅場が展開され…4年の歳月が経ったある日のこと、ここはテキサスの荒野の真っ直中。っかつての「毒ヘビ暗殺団」の一員で、今は汚いキャンピング・トレーラーを住まいにするマイケル・マドセンの元に、あの「ビル」=キャラダイン当人が訪れた。マドセンの兄でもある「ビル」=キャラダインは、元「毒ヘビ暗殺団」のメンバーが次々にサーマンに殺されるに至って、弟マドセンにも身の危険が迫っている事をわざわざここまで言いに来たのだ。だがマドセンは動じない。至って当然のこととして受け止めているようだ。「彼女は復讐して当然。オレたちは、みんな殺されて当然だ」

 実はあの汚い仕事の後、マドセンは兄「ビル」=キャラダインと袂を分かった。その後はこのキャンピング・トレーラーを住まいにうだつの上がらない日々。近所のストリップ・クラブで用心棒に雇われているが、店のボスには罵倒されまくるわ便所掃除はさせられるわの情けなさ。その晩も、さんざボロクソ言われた末に、我が家のトレーラーに戻ってきたところだった。

 そんなトレーラーの物陰に、あのユマ・サーマンが潜んでいた!

 中の様子を伺って、いよいよ一気に攻め込もうというサーマン。復讐を次々実行に移しての、余裕たっぷりの行動だ。愛用の日本刀を引っさげ、正面から堂々の殴り込み…。

 バ〜〜〜〜ン!

 何と中ではマドセンが銃を構え、サーマンが来るのを今や遅しと待っていたのだ。まんまと罠にハマったサーマンは、弾丸を食らってすっ飛んだ。

 「ハッハッハ、こいつは岩塩弾だ。食らったらしばらくは動けまい」

 してやったりの表情のマドセンはサーマンから日本刀を奪うと、彼女の両手両足を縛って閉じこめた。そして何と「毒ヘビ暗殺団」のかつての同僚、アイパッチ女のダリル・ハンナに連絡を取る。服部半蔵製の日本刀の名刀が手に入ったから、100万ドルで買わないかという申し出だ。もちろんそれがサーマンの持ち物である事は承知の上。ハンナはマドセンに、サーマンを出来るだけ苦しめて殺すよう告げる。

 「任せとけ!」

 何とマドセンは、身動き出来ないサーマンを深夜の墓場へと連れていった。すでに深く墓穴が掘られていて、棺桶も一つ用意されている。これからサーマンは、この墓場に生き埋めにされようとしていた。だが、どうする事も出来ないサーマン。彼女はそのまま為す術もなく棺桶に閉じこめられ、地中深く埋められたのだった。

 そんなサーマンの脳裏に、かつて中国で修行をした日々の事が浮かんでくる…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは元々、「ビル」=キャラダインの提案だったのか。ある晩、彼はサーマンにパイ・メイことゴードン・リューなる中国の僧侶にして武道家の話をした。このパイ・メイことリューの凄さたるや…かつて彼を怒らせた少林寺の僧侶たち数十人を、たった一人で有無を言わせず皆殺しにした事でも明らかだ。その凄さの最たるものが、彼だけが極めた秘拳「五点掌爆心拳」。何と人体のツボ5つを即座に突いて死に至らしめるというこの秘拳の恐ろしさは、即座に殺すのではなく技をかけた後で相手が5歩あるいた時に心臓破裂するという「緩慢な死」を与えるところにある。まさに奥義の中の奥義だ。

 「ビル」=キャラダインは、事もあろうにサーマンをそのパイ・メイことリューに預けて鍛えさせる事にした。かつては「ビル」自らもその下で修行した事のあるパイ・メイは、偏屈にして底意地が悪い男。元から残忍な性格が、今は何百歳になるか分からない高齢によってさらに悪さを増していた。おまけにアメリカ人はキライで、女はハナっから軽蔑している。モノを教わる相手としては最悪だ。ちなみに日本人はもっとキライとの事だから、この老人が地球上で最もキラう人種は日本人の女という事になる。その判断は正しいかもしれない(笑)。

 それでも「ビル」=キャラダインとサーマンは、パイ・メイが住む中国奥地の古寺へとやって来た。まずは「ビル」=キャラダインがサーマンの弟子入りを頼みに行く。戻ってきた「ビル」=キャラダインは弟子入りが認められた…とサーマンに告げるが、なぜかその顔に青タンが出来ているのが気にかかる。一体何があったのか? だが「ビル」=キャラダインは語ろうとしない。ただサーマンにこう言い残すだけだ。決して怒ってはいけない、口答えもいけない、ガンを飛ばしてもマズイ。生き残りたいなら、大人しく言うことを聞け…。

 高く長い石段を登って山寺の中に入ると、そこには問題の白髪の怪僧パイ・メイことリューがいた。そして案の定、パイ・メイはかなりの性格の悪さ。最初からサーマンをバカにし、ああ言えばこう言うの根性の悪さ。だがとにかく、サーマンが何をやっても歯が立たない強さだから文句は言えない

 ある日パイ・メイことリューは、サーマンに分厚い木の板を破るように命じる。ただし遠くから勢いをつけて打ち破るのではない。至近距離から拳の力だけで破るのだ。こう言ってパイ・メイは難なく板を打ち破ったが、サーマンは当然のごとく拳を痛めるだけ。そんな彼女に、パイ・メイは情け容赦なく罵倒を飛ばす。「最初から気持ちが負けてるなら、破れるものも破れんわい!」

 こうして朝から晩まで板を殴り続ける日々。当然拳はズタズタになる。食事時には箸さえ持てなくなるほど。それでもパイ・メイは容赦をしない。こうしてサーマンは、日々鍛えられていった…。

 それがこんな時に役立つとは!

 狭い棺桶の中で、縛られていた両手両足を自由にするサーマン。今こそ怪僧パイ・メイに鍛えられた、その真価を発揮する時が来た。至近距離の板を勢いを付けずに拳の力だけで打ち破る。これこそが、絶体絶命に陥った現在のサーマンに必要な技だった。サーマンは自らを閉じこめている棺桶の、フタの部分の板を思い切り殴る。何度も殴る。拳に血がにじんでも殴る。やがて板が破れ、そこから土がこぼれ落ちてきても殴る。殴って殴って殴り続けて、サーマンは棺桶から徐々に地中を掘り進んで上昇していく。

 その拳は、ついに地表を突き破った!

 いきなり墓石の前の地面から、サーマンの拳が勢い良く突き出てくる。やがて上半身を土から現したサーマン。こうして彼女は、文字通り地獄から舞い戻ってきた

 そうとは知らないマドセンは、自分のキャンピング・トレーラーでダリル・ハンナが来るのを待っていた。彼女にサーマンの日本刀を買い上げてもらうのだ。ハンナはサーマンの末路の話を聞いて大満足。マドセンは…と言えば、ハンナが持ってきたカバンの中の100万ドルにご機嫌。ところがこの札束の中に思わぬモノが…その名もサーマンの別名「ブラック・マンバ」、猛毒を持ったヘビだ。ハンナは元よりマドセンに大人しく金を渡す気などなかった。

 ヘビの毒で苦しげに絶命するマドセンを横目に、金をカバンに詰め直して立ち去ろうとするハンナ。扉を開けたその時…。

 いきなりサーマンが襲いかかった!

 そこから始まる女二人の殴り合い蹴り合いつかみ合い、ルール無用の大喧嘩。しかも彼女たちは命が懸かってる。だが、そんな最中でもとんでもない会話を交わしているから、こいつらは分からない。「ねぇ、アンタの片目は何でなくなったの?

 それはハンナが例の怪僧パイ・メイことリューの下で、修行している最中の事だった。「ビル」ことキャラダインは、サーマンだけでなくハンナもパイ・メイに教えを請わせようとしたのだ。だがキツい修行と辛辣なパイ・メイの態度に、ハンナはついにキレてしまった。「クソジジイ!」…そんな一言が災いして、パイ・メイはハンナの片目を抉った。ただしハンナもハンナで、パイ・メイを毒殺してお返しをしたのだった。

 そんな間もサーマンとハンナは、日本刀を持ち出しての物騒なやりとり。お互い剣を激しくつき合わせて、一歩も譲らぬにらみ合い状態。

 …と、サーマンがいきなり思わぬ行動に出た!

 何と彼女は、ハンナに残されたたった一つの目玉をえぐり出した。師であるパイ・メイがやれた事なら、自分にも出来るはず。そんな咄嗟の行動が、ハンナの身の自由を瞬時に奪った。物凄い声で絶叫して荒れ狂うハンナだが、今さら何も出来ない。そんなハンナをその場に残し、サーマンは次なる…そして最後の標的の元へ急いだ。

 最後の敵、他ならぬ「ビル」ことキャラダインの元へと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作を見た後での感想

 さて、この映画…さまざまな憶測や予想は当たっていたのか、それともハズれだったのか?

 まずはこの映画に関して、事前に思い浮かんだ予想を整理してみよう。それらは互いに不可分に重なってはいるが、大体が次のようなものだったと思う。

 

(1)前作同様、ジャンク・ムービーの引用と愛情が横溢。

 当然、またしても「何でもアリ」であり、笑いにまで達する見せ場の連打となる。

(2)前作とは大きく趣向を変えていて、サプライズがある。

 あのけたたましさが一転。クールになるのか、はたまたシリアスになるのか。「ビル」殺害を断念する可能性もある。

(3)宣伝通り「ラブ・ストーリー」的な趣向を前面に出している。

 上記(2)で語ったようにスタイルがガラリと変貌した場合、予想される方向性のうち最有力なのがこれだ。

(4)前作で予感した通り、これは厳密には「復讐物語」ではない。

 またまた上記の予想と絡むが、戦いの爽快さ痛快さで押していかない場合には、これが「復讐物語」であり続ける事は出来ない。

 

 …大体、事前に考え得るこの作品の有り様って言えば、こんなところではないか。このうち、どれとどれが当たっていて、どれがハズレていたか。

 まずは、(1)前作同様、ジャンク・ムービーの引用と愛情が横溢。…から見てみよう。これは「イエス」だ。まずは今回の趣向の最大のものとして、ゴードン・リューなる香港俳優(残念ながら僕はこの俳優が何者かを知るほど香港映画には明るくない)にパイ・メイなる怪僧を演じさせている点が挙げられる。前作では日本の任侠映画やら時代劇への傾倒を露わにしていたタランティーノだが、今度取り上げるのは香港カンフー映画だ。この「パイ・メイ」なる人物、香港映画では知られている架空の人物らしい。そのあたりが、前作での千葉真一扮する「服部半蔵」の登場を連想させる。パイ・メイの登場シーンは、いずれもわざわざ画調を荒らした昔の香港映画風だというのも念が入っている。

 テキサスの荒野やらメキシコといった舞台は、誰がどう見たってマカロニ・ウエスタンの再現だろう。タランティーノはそこに、ホンモノのマカロニのサウンドトラック音楽(エンニオ・モリコーネだ!)を流して気分を盛り上げている。今回はそこに、登場人物の極端などアップを多用しているのが注目だ。言うまでもなく、思い入れタップリな登場人物の顔のどアップ・ショット…と来れば、セルジオ・レオーネ映画のトレードマークではないか。

 で、秀逸なのはこれらの趣向が、単にタランティーノが「好きなモノを並べただけ」の雑多な趣向に終わってない点だ。実はこれらの趣向、すべてが例のパイ・メイという怪僧を中心に必然性を持って結びつけられる。例えばサーマンがマイケル・マドセンによって、墓地に生き埋めにされる場面。この場面自体が、どことなくホラーやスリラー映画を思わせる趣向なのはもちろんだ。実際にこの場面の最後は、サーマンがゾンビのごとく「墓場からの復活」を遂げて幕を閉じるからね。

 だが彼女が生き埋めにされた時は、一体どうやって助かるんだ?…と僕も驚いたよね。

 ここで、まさかあんなウルトラCが出てくるとは夢にも思わなかった。パイ・メイの修行場面は、ジャンク・ムービーへの目配せであると同時に伏線になっている。習った至近距離でのパンチが役立つ。サーマンがパンチで棺を破り土中を掘り進んだあげく、ついには地表を突き破るくだりには、みんなも笑っちゃったんじゃないか? そしてあまりのバカバカしさに笑っちゃったあげく、バカバカしさを突き抜けて思わず感動に涙ぐんでしまう…。これぞ「Vol.1」でも何度も堪能した「キル・ビル」ならではの味わいだ。

 パイ・メイの存在は、サーマンとダリル・ハンナの対決の意表を突いた結末にも活かされている。こちらも呆気に取られて笑ったよね。僕もこれらの展開には、思わず拍手をしたくなった。実は、この後ももう一回パイ・メイは物語に活かされるのだが、それはまた後で話すとして…。

 で、こういった飛躍と大胆な展開をするためのジャンク・ムービー引用だったのか…と、タランティーノによるドラマづくりのダイナミズムに驚いたわけだ。

 今回の開巻のタイトルバック、ユマ・サーマンがクルマを運転しながら独白するという、スクリーンプロセスがミエミエのモノクロ・シークエンスなんか、昔のフィルムノワール気分やらヒッチコック作品やらをいただいていてなかなか。これから何が起きるのか…とワクワクさせられる。もっともこの場面、タランティーノ自身はフィルムノワールなんかじゃなくてテレビの「ヒッチコック劇場」のイタダキだ…とか何とか与太飛ばしているが、タラ先生そりゃご冗談でしょう。タイトル文字の使い方その他を見ても、ヒッチはヒッチでも「ヒッチコック劇場」…云々ってのがウソっぱちだって事は明らかだ(笑)。

 というわけで、今回もジャンク・ムービーの引用は健在だし、それらの使い方は必然性があって、何度も何度も噛めば噛むほど味が出るスルメ式に利用され尽くしている。

 では、(2)前作とは大きく趣向を変えていて、サプライズがある。…という予想は「ノー」か?

 いや、実はこれも当たっている。…というか、半分はハズレながら半分は当たりだ。

 今回の映画は先に挙げたダリル・ハンナ殺害までは、ハチャメチャと引用の渾然一体…という「Vol.1」の延長線上にあると言える。ところがいよいよ標的が「ビル」ただ一人になった時、映画はかなりその方向性を変えていくのだ。

 それをいささか乱暴ながら一言で言うと、ビジュアルやアクション優先だった作品が、ここからガラリとドラマ指向へ変貌するという事になる。

 それが何を意味するのか…は後述するにしても、この映画にとってこれはリスキーでもあり、かつ不可欠な事でもあった。なぜなら前にも述べたように、「何でもアリ」の野放図状態は「Vol.1」ですでにやってしまったから、今回はそれを踏襲するとしたら増量するしかない。それって鮮度の上で明らかにハンディがあるからね。同じ方向での「足し算」的発想は、最初から不利な戦いなんだよね。「マトリックス・リローデッド」やその後の「レボリューションズ」を見れば、お分かりいただけると思う。

 だから映画として、スタイルを変えて同じ路線をなぞる事を回避したのは正しい(もちろん最初「キル・ビル」は二本の映画になる予定ではなかったが、こう分けられた以上、作り手はその事を意識しないではいられないだろう)。

 ただ…それは派手で楽しく賑やかで、それゆえに支持された「キル・ビル」の世界を、作品の途中である程度放棄する事でもある。つまりは多くの観客の期待するものを放棄してしまう事だ。これはこれで難しい選択だよね。みんなの期待を裏切りかねない。それって…正直に白状すると、この僕にとってもそうだった。

 みなさんは「キル・ビル/Vol.1」と「Vol.2」のサントラCDを両方買っただろうか? 僕も買った。どちらも結構気に入っているが…実は正直に言うと、「Vol.2」の方はいささか地味に感じなかったか? 布袋寅泰が「新・仁義なき戦い」のためにつくったド迫力のテーマ曲だとか、サンタ・エスメラルダの大ヒット曲「悲しき願い」とか…それらの賑やかな彩りある音楽を収録した「Vol.1」サントラCDに対して、「Vol.2」はいささか…ハッキリ言うと「華」がない。華やかさに欠けるんだよね。で、それは音楽だけにとどまらない。

 それでなくても、青葉屋での何十人斬りなんて派手な見せ場には欠けているのだ。おまけに後半はすっかり芝居場に終始する構成。だから、「Vol.2」に少々期待ハズレの気分を味わう人もいるかもしれない。そういう気分になる人がいたとしても、僕は全く疑問に感じない。

 それなりに楽しい趣向に彩られているし、あの手この手の工夫に満ちてもいる。それでも「Vol.1」の爽快さや意表を突いた底抜けぶりを思い起こした時、いささか「Vol.2」は分が悪いな…と。これは最初に受けた正直な印象だ。

 映画がどれもこれも派手であった方がいいとは思わない。だけど「キル・ビル」に関して言えば、その魅力の大きな部分はあの「バケツ底抜け」の凄さにあったと思うからね。それは否定できないと思うよ。

 で、鮮度を保つための方針転換をする場合、映画としては明らかに何らかのサプライズを用意するんだよね。観客が予想もしなかった方向に持っていく。作り手の方が、観客の予想の一歩先を行く。それは危険な賭けだけど、うまくいったら観客は自分の期待を裏切られた事も忘れて夢中になる。

 この項目の冒頭での予想に(2)前作とは大きく趣向を変えていて、サプライズがある。…と書いたのは、こういった理由からだ。

 では実際のところ、「サプライズ」はあったのかと言えば…これまた「ノー」なんだよね。

 確かにこのガラッと空気が変わった「ザ・ブライド」と「ビル」の対決のくだりでは、一つの新たな要素が出てくる。何と「ザ・ブライド」の幼い娘が出てきて、「ビル」が育てていた事実が提示されるのだ。

 その事を知らなかった「ザ・ブライド」は意表を突かれ、一瞬どうしていいか分からなくなる。確かにこれは「サプライズ」であるように見える。僕らもこの話はどうなるのか…戸惑ってしまうからね。

 ただ、それならば「Vol.1」のエンディングで、「娘が生きている」云々などと言わなければ良かったのではないか? 確かにあのエンディングは秀逸だ。あれで僕らは「Vol.2」への期待が一気に高まった。だけどそれだけの効果だったら、あそこでお客にサプライズを漏らす事もないだろう。ここまで引っ張って、「ザ・ブライド」と共に観客をビックリさせれば良かったではないか。確かに観客もここで以後の展開が読めなくなるが、だからと言ってまったくこれを予想してなかった訳ではない。だからタランティーノは、これを「サプライズ」として機能させようとはしていないはずだ。

 そういう意味で、「キル・ビル/Vol.2」は実に売りにくい映画だ。配給会社が、あえて作品の方向性が一転することを匂わす宣伝を行った意味もここにあるのだろう。「Vol.1」の痛快さを期待したら、かなりのお客さんは「Vol.2」が「つまらなくなった」と思うかもしれないからね。実際のところ、ハチャメチャをやっているようでもそれらがことごとくキマった「Vol.1」と比べると、今回の作品は「理屈ヌキ」…の面白さがいささか乏しい。いつもならタランティーノは何も考えずに「思いつきのまんま」やっているようで、それがバシバシとキマっているではないか。だが「Vol.2」の終盤は、そんな「理屈ヌキ」「まんま」…とは明らかに異質なモノになっている。

 例えばそのあたりが、抜群の選曲センスと既成曲の画面へのハメ込みテクを誇るタランティーノ作品にして、初めて映画鑑賞中に「既成曲をハメてるな」と僕に思わせるに至らしめた理由かもしれない。それは「ザ・ブライド」と「ビル」がメキシコのホテルの一室で最後の対決に臨もうというくだり…マルコム・マクラーレンの「アバウト・ハー」なる曲が流れるあたりだ。選曲そのものは相変わらずのドンピシャぶりで画面にハマってる。だが「ザ・ブライド」がホーム・バーに立つ「ビル」を見つめながら部屋の中央に歩いてきて、果たしてこれからどうなるのか…と観客の興味を惹きながらソファに座るあたりで、この「アバウト・ハー」という曲はゆっくりフェイドアウトする

 当たり前の事だが、この曲は映画のためにつくられた訳ではない。だから映画のカットや場面に合わせて曲を切らねばならない…まぁ既成曲を映画で使用するには当たり前の事だ。そこで最も多く行われるであろう常套手段が、音楽が場面に不要になった段階でのフェイドアウトという事になる。

 だが従来のタランティーノ作品では、そうした既成曲の扱いについて見ている間はまったく違和感を感じられない見事な処理がなされていたのだ。ところが今回に限っては、「これは映画のために作られてはない既成曲だ」と改めて感じさせる程度に不自然にフェイドアウトして切れる。それは、この場面に関してはそんな配慮を十分に行えない程タランティーノに余裕がなかったのか。あるいはいかに処理しようともここで「切れる」という不自然さを感じさせてしまうほど、場面にいつもと違ったムードが漂い始めたのか…。

 なぜならここで「ザ・ブライド」がソファに座って「ビル」と対峙した瞬間から、この映画は「ビル」が最後の標的となって以来軌道修正して来たスタイルをさらに変えて、いよいよ最終段階へと進むからだ。

 そこでは「ビル」が、「ザ・ブライド」から別れの真相を探る事になる。さらに、なぜ「ビル」があんな暴力を振るったのかが語られる。カラフルとでも言うべきめくるめくビジュアルで彩られた「キル・ビル」という作品の核心が、「会話」というまったく「らしくない」カタチで提示されるのだ。「キル・ビル」らしくない、まったくタランティーノらしくない。確かにこれはお客さんも戸惑うよね。

 では、そこで提示されるモノは何か?

 その答えは、おのずから次の二つの予想が当たったか否かの答えにもなるだろう。すなわち、(3)宣伝通り「ラブ・ストーリー」的な趣向を前面に出している。(4)前作で予感した通り、これは厳密には「復讐物語」ではない。…という2点だ。これらはここまでお読みの方はすでにお察しの通り、それぞれが互いに分け難い要素なのだ。

 

本作を見た後の付け足し

 「復讐物語」なのに復讐がカタルシスになっていない、復讐を肯定しているようにも見えない映画…それが「Vol.1」に対する僕の偽らざる気持ちだったんだよね。で、なぜこの映画が「復讐物語」ではないのか…僕はもどかしいながらも、それを探ろうとしていた。

 すると「Vol.2」でも、僕の疑問は増すばかりだった。まずは復讐の相手の一人マイケル・マドセンに対して、ユマ・サーマン扮する「ザ・ブライド」は手を下していない。「ザ・ブライド」が手を下す前にダリル・ハンナが彼を始末したから…「ザ・ブライド」はその場に居合わせられなかったというのがその理由だが、これもいささか不思議に思えないか?

 みなさんは、ルーシー・リュー扮する「オーレン・イシイ」との死闘を経ての「ザ・ブライド」が、あまりに呆気なくマイケル・マドセンにやられてしまったのを不思議に思わなかったか? 確かにその後で墓場からの帰還という壮絶な場面を見せるための趣向ではあろう。それにしたって、それまでの最強な「ザ・ブライド」にして、あまりに不甲斐ない戦いぶりではなかったか。これって何が何でも、「ザ・ブライド」をマドセン殺害から遠ざけたいが故のタランティーノの工夫ではなかったか?

 さらにはそのマドセンを殺したダリル・ハンナとの戦い。確かに残る片目も引っこ抜いて、復讐は果たしたかもしれない。それでも「ザ・ブライド」は、彼女のトドメを刺さなかった。これはいかなる理由からか?

 実は「復讐」が忌まわしいものとしてしか描かれず、ヒロインの復讐の成就もどこか冗談みたいにしか描かれなかった「Vol.1」に続いて、「Vol.2」ではさらに一歩踏み込み、ヒロインの復讐の実行そのものが描かれない。非常に巧みに設定されているので見ているうちには気づかないのだが、ヒロインは当初予定していた皆殺しを行ってはいないのだ。巧妙に殺しは避けられている。

 だとすると、「Vol.1」の時に感じた「復讐物語」ではない…という予感はホンモノではなかったか?

 ところで…ビジュアルをスッカリ抑えて会話劇へと変貌した「キル・ビル/Vol.2」だが、そこまでして描かれた「ザ・ブライド」と「ビル」の会話…そこで語られる「真相」って、それほどに衝撃的だっただろうか?

 否…。

 「ザ・ブライド」が「ビル」の元から消えた理由は、妊娠を知ったと同時にヤバイ仕事が怖くなったからだ。出来なくなったからだ。そして子どもを望ましい環境で育てたくなった。それで何も言わずに姿を消した…。

 当たり前だ。いくらでも見る前から想像がついた答えだ。こんな答えを得るために、「ビル」は何と「ザ・ブライド」に自白剤まで撃ち込んでいるのがコッケイな程だ。

 これに対して「ビル」が「ザ・ブライド」をいたぶって殺そうとしたのも、実に分かりやすい理由だ。突然愛人が姿を消したかと思ったら、知らない土地で知らない男と結婚。しかも手回しの良いことに妊娠中…。愛人に裏切られたと思うのも無理はない。「ビル」のような男なら、ある程度予想のつく行動だ。

 こんな分かり切った事のために、タランティーノはこんな大げさな幕切れを設定したのか。正直言って、このくだりを見ていた時には僕は理解に苦しんだよ。驚きも何もない。平凡過ぎる。

 そして、子どもを育てて待っていた「ビル」の心境も、ここで復讐を完結させようとしている「ザ・ブライド」の気持ちも、イマイチ分かったようで分からなかった。理屈を付ければ分からぬでもないよ。だけど実感として届いて来ないよね。先に述べたように、「ザ・ブライド」への「ビル」の非道な行いは、あれは彼なりの「愛」だった。さらに「ザ・ブライド」の「ビル」への復讐も、一種の「愛」ゆえの意趣返しだ…な〜んて言われてもね。

 だが、ここで「ビル」は気になる一言をつぶやくのだ。

 「オマエは“生まれついての殺し屋”だからな…」

 ここのセリフで、英語ではタランティーノが脚本を書いてオリバー・ストーンが監督した映画のタイトルである、「ナチュラル・ボーン・キラー(ズ)」という言葉を使っていることは少々興味深い。タランティーノお気に入りの言葉なんだろうか。ともかくここで言わんとしているのは、「ザ・ブライド」がいかに中古レコード屋で堅気の仕事をしようが、堅気の男と結婚しようが、その性根は変わらないし変われないという事だ。

 しかも「ビル」は自白剤という手段を使ってまで、「ザ・ブライド」の本音をこう探っている。「あんな暮らしを始めることで、オマエは幸せになれると思っていたのか? うまくいくと思っていたのか?

 この時自白剤の効き目もあってか、「ザ・ブライド」は強がりのない本音を打ち明けるのだ。

 「いいえ」

 彼女でさえ、あの結婚がうまくいくとは内心思ってはいなかった。それを自白剤を使ってまで吐かせた「ビル」もまた同じ事を考えていただろうし、彼女の本音も察していたに違いない。

 なぜなら…「ザ・ブライド」が本当に愛していたのは「ビル」だけだからだ。

 この映画では…特に「Vol.2」では、「ザ・ブライド」が「ビル」に従う姿が再三再四描かれる。「ビル」の言うことなら、例え火の中水の中…で奮闘する姿が強調される。「ビル」に言われたからこそ、中国のパイ・メイの修行も耐えた。

 例の結婚式で「ビル」と新郎が一緒に画面に登場した時を考えてみよう。どう見たってパッとしない男。「ビル」を前にしては、ハッキリ言ってメンコの数が違いすぎる。これでは結婚がうまくいくはずもないだろう。

 そしてもう一つ…何と言っても「ザ・ブライド」の過去の問題もある。それまでおびただしい血で手を汚し、理由はどうあれ非道に染まってきた人間が、例え子どもが出来たからとは言え、都合良くそれまでの忌まわしい過去一切をチャラに出来るだろうか? 他人からすべてを奪って来た人間が、自分は何も失わずに幸福を得るなんてあり得るだろうか? チャッカリ花嫁衣装を着てしまいさえすれば、それですべて済むものだろうか?

 それは、いくら何でもムシが良すぎやしないか?

 

巡り巡っていく「忌まわしさ」の輪を絶ちきるために

 ところで“生まれついての殺し屋”という言葉には、もう一つ忌まわしいイメージが浮かんでは来ないか?

 それは「ザ・ブライド」の娘に関する事だ。

 正確に言うならば、彼女は「ザ・ブライド」と「ビル」の間に生まれた娘…つまりは「人殺し」の娘。ならば彼女もまた「ナチュラル・ボーン・キラー」のはずではないか…。

 ところでこの場面に先立って、「ビル」がサンドイッチをつくりながら娘についての奇妙な話をしていたのを覚えていらっしゃるだろうか?

 金魚の死を見る事で、生と死…命というものを実感する。子どもが生と死を知る事の大切さを力説していた「ビル」。彼は自分の娘が「生の重み」を知った事を喜んでいた。ならば彼は、愛娘であるこの子が「ナチュラル・ボーン・キラー」になる事を望んではいないはずだ。

 では、彼はそれをどうやって回避しようとしたのか?

 「ナチュラル・ボーン・キラー」…それは“生まれついての…”という言葉が意味するように、言わば親の業のようなものだ。ならば親の命脈を絶つ事で、子の運命を変えようとしたとは考えられないか。

 だから「ザ・ブライド」は一度「死ぬ」必要があった。娘の将来のために、それまでの悪行を清算するために、激しい暴力で洗礼する必要があった。物語の発端となる結婚式での殺戮は、そんな理由からではないかと思えて来るんだよね。花嫁衣装のまま血祭りに上げられるというのも、こうなってみると象徴的だ。

 さらに念が入った事に、「ザ・ブライド」はこの「Vol.2」でもう一度死んでいる。今度は何と、ご丁寧に墓に埋葬されてもいる。そこから自力で脱出し、現世へと蘇って来ている。つまり彼女は二度生まれ変わっているのだ。ついでに言えば、墓場の場面以降「ザ・ブライド」が一人も人を殺していない事に留意していただきたい。

 さらにここで重要なのは、例の結婚式で新郎の前に姿を見せた「ビル」が、「ザ・ブライド」の父親…と紹介された事だ。

 考えてみると、年齢的には「父親」であってもおかしくない。しかも彼女の精神的支柱であり、長年アレコレ教え込んできた存在という意味でも、「父親」という表現は間違っていない。実際に「ザ・ブライド」には身よりもなさそうだし、「父親」的役割を担ってきたところもあるだろう。

 だから「父親」=「ビル」を殺す事が出来れば、「ザ・ブライド」も「ナチュラル・ボーン・キラー」の呪縛から解かれる事が出来るのだ。しかも彼女の愛を一身に集める「ビル」さえいなくなれば、彼女は真の意味で堅気になれるだろう。

 その「ビル」の殺害を出来るのは…おそらく「ザ・ブライド」ただ一人

 この物語の冒頭を彩る大殺戮と暴力は、そんな屈折したメビウスの輪のような因果関係によるものではないか…と思えてくるのだ。何だかこじつけめいて聞こえるだろうか。いや、僕は大まじめにそう思っているんだよね。そうでなきゃ、あの映画冒頭の「ビル」のセリフが意味をなさなくなる。あの時「ビル」は、「ザ・ブライド」に暴虐の限りを尽くしながらこう言ったのだ。

 「これは愛だとさえ言える」

 彼女をさんざいたぶりまくったあげく、「ビル」はこう断言するのだ。確かにやっていた時はいたぶる事が目的だったかもしれない。だが「ビル」の意識下では、これを一種の通過すべき洗礼のように思う部分があったのではないか。

 こう考えると、彼の弾丸が「ザ・ブライド」の命を奪わなかった事まで、無意識下の意識の産物に思えてくるんだよね。

 そんな「ザ・ブライド」の復讐行脚は、かなり皮肉なカタチを帯びてくる。黒人女ヴィヴィカ・A・フォックスとの一戦では、娘の出現で殺しの忌まわしさを思い知らされた。女侠客ルーシー・リューは自身が「復讐の権化」のような人物であり、それ故に彼女は自滅した。黒一点マイケル・マドセン殺害は回避され、皮肉にも「ザ・ブライド」の別称だった「ブラック・マンバ」なるヘビがこれを代行した。アイパッチ女ダリル・ハンナは目玉を抜かれるに留まった。

 そこでは繰り返し繰り返し強調される。「殺しは良くない」、あるいは「殺しは回避されるべきだ」…。非常に屈折した表現なので分かりにくくはなっているが、そこでは確かに「殺し」が否定されている。

 何とヒロインの復讐がテーマの物語で、しかも劇中で人々が手足をポンポン切り落とされたり目玉を抜かれたり、破裂した水道管みたいに血しぶきを噴き上げるような描写が連発する映画なのに…この「キル・ビル」という作品は、何と最終的に「殺し」を否定してしまうのだ

 どうやってそんな事を成し遂げたのか…は、「Vol.1」の感想文から今まで繰り返し繰り返し僕が検証してきた通り。だが、ともかくかなり不自然で、アクロバティカルな語り口を駆使しなければならなかった事は確かだ。逆説に逆説を重ねての…それは「殺し」の否定なのだ。

 それゆえ…どうしてもデリケートな表現にならざるを得ないために、この終盤の「真相」が語られる部分では「らしからぬ」静かな会話劇となるのだろう。さすがにこの結論を語るには、かなりの繊細さを要する。受け手にも神経を使って受け止めてもらいたい…。だとしたら、これは考え抜かれた構成と言わざるを得ない。

 そう。この「真相」こそがタランティーノが全編を通じて言いたかった事に違いない。

 だから僕は、今回は面白みが減ったとか鮮度が落ちたとか言いたくない。実はそんなものは、すべてこの言いたい事のために積み重ねて来た事なのだから。

 ここまで見てくるとあの「Vol.1」も壮大な撒き餌だった事が分かる。さらに、タランティーノが今までになくシリアスな話をしようとした事も…。それをそうとは気取られないほど「Vol.1」をあんなにハチャメチャに盛り上げたのは、タランティーノの生来持っているサービス精神か。それともヤボてんにシリアスなテーマを語る事への照れなのか。ともかくこの作品は、確実に“大人の映画”「ジャッキー・ブラウン」を通過した果てに生まれた作品だ。自らを滅ぼしてもいいと思う「愛情」、優しくするばかりではない…むしろ一見その逆とも思えるような「愛情」。そんな「愛情」のカタチ…いや、それはもはや「愛」なんてものでもないのかもしれないが…確かにそれは子どものものではあり得ない

 だが映画をご覧になった方の中には、「そんな事があるか」…とおっしゃりたい向きもあるかもしれない。「ビル」があんな事をしたのは、娘と「ザ・ブライド」のためを考えての事だって? では、「ビル」は自ら命を断つ気があったのか? それであんな事をあそこまでやるのか? 「ザ・ブライド」の行動は、やっぱり復讐だったんじゃないのか?

 そんな方には、最後の「ビル」の死に様こそを見ていただきたい

 最後の最後、「ザ・ブライド」はとっておきの秘拳「五点掌爆心拳」を用いて、「ビル」に引導を渡す。その時に「ビル」が「ザ・ブライド」に、“パイ・メイから「五点掌爆心拳」を教えてもらっていたのか?”…と驚いて尋ねるが、おそらくこれはウソだ。なぜなら彼は十分その可能性を予見し、その上で彼女をパイ・メイに弟子入りさせているはずだからだ。いや、むしろ「五点掌爆心拳」を修得させたくて、彼女をパイ・メイに弟子入りさせたとしか思えない。

 そして「五点掌爆心拳」を仕掛けたのは確かに「ザ・ブライド」だが、「ビル」を絶命に至らしめたのは実は彼女ではない。この秘拳を受けた者が5歩歩くと死を迎える…と知っている「ビル」は、自ら立ち上がってゆっくりと歩いていくのだ。そしてゆっくりと死んでいく…。

 「ビル」を死に至らしめるのは、最終的には他ならぬ「ビル」その人なのだ。しかも先に述べたように、彼女に「五点掌爆心拳」を修得するようし向けたのも「ビル」自身ではないか。

 その直前の「ザ・ブライド」の言葉も、この意味をさらに補強する。

 「これでもう死ねるわよ」

 この言葉を涙ながらに言った彼女も、この段階では「ビル」の意図を悟っていたに違いない。だから翌日、娘がテレビを見ている隣の部屋で、「ザ・ブライド」は歓喜の涙でつぶやくのだ。「ありがとう。感謝します」…と。

 ここで彼女が感謝する相手は、他には考えられない。それが誰かは、今さら言うまでもないよね。

 

付け足しの付け足し

 ここで唐突ではあるが、この感想文の冒頭で語ったエピソードに戻らせてもらわなきゃならない。僕の元「身内」だった「彼女」の話だ。そうでないと、僕にとっての「キル・ビル」は終わらないからね。

 ところで…「彼女」が最後に見せたあんまりな振る舞いについて、僕は「あれも一種の思いやり」だったんじゃないか…と結論づけたよね。

 そうだね。本当にそうであったら良かっただろうね。でも…正直に言えば、たぶんそれはないだろうと思う。

 そう思えれば救いになるけど、あれは単にヒドイ振る舞いだっただけに過ぎない(笑)。本当は僕への思いやりだった…なんて事はないだろう。そんな気持ちなんて、あの段階で僕に持っていた訳もないからね。そう思いたい僕の勝手な気持ちが、ひどい言動を「思いやり」と思わせたんだろう。「ビル」のように強力な自白剤でも撃ち込んで、真相を聞き出してみたい誘惑にも一時は駆られたが、そんな事をしてどうなると言うのだ。それは美しき勘違いでしかないだろう…。

 でも、それでいいではないか

 結果的に僕は本当に救われた。元々どうにもならないモノだったのだ。それを好意的に考えることで、僕の気持ちはラクになった。

 「ザ・ブライド」への「ビル」の愛情の証…も、本当にそうだったかどうかは分からない。ただのヒドイ仕打ちを錯覚したものかもしれない。でも「人間の感情」というものは、元々そんな一方的なものなのだろう。それでいいのだ。

 僕はもう今では、当時「彼女」に抱いていた感情を思い出せない。こうなってみると自分とは全く共存出来ない、火星かどこかの生き物のようにしか思えない。ただ美しい記憶のカケラしか残ってない。

 今後誰かを愛するとしても、それはたぶん全く別のタイプの女だろうと思う。少なくとも、せめてもうちょっとだけでも人に気遣いをする女だな(笑)。あそこまでのテメエ勝手はもうカンベンしてほしい。

 だが「彼女」を一時は「身内」と思った、その痕跡みたいなものはどこかにある。

 「Vol.2」の終盤、自分のことを「悪い女」と言う「ザ・ブライド」に対して、「ビル」が答えた言葉が秀逸だ。

 とんでもない! 君は素晴らしい、とても素晴らしい…だが時々、君はとてつもなく性悪な女になった…。

 いつか僕にも、「彼女」に笑ってそう言える日が来るだろうか。

 その日が来ても来なくても…僕は心のどこかで、「彼女」に少しは感謝の気持ちを抱きたいと思っている。その気持ちはウソじゃない。例えそれが絵空事であっても、そうでありたいじゃないか。

 一度は「身内」であった人間への、たった一つの餞別としてね。

 

 

 

 

 

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